高坂駅前つばめ整体軒

高坂つばめ整体院のブログ

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整体師としてやはり悩むのは、技術の問題だったり、さらに集客だったり、立地だったりと問題は尽きません。

独立したけど食えないとか、セミナージプシーになって結局なんも身に付いていないとか、諸々あると思います。

そんな中で、野口晴哉に魅せられて、その技術に迫ろうと、なんらかの会に入ったり、あらゆる書籍を読破したり、見ることさえ叶わぬ古書の存在に活路を見出だそうと、大枚叩いて「野口晴哉著作全集」を買ったりした人もいるでしょう。


そんな人たちを救うべく(?)、長年私が追い求めて来た「野口晴哉」の整体術を、我々の見解ではありますが、操法や霊術を超えた視点で解明した技術をそろそろ公開する準備に入ろうかと思います。


野口晴哉の技術の根幹は「裡なる声」を聴く能力だと考えます。

それは能力ではなく、あくまで技術であり、身体の読み方ではなく「聴き方」ですから、裡なる声の捉え方です。


それに長けてしまえば、触れて患部が解るならば、治療家としてそれほど楽なことはないでしょう。

逆に言えば、それが無ければ彼の技術を追究することは、ほぼ不可能だと思います。

それは「傾聴する」といった発想の上品なモノでは決して無いし、どちらかと言うと「正体を暴く」というような、相手の都合を待たない、やや強引な手法です。

私の技術ベースが中国武術なので、相手の意識を読む技術、所謂「聴勁」の発展型とも言えますし、慣れてくれば感情の読み取りや、難しい不定愁訴を暴くことが出来るようになります。

さらに占い師や霊能者の語るところの第六感でもなく、リアルに体感を伴って伝わる情報が「直観」となりますので、人間に限らず「犬」や「猫」などの家族にも使えますし、もちろん武術にも使えます。

そういう意味では、本格的治療家を模索する者だけでなく、コミュニケーション能力を高める方法とも言えるので、用途はかなり広いです。


さらに治療家向けに言えば、今まで学んで来られた技術がそのまま活かせるので、治療法のベースはなんであっても、過去の学びが無駄になることはないでしょう。


この辺りからプログラム化したモノを提供して行きたいと考えています。


燕嶽流式「聴気法」講座


内容
・はじめての気功「気の玉」
・燕嶽流式合掌錬気(開発法)
・「聴気法」とは

*理論と実践を交えて伝授します。

◎費用 
¥15000¥12000 (年内価格)

◎時間
スケジュールを合わせ約60分~

◎場所
東松山市元宿1-9-1「高坂つばめ整体院」
*東武東上線「高坂駅」徒歩2分

◎連絡
tsubameseitai001@gmail.com
*気軽にお問い合わせ下さい。



<おわり>

先日、珍しい時間帯にキャンセルが出て、ここ数日三時間睡眠が続いて眠かったので、治療用ベッドで昼寝をしました。

すると、不思議な体験をしたのです。


夢を観ていたんだけど、私に技を授けてくれる若い先生と、まだ会ったことがない先生の先生と会話している夢でした。

何かの技の話になり、私がこういう技ですよねって感じで動くと、その大先生が「やり方変えたのか」みたいな話になり、先生はバツが悪そうにしていましたが「いいんだよ。好きに変えて構わない」と言いながら、私のほうを見て「少しみてあげよう」と言われました。

私の正面に立つと姿勢を観て「うーん、ここが良くないな」と言って、私の肋骨を親指で挟む形で持ち上げたのです。

わりと体重のある私を「ええーっ!」という感じで、軽々と持ち上げたのでした。

最近、あまり生活態度が良くないのは自覚していたので、恥ずかしいと思いながらも、大先生のアプローチはかなり強烈で「ううー」と思わず唸ってしまうほどでした。

そこで目を瞑ると、普段見えたことのないエメラルド色の光が見えて、その瞬間なんとも言えぬ、気持ちの良い脱力感に満たされました。


そこで「ハッ」と目が覚めたのですが、なんかそれから身体が軽く、すこぶる調子が良いのです。

疲れがいっぺんに抜けた感じで、これは大変有難いのですが、私は大先生にお会いしたことがないので、感謝するもなんか変な感じです。


アプローチのポイントもしっかり覚えているので、くすぐったいのと苦しいのが混在したなかなかキツイ体感でしたが、正直受けられるモノならまた受けたいですね。


信じるか信じないかは、あなた次第です!


<おわり>

先日、セッションに来た治療家に「連合赤軍はなんか(気功技術と)関係あるんですか?」と聞かれましたが、いいえ、全く関係ありません。


ただ、この問題を書き始めたら、閲覧率が上がったので、そういう意味ではなんかあるかもしれませんけど、完全に私の趣味ですね。


この問題を調べ始めたのは、確か1998年に出版された「光の雨」が書店のラックで山積みになっていたのを、レビューを読んで興味本意で買って、一気に読破してからもう二十年も経つんですよ。

そして若松監督の「実録 連合赤軍」があって、山本直樹氏の「レッド」があって、現在に至るワケですが、あさま山荘事件から45年の月日が経っているのに、私の中でまた再燃しているのです。

これはたぶん似たような人も結構居ると思うし、全く世代じゃない若い人で、興味持った人も増えていると思います。


そして、この事件が市民権を得た時に、革命として捉えるか、事件として捉えるかで評価が分かれるでしょう。


私の世代でも、きっと英雄視する人はいるだろうし、徹底的に非難されて来た時代とは、かなり異なる多様性が出て来ると思う。

逆にこれがオウム真理教だと、事件が記憶にあるためか、嫌悪感があるし、別の真実があろうとそこに踏み込むエネルギーが持てずにいますが、現在もアレフなどに、事件を直接知らない世代が集まっているのを見ると、やはりその時代を生きた人に取っての負の産物なんだと思います。

ただ現在はこの流れで、森達也監督のドキュメンタリー映画「A」「A2」を、観てみる気が起きていますので、そのうち違う視点が持てるかもしれません。


今回、連合赤軍のとりわけ「リンチ殺人事件」に注目したのですが、リーダーの森恒夫と永田洋子が暴走した結果という単純な見方ではない、全く別の複雑だが誰にでも起こりうる、誰にでもその過ちを犯すだけの相互関係が生じれば起こりうる、日本社会の問題としての側面が出て来ました。

リンチ殺人はそのシステムだけ見れば、子供のイジメの構図と全く変わらないし、誰か一人だけの暴走で始まったワケではない。


一つ言えるのは、それが世の中を変えるという「革命」というベースがあって、その熱量が私の世代ではわからないワケで、逆に自己責任という個人主義的な考えや、政治に対する興味や思想を持つことに対する嫌悪感(宗教に対する偏見もそう)などは、連合赤軍の事件が無かったら、ある意味違う形で我々は教育されていた可能性があるのだ。

現在の思考ベースは、やはり義務教育による学校教育だし、先日、広島出身の女の子と話したが、彼女は私より年下だが、学校で部落問題や差別などをかなり教育されたそうで、彼女たちが小学校を卒業する時「君が代」がかかっても、その子のクラスの六年生は誰も起立しなかったというのだから驚きだ。


教育という名の「洗脳」というのは当然あるし、我々にも深く残っている思想集団に対する嫌悪感は、教育によってなされた結果と考えると、少し怖いものがある。


自由を認めていても、偏見は残されたままだし、新興宗教に対するそれはかなり根深いモノがある。


あさま山荘事件において、警察側が「殉教者を出さず生きたまま捕らえよ」としたことで、少なくとも共産主義的な思想を持った活動が、恥ずかしいことに転換されてしまったのではないか。

中国での「文化大革命」や「天安門事件」、「ニクソン訪中」の流れも、益々自分たちの活動を否定する気持ちにさせたことだろう。


そう考えると、犠牲を払ったが先見の明という点において、警察庁の読みは大変見事であった。

もしかしたら、この時点で「リンチ殺人」が無ければ、これもまた違う評価だったかもしれないけど、とにかくサイコロはそっちに転がったのだ。


仲間を殺すという狂気の沙汰は、武装蜂起したことで「死」に対する覚悟が出来てしまったことも助長に繋がっただろう。

それでも、やはり仲間を殺すという発想は、とても理解し難いと思うワケだが、粛正による仲間の死のほうが、戦って倒した相手より多い「新撰組」のようでもあるし、結束が強く、ある種の隔離された環境で追い込まれていけば、人間というのは「共食い」を始めるのかもしれない。

昔、別荘地の茅野で働く人に聞いたが、住み込みで働いていた彼女の職場は女性ばかりで、雪が降って、だんだんと客足が遠退くと、従業員同士がピリピリし始め、やがて病んで行くらしい。

警察に追われ、武装はしても明確な闘争目的も見えず、隔離された空間で欲求不満になれば、なんらかのトラブルが発生するのは当然の結果ではなかろうか。

彼らは、どこか頭の中でカストロやゲバラになりたかっただろうし、よど号ハイジャック事件の人が言った「我々は明日のジョーである」という「燃え尽きる美学」といった破滅への理想もあったことだろう。

その根元が「特攻精神」や「切腹」といったイデオロギーにまで遡るのならば、日本人が日本人として清く生きようとしたら、とても幸せにはなれそうもない。


僕らはそんな経験を共有した大人たちが作った社会で、政治に興味を持たず、個人主義に走るように育って行った。

そして、現在は「連合赤軍」など全く知らない、または認識として繋がりを持ち得ない者たちが、思想を持たず、ただ快楽的な喜びや発散だけを求めて、渋谷の街に集合して、時には逮捕者も出している。

その感覚もわからない僕は、思想の違いだけで、同じDNAが発火しているようにも見えるのだ。

そして、個人主義は「自己責任」となり、日々「魔女狩り」に勤しむ者たちや、非正規雇用で常に未来を描けず、結婚はおろか、恋愛さえも放棄してしまう不安な若者で溢れている。


二十代、三十代の死亡率トップは、自殺らしい。



これらのことも全てはあの「革命」に繋がるならば、あの「あさま山荘事件」で分かれた運命の選択は、本当に正しかったのだろうか?


そういう風に考える僕の頭がおかしいのかね。


いずれにせよ、僕らは過去から学んで、未来をしっかり見つめて選択して行かなければならない。

あれだけ存在していた学生運動や抗議デモをしていた日本中の人たちが、すっかり何事も無かったかのように社会に溶け込んで消えてしまった。

「昔は良かった」とも語られず、理想とされた共産主義は消えて、民主主義と口では言いながら、この社会はどう考えても「資本主義」となった。

拘束されたジャーナリストの身代金に対して、仕事の成果という「対価」を求めて議論するのだから、僕の目には狂った世界しか広がっていない。

逆に自分がどれだけ価値のある人間なのかを問われたら、困る人間ばかりの社会なのに、そのウチどこかしこで「総括」が始まるのではなかろうか?


期せずして、なんとなくこの問題に拘る自分の正体も浮き彫りになって来たように思う。

全く整体と関係ない話で展開して、しかも長編になってしまいましたが、あの時代の多くの活動家たちが、処理せず蓋してしまった問題と、キチンと向き合って答えを出すことは、次の世代に対して意義あることのように思います。


<完>

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