急患は弟子の奥さんだったので、治療と同時に個人指導をすることにしました。


彼女は昔、酷いすべり症で入院して車椅子生活まで行きましたが、私のところに弟子が連れて来たのをキッカケに通うようになりました。


気功整体の見立ては、通常の運動力学や解剖学とは異なるところがあり、少なくとも手技療法で学ぶ筋骨格的視点だけでは観えないモノがあります。


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そのニュアンスは理論やロジックよりも“治して来た経験値”のほうが圧倒的に信頼性が高いので、丘サーファーの頭でっかちでは越えられない壁があるのです。


なので、機会があれば先達の実戦の場を間近で見取り稽古するのが何よりもお宝となります。


この世界は嫌でも孤独になりますし、完全な理解者など求めるだけ無駄になるので、見える者同士にしか共有出来ない聖域があります。


上から下は丸見えでも下から上は足裏しか見えないので、このレイヤー的(階層性)世界観の理解から始めないと戸口にすら立てないのが現実です。


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だから興味無い者を戸口に立たせる必要がないので、戸口に立ちたい者にだけ、そっと開示すれば良いのです。


相手に全てを理解して欲しいと考えるほど傲慢ではないし、秘匿性がある種の美学というのは武術家なら言わずもがなです。


だからこそ「聖域」なのですね。



私はこの世界でタブーとされる「〜しなければならない」という表現を敢えて多用しています。


それもまた同業者?を煙に巻く手段だったりするので、不完全性を表現することで伸びシロを設定しています。


思想的には、敢えてそう考えるほうが楽だからです。


楽という表現は誤解を生むので、単純に「楽しいから」という意味なんですが、以前出会った大御所の先生からは「背負うのが好きなら構わないけど」と言われました。


なかなか私の本質を貫いた意見だったと思います。


所詮、痛みを共有することでしか解決出来ない技ならば、その先にあるのはカタストロフィ(破滅)しか無いのは明白なので、敢えてそこを楽しむことでクリアするという挑戦をずっと続けています。


本年初治療でしたが、皆さんブログを読んでたりするので「お身体は大丈夫ですか?」と心配されましたが、おかげさまで年一回設定されている心臓の検診にも行って来ましたが、壊れた部分も回復していたようで(多少ですが)まだまだ走れそうです。


人生が儚くあっという間に突如として終わるのは、昨年の友人の死で理解出来たので、ここからは「どう生き残るか」というネガティブなモノではなく「どこまでやれるか」という前のめりな感じでやって行きたいと思います。


どんなスタイルで生きるにせよ、自分はもう大抵の欲しいポジションは経験したし、あとは大金掴んで豪遊するくらいしか残っていないかもしれません。


若くないので当然ですが、自分の能力を発揮出来る場を持てたなら、あとはひたすら勝ち進めるだけなので、クライアントのゴールと弟子のゴールが常に自分のゴールと織り混ざるのです。


人生は組紐のようなモノですから、巡り巡れば隕石だって落ちて来るかも知れません。


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そういうワケで、今年は免疫力を高めながらダウンすることなくやって行けたら良いですね。


<おわり>