2007年05月
2007年05月31日
約束の旅路 87点(100点満点中)07-150
涙の母、喘息の母、暗闇の母
公式サイト
エチオピア難民でありキリスト教徒である主人公の少年が、母親によってユダヤ人の子として単身イスラエルへ亡命させられ、様々な意味で"ニセモノ"としての意識を背負い苦悩しながらも、周囲の人々との出会いによって克服していく様を描いたフランス映画。
イスラエルやユダヤ人を扱った映画は、大抵が政治的、社会的メッセージが強いものが多く、本作も同様ではあるが、どちらかといえばイスラエル社会のマジョリティに対し批判的な、アイロニカルな方向性で作られているのが、まず表面的な面白さとして目につく。
後半から登場する、主人公の恋人の父親が、極めて類型的な原理主義、差別主義者として、徹底的に悪役然として描写されている事にそれは顕著だが、それ以前の段階から既に、入国審査などの描写にて、常に"上から目線"なイスラエル人達の態度、言動を描写し続けており、その方向性は如実に見て取る事が出来る。
これはもちろん、宗教や人種で人を見下し差別する事の愚かしさ、それに拘泥する事の愚かしさ、と、本作メインテーマを伝えるために作り込まれているのだが、あらゆる人物設定、エピソード展開が、そのテーマに結実するために計算され尽くし練り込まれている、脚本の完成度の高さが、本作最大の評価点である。
主人公はユダヤ教徒ですら無く、その上エチオピアのユダヤ人は本当はユダヤ人とは関係ないとする歴史学的な一説も存在し、更に入国時の"母親"は本当の母親ではなく審査で述べた家族も本当の家族ではない、と、本当の自分を隠し続けなければ、文字通り生きていく事が出来ない境遇にある。
そうした複数の"ニセモノ"の概念に悩み苦しむ主人公の、周囲に存在する人物達もまた、本音と建前、過去と現在、自分と家族、など、あらゆる二律背反を抱え主人公と相対する事で、主人公の持つジレンマをより強調してドラマを盛り上げるとともに、相対する側も同じくテーマを強調すべく相似形を築き上げる、そうした構成が巧みにエピソード内に組み込まれている、その秀逸さには感心させられ通しとなる。
そうしたテーマを、単にイスラエルやユダヤ人の問題だけでなく、世界中に普遍的な、宗教、人種、格差、などによる差別と融和の問題として伝えるべくキャラクターを表現、エピソードを展開させ、"悪役"ではない主人公の周囲の人物達を、それぞれ複雑な内面を抱える生きた人間として描写する事で、観客一人一人の周囲の問題と同一視させ、テーマをより強烈に認識させる、脚本の狙いをしっかりと活かした演出、演技の巧みさも素晴らしい。(だからこそ、"悪役"の類型さが滑稽に見えてしまうのが残念か)
エチオピアのユダヤ人は本当にユダヤ人なのか、といった根源的疑念に明確な回答を下していないのは、もちろんそんな事は主人公にとって重要な価値を持ってはいないからである。先述の通り主人公はユダヤ教徒ですらなく、その事を周囲が認識した上でハッピーエンドを迎える展開からも、それは明白だ。これを一方の側からの政治的プロパガンダ映画だ、と決めつける方が恣意的に感じる。少なくとも観てから判断すべきだ。
溝口健二の『山椒大夫』を彷彿とさせる(まさか意識はしていないだろうが)ラストシーンに、大いに感動させられるのも、そうした政治的メッセージよりも、より人間の根源に迫るテーマを描き、結実させているからに他ならない。
このラストシーンからも見て取れる様に、"裸足"を"本当の自分"として視覚的にわかりやすく表現し、随所に挿入して伝えるなど、テーマを難解にせずわかりやすい表現とする作りが全体を支配している事が、より普遍的な感動を生む事は言うまでもない。
普遍的なテーマを扱っているので、知らなくてもあまり問題は無いのだが、エチオピア原住のユダヤ人や、イスラエルの還民政策など、実世界における事実をまず認知、理解してから鑑賞した方が、より場面場面の内容が深く伝わり、楽しめるだろうから、詳しくない人は事前に予習してからの方がいいかもしれない。まあ、普通の社会人にとっては基礎知識だろうが。
映画好きなら必見の一本。機会があれば。
公式サイト
エチオピア難民でありキリスト教徒である主人公の少年が、母親によってユダヤ人の子として単身イスラエルへ亡命させられ、様々な意味で"ニセモノ"としての意識を背負い苦悩しながらも、周囲の人々との出会いによって克服していく様を描いたフランス映画。
イスラエルやユダヤ人を扱った映画は、大抵が政治的、社会的メッセージが強いものが多く、本作も同様ではあるが、どちらかといえばイスラエル社会のマジョリティに対し批判的な、アイロニカルな方向性で作られているのが、まず表面的な面白さとして目につく。
後半から登場する、主人公の恋人の父親が、極めて類型的な原理主義、差別主義者として、徹底的に悪役然として描写されている事にそれは顕著だが、それ以前の段階から既に、入国審査などの描写にて、常に"上から目線"なイスラエル人達の態度、言動を描写し続けており、その方向性は如実に見て取る事が出来る。
これはもちろん、宗教や人種で人を見下し差別する事の愚かしさ、それに拘泥する事の愚かしさ、と、本作メインテーマを伝えるために作り込まれているのだが、あらゆる人物設定、エピソード展開が、そのテーマに結実するために計算され尽くし練り込まれている、脚本の完成度の高さが、本作最大の評価点である。
主人公はユダヤ教徒ですら無く、その上エチオピアのユダヤ人は本当はユダヤ人とは関係ないとする歴史学的な一説も存在し、更に入国時の"母親"は本当の母親ではなく審査で述べた家族も本当の家族ではない、と、本当の自分を隠し続けなければ、文字通り生きていく事が出来ない境遇にある。
そうした複数の"ニセモノ"の概念に悩み苦しむ主人公の、周囲に存在する人物達もまた、本音と建前、過去と現在、自分と家族、など、あらゆる二律背反を抱え主人公と相対する事で、主人公の持つジレンマをより強調してドラマを盛り上げるとともに、相対する側も同じくテーマを強調すべく相似形を築き上げる、そうした構成が巧みにエピソード内に組み込まれている、その秀逸さには感心させられ通しとなる。
そうしたテーマを、単にイスラエルやユダヤ人の問題だけでなく、世界中に普遍的な、宗教、人種、格差、などによる差別と融和の問題として伝えるべくキャラクターを表現、エピソードを展開させ、"悪役"ではない主人公の周囲の人物達を、それぞれ複雑な内面を抱える生きた人間として描写する事で、観客一人一人の周囲の問題と同一視させ、テーマをより強烈に認識させる、脚本の狙いをしっかりと活かした演出、演技の巧みさも素晴らしい。(だからこそ、"悪役"の類型さが滑稽に見えてしまうのが残念か)
エチオピアのユダヤ人は本当にユダヤ人なのか、といった根源的疑念に明確な回答を下していないのは、もちろんそんな事は主人公にとって重要な価値を持ってはいないからである。先述の通り主人公はユダヤ教徒ですらなく、その事を周囲が認識した上でハッピーエンドを迎える展開からも、それは明白だ。これを一方の側からの政治的プロパガンダ映画だ、と決めつける方が恣意的に感じる。少なくとも観てから判断すべきだ。
溝口健二の『山椒大夫』を彷彿とさせる(まさか意識はしていないだろうが)ラストシーンに、大いに感動させられるのも、そうした政治的メッセージよりも、より人間の根源に迫るテーマを描き、結実させているからに他ならない。
このラストシーンからも見て取れる様に、"裸足"を"本当の自分"として視覚的にわかりやすく表現し、随所に挿入して伝えるなど、テーマを難解にせずわかりやすい表現とする作りが全体を支配している事が、より普遍的な感動を生む事は言うまでもない。
普遍的なテーマを扱っているので、知らなくてもあまり問題は無いのだが、エチオピア原住のユダヤ人や、イスラエルの還民政策など、実世界における事実をまず認知、理解してから鑑賞した方が、より場面場面の内容が深く伝わり、楽しめるだろうから、詳しくない人は事前に予習してからの方がいいかもしれない。まあ、普通の社会人にとっては基礎知識だろうが。
映画好きなら必見の一本。機会があれば。
2007年05月30日
ダニエラという女 88点(100点満点中)
「インドという国は(中略)カレーばかり食べていて…」
公式サイト
1986年の映画『タキシード』などで知られるベルトラン・ブリエ監督によるフランス映画。タイトルロールの"ダニエラ"を演じるのは世界最高の美熟女と断言出来る、モニカ・ベルッチなんと40歳である。
このモニカ・ベルッチがとにかくエロエロで美しすぎる事が、何より本作の大きな見どころである事は間違いない。欠点の全く見当たらない顔立ち、豊満という言葉がまさにピッタリなド迫力の肉体美、それを惜しげなく脱いで濡れ場まで披露する大サービスぶり、と、彼女が画面に映っている間は一瞬たりとも目が離せない事受け合いだ。
そんな彼女が娼婦を演じ、一人の孤独な中年男性に買われるところから始まる物語、映像や演出の雰囲気からしても、予告編の構成からしても、魔性の女に翻弄されるダメ男の悲喜劇を哀愁たっぷりに描いたロマンス映画、との印象をまず受けるのだが、いや、それは確かに間違ってはいないのだが、実際には本作、そうした雰囲気を下地とした上で確信的に、シュール且つ観念的なコメディとして作られている事に始まって間もなく気づかされ、かなり驚かされる事となる。
これが、台詞のやり取りやアクションで笑わせる様なベタなコメディではないため、当初は本当にここで笑っていいものかどうか戸惑ってしまうくらいに、ベースとなる映像や演出がしっかりしている、このギャップが段々面白さを増幅し始めるのだ。
あくまでも見せ方でおかしさを醸し出す、そんな作りが徹底している本作、現実世界の通常映像は、昼も夜も陰を強調しトーンを落とした暗い映像で通し、主人公の脳内ビジョンに切り替わると、ハッキリクッキリと一転して光に満ちたものとなる。これによって理想と現実、妄想と現状、のギャップをよりわかりやすく強調して、現実へ立ち返った時の落胆あるいは安心との緩急を持たせている。まずこの、わかりやすい手法によって、この映画がコメディである事を端的に理解させる意図もあるのだろう。
画面手前で起こっている事と画面奥にピンボケで見えているものとの落差によりおかしさを生み出す、という手法も繰り返し使われている。
必死で救急車を呼ぶ主人公の後ろでゲロを吐き続けるダニエラ、という画面がまずそれに当たる。ここに至るまでの流れで、「こんな女と一緒にいたら死ぬぞ」と言っていた本人が死ぬ、という自爆ギャグでまず笑わせ、更にゲロの連発で畳み掛ける、それを過剰な演出とはせずにさりげなく背景として見せる、この一連の構成、仕掛けの上手さは絶妙だ。
去ってゆくダニエラを見る主人公の背後で隣人が手ぐすね引いているカットであったり、ベッドルームで絡み合うダニエラとボスの後ろにボディガードが座って本を読んでいたりと、同様の手法によって観客の笑いを誘うと同時に状況説明や今後の示唆まで行ってしまう、こうしたやり口が随所に配置されている事で、最後まで飽きずに楽しむ事が出来る。
もちろん笑いだけでなく、本筋のストーリーや人物のキャラクター立ても丁寧に行われており、だからこそ安心して笑いながら観る事が出来る事は言うまでもない。
ダニエラは一体何を考えて行動しているのか、といった心理劇、ダニエラと主人公に絡む三角四角関係の推移を見せるラブコメ的ドラマ、など、二転三転しどうなっていくのか、興味を引き続けられるストーリー構成はよく考えられている。特に医者と隣人のキャラは面白すぎる。
シリアスなラブロマンス、を期待するとビックリするだろうが、そのギャップをも柔軟に楽しめる人なら大いに独自の世界を堪能出来る筈だ。エロ目当てでなくとも、機会があれば是非。もちろんエロ目的であっても不満は出ないだろう。
公式サイト
1986年の映画『タキシード』などで知られるベルトラン・ブリエ監督によるフランス映画。タイトルロールの"ダニエラ"を演じるのは世界最高の美熟女と断言出来る、モニカ・ベルッチなんと40歳である。
このモニカ・ベルッチがとにかくエロエロで美しすぎる事が、何より本作の大きな見どころである事は間違いない。欠点の全く見当たらない顔立ち、豊満という言葉がまさにピッタリなド迫力の肉体美、それを惜しげなく脱いで濡れ場まで披露する大サービスぶり、と、彼女が画面に映っている間は一瞬たりとも目が離せない事受け合いだ。
そんな彼女が娼婦を演じ、一人の孤独な中年男性に買われるところから始まる物語、映像や演出の雰囲気からしても、予告編の構成からしても、魔性の女に翻弄されるダメ男の悲喜劇を哀愁たっぷりに描いたロマンス映画、との印象をまず受けるのだが、いや、それは確かに間違ってはいないのだが、実際には本作、そうした雰囲気を下地とした上で確信的に、シュール且つ観念的なコメディとして作られている事に始まって間もなく気づかされ、かなり驚かされる事となる。
これが、台詞のやり取りやアクションで笑わせる様なベタなコメディではないため、当初は本当にここで笑っていいものかどうか戸惑ってしまうくらいに、ベースとなる映像や演出がしっかりしている、このギャップが段々面白さを増幅し始めるのだ。
あくまでも見せ方でおかしさを醸し出す、そんな作りが徹底している本作、現実世界の通常映像は、昼も夜も陰を強調しトーンを落とした暗い映像で通し、主人公の脳内ビジョンに切り替わると、ハッキリクッキリと一転して光に満ちたものとなる。これによって理想と現実、妄想と現状、のギャップをよりわかりやすく強調して、現実へ立ち返った時の落胆あるいは安心との緩急を持たせている。まずこの、わかりやすい手法によって、この映画がコメディである事を端的に理解させる意図もあるのだろう。
画面手前で起こっている事と画面奥にピンボケで見えているものとの落差によりおかしさを生み出す、という手法も繰り返し使われている。
必死で救急車を呼ぶ主人公の後ろでゲロを吐き続けるダニエラ、という画面がまずそれに当たる。ここに至るまでの流れで、「こんな女と一緒にいたら死ぬぞ」と言っていた本人が死ぬ、という自爆ギャグでまず笑わせ、更にゲロの連発で畳み掛ける、それを過剰な演出とはせずにさりげなく背景として見せる、この一連の構成、仕掛けの上手さは絶妙だ。
去ってゆくダニエラを見る主人公の背後で隣人が手ぐすね引いているカットであったり、ベッドルームで絡み合うダニエラとボスの後ろにボディガードが座って本を読んでいたりと、同様の手法によって観客の笑いを誘うと同時に状況説明や今後の示唆まで行ってしまう、こうしたやり口が随所に配置されている事で、最後まで飽きずに楽しむ事が出来る。
もちろん笑いだけでなく、本筋のストーリーや人物のキャラクター立ても丁寧に行われており、だからこそ安心して笑いながら観る事が出来る事は言うまでもない。
ダニエラは一体何を考えて行動しているのか、といった心理劇、ダニエラと主人公に絡む三角四角関係の推移を見せるラブコメ的ドラマ、など、二転三転しどうなっていくのか、興味を引き続けられるストーリー構成はよく考えられている。特に医者と隣人のキャラは面白すぎる。
シリアスなラブロマンス、を期待するとビックリするだろうが、そのギャップをも柔軟に楽しめる人なら大いに独自の世界を堪能出来る筈だ。エロ目当てでなくとも、機会があれば是非。もちろんエロ目的であっても不満は出ないだろう。
2007年05月29日
あしたの私のつくり方 32点(100点満点中)
あたしのあしたのつかい方
公式サイト
成海璃子主演、無意味な自意識と連帯意識に振り回される、少女期に限らない女性特有のありがちな内面を、主人公を取り巻く環境や人物との関わりによって描いた青春映画。監督は少女を主人公とした作品を得意とする市川準。
真戸香による小説が原作とされているが、これは映画化企画に合わせて書かれたノベライズと呼んだ方がふさわしい位置づけのもので、これと比較してどうこう述べる事は、映画の評価とはあまり関係ない。
題材はNHKの『中学生日記』あたりでよく採り上げられていそうな、クラス内で自分のポジションを確保するためのテクニックを心得て、表面的には無難に過ごしているはずの主人公が、本来の自分、現状の自分、こうありたいと願う自分、なりたくない自分、などの狭間で葛藤し逃避する、自縄自縛の悩みを描いたものだが、その内容は悪い意味で中学生日記レベルと大差ない、特に目新しい発見や切り口が見つかるものではない。
また、十代前半の少年少女がメインとなる映画において、成海璃子の演技力が突出しすぎているため、相対的にも他の演者達の演技が極めて拙く見えてしまい、結果として成海璃子の存在が浮いてしまって役柄と合わなくなり世界を壊してしまっている。これはキャスティングや演出の問題点だ。
特に、主人公とほぼ同格に重要な存在である前田敦子(AKB48)の拙さは致命的で、スクールカーストの頂点からドン底へ突き落とされ、そこから一縷の希望を見出して這い上がろうとするもギャップに苦しむ、という極めて難しい役の、その動作や表情から推し量られるべき感情や心理が全く伝わって来ず、よって物語の展開を素直に楽しむ事を阻害してしまっている。
そもそも、どう見てもクラスで7番目程度のビジュアルでしかない彼女が、高嶺の花的な美少女、という設定に問題が大ありで説得力の欠片も感じられないのは、これまたキャスティングの根本的な問題だ。AKB48自体が大人の事情のカタマリのみで形作られた存在であり、いろいろと含むところがある事はわかるが、それならそれで設定を変えて見た目と合う様にすべきだろう。
クラスのリーダーだった最盛期の小六時代を演じる彼女は、本当にクラスにその位置づけでいそうなビジュアルを見せつけ、納得の行く導入だっただけに、余計に後半に語られる設定に違和感が残るのだ。
その小六役がハマっていた前田敦子とは正反対に、倒錯した小学生プレイをしているとしか見えない成海璃子は序盤の映像に違和感が強く、このストーリーとキャラ設定なら、配役は逆の方が説得力があったのではないかと思わされる。
映像的にも、繊細な映像を持ち味としているはずの市川準ながら、入浴の映像に合わせてメールのやりとりを進めるシーンの、二分割画面のぎこちない使い方であったり、エンディングのマスゲームを、成海璃子のアップばかりを追って全く全体像を見せないまま終わらせてしまう、"集団の中の自分"という作品テーマすら放棄したとしか思えない惨状など、出来の悪い映像が気になって、どうにも評価し難い。
背中にもたれあいながら携帯をいじるカットの、画面構成的なバランスの良さと作品テーマの内包を両立させた画面や、卒業式における図書室内での二人のやりとりを、手前に成海璃子、奥に前田敦子を配置し、窓からの自然光を活かした照明と前後の焦点操作によって、ただ座って長々と話しているだけのシーンに間を持たせるなど、よく出来ていると感じられるところもあるだけに残念だ。
本作、お目当てのアイドルを大画面で鑑賞するためにも、成海璃子や前田敦子のファンなら要チェックだが、それ以外は特段に鑑賞の必要は無いだろう。自己責任で。
蛇足:
父・石原良純、母・石原真理子、長女・成海璃子の眉毛ファミリーは、見た瞬間に爆笑。こんなところだけ好キャスティングでどうするんだ。
公式サイト
成海璃子主演、無意味な自意識と連帯意識に振り回される、少女期に限らない女性特有のありがちな内面を、主人公を取り巻く環境や人物との関わりによって描いた青春映画。監督は少女を主人公とした作品を得意とする市川準。
真戸香による小説が原作とされているが、これは映画化企画に合わせて書かれたノベライズと呼んだ方がふさわしい位置づけのもので、これと比較してどうこう述べる事は、映画の評価とはあまり関係ない。
題材はNHKの『中学生日記』あたりでよく採り上げられていそうな、クラス内で自分のポジションを確保するためのテクニックを心得て、表面的には無難に過ごしているはずの主人公が、本来の自分、現状の自分、こうありたいと願う自分、なりたくない自分、などの狭間で葛藤し逃避する、自縄自縛の悩みを描いたものだが、その内容は悪い意味で中学生日記レベルと大差ない、特に目新しい発見や切り口が見つかるものではない。
また、十代前半の少年少女がメインとなる映画において、成海璃子の演技力が突出しすぎているため、相対的にも他の演者達の演技が極めて拙く見えてしまい、結果として成海璃子の存在が浮いてしまって役柄と合わなくなり世界を壊してしまっている。これはキャスティングや演出の問題点だ。
特に、主人公とほぼ同格に重要な存在である前田敦子(AKB48)の拙さは致命的で、スクールカーストの頂点からドン底へ突き落とされ、そこから一縷の希望を見出して這い上がろうとするもギャップに苦しむ、という極めて難しい役の、その動作や表情から推し量られるべき感情や心理が全く伝わって来ず、よって物語の展開を素直に楽しむ事を阻害してしまっている。
そもそも、どう見てもクラスで7番目程度のビジュアルでしかない彼女が、高嶺の花的な美少女、という設定に問題が大ありで説得力の欠片も感じられないのは、これまたキャスティングの根本的な問題だ。AKB48自体が大人の事情のカタマリのみで形作られた存在であり、いろいろと含むところがある事はわかるが、それならそれで設定を変えて見た目と合う様にすべきだろう。
クラスのリーダーだった最盛期の小六時代を演じる彼女は、本当にクラスにその位置づけでいそうなビジュアルを見せつけ、納得の行く導入だっただけに、余計に後半に語られる設定に違和感が残るのだ。
その小六役がハマっていた前田敦子とは正反対に、倒錯した小学生プレイをしているとしか見えない成海璃子は序盤の映像に違和感が強く、このストーリーとキャラ設定なら、配役は逆の方が説得力があったのではないかと思わされる。
映像的にも、繊細な映像を持ち味としているはずの市川準ながら、入浴の映像に合わせてメールのやりとりを進めるシーンの、二分割画面のぎこちない使い方であったり、エンディングのマスゲームを、成海璃子のアップばかりを追って全く全体像を見せないまま終わらせてしまう、"集団の中の自分"という作品テーマすら放棄したとしか思えない惨状など、出来の悪い映像が気になって、どうにも評価し難い。
背中にもたれあいながら携帯をいじるカットの、画面構成的なバランスの良さと作品テーマの内包を両立させた画面や、卒業式における図書室内での二人のやりとりを、手前に成海璃子、奥に前田敦子を配置し、窓からの自然光を活かした照明と前後の焦点操作によって、ただ座って長々と話しているだけのシーンに間を持たせるなど、よく出来ていると感じられるところもあるだけに残念だ。
本作、お目当てのアイドルを大画面で鑑賞するためにも、成海璃子や前田敦子のファンなら要チェックだが、それ以外は特段に鑑賞の必要は無いだろう。自己責任で。
蛇足:
父・石原良純、母・石原真理子、長女・成海璃子の眉毛ファミリーは、見た瞬間に爆笑。こんなところだけ好キャスティングでどうするんだ。
2007年05月28日
GOAL! 2 43点(100点満点中)
レアルが付くのはマドリードだけではありません
公式サイト
2006年FIFAワールドカップ開催直前に公開されたサッカー映画『GOAL!』から引き続き、実在チーム、実在選手が登場する現実のサッカー界を舞台に、創作の人物である主人公のサクセスストーリーが描かれる。
前作では、貧しい不法移民だった主人公が、プロサッカー選手としてイングランド・プレミアリーグのニューカッスルで活躍するまでが描かれていたが、今回は更に、スペインのレアル・マドリードへと移籍し、チャンピオンズリーグに出場する展開となっている。
レアル・マドリードにチームが移った事で、前回では一瞬の出番だったベッカムやジダンなど、クラブ所属のスター選手達がストーリーの必然として普通に画面上に存在し続け、主人公と絡んで物語や試合を展開する事が、前回よりグレードアップしたわかりやすい見どころの一つだろう。
対戦相手にも、ロナウジーニョやアンリなど、あまりサッカーに詳しくない日本人でも知っているレベルの名選手達が登場し、ちょっとした驚きや喜びは味わえるのだが、映画として肝心な筈の、ピッチ外での主人公の人生物語が前回より増して面白くないのは致命的だ。
前回で幸せに結ばれたと思われたヒロインにまつわる問題、幼い頃にいなくなった母親にまつわる問題、の二つが物語のメインとなるが、まず一方の、ヒロイン関連のストーリーは、どうにも低レベルな痴話ゲンカに終始して単に鬱陶しいだけに終わっている。
いきなりスター軍団入りしてちやほやされて、つい調子に乗ってしまう主人公にも問題はあるにせよ、主人公の夢を追う姿に惹かれて一緒になった筈のヒロインが、自分の都合、自分の感情ばかりを主張して主人公の言い分を全く聞かず気持ちも理解しようとせず、そのせいで意地になって主人公と離れておきながら、主人公の職務上の都合で会いたい時に会えないと相手のせいにして逆ギレし、主人公が窮地に陥って参っている時に、その事ではなくメディアの無責任な報道を鵜呑みにして浮気疑惑をぶつけて余計に主人公を参らせる。
と、本当に浮気されても全てヒロインの自業自得どころか、さっさと捨てて若い美人を取っ替え引っ替えして遊ぶ方が正解、としか思えない程の自己中ぶりには全く共感も同情も出来るわけがない。ただでさえ美人ではなく(控えめな表現)主人公の周囲にすり寄ってくる女達には外見では全く適わないのだから、せめて精神的に主人公を支えでもしないと、単なる人生のお荷物でしかないではないか。何だこの女。
そんなわけで、主人公と電話で話すラストシーンも、薄暗く逆光気味の照明の中で、まず階段に腰掛けている状態でずっと会話をさせて体型を隠しておき、電話を終えて立ち上がり後ろを向く動作において、横向きの体勢になった瞬間のシルエットで現状の意味を表現する、それなりに凝った映像で構成されている事自体はいいとは思うが、内容的には「だから何だよ」としか思えずに今後どうなるかなどちっとも気にならないのだ。むしろいなくなった方がスッキリする。
母親とのドラマも、母親本人との再会に関連する流れはそれなりにジンワリくる事は確かだが、父親違いの弟の言動は単にウザいだけでこれまた共感も同情も出来ず、むしろ事故を起こした時に死ねばよかったのに、と思ってしまう程に、観ていて少しも楽しくない。
母親が述べる説明が、全て唐突な台詞のみだったり、自分で「お前のお兄さんだよ」と教えておきながら「あの人の事は忘れなさい」と言ったりと、何をどうしたいのかわからないし納得も出来ない顛末はお粗末に過ぎる。主人公も、弟とサッカーをする場面の前に、とりあえず一度くらいは殴って性根を叩き直してから受け入れろよ、と誰もが得心し難い思いを抱く筈だ。
結局、私生活で主人公の足を引っ張る出来事が本当にジャマなものとしか思えず、ストーリーの面白さになり得ていないのだ。
試合のシーンも前回同様、最後の試合以外は時間が短いせいもあって特に盛り上がらず、大きな楽しみは得られるものではない。
最後の試合だけは、前回同様に圧され気味から逆転へと繋がるハラハラドキドキをそれなりに感じる事が出来、現実の試合映像では意図的に撮る事が不可能な、画面に向かってボールが飛んでくる様なショットを決め所に使って迫力とインパクトを与え、それを実在選手がプレイする映像と交える事でリアリティを無くさずに見させるなど、展開の推移と視覚的な娯楽性とが融合したものとなっており、スポーツ映画のクライマックスとしては問題なく楽しめるだろう。
だがそこでも、主人公の最後のシュート映像が、何故かこれに限ってCG合成丸出しのチープさが目立っていたり、最後に勝負を決める選手がいきなり美味しいとこを持っていきすぎで唖然とさせられてしまい、そのまま終わってしまうなど、首を捻らざるを得ない部分が存在してしまうのが残念だ。せめて最後くらいはスッキリさせて欲しかったのだが。
サッカー関連は前作より良くなってはいるが、ドラマ部は前作以下。前作を観てそれなりに楽しめた人なら、一応は要チェックだろうが、あまり期待しない方がいいだろう。自己責任で。
公式サイト
2006年FIFAワールドカップ開催直前に公開されたサッカー映画『GOAL!』から引き続き、実在チーム、実在選手が登場する現実のサッカー界を舞台に、創作の人物である主人公のサクセスストーリーが描かれる。
前作では、貧しい不法移民だった主人公が、プロサッカー選手としてイングランド・プレミアリーグのニューカッスルで活躍するまでが描かれていたが、今回は更に、スペインのレアル・マドリードへと移籍し、チャンピオンズリーグに出場する展開となっている。
レアル・マドリードにチームが移った事で、前回では一瞬の出番だったベッカムやジダンなど、クラブ所属のスター選手達がストーリーの必然として普通に画面上に存在し続け、主人公と絡んで物語や試合を展開する事が、前回よりグレードアップしたわかりやすい見どころの一つだろう。
対戦相手にも、ロナウジーニョやアンリなど、あまりサッカーに詳しくない日本人でも知っているレベルの名選手達が登場し、ちょっとした驚きや喜びは味わえるのだが、映画として肝心な筈の、ピッチ外での主人公の人生物語が前回より増して面白くないのは致命的だ。
前回で幸せに結ばれたと思われたヒロインにまつわる問題、幼い頃にいなくなった母親にまつわる問題、の二つが物語のメインとなるが、まず一方の、ヒロイン関連のストーリーは、どうにも低レベルな痴話ゲンカに終始して単に鬱陶しいだけに終わっている。
いきなりスター軍団入りしてちやほやされて、つい調子に乗ってしまう主人公にも問題はあるにせよ、主人公の夢を追う姿に惹かれて一緒になった筈のヒロインが、自分の都合、自分の感情ばかりを主張して主人公の言い分を全く聞かず気持ちも理解しようとせず、そのせいで意地になって主人公と離れておきながら、主人公の職務上の都合で会いたい時に会えないと相手のせいにして逆ギレし、主人公が窮地に陥って参っている時に、その事ではなくメディアの無責任な報道を鵜呑みにして浮気疑惑をぶつけて余計に主人公を参らせる。
と、本当に浮気されても全てヒロインの自業自得どころか、さっさと捨てて若い美人を取っ替え引っ替えして遊ぶ方が正解、としか思えない程の自己中ぶりには全く共感も同情も出来るわけがない。ただでさえ美人ではなく(控えめな表現)主人公の周囲にすり寄ってくる女達には外見では全く適わないのだから、せめて精神的に主人公を支えでもしないと、単なる人生のお荷物でしかないではないか。何だこの女。
そんなわけで、主人公と電話で話すラストシーンも、薄暗く逆光気味の照明の中で、まず階段に腰掛けている状態でずっと会話をさせて体型を隠しておき、電話を終えて立ち上がり後ろを向く動作において、横向きの体勢になった瞬間のシルエットで現状の意味を表現する、それなりに凝った映像で構成されている事自体はいいとは思うが、内容的には「だから何だよ」としか思えずに今後どうなるかなどちっとも気にならないのだ。むしろいなくなった方がスッキリする。
母親とのドラマも、母親本人との再会に関連する流れはそれなりにジンワリくる事は確かだが、父親違いの弟の言動は単にウザいだけでこれまた共感も同情も出来ず、むしろ事故を起こした時に死ねばよかったのに、と思ってしまう程に、観ていて少しも楽しくない。
母親が述べる説明が、全て唐突な台詞のみだったり、自分で「お前のお兄さんだよ」と教えておきながら「あの人の事は忘れなさい」と言ったりと、何をどうしたいのかわからないし納得も出来ない顛末はお粗末に過ぎる。主人公も、弟とサッカーをする場面の前に、とりあえず一度くらいは殴って性根を叩き直してから受け入れろよ、と誰もが得心し難い思いを抱く筈だ。
結局、私生活で主人公の足を引っ張る出来事が本当にジャマなものとしか思えず、ストーリーの面白さになり得ていないのだ。
試合のシーンも前回同様、最後の試合以外は時間が短いせいもあって特に盛り上がらず、大きな楽しみは得られるものではない。
最後の試合だけは、前回同様に圧され気味から逆転へと繋がるハラハラドキドキをそれなりに感じる事が出来、現実の試合映像では意図的に撮る事が不可能な、画面に向かってボールが飛んでくる様なショットを決め所に使って迫力とインパクトを与え、それを実在選手がプレイする映像と交える事でリアリティを無くさずに見させるなど、展開の推移と視覚的な娯楽性とが融合したものとなっており、スポーツ映画のクライマックスとしては問題なく楽しめるだろう。
だがそこでも、主人公の最後のシュート映像が、何故かこれに限ってCG合成丸出しのチープさが目立っていたり、最後に勝負を決める選手がいきなり美味しいとこを持っていきすぎで唖然とさせられてしまい、そのまま終わってしまうなど、首を捻らざるを得ない部分が存在してしまうのが残念だ。せめて最後くらいはスッキリさせて欲しかったのだが。
サッカー関連は前作より良くなってはいるが、ドラマ部は前作以下。前作を観てそれなりに楽しめた人なら、一応は要チェックだろうが、あまり期待しない方がいいだろう。自己責任で。
2007年05月27日
ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習 90点(100点満点中)
中田カザフスタン
公式サイト
イギリスのコメディアン、サシャ・バロン・コーエンがカザフスタン人に扮し、"カザフスタン国営放送のレポーター、ボラットが、アメリカへ取材旅行へ行く"という、オープニングからエンディングまでの一切を、"カザフスタン国営放送のドキュメント番組"の体裁にて作り上げた、フェイク・ドキュメント映画。
もともとはTV番組だった短編シリーズの、決定版とも言うべき長編劇場版である。
基本的には、欧米文化に全く無知な(英語ペラペラのクセに)主人公が、米文化を象徴する様々な事象、人物と出会う事でのカルチャーギャップをギャグとした笑いがメインだが、このギャグが、例えばカザフスタンでは、先進国ではタブーとされている、女性、障害者、人種、階級などの差別はあって当然の事で、売春婦などはむしろ女性として最適の立派な職業であるなど、欧米の価値観を皮肉ると同時に後進国を見下す、といった風に、双方をバカにして笑いを生む構図が面白い。
先進国では社会問題とされている、そうした諸問題を周知している常識人ほどいちいち皮肉とブラックを感じ笑える様になされている、この基本的なつくりがまず秀逸。
そこからもっと程度を下げ、チンコ、ウンコ、センズリ、セックスといった別の種類のタブーをも、カルチャーギャップと絡めて単なる下品に終わらない、これまた双方への皮肉とブラックが混在する笑いを生み、更にはそうしたややこしい事とは関係ない、クマの末路など普通にブラックなギャグも随所にボンボン散りばめて笑いの濃度を高め、ずっと笑い通しにさせる狙いが徹底している。
ブラックと関係なく、単なるその場その場のギャグに終わらない、「なんちゃって」やフィスト型大人の玩具など、忘れた頃にネタを復活させて長いスパンのフリとオチで笑わせる様な、長編である事を活かした構成もいくつかあり、脚本構成の巧みさがよくわかる。
ただ、あらゆものを等価に笑い飛ばす事が、こうしたブラックな作品において、観る者の立場によって評価が変わらざるを得ない、といった問題を無くすためのポイントなのだが、本作では、作中でもネタにされている筈の特定マイノリティの、その隠された意図が比較的分かり易く潜在している事は、作品を素直に楽しめなくなる要因として、少し残念ではある。
具体的に言えばユダヤ人の事なのだが、カザフスタン人がユダヤ人を差別している、というネタ、描写そのものは爆笑ものである事は間違いない、特に序盤の"ユダヤ人追い祭り"などは面白いにも程がある。
が、中盤に登場するユダヤ人老夫婦の、そのあまりに善良すぎる存在によって、そうした差別は実態を知らない無知で野蛮な愚か者がする行為なのだ、と、ユダヤ人側に対するエクスキューズを与えている、この場面のせいで、バカ笑いに水を差されてしまう事となるのだ。
ここまでユダヤ人と同等に差別ネタの対称とされていたジプシーに対しては、なんらエクスキューズもなく笑いのネタにされっぱなしな事もまた、そうした隠れた意図の気味悪さをより感じてしまう要因となっている。
まあ、そうした裏事情は観終わってから考えればいい事で、観ている間は素直に皮肉とブラックなインパク知ネタの連発を、日本人として対岸の火事的にバカ笑いして楽しめばいいだけだ。
こうした欧米の笑いと日本の笑いの最大の違いは、"ツッコミ"が存在しない事だろう。日本でのツッコミは、「ここが笑うところですよ」と教えたり、ボケに対する説明や解説を付け加えるなど、観客の理解を深めて笑いを倍加させる効果があり、ひとつの文化として価値あるものだが、最近ではそうした"親切さ"がないと笑えない、という、笑いに不自由な人種をも生み出してしまっている様だ。
ツッコミが存在せずボケの連続で笑わせる、欧米タイプのお笑いを見ても、「どこが面白いのかわからない」という、可哀相な状態となってしまうそうした人種には向いていない作品ではあるが、普通に自分で面白いところを見つけて自分で笑う事の出来る、普通の大人であれば、間違いなく笑い死ねる筈だ。
観客がある程度入った劇場にて声を上げて笑うにふさわしい久々の爆笑作品。興味があれば是非。
追記:
TV版は、Youtubeなどで「borat」で検索すると観られるらしい。但し英語のみ。
公式サイト
イギリスのコメディアン、サシャ・バロン・コーエンがカザフスタン人に扮し、"カザフスタン国営放送のレポーター、ボラットが、アメリカへ取材旅行へ行く"という、オープニングからエンディングまでの一切を、"カザフスタン国営放送のドキュメント番組"の体裁にて作り上げた、フェイク・ドキュメント映画。
もともとはTV番組だった短編シリーズの、決定版とも言うべき長編劇場版である。
基本的には、欧米文化に全く無知な(英語ペラペラのクセに)主人公が、米文化を象徴する様々な事象、人物と出会う事でのカルチャーギャップをギャグとした笑いがメインだが、このギャグが、例えばカザフスタンでは、先進国ではタブーとされている、女性、障害者、人種、階級などの差別はあって当然の事で、売春婦などはむしろ女性として最適の立派な職業であるなど、欧米の価値観を皮肉ると同時に後進国を見下す、といった風に、双方をバカにして笑いを生む構図が面白い。
先進国では社会問題とされている、そうした諸問題を周知している常識人ほどいちいち皮肉とブラックを感じ笑える様になされている、この基本的なつくりがまず秀逸。
そこからもっと程度を下げ、チンコ、ウンコ、センズリ、セックスといった別の種類のタブーをも、カルチャーギャップと絡めて単なる下品に終わらない、これまた双方への皮肉とブラックが混在する笑いを生み、更にはそうしたややこしい事とは関係ない、クマの末路など普通にブラックなギャグも随所にボンボン散りばめて笑いの濃度を高め、ずっと笑い通しにさせる狙いが徹底している。
ブラックと関係なく、単なるその場その場のギャグに終わらない、「なんちゃって」やフィスト型大人の玩具など、忘れた頃にネタを復活させて長いスパンのフリとオチで笑わせる様な、長編である事を活かした構成もいくつかあり、脚本構成の巧みさがよくわかる。
ただ、あらゆものを等価に笑い飛ばす事が、こうしたブラックな作品において、観る者の立場によって評価が変わらざるを得ない、といった問題を無くすためのポイントなのだが、本作では、作中でもネタにされている筈の特定マイノリティの、その隠された意図が比較的分かり易く潜在している事は、作品を素直に楽しめなくなる要因として、少し残念ではある。
具体的に言えばユダヤ人の事なのだが、カザフスタン人がユダヤ人を差別している、というネタ、描写そのものは爆笑ものである事は間違いない、特に序盤の"ユダヤ人追い祭り"などは面白いにも程がある。
が、中盤に登場するユダヤ人老夫婦の、そのあまりに善良すぎる存在によって、そうした差別は実態を知らない無知で野蛮な愚か者がする行為なのだ、と、ユダヤ人側に対するエクスキューズを与えている、この場面のせいで、バカ笑いに水を差されてしまう事となるのだ。
ここまでユダヤ人と同等に差別ネタの対称とされていたジプシーに対しては、なんらエクスキューズもなく笑いのネタにされっぱなしな事もまた、そうした隠れた意図の気味悪さをより感じてしまう要因となっている。
まあ、そうした裏事情は観終わってから考えればいい事で、観ている間は素直に皮肉とブラックなインパク知ネタの連発を、日本人として対岸の火事的にバカ笑いして楽しめばいいだけだ。
こうした欧米の笑いと日本の笑いの最大の違いは、"ツッコミ"が存在しない事だろう。日本でのツッコミは、「ここが笑うところですよ」と教えたり、ボケに対する説明や解説を付け加えるなど、観客の理解を深めて笑いを倍加させる効果があり、ひとつの文化として価値あるものだが、最近ではそうした"親切さ"がないと笑えない、という、笑いに不自由な人種をも生み出してしまっている様だ。
ツッコミが存在せずボケの連続で笑わせる、欧米タイプのお笑いを見ても、「どこが面白いのかわからない」という、可哀相な状態となってしまうそうした人種には向いていない作品ではあるが、普通に自分で面白いところを見つけて自分で笑う事の出来る、普通の大人であれば、間違いなく笑い死ねる筈だ。
観客がある程度入った劇場にて声を上げて笑うにふさわしい久々の爆笑作品。興味があれば是非。
追記:
TV版は、Youtubeなどで「borat」で検索すると観られるらしい。但し英語のみ。
2007年05月26日
しゃべれども しゃべれども 58点(100点満点中)
「じっと手を見る。汚れとるアルな」
公式サイト
古典落語を題材とした佐藤多佳子の同名小説を映画化。監督と脚本は『学校の怪談』シリーズでもコンビを組んでいた、平山秀幸と奥寺佐渡子。主演はTOKIOから長瀬智也に続いて落語家役を演じる事となる国分太一。
芸に伸び悩んで行き詰まっていた主人公が、美人だが愛想の悪すぎるヒロイン(香里奈)との出会いから落語教室を始める事となり、ヒロイン、関西弁の小学生(森永悠希)、口下手の野球解説者(松重豊)の3人の生徒と主人公の、落語を媒介としたそれぞれの成長と人間模様を描いたドラマである。
落語を題材としているだけに、全編通じて大小の笑いが絶えないストーリー展開とキャラクター配置は、原作の出来がいい事も手伝って面白い。
キャラクターに関して言えば、笑いが題材なのに仏頂面で、喋りが題材なのに無口なヒロインと解説者、東京下町が舞台なのに関西弁の少年と、極端にミスマッチな人物を投入してインパクトを与え、そこからの変化、成長をより興味深く追わせる意図は成功しており、その上で、人を笑わせる筈の落語家なのに、その本分に気づかず自分が喋る事にしか頭に無い、これまた目的と手段が逆転している存在を主人公に据える事で、互いにある種の反面教師な様を見出して自らの糧とする、ストーリーを上手く進めるために必然とも言える、メイン人物の設定と配置は良くしたもの。
これは、本来の江戸、落語を記号的に象徴している、師匠(伊東四朗)や祖母(八千草薫)の存在が、メインの"おかしな人物"達との対比として背後に控え、作品世界の基盤を安定させているからこその、極端なキャラ立てである事は言うまでもない。
そうしてまずキャラクターがわかりやすく配置されているおかげで、それによって動かされるストーリーもまた、わかりやすく受け入れ易いものとなっている。
主人公の成長ドラマで言えば、落語家として客を笑わせる事と、男として女を笑顔にする事の二つを、相似形の平行ストーリーとして同時進行させ、最終的に大団円とする、このメインストーリーの狙いと構成は、わかりやすく面白くまとめられており上手い。
その基点ファクターとなる演目『火焔太鼓』の扱いも、まず師匠の噺を最初に見せ、これを観客に"基本形"として認識させ、それを自分のものとした主人公の噺によって、一皮むけた彼をわかりやすく表現するとともに、それを見るヒロインの表情を、序盤にて初めて主人公の噺を聞いた時の表情と対比させ、ヒロインの心的変化を表現。そして最後に、ヒロインの噺によって、先程の表情の意味を完全に表現する、と、やはりメインの構成は上手く紡げているのだ。少なくとも脚本的には。
一方で、傍流となる少年と解説者、特に解説者に関しては、悩みや葛藤の描写があり、いくつかの示唆もありながら、その解消となる展開まで物語が至っていないせいで中途半端さが気になってしまう。そのため、彼に絡むエピソードとしての、少年の野球勝負とその相手との問題もまた、引きずられる形で中途半端な印象を与えてしまうのだ。少年の枝雀師匠のモノマネが印象的で面白いだけに、構成の弱さが勿体ない。
だが本作の問題は、ストーリー面よりも映像的な部分に多く見られる。
複数の人間の会話のやりとりでストーリーが進められる本作において、画面上に人物を平坦には配置せず、手前、中、奥と、奥行きのある配置で構成される画面によって、長回しを多用する事自体はいいのだが、その際に、言葉そのものと同様に重要となる、それを言う、あるいは受ける表情の機微が、被写界深度を絞って観客の視点を限定している割に、誰の表情をどのタイミングで見せれば良いのか、の意図と、実際に映像として見せられる結果が、どうにも食い違っているとしか思えない。
中盤に多く見られる、主人公宅にて手前に少年、中程に主人公、ヒロイン、解説者、奥に祖母、といった配置でのFIXのグループショットで見せられる、ボケとツッコミの会話劇にそれは顕著で、人物の立ち位置、会話、アクションと、ピント送りによって誘導される観客の視点が噛み合ずに、せっかくの面白さが幾分か損なわれがちとなってしまっているのだ。
焦点ではなくカメラ位置による問題で、同様の伝わり難さが生じているカットもいくつかあり、序盤の、"話し方教室"を中座したヒロインとそれを追う主人公との会話場面で、手前にヒロイン、奥に主人公の配置での長回しによって、主人公の一言によってヒロインがキッと睨みつける動作をさせており、これではヒロインが後ろを向く事となり、"美人だが表情が恐い"というヒロインのキャラ設定のキモが伝わらないのだ。
基本的に動きの少ない会話劇を、少しでも見続けさせようとの狙いなのか、移動ショットが多用されてもいるが、クライマックスとなる主人公の高座において、一番盛り上がっているところで主人公の回りをカメラが大きく回り込むカットがあるが、これが、主人公の顔は後ろ向きになって見えないわ、観客席は暗くピンボケでよく見えないわで、一体何をどう見せたいのかが全く伝わらない結果となっている。これでは動かさずに正面から撮り続ける方がマシだ。
また、先述の通り物語の最初と最後を支配するヒロインの表情だが、仏頂面を通すからこそ、ラストシーンの笑顔が生きてくるのに、中盤の浴衣を繕うシーンにて、既に笑顔を見せてしまっているのだ。"怒った顔"だがそれでも間違いなく"骨格からして美人"とまで評されるヒロインに、まさにピッタリと断言出来る香里奈をキャスティングしておきながら、これは勿体ない。他の場面での彼女が良かっただけに尚更だ。
彼女以外も、主人公から脇役まで、キャスティングに関してはバッチリ嵌っており、メインストーリーも面白いだけに、上述した様な、それを妨げてしまう点が散在する事が非常に勿体ないかぎりだ。
と言っても、細かい事は気にせずに気楽に臨めば、ホンワカと笑って楽しめる事は間違いない。機会があれば。
蛇足:『タイガー&ドラゴン』もそうだが、TOKIOメンバー主演なのに主題歌がTOKIOではないのは何故だろう。TOKIOと関係ないアニメ主題歌は歌うのに。
公式サイト
古典落語を題材とした佐藤多佳子の同名小説を映画化。監督と脚本は『学校の怪談』シリーズでもコンビを組んでいた、平山秀幸と奥寺佐渡子。主演はTOKIOから長瀬智也に続いて落語家役を演じる事となる国分太一。
芸に伸び悩んで行き詰まっていた主人公が、美人だが愛想の悪すぎるヒロイン(香里奈)との出会いから落語教室を始める事となり、ヒロイン、関西弁の小学生(森永悠希)、口下手の野球解説者(松重豊)の3人の生徒と主人公の、落語を媒介としたそれぞれの成長と人間模様を描いたドラマである。
落語を題材としているだけに、全編通じて大小の笑いが絶えないストーリー展開とキャラクター配置は、原作の出来がいい事も手伝って面白い。
キャラクターに関して言えば、笑いが題材なのに仏頂面で、喋りが題材なのに無口なヒロインと解説者、東京下町が舞台なのに関西弁の少年と、極端にミスマッチな人物を投入してインパクトを与え、そこからの変化、成長をより興味深く追わせる意図は成功しており、その上で、人を笑わせる筈の落語家なのに、その本分に気づかず自分が喋る事にしか頭に無い、これまた目的と手段が逆転している存在を主人公に据える事で、互いにある種の反面教師な様を見出して自らの糧とする、ストーリーを上手く進めるために必然とも言える、メイン人物の設定と配置は良くしたもの。
これは、本来の江戸、落語を記号的に象徴している、師匠(伊東四朗)や祖母(八千草薫)の存在が、メインの"おかしな人物"達との対比として背後に控え、作品世界の基盤を安定させているからこその、極端なキャラ立てである事は言うまでもない。
そうしてまずキャラクターがわかりやすく配置されているおかげで、それによって動かされるストーリーもまた、わかりやすく受け入れ易いものとなっている。
主人公の成長ドラマで言えば、落語家として客を笑わせる事と、男として女を笑顔にする事の二つを、相似形の平行ストーリーとして同時進行させ、最終的に大団円とする、このメインストーリーの狙いと構成は、わかりやすく面白くまとめられており上手い。
その基点ファクターとなる演目『火焔太鼓』の扱いも、まず師匠の噺を最初に見せ、これを観客に"基本形"として認識させ、それを自分のものとした主人公の噺によって、一皮むけた彼をわかりやすく表現するとともに、それを見るヒロインの表情を、序盤にて初めて主人公の噺を聞いた時の表情と対比させ、ヒロインの心的変化を表現。そして最後に、ヒロインの噺によって、先程の表情の意味を完全に表現する、と、やはりメインの構成は上手く紡げているのだ。少なくとも脚本的には。
一方で、傍流となる少年と解説者、特に解説者に関しては、悩みや葛藤の描写があり、いくつかの示唆もありながら、その解消となる展開まで物語が至っていないせいで中途半端さが気になってしまう。そのため、彼に絡むエピソードとしての、少年の野球勝負とその相手との問題もまた、引きずられる形で中途半端な印象を与えてしまうのだ。少年の枝雀師匠のモノマネが印象的で面白いだけに、構成の弱さが勿体ない。
だが本作の問題は、ストーリー面よりも映像的な部分に多く見られる。
複数の人間の会話のやりとりでストーリーが進められる本作において、画面上に人物を平坦には配置せず、手前、中、奥と、奥行きのある配置で構成される画面によって、長回しを多用する事自体はいいのだが、その際に、言葉そのものと同様に重要となる、それを言う、あるいは受ける表情の機微が、被写界深度を絞って観客の視点を限定している割に、誰の表情をどのタイミングで見せれば良いのか、の意図と、実際に映像として見せられる結果が、どうにも食い違っているとしか思えない。
中盤に多く見られる、主人公宅にて手前に少年、中程に主人公、ヒロイン、解説者、奥に祖母、といった配置でのFIXのグループショットで見せられる、ボケとツッコミの会話劇にそれは顕著で、人物の立ち位置、会話、アクションと、ピント送りによって誘導される観客の視点が噛み合ずに、せっかくの面白さが幾分か損なわれがちとなってしまっているのだ。
焦点ではなくカメラ位置による問題で、同様の伝わり難さが生じているカットもいくつかあり、序盤の、"話し方教室"を中座したヒロインとそれを追う主人公との会話場面で、手前にヒロイン、奥に主人公の配置での長回しによって、主人公の一言によってヒロインがキッと睨みつける動作をさせており、これではヒロインが後ろを向く事となり、"美人だが表情が恐い"というヒロインのキャラ設定のキモが伝わらないのだ。
基本的に動きの少ない会話劇を、少しでも見続けさせようとの狙いなのか、移動ショットが多用されてもいるが、クライマックスとなる主人公の高座において、一番盛り上がっているところで主人公の回りをカメラが大きく回り込むカットがあるが、これが、主人公の顔は後ろ向きになって見えないわ、観客席は暗くピンボケでよく見えないわで、一体何をどう見せたいのかが全く伝わらない結果となっている。これでは動かさずに正面から撮り続ける方がマシだ。
また、先述の通り物語の最初と最後を支配するヒロインの表情だが、仏頂面を通すからこそ、ラストシーンの笑顔が生きてくるのに、中盤の浴衣を繕うシーンにて、既に笑顔を見せてしまっているのだ。"怒った顔"だがそれでも間違いなく"骨格からして美人"とまで評されるヒロインに、まさにピッタリと断言出来る香里奈をキャスティングしておきながら、これは勿体ない。他の場面での彼女が良かっただけに尚更だ。
彼女以外も、主人公から脇役まで、キャスティングに関してはバッチリ嵌っており、メインストーリーも面白いだけに、上述した様な、それを妨げてしまう点が散在する事が非常に勿体ないかぎりだ。
と言っても、細かい事は気にせずに気楽に臨めば、ホンワカと笑って楽しめる事は間違いない。機会があれば。
蛇足:『タイガー&ドラゴン』もそうだが、TOKIOメンバー主演なのに主題歌がTOKIOではないのは何故だろう。TOKIOと関係ないアニメ主題歌は歌うのに。
2007年05月25日
アパートメント 25点(100点満点中)
ヒキコモリの起源は日本
公式サイト
『友引忌』『ボイス』など、韓国でホラー映画を作り続けているアン・ビョンギ監督の最新作。主人公が住むマンションの向かいに見える団地の一棟で、毎晩同じ時間に停電が起こり人が死んでいく、謎の呪いに主人公が巻き込まれていくストーリー。
この監督、これまでの作品も、どうにも評価し難いダメホラーの連続であったが、今回も同様、あらゆる面で日本ホラーの劣化コピーでしかない上に、その劣化ぶりは尋常ではない。
ホラー関連の描写は、例によって中田秀夫や清水崇のそれを模倣しようとしたが、そもそもの映像センスが欠如しているため失敗した、としか見れないレベルのもの。
どこからどう撮ってどう見せれば、最も観客を驚かせられるか、怖がらせられるか、を全く考慮していない、狙いの散漫な映像の連続で、どうにも楽しみきれない。シチュエーション自体はそれなりのものを揃えているだけに(パクリだが)、尚更に勿体なさが気になるのだ。
笛木優子が電車に撥ねられるシーンなど、撥ねられる瞬間に中途半端に引いた画角でスローにしてしまうため、迫力も驚きも無常感もなく、あまつさえ合成のアラまで目についてしまいどうしようもない。このセンスのなさは異常。
ストーリー的にも散々で、群衆の中の孤独をメインファクターとしている狙いはそれなりに興味深く、描かれる悲劇には少し同情的な感情が起こりもするが、配置されるキャラクターと謎のバラ撒きと収束が、ツッコミすら放棄したくなる適当ぶりなせいで台無しである。
冒頭で重要そうに展開する、主人公の職業絡みの設定は、結局本筋には何の関係もないままに終わるし、同じく序盤に思わせぶりに登場する笛木優子も、結局その場限りの存在で、後の展開には何の関係もない。
キューブに刻まれた数字が、呪いの法則のヒントになるが、そもそもキューブに刻まれている必然性は何もなく、しかも法則と言うより見たそのまんま過ぎて、せめて、主人公がボードに書いた、部屋配置を表すマス目とキューブのブロック配置がシンクロする、などのつながりを持たせない事には、謎でも何でもない。そもそも、キューブを一回でも捻ってしまえば訳が分からなくなってしまうではないか。
孤独な人間に共感する、という着想はいいにしても、障害や孤児なせいで外に出られないのと、単なるダメ人間のヒキコモリとは全く性質が違うし、主人公が感じている孤独にしてもそうだろう。何から何までアバウトすぎる。
主人公が見ていた光景が、実は現在のものではなかった、という仕掛けはいいとして、主人公も誰も見ていない、観客の客観視点による場面にも現在ではないものが混ざっており、これは、その場面を現在のものと混同させる様にその時点で見せる必然性が作り手の都合にしかない、明らかにアンフェアなやり口である。
そうして、現在と過去の時間の流れが、作品世界内でどの程度まで混濁していたのかが、あまりにも不明瞭に過ぎるため、停電は実際に起こっていたのではなく、主人公だけが感じていたのか? そもそも毎日停電してたら住民がもっと騒ぐのでは? でもそうするとエレベーター停止に少女や刑事が巻き込まれたのはどういう理屈だ? と、どこまでも辻褄が合わない状態になってしまう。
だから、終盤で謎が明かされた際にも、「ああ、そういう事だったか」という納得や驚きより、「じゃあ何でアソコであんな場面を見せたんだよ、アレは誰の視点だよ」との煮え切らなさの方が強くなるのだ。この不快感はもちろん作り手が意図しているそれではあるまい。
ロジックや構成を練りに練ってストーリーと謎解きを構築しているパクリ元の『リング』や『呪怨』の足元にすら及ばない、何もか考えずに左足で書いたとしか思えない脚本は、全く評価に値するものではない。
だいたい、一目見て「この子、幽霊みたいな顔だなあ」と思った人がそのまんま「実は幽霊でした」と明かされて、一体どうしろと言うのか、あまりにも程度が低すぎる。
表現はパクリ、ストーリーは穴だらけ、少しも恐くない、と、例によって低質な韓国ホラー映画の典型に過ぎない本作、ホラーなら何でもいいからとりあえずチェックする、というレベルのマニア以外は、特段に鑑賞の必要なし。
日本公開版では、最初と最後によくわからないダサダサのビジュアル系バンドが喋ったり歌ったりする映像が追加されているが、これが本編と何の関係もない上に何の魅力も感じられないもので、つまらない映画を観た挙句にこんなのまで見させられて一体誰が得すると言うのか。ウンザリする。
公式サイト
『友引忌』『ボイス』など、韓国でホラー映画を作り続けているアン・ビョンギ監督の最新作。主人公が住むマンションの向かいに見える団地の一棟で、毎晩同じ時間に停電が起こり人が死んでいく、謎の呪いに主人公が巻き込まれていくストーリー。
この監督、これまでの作品も、どうにも評価し難いダメホラーの連続であったが、今回も同様、あらゆる面で日本ホラーの劣化コピーでしかない上に、その劣化ぶりは尋常ではない。
ホラー関連の描写は、例によって中田秀夫や清水崇のそれを模倣しようとしたが、そもそもの映像センスが欠如しているため失敗した、としか見れないレベルのもの。
どこからどう撮ってどう見せれば、最も観客を驚かせられるか、怖がらせられるか、を全く考慮していない、狙いの散漫な映像の連続で、どうにも楽しみきれない。シチュエーション自体はそれなりのものを揃えているだけに(パクリだが)、尚更に勿体なさが気になるのだ。
笛木優子が電車に撥ねられるシーンなど、撥ねられる瞬間に中途半端に引いた画角でスローにしてしまうため、迫力も驚きも無常感もなく、あまつさえ合成のアラまで目についてしまいどうしようもない。このセンスのなさは異常。
ストーリー的にも散々で、群衆の中の孤独をメインファクターとしている狙いはそれなりに興味深く、描かれる悲劇には少し同情的な感情が起こりもするが、配置されるキャラクターと謎のバラ撒きと収束が、ツッコミすら放棄したくなる適当ぶりなせいで台無しである。
冒頭で重要そうに展開する、主人公の職業絡みの設定は、結局本筋には何の関係もないままに終わるし、同じく序盤に思わせぶりに登場する笛木優子も、結局その場限りの存在で、後の展開には何の関係もない。
キューブに刻まれた数字が、呪いの法則のヒントになるが、そもそもキューブに刻まれている必然性は何もなく、しかも法則と言うより見たそのまんま過ぎて、せめて、主人公がボードに書いた、部屋配置を表すマス目とキューブのブロック配置がシンクロする、などのつながりを持たせない事には、謎でも何でもない。そもそも、キューブを一回でも捻ってしまえば訳が分からなくなってしまうではないか。
孤独な人間に共感する、という着想はいいにしても、障害や孤児なせいで外に出られないのと、単なるダメ人間のヒキコモリとは全く性質が違うし、主人公が感じている孤独にしてもそうだろう。何から何までアバウトすぎる。
主人公が見ていた光景が、実は現在のものではなかった、という仕掛けはいいとして、主人公も誰も見ていない、観客の客観視点による場面にも現在ではないものが混ざっており、これは、その場面を現在のものと混同させる様にその時点で見せる必然性が作り手の都合にしかない、明らかにアンフェアなやり口である。
そうして、現在と過去の時間の流れが、作品世界内でどの程度まで混濁していたのかが、あまりにも不明瞭に過ぎるため、停電は実際に起こっていたのではなく、主人公だけが感じていたのか? そもそも毎日停電してたら住民がもっと騒ぐのでは? でもそうするとエレベーター停止に少女や刑事が巻き込まれたのはどういう理屈だ? と、どこまでも辻褄が合わない状態になってしまう。
だから、終盤で謎が明かされた際にも、「ああ、そういう事だったか」という納得や驚きより、「じゃあ何でアソコであんな場面を見せたんだよ、アレは誰の視点だよ」との煮え切らなさの方が強くなるのだ。この不快感はもちろん作り手が意図しているそれではあるまい。
ロジックや構成を練りに練ってストーリーと謎解きを構築しているパクリ元の『リング』や『呪怨』の足元にすら及ばない、何もか考えずに左足で書いたとしか思えない脚本は、全く評価に値するものではない。
だいたい、一目見て「この子、幽霊みたいな顔だなあ」と思った人がそのまんま「実は幽霊でした」と明かされて、一体どうしろと言うのか、あまりにも程度が低すぎる。
表現はパクリ、ストーリーは穴だらけ、少しも恐くない、と、例によって低質な韓国ホラー映画の典型に過ぎない本作、ホラーなら何でもいいからとりあえずチェックする、というレベルのマニア以外は、特段に鑑賞の必要なし。
日本公開版では、最初と最後によくわからないダサダサのビジュアル系バンドが喋ったり歌ったりする映像が追加されているが、これが本編と何の関係もない上に何の魅力も感じられないもので、つまらない映画を観た挙句にこんなのまで見させられて一体誰が得すると言うのか。ウンザリする。