2007年01月

2007年01月31日

幸福な食卓 40点(100点満点中)

リリカルコミカル恋するとろける み・ら・く・る・み♪
公式サイト

瀬尾まいこの同名小説を映画化。主演はもろこし体操のCMで知られる様になった北乃きい

タイトル通り、"食卓"がメイン舞台の一つとなる本作、主人公である地味な中学生、佐和子の一家は、毎朝家族4人で食事をとる事をルールとしていたが、そのルールを決めた母親が何故か別居中、父親は突然「父親である事をやめる」と宣言し、兄はいきなり農業を始める。主人公以外が壊れ始めていく、奇妙な家族模様をベースに、少女の青春の成長を描いたストーリー。

何よりもまず、主演の北乃きいが、これまでに出演したどんな作品よりも可愛く撮られている事が、本作の大きな特色だろう。

何故か30代のオバサンにしか見えなかったもろこし体操や、髪型やおかしな脚本のせいで印象の悪かった『14才の母』などとは違い、"地味に可愛い"リアルな中学生の姿がそこにあり、家族や周囲の人間など、それぞれに対して様々な状況に応じて見せる、表情の機微を上手く捉え、彼女の魅力を余すところ無く伝えており、ファンならずとも、その可愛さに見入ってしまうだろう。

"気になる男の子"が、自分に向けて何気なく言った言葉を、一人になった時に口に出して反芻する、といった、青春の恋愛のこっ恥ずかしさもよく表現出来ており、見ているだけで懐かしい気分にさせられたりもする。

ストーリー上、基本的に暗く沈んだ表情が多いのだが、それによって、時に笑顔を見せた時のギャップが大きく、より可愛く見える効果となっている。

主人公に限らず、本作はその"表情"を強調する画面作りが終始通されており、それも、単にアップを繰り返すといった単調なものではなく、例えば、給食の場面では、主人公と隣に座る男子生徒・勉学(勝地涼)との会話を、双方のアップの切り返しを素早く切り換えて見せ、続くゲタ箱での会話では、引き気味の画で長回しで見せる、と、状況に応じ緩急をつけ、メリハリのある映像を作っている。

兄が部屋に置いている、恋人との2ショット写真なども、この"表情"で意味を伝える演出の一環となっている。

そんな風に、その場その場においての"表情"による心情の見せ方、は上手く出来ているのだが、その一方で、原作の内容を尺にあわせて省略しているため、全体的な構図の推移が説明不足に感じる点が多々あるのは問題だろう。

それと共に、原作の台詞をそのまま使っているダイアローグが多く、会話として不自然に感じるやりとりも、そこかしこに見られ、特に"説明台詞"には違和感が残ってしまう事となる。

なかでも、「気づかないところで誰かに守られてるってこと」なる台詞は、印象的なものであり重要な台詞ではあるが、だからこそ、それを口に出しては興醒めしてしまうというもので、この辺りは原作そのままでなく、映像で観客に伝える様な工夫が必要だったのではないか。

こうした、説明臭い部分と、説明不足な部分のバランスが悪い事は、評価としてマイナスだ。

それでも、物語前半部となる、佐和子と勉学との、未熟でサワヤカな恋愛ドラマは、最初に述べた北乃きいの表情や言動の可愛さによって、退屈せずに微笑ましく見守る事が出来るもので、これが作品のメインストーリーであったなら、もっと評価は高いものになったかもしれない。

だが本作は、あくまでも"奇妙な家族"を通じて、主人公の心の成長を描く事が主目的であり、恋愛はそれを促す一ギミックとしての扱いでしかなく、そのため、勉学は(作者にとって)都合のよすぎるかたちで、アッサリと退場してしまう。これは原作の段階で大きな問題点で、あまりに安易な進行に興醒めしてしまう。

この件がきっかけとなり、主人公は成長を始めるのだが、それにしても、あまりに御都合主義すぎではないか。生きた人間としての存在を拒否され、使い捨てられた勉学というキャラクターがあまりに不憫でならず、その後の展開にはサッパリ感情移入出来なくなってしまうのだ。

人を死なせて感動させるのは、最もお手軽な定番であり、誰も不幸にならずに感動させる方が、よほど難しいのだ。何ら伏線も必然性も無しに、"逃げ"を打って泣かせようとする、稚拙なストーリーは評価出来ない。それ以外の部分は、それなりに出来ているだけに残念だ。

ラストシーンではミスチルの『くるみ』が流れるが、いくら歌詞の内容が映画のストーリーに合ってるからと言って、主人公と違う名前どころかどこにも出てこない「くるみ」を連呼されても困る。この辺りも、「適当に"いい曲"を流して感動させてやろう」という、安易な意図が見え見えでガッカリだ。その場面で北乃きいが、相変わらずいい表情で演技しているだけに、尚更勿体なさが募る。

この歌が流れるのがラストシーンで、歌が終わると同時に映像が暗転し、エンドロールとともに別のエンディング曲が流れ出すのは、これは確実にダメだ。『くるみ』とラストシーンの映像にエンドロールを被せればそれでいいじゃないか。むしろそうしてスパッと終わらせないと、二回もエンディングを見せられている気分になってダレるだけだ。何を考えてこんな終わりにしたのか、理解に苦しむ。

ストーリー等には問題も多いが、北乃きいの可愛さを堪能出来るPVとしては良く出来ている。その点に興味のある人は是非。他にはオススメしない。


余談:
勉学が序盤でさりげなく言った「弟はクワガタに夢中」の台詞が、終盤でしっかり回収されていた小ネタには笑わされた。いいぞ弟。



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2007年01月30日

あなたを忘れない 10点(100点満点中)07-030

テリーマン、失格
公式サイト

2001年、ワイドショーなどで大きく取り上げられた、JR新大久保駅での転落事故を題材に、犠牲者の一人、韓国人留学生イ・スヒョン氏を主人公のモデルとし、ほぼ創作ストーリーで描かれる、日韓合作映画。

現実に起こった事故は、まず泥酔した男性がホームから線路へ転落し、それを助け上げようとスヒョン氏と関根史郎氏が線路へ飛び降りるも、救出が間に合わず三人ともが電車に轢かれて亡くなってしまった、不幸な事故であった。

亡くなられた三名の方は可哀相に思うが、一方、この事故を大々的に取り上げるメディアの姿勢には、大いに疑問を感じる。

この事故は、あくまでも"不幸な事故"であり、この事故を通じて我々に学ぶべき事があるとすれば、それは、「出来る事と出来ない事を分別する」という、至極当然な常識的判断であろう。

にもかかわらず、メディアでは、最初に落ちた男性を助けようと、"無謀にも"飛び降りた二名の行動を、「勇敢」「英雄」と褒め讃えた。これは明らかに間違っている。

この種の事故でも、あるいは川や海などで溺れている人を発見した時でも、人命救助のプロでもない限り、人を助けるどころか、自分も巻き込まれて犠牲者を増やしてしまう可能性が非常に強い事は明白である。

"無謀"と"勇気"は別物と認識し、この様な事態に出くわした場合、一般人の立場としてすべき事は、警報スイッチを押したり、周囲に事態を大声で知らせるなどが正解だと、強く周知させる事こそ、公器たるメディアの役割であろう。

それでも100歩譲って、最初に落ちた人は何とか助かったが、助けようとした人は不幸にも間に合わなかった、という様な事例であれば、あくまでも"結果論"として、その行為は"無謀"ではあるが"無駄"ではなかったとも思わされるのだが、本件においてはそれは当てはまらず、言い方は悪いが完全な"無駄死に"でしかない。

もっと言えば、最初に落ちた男性の遺族の立場からすれば、その男性本人だけではなく、それを助けようとして亡くなった二人の犠牲をも、自身に覆いかぶさる問題として受け入れなければならなくなり、その心情は察して余りあるものだ。これはスヒョン氏や関根氏の遺族に関しても、逆の方向で同様の事だ。

この事故はあくまでも"不幸な事故"であり、決して"美談"には成り得ないと、誰もが認識すべきであり、ましてやこの件を利用して金を儲けようとしたり、私利私欲に利用するなどは言語道断。呆れてしまうばかりだ。

本題に入って今回の映画、冒頭にも述べた様に、"事実"が基になっているのは、主人公が韓国人で、日本語学校に通う留学生である事と、新大久保駅で線路に落ちた人を助けようとして犠牲になってしまう、この二点のみで、それ以外の全てのストーリーは、完全な創作であり、その違いをいちいち述べはしないが、事実とは異なる物語になっている。

それ自体は何ら問題ではないが、問題は、本作が、一体何が言いたいのか、何を見せたいのかが、全く伝わって来ない作品に終わってしまっている事だ。

韓国から日本へやってきた主人公と、インディーズミュージシャンである日本人女性との恋愛物語、韓国人の日本観と、日本人の韓国観のギャップを示す、それぞれの人間描写、主人公の心情描写、ヒロインの状況描写と、いくつも見せられる様々な要素が、まとまりなくバラバラに撒かれたまま、ラストで唐突に起こる列車事故で、全て強引に終わらされてしまうのだ。

これは明らかに脚本構成の甘さであり、"事実の描写"と"創作ドラマの展開"の乖離を、上手く埋められていない。これでは、最終回で唐突に主人公が交通事故死する『タイガーマスク(漫画版)』以上にポカーンとしてしまう結末だ。

特に本作は、最後に主人公が事故死する事は、観客全員が知っているのだから、しっかり本筋のドラマと事故を絡め、一つの完結した物語として感動出来る様、ストーリーを構成すべきではなかったか。

製作構想から完成までに、かなりの時間的余裕があったにもかかわらず、この脚本はあまりにもお粗末だ。これでは感動出来ない。

冒頭からずっと、基本的に主人公視点で物語を進めておきながら、作中に占めるヒロインのウエイトがやたらと大きい事も、ドラマのちぐはぐさを強調する一因となっている。彼女が目指す道や、家族や周囲との確執などのドラマが、主人公の死に何ら絡んでおらず、独立したドラマとして乖離してしまっているのだ。

これは明らかに、ヒロインを演じるマーキーと、彼女がボーカルを務めるHIGH and MIGHTY COLORを売り出そうとする"大人の思惑"が強く感じられるものであり、この事が余計に"感動出来ない"空気を作ってしまっている。

この様に、本作は一本の映画作品として、全く評価出来るものではない。

だが、本作が製作される事を聞き及び、その後も聞かされる情報や噂などにおいて、本作が「日本人=悪、韓国人=善」の図式を意図的に強調した、偏向思想が強く見られる、政治的プロパガンダ映画である、と危惧された点は、実際の作品を観れば、何ら杞憂に過ぎないとわかる。

日本で起こった事故が題材なだけに、韓国人が主人公でありながら、舞台の多くが日本である事は、これは当然だろう。それによって、登場人物もまた、多くが日本人である事も当然だ。

それでありながら、序盤の韓国での場面において、韓国人視点によって、「日本の音楽を毛嫌いする」「反日デモ」などを観客に見せ、同時に主人公とその家族は、基本的に"親日派"である事を強調して、バランスを取りつつ、主人公が"希有な存在"である事を示している。

あるいは日本での、同期留学生や在日韓国人との会話によって、「韓国人はベトナム人に嫌われている」事や、韓国人による在日差別を語らせる事で、一面的ではない、韓国人の有りようをも見せている。

ヒロインの父親が差別主義者である描写は、韓国で日本人を嫌う人間がいる、冒頭の描写との対比として見せられており、実際にその様な人種が互いに存在しているのは事実なのだから、双方が持つ因縁の見せ方として問題ないだろう。

これらの描写によって、日本人にも韓国人にも、善意、悪意がいろいろ混在し、日本人だから〜、韓国人だから〜、と言うのではなく、ナニ人だろうと差別する者に問題があるのだと伝えようとしている事は、観る前からバイアスのかかった視点で臨まず、フラットな視点で鑑賞した者であれば、容易に見て取る事が出来るはずだ。

物語中盤で起こる交通事故の場面は、その部分だけ見れば、唐突に感じてしまうかもしれないが、まず序盤の韓国での展開で、ケガをした老婆を主人公が助ける場面において、主人公以外の周囲の韓国人は何もせず見ていた、という描写を伏線として敷き、ついで中盤の交通事故場面において、同じく周囲の日本人が何もせず見ていた、と、同じ事を国を変えて繰り返し、ラストの列車事故場面に繋げ、本作のテーマの一つであろう、「国籍ではなく人間個人」という方向性を見せる為のギミックとして機能しているのだ。

もちろん、フロントガラスが割れてマトモに使える状態ではない車が、いきなりその場から消えてしまったなど、強引すぎる展開は稚拙だが、それはまた別の問題だ。

しかし、である。それぞれの描写が、表面的には一応バランスよく見せられているとはいえ、それはあくまでも表層的な部分に過ぎない、というのも事実だ。

何より、日本と韓国双方において、"嫌い、嫌われる"事象は見せながらも、では何故そういった感情がそれぞれに生まれてしまうのか、といった、問題の根本的な部分には全く触れていないのだ。

人を嫌う人に問題があるのは確かだが、嫌われる側に問題がある場合もあるのだ。それを認識せず、「人を嫌ってはいけません」と言うだけでは説得力に欠け、人間描写そのものを上滑りなものに終わらせてしまっている。

だからこそ、ストーリーの迷走ぶりと相まって、キャラクターの誰にも感情移入が出来ず、何ら感動する事が出来ない結果となるのだ。

いろんな意味で騒がれがちな"話題作"ではあるが、一本の映画としてはあまりに不備の多い凡作。特段に鑑賞の価値はない。


追記:
もう一人亡くなった関根氏が、作中にほとんど登場しないのは、遺族が「取り上げないで、そっとしておいてほしい」と願ったからであり、これはその意思を尊重すべきであろう。だったら最初から作品自体を作らなければいいのに、とも思うが。

蛇足:
ヒロインのマーキーが、痩せて女装したバナナマン日村にしか見えず困った。声量も弱く上手いわけでもなし、アレっていいのか?

ヒロインがマーキー、主題歌がマッキー、駄洒落?

主人公が富士山に登頂する展開は、「韓国が日本の上に立つ」暗喩ではないか、との見方も可能だが、これは流石に穿ちすぎか。どちらかと言えば、序盤に父親と韓国で登山する場面との対比であろう。



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2007年01月29日

魂萌え! 40点(100点満点中)

俺達の魂も 燃えている〜♪
公式サイト

桐野夏生の同名小説を映画化。タイトルの"萌え"は、いわゆるオタク語としてのそれではなく、本来の正しい日本語としての用法なので悪しからず。

少し前に高畑淳子主演でTVドラマ化もされているが、今回の劇場版では風吹ジュンが主演。

専業主婦である主人公の夫(寺尾聡)が、定年直後に急死。それからというもの、発覚した夫の愛人、遺産を当てにする息子など、思いも寄らなかったトラブルが急増、主人公は混乱しながらも、次第に"一人の人間"として歩み始める…という物語。

映画化されるに当たって、基本的には原作を踏襲しながらも、オリジナルの要素をそこかしこに盛り込み、また違った印象の残る、独立した作品として仕上げられている。

これは、本作の監督および脚本を担当した、阪元順治の意向が大きく入っていると思われ、特に映画版において重要な主軸の一つとなる、"映写技師"に関するエピソードなどは、その色が強く出ている部分だろう。

全てが主人公視点で語られる本作、まず主人公に感情移入し、作品世界に没入する事が出来なければ、作中にて起こる、様々な出来事を楽しむ事は難しいのだが、主人公と同性、同世代の人間以外にとっては、共感出来る仕掛けに乏しいため、客観的な視点で鑑賞する事となり、評価が厳しくなってしまうのが辛い事だ。

また、原作やドラマ版と、今回の映画版において、まず第一印象として「違う」と気づかされる事は、主人公のビジュアルではないだろうか。原作では、どこにでもいそうなタイプのオバサンとして描かれ、ドラマ版でも、個性的な脇役女優として密かに人気のある高畑淳子が、初主演作品として"ありがちなオバサン"を熱演していたが、本作の風吹ジュンでは、少し美人すぎとも思わされる。愛人と本妻の、情念の方向性の違いと変遷を見せる、二度の対決場面のやりとり自体は面白かっただけに、もう少しビジュアルにもリアリティが欲しかった。

見た目も中身も平凡な主婦だったからこそ、夫に愛人がいる事に説得力が出るのだが、本作の様に、本妻=風吹ジュン、愛人=三田佳子では、有り得なさを払拭する事が出来ず、「あるある」と共感しながら鑑賞すべき作品ながら、それが果たし辛くなってしまっているのだ。

それでも、横ケツまで見せた風呂場シーンや、露出は無いものの充分に妖しいベッドシーンなど、美熟女である風吹ジュンが演じたからこそ、見せ場として成立している部分も多々あり、このあたりは痛し痒しと言ったところか。誰も高畑淳子のセクシーシーンは見たくないだろう。

監督の阪元順治だが、少し前のバラエティ番組において、"匿名で短編映像を作って、どちらがプロの映画監督によるものか当てる"というゲームに起用され、見事にお笑い芸人が監督した作品に負けていた事が記憶に新しい、どちらかと言えば、映像的なインパクトは弱い傾向のある監督だが、本作においても、その印象は中途半端である。

例えば、場面転換に花の映像を多用し、最後に流される欧州映画『ひまわり』に繋げるなどのギミックや、夫が遺した携帯電話の留守電に、主人公がその時その時の状況報告をする場面の映像に、遺影の後ろに置かれた携帯電話、という配置にする事で、その"伝言"に、より意味深なイメージを与えるなど、演出意図が効果的に現われているところも、要所要所に見る事はできる。

その一方で、カプセルホテルの風呂場において、老婦人が身の上話を延々と話す場面で、全裸を映せないという制約はあるにしても、湯船を真横から撮った固定画面で、長々と動きの無い独演会が続けられるあたりは、工夫の無さに退屈してしまうし、同じくカプセルホテルにおいて、支配人(豊川悦司)が主人公に話しかける展開でも、明らかに不自然な自己紹介台詞が挿入されるなど、凡庸さに呆れてしまう場面も多い。

また、かなり早い段階からところどころに登場し、後半にて実は重要な役回りである事が判明する、若手女性映写技師の存在もまた、彼女が登場する場面場面での彼女の見せ方が、彼女の存在をあまり印象づけない撮り方で見せられる為、しっかり見ていないと、ところどころに登場するメガネの人が同一人物だと気づきにくいのだ。これは問題だろう。

主人公を、世間知らずの典型的専業主婦として紹介し、彼女と世間とのギャップを見せる、コミカルな展開は楽しめるものの、一方で、主人公が"自分の知らなかった夫の一面"に悩まされる展開において、一方的に"彼女が知らなかった"事に問題があるかの様な論理で進められているのはどうか。夫だって、妻の本当の姿を知らないままに死去し、その夫の死がきっかけとなって、主人公が変わっていく話なのだから、そうした、表裏一体の夫婦関係の有りようを、もう少し強調して脚本に盛り込んだ方が、作品テーマとしてより引き立ったのではないか。

原作は結構面白く読めるし、ドラマ版もNHKだけに出来はいいので、これをわざわざ映画館まで観に行くというのも辛いだろうが、少なくとも観て損する様なレベルではない。レンタルやテレビ放送でどうぞ。

風吹ジュンの大ファンなら、セクシーシーン目当てに劇場まで足を運ぶ価値はあるかもしれない。


余談:
娘役の常盤貴子が、ビジュアルはともかく存在として、リアルにありがちな現代女性を演じていたのも見逃せない。実は彼女はこうした"普通の女性"の方が合ってるのかも。



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2007年01月28日

幸せのちから 45点(100点満点中)

Mr.&Jr.スミス
公式サイト

ウィル・スミスが主演し、スミス本人の実子が主人公の息子役を務める、実話を元に作られた、社会の底辺から何とかして抜け出そうと奮闘する、一人の男の物語。

この元になった実話および当人、日本ではほとんど知られていないが、本国アメリカではそこそこ知られる人物であるらしい。つまり本作のメインターゲットである欧米人にとっては、大まかなストーリーや結末は、あらかじめ知られている事が前提で作られているのだ。

その上で、観客を飽きさせない様、興味を引かせ続けるドラマを展開すべく、製作者は意図していると見受けられるのだが、どうにも、そのドラマとしての創作・脚色と、実話として外せない部分とが、上手く融合出来ていない様に感じられた。

まず、主人公がどんどん貧乏に陥っていく経緯が、どう見ても自業自得である事で、観客は彼に同情出来ず、よって応援も出来ないのだ。

彼が息子を連れ回すのも、彼自身の「息子は父親といるべきだ」との、利己的な願望に過ぎず、母親はないがしろで、子供自身の意志も無視と、その自分最優先さ加減には呆れる。

タクシーを乗り逃げしたり、地下鉄の改札を飛び越えたりと、必死になる事情はあっても、無関係の他人に実害を負わせて一切フォローなしでは、感動も何もあったものではない。

一方で、起死回生を狙って挑んだ研修をこなすあたりの展開は、上手くチャンスを活かし、他人がやらない計画的な行動で人脈を築いていく、その過程は面白く描かれていたのだが、その合間合間に挟まる"不幸自慢"的なエピソードには同情出来ず、その"成功秘話"的な側面がコマ切れになってしまい、今ひとつ乗り切れない事にもなってしまっている。

留置所から面接へ直行する展開や、時代設定を活かした、ルービックキューブを使ったエピソードなどは、主人公のキャラクターを観客にも登場人物にも印象づけるとともに、ドラマを盛り上げる役割にもなっていただけに、その様に、どちらかと言えば、"個性的な成功秘話"にウエイトを置き、業績が積み上がっていく様を丁寧に描いた方が、より楽しめるものになったのではないだろうか。

父と子のドラマにおいても、冒頭より登場する"タイムマシン"のフレーズを伏線とし、ドン底に落ちながらも、息子に対する優しさを忘れない、おそらく本編中で最も感動出来るエピソードに繋げるなど、よくした部分もあるだけに、全体のバランスがちぐはぐで一貫性が無い事が引っかかる。

売り物が盗まれて、それを取り戻すエピソードなどは、結局本筋とはほとんど関係なく、盗まれたのは自業自得で、取り戻せたのは完全な偶然と、創作したエピソードとしては、あまりに中途半端だ。

一つ気になったのが、ルービックキューブと同様、おそらくは、当時のアメリカ文化を示す材料として使われていたと思われる、息子が常に手に持っていた、キャプテンアメリカのペンタブルフィギュアである。

普通に観ていれば、この人形は単に息子のお気に入りだ、という表現でしか無く、それを落として失う描写に、表面的な"悲劇"以外の、特別な意味は感じられないかもしれない。

MARVELのキャプテンアメリカというキャラクターは、DCコミックでのスーパーマンと並ぶ、"アメリカの正義の象徴"である。と同時に、その外見からもわかる通り、"白人の正義の象徴"でもある。そのキャラクターを、息子がずっと持っていた事、それを失った後、二度と戻って来なかった事、その流れと、父親の仕事の進展具合とが、ドラマ内において合致していたのだ。

更に言えば、キャプテンアメリカにはかつて、ファルコンという黒人のパートナーがおり、彼はやがてキャップの元を離れて独立する。この設定もまた、主人公の未来を暗示する要素として、用いられていたのではないだろうか。

そんな、勝手に深読みして楽しめる部分もあるだけに、全体的な完成度の低さは残念だ。新卒社会人が新入社員研修で見せられる、"創業者の立志伝自慢ビデオ"と大して変わらない本作、予告やCMで強調されている様な、"感動・涙"は期待しない方がいいだろう。



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2007年01月27日

どろろ 30点(100点満点中)

四十八体不満足
公式サイト

手塚治虫の同名漫画を実写映画化。生まれながらに奪われた、体の四十八箇所を取り戻す為、妖怪と戦う百鬼丸(妻夫木聡)と、彼の道連れとなる盗人少年・どろろ(柴咲コウ)の、妖怪退治の旅を描いた伝奇アクション・ロードムービー。

日本は、本物のエンターテイメントに目覚める」のコピー、邦画としては脅威の、20億円の大予算、アクション監督には『HERO』などで知られるチン・シゥトンを起用、と、「今までのダメな日本映画とは違う!」と思わせる宣伝を散々展開していた本作、実際には、ダメな日本映画そのものでしかない残念作に終わっている。

ストーリーは、原作における『発端の巻』『百鬼丸の巻』『鯖目の巻』『ばんもんの巻』をベースとしており、親に捨てられた百鬼丸と、親を失ったどろろが主人公である原作の特性を物語の主軸とし、子捨てが題材となる『鯖目』を前半エピソードとして展開する事で、それぞれの親子観を観客に伝え、後半の『ばんもん』に繋げ百鬼丸の過去を清算する構成で、一本の映画としてまとめる為にテーマを絞ったストーリー選択は、その意図は理解出来る。

戦国時代を舞台とした原作とは異なり、架空の世界の架空の国が舞台となっている映画版だが、これは、もともと歴史考証を無視して英語の台詞などが登場する、原作の持つ荒唐無稽なテイストを飛躍的に強調すると同時に、綿密な歴史考証にとらわれる事なく、娯楽性を最優先させる為の措置であろう事も、容易に推察出来る。マカロニウエスタンを彷彿とさせる、ラテンミュージックのBGMも同様だろう。

原作と比較した場合、最も大きな違和感となるであろう、どろろ=柴咲コウのキャスティングも、現状の日本映画界において、多くのしがらみが絡む大作を作る上では、仕方の無い"大人の事情"であるとも受け入れられる。

が、それらの"製作側の意図"は理解出来ても、作品が面白いものであるかどうかは、また別の問題だ。そして本作が、明らかにやっつけ仕事としか思えない、出来のいい作品とは到底言い難いものである事もまた、結果として事実だ。

視覚的な面から言えば、まず画作りが全体的に散漫である事が挙げられる、この画面で、一体観客に何を伝えたいのか、その意図が見えて来ない映像が続出している事が問題だ。

例えば、舞台設定が語られるファーストシーンの、赤い鎧の武者達に黒い鎧の武者が惨殺される場面において、まず背後から黒い武者が囲まれる画を引いたサイズで撮り、続いて黒い武者の胴体に槍が突き刺さる様を、前面からの寄った画で見せ、再び背後のロングショットに戻り、更にカメラが引いて、戦場の全景を映し出す、という一連の流れが、極めてぎこちなくテンポの悪いもので、この時点でいきなりガッカリする事になる。

また、序盤のクモ妖怪との戦闘において、百鬼丸がノドを貫かれる場面があるが、この時、百鬼丸を真横からのバストアップで捉え、背後からクモの脚が突き刺さる様を見せているのだが、これが、刺さっている事は効果音や呻き声でわかるが、どこにどんな風に刺さっているのかが、真横からのアングルなため、縦方向は見えるが横方向の位置がわからないのだ。

オマケに複数の脚が同時に映り込んでいる為、どの脚が刺さったのかも分かり辛い、そのため、"普通の人間なら死んでいる"ダメージを負わされた、と観客に伝わり難くなり、観客を騙すピンチシーンとして成立していないのだ。その後でノドの傷が回復する段になってようやく、「ああ、そこを刺されたのか」と気づかされるのでは遅すぎる。

他にも、同じく序盤で、どろろに巾着をスリ取られたチンピラが、取り返した巾着の中に入っているものを見て驚く、という場面でも、その"中に入っているもの"が見えにくい映像な為、緊張を緩和する小ネタシーンとして成立していない。

そうした、どれをどの様に見せれば、観客により伝わるか、という、映像を作る上での基本が蔑ろにされている事で、後述する問題点を、より強調させてしまっているのだ。

作品の中で見せられる世界が、その作品内においては"現実"であると、観客に感じさせる為に重要な、美術・造形の仕事も、到底納得できるものではない。

先述のクモ妖怪との戦闘シーンの舞台となる、洞窟様の酒場のセットなどは、壁の質感が作り物にしか見えないし、クモ妖怪の登場シーンの、踊り子が面を取るとバケモノの顔が出現するくだりでも、そのバケモノの顔がこれまた作り物丸出しで、顔と体の一体感がまるでないため、面を取ってもまた面を被っている様にしか見えない。これでは作り手の意図が伝わらないだろう。

中盤にダイジェスト的に見せられる、妖怪との連戦の場面もまた同様、ゲドンのヘビ獣人にしか見えない着ぐるみ丸出しの妖怪や、これまた面を被っている様にしか見えないカラス天狗、あるいは重量感がまるで無い、樹脂製丸出しの岩など、デザインでも造形でも、いちいちチープさが目につくものが続出。

終盤で見せられる、鬼の顔になった中井貴一などはまるでコントの様で、シリアスで悲劇的な展開に、少しも感情移入出来ないのだ。しかもそれらを隠そうともしない撮り方や後処理のせいで、まるで70年代の子供番組を見ている様な気恥ずかしさまで感じてしまうレベルの映像には失笑する他ない。ザラつきを与えて画素を荒くした画面によって、"古臭さ"がより強調されてしまっているのも、作り手の意図とは逆に働いているマイナス効果に思える。

造形物だけでなく、CGによる映像もまた、予算よりは時間や人材的な問題が原因と思われるが、一般向け劇場映画として見せるには、あまりにもチープで粗が目立つもので、これに満足出来る人はいないだろう。百鬼丸の肉体関連のCGや合成は、かなり違和感のないレベルに処理されているのに対し、妖怪の映像はあまりにヌルすぎる。漫画の映画化とはいえ、実写なのだから"絵"に見えてしまってはダメだろう。

わざわざ海外から人材を招聘し、売りとされていたはずのアクションも、チープな妖怪とは別の次元において、中途半端なものに終わっている。この動きを、どこからどの様に見せたらカッコ良く見えるか、という事を理解しないままに撮られているため、せっかく苦労してワイヤーアクションを頑張っても、画面に効果的な迫力として現われていないのだ。マイマイオンバとの空中戦闘シーンなど、全く盛り上がらずにいつの間にか終わっているとはあんまりだ。

妻夫木聡の整った顔立ちや凛々しい表情で誤摩化されがちだが、要所要所の"決め"となる画面もまた、その"カッコ良さ"を充分に活かせていないもので、その点では子供向け特撮番組にも劣っていると言っても言いすぎでは決してない。

結局、アクションとして一番"見られる"ものとなっていたのは、終盤の百鬼丸と醍醐景光(中井貴一)のチャンバラシーンであり、それなら、高い金を払って外国人など呼ばずとも、横山誠や北村龍平の方が、ちゃんとカッコいいアクションをもっと安くで撮ってくれる筈だ。

これらの映像的な問題点は、監督のセンスが"特撮大作"に向いているものではなかったため、各スタッフへの指示、連携が上手くいかなかった事が原因だろう。もっとこの手の作品を撮り慣れている人間に任せるべきだったのだ。

脚本面でも同様、アクションやカタルシスで楽しませる部分と、ウェットな展開で感動させる部分の、娯楽作品としての配置・構成のバランスが悪いため、中盤までの比較的テンポの良い流れが、後半で停滞してダレを感じさせ、そのままカタルシスなく終わってしまうために、食い足りなさを抱えたままの状態で劇場を出なければいけなくなるのだ。

アニメ版の最終回を踏襲したと思われる、心臓を取り戻すシーンなどは、そのアニメ版のストーリーが持っていた意味を全く再現出来ておらず、ただ単に"取り戻しただけ"でしかない。

本来映像で見せるべき作品でありながら、やたらと説明的な長台詞が多いのもまた、ダレを生み出す原因になっている。もっと脚本を練り込むべきだっただろう。

柴咲コウのキャスティングに関しては、それ自体は仕方ないにしても、それならそれで、柴咲コウのビジュアルや演技力に合ったタイプに、どろろというキャラクターをシフトさせ、作品内の人物として違和感のない様にすべきだろう。漫画のキャラクターそのままに、見た目だけが柴咲コウな為、どうしても"無理をしている"としか見えず、生きた人間と感じられないのだ。柴咲コウ自身は頑張って与えられた役割を演じている事がわかるだけに、この"誰も得をしない"仕打ちはあんまりだ。

マイマイオンバの娘達の持つ怪しい雰囲気、繰り返しギャグとして、どろろの顔面に何度もぶちまけられる妖怪の血飛沫、予告でも見られる、百鬼丸が声を取り戻す雨の場面など、ところどころでいい味を出している部分もあっただけに、全てにおいての"作り込み不足"に対し、大いに不満を感じてしまう結果となった。

原作ファン、あるいは特撮好きであれば、一応要チェックの作品ではあるが、期待せずに観る事。


蛇足:
どろろが持っている鼓(?)は、アニメ版主題歌のリズム楽器を意識したものか?



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2007年01月26日

ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド 45点(100点満点中)

シャム双生児 美味しそう〜♪
公式サイト

日本では『A.I』の原作者として知られるイギリスのSF作家、ブライアン・オールディスの同名小説を、何故か30年ぶりに本国イギリスにて映画化。この映画化がきっかけで、日本でも原作本が発行されたのは、SF好きには朗報。

事情を知らない人が読めば、まるでノンフィクションと勘違いしてしまう、回顧録としての手記やインタビュー等の記録形式で書かれていた原作を映画化した本作は、その狙いと同じく、ドキュメント映画の形態を取って製作され、"記録フィルム"的映像と、"関係者のインタビュー"的映像で構成された、一風変わった作品となっている。(『食人族』や『ブレアウィッチ・プロジェクト』に類する作品とも言える)

75年のイギリスに突如デビューし、一瞬で人々の前から姿を消した、幻のパンクバンド、バンバン。そのメインボーカリストである双子は、肉体が繋がったまま生まれてきたシャム双生児だった、という内容。

原作の狙いを活かすために、ドキュメント形式で構成されている事自体は、その意図は面白いのだが、いかんせん、そのドキュメントとしての作りが、かなりの部分で"作りすぎ"な点が目立ち、知らない人が観ても、「これ、ヤラセじゃないの?」と感じてしまうレベルなのはいただけない。嘘なのはわかっていても、観ている間はそうと気づかない程度に、上手に騙すべきだ。

インタビューに答える各関係者の話し方、表情の作り方がことごとくわざとらしく、"台本通り"としか見えないのだ。もっと自然に振舞えなかったものか。

記録フィルムに関しても同様、カメラの振り方、人物の立ち位置など、往年の『ガチンコ』並に、「さあ〜これから撮るよ〜」と段取りが見え見えで、ドキュメントに見せかけるには、不自然な面が気になりすぎる。

ファーストシーンおよび、畸形嚢腫の説明の時に見せられる"作った映像"も、"そこだけを作った"事を強調するためにカチンコを映し込んでいるが、これも意図が見え見えで鼻についてしまう。

原作では上述の畸形嚢腫の存在が重要な要素となり、終盤の怪奇、猟奇な展開に繋がるのだが、この映画ではそのウエイトを限りなく小さくし、双子の片方の精神が不安定だった理由付けとしてのみ用いている事が、内容的な部分での、原作と映画の大きな差異だろう。

原作ではポップスだった音楽がパンクに変更されているのは、その"畸形"のビジュアルおよびイギリス文化とよくマッチし、徐々に崩壊していく世界をも象徴するいい改変と思えるが、畸形嚢腫に対する扱いの小ささは、原作通りにすると、あまりに"嘘くさい"から仕方無いとは言え、それに変わる面白い要素を、特に後半には用意出来ておらず、尻すぼみに終わった印象が強い。何より二人の最期があまりに唐突すぎて、観客は感動する暇もないのだ。構成の順序、ネタの取捨選択に、もっとこだわって欲しかった。

題材、狙いは面白いながらも、製作の段において、今ひとつ練り込みが足らなかった残念作。変な映画が好きな人なら、それなりに楽しめるが、普通の人が観てもポカーンとしてしまうかもしれない。まあ、機会があれば。



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2007年01月25日

フランキー・ワイルドの素晴らしき世界 65点(100点満点中)

そんな銃で俺様が撃てるクマー!
公式サイト

世界トップレベルの天才DJ、フランキー・ワイルドの半生を描いた、フェイクドキュメント映画

まず最初に「実話が元である」とテロップが出、実在の音楽関係者(ホンモノ)が各々にフランキーについて語りだすインタビュー映像で始まる本作。続いての、クラブでのフランキーのギグ映像も、実際のイベントをリアルで収録した様な、ドキュメント風映像で見せられ、まるで本当のドキュメント映画のごとき世界によって観客を引きずり込み、フィクションとノンフィクションの境界をぶち破る、いわば梶原一騎スタイルである。

そうして、観客がマジメに作品を観る気になった頃合いを見計らって、いきなりフランキーと嫁がテニスコートで立ちバックファックに励む映像が登場し、ドキュメント風だった映像は、この時点から再現フィルム風の映像へと切り替わり、ドラマの本筋が展開していく。この、インパクトある方向性の転換は上手い。

尚且つそれ以降においても、事象の進行に応じてインタビュー映像は引き続き挿入されていく事で、"実話"であるとする大元の方向性そのものは外さない、絶妙なバランスで作られている。

酒、ドラッグ、乱交と、私生活におけるフランキーの御乱行をテキパキと見せ、子供が黒人なのに全く気にしていない、良くも悪くもダラシのない人間性を紹介し、同時に音楽の上では天才的である仕事ぶりも見せて、主人公のキャラクターをハッキリと印象づける、序盤の構成は楽しい。

が、主人公にとっても物語にとっても転機となる、"障害"が彼を襲う段になり、それまでに見せられた彼のダラシなさや御乱行が、殊更にマイナス方面に加速的にクローズアップされていく展開は、観客をどんどん不快にしていくものとなる。

これは、展開にギャップを与え、最終的な後味を良くするための仕掛けなのだが、それにしても、明らかに仕事に支障が出ていながら、それを隠して仕事を続ける、客に対しても自分に対しても不誠実な行動には全く賛同出来るところがないし、医者の忠告すら聞かず、結局最悪の結果が訪れる段に至っては完全な自業自得であり、これまた全く同情出来るものではない。

そして主人公はドン底まで転落し、そこから心機一転を計り展開が本題へと進みだすのだが、その、心機一転となる契機の描写が少なく理解し難い。ここは大切な部分なのだから、何故そう思い至ったのかをしっかり描いてほしかった。

それでも、ここまでの一連の流れ中で、ところどころに挿入される、ドラッグによる幻影として登場する巨大なアナグマの怪物絡みの展開は、本作の大きな特色となる独自要素として興味深く観られるものだ。

その造形が、いかにもモンスター然としたリアルなものでなく、遊園地にいそうなタイプの着ぐるみ丸出しのスタイルである事。この外見は非常に重要な意味を持っており、全体的な"可愛さ"と、鼻の周囲だけが、白い粉が付着して汚れている、"グロテスクさ"とのギャップを大きく強調し、ドラッグの持つ魔力、魅力の恐ろしさを視覚的に表現している。

そんな可愛くもおぞましい着ぐるみが、主人公を時に優しく誘惑し、時に強面で恫喝する、この二面性の表現もまた、薬物の特性を象徴し、上述の外見も手伝って効果をあげている。

そして、主人公がドラッグの依存から脱却する展開において、怪物が"着ぐるみ"であった事が最終的なオチとして結実する、この構成は良くしたものだ。

もちろん引っかかる部分も多々ある。例えば、再起を決意し主人公が訪れる、読唇術教室の教師であるラテン系美女と主人公が特別な関係になる経緯、説得力が全くの適当である事。他に生徒はいなかったのか? どうして主人公とだけ? と、疑問ばかりが浮かぶ都合良さはいただけない。

だが、音量や音域を波形モニターでリアルタイム表示して視認し、特製スピーカーを足の下に置き、振動で音を体感する事で、聴覚以外の感覚によって"音楽"を感じ操作する、これらの"復活"のアイディアは見事で、映像的にも、序盤の活躍以上のカッコ良さを見せ、観客のテンションを高める事に成功している。

聴覚障害のミュージシャンと言う事で、ベートーヴェンとの類似性を想起する人もいるかもしれないが、本作はどちらかと言えば、視力を失った剣豪が心眼に目覚め再起する、そうしたシチュエーションと並べるに相応しいものだろう。

障害者を題材としながらも、人間的なマイナス面も大きくクローズアップし、全体的には明るくコミカルなカラーとする事で、ステレオタイプなお涙頂戴要素は全く感じない、娯楽に徹した良作だ。

音響設備のいい劇場で見ると、より楽しめるだろうが、そんな機会はもうないだろうから仕方ない。興味のある人はレンタルででも是非。



tsubuanco at 14:47|PermalinkComments(0)TrackBack(4)clip!映画 
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