まさか自分に、自分にだけはこのような日が訪れるなど想像したことすらなかった。物心ついた時には私の腹の奥底に居た、熱い悪魔からついに解放されてしまった。
完全に更年期が終わったと思われた60歳の頃、人間ドックで卵巣の大きさを診てもらったところ、私より10歳は若そうな女性の医師は細い小指の第一関節から上を示し、
「今のあなたの卵巣の大きさは、この小指の先の半分ぐらいです」
とすまなそうに言った。もう婦人科系のオプションは要らないという意味だ。
そうして、それからまもなくコロナ禍に見舞われ、いずれが原因ということもなく男を欲しない体になっていた。
たまたま更年期医療の勉強をして、女性ホルモンだけではなく、闘争本能を司る男性ホルモンも枯渇したのが性欲減退の原因だと知った。
女だけを相手に商売を営む女ばかりの家庭に生まれ、男性性ひいては男根そのものが恐ろしかったにも関わらず、私の腹の底にはぐつぐつ煮えた鍋があって、その湯気には毒気がたっぷりと含まれており、「お前自身を凌辱しろ」「お前の生命を削れ」と私を洗脳してやまないのであった。
幼い私が寝る前に妄想していたのは、学校であの野蛮な男子たちに鉄鎖の縄跳びを跳ぶことを強制され、痛い鉄の縄に足をからめ捕られて倒れ、草むらの枯れ井戸に引きずり込まれるシーケンスだった。
6歳の私は脳だけで自慰をしていた。
太ももはぴったりと閉じ合わせたままで。
その後もずっと現実の男が恐ろしく、自己肯定感は暴落に暴落を重ね、女としての自分の価値のなさにうんざりし続けた。
それでも男と付き合ってみよう、結婚してみよう、白い結婚に耐えられず離婚してみよう、自由になったのだからいっそ緊縛モデルになってみよう、必ずしも愛がなくてもいい、不特定多数の男が漁場を成す出会い系という名の豊穣の海に飛び込んでみよう、需要があると編集者が言うのなら読者相手に童貞喰いの企画連載もやってみよう…
等々と思ったのは、あの恐ろしい節を浮かべた赤黒い灰色の肉茎と、キュクロープスの目に涙をたたえた生殖のスリットを持つ人間の牡の体から、少しずつ、ほんの少しずつ快美を得たからだ。
最初はそっと背筋をかばう指先から、それがだんだんだんだん、さまざまな男のさまざまな器官によって。
脳科学で言うところの報酬系という仕組みによって、私の性は爆走した。
腹の底の鍋は気がつけば炎を噴き上げ続ける活火山に変わり、四十を超えて膣だけで絶頂することを知った体は、私の怯えや慎ましさや恥じらいを否定し、嗤い飛ばし、裏切り続けた。
《こんなけがらわしい私と別れたい、
でも、それは今夜の同衾が終わってからだ。》
毎日、そう思った。
そんな葛藤は男たちに知らせる必要もなく、男には理解できないものと信じていた。
まして官能小説という男根のための「射精の処方箋」に描かれているなど想像したことはない。
ところが阿部定を描いた双葉文庫『定、吉ふたり』に、草凪優さんが、定が世に言うアベサダとなる前の定の前夜譚を『定—待ちわびて』として克明に解き明かしていた。
読んで、最初のページから衝撃だった。
このような女の秘密を知っている男が居るということが衝撃だった。
草凪さんのような文章が書けないだけで、秘密を知っている男はほかにもまだまだ居るのじゃないか。
ああ、そやつらをどうしてくれようか。
これを読んだのが、純粋欲情の炎が消えたあとの自分でよかった。
今の自分にはもう、男という狂暴なくせに繊細極まりない生き物に復讐する術がない。
私はもう二度と罪を犯さないで済む。
私たちはアベサダを知った気になっているが、実は全然わかっていないのだ。
アベサダは私の中に居た。
私たち無数のアベサダのうちのたった一人のアベサダだけが吉を殺ってしまったので、私が殺ったっておかしくはなかった。
それぐらいには私も男根に人生を支配され、狂いに狂った。
私はただの淫乱ではない。
己を凌辱して、支配して、削るために一途に淫した。
私のように女の出口をくぐる前に内なるテロを決行してしてしまったアベサダは、今もそして永遠に、刑事にはさまれた写真の中で嫣然と愛らしく微笑んでいる。
草凪優「定―待ちわびて」はノワールなフェミニズムの物語である。
昨今はびこる、小学校の学級会みたいな言葉狩りと、男を見ればモグラ叩きに興じるばかりの幼稚な「いわゆるフェミニスト」にはわかるまいが、人生の序盤から罰ゲームばかりさせられて、しかる後に毒のような女の悦びを一瞬でも舐めてしまったら、男のシステムに加担せざるを得ない女の業を知る多くの女性には響くものがある物語だ。
心地よく打ちのめされて本を閉じた。
マゾな私の最後の快楽は、こういうところにあるのかも知れない。
