2007年03月

2007年03月31日

パリ・ジュテーム 60点(100点満点中)07-090

声の出演:志垣太郎
公式サイト

パリを舞台に20のエピソードが展開するオムニバス映画。数分程度の各エピソードをそれぞれ世界各国の20人の監督が手がけ、出演者もまた実力と知名度を兼ね備えた名優達が名を連ねている。

舞台はパリの中心から外れまで、観光名所も下町もごっちゃにした20の地点とし、それらを背景として、あるいは物語そのものを象徴する基盤として、各々のクリエイターの思うがままに用いられ、またエピソードも登場人物も、相互の繋がりは全くない独立した物語群であり、それによって、雑多で多様な一つの"パリ"という街をかたち作っている。

エピソードはどれも、ストーリーを展開すると言うよりは、その場所に生きる、存在する"人間"を各々の得意とする手法で象徴的に表現しており、短さを逆に活かして作家性や主張を程よく感じられつつ、印象として残すための娯楽性も忘れない巧さが、それぞれに光っている。

序盤からしばらくは"男女の出会い"の話を続けて、そうした方向性で統一されているのかと思わせたところで"男と男の出会い"を扱ったエピソードが登場して驚かされたり、現実的なドラマである事が共通項と思わせて、いきなり吸血鬼が登場する様な超常的な物語を挿入するなど、舞台となる場所さえ押さえておけば何でもありの、起伏に富みすぎた構成は飽きさせない。

そんな中でやはり印象に残りがちなのは、"普通ではない"ギミックが用いられた、いくつかのエピソードだろう。

中華圏での活動が多いクリストファー・ドイル監督による、ショワジー門を舞台とした一編は、本作プロデューサーの過去の名作『アメリ』を彷彿させる、エキセントリックでシュールな映像、作劇が通されており、たとえ意味がわからなくともインパクトの強さは20作の中では一番だろうし、その実はしっかりと起承転結を考えて構成されているストーリーと、老いた白人男と若く美人なアジア女性のコントラストを殊更に強調した映像構成が素晴らしい。

モンソー公園の一編は、二人が歩きながら会話する様を1カットの長回しで追う事で、何気ない話に視覚的なインパクトを与える事に成功している。撮影班だけでなく演者達の苦労も忍ばれるこの映像は、脅威の長回しカットで新たな伝説となった『トゥモロー・ワールド』のアルフォンソ・キュアロン監督によるもの。単なる技術自慢に終わらず演出的な意味を与え、尚且つパリを舞台とした1965年のオムニバス映画『パリところどころ』の一編を意識したものでもある、いちいち小憎い仕掛けが楽しい。

お祭り広場の一編や、チュルイリーの地下鉄駅での一編など、"よそ者"が苦難に遭う様を、時に真っ当な悲劇として、あるいはコメディとして見せ、パリという街が持つネガティブな面をも覆い隠さずに提示し、その一方で、セーヌ海岸の一編の様に、"よそ者"からの寛容をも見せつける。いわゆる"フランス人"だけではない、マイノリティを大きく採り上げた姿勢は、世界各国のスタッフとキャストを集めた内幕だけではなく、作品内容にも表れている。

ラストを締める、14区を舞台とした一編は、基本的には複数の人間のドラマを描いていたこれまでのエピソード群とは異なり、お世辞にも美人とは呼べない、一人の太った中年女性がパリを一人旅する様を追い、彼女の建前と本音を同時に描写する捉え方にて観客の感情を煽っておきながら、最後の最後でじんわりと治める。まさに最後に相応しい内容で、気持ちよく"パリの全て"を見終わる事が出来る。

もちろん、何もかもがよく出来ているわけでもなく、例えばエッフェル塔を舞台とした一編などは、パントマイムを題材とし、本物のパントマイムの名手を出演させながら、随所に特撮を使ってしまう事で、生の技術の高さによって生じる"面白さ"が、逆にスポイルされてしまっている。これは監督のシルヴァン・ショメがアニメーションをメインフィールドとしている事から生じた齟齬であろう。双方のセンスが優れているだけに、これは勿体ない。

好きな出演者やスタッフが一人でもいれば必見。そうでなくとも一編が短いので、面白くないと感じても次を待てばすぐに変わるので、つまらないと飽きる事はまず無いだろう。機会があれば。



tsubuanco at 17:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!映画 

2007年03月30日

Tokyo Loop 65点(100点満点中)

「トーキョーではありません、トキョウです」「? どう違うのかね?」
公式サイト

東京をテーマに、様々な選ばれしクリエイター達が作り上げた16本の短編アニメーションを次々に見せる、アニメーション映画生誕100年記念として製作されたオムニバス映画。

"東京"で"ループ"と聞いてすぐ浮かぶのは山手線だが、本作の"16"という数字もまた、路線名称としての山手線の駅数にあわせたものなのだろうか。

それぞれの作品は独立したもので相互のつながりはないが、計算されて配置された順番と、バックに流れ続ける山本精一作曲のBGMによって、文字通り"Loop"としての統一感を醸し出し、一本の作品として完結させている。

とは言え、それぞれの個性的にすぎる創り手による各作品は、"東京"さえ押さえれば後は何をしてもよく、実験的、前衛的手法にどんどん挑戦して構わないフィールドを与えられる事で、作家性がより前面に押し出され、どれもが一度観たら忘れられないインパクトを与えるものとなっている。

まず最初に見せられる、佐藤雅彦+植田美緒の『Tokyo Strut』によって、その実験、前衛的"なんでもあり"の方向性を如実に提示され、リズムを強調したBGMによって動き続ける、暗闇をバックに白い点と線のみで表現される"人と犬"が、その点と点を繋ぐ線の結び方を様々に変化させる事で、ずっと同じ動きがベースにありながらも、全く違ったビジュアルとなって視覚化される、シュールでありながらも理に適った映像は、さすが『ピタゴラスイッチ』の作者だと感嘆する。

続いて清家美佳による『釣り草』では、新聞写真の様に粗く拡大された人物写真をキャラクターに、それをゲキメーション様に動かして、動きのシュールなおかしさをベースとして見せ、その上で、"Loop"を意図したエンドレスな不条理世界を繰り広げ、世界観の面白さと恐ろしさを見せつけている。

おそらくは芸術、表現といった小難しい鑑賞には興味のない人にとって、最も印象に残り楽しめた一編となったであろう、漫画家のしりあがり寿の"鉛筆描きの絵"が動いてしまう『イヌトホネ』では、始まってすぐに、今までに見た事のないかたちでの"犬"の動きのおかしさによって取り込まれ、横スクロールアクションゲームを模した映像ギミックと展開の、その常道を時に微妙に、時に破壊的に外す、筋の通った不条理なる二律背反が調和する、殊更にシュールな映像に腹を抱えて笑わされる事は間違いない。これが真ん中に配置されているおかげで、一般客は他の難解な作品群に飽きる事なく、通して全作品を楽しめる様になっているのだ。

『頭山』で世界的に有名になったアニメーション作家、山村浩二による『Fig(無花果)』では、影絵調のキャラクターが縦横無尽に動作、変形するお馴染みの手法によって、その変わらぬ世界観と作家性、そして娯楽性も忘れていない、確かなセンスを楽しめる。

ラストを飾る岩井俊雄の『12 O' Clock』は、アニメーションの原点とも言えるフェナキストスコープを、アニメーションの最先端であるCGで再現してみせる、実験的な映像を創る事で、本作の企画意図である「アニメーション100年記念』に実は最も相応しい作品として、カオスの世界を収束させ締めとしている。

こうして、各作品の面白さだけではなく、その順列構成までもが先述の通り狙いすまされた計算のもとに設定され、より面白さを増幅する一助としている、編集と楽曲の上手さにも目を向けるべきだろう。

社会風刺的なカラーがあまりにもストレートすぎる、古川タクの『はしもと』や久里洋二の『フンコロガシ』などは、少し説教くささが鼻についてしまい、あまりいい印象は抱けないのだが、ストーリーではなく純粋に"アニメーション"としての"動き"に注目すれば、そのセンスの特異性は、確かに評価に値するものではある。

特に久里洋二は、かつては『11PM』のテーマソングに併せ見せられるタイトルアニメーションなども手がけているベテランならでは、動きのつながりとタイミングを直感的に図る事で、観客の感性に直に訴えかける効果を自然に出せている、これは素直に凄い。

暗転と真っ白の画面が交互に切り替わるなど、暗い劇場の大スクリーンで観るには少し目に厳しいが、自宅鑑賞ならその心配もなく、気に入った作品は何度も繰り返して観て、そうでもないのはすっ飛ばせるので、より自分に向いた楽しみ方が出来るだろう。機会があれば是非。



tsubuanco at 14:32|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!映画 

2007年03月29日

今宵、フィッツジェラルド劇場で 65点(100点満点中)

この惑星の八代亜紀は、泣ける。
公式サイト

群像劇を得意とする巨匠、ロバート・アルトマン監督の最新作にして遺作

ミネソタの中心街にあるフィッツジェラルド劇場では、30年以上続くラジオ番組、『プレイリー・ホーム・コンパニオン』の公開生収録が毎週行われていたが、企業買収による方針変更で番組が打ち切られ、劇場も取り壊される事となっていた。最後の収録日の劇場を舞台に、出演者やスタッフをはじめとする様々な人物の"ラストステージ"が描かれている。

群像劇自体はアルトマン監督の定番だが、扱う題材は歌番組、とりわけカントリーミュージックを中心としている事から、同監督の『ナッシュビル』が自然と浮かぶだろう。そして、私立探偵を自称する男のモノローグで始まる映画導入部のハードボイルド調の演出は、同じく過去作『ロング・グッドバイ』を意識したものであろう。

こうした、"アルトマンの集大成"的なネタ、仕掛けがところどころに散りばめられており、それらとまた、老人の死、時代遅れな番組の打ち切り、古い劇場の取り壊し、と、明らかに"終わり"を主軸とした物語展開とを併せ鑑みるに、まるで監督自身が「これで最後」と自覚して、"遺書"ともとれる内容に作ったのではと思わされる本作には、あまりにも出来すぎな感が強く身震いさせられる。

それらの"死"を繋ぐ役割として擬人化されている"白いコートの女"の存在は、冒頭に主人公の様に登場する"コートの男"(ケヴィン・クライン)と視覚的な対称となり、観客が受容し想像するそのキャラクター性や、作品内での存在意義が、物語が進むに連れどんどん変貌していく、内面的な対称形も生んでいる。

その"白いコートの女"が意味深に登場するラストシーン、そこから一転して時間を戻し、"番組エンディング"の模様をフィナーレとして流し文字通りの退場、幕引きを見せる終幕と、最後まで一貫した"終わり"の様々な提示に、観客は否応無く感情を揺り動かされる。

CMソングすらその場で生で歌われ、効果音もまたその場で芸人が声で演じる、公開生ラジオ番組という題材。みんなそろって熟年、老年層で占められている歌い手達。そこで彼らに聞かされる、日本人でも耳馴染みのある、故郷と父母を慕う内容のカントリーミュージック、と、郷愁、懐かしさをこれでもかと強調する音楽場面の温かさ、楽しさが、より一層"終わり"を盛り立てる、ギャップを意図した構成は上手い。

登場する歌い手達もまた、ハリウッド映画でよく見かける面々が自ら歌ってみせており、その芸達者ぶりに改めて感心することしきりだ。

どことなく由紀さおり&安田祥子姉妹を彷彿とさせる、ヨランダ(メリル・ストリープ)とロンダ(リリー・トムリン)のジョンソン姉妹に、下品な下ネタソングを(おそらく台本にない現場のアドリブで)楽しげに掛け合いで披露する、カーボゥイファッションの二人組(ウディ・ハレルソン、ジョン・C・ライリー)の二組が、特に目立って印象に残るはずだ。

こうした"二人組"をいくつか配して、それらを行き来する"独り者"によって物語を繋げていく、というのがアルトマン監督による群像劇の定番手法で、今回もまた、保安係や姉妹歌手の娘(リンジー・ローハン)らが、その"繋ぎ"の役割を果たしている。

その世界に"異物"として登場するのが、トミー・リー・ジョーンズ演じる会社役員だが、普通のこの種の映画なら、彼さえも世界内に受け入れられ、大団円を迎えるはずが敢えてそうせず、徹底的に排除されたまま退場しつつも、それでも尚、"終わり"の運命は変えられない。"白いコートの女"が象徴的に述べる、「老人の死は悲劇ではない」のセリフとともに、"終わる"事の意味を様々に提示する、そんな狙いがよく表れている。

だが、そうしたテーマ、主張を提示するギミックは良くしたものだが、全体的なストーリーの収束、まとまりに関しては少し弱さを感じ、鑑賞後には幾分の物足りなさを感じてしまいがちでもある。もう少しくらいは、ストーリー的なヒネリがあっても良かったのでは、とも思う。

たとえ"遺作"でなくとも、これまでのアルトマン作品のいくつかに、自分の嗜好と合うものがあった人なら必見だろう。そうでなくとも、カントリー・ミュージックや舞台裏ものが好き、あるいは出演者誰かのファンであれば、充分に楽しめるはずだ。機会があれば。


余談:
舞台となっているラジオ番組『プレイリー・ホーム・コンパニオン』は実在し、本作の原案・脚本を務め、映画内でもMC役で出演しているギャリソン・キーラー本人のMCによって、現在でも打ち切られずに続いている長寿番組だそうな。どんなものか一度くらいは聴いてみたいもんだ。


tsubuanco at 16:31|PermalinkComments(3)TrackBack(3)clip!映画 

2007年03月28日

口裂け女 55点(100点満点中)

とお墓に手首

約30年前に都市伝説として日本中を席巻し社会現象にまでなった、当時を知る者には懐かしい"口裂け女"を題材に、現代に蘇った恐怖を描いたホラー映画。

『ノロイ』や『ほんとにあった!呪いのビデオ』シリーズなど、擬似ドキュメント、擬似ノンフィクション風オカルト作品を多く手がけている白石晃士が監督を、脚本もまた同ジャンルを多く手がける横田直幸が担当。

この人選は、実在の都市伝説を扱った本作には適しているのだろう。実際に、噂話やメディア報道などを劇中にて多用して、絶対に有り得ない話ながら、現実との地続き感を持たせて受け入れやすくする効果を狙った手法が、本作でも全体的に使われている。

同時に、ノンフィクションとしての昔ながらの"口裂け女"の物語ではなく、30年前の都市伝説を踏まえた上で現代を舞台とし、"復活"を描いた本作は、新解釈による大胆な改変が多々見られ、古典的ネタを用いながらも新しい作品を作ろうとする、作り手の意志は感じられる。

敢えて元ネタと同じ要素を使う部分と、改変、創作部分のバランスは程よく、「ワタシ、キレイ?」の名台詞なども、あえて違う形、意味に改変し、口裂け女の出自とともに事件の解決法にも影響を与え、観客の思い込みを裏切って"予定調和"を崩す、こうした工夫は面白い。(ながらもオチが予想通りだったのは肩透かしだが)

また、この種のホラー映画では、誰が死んで誰が助かるといった予想がある程度つく場合が多いが、本作は比較的早い段階で、予想の範囲外だった人物を死なせるなどして、先読みを難しくするとともに、容赦のない残酷さを見せつける、視覚的にも心理的にも興味を引く仕掛けとなっているのは評価出来る。

特に、子供の噂が中心となって広まった都市伝説を題材としているだけに、本作でもまた被害者のメインは子供で、この子供達に対する口裂け女の残虐な仕打ちには、直接的な映像は控えめであるにも関わらず、眼を背けたくなる様な嫌悪感を覚え、作り手の狙いにまんまと乗せられてしまう。

美人女優の水野美紀が特殊メイクやCGによって変貌させられている口裂け女のビジュアルは、元が美人なだけに余計にグロテスクになる、という元ネタを上手く再現しつつ、裂け方をオリジナルな形にしてまた違った印象も与えている、よく出来たもので、その狂気の演技とともに、久々の"代表作"足り得ているのではないだろうか。

母と子の愛憎、とりわけ虐待をクローズアップし、三組の母子の虐待と愛憎関係に相似形を見せ、物語の流れとキャラクターの動向を決定づける縦糸とする、この狙いもまた、一発ネタ的な題材にストーリーを持たせ、その成行きをある程度観客に想像させ、時に裏切る、比較的考えられた構成となっている。

主人公である女教師(佐藤江梨子)、被害者少女の母(川合千春)、口裂け女(水野美紀)と、やたらと長身な女性キャストでメインを固めているのも、この"母と子"の関係を、身長差で視覚的にわかりやすくする意図と、口裂け女に関しては、子供目線でのローアングルによって、その迫力と恐怖を増幅する、そんな狙いによるものかとも思わされる。

この様に、楽しめる部分、よく出来ていると思わされる部分もあり、観ていて退屈する事は全く無いのだが、同時に、ストーリー、キャラクター的なツッコミどころや、映像的に首を傾げてしまうカットなども散在し、全体的な完成度を下げてしまっているのが非常に勿体ない。

ビジュアル、映像的な面で気になったところを挙げると、まず主演の佐藤江梨子が"胸は100点、顔はマイナス500点"レベル(世界のヘイポー)のブタマンジュウ顔なのは全くいただけない。

他の女優陣が子役も含めて美形揃いなだけに、そのブサイクさが殊更に目立ち、口裂け女よりこっちの方が直視出来ない惨状になっている。これでは恐怖も泣かせも薄れてしまうというもの。演技も上手くないどころか下手すぎるので、何故彼女を選んだのか大いに疑問だ。背が高くて巨乳なだけでいいなら、木村沙織あたりの方がよっぽどマシだ。

予告編でも使われている、公園を歩いている母子の場面で、子供が横を見ると同時にカメラをそちらに振って母親をフレームアウトさせ、子供の視点移動に合わせてカメラを母親側に戻すと、母親ではなく口裂け女が立っている、という映像などは、古典的な手法ながらもショッキングな効果を的確に挙げており、評価点となり得るはずなのだが、同様の手法を何度も何度も多用しすぎる事で、先読みが容易になりすぎ、観客が驚けなくなってしまう残念な結果となっている。使いどころさえわきまえれば効果的なだけに、一度にとどめるべきだっただろう。

また、見せたいところを的確に切り取れていないと感じる、少しもどかしさを覚える映像構成が、大事なところにまで使われているのも気になる。

例えば序盤の教室シーン、無人の教室に入ってくる男性教師、ふと黒板を見るとラクガキがしてあるので消そうと近寄るが、それが口裂け女の絵なので戸惑う。という流れにおいて、無人の教室を表す最初のロングショットで、既に画面最奥の黒板にフォーカスが当たっていて、何が描かれているのかを観客に見せてしまっており、その画面手前にフレームインしてきた教師が黒板に視線を向けると同時に、フォーカスを黒板から教師に移動させる、という映像になっているが、どう考えてもフォーカス移動の順が反対ではないか。

最初の被害者が消えるシーンでも、後ろを振り向くと口裂け女がいて一人が捕まり、残る二人があわててその場を離れる、までの流れはいいが、二人がゆっくりと口裂け女がいた方を振り返ると、そこにはもう誰もいない、となる、"消失"を表すカットは、正反対の方向にカメラを置いて、振り向いた二人の後ろ姿を手前に配し、二人の視線の先として"消えた"場所を二人舐めで画面奥に見せる、とでもした方が、より効果的だっただろう。

中盤の駐車場シーンも、車を出て歩き出す老人と子供、をまずロングで見せるところまではいいが、続いて人間が誰も映っていない横移動ショットにて、駐車してある車を順に見せ、空いたスペースに子供の死体が見えてそれを大きく映した後、カットが切り替わってカメラ位置が正反対になり、画面手前に死体を配し、横に停められている車の影から、画面奥にて先程の二人がフレームインし、それを発見して驚く、という映像構成となっているが、これもまた首を傾げる。

それに準ずるカット割りで構成するにしても、先の横移動ショットでは、歩く二人を画面手前に配してそれを追う映像と見せかけ、奥に並んでいる車を順に映していき、死体がフレームインするかしないかの瞬間に逆方向のカットに切り換えて、画面手前に死体を配し、それ舐めのローアングルで、画面奥にそれを発見して驚く二人のリアクションを正面から見せ、その後二人どちらかの主観映像として、死体の全貌をハッキリ見せる、などした方が、作中人物の驚きと観客の驚きをシンクロさせられたのではないだろうか。

これらの映像的問題点は、これまで擬似ドキュメント的な作品ばかりを手がけてきたスタッフだけに、ドラマ慣れしてない事が理由だろうが、誰か"わかる人"がコンテをチェックすれば解消される事で、詰めの甘さを感じる。

ストーリー的な点では、佐藤江梨子と加藤晴彦のメイン二人と、口裂け女マニアの男子小学生がらみの、「人が死んでるんだから、もっとちゃんとしろよ!」と誰もが突っ込んでしまう、あまりに不自然な行動に違和感を感じてしまう事が、感情移入や作品世界への没入を阻害する、特に大きな問題として挙げられる。

リアリティを持たせるためにメディアや警察を出しながら、それを面白くする方向に活かすどころか、逆に観客をシラケさせる材料としてしまっては本末転倒だ。よく考えると無理があっても、観ている段階では何となく受け入れてしまう、そうした工夫は、有り得ない話には尚更必要なのに、それを放棄しているのは脚本段階での大きな不備だ。

いろいろと難点やツッコミどころも多いが、ホラー好きなら間違いなく必見レベルの、それなりに楽しめる作品ではある。子供達もカワイイ。

余談:
キチガイ女が子供を拉致監禁してハサミで切り刻む、というシチュエーションは、楳図かずおの『神の左手 悪魔の右手』第一章『錆びたハサミ』と全く同じだが、これはオマージュか?



tsubuanco at 16:41|PermalinkComments(2)TrackBack(5)clip!映画 

2007年03月27日

ホリデイ 40点(100点満点中)

植木等氏のご冥福をお祈りいたします
公式サイト

『恋愛適齢期』(2003)の監督、脚本で知られる、ナンシー・マイヤーズ最新作。

それぞれ信じていた男に裏切られ傷心中の、イギリスとアメリカに住む二人の30代女性がインターネットを通じて出会い、気分転換にと2週間の自宅交換を行う事に。全く違った環境にて出会う様々な出来事と人間を通じ、二人の女性の成長と癒しを描いたドラマ。

主人公の一人、ハリウッドでトレイラー製作の仕事をし、巨額の収入で大豪邸に住んでいるが男には浮気されて別れる、"勝ち組だけど負け犬"な女性をキャメロン・ディアスが、イギリスの出版社で働くインテリだが、男には二股をかけられた上に本命の方と結婚される、"デキる女だが都合のいい女"になってしまっている、もう一人の主人公をケイト・ウィンスレットがそれぞれ演じている。

それぞれのメインとなるラブストーリー自体は、お約束的展開に満ちたベタなものに過ぎないながらも、アメリカとイギリス、二つの舞台に存在する事物、人物はそのままに、二人の主人公だけが入れ替わって、"異物"として異なる舞台へ飛び込み、そこで起こる様々なギャップを、ディテールからメインストーリーまで、あらゆる面で映画の"面白さ"の主軸とする、そうした構成によって少し変わった空気を生じさせ、作品の特徴としている。

だが、キャメロンサイドのイギリスでの展開は、キャメロンがあまり多くの人間と関わらず、ジュード・ロウ演じるケイトの兄との出会い、進展がほとんどを占めているため、豪勢な暮らしをしていた女性が、あまり大きくない家で犬と生活する、そのギャップがあまり見せられず、せいぜいが左側通行の狭い道路で自分で車を運転するのに悪戦苦闘する、といった場面くらいにしか設定の特異性が活かされていなかったのは、あまり上手いとは言えないだろう。

また、キャメロンの前に唐突に現われた、ケイトの兄を自称するジュード・ロウだが、風貌がケイトを裏切った男とよく似ており混同してしまう人もいるかもしれない。

この二人を混同してしまうと、この後に展開するキャメロンとジュードのラブラブドラマを、「本命とは婚約し、ケイトもとりあえずキープし、更にキャメロンにも手を出す、何なんだこのニヤケ男は」と、完全に間違った見方となってしまい、全く楽しめなくなるおそれがあるので注意が必要だ。

そんな勘違いさえしなければ、旅先でハイテンションながらもする事がなく、初日の段階で帰りたくなっっていたキャメロンが、いきなり現われたイケメンを前にしてテンションが最高潮にたかまり会ってすぐにセックスしてしまう、事象は現実離れした都合が良すぎる有り得ないことながらも、その上でのキャラクターの言動は、わかりやすくディフォルメされつつ、ありがちでリアルなものと、恋愛ものを楽しむために必要なバランスが上手く取られているストーリーを、自分の経験や願望と重ねて楽しむ事はできるだろう。

旅先での遊びのつもりが徐々に本気に…とか、携帯の着信履歴が女性名ばかりで呆れるが、その女性名とは実は…など、あまりにお約束過ぎて面白味に欠ける節もあり、特にストーリー的に凄いところは何もないのだが、逆に言えば安心して観ていられるという事でもあり、お気楽に観る作品としては、この程度でいいのだろうか。

トレイラー製作者という設定を活かし、実際のハリウッド映画予告編のナレーションでお馴染みの、声だけが世界的に有名な"予告編専属ナレーター"によるナレーションを要所要所に挿入する事で、セルフパロディ的なおかしさと同時に、キャメロンの"職業病"的な精神状態をも表して展開を説明するなどしている、小憎い仕掛けは楽しい。

一方の、ハリウッドを舞台としたケイト側のドラマにおいては、ハリウッドの大映画会社、ソニーピクチャーズ製作の本作、画面に登場するパソコンや電化製品がことごとくソニー製でやたらとロゴが強調されているのは最早お約束だが、それよりも、"古き良きハリウッド映画"をやたらとリスペクトし、現在のブクブクに膨れ上がって堕落したハリウッド映画業界の現状を嘆く、そんなキャラクターが何人も登場して物語を進めている、捨て身の自爆ギャグともとられがちなドラマが、一風変わっており面白い。

この、ハリウッド関連のネタ、ギミックが、ケイトの恋愛ドラマに関わる意味は実はそんなに大きくなく、これらが全て無くとも話を成立させる事は可能、というのが少しいただけないし、この映画を見に来るメインの客層であるカップルは、古い映画の事を言われてもよくわからないのではないか。とも思う。

それでも、ダメな自分から脱却したいと思いながらも出来なかったケイトが、現地で親しくなった老脚本家に勧められた名作映画のヒロイン達の影響で、強い自分に生まれ変わろうとする、という流れはそれなりに活きているか。

が、その老脚本家とのドラマがやたらと大きなウエイトを占めており、恋愛ドラマとして本来メインとなるはずのジャック・ブラックとのドラマが、あまりに拙速で心境変化を緻密に描いているヒマすらない、というのは問題だろう。

それに、レンタルビデオ店での二人のやりとりは、関係の進展を映画ネタに絡めた、それなりに面白い場面として機能しているが、自分だって女と二人で遊んでいながら、自分の彼女が他の男と歩いていたら怒る、というくだりもどうか。怒った理由がそれだけではないにせよ、だ。

また、二つのドラマが並行して進む意味がほとんどなく、せっかくの二重構造をドラマが面白くなる方向にあまり活かせておらず、一つの話だけなら飽きてしまうベタな話を、交互に少しずつ見せる事で興味を持続させる、程度の効果しかあがっていなかったのは根本的な問題か。

そのせいで、両方が一点に集まるラストシーンも、特に大きな感動もなく終わってしまうのだ。せっかくの設定を活かす工夫が、もっと欲しかったところ。

深く考えずにサラッと観る分には、まあ楽しめるのだろうが、結局そうした表層的な楽しみしか得られないため、いつまでも思い出に残る様な作品ではないだろう。出演者のファンなら観て損したとは思わないだろうが、あまり期待しない方がいいかもしれない。レンタルで充分か。



tsubuanco at 16:11|PermalinkComments(0)TrackBack(15)clip!映画 

2007年03月26日

ポイント45 55点(100点満点中)

ポイント使わずに貯め込んでる人って何なの?
公式サイト

ミラ・ジョヴォビッチ主演の最新作、なのだが、内容がいろんな意味でヒドすぎるため、本国ではいまだに公開の目処が立っておらず、現状で鑑賞出来るのは全世界で日本だけという、何だか大変な事になっている問題作。

NYのスラムで盗品売買をしているチンピラのリーダー、アルと同棲している主人公。アルの度が超えたDVに苦しみつつも離れられずにいた彼女だが…と、何だか観ているだけで気が滅入るお話には、マトモな人間が一人も出てこず、ダメな奴らがどんどんダメになっていく様を生々しく見せ続けられる事となる。

主人公の情夫、アルが主人公に振るう暴力はその白眉で、彼女に対する歪んだ執着心、独占欲、支配欲の発露として見せられる暴力シーンを、両者の真に迫るリアルすぎる演技を長回しで見せられ、観客の不快感は最高潮に達し、「こいつら二人とも死ねばいいのに」と誰もが思う事だろう。

これはもちろん、作り手の狙い通りであろう事は間違いない。それは、ファーストシーンは主人公の独白という形をとり、その後のドラマを回想としての再現映像的に見せるとともに、時おり関係者インタビューの形式にて、同じく回想として"当時"の事を語らせるなどした、擬似ドキュメント的な演出により、主人公視点で描かれる物語ながらも、俯瞰的な視点を持ち込んで、観客に偏向した印象を与えない様なされている事からもわかる。

こうして、主人公に理不尽な暴力を振るうアルが人間のクズである事は当然として、同時に主人公もまた、そんなクズを選んで一緒になり、その選択を間違いと認めたくないあまり、思い込みの強さによって男から離れられない、これまた典型的なバカ女であると、徹底して描写されているために、観客の性別に関わらず、どちらに対しても感情移入も共感も出来ない、どうしようもない泥沼が不快感たっぷりに展開する。

当然このままで終わったらお話にならないので、主人公は"自己マインドコントロール"から解放され、逆転劇へと繋がっていくわけだが、この"解放"のきっかけ、あるいは決め手となる描写が曖昧かつ唐突に過ぎ、これは果たして作り手の狙いなのかどうか、少し首を傾げてしまう。

気持ちの切り替えが早いのは確かに女特有の心理動向だが、そう至らせる理由には、何らかのハッキリした事象が無い事には、観客としては意図が掴めないのではないだろうか。"気づいた"直後からの"爆発"の描写がまたリアルなものだっただけに、基点となる部分にも、印象的な仕掛けが欲しかったところ。

この後の展開は、ここまで積み重ねてきた人物描写がようやく意味を持って動き始め、主人公の策略によって籠絡されていく各人物達の顛末は、ほぼ予想がつくものながらも、微妙に違う構図で別の人物に同じ台詞を言わせるなど、シニカルかつユーモラスに展開し、ひたすらダウナー傾向だった物語のテンションも、アッパーへと急速に切り替わり、観客のテンションもまた、笑いすら起こるハイなものへと切り換えられる。いろんな意味で"体を張った"ミラの演技が、その効果を的確に盛り上げている事は言うまでもない。

『ウルトラヴァイオレット』では出し惜しみされていたミラの裸体は、今回は充分に披露されており、今までの様に単に脱いでいるだけでなく、今回は男女白黒いろんな相手とセックスしまくりなので、ファンは間違いなく必見。本国の事情によっては今後どうなるかわからない本作、興味があるなら劇場で観ておいた方が、後悔せずに済むかもしれない。

常に「Fuck,Fuck」と言いまくりな、スラングの中に台詞が埋もれている様な本作のダイアローグ、これを的確に日本語字幕に表すのは難しいとは思うが、作品の決め手となる最も重要な言葉、「Rip,Tits,Hip」を「唇と胸と尻」などとストレートに直訳してしまっているのはいただけない。明らかに韻を踏んでいる原語台詞のテイストも、これでは台無しだろう。



tsubuanco at 16:47|PermalinkComments(4)TrackBack(1)clip!映画 

2007年03月25日

アルゼンチンババア 20点(100点満点中)

人間発電所ブルーノ・サンマルチノ
公式サイト

とある町外れのゴミ屋敷に住む変人、通称"アルゼンチンババア"によって奇妙な運命を辿る、母を失った娘と父のドラマを描いた、よしもとばななの同名小説を映画化。

主人公を堀北真希、父を役所広司、そしてアルゼンチンババアを鈴木京香が演じる。

ヘンテコなキャラクターとリアルな人間心理を、少しだけ浮世離れした舞台への移行とともに交錯させ、その柔らかい文体も加味して独特の癒し感を与える、そんなテイストの原作であったが、今回の映画化で、そのテイストを上手く再現、あるいは映画独自の魅力を打ち出せていたか、と聞かれると、かなり厳しい出来になっている。

独特の"舞台"を再現するために、牧場の草原を借りて実物大の屋敷を建ててしまう事で、草原の地面に立った人間視点による映像として、草原の緑と空の青の二層構造となる、広がりのある空間と、そこにポツンと立つ屋敷、のコントラストを印象的に見せ、屋敷の屋上場面においては、屋上より更に高い俯瞰視点による映像によって、先述の草原と青空の二層がより立体的な広がりを見せ、屋上内のゴチャゴチャした混沌とのギャップを際立たせる効果となっている。

終盤の海の場面なども含め、実景を活かして魅せる映像を作る工夫は、そこかしこに感じる事が出来るのだが、そこで繰り広げられるお話が面白く見せられない事には無意味だ。

主人公を中心とした、各人物の、表出している感情、言動と、その奥に原動力として込められている心情、それぞれを上手く観客に伝え、場面場面での各人物の言動の意味を受け止めてもらえない事には、ドラマを楽しむ事は出来ない。

いろいろと出来事が起こる中で最も大きな問題として存在し、物語の方向性を定めている"父の逃避"の描写、表現が、あまりに不出来に過ぎる事が、楽しめない最大の理由だろう。

妻の死を認めたくない、というのはわかるにしても、何故母が死ぬ日に限って病院に行かなかったのか、妻が死ぬ事を前もってわかっていたのか、などと、常に首を傾げさせられてしまう、説明、表現不足はいただけない。

実際に死ぬより先に、「妻が死ぬ」という重責からの逃避が表出し、"見舞いに行かない"事を選択した、たまたまそのタイミングで本当に死んでしまい、余計に死後の"逃避"を加速させた、という意味があるのだろうが、そんな事は映画を観ているだけでは全く伝わらない

そうした父の"思い"が、母の死に立ち合う場面での主人公の"思い"と、それを引きずり続ける事との相似形と受け手側に気づかせ、逃避を行っていたのは父だけではなく、娘もまた、"自分の責任"と思い込み続けた感情から逃避した故の様々な行動であった、と、終盤の"和解"を感動に結びつける、大きな流れを構成していたはずが、全く表現されていないのだ。

だから、単に情けない父親の情けない行動に振り回される可哀相な少女の話、としか見えず、そんなストレスの溜まる不快な話を見せられても、観客はイライラするばかりで少しも楽しくないし、終盤の和解にも何ら納得がいかないのだ。

この様に、全てのキャラクターの描写、彫り込みが甘く、ただ上辺の言動をなぞっているに過ぎないので、場面ごとのつながりも希薄となり、物語としてのまとまりさえも感じられない結果となっている。

それは例えば、主人公と見習いマッサージ師(ココリコ田中)にまつわるドラマにしても同様で、母が死んで父も消えて、一人で全てを背負って倒れそうになった主人公に対し、ただ一人"癒し"の手を差し伸べたのがマッサージ師であり、それによって主人公の数少ない拠り所となるが、それすらも裏切られてしまい、どんどん自暴自棄へ陥ってしまう、という意味があるのだが、これが映画を観ているだけでは非常にわかりにくい

そして、物語の流れを左右する重要人物、タイトルにさえなっている"アルゼンチンババア"に関する問題点が、その"わからなさ"を更に増幅しており、観客のシラケ、ツッコミを誘ってしまっている。

ゴミ屋敷に住む醜悪なキチガイババアに父を奪われた事が、主人公や周囲の人間に大きなショックを与え、でもそんなババアが実は、"癒し"の存在たり得ていたのだ、というギャップこそが大きなポイントとなるべきなのに、まずゴミ屋敷が外見も内側もあまり汚くないので、「クサい」と台詞で言われても実感として伝わらない。むしろネコがいっぱいいて住みたくなるくらいだ。

屋敷だけでなくババア本人もまた、普段の美人女優の鈴木京香と変わらない、不潔感が全く感じられない外見と、特におかしくもない言動では、何ら強烈なインパクトを与えないのだ。これではそもそも話が成立しない

堀北真希に関しては、泣き、怒り、拗ねる、様々な表情で的確に感情を表し、また、執拗にパン作りにこだわったり、自転車やバイク関連の"コケ"など、コミカルながらも情念を見せるなどして、薄幸の美少女をよく演じており、ファンならずとも、その魅力を発見できるだろう。最初に述べた映像的な面と、彼女の魅力だけは、数少ない評価点として挙げる事は出来る。

というわけで、堀北真希ファンなら必見だが、それ以外には、原作ファンも含めてオススメは出来ない。作品に興味がある人は、レンタルまで待った方がいいかと。



tsubuanco at 15:48|PermalinkComments(0)TrackBack(11)clip!映画 
Comments