もう四半世紀もエロにまつわる仕事をしている私だが、そのいちばん最初に、人に知られたら罪悪感で死んでしまいたくなるような「縛られたい」という願望があった。
5歳か6歳の頃にはそのことを切実に願っていた。
その夢を深く理解してもらえたのは、SMペディアによれば1998年5月10日、30代の終わりにさしかかっていた。
緊縛美研究会において濡木痴夢男さんに縛ってもらった日だ。
私が春原悠理さんと濡木さんが主宰する緊美研に参加したのは、会が解散する前の最後の一年余だけなのである。
その一年間にたった一度、濡木さんが自分以外の人に緊美研で縛りをやらせるのを見た。
その人が奈加あきらさんだった。
10月7日に奈加さんの責め縄研究会があり、佐川銀次さんとともにトークゲストとして招かれた。
緊美研以後も私は何十回も奈加さんの縛りを、ライブでもAV作品でも見てきたが、心にいちばん深く響いたのはこの日の縛りであった。
モデルは菜々子さん、志願してのモデルさんだった。
志願してのモデルさんということが、私はとても重要だと思っている。
私は縄フェチではなく、縛りの技術的なことにはまったく興味がないのである。
私が心惹かれるのは、一人の女が縄を求め、縄に堕ちて、理性の結界を破られて自分を解放する、その過程だけなのだ。
どんなに高く吊ろうが速く吊ろうが、女が「頑張っている」顔を見せていたり、「どうです、凄いでしょう?」ってな顔をしていたら、それはもうアトラクションであって、エロではない。
こんなことをされているのに、痛いのに辛いのに恥ずかしいのに、蕩けるようになっていく私を許してください、とでもいうような悶絶の情景が美しいと思うのである。
責め縄研究会で、奈加さんは会員に向かって非常におもしろく貴重な話をしながら、菜々子さんを縛っていった。
その間、菜々子さんはおとなしく縛られ、転がされてじっと待っている。
その待っている姿がよかった。
まるで進んで祭壇に身を捧げる乙女のようで、それでいて悲愴ではなく、奈加さんの縄を一心に待っている期待感、祈りのような気持ちが伝わってきたから。
そうして奈加さんは時おり菜々子さんに声をかけつつ、また彼女を待たせて話をするのである。
これがすでに責めだ。
奈加さんは背中で、時に触れる指先で、菜々子さんの「煮え方」を計っていたと思う。
何度も緊縛講習会に通って技術を覚えても、いっこうに女を感じさせられない人というのがいる。
彼らは一様に、「どんどん縛っちゃう」のである。
覚えて巧くなった縄をこれでもと次々に掛けてしまい、女が煮えるのを待つことをしていない。
女は、一縄(いちじょう)と一縄のあいだの空白に高まっていくのである。
こういう話をすると「そうか、放置プレイか」と勘違いする人がいる。
感性がないにも程がある。
その昔、私を縛って吊っておいて、風呂に入りに行った人がいた。
それがカッコいいと、俺ってSだなあと自己満足しているのである。
ただ黙って、吊りに苦しむ私を視ていてくれたら、その視線が何よりの責めとなるのに。
感性がないので、残念だがこういう人は縄がうまくならない。
奈加さんはそういう心の構造を知っていて、菜々子さんをじっくりと料理していった。
そして、菜々子さんはよく耐え、応えた。
求めるものがあってここに来たのだから、どうなったっていい、と言っているように見えた。
そんな思いが肌から放射して、私たちに伝わってくる。
ショーではこういう組み立てにはならない。
音楽がありスピードがあり、そこに合わせて構成するから。
私はやはりショーより責め縄が好きだ。
これは濡木さんが求め続けた世界観だと思った。
濡木さんはショーは一度も行っていない。
奈加さんが濡木さんの精神性を継承していることは間違いない。
しかし、濡木さんにはできなかったが、奈加さんにだけできることがある。
それは、緊縛の絵の中に入ることである。
ショーならともかく責め縄の絵の中に入ることは、とうていできない難事なのだ。
濡木さんはそこで急に饒舌になってしゃべってしまう。
それは濡木さんの欠点ではなく、もともと戯作者でありたい濡木さんの本文がそうさせたのだと思う。
責め縄の絵の中にすっと入れる奈加さんは、独特の美学を持っていて、その通りに動くことのできる才能を持っているのだと思う。
私がそのことに気づいたのは、団鬼六氏の短編『花と狼』(川上ゆう主演・アタッカーズ)の脚本を書かせていただいた時のことだ。
奈加さん演じる上原は川上ゆうさん演じる浪路を囲っている、羽振りの良い旦那である。
今の不倫とはちがう。
妻のようにいつも帰りを待っていて、でも表向きは旦那と並んで歩くことはなく、性的には妻以上に従順であったと思われる。
昭和中期までにはありがちな男女関係だが、そんなことくどくどと脚本には書けない。
奈加さんはこの関係性をたった数秒で演じてくれた。
仕事から帰り、浪路に着替えを手伝わせながら、粋な和服に着替える。
たったこれだけの所作で、ここは妾宅で、女は彼の玩具だということを漂わせた。
絵になっている。
思わずうなってしまった。
奈加さんの海外のお弟子さんは、日本女性よりきちっと和服を着こなし、背筋を伸ばして正座する。
もちろん奈加さんが強制したわけではないだろうが、奈加さんが言葉ではなく、姿で伝えられる稀有な師匠だということと関係しているはずだ。
このように縄だけで高揚し陥落させられてしまったら、女は恋愛やセックスではだめかも知れない。
だから縄は禁忌の世界なのだと思うし、これからもそうであり続けてほしい。
5歳か6歳の頃にはそのことを切実に願っていた。
その夢を深く理解してもらえたのは、SMペディアによれば1998年5月10日、30代の終わりにさしかかっていた。
緊縛美研究会において濡木痴夢男さんに縛ってもらった日だ。
私が春原悠理さんと濡木さんが主宰する緊美研に参加したのは、会が解散する前の最後の一年余だけなのである。
その一年間にたった一度、濡木さんが自分以外の人に緊美研で縛りをやらせるのを見た。
その人が奈加あきらさんだった。
写真:佐藤恵里沙
10月7日に奈加さんの責め縄研究会があり、佐川銀次さんとともにトークゲストとして招かれた。
緊美研以後も私は何十回も奈加さんの縛りを、ライブでもAV作品でも見てきたが、心にいちばん深く響いたのはこの日の縛りであった。
モデルは菜々子さん、志願してのモデルさんだった。
志願してのモデルさんということが、私はとても重要だと思っている。
私は縄フェチではなく、縛りの技術的なことにはまったく興味がないのである。
私が心惹かれるのは、一人の女が縄を求め、縄に堕ちて、理性の結界を破られて自分を解放する、その過程だけなのだ。
どんなに高く吊ろうが速く吊ろうが、女が「頑張っている」顔を見せていたり、「どうです、凄いでしょう?」ってな顔をしていたら、それはもうアトラクションであって、エロではない。
こんなことをされているのに、痛いのに辛いのに恥ずかしいのに、蕩けるようになっていく私を許してください、とでもいうような悶絶の情景が美しいと思うのである。
責め縄研究会で、奈加さんは会員に向かって非常におもしろく貴重な話をしながら、菜々子さんを縛っていった。
その間、菜々子さんはおとなしく縛られ、転がされてじっと待っている。
その待っている姿がよかった。
まるで進んで祭壇に身を捧げる乙女のようで、それでいて悲愴ではなく、奈加さんの縄を一心に待っている期待感、祈りのような気持ちが伝わってきたから。
写真:佐藤恵里沙
そうして奈加さんは時おり菜々子さんに声をかけつつ、また彼女を待たせて話をするのである。
これがすでに責めだ。
奈加さんは背中で、時に触れる指先で、菜々子さんの「煮え方」を計っていたと思う。
何度も緊縛講習会に通って技術を覚えても、いっこうに女を感じさせられない人というのがいる。
彼らは一様に、「どんどん縛っちゃう」のである。
覚えて巧くなった縄をこれでもと次々に掛けてしまい、女が煮えるのを待つことをしていない。
女は、一縄(いちじょう)と一縄のあいだの空白に高まっていくのである。
こういう話をすると「そうか、放置プレイか」と勘違いする人がいる。
感性がないにも程がある。
その昔、私を縛って吊っておいて、風呂に入りに行った人がいた。
それがカッコいいと、俺ってSだなあと自己満足しているのである。
ただ黙って、吊りに苦しむ私を視ていてくれたら、その視線が何よりの責めとなるのに。
感性がないので、残念だがこういう人は縄がうまくならない。
奈加さんはそういう心の構造を知っていて、菜々子さんをじっくりと料理していった。
そして、菜々子さんはよく耐え、応えた。
求めるものがあってここに来たのだから、どうなったっていい、と言っているように見えた。
そんな思いが肌から放射して、私たちに伝わってくる。
ショーではこういう組み立てにはならない。
音楽がありスピードがあり、そこに合わせて構成するから。
私はやはりショーより責め縄が好きだ。
これは濡木さんが求め続けた世界観だと思った。
濡木さんはショーは一度も行っていない。
奈加さんが濡木さんの精神性を継承していることは間違いない。
しかし、濡木さんにはできなかったが、奈加さんにだけできることがある。
それは、緊縛の絵の中に入ることである。
ショーならともかく責め縄の絵の中に入ることは、とうていできない難事なのだ。
濡木さんはそこで急に饒舌になってしゃべってしまう。
それは濡木さんの欠点ではなく、もともと戯作者でありたい濡木さんの本文がそうさせたのだと思う。
責め縄の絵の中にすっと入れる奈加さんは、独特の美学を持っていて、その通りに動くことのできる才能を持っているのだと思う。
私がそのことに気づいたのは、団鬼六氏の短編『花と狼』(川上ゆう主演・アタッカーズ)の脚本を書かせていただいた時のことだ。
奈加さん演じる上原は川上ゆうさん演じる浪路を囲っている、羽振りの良い旦那である。
今の不倫とはちがう。
妻のようにいつも帰りを待っていて、でも表向きは旦那と並んで歩くことはなく、性的には妻以上に従順であったと思われる。
昭和中期までにはありがちな男女関係だが、そんなことくどくどと脚本には書けない。
奈加さんはこの関係性をたった数秒で演じてくれた。
仕事から帰り、浪路に着替えを手伝わせながら、粋な和服に着替える。
たったこれだけの所作で、ここは妾宅で、女は彼の玩具だということを漂わせた。
絵になっている。
思わずうなってしまった。
奈加さんの海外のお弟子さんは、日本女性よりきちっと和服を着こなし、背筋を伸ばして正座する。
もちろん奈加さんが強制したわけではないだろうが、奈加さんが言葉ではなく、姿で伝えられる稀有な師匠だということと関係しているはずだ。
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このように縄だけで高揚し陥落させられてしまったら、女は恋愛やセックスではだめかも知れない。
だから縄は禁忌の世界なのだと思うし、これからもそうであり続けてほしい。