僕がシーナを好きな理由

ある強い決意を持って京大に入学した潤。しかし想いとは裏腹、椎名に巻き込まれ、テニスサークル「アトランタ」に入会させられてしまった事が運の尽き。分からぬ女心、小悪魔、四角関係、深夜のビンタ。京都大学を爆心地とした恋のトラブルに次々巻き込まれていく。

僕は相当、酔っていたのだろう。


3時間近くも酒をずっと飲んでいたのだから、そりゃちょっとは酔うはずだ。僕と言う人間は本来、温厚な男である。そして、理性的であると自負しているし、邪推もしない。納得が行くまで、しっかりと話を聞いてやる、そんな大樹のような素晴らしい人間である。


このときまでは、である。


頭の中で、不明な点と点が結びついて、核融合をしていた。そして導き出された答えは、さっきまで椎名と能登さんは一緒にいたということだ。そして、椎名が電話を失くしたときに僕にかけるために使った電話は能登さんの携帯電話である。


一気に謎が解けたのだ。そしてあのとき、どうして僕の番号が分かったのかというと、恐らく能登さんが誰かに訊いて知っていたか何かだろう。そして最大の疑問だった「なぜ携帯電話を無くしたと気付いた瞬間に僕の部屋に来なかったのか」ということへの回答は至極単純だ。


能登さんに会うためである。


これだけいつも一緒にいる僕と椎名は、飲み会やバイトなどがなければ、本当にずっと一緒にいることになる。事実そうであった。しかしなぜか、僕の論理は、ボタンを掛け間違えているような気もする、もう一度情報の整理が必要かもしれない。そんな冷静さを取り戻そうとしたときである。


さっきは平手だったものが、次は明らかに握り拳に変わっているではないか。とてつもなく久しぶりに殴られた気がする。殴った相手は神様、いや、椎名であった。


「痛いじゃないか。僕がお前をぶん殴る理由があったとしても、お前が僕を殴る理由はないだろう」


「あるに決まってんだろ。そんなこともわかんねぇのか」


「じゃあ理由を言ってみろ。それが正当なものであればいくらでも好きなだけ、思う存分殴れ。しかし、そうでない場合、僕が貴様の悪行を問い質し、正義の鉄槌を下してやるぞ」


「潤、おまえ人の気持ち考えたことあんのかよ」


「はぁ、なに言ってるんだおまえ。理由を教えろって言ってるんだ。人の気持ちなんてコンビニのバイトで毎日毎日考えてるわ。そんなことどうだっていいんだよバカやろう。あと言わせろ。お前がなんで今日飲み会に来なかったのか、分かったぞ。能登さんと会うためだな」


「だったらなんだってんだよ」


「認めたな。それに今日俺にかけてきた電話、あれ能登さんの携帯電話だな。僕のことをからかって遊んでたのかおまえら」


「あれは適当に借りた携帯だぞバカ。むちゃくちゃ言ってんじゃねぇよ」

「むちゃくちゃ言ってんのはお前のほうだろうが大バカやろう。どこの世界にお前みたいなやつに道端で携帯電話を貸すんだよ」


「その話はもういいよ。ていうかさ、もう落ち着いて話さない?」


そう言うと椎名は一つため息をついて、視線を落とした。



やはり僕はボタンを掛け違えているような気がする。


椎名という人間は、まがりなりにも京大に入学出来る学力を持っている。物事を深く、本質的に理解し、それを表現する能力は圧倒的に高いはずなのである。そして、それは僕も同じなのだ。


よく考えてみよう。


僕は一体何に怒っていたのかということだ。もし仮に椎名と能登さんが付き合っていたとして、別に僕に文句を言う権利はない。本当にこれっぽっちもないのである。そして、椎名が僕に嘘をついたとしたら、それは不義理なことだというのは正しいが、それにしても、こんな軽い嘘を吐かれたくらいで憤死するほど怒りを露にするなんて狂気の沙汰である。


答えは火を見るより明らかであった。


僕は能登さんのことが好きだったのだ。


だから、嫉妬したのだ。


いくら勉強を頑張ってきたとはいえ、西の最高学府に入学したとはいえ、僕の心はまだたったの18歳でしかなく、手に入らなかったものを手に入れた椎名に嫉妬して、逆恨みしたのだ。そう思うと自分が情けなく、どうしようもない感情が僕を包み込んでいた。


「椎名、能登さん、なお子ちゃん・・」


力なくみんなの名前を呼ぶと、僕はどうしても我慢することが出来なくなってしまった。


僕はクソ暑い真夏の神社の前で蚊に刺されながら泣いた。前が見えなくなるまで泣いたのだ。


そしてみんなになんと子供じみた発言をしたか、いかに自分が間違っているか、加えて椎名と能登さんの恋についても全力でパックアップすることを告げた。これでいいのだ。


夏の湿った空気を切り裂いて飛んでくるものが見える。握手かな。


「パーン!!」



相変わらずいい音がする。


女の子とキスをしたのも2回目なら、ビンタも2回目。


幸先のよい大学生活である。

夏のマイアミの夜はワイルドだと言われているらしい。しかし実際、マイアミなんて行ったこともないし、別に行きたいとも思わない。そしてマイアミとやらが、どれだけワイルドなのか知らないが、今の僕の状況は、僕の人生至上、ナンバーワンにワイルドだ。元田中はマイアミだったのである。


コツンコツンという、なお子ちゃんのヒールの音に合わせてゆっくり歩く。150cmくらいしかないなお子ちゃんだが、7cmのヒールを履くと結構高くなるものである。といってもまだ、これくらいなら余裕というものだ。能登さんがこれと同じヒールを履いていたらきっと、僕より身長が高くなるんだろう。


しかし、一体どこへ向かっているのだろうか。片側二車線の道路はまだまだたくさんの車で溢れている。一定の間隔で植えられている街路樹を過ぎるたびに確実に僕の家に近づいている。僕は10分ほど歩いたところで、いよいよなお子ちゃんがどういうつもりか分からなくなっていた。


「なお子ちゃん、散歩って行ってたけどさ、もうカラオケボックスから結構離れちゃったよ。これたぶん1km弱くらいは歩いてるから、そろそろ引き返さない?」


なお子ちゃんは無言である。何も言わず、交差点を左に曲がり、どんどん歩いていく。これは、下鴨神社のほうへ向かう道である。このコースは昼間に歩いたことがあるが、こんな夜中に、あの不気味な森が広がる神社へと足を運びたくはないものだ。


「ねぇ、なお子ちゃん。聞いてる?こっちは鴨川のほうだよ。あとそのまま行くと下鴨神社があるだけで、まっくらになるよ」


やはり聞いていない。これは一体どうしたことだろう。何を言っても言うことをきかない癖に足取りは結構普通だ。むしろ僕のほうが千鳥足といった様子だろう。


踏み切りを越えて、まだまだ歩く。


手を離して、すいすい前方を歩くなお子ちゃんは細くて綺麗な足をどんどん前へ進めていく。後ろから見ても素敵だ。透けているサテン生地のブラウスにベージュのショートパンツ。さらさらの黒髪からはこんな時間なのに、まだいい匂いがしている。


しばらく歩くと、見覚えのある場所に出た。鴨川である。随分歩いたような気もするが、距離にすると1.2km程度とたいしたことはない。そしてここは御蔭通りといって、目の前のこじんまりとした橋を渡るとすぐに下鴨神社の周囲を取り巻いている、糺の森が見えてくる。


そうこうしているうちに本当に下鴨神社へと着きそうになっている。僕は夜の神社がとても苦手だ。心霊現象などというものではなくて、この霊験あらたかな雰囲気が苦手なのである。そのときだ。なお子ちゃんは急に小走りになり、何かに向かって突進しだした。


「なお子ちゃん、そっち神社しかないよ。あと暗いから危ないって!」


なお子ちゃんを追いかけてついに来てしまった、夜の神社へ。入り口には赤黒い提灯があり、少し明るくなっているのだが、そこになお子ちゃんが小走りで帰ってきていきなり抱きついたのだ。そして、上目遣いで「キス」とだけいうと目を閉じたのである。


5秒だけ考えたが、しない手はなかった。

首に巻きついたなお子ちゃんの両腕が少し苦しかったが、目を閉じてキスをしている顔は相当に愛らしかった。どうでもいい情報だが、僕はキスをするとき絶対に目を開けるのだ。これは大人になってからもそうであったので、一種の癖なんだろうと思う。


目をあけていると、いい事がたくさんある。


まずは可愛い可愛い、なお子ちゃんの顔が見える。そして、周囲に何か危険が迫ってもすぐに察知することが出来る。


そう、危険が迫っていたのである。


石畳みを歩く人の影が見える、なお子ちゃんをゆっくり引き離した瞬間、いい音がした。


「パーン!」


音が森を駆け巡ったように感じる。一瞬何が起こったか分からなかったが、少しすると、とてつもない痛みが右の頬というかアゴらへんに駆け抜けていた。そして目の前には能登さんがいるではないか。おや、能登さん、体調よさそうだねぇなんて言える雰囲気では無かった。僕をひっぱたいた後は、恐ろしい剣幕でなお子ちゃんと能登さんの言い合いが始まった。


「森さん。あなたってほんと最低ね」


「あなたみたいな人に言われる筋合い、これっぽっちもないんだけど。クソ女」


「あなたは、男性に大事にしてもらう資格は無いわ。人を大事に出来ない人が大事にされるわけないじゃない。それとね、潤くんには関わらないで」


「能登さんこそ、いいように人を利用しておいて何様なの。私知ってるんだから」


「それ以上言うと本当に怒るわよ。もう許さないから」



なんだろう、もう頭の中がお腹いっぱい状態である。今僕の目の前では一体何が起きているのだろうか。いきなり現れた能登さんは、出会いがしらに一発綺麗な平手打ちを僕に食らわせて、それから、なお子ちゃんとのバトルを開始したのだ。しかしよく考えて欲しい。


どうしてこんなところに、能登さんが?


そしてどうして、僕となお子ちゃんはこんなところに?


不明な点と不明な点が折り重なって絶妙なバランスを構築するとき、素晴らしい味わいを生み出すのだ。


森の奥から走ってきた男は紛れもなく椎名であった。なんだか会えて嬉しいのだが、同時にとてつもないストーリーが始まりそうで、さっき飲んだ生ビールをすべて吐きそうになっていた。

僕は今歩いている。


打ち上げが行われた百万遍交差点にある「赤天狗」を左に曲がると東大路通りである。その通りを数十メートル北上するとカラオケLがある。京大生御用達のカラオケボックスで、サークル割なんかもある。ちなみにこの時もそうだったようだが、アトランタはもっとも交流のあるテニスサークル「オレンジ」と共同で貸切にすることがよくあるのだ。


僕はと言うと、どうやら通り過ぎて、元田中のほうまで歩いてきてしまっている。


ちなみに、右手は、今尚、なお子ちゃんと合体したままだ。というより、さっきより状況が悪化しており、俗に言う「恋人繋ぎ」になっている気がするのは僕だけだろうか。


時間をほんの少しだけ戻そう。



そもそも、あの店の支払いというのは、1年生以外のサークルメンバーから、前もって集金をしたもので清算しているため、上田さんがまとめて支払っている。上田さんは常に現金が枯渇しているため、自分のクレジットカードで会計を済ませたあと、10万円を大きく超える現金をゲットしているのだ。そんな経緯があるため、会計時の上田さんはすべてを会計のことのみに集中しており、周りには気を配っていない。そして会計が終わると、一目散に下宿先へ帰るのだ。そう、現金を置きにだ。


そして店に残ったのは、僕と、なお子ちゃんだけだった。会計が終わったので行こうと言う僕に、なお子ちゃんは吐息交じりで言うのである。


「潤くん。私、酔っぱらっちゃって、ぜんぜん動けないから、先に行っていいよ。ごめんね・・」


こんな純白可憐な乙女をむさ苦しい居酒屋に一人置いて行けるだろうか。いや行けない。


「いや、置いていけないから。酔いさめるまでここにいるよ。僕ここらへんに住んでるからカラオケの場所は分かるし。ゆっくりしてていいよ」


うつろな目。薄く開いた唇。アルコールと熱気で赤く色づいた頬。


何から何まで可愛いではないか。するとおもむろに、なお子ちゃんはゆっくり僕の肩に頭を乗せて、何か言ったようだった。


しかし、店のBGMと自分が酔っていて耳が遠いこともあってか、何を言ったのか聴こえず、少し顔をなお子ちゃんに近づけて聞き返した。


次の瞬間、僕の右と左の頬は、なお子ちゃんの右手、左手によってがっちりと挟まれ、気付くと、まつげが僕の顔にあたるほど近くになお子ちゃんの顔がある。なお子ちゃんの唇は少し厚みがあって、とてもきれいだ。そして柔らかかった。


「キスしようって言ったの。気付いてよね」


人生で初めて、小悪魔というものに出会った瞬間である。

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