12月4日に、再び奈加あきらさんの責め縄研究会にお邪魔した。
この日のモデルは翡翠さんで、参加者の中には故・明智伝鬼先生のパートナーである京極夢路さん、才勝さんの姿もあり、大変貴重なお話がたくさん聞けた。

ノートを忘れた私は「こりゃいかん」とあわて、持参した菓子折りの袋をビリビリと破いてメモをとりまくる。
奈加さん、夢路さん、才勝さんは私の知らない時代の話もご存知なので、初めて聞くことも多く、私にとっては幸せな時間となった。

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そして翡翠さんの緊縛と責めがはじまる。
翡翠さんはAV女優でもグラビアモデルでもなく、奈加さんとのセッションモデルだけをしているという。
つまり奈加さんの責め縄の研究生であり、体現者なのである。

私自身、濡木痴夢男先生の緊縛美研究会に参加した時、まったくの素人だった。
翡翠さんの縛りを見ることで、久しく開いていない自分の心の奥に入る鍵を見つけられそうで、とても楽しみだった。

奈加さんは何度も、翡翠さんとの縛りは危険も伴うものだということを言われた。
写真や映像を見て、縄をかける順番だけ覚えて真似したりはしないでほしい、という意味だ。
私が緊美研に参加していた当時よりも、ずっと厳しい縄なのである。
吊りなどは、私だったら3分も耐えられないだろう。

そのために翡翠さんは常に体のコンディションを調整している。
普通の日常生活と両立することは簡単ではないだろう。
マニアというより求道者の生活に近いところがあるのではないだろうか。

ここでは翡翠さんがどのように縛られて、どんな反応をして…という話は書かない。
それは会に来て、目の前で見た人だけが知ることでいいと思う。

そもそも縛り縛られている人の本当の美しさは、どんなに言葉をつくしても語るのがむずかしい。
きゅっと締まる縄の鳴き声、女性に走る緊張、声をもらすまいと唇を噛み締めても、足の爪先に、手の指に表れてしまう被虐の美の前では、文章など一瞬で吹き飛んでバラバラになってしまう

私は縛りの技術的なことを知らないし、捕縄術などの縛りの歴史にも詳しくない。
そういったことは優れた研究者の方や縛りのプロにお任せするべきだと思っている。
私が書き残していきたいのは、なぜ女性が自ら縛られたいと願うのか、その現実的な話である。

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私が縛られたいと思ったのはまだ5歳か6歳のころで、以来ずっと自分は異常者なのではないかと思い、おびえていた。
人が人を縛る、縛られるなんて、犯罪と暴力の匂いがして怖かった。
怖いことを願い、あこがれる自分がいやだった。
忘れたかった。

でも、考えないようにすればするほど縛られることを考えてしまう。
縛られたい気持ちはどんどん強くなり、もっと酷いことをされたいと願うようにすらなった。

男と女として普通に愛し合いたい気持ちより強かったかも知れない。
ここはまだうまく言えないのだけれど、愛しているとささやき合って、抱きしめられてセックスするなんて無理だと思った。

私の自己評価が異常に低いのも理由ではあるけれど、それだけじゃない。
私なんかを好きだなんて、信用できないと思ってしまう。
セックスなんて、いくつかの条件が整えばできるような気がして、それだけで愛を信じることは私にはむずかしかった。

君を抱きたいと言うよりも、君を縛りたいと言うのはずっと勇気が要ると思う。
相手から嫌われるかも知れない。
お互いに傷つくかも知れない。

だから、自分を抱いてくれる人よりも、自分を縛ってくれる人のほうが貴重だと思った。
愛とか恋とか、どうでもよくなってしまうほどに、私にとっては尊いものだった。

「縛りとかSMなんてやらなくても、愛することはできるよ」と男の人に言われるたびに、冤罪を着せられて弁明ができない人のように、悲しくうつむくしかなかった。
わかってもらえないことを、わかってもらうことは無理なんである。

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だから、必死に体をメンテナンスして縄を求める翡翠さんの真剣さをひしひしと感じた。
翡翠さんが翡翠さんでいられる時間は限られていて、恐らくいろいろな犠牲の上に成り立っている。
素朴な感想だけれど、その場に居られたことが私はとてもうれしかった。

かつて、私を緊美研に入れてくれた春原悠理さんから「本物の縛りを披露しようと思うなら、本物の縄好き女性を縛らなくてはならない」という言葉を聞いた。
熱く、温かく、良い言葉だ。
でもとても深い、少し怖いような言葉でもある。

私はもう自分を異常者だなんて思っていない。
純粋に縛られたいと願う女性がいる限り、奈加さんの責め縄研究会がある限り、私はもう一人じゃないと思えるから。