May 17, 2014

新ブログのお知らせ



ご無沙汰してます。
心機一転、研究室のブログを始めました。

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以後、最新情報は上記ブログで発信します。
このブログは放置しておきます。

よろしくどうぞ

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February 09, 2014

トリニティースクールの終焉 (6)

「最終回」


英語でスクールという語には「学校」のほかに「学派」とか「流派」「学風」という意味がある。
トリニティーの学風とは、例えばあるブランドに対する盲目的・狂信的な入れ込みに陥ることなく、客観的、冷静にメカニズムに向き合うというものだ。
ダイナベクター時代に閉口した「トラおやじ」との決別である。

非科学的な思い入れを否定するものではないが、こういう姿勢ではメカニズムの真髄に触れることは出来ない。
オートバイも宇宙の真理=物理法則に則って作られているわけだから、作業者も透徹した意識を維持することが重要になる。

具体的にはバイクは台に載せていじるということ、あるいは工具は整理して壁にかけるということだ。

80年代までの日本ではバイクはおろか、はずしたエンジンでさえも地面にころがし、工具も床にばらまいてウ〇コ座りしながらいじるのが主流だった。
よくてもせいぜいエンジンをビールケースに載せるくらいが関の山。
若年の頃、英国滞在中には決して見られない光景だった。 英国でのバイクいじりに対する姿勢、精神性の違いにショックを受けた。

一度でもうちでバイクをいじった人はこれをよく理解した筈で、多くの卒業生が自分のガレージをトリニティーの教室内そっくりな環境に整えているのは心強い。
これだけでも学校の価値はあったと思っている。

バイクは無理としても、少なくともエンジンなどは作業台に置き、作業者は椅子に座るのが望ましい。
こうしないと機械から発せられる無言のメッセージが聞き取れない。 つまり機械と対等に会話することが出来ないのだ。

当校でずっと続けてきた春のBBQ,秋の秋刀魚、年末の餅つき忘年会。 酒が入って弾む話題の中心がバイクであったことはない。
音楽や国際政治、東北アジアの近現代史、パイプ、自転車やクルマ、と話題は多岐に渡った。

広大な宇宙の中で自分を定位することが人間の精神的欲求であるならば、オートバイも極めればその答えに近いものを提供してはくれよう。
しかしオートバイにまつわる俗説・珍説に背を向けて、自分で考えることを学んだ学徒であれば、日常身の回りの全てに対する見方が変わってくる筈だ。
そうして自由になった精神が、酒気を帯びれば何かを饒舌に語りだす。
それを観察し、話題に加わることは無上の喜びであった。
ここにトリニティー学派の真骨頂があった。

トリニティーはバイクいじりの初等義務教育レベルであった。
だから卒業後に更なる研鑽を積み、私を越えていった者がいることも喜びに堪えない。
自分は中学校の先生に過ぎないのだが、もちろんそれを卑下するつもりもない。
だが果たして良い教師であったかどうか・・・・・。

いっぽう当校開校以来、全国でトリニティーの亜流が散見された。
どれも数年も持たずに霧消したのは遺憾であるが、中心にあるべき精神性に問題があったのだろうと思わざるを得ない。


******


最後にトリニティーが手がけたバイクを振り返ってみよう。
以下、エンジンだけを直す「エンジン・クラス」を含んだおおよその台数である。
記憶にたよっているから正確ではない。


トライアンフ ユニット650   160 (トライトンやリックマンを含む)
トライアンフ 750        25 (うちハリアーが2)
トライアンフ 別体650/500  10
トライアンフ ユニット500     3
トライアンフ SD  (1924)   1

ノートン コマンド          15
ノートン アトラス           4
ノートン P11             1
ノートン 16H             1
ノートン モデル50 (戦前)    1
ノートン モデル18         1
ノートン マンクス350       1

BSA A65             7
BSA A50             1
BSA ゴールドスター       1
BSA B50            10
BSA B44             3
BSA B33             1
BSA B31             1
BSA C15             1

ヴェロセット戦前単気筒      4
ヴェロセット戦後単気筒      3

サンビーム モデル8 (1932) 1

アリエル モデルC (1927)   1

JAP 500              1

マチレス G80            1

ブラフ・シューペリア SS80    1

ロイヤル・エンフィールド コンチネンタルGT 1

ハーレー スポーツスター      10
ハーレー ショベル ビッグツイン  8
ハーレー パンヘッド         1
ハーレー ナックルヘッド       1
ハーレー VLD            1

BMW R12             1


これだけやって何が見えてきたのか?
18年もやっていると、もう昔見えていたものを憶えていないので答えられないが、自分の残りの人生でつきあうべきバイクが何であるかは判ったように思う。

閉校後はそういうバイクをいじりながら卒業生諸君と交わっていければ、と思う。
すでに自分専用のスペースは秋葉原に確保した。
現在有志に手伝ってもらいながら内部の作り込みを行っている。
トリニティーをやりながらずっと考えてきた、理想のワークショップの決定版になる筈だ。
もはや商売としてやるものではないので、卒業生以外には場所は秘密とさせて頂く。
そのかわり卒業生はいつでも遊びに来てほしい。

ただし、もう他人のバイクはいじらないつもり。
もし車検や修理の要望があればK田講師と奈良講師のところに行ってください。
どちらも素晴らしい作業環境です。

最後に僕らの学び舎の最後の姿を。 1月末に大家に明け渡す直前の写真です。
僕らが出ていったあと、ここが何に生まれ変わるのか興味津々ですね。 いずれ報告します。

教室
















皆さん、本当に有難うございました。
そしてこれからもよろしくお願いいたします!




+++ 業務連絡 ++

現在新しい場所でまだPCが使えない状況で、皆さんのアドレスが入った旧PCも起動が出来ず、連絡がとれません。
あと一週間くらいで復旧しますんで全体メールをまわします。

それと毎週日曜日は当分の間、新アジトの建設をやっているので、お手伝い頂ければ幸甚です。
飯くらいはおごりますんでよろしく。
場所・時間等の詳細はメールでまわします。

それとこのブログ、どうしますかね?
心機一転、別ブログ作って近況報告していくか考え中です。

コメント欄、書き込み歓迎。








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February 05, 2014

トリニティースクールの終焉 (5)


「トリニティー以前」

18年前を思い出してみると、まだインターネットは普及しておらず、英国のノートン専門店、ミック・ヘミングスなどはファックスすら導入していなかった。
それまでダイナベクターで英車パーツを盛んに販売して、まあまあの商売になっていたのは、現代のネット社会のように情報の過度の拡散・共有が無かったからだろう。
つまり英国におけるパーツの仕入先、値段などはウチ以外の誰も知らなかったから商売になった。

だが手紙、電話、テレックスからファックスへと通信手段が進化してゆき、ついにインターネットの出現を見た90年代、未来を想像すればこの商売がやりにくくなることは明らかだった。
今後は何をもって商売にするかと言えば「ノウハウ」以外にはないだろう、と思い至った。 修理技術はもとよりパーツの手配法まで教えてしまおう、と。

ところで車両だけでなく部品販売にも手を染めたのは、自分でバイクを修理するようになって、良い部品の供給ルート確立が不可欠と思ったからだった。
良い料理人が仕入れにこだわるのと同じである。


さかのぼって83年、ダイナベクターが英車輸入を始めた頃の日本の英車シーンはどんな状況だったのか?

当時トライアンフ以外の英車が少数派であったことは今以上で、戦前のバイクを日常的に乗れる人などは全国でも数名であったろう。
とにかく部品が無かった。 中古部品でもとんでもない高値、しかも人情がらみ、人間関係がらみでしか売ってくれない、買えないという不健全きわまる状況。
また修理の知識もきわめて貧困で、英インチのスパナを持っていればエリートともてはやされるレベルだった。

知識の枠組みも非常に偏っており、レアなレース部品、例えばアマルのGPキャブとかスミスのレーシング・タコ、ノートンのアルミ・タンクなどが貴重品として高値をつけていた。
だがGPをきっちりセッティング出来るような人はほとんどおらず、断片的な知識を持ち寄ってなんとかバイクを走らせている集団が全国にいくつか存在した程度。
ほとんどの英車乗りは、まるで文明の機械を使いこなせていない未開の土人のような状況であった。

だが日本人は器用だし、日本のバイクは世界を制覇するほど優秀ではないか?
なぜ古い英国車をまともに走らせることが出来ないのか?

10年ほど日本の英車シーンに身を置いてみて、その原因は戦後日本の英車輸入代理店の姿勢にあるのだと気がついた。

もともと日本は大正時代にはすでに欧米バイクの輸入大国だった。
うちで直した1924(大正13年)のトライアンフは当時の丸石自転車が輸入代理店である。

アリエルのヤマリン、ヴェロセットの野村モータースなど、おおむね1960年頃までの代理店はまともで、メカニズムに対する知識があった。
ところがその後の代理店がこれを台無しにしたと思う。
ただただ新車を売りつけるだけ、修理と言えばせいぜいヘッドをはずしてボ−リング、オーバーサイズ・ピストンを入れるくらい。
それ以上のことはやらない、出来ない。 調子が悪くなったら新車に替えろという商売・・・・(まあ今のバイク屋の姿ですが)

例えばノートン・コマンドの肝、アイソラスティックの調整すら出来ない。というか原理を知らない。
ゴールドスターの多層アルミ箔ヘッドガスケットを圧縮比調整用だと誤解している。
ベロセットのクランク支持のテーパーローラーがシム調整を要することを知らない。

つまりおおむね60年代の後半以降の日本の英車は新車の時が最高のコンディションで、以後調子が落ちてきても直せる人はほとんど皆無だった。
悪いことに英車は工場出荷時は8割程度の完成度であるから、つまり日本で調子の良い英車はほとんど走っていなかったことになる。
したがって英国車に対する正しい評価がずっとなされて来なかったのが日本の実情であり、これがトリニティー開校の動機にもなってゆく。

面白いのはハーレークラスを始めて、ハーレーの名人何名かと話をしてみて、事情はハーレーでも全く同じだったことだ。
やはり70年代の後半くらいから、ハーレー正規店ではハーレーが直せないという深刻な状況に対し、メカ好きのハーレー基地外が試行錯誤を繰り返して修理技術を確立していったのだと言う。 
彼らが正規店に持っている不満は私と全く同じものだったのだ。

個人的には当時BSAのビクターを英国から持ち帰り、これが調子が悪くてすぐに壊れてしまった。
初めて自分でエンジンをバラし、ビッグエンドが焼きついているのを発見。
クランクの修理はシロウトには出来ないので、某大手外車専門店出身のメカニックに修理を依頼。
ところが6万円も取られたのに全然直っていない。

そこで英国のBSAユニットシングル専門店にレストア済みのエンジン・コンプリートを注文。
待つこと二ヶ月ほどで新品のように綺麗なエンジンが届いた。
流石は英国、と喜んだのも束の間、これもすぐに壊れてしまった。

途方に暮れるとはこのことで、世界中で誰もあてにならないとなれば自分でやるしかない。
以後、10年近くメカニズムと向き合い、英語の文献を集め、読みあさり、不明な点は英国に手紙やFaxという日々が続く。
時はバブル期、夢のようなバイクが続々日本に上陸、お客さんが仕入れたそういうバイクを片っ端からいじらせてもらった。

83年当時、1ポンドは350円くらいだったが、90年には200円を切るほどに為替が好転したのも大きかった。
思えばバブル期、自分は全然給料が高くなかったが、このとき人のバイクをたくさん触らせてもらったことが良い経験になり、「なんでもござれのトリニティー」の礎になったのだ。

ダイナベクターの穴ぐらのようなワークショップにこもりながら勉強を続けていった訳だが、次第に世間一般の英車シーンとは距離が出来ていった。
英車いじりに限らず、なにごとも基礎が大事だと信じていた自分はネジやベアリングといった基本中の基本から勉強した。
教科書は全て英語で、フィル・アーヴィングの Tuning for Speed が座右の書になった。 その他当時のマニュアルや、Classic Bike、Classic Motorcycle, Classic Mechanics, Classic Racer といった英国の諸雑誌は創刊号から特にメカに関する記事を全て読み込んだ。
こうしてある程度わかってくると、当時の日本の状況に我慢が出来なくなってくる。

当時は動かないバイクが走るようになれば拍手喝采というレベルだった。
クランク支持のベアリングがクランクケース内でガタが出てゆるくなっていれば、ベアリング外周にブリキを切って差し込み、隙間を埋める式の修理だ。
そもそも英車の部品が豊富に手に入ることは当時の日本ではあまり知られておらず、知ってはいても入手するのが困難だからインチキ修理が幅を利かせるのだった。

それでもトライアンフは修理の技術が確立されていた。オートレースでトラが使われていたから、トライアンフ・ツインのチューニングに関しては日本のレベルは高かったからだ。
トラのチューナーからもたらされる知識は興味深く、多くは英車全般に適用可能なものだった。
そして日本のトラ・チューナーが語る秘伝の多くはすでに1930年代、フィル・アーヴィングが雑誌に書いていたのと同じだったのも面白かった。

ところがそれはあくまで「オートレース」という特殊な使用目的で必要とされる技術であり、必ずしもツーリング用バイクに必要なものでもない。
どこまでが必要で、どこからが不要か、これは実際に多くのバイクを手がけるしかないと悟った。

そこで注目したのが、当時旧車とは見られておらず、価格も安かったT140である。
歴史上人類がトライアンフツインに注ぎ込んだチューニング・ノウハウの総量は英車中でも最大の筈であり、これを教材にすればいろんな事がわかるだろう。
特にカムタイミングを自在に変えられる設計は、「カム遊び」には最適だろう。
英車を学びたいのなら、トラをしばらくいじることが結局最短コースなのではないか?

特に好きでもないトラのT140いじりに没頭し、雑誌連載で1年間かけて分解・組み立てを紹介した。
同時に自分のBSA・B50のエンジンをおろし、トラの500ccツインに載せ換えたりして不人気のこのエンジンを探ってもみた。(結局世間の評判どおり、このエンジンは駄目という結論)
考えてみれば650のトラはあまりいじったことがないままトリニティー開校に至ったのだった。

当時の日本の英車シーンへの不満は、マニアぶった連中はトラを馬鹿にし、反対にトラの連中はトラこそが世界一と妄信していることだった。
いったい調子の良いコマンドに乗ったこともないのに、どうして「トラ最高」と言えるのか?
あるいは8000rpm回るトラのエンジンを、駄作と切り捨てるのが本当のマニアと言えるのか?

こうしてお客さん達と話があわなくなり、居場所がなくなって追い詰められていたのがトリニティー開校直前の自分の状況だった。
英車に興味のある若者を白紙の状態から教育し、自分と話があう奴を育成するしかないだろう、という結論だ。


(続く)






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February 04, 2014

工具、部品の競売

競売















1月26日、日曜日、最後に残った工具や部品をオークションで処分しました。
作業台やバイクリフトからインチ工具など、多くの卒業生に引き取られました。

産廃業者さんに残骸を撤去してもらい、最後に記念撮影。
もうここにみんなが集まることもないんですね。
さようなら、佐久間町・・・・
そして皆様、長い間本当にありがとうございました。

DSCN0783

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January 28, 2014

トリニティースクールの終焉 (4)


「ハーレークラス」


さてハーレー・クラスの話だが、前回いろいろカッコいいことを書いた。
でも本当は英車クラスの集まりが悪かったのでハーレーも教材に加えてみるか、という理由が大きかった。
そこでその旨をホームページとかで発表したら一人だけ見学者が来てすぐに入学を決めた。

後のハーレークラス主任、現 Vintage Motorcycle Study 代表の奈良君である。

彼の所有していた76年(?)のビッグツイン、FXを教材として持ち込むことになったが、
英車を想定して作られた教室に初めてハーレーを搬入してみて、その車体のサイズと重量に閉口したのを憶えている。

ハーレーはアメリカ車だから工具もインチ用で、これはすでに各種大量のスパナ類が用意されていたので
問題は無かった。ただしハーレーは特殊工具の種類が多く、また英車用よりもはるかに上質なので
値段が何倍もするのは痛かった。
だが学校を標榜する以上は覚悟を決めて、ほとんどの工具を順次揃えていくことになる。

言うまでもないが、自分はハーレーなどそれまで指一本触れたことがない。 乗ったことすらほとんど無かった。
むしろ奈良君のほうがすでに何年かハーレーに乗り、独学で整備をしていたうえ、資料もそうとう持っていたので詳しかった。

ハーレーの世界には何人か神格化された名人メカニックが居て、そこに丁稚として入門するのが旧車ハーレー・メカニックを目指す若者の常道だった。奈良君がハーレーをマスターする為にその方法ではなく、当校を選んだのは彼自身が英車にも興味を持っていたからだろう。
当時まだブログはやっていなかったのだが、それまで雑誌やTVで紹介されていたトリニティーのやり方に賛同してくれたのだと思う。

こうして奇妙な授業が始まった。
どっちが先生で、どっちが生徒だか微妙な状況 (笑)

この時ほどトリニティーが試されたことはなかった。
一般工具の使い方くらいは英車と共通しているにしても、ハーレーも英車同様、さまざまな「約束ごと」がある。
つまりマニュアルには書かれていない「コツ」や「何年型からはココここうなっているので注意」などのイディオマティック(慣用的)な注意点を教えることが私には出来ない。

パーツの手配も大変だった。 ハーレーショップ経営の友人のツテで当時芝公園にあったハーレー本社にオイルシールとかの細かい部品を買いに通った。部品手配がバイク修理の要なのは英車で痛感していたから、未知のバイクをいじるのであれば、まずここをしっかり知っておかなくてはならないからだ。 久々に初心者特有の心細さを味わったものだ。

思えば奈良君と私の知識を足し、総動員してトリニティー最初のハーレーの作業は進んでいったのだった。
二人とも巨大なハーレーの前の生徒だった。
正しいかどうか自信はないが、これまでの英車で得た知識からして間違ってはいないだろう、という方法を試す私。
自宅にある「奈良文庫」から資料を引っ張り出して「そこは多分こうなんじゃないですかね?」と奈良君・・・
わからないことはハーレーの専門家に訊いてみるが、皆親切に教えてくれたのは有難かった。

真摯な気持ちでハーレーのメカニズムに向き合ってみて得るものは大きかった。
そこから得た知識は英車のほうにもフィードバックされ、結局トリニティー全体の技術レベルが向上したと思っている。
特にハーレー特有のベアリングレースの内径を拡大してゆくラッピング作業、トルク管理のシビアなオイルポンプ、クランク支持の二個向き合わせテーパーローラーのシム調整など、単純でいじりやすい英車と比べて「シロウトが下手に手を出せない造り」は実に興味深く、ハーレーをいじっていなければのちに挑戦したマンクス・ノートンも成功裏に組み立てることは出来なかっただろう。

ついでに私のハーレー感も述べておこう。
予想に反してハーレーのエンジンは精密機械だった。 しっかり組んで丁寧に乗ればトラなどより長期間調子を保つエンジンだ。
特にショベルのビッグツインはハーレーの頂点のように思う。悪いところが無い。

パンヘッド、ナックルヘッドについてはあまり感心しない。
長年OHVをサボってサイドバルブばかり作っていたツケがまわったのではないか?
ビッグツインはショベルで完成されると考えれば、その進化過程にあってクラシックな外観がカッコいいだけなのがナックルとパンではないだろうか?
まあ旧車とはおおむねそういうものだが・・・
個人的にはショベル・ビッグツインの優れた構造で1000ccにボアダウンしたエンジンがあれば最強かと思った。

奈良君が個人的に買って3年がかりで直したサイドバルブ、35年のVLDは興味深かった。
早期にOHVやOHCを導入した英車では、サイドバルブは20年代の後期には進化がストップするが、ハーレーはサイドバルブのレーシング・エンジンを70年代まで開発し続けた。
英車よりはるかに前衛的なサイドバルブこそハーレーの真骨頂なのかもしれない。

アイアンのスポーツスターはどうか?
年式によって駆動系にショックダンパーが無いこと、ギアボックスとクラッチがオイルを共用している点などが弱点と考えられるが、要はオーナーがそれを理解して乗り方やメンテナンスに留意すれば問題はないだろう。

いっぽう戦後ハーレーの車体は見るべきものはない。これは英車の圧勝であろう。
強度、ハンドリングともに役不足と言い切っていいと思う。
(ただし35年VLの、工芸品のように手の込んだ造り込みのフレームには参りました。)
逆にハーレーをいじってみて英車のトータルバランスの良さを再発見したのだった。

******

そうやって悩みながらもハーレー第一号は完成した。
確かクラブマン誌が「トリニティー初のハーレー」として取り上げて、快調に走るさまを紹介してくれた。

自信を得た我々は奈良君を講師にして、隣接したおんぼろ物件を占拠、ハーレークラス校舎とした。
ただし生徒の集まりはボチボチで、ハーレーが集まらないぶんはトラ以外の英国珍車をいじることに。
おかげで奈良君はベロセットやノートンにも精通することになった。 おそらく日本でベロとハーレーをいじれる人は他に居ないだろう。

また、そうやってハーレーと英車が同居したことも結果としてよかったと思う。
ある特定の車種一辺倒という偏屈な人が居ないという我が校の特色づくりに寄与したのである。
トリニティー的アプローチの前にはどんなバイクでも興味の対象になり得る。
ハーレークラスには30年代のサンビームやブラフ・シューペリア、ついには40年代のBMWまで持ち込まれてみんなの知見が広がったのだった。

奈良君がうちに来たとき、私にハーレーに関する知識が皆無なことを伝えたにもかかわらず、うちのやリかたを信用してくれたことは今でも感謝している。
彼にしてみれば一期生5名が学校の実態が無い段階で授業料を振り込んできた時と同様の冒険であったろう。

信用は人生の財産だ。信用してくれた人には信用で返さなければならない。
勉強熱心で有能な奈良君を信用してハーレークラスを丸投げしたのはこういういきさつがあったのだ。

トリニティー無きあと、ノートンやベロ、ハーレーを学びたい人は彼のところに入学してください。
僕も時間作って助言に行きますんで・・・・



(続く)











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January 27, 2014

教室撤去と閉校式

2014年1月25日、トリニティースクールは18年と7ヶ月余の使命を終え撤去作業となりました。
万感胸に迫る教室の取り壊し、50名以上の卒業生が作業に参加してくれました。

遠くは熊本、高知、岡山、岐阜、浜松などからも・・・・
みんなありがとう。

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そして夕方からは閉校式、近所のパーティー会場へ。
多くの卒業生の思い出話が弾みます。

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全部で84名、最後の記念写真です。

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今後も年に一度は同窓会やろうぜ!!










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January 24, 2014

トリニティー最後のバイク

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本日滑り込みで完成した750’S’仕様のコマンド。
ボロボロの状態から4ヶ月、超特急で仕上げた力作です。

さて明日からいよいよ教室解体開始、朝から呑みながら作業、夕方から閉校式パーティーです。







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トリニティースクールの終焉 (3)


「建学の精神」


さてトリニティースクールが伝えたかったことはそもそも何だったのか?

当校HPには「建学の精神」なる一文がある。
今読むと日本語が稚拙で赤面の至りだが、まあとにかくスパナを握りましょう、ということだ。
と言うのも他の国と違って、こと英国製の機械にはオーナーのメカいじりへの参加が強く求められるからだ。

例えばノートン・コマンドのアイソラスティック・ラバーマウント・システム、あるいはヴェロセットのクラッチなどには「ここがただひとつの正解」というポイントがない。
前者においては振動を消すか、シュアなハンドリングを取るか、判断はオーナーに委ねられる。
多少面倒ではあるが、オーナー自ら調整できるようになっている。

ヴェロのクラッチも正解と思われる範囲が広く、結局走りながら調整を繰り返し、自分の好みのポイントを探すしかない。常識ではあり得ない構造のクラッチを出先で自由に調整する技能が絶対必要で、これが出来ない人はヴェロセットを楽しむことは不可能だ。

あの構造を考案したのも凄いが、もっと凄いのはそれを一般人に向けて売ったことだろう。
そういう性質のバイクを欠陥品としてでなく、優れた発明として評価する一定数の英車マニアが存在したからこそヴェロセットのビジネスは成立した。
ところが80年代の日本においては、ヴェロのクラッチを正しく理解し、調整できる人は全国で数名しか居なかった。
あるいは他のいろいろな英車のクラッチを知悉したうえで、このクラッチの評価を正当に定位出来る人となるともっと少なかったかもしれない。

ちなみに私は自分でヴェロを所有したことがないから大きなことは言えないが・・・・

以上は多少極端な例だが、英車とは多かれ少なかれそういう部分がある。
新車でさえ88点くらいの仕上がりのものが出荷され、残りはオーナーが100点を目指すのだ。
しかもどんなに頑張ってもこれが100点になることはなく、せいぜい96点まで行けば上等というのが英車の常である。

これはプロのメカニックにとってはツラい。
100点で出荷され、しばらくはそれを維持する他の国のバイクしか知らないメカニックだったら発狂するだろう。
メカニックに発狂されるのもアレなんで、残りはオーナー自らがやらざるを得なくなる。
そこで必要になるのが正しい知識と技術であり、トリニティーが教えたかったのはこの点だった。

英車の楽しみには、乗る、いじる、勉強する、の三本の柱がある。
ひとつでも欠けると楽しみは半減する。
Trinity = 三位一体を校名にしたのはそういう理由で、 Trinity の Tri がTriumph のTri を指しているのは二次的なものだ。

乗る、いじる、はいいとしても勉強する、とはなんだろうか?
ひとつはメカニズムに関する一般工学的知識、すなわちネジや材料、冶金、塗料からオートバイ工学など自然科学に類する分野であり、いまひとつは歴史研究という人文科学的な分野である。

目の前のバイクの構造がなぜそうなっているのか? その理由を探るには工学的な知識で答えるだけでは不充分で、当時の社会情勢や風俗、前モデルからの継承、ライバル車の動向、当該メーカーの経営状態など広範な外部要因を見ていく必要がある。

オートバイと言えども商品として作られるのだから、いつも工学的に正しいとは限らず、売らんがためにはコストダウンもあるし風俗への迎合もよくある。
60年代のカフェレーサー、70年代のチョッパーもどき、どれもバイクの本質を踏み外した流行が大きく作用した。
現代においても太すぎるタイヤ、効き過ぎるブレーキ、あるいは過大なパワーなどは後世、史家の批判にさらされるであろう。

結局自分にとって良いバイクには、どこまでが必要で、どこからが不要であるかを探求せねばならず、それには古い英車に乗ると多くの答えがあると思う。
もちろん答えは人によって違う。
こうして消費者が賢くなれば生産者も良いバイクを作ることになる筈だ。 ある国のバイクが優れていたとすれば、それはその国のライダー達の民度が高かったからに他ならない。

ところが戦後、アメリカ市場一極集中の図式が出来上がると、世界中のオートバイはアメリカ向けに作られてゆくことになった。

したがって戦後のバイクを知るにはアメリカを知らなければならない。

歴史を語るときにはその時代の世界情勢を多面的に見る必要がある。
日本国内の動きだけを見て大東亜戦争を侵略と断定するのはたやすい。遺憾ながらその見方は日本の歴史学界のメインストリームですらある。
ところが当時のスターリン配下の国際共産主義組織の情報・政治工作を調べ、中国大陸やアメリカ政府の動きを追ってみれば戦争を引き起こしたのは誰だったか、あるいは少なくとも先の大戦の勝者は誰だっかが浮かび上がる。 結果を見れば勝者はアメリカではなく、共産主義者達だったのだ。
冷戦後の情報公開により、歴史研究はこれまでの常識を覆し、隠された真実を暴露することになった。
多面的な調査と考察によるパラダイム・シフトほど知的刺激を与えてくれるものはない。

オートバイの歴史も全く同様である。
そもそも英車ばかりやっていたのでは専門馬鹿であり、次第に他の国のバイクにも興味が湧いてくるのが自然だろう。
ある時代を区切って、英国バイクがどういうものだったのか定位できれば、さらに奥深い世界観が得られる筈・・・・・

創立10周年の2005年、校舎を増設してアメリカのハーリー・デイヴィッドソンを教材に加えたのはこういう理由があった。


(続く)





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January 22, 2014

最後の授業

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最終日ということで10名ほどの卒業生がお酒を呑みにやってきました。
といっても18年間となにも変わらぬ風景、バイクの脇で飯を食べたり・・・

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最後に残った二台も完成しました。


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January 21, 2014

閉校式について

25日(土)の閉校式の詳細です。

会場:
秋葉原 H-style
千代田区岩本町3-10-4 寿ビルディング8階

地図 ← クリック

時間:
18:00〜21:00

会費:
4500円

80名ほどの卒業生が集まります。
すでに参加申し込みは締め切りました。
締め切り後にもかかわらずどうしても参加したい方は22日(水)夕方4時までにメールください。

9時から二次会の予定です(場所未定)




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トリニティースクールの終焉 (2)

「基地外列伝」


そもそもスピードメーター以外は全部バラバラにして組み立てるという荒行を
何故シロウトに教えるのか、と言えば、結局そうしなければ古いバイクは直らな
いからだ。

「煙を吹くからバルブ・ガイドやピストン・リングを換えましょう」
はい、直りました。 でも直ってヨタヨタだったエンジンのパワーが復活して、
壊れる寸前だったクランクまわりが
焼きつきました・・・・ もう一度ヘッドをバラしてエンジン全分解です。
で、分解してみたらアソコもココも修理が必要・・・・

車体だってスイングアームのピボットはエンジンを降ろさなければ修理が出来ない。
フロントフォークもどうせガタガタ、結局全て一挙に点検整備したほうが安上が
りなのだ。

ボロボロの教材車両を一人一台あてがって、徹底的に悪戦苦闘してもらい、出来
上がったバイクは卒業時に自分のものになる・・・・画期的なビジネス・モデルが可能だったの
は、当時2500ドルも出せば
ボロいトラが、アメリカにはごろごろあったからだ。しかも円高で1ドルは80円と
いう状況。 5台単位で入れれば輸送費も安上がりだった。
(最近はボロいトラが出てこなくなり、たまに出ても昔の倍以上の値段、これも学校閉鎖の大きな要因である。)

これで3年もやればベントレーの中古を買えるくらいは儲かるだろ、と思ったの
はもちろん甘かった。
と言うのも当初、卒業までの期間を半年と考えていて、土曜・火曜と日曜・水曜
の両クラスが1年で4クラス卒業というモクロみが早々に破綻したからだ。
だいたいそれの倍近くはかかるのが実情だったから儲かるどころではない。

で、苦し紛れに始めたのが土日に来れない人向けに平日のみ通うクラスとか、
エンジンだけはずして持ってきて直そうぜクラスとか、あるいはメンドウなんで
敬遠してたノートン・コマンドを解禁、さらにはベロセットだのノートン・シングルと言っ
た珍車クラスとか・・・

また見本エンジンの分解組み立てするのを見せるだけのノウハウ伝授のク
ラスなど、いろいろ悪あがきはひととおりやってみた。

まあ楽しかったです。
元来トラが全然好きではないので、そういった豊富な教材車種を生徒といじるの
はいろんな発見があって面白かった。
2年以上かかったブラフ・シューペリアとか・・・あるいは私の英車感
を根本的に変えてしまったノートン・マンクスなどなど、
ブログの過去記事はそういった有意義な内容が満載になっている。

それでも生徒数は恒常的に不足気味で、何度か「値上げ予告詐欺」、「やめるやめる詐欺」で糊口をしのぐ状況が続く。
そしてついに2003年、英車の枠を外してハーレーにも手を出すことに・・・・
これが2005年の創立10周年記念事業・ハーレー用新校舎増設につながってゆくが、これについては後述。


****


もともと学校自体が世間の常識から大きく外れているから、集まる生徒も全員ユニークであった。
特に完成直後のトラをアメリカに持ち込んでLA・NY間往復10,000kmに挑んで成功させた高橋君などはガッツがあった。
これなど日本の英車界を揺るがす重大ニュースになった筈だが、当時インターネット未導入のこととて世間に発信出来なかったのが悔やまれる。

ガッツがあると言えば遠距離通学を1年近く続けた生徒も多かった。
最も遠くは広島から通った藤井君。 彼は完成直後に広島まで高速をノンストップで帰ったものだった。
もちろんノントラブル。

いっぽう完成したトラで大阪に帰る途中、エンジン焼きつきで箱根の山を越えられず、泣く泣くレッカーで出戻った松本君。
これは品質低下が著しくなった時期のヘポライト製ピストンが原因だった。

岡山から通学した生徒も二名。通学費は学費と同じくらいかかったのではないか?
その他、神戸、大阪、滋賀、名古屋、新潟、岩手、宮城からも通ってきた。
静岡や栃木・群馬に至っては至近距離と言っていいほど多数の生徒が通学した。

あるいは地方から当校に通うために上京、下宿してバイト暮らしを続けた生徒も何人も居る。
熊本・トラヴィス・サイクルズの栗崎君や、岐阜・モート・テイルの堀尾君などは卒業後も講師として残り、手伝ってくれたのは感謝に堪えない。
バイク完成予定が長引き、下宿を追い出された生徒が数週間校長室で寝泊りしていたこともあったなぁ・・・

青森から上京、卒業後も数年間東京で仕事をしていた斉藤氏は休日毎に関東の山野を走り回り、トラの走行距離は6万キロを超えた。

基地外が集まるのか、ここに来て基地外になるのか・・・・・?
いずれにせよトリニティーの宝は人間関係にあったことを痛感する。

では、18年間でいったい何名の卒業生が居るのか?

正確にはわからないが270名ほどになる。 商売として見れば少ないが、学校の内容からすれば多いと自負している次第。

よう基地外、うちがやめたらどうするんだ? 仲間を大切にして、助け合いながら乗り続けてくれよな・・・・

(続く)



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January 19, 2014

トリニティースクールの終焉 (1)



「時代は変わったのか」

正確な日にちは憶えていないが、1995年6月初旬、我が校は産声をあげた。
阪神大震災の年、オウム事件で揺れた年であった。

簡単な開校式に集まったのは新入生5名とゲスト2〜3名のみだったと記憶する。
18年と7ヶ月、栄光の歴史(?)の幕明けにしては淋しい門出だった。
不動産屋によって引き渡されたままのがらんとした校内で、出前によるツマミとお酒で乾杯の後、新入生と教室作りが始まった。
以後、8月のお盆の頃にアメリカから教材用に5台のトライアンフがやってくるまでの二ヶ月余、大工仕事が延々と続く。

文句を言う生徒もおらず、黙々と作業台や棚を作り、ペンキを塗ってくれた一期生には今でも感謝している。
確か一期生と二期生は膨大な大工仕事をやってもらうかわりに授業料を割引したように記憶する。

トリニティースクールの構想はその年の4月、天の啓示のようにもたらされた。
それまでダイナベクターで英車専門店をやっていたのだが、副業のモールトン販売が軌道に乗り、自転車業務が多忙を極めていた。
儲からないバイク部門を閉鎖するのは自然な成り行きだったが、その時点で11年続けていた英車業務をやめてしまう事にはわだかまりがあった。

・・・・どこかでトライアンフの専門店でもやるか・・・
だけどオレは忙しいからスタッフを雇わなきゃな・・・・ でもそんな有能な若者、日本中探したっていないし・・・
給料払うどころか、いろいろ教えるこっちに授業料払って欲しいくらいだわ・・・・

ん? 授業料?  てことは、そういうの知りたがってる若者集めて教えて授業料徴収すればいいんじゃねーの?

つまり「学校」か・・・・!!

当時別冊モーターサイクリスト誌に連載を持っていたので、そのことを書いてみた。
すると雑誌発売当日、その雑誌を握り締めてやってきた若者が一人・・・
今までダイナベクターに来たこともない彼は半ば興奮気味に質問、「これ、いつからやるんスか?、場所はどこですか?、いくらくらいかかるんですか?」と・・・

その後も問い合わせが相次ぎ、最初の5名は10日ほどで決まってしまい、あぶれた人は二期生以降にまわってもらうことに。
全て会ったこともない人達ばかり、つまり「御新規様」だ。

実はダイナベクターのお客さんたちに学校のことをチラっと話しても乗ってくる人は一人も居なかった。
ほとんどの人は冗談だと思っていたし、少し真面目に聞いてくれる人も「うまくいかない、生徒なんて集まらん」という意見だった。

孤立無援、だがなんの実体もないところに授業料先払いで金があつまり、銀行から金を借りることもなく、妄想から始まった新事業はわずか二ヶ月弱で現実にスタートしたのだった。
そのスタートが冒頭述べたごとく、きわめて淋しいものだったのは、ひとえに「旧勢力」の支持が無かったからだろう。

実は旧勢力に対する不満が当校初期の頃、私の中で結構大きかったことは今まで表明したことが無かった。
これについては追々話して行こうと思う。

それにしても、

バブルだったんだな・・・・・ つくづくそう思う。

未来があった。いや未来への不安が無かった。 欲しいものはすぐに買い、金が足りなければローンを組んだ。 返済なんてなんとかなるだろ、と。
ここが昨今とはおおいに違うところだ。


だが世相に文句は言うまい。
商売とは世相に棹差しては成り立たない。 18年もやって世の中が変わったのであれば、もう撤退するしかないのが現実だ。

最近の当校を眺めれば、生徒の平均年齢は40代くらいだ。
なんのことはない、18年前に中心だった20代がそのまま持ち上がったに過ぎない。
オートバイとはかくも若者から離れてしまったのだ。

****


本日、最後の日曜日授業。
休日の朝、クルマが少ない道をモールトンで出勤。
この日曜日の朝の日差しを浴びて出勤する気分ももう味わうことはないのだろう。

18年はあまりに長い。 慣性の法則が効いて、トリニティーに彩られていた今までの日常が突然OFFになる実感がどうしても湧かない。

あと三日で授業終了、その間に何か変化が訪れるのだろうか・・・・・?
校内の撤去、明け渡しが終わる今月末まで、18年間を振り返ることにした。

(続く)



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最後の5台

朝からやる日曜の授業も今日が最後、18年半もやっていると学校が終わる現実感がないですね。
最後の5台も完成の目処が立ちました。

IMGP2188














コマンド750”S”仕様。 タンクのムラサキ・ラメは貴重なオリジナル・ペイント。





IMGP2187














コマンド750・ロードスター。
フレームを新品に交換した力作。




IMGP2189














もう一台コマンド。72年に日本に輸入されたワンオーナーのディーラーもの。
これも塗装はオリジナルのまま。





IMGP2190














60年のT110。 マグネトーを新品BTHに換えたらそれが不調・・・・





IMGP2191














70年トロフィー。あとは車検を取るだけ。



授業は22日の水曜夜まで行います。
ヒマな卒業生は遊びに来てくださいね。
今週末には撤去作業、この空間は地球上から姿を消してしまいます。

水曜の夜は最後に軽く乾杯でもしますかね・・・・









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January 12, 2014

閉校前のスケジュールについて



1月25日(土) 10:00〜17:00 撤去作業
          18:00〜 閉校パーティー(近場の飲食店にて:場所未定)

1月26日(日) 10:00〜13:00撤去作業
          13:00〜不要パーツ、工具オークション


連絡事項

25日のパーティー参加予定者は当校にメールください。

→ greevesあっとnifty.com

お店の予約のため人数確定する必要があります。
17日(金)までにご連絡ください。

パーツ・工具オークションは当校関係者のみ参加可。
なお落札した工具、パーツ、机、棚 などはその日のうちに持って帰るようにして下さい。

撤去作業、大勢の参加を希望します。






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January 11, 2014

T140V 完成!

IMGP2186














仮ナンバーをつけて試乗したらこの笑顔です。
初めてトラに乗った人は皆衝撃を受けますね。
でもプッシュロッド・カバーからオイル漏れがあるので、完成直後ですが再びヘッドをあけることに・・・



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