2006年11月
2006年11月30日
幸福のスイッチ 65点(100点満点中)
樹里とジュリー 仲良くケンカしな
公式サイト
田舎町で小さな電気屋を営む父親(沢田研二)と、その娘の三姉妹(長女:本上まなみ、次女:上野樹里、三女:中村静香)との父娘関係を中心に、周囲の人々との関わりで成長していく次女・怜を主人公としたヒューマンドラマ。
まず、三姉妹それぞれの、ある程度わかりやすく大別されていながら、ステレオタイプにならない"人間"としての内面を、ひとつの事象に対する個々の見解や対応として的確に描写されている、リアルにディフォルメされたキャラクターの書き分けが上手い。
それは、物語のメインとなる"娘から見た父親像"を、一面的なものに終わらせず、多面的な深みを生じさせる役割を果たしており、娘を一人ではなく三人に設定した意図が、単に絵面的な華やかさだけではない事が充分によくわかる。
主人公が父親に抱いていた印象、感情が、帰省して改めて家族や町の人々と触れ合う中で、徐々に変質していき、主人公の精神的な成長を見せる、この流れも良くしたもので、監督、脚本ともに手がけた安田真奈の、自身の内面を投影したとも見て取れる、女性キャラクターの人間描写は秀逸だ。
和歌山を舞台にした物語において、登場人物達の話す極めて自然な方言もまた、人間をリアルに感じさせる役割を果たしている。
これは、関西人である監督のこだわりによって、主人公一家をはじめとする、"地元住人役"の役者を全て関西出身、あるいは在住経験のある人間で揃えた事で成し得たもので、より自然な演技が見られる結果となり、作品世界をリアルなものとして捉える事が出来るようになっている。
特に主人公は、東京の場面では標準語を話すが感情的になると訛りが出てきてしまったり、逆に帰省後の場面では、地元の言葉を話しながら、所々で"東京語"になってしまうなど、"関西から東京へ仕事に出ている人間"をリアルに表現しており、非常に芸が細かい。兵庫県出身の上野樹里ならではの仕事ぶりだ。
その様な、台詞回しや感情表現での、"人間の見せ方"は非常に上手く、これは演者のセンスはもちろんとして、監督の演出、演技指導の確かさが如実に現われているものだ。
特別な悪人の登場しない、自然に感情移入出来る人々の住む作品世界は魅力的なもので、見ているだけで心地いい気分にさせてくれる。
が、そうした"人間"の出来の良さに比して、全体的なストーリー構成に、食い足りなさを感じるのが残念なところ。
頑固オヤジ、男友達、偏屈な婆さん、変わり者の常連達、など、それぞれと主人公の関わりはいいのだが、それら相互に今ひとつまとまりがなく、全体的に散漫な印象を受けてしまうのだ。
父親の浮気エピソードも、各姉妹の思惑や反応などの表現はリアルで面白いものだったが、中途半端に長く引っ張りすぎな感もある。
と、いくつか引っかかる部分もあるにはあるが、先述の通り"人間ドラマ"としては上質であり、充分に楽しめるものである事は間違いない。
個人的には、キャラクターや世界に魅力が強いこの手の作品は、映画ではなく連続ドラマとして、長く見ていたいと思わされるタイプだ。
興味のある人なら、見て損はないだろう。機会があればどうぞ。
蛇足:
最近の『虹の女神』『7月24日通りのクリスマス』『のだめカンタービレ』それに本作と、それぞれが全然別人に見えてしまう、上野樹里の引き出しの多さには感心する一方、では『出口のない海』での棒読みは何だったんだとも思う。現代人限定の演技センスなのか?
公式サイト
田舎町で小さな電気屋を営む父親(沢田研二)と、その娘の三姉妹(長女:本上まなみ、次女:上野樹里、三女:中村静香)との父娘関係を中心に、周囲の人々との関わりで成長していく次女・怜を主人公としたヒューマンドラマ。
まず、三姉妹それぞれの、ある程度わかりやすく大別されていながら、ステレオタイプにならない"人間"としての内面を、ひとつの事象に対する個々の見解や対応として的確に描写されている、リアルにディフォルメされたキャラクターの書き分けが上手い。
それは、物語のメインとなる"娘から見た父親像"を、一面的なものに終わらせず、多面的な深みを生じさせる役割を果たしており、娘を一人ではなく三人に設定した意図が、単に絵面的な華やかさだけではない事が充分によくわかる。
主人公が父親に抱いていた印象、感情が、帰省して改めて家族や町の人々と触れ合う中で、徐々に変質していき、主人公の精神的な成長を見せる、この流れも良くしたもので、監督、脚本ともに手がけた安田真奈の、自身の内面を投影したとも見て取れる、女性キャラクターの人間描写は秀逸だ。
和歌山を舞台にした物語において、登場人物達の話す極めて自然な方言もまた、人間をリアルに感じさせる役割を果たしている。
これは、関西人である監督のこだわりによって、主人公一家をはじめとする、"地元住人役"の役者を全て関西出身、あるいは在住経験のある人間で揃えた事で成し得たもので、より自然な演技が見られる結果となり、作品世界をリアルなものとして捉える事が出来るようになっている。
特に主人公は、東京の場面では標準語を話すが感情的になると訛りが出てきてしまったり、逆に帰省後の場面では、地元の言葉を話しながら、所々で"東京語"になってしまうなど、"関西から東京へ仕事に出ている人間"をリアルに表現しており、非常に芸が細かい。兵庫県出身の上野樹里ならではの仕事ぶりだ。
その様な、台詞回しや感情表現での、"人間の見せ方"は非常に上手く、これは演者のセンスはもちろんとして、監督の演出、演技指導の確かさが如実に現われているものだ。
特別な悪人の登場しない、自然に感情移入出来る人々の住む作品世界は魅力的なもので、見ているだけで心地いい気分にさせてくれる。
が、そうした"人間"の出来の良さに比して、全体的なストーリー構成に、食い足りなさを感じるのが残念なところ。
頑固オヤジ、男友達、偏屈な婆さん、変わり者の常連達、など、それぞれと主人公の関わりはいいのだが、それら相互に今ひとつまとまりがなく、全体的に散漫な印象を受けてしまうのだ。
父親の浮気エピソードも、各姉妹の思惑や反応などの表現はリアルで面白いものだったが、中途半端に長く引っ張りすぎな感もある。
と、いくつか引っかかる部分もあるにはあるが、先述の通り"人間ドラマ"としては上質であり、充分に楽しめるものである事は間違いない。
個人的には、キャラクターや世界に魅力が強いこの手の作品は、映画ではなく連続ドラマとして、長く見ていたいと思わされるタイプだ。
興味のある人なら、見て損はないだろう。機会があればどうぞ。
蛇足:
最近の『虹の女神』『7月24日通りのクリスマス』『のだめカンタービレ』それに本作と、それぞれが全然別人に見えてしまう、上野樹里の引き出しの多さには感心する一方、では『出口のない海』での棒読みは何だったんだとも思う。現代人限定の演技センスなのか?
2006年11月29日
エコール 70点(100点満点中)
かわいいは正義
公式サイト
かつてダリオ・アルジェント監督のホラー映画『サスペリア』の原案にもなった、フランク・ヴェーデキントの小説『ミネハハ』を、今回は原作に近いかたちで映画化。
人里離れた山奥にある寮へ送られてきた少女イリス。そこは外界から完全に遮断された"学校"だった。1年生から6年生までの各一人ずつの少女が一棟の寮で生活し、少女の世話をする使用人も、生物やダンスを教える教師も、全てが女性のみ。ツインテールを結ぶリボンの色で学年が示され、紫リボンの6年生だけが、夜になるとどこかへ出かけていく。そんな奇妙な世界が淡々と叙情的に描かれていく。
最初は"赤リボンの新入生"イリスを中心に据えた話で、謎の場所へ送られてきた、少女の戸惑いや不安を描き、彼女視点で見た学校や生徒の様子を見せる事で、いろいろな謎が提示される。
続いて中盤では"青リボンの4年生"アリスの物語へとシフトし、"青リボン"の中から毎年一人だけ選ばれる、謎の審査のエピソードを通じ、いくつかの謎への解答が見せられつつも、更なる謎も増えていき、同時に教師達の内面も少しずつ描かれていく。
そして最後は"紫リボンの最上級生"ビアンカがメインとなり、夜に出かけていく、その先での出来事がある程度明らかになり、それでも謎を抱えたまま"卒業"していく、大別して3つに分かれた構成となっている。
これは、一人の少女を主人公に据えて、新入生が成長し卒業するまでをダイジェスト的に構成するやり方から一歩踏み込んで、同時に存在する学年の異なる少女達を、視点の切り替わる境界を曖昧にしながら順を追って見せていく事で、"永遠にループする閉ざされた世界"を表現しているのだろう。
その狙いは見事に成功しており、各キャラクターへ自然と感情移入し、成長を見守った気になってしまう、と同時に学校に対する疑念は最後まで氷解されない、この脚本構成は見事だ。
本作、景色のいいロケーションで、少女達の天真爛漫な素顔が微笑ましい、芸術的なまでに美しい映像からは目が離せず、決して『サスペリア』の様なホラー映画ではないはずなのだが、最初から最後まで、全編通じて物凄く恐い。
少女達の世話をする老婆も、教師も、ともに元は"生徒"だったのではないかと匂わされる恐ろしさ、青リボンから選ばれた一人が、何のためにどこへ行ってしまうのか全く語られない恐ろしさ、"卒業"した少女達が、一見は"開放"を描いてる様に見せつつ、噴水でパンツ丸出しではしゃぐ彼女達を見る男の視線や、噴出する水流が象徴するもの、それに手を添える少女、そこに近づく男、と、閉ざされた世界で何も知らずに育ってしまった、無垢な少女達の将来に対し、あまりに不安な影を感じさせる、暗喩的描写の恐ろしさ、と、見ている側が不安でたまらない、そんな展開・描写に終始しているのだ。
これは、"無垢な処女"を描くとともに、女という性が持つ妖しさ、恐ろしさをも表現し、尚かつ受け手側にいろいろな推測を巡らさせる、原作の持つテイストを再現したものであり秀逸だ。
1年生〜6年生の少女達が、堂々とパンツやハダカを見せまくる映像が続出するため、その筋のヒト達からも注目を受けている本作、もちろんそれも見どころの一つなのだろうが、それだけに終わらない、特殊な状況下での"少女の成長"を独特の視点・手法で描いた、良質の作品である。
説明やオチが無くても映画を楽しめる頭を持った人なら、機会があれば恥ずかしがらずにどうぞ。
公式サイト
かつてダリオ・アルジェント監督のホラー映画『サスペリア』の原案にもなった、フランク・ヴェーデキントの小説『ミネハハ』を、今回は原作に近いかたちで映画化。
人里離れた山奥にある寮へ送られてきた少女イリス。そこは外界から完全に遮断された"学校"だった。1年生から6年生までの各一人ずつの少女が一棟の寮で生活し、少女の世話をする使用人も、生物やダンスを教える教師も、全てが女性のみ。ツインテールを結ぶリボンの色で学年が示され、紫リボンの6年生だけが、夜になるとどこかへ出かけていく。そんな奇妙な世界が淡々と叙情的に描かれていく。
最初は"赤リボンの新入生"イリスを中心に据えた話で、謎の場所へ送られてきた、少女の戸惑いや不安を描き、彼女視点で見た学校や生徒の様子を見せる事で、いろいろな謎が提示される。
続いて中盤では"青リボンの4年生"アリスの物語へとシフトし、"青リボン"の中から毎年一人だけ選ばれる、謎の審査のエピソードを通じ、いくつかの謎への解答が見せられつつも、更なる謎も増えていき、同時に教師達の内面も少しずつ描かれていく。
そして最後は"紫リボンの最上級生"ビアンカがメインとなり、夜に出かけていく、その先での出来事がある程度明らかになり、それでも謎を抱えたまま"卒業"していく、大別して3つに分かれた構成となっている。
これは、一人の少女を主人公に据えて、新入生が成長し卒業するまでをダイジェスト的に構成するやり方から一歩踏み込んで、同時に存在する学年の異なる少女達を、視点の切り替わる境界を曖昧にしながら順を追って見せていく事で、"永遠にループする閉ざされた世界"を表現しているのだろう。
その狙いは見事に成功しており、各キャラクターへ自然と感情移入し、成長を見守った気になってしまう、と同時に学校に対する疑念は最後まで氷解されない、この脚本構成は見事だ。
本作、景色のいいロケーションで、少女達の天真爛漫な素顔が微笑ましい、芸術的なまでに美しい映像からは目が離せず、決して『サスペリア』の様なホラー映画ではないはずなのだが、最初から最後まで、全編通じて物凄く恐い。
少女達の世話をする老婆も、教師も、ともに元は"生徒"だったのではないかと匂わされる恐ろしさ、青リボンから選ばれた一人が、何のためにどこへ行ってしまうのか全く語られない恐ろしさ、"卒業"した少女達が、一見は"開放"を描いてる様に見せつつ、噴水でパンツ丸出しではしゃぐ彼女達を見る男の視線や、噴出する水流が象徴するもの、それに手を添える少女、そこに近づく男、と、閉ざされた世界で何も知らずに育ってしまった、無垢な少女達の将来に対し、あまりに不安な影を感じさせる、暗喩的描写の恐ろしさ、と、見ている側が不安でたまらない、そんな展開・描写に終始しているのだ。
これは、"無垢な処女"を描くとともに、女という性が持つ妖しさ、恐ろしさをも表現し、尚かつ受け手側にいろいろな推測を巡らさせる、原作の持つテイストを再現したものであり秀逸だ。
1年生〜6年生の少女達が、堂々とパンツやハダカを見せまくる映像が続出するため、その筋のヒト達からも注目を受けている本作、もちろんそれも見どころの一つなのだろうが、それだけに終わらない、特殊な状況下での"少女の成長"を独特の視点・手法で描いた、良質の作品である。
説明やオチが無くても映画を楽しめる頭を持った人なら、機会があれば恥ずかしがらずにどうぞ。
2006年11月28日
ありがとう 40点(100点満点中)
映画紹介でオチまで言ってしまう人
公式サイト
阪神大震災で家も店舗も失った写真屋のオヤジが、町の復興に尽力し、自らもプロゴルファーとして新しい人生をスタートするという、実在のプロゴルファー・古市忠夫を題材にした、平山譲のノンフィクション小説『還暦ルーキー』を原作とした映画。
映画前半は、主人公の視点を中心に、震災の様子をリアルな特撮で見せるもので、後半は主人公が一念発起してプロゴルファーを目指す展開と、大きく2つに分かれた構成となっている。
宣伝などでは、震災の悲劇と町の復興を感動的に描いた物語という印象を受けるが、実はこの映画は阪神大震災そのものを描く物語ではなく、あくまでも、古市忠夫個人の数奇な運命を描いた物語である。
もちろんこれは、普通に観ていれば自然と気づく事ではあり、その点を誤解したまま最後まで観てしまった人が、後半のゴルフ部分に対して違和感を感じたまま、最後まで煮え切らなかったとも推測されるが、当然ながらそれは映画自体の責任ではない。
とはいえ、脚本構成にバランスの悪さを多分に感じる出来である事は間違いなく、それ以外にも問題点は多い。
まず、主人公のみならず、ほとんどの登場人物の芝居のクドさ、クサさがあまりにも強い点。
主演である赤井英和の演技はコントにしか見えないし、妻役の田中好子の台詞回しや行動もいちいち不自然で、本当なら感動して泣いてしまうような展開・台詞であっても、押し付けがましさや不自然さが感じられて冷めてしまう部分が多々ある。それは前半後半を問わず、全編通して同じだ。
演者の技量的な問題ももちろんあるが、それ以上に、演技指導の問題も大きいだろう。本作の監督・万田邦敏は、もともと本作の様な"ベタな感動もの"にはあまり向いておらず、人選に無理があったという事だろう。もっと自然な演技が出来る役者と、自然な演出が出来る監督を使うべきだったのだ。
また、こうした感動作においては、"人間"をしっかりと描き、観客の感情移入を誘う事が重要だが、本作ではそれが行えておらず、最後まで誰にも感情移入できない結果となってしまっている。
主人公がゴルフ好きで結構上手いという基本設定が、冒頭テロップで説明されるだけで、いきなり震災のシーンから始まってしまうため、後半ゴルファーを目指す展開への説得力が薄い。
まず最初に、主人公のゴルフ好きと上手さをある程度見せておいて、平和な描写が少しあってから震災の場面に持っていく方が、流れの緩急やギャップで観客を引き込む事が出来ただろうし、後半への伏線ともなったはずだ。
主人公のみならず、重要キャラらしい人物が、特に説明も無く突然出てきてしまうのも問題だ。
大切な友達が死んで悲しい流れにするならば、主人公と友達がどれくらいの仲だったのかを先に見せておかなければ、後から回想で見せるだけでは、あまりに取って付けた感が強い。芝居がクドくてクサいので尚更だ。
後半で登場する、一緒にプロテストを受ける知人の登場もあまりに唐突で、しかも登場する意味自体がほとんどない有様だ。一応、主人公の苦悩を象徴的に反映させる役割は果たしているが、それが上手く成功しているとは思えない。
また、プロテストの様子も、最後以外は特に大きな波も無く、淡々と進んでしまっているため、長い時間をかけている割には楽しめる部分が少なく、無駄に冗長すぎるし、冒頭で先に結果を見せてしまっているため、ドキドキもハラハラもしないのは問題だ。
この様に、ドラマとしての完成度はあまりにも低く、全体的には評価出来たものではないが、前半の震災場面の特撮映像の出来はかなりのもので、実際の当時の映像を交え、崩壊し延焼する長田区の様子は臨場感たっぷりに描かれており、この部分に限っては、見て損する事は無い映像であると、高く評価出来る。
と言っても、やはり芝居のクドさクサさに変わりはなく、せっかくの映像に水を差してしまっているのも事実。どうにかならなかったものか。
特撮映像好きなら震災場面は必見だが、それ以外は残念ながら、あまりオススメ出来ない。題材は悪くないだけに、勿体ない作品だ。
公式サイト
阪神大震災で家も店舗も失った写真屋のオヤジが、町の復興に尽力し、自らもプロゴルファーとして新しい人生をスタートするという、実在のプロゴルファー・古市忠夫を題材にした、平山譲のノンフィクション小説『還暦ルーキー』を原作とした映画。
映画前半は、主人公の視点を中心に、震災の様子をリアルな特撮で見せるもので、後半は主人公が一念発起してプロゴルファーを目指す展開と、大きく2つに分かれた構成となっている。
宣伝などでは、震災の悲劇と町の復興を感動的に描いた物語という印象を受けるが、実はこの映画は阪神大震災そのものを描く物語ではなく、あくまでも、古市忠夫個人の数奇な運命を描いた物語である。
もちろんこれは、普通に観ていれば自然と気づく事ではあり、その点を誤解したまま最後まで観てしまった人が、後半のゴルフ部分に対して違和感を感じたまま、最後まで煮え切らなかったとも推測されるが、当然ながらそれは映画自体の責任ではない。
とはいえ、脚本構成にバランスの悪さを多分に感じる出来である事は間違いなく、それ以外にも問題点は多い。
まず、主人公のみならず、ほとんどの登場人物の芝居のクドさ、クサさがあまりにも強い点。
主演である赤井英和の演技はコントにしか見えないし、妻役の田中好子の台詞回しや行動もいちいち不自然で、本当なら感動して泣いてしまうような展開・台詞であっても、押し付けがましさや不自然さが感じられて冷めてしまう部分が多々ある。それは前半後半を問わず、全編通して同じだ。
演者の技量的な問題ももちろんあるが、それ以上に、演技指導の問題も大きいだろう。本作の監督・万田邦敏は、もともと本作の様な"ベタな感動もの"にはあまり向いておらず、人選に無理があったという事だろう。もっと自然な演技が出来る役者と、自然な演出が出来る監督を使うべきだったのだ。
また、こうした感動作においては、"人間"をしっかりと描き、観客の感情移入を誘う事が重要だが、本作ではそれが行えておらず、最後まで誰にも感情移入できない結果となってしまっている。
主人公がゴルフ好きで結構上手いという基本設定が、冒頭テロップで説明されるだけで、いきなり震災のシーンから始まってしまうため、後半ゴルファーを目指す展開への説得力が薄い。
まず最初に、主人公のゴルフ好きと上手さをある程度見せておいて、平和な描写が少しあってから震災の場面に持っていく方が、流れの緩急やギャップで観客を引き込む事が出来ただろうし、後半への伏線ともなったはずだ。
主人公のみならず、重要キャラらしい人物が、特に説明も無く突然出てきてしまうのも問題だ。
大切な友達が死んで悲しい流れにするならば、主人公と友達がどれくらいの仲だったのかを先に見せておかなければ、後から回想で見せるだけでは、あまりに取って付けた感が強い。芝居がクドくてクサいので尚更だ。
後半で登場する、一緒にプロテストを受ける知人の登場もあまりに唐突で、しかも登場する意味自体がほとんどない有様だ。一応、主人公の苦悩を象徴的に反映させる役割は果たしているが、それが上手く成功しているとは思えない。
また、プロテストの様子も、最後以外は特に大きな波も無く、淡々と進んでしまっているため、長い時間をかけている割には楽しめる部分が少なく、無駄に冗長すぎるし、冒頭で先に結果を見せてしまっているため、ドキドキもハラハラもしないのは問題だ。
この様に、ドラマとしての完成度はあまりにも低く、全体的には評価出来たものではないが、前半の震災場面の特撮映像の出来はかなりのもので、実際の当時の映像を交え、崩壊し延焼する長田区の様子は臨場感たっぷりに描かれており、この部分に限っては、見て損する事は無い映像であると、高く評価出来る。
と言っても、やはり芝居のクドさクサさに変わりはなく、せっかくの映像に水を差してしまっているのも事実。どうにかならなかったものか。
特撮映像好きなら震災場面は必見だが、それ以外は残念ながら、あまりオススメ出来ない。題材は悪くないだけに、勿体ない作品だ。
2006年11月27日
めぐみ 引き裂かれた家族の30年 40点(100点満点中)
よくチョン切れるハサミだ
公式サイト
北朝鮮による日本人拉致問題を、被害者の一人である横田めぐみさんを中心に追ったドキュメント映画。
本作は、日本人が日本人向けに製作したものではなく、アメリカを中心とした日本以外の市場に向けてアメリカ人が製作した作品である。
そのため、和楽器を用いた雅楽・邦楽風のBGMや、日本的風景を強調するイメージ映像など、"アメリカ人が日本に抱いている印象"による演出に対して、少なからぬ違和感を感じる人も多いだろう。
が、日本向けでない事を考慮して見れば、ドキュメントとしての完成度は高い。
関係者の証言、当時の報道の映像や紙面など、"事実"が明らかになっていく様を順を追ってテンポ良く提示し、被害者家族の行動や、それに対する世間や政治・行政の対応などをわかりやすくまとめており、めぐみさんがコーラス部員として歌った歌詞と、めぐみさんを襲った運命をクロスオーバーさせるなど、劇的な演出も上手く、まるで我が事の様に、何度も切なさや憤りを感じてしまう、編集・構成はよく出来たものだ。
もっとも、内容的には、現在までに日本の報道や情報番組、雑誌などで既出の事実ばかりであり、もともと本件に興味を持っていた日本人には、特に目新しい発見は無い。
そんな、もともと日本人向けでない本作を、わざわざ日本で劇場公開する意義はどこにあるのだろうか。
これまで興味はあったが、あまりよく知らなかった、という人達に広く見てもらいたいのならば、上映館と時間を調べて予定を立て、自宅から劇場まで足を運び、千円を超える料金を払わなければ見る事が出来ない、そんなあまりに敷居の高い状況は、適当とは言えない。
全てがビデオ撮りで、画質もビデオのままな映像を、劇場の大画面で見る必要も無い。
地上波でのテレビ放送の形態をとった方が、より沢山の人達に見てもらう事が出来、問題意識を高めるアピールとなったのではないか。
大した事も書いていないのに千円もするパンフレットなど、作品自体の出来不出来は別として、あまりに商業的な側面が強く感じられ、素直に受け止め難くしてしまっている現状は、製作者や当事者にとっても本意ではないだろう。
繰り返すが、ドキュメントとしての完成度は決して低くはない。テレビ用作品としてなら、30点ほどプラスしてもいいだろう。だが、劇場で金をとって見せる作品としては、疑問を持たざるを得ない。
公式サイト
北朝鮮による日本人拉致問題を、被害者の一人である横田めぐみさんを中心に追ったドキュメント映画。
本作は、日本人が日本人向けに製作したものではなく、アメリカを中心とした日本以外の市場に向けてアメリカ人が製作した作品である。
そのため、和楽器を用いた雅楽・邦楽風のBGMや、日本的風景を強調するイメージ映像など、"アメリカ人が日本に抱いている印象"による演出に対して、少なからぬ違和感を感じる人も多いだろう。
が、日本向けでない事を考慮して見れば、ドキュメントとしての完成度は高い。
関係者の証言、当時の報道の映像や紙面など、"事実"が明らかになっていく様を順を追ってテンポ良く提示し、被害者家族の行動や、それに対する世間や政治・行政の対応などをわかりやすくまとめており、めぐみさんがコーラス部員として歌った歌詞と、めぐみさんを襲った運命をクロスオーバーさせるなど、劇的な演出も上手く、まるで我が事の様に、何度も切なさや憤りを感じてしまう、編集・構成はよく出来たものだ。
もっとも、内容的には、現在までに日本の報道や情報番組、雑誌などで既出の事実ばかりであり、もともと本件に興味を持っていた日本人には、特に目新しい発見は無い。
そんな、もともと日本人向けでない本作を、わざわざ日本で劇場公開する意義はどこにあるのだろうか。
これまで興味はあったが、あまりよく知らなかった、という人達に広く見てもらいたいのならば、上映館と時間を調べて予定を立て、自宅から劇場まで足を運び、千円を超える料金を払わなければ見る事が出来ない、そんなあまりに敷居の高い状況は、適当とは言えない。
全てがビデオ撮りで、画質もビデオのままな映像を、劇場の大画面で見る必要も無い。
地上波でのテレビ放送の形態をとった方が、より沢山の人達に見てもらう事が出来、問題意識を高めるアピールとなったのではないか。
大した事も書いていないのに千円もするパンフレットなど、作品自体の出来不出来は別として、あまりに商業的な側面が強く感じられ、素直に受け止め難くしてしまっている現状は、製作者や当事者にとっても本意ではないだろう。
繰り返すが、ドキュメントとしての完成度は決して低くはない。テレビ用作品としてなら、30点ほどプラスしてもいいだろう。だが、劇場で金をとって見せる作品としては、疑問を持たざるを得ない。
2006年11月26日
ヅラ刑事 50点(100点満点中)
ザ・ハゲスター
公式サイト
愛すべき脱力系バカ映画をひたすら作り続けている、オンリーワンのカルト監督・河崎実の最新作。
主演="ヅラ刑事"はモト冬樹。主演以外の刑事達も、"チビ刑事"になべやかん、"デブ刑事"にウガンダ、"デカチン刑事"にイヂリー岡田など、企画が先にあって役者を決めたのか、役者を決めてから企画を立てたのか、このタイトル、このキャラならこの人しかいないと誰にも思わせる、文句なしのベストキャスティングだ。
ヅラを投げつけ攻撃する必殺技・モトヅラッガーの使い手である、主人公・ヅラ刑事が、個性的な刑事ばかりの花曲署に赴任してきた。それと時を同じくして、核燃料を積んだトラックがテロリストに襲撃され、犯行声明が何故か花曲署に届き、ヅラ刑事達の捜査が開始されるが…というストーリー。
と言っても、いつもの河崎実作品と同様、バカバカしいキャラクター達がバカバカしい行動を取るバカバカしいお話を、「バカバカしいなぁ〜」と楽しむ事が目的の作品であり、例によってストーリーなんかどうでもいいのだ。
モトヅラッガーの飛行音がアイスラッガーのそれと同じだったり、オープニング映像が昭和の刑事ドラマのパロディだったりと、ヌル〜いパロディをヌル〜く楽しんだり、所々にエキストラ的に登場する、河崎実本人や破李拳竜、きくち英一、萩原佐代子などを見つけてニヤリとしたり、河崎作品では定番の"人が車に轢かれる"場面に失笑したり、同じく定番ネタとして、途中でいきなりフルコーラスで歌が歌われたり、演技の出来ないドクター中松に長台詞を喋らせてみるなどなど、いつもの河崎作品ならではの楽しみも充実。
"イケメン刑事"を演じる桐島優介と、テロリスト役の堀内正美が、『ウルトラマンネクサス』出演時とはそれぞれ追う側と追われる側が逆の立場となっていたり、無理のある女子高生役ヒロインとして登場する江口ヒロミが、長年アイドルをたくさん扱いながら、女性を美しく撮る事が苦手な河崎実のせいで、いつにも増してあまり美しくない(控えめな表現)映りだったり、終盤にはサンビーム500似の謎の武器が無意味に登場するなど、特撮ファン向けの楽しみも充実。(さとう珠緒のゲスト出演は、桐島と江口の事務所つながりか?)
"いつもの河崎実作品"と、そう表現するしかない、本当に"いつもの河崎作品"レベルの作品だ。
『日本以外全部沈没』以外の、通常の河崎作品を楽しめる人にはオススメするが、普通の人にはオススメできない、まさにカルト的作品と言えるだろう。お好きな人はどうぞ。
独り言:
本作での江口ヒロミを見てつくづく、『劇場版セイザーX』で、彼女をあそこまで奇麗に撮った大森一樹の、"女優を美しく撮るセンス"の凄さをまざまざと思い知った気分だ。
主題歌が気に入ったのでCD購入予定。
公式サイト
愛すべき脱力系バカ映画をひたすら作り続けている、オンリーワンのカルト監督・河崎実の最新作。
主演="ヅラ刑事"はモト冬樹。主演以外の刑事達も、"チビ刑事"になべやかん、"デブ刑事"にウガンダ、"デカチン刑事"にイヂリー岡田など、企画が先にあって役者を決めたのか、役者を決めてから企画を立てたのか、このタイトル、このキャラならこの人しかいないと誰にも思わせる、文句なしのベストキャスティングだ。
ヅラを投げつけ攻撃する必殺技・モトヅラッガーの使い手である、主人公・ヅラ刑事が、個性的な刑事ばかりの花曲署に赴任してきた。それと時を同じくして、核燃料を積んだトラックがテロリストに襲撃され、犯行声明が何故か花曲署に届き、ヅラ刑事達の捜査が開始されるが…というストーリー。
と言っても、いつもの河崎実作品と同様、バカバカしいキャラクター達がバカバカしい行動を取るバカバカしいお話を、「バカバカしいなぁ〜」と楽しむ事が目的の作品であり、例によってストーリーなんかどうでもいいのだ。
モトヅラッガーの飛行音がアイスラッガーのそれと同じだったり、オープニング映像が昭和の刑事ドラマのパロディだったりと、ヌル〜いパロディをヌル〜く楽しんだり、所々にエキストラ的に登場する、河崎実本人や破李拳竜、きくち英一、萩原佐代子などを見つけてニヤリとしたり、河崎作品では定番の"人が車に轢かれる"場面に失笑したり、同じく定番ネタとして、途中でいきなりフルコーラスで歌が歌われたり、演技の出来ないドクター中松に長台詞を喋らせてみるなどなど、いつもの河崎作品ならではの楽しみも充実。
"イケメン刑事"を演じる桐島優介と、テロリスト役の堀内正美が、『ウルトラマンネクサス』出演時とはそれぞれ追う側と追われる側が逆の立場となっていたり、無理のある女子高生役ヒロインとして登場する江口ヒロミが、長年アイドルをたくさん扱いながら、女性を美しく撮る事が苦手な河崎実のせいで、いつにも増してあまり美しくない(控えめな表現)映りだったり、終盤にはサンビーム500似の謎の武器が無意味に登場するなど、特撮ファン向けの楽しみも充実。(さとう珠緒のゲスト出演は、桐島と江口の事務所つながりか?)
"いつもの河崎実作品"と、そう表現するしかない、本当に"いつもの河崎作品"レベルの作品だ。
『日本以外全部沈没』以外の、通常の河崎作品を楽しめる人にはオススメするが、普通の人にはオススメできない、まさにカルト的作品と言えるだろう。お好きな人はどうぞ。
独り言:
本作での江口ヒロミを見てつくづく、『劇場版セイザーX』で、彼女をあそこまで奇麗に撮った大森一樹の、"女優を美しく撮るセンス"の凄さをまざまざと思い知った気分だ。
主題歌が気に入ったのでCD購入予定。
2006年11月25日
弓 80点(100点満点中)
完全なる飼育
公式サイト
異色作を作り続け、世界的には高い評価を得ながらも、本国では不遇な扱いを受けているキム・ギドク監督作品。
海上に浮かぶ一隻の老朽船で生活する老人と、幼い頃に連れて来られ、そのまま一度も陸に上がらず生きてきた少女。彼女が17歳になったら結婚すると誓いを立てている老人は、釣り船として開放されている船上で、少女に手を出そうとする客を弓矢で威嚇し、その弓を胡弓として少女に曲を奏でていた。老人は少女を愛で、少女も老人を信頼していた、そんな2人の奇妙な世界に、客としてやって来た一人の青年が入り込んでくる…というストーリー。
最初から最後まで、海の上から動かずに進められるこの物語は、寓話的形態を採りつつ、人間の心理をリアルに描いている。
ほとんど言葉を発しない老人と少女の、表情で感情を表現し観客に伝える演技力と演出力は秀逸で、特に少女を演じるハン・ヨルムの眼力には魅了される。
同じくキム・ギドク監督作品『サマリア』にも出演している彼女、決して美人ではないものの、独特の雰囲気と存在感が印象的で、本作でもその魅力は存分に感じられる。(福井裕佳梨にどことなく似ている気もするが)
それまで客に見せていた表情が、無機質な微笑であったのに対し、青年を一目見てからというもの、青年にだけは、好意的な笑顔を通り越して、媚態とも言うべき表情まで見せる。
青年と出会うまでは、老人に全幅の信頼を寄せ、天使の様な笑顔で接していながら、青年を見初めると同時に老人の干渉は"拘束"となり、たちまち嫌悪の表情へと変化する。
本作の展開は、この"表情"をひたすら追う事が最重点であり、全編通してその表情変化からは目が離せず、言葉による説明に極力頼らず、出来る限りを映像で観客に伝える、キム・ギドクの力量には感服せざるを得ない。
展開の節目節目に何度も挿入される、湯浴場面やブランコで揺れる少女目掛けて矢を放つ"弓矢占い"など、あらゆるシーンで老人と少女の心理的距離感が象徴的に表現される、計算された演出・構成も見事だ。
そして、舞台そのものが寓話的心理劇であった本作は、終盤において、その内容までもがファンタジックな方向へと推移していく事となる。
少女を拉致監禁し自分だけのものにしようと目論む、老人の性的欲望が展開とともに昂りつつ終局し、誰もが予想し得なかったかたちで結実する、あらゆる意味で意表を突かれるクライマックスは素晴らしい。
先述の湯浴場面において、序盤から既にフルヌード(乳首は見えないが)を晒しているはずの少女が、終盤にて、究極とも言うべき美とエロティシズムの融合を見せ、劇中の青年と同様、観客の眼を釘付けにする。(乳首も一瞬見える)この映像美は驚嘆の一言。
日本において韓国映画と言えば、お涙頂戴の陳腐な感動押しつけ映画が多い中、凡百のその様な作品とは全く次元の異なる良作だ。
本作のみならず、キム・ギドク作品は映画好きなら必見。余計な偏見を捨ててお試しあれ。
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異色作を作り続け、世界的には高い評価を得ながらも、本国では不遇な扱いを受けているキム・ギドク監督作品。
海上に浮かぶ一隻の老朽船で生活する老人と、幼い頃に連れて来られ、そのまま一度も陸に上がらず生きてきた少女。彼女が17歳になったら結婚すると誓いを立てている老人は、釣り船として開放されている船上で、少女に手を出そうとする客を弓矢で威嚇し、その弓を胡弓として少女に曲を奏でていた。老人は少女を愛で、少女も老人を信頼していた、そんな2人の奇妙な世界に、客としてやって来た一人の青年が入り込んでくる…というストーリー。
最初から最後まで、海の上から動かずに進められるこの物語は、寓話的形態を採りつつ、人間の心理をリアルに描いている。
ほとんど言葉を発しない老人と少女の、表情で感情を表現し観客に伝える演技力と演出力は秀逸で、特に少女を演じるハン・ヨルムの眼力には魅了される。
同じくキム・ギドク監督作品『サマリア』にも出演している彼女、決して美人ではないものの、独特の雰囲気と存在感が印象的で、本作でもその魅力は存分に感じられる。(福井裕佳梨にどことなく似ている気もするが)
それまで客に見せていた表情が、無機質な微笑であったのに対し、青年を一目見てからというもの、青年にだけは、好意的な笑顔を通り越して、媚態とも言うべき表情まで見せる。
青年と出会うまでは、老人に全幅の信頼を寄せ、天使の様な笑顔で接していながら、青年を見初めると同時に老人の干渉は"拘束"となり、たちまち嫌悪の表情へと変化する。
本作の展開は、この"表情"をひたすら追う事が最重点であり、全編通してその表情変化からは目が離せず、言葉による説明に極力頼らず、出来る限りを映像で観客に伝える、キム・ギドクの力量には感服せざるを得ない。
展開の節目節目に何度も挿入される、湯浴場面やブランコで揺れる少女目掛けて矢を放つ"弓矢占い"など、あらゆるシーンで老人と少女の心理的距離感が象徴的に表現される、計算された演出・構成も見事だ。
そして、舞台そのものが寓話的心理劇であった本作は、終盤において、その内容までもがファンタジックな方向へと推移していく事となる。
少女を拉致監禁し自分だけのものにしようと目論む、老人の性的欲望が展開とともに昂りつつ終局し、誰もが予想し得なかったかたちで結実する、あらゆる意味で意表を突かれるクライマックスは素晴らしい。
先述の湯浴場面において、序盤から既にフルヌード(乳首は見えないが)を晒しているはずの少女が、終盤にて、究極とも言うべき美とエロティシズムの融合を見せ、劇中の青年と同様、観客の眼を釘付けにする。(乳首も一瞬見える)この映像美は驚嘆の一言。
日本において韓国映画と言えば、お涙頂戴の陳腐な感動押しつけ映画が多い中、凡百のその様な作品とは全く次元の異なる良作だ。
本作のみならず、キム・ギドク作品は映画好きなら必見。余計な偏見を捨ててお試しあれ。
2006年11月24日
ハリヨの夏 50点(100点満点中)
国松さまのお通りだい
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1990年夏の京都を舞台に、17歳の少女の心の成長を描いた映画。監督は本作が初の長編作品となる中村真夕。
"ハリヨ"とは、劇中にて主人公が父親からプレゼントされる淡水魚の名称。この魚の成長、生態とが、主人公の行動、運命、決断として描かれる事象に暗喩される象徴となっている。
物語の展開と、そのための登場人物の配置、それらに合わせて進む主人公の心理変化など、全てが無駄なく有機的に絡み合い、ひとつの結論へと導かれていく、全体的な構成にはそつがなく、脚本だけで何年もかけた、と言うだけの事はある。
基本的に全てが主人公の視点を通じて提示される、その私小説的手法も上手くマッチしており、女性が作っただけ合って、女の心理描写はかなりリアル。特に主人公とその母の、共依存と見ても穿ちすぎではない、その"互いに都合のいい"関係は、監督の本音というか願望さえ感じられるものだ。
"少女の妊娠"を肯定的に扱った作品ながら、現在放送されているテレビドラマ『14才の母』の様な押し付けがましい偽善的な不快さどころか、全く嫌みが無いのがありがたい。この辺りは"女の自立"という命題に対し、まだ希望的観測が多分にある年代の監督ならではだろう。
それとは逆に、登場する男性陣がぞんざいな扱いなのは、引っかかるところでもある。同級生の水泳部員も、父親も、主人公の人生に大きな転機を与えるアメリカ人も、総じて"肝心なところで頼りにならない、究極的には不要な存在"として描かれているのだ。この辺りは女性観と同様、監督の男性観がそのまま作品に現われていると推測される。
身近でリアルな世界に、身近でリアルな人物ばかりが登場する作品中において、一人特異な位置づけで違和感を感じるアメリカ人男性も気になる存在だ。当初、主人公は彼を嫌悪し拒絶しているが、次第に心を許す様になり、しかし結局は見捨てられる(あるいは自分から見限る)、この距離感と心理の変化が生々しく描かれており、これもまた、アメリカの大学に留学していた監督の、実体験に基づく観念によるものなのだろうか。
作中の年代が90年とされているのは、主人公の父母が学生運動世代で、アメリカ人男性はベトナム戦争での従軍経験者であるという、この人物設定のためであるのは明白だ。(あるいは携帯電話を出したくなかったのかもしれない)
その人物設定と物語全体の流れから、60〜70年代反米左翼的な空気が作中の至る所で感じられ、その時代を現実に経験していない世代である監督の、実態の伴わない頭でっかちな思想あるいは主張が痛々しいのも事実で、この点に関しては、あまり評価できたものではない。
主として鴨川周辺で撮影が行われ、橋、土手、河原、川の中、あるいはそれぞれの上、下、中、と、様々な位置に人物を配置し、様々な角度、方向から撮られ、情感を重視した長回し気味のカットを多用した映像はよく出来ている。
主人公を演じた於保佐代子の自然な演技は見事で、関西出身でないにも関わらず全く違和感のない関西弁も素晴らしい。若い頃の遠藤久美子を彷彿とさせる、ボーイッシュな容姿も魅力的で、将来が楽しみな人材だ。
地味な内容ながら、監督の意欲は強く感じる本作。興味のある人は機会があれば。
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1990年夏の京都を舞台に、17歳の少女の心の成長を描いた映画。監督は本作が初の長編作品となる中村真夕。
"ハリヨ"とは、劇中にて主人公が父親からプレゼントされる淡水魚の名称。この魚の成長、生態とが、主人公の行動、運命、決断として描かれる事象に暗喩される象徴となっている。
物語の展開と、そのための登場人物の配置、それらに合わせて進む主人公の心理変化など、全てが無駄なく有機的に絡み合い、ひとつの結論へと導かれていく、全体的な構成にはそつがなく、脚本だけで何年もかけた、と言うだけの事はある。
基本的に全てが主人公の視点を通じて提示される、その私小説的手法も上手くマッチしており、女性が作っただけ合って、女の心理描写はかなりリアル。特に主人公とその母の、共依存と見ても穿ちすぎではない、その"互いに都合のいい"関係は、監督の本音というか願望さえ感じられるものだ。
"少女の妊娠"を肯定的に扱った作品ながら、現在放送されているテレビドラマ『14才の母』の様な押し付けがましい偽善的な不快さどころか、全く嫌みが無いのがありがたい。この辺りは"女の自立"という命題に対し、まだ希望的観測が多分にある年代の監督ならではだろう。
それとは逆に、登場する男性陣がぞんざいな扱いなのは、引っかかるところでもある。同級生の水泳部員も、父親も、主人公の人生に大きな転機を与えるアメリカ人も、総じて"肝心なところで頼りにならない、究極的には不要な存在"として描かれているのだ。この辺りは女性観と同様、監督の男性観がそのまま作品に現われていると推測される。
身近でリアルな世界に、身近でリアルな人物ばかりが登場する作品中において、一人特異な位置づけで違和感を感じるアメリカ人男性も気になる存在だ。当初、主人公は彼を嫌悪し拒絶しているが、次第に心を許す様になり、しかし結局は見捨てられる(あるいは自分から見限る)、この距離感と心理の変化が生々しく描かれており、これもまた、アメリカの大学に留学していた監督の、実体験に基づく観念によるものなのだろうか。
作中の年代が90年とされているのは、主人公の父母が学生運動世代で、アメリカ人男性はベトナム戦争での従軍経験者であるという、この人物設定のためであるのは明白だ。(あるいは携帯電話を出したくなかったのかもしれない)
その人物設定と物語全体の流れから、60〜70年代反米左翼的な空気が作中の至る所で感じられ、その時代を現実に経験していない世代である監督の、実態の伴わない頭でっかちな思想あるいは主張が痛々しいのも事実で、この点に関しては、あまり評価できたものではない。
主として鴨川周辺で撮影が行われ、橋、土手、河原、川の中、あるいはそれぞれの上、下、中、と、様々な位置に人物を配置し、様々な角度、方向から撮られ、情感を重視した長回し気味のカットを多用した映像はよく出来ている。
主人公を演じた於保佐代子の自然な演技は見事で、関西出身でないにも関わらず全く違和感のない関西弁も素晴らしい。若い頃の遠藤久美子を彷彿とさせる、ボーイッシュな容姿も魅力的で、将来が楽しみな人材だ。
地味な内容ながら、監督の意欲は強く感じる本作。興味のある人は機会があれば。