2007年06月

2007年06月30日

シュレック3 40点(100点満点中)07-180

体が、変わーるー 緑色ー♪
公式サイト

ドリームワークス製作の3DCGアニメシリーズ第三弾。おとぎ話やディズニーアニメをネタにしたブラックなパロディと、現代のアメリカ文化を同様にコケにするブラックなパロディとが、小ネタから本筋まで随所に散りばめれられている事が、本シリーズ最大の面白どころであったが、今回は監督が変更されたせいか、どうにも勢いにも笑いにも物足りなさを感じる、不完全燃焼な作品に終わっている。

全体的な方向性としては、王として統治する者に誰が相応しいのか、という主題をメインとし、それが、シュレックとアーサーの旅、チャーミング王子の陰謀、の二つに分かれて進行し、最終的にはまた一点に帰結するのだが、物語展開としての伏線やネタ振りとその収束からして、どうにも中途半端で散漫な印象を受けてしまう事が、まず最初の原因だろう。

アーサーのいた国を、アメリカの学園ドラマを意地悪く皮肉ったものとして描いた狙いは普通に面白いし、そこで見せられる学内階層社会構図の典型パターンを用いたギャグも、ベタながらに面白い。

が、結局そこで行われた事が、その後の物語展開には特に影響を与えず、去り際にアーサーが残した言葉すらその場限りに終わっており、これではギャグとしても成立していない。

そうした乱暴な展開、構成が目立ってしまうのは、既存の概念だけでなくシリーズの定番ネタをもパロディに用いたギャグのあれこれが、今ひとつテンポに欠け、充分な笑いを生むに至っていない事も大きい。

長靴をはいた猫の"つぶらな瞳"の持ちネタを、敢えてストレートには行わせず否定してしまう狙いは面白いが、前述のテンポの悪さのせいで、どうなるかわかりきっているのにダラダラとフリが長いため、オチが来る頃には笑う気が消えてしまっているのだ。

その他の箇所でも、時にクドすぎ、時にさりげなさ過ぎて、せっかくの面白さを減少させてしまっている局面が多々あり、観客は楽しさよりもモヤモヤした気持ちの方が大きくなってしまう。

そんな中、ただ一つと言っていいレベルで、素直に面白さを享受出来た場面は、やはりクッキーマンの走馬灯シーンだろう。定番パターンとその外し方、映像を見せられるタイミングと順番、そして一応そのギャグは終わって次の話に行こうとしているのに、会話の後ろで歌われ続ける狂気の歌、と、基本に忠実な笑いがしっかりと展開されており、何故このセンスが他の場所では活かせなかったのか、残念でならない。

次点として挙げられるのは、白雪姫の特殊能力だろうが、これも前フリから急転までは上手く行っていたのに、急転後の描写に突っ込みが足りず、やはり不完全燃焼が最後に残ってしまう勿体ないシーンだ。

1や2の持っていた面白さは大幅減し、それに変わる新しさは特にない。ピクサー以外では珍しく良質な、大人だからこそ笑える部分も豊富だったシリーズだけに、この急激な失速は完全な失敗としか思えない。

今回はTV放送まで待っても問題ないかと。



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2007年06月29日

世界はときどき美しい 16点(100点満点中)

「そう、おれはこの世でだれよりも強く、そして美しい!」
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短編作品等をいくつか手がけてきた、御法川修監督による初の劇場映画。だが今回も、5つの短編を羅列したオムニバス映画であり、"長編"はまだ未経験。

まず本作の大きな特徴として目につくのは、8m/mフィルムで撮影された、劇場のスクリーンで観るには画素の粗すぎる画質だろう。これはもちろん意図的なものであり、大作でもデジタルで撮影される事が普通になってきた昨今、敢えてフィルムにこだわり、敢えて8m/mを用いる事で、フィルムの質感を強調する狙いがあるのだろう。

そして、画素が粗くなる事で映像からは表層的な"現実味"が薄れ、抽象的にさえ映る光、陰、色彩によって構成される画面から、寓話的体裁により観念的なメッセージを表現すべく作られた本作の方向性が、より効果的に伝わる様なされており、その点では成功している。

だが、内容的な面では、タイトルに表されている"美しさ"、あるいはそれとの対比となる"汚さ"、それらの言葉が指すものは、視覚的なそれではなく内面的、心情的なものであるという事、すなわち個々人の心の幸と不幸である、と語りかけるストーリー、表現は、そう伝えるにはあまりに類型的、表層的に尽き、新しいもの、興味深いものを見出す事は出来ない。

詩の引用、主人公の独白とイメージ映像の交互切り替え、モノクロ映像でのハードボイルドスタイル、など、各章であの手この手で見せられる短編のスタイル、映像は、どれもこれも、自主映画や学生映画の上映会で飽きるほど観てきたものと何ら変わりなく、今これを劇場映画として見せられる事に意味があるのか、と、疑問に感ぜざるを得ない。

一話目の主人公を松田美由紀とし、知名度のある人間をまず使う事で観客に作品を認識させ、その言葉に耳を傾けさせるのはいいとして、役の設定がヌードモデルであり、その事がストーリー的にもテーマ的にも主軸となっている筈が、結局彼女は脱ぐ事無く、体の美しさ、衰え、などは言葉で語るだけとは、明らかに逃げでしかない。

その後の四話目の主人公が無名の女優で、彼女は自然に脱いで裸体を晒しているのだから、余計に一話目で脱がなかった事がマイナス点として強調されてしまうのは皮肉か。

松田龍平、市川実日子と、この種の上っ面オシャレ映画には定番のキャスティングがなされているのは、ワザとなのか天然なのかは知らないが、やはり陳腐に感じ、あらゆる部分から、型にハマった映画青年のオナニー的な傾向がありありと見て取れ、随分と痛々しい。

8m/mフィルムの映像というのは見ているだけで懐かしい気持ちになり癒されはするが、それだけではやはり劇場で金を払って観る作品としては不充分過ぎる。

出演者に興味があればレンタル待ちで観てもいいかもしれないが、そうでないなら特に鑑賞の必要も無いだろう。自己責任で。


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2007年06月28日

パラダイス・ナウ 89点(100点満点中)

超偉人伝説はナイトスクープからパクりすぎ
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パレスチナ人監督とイスラエル人プロデューサーの主導により、欧州各国の協力の元製作された、パレスチナ人テロリストによるテルアビブでの自爆テロを題材に、それを行うテロリスト本人を主人公として描いた映画。

主人公サイードと、その親友ハーレドの二人の、それぞれの動向と心情を、それぞれに寄り添うかたちで描写している本作、無駄な台詞を極力抑え、映像、演出の表現にて彼らの内面を伝える事で、終始客観視点で見せられながら、観客の主観に強く訴えかけ、つかず離れずの状態で推移を見守らせられる事となる、狙い済まされた距離感が絶妙。

序盤に客と揉めるシーンにて、長回しの固定ショットで奥に主人公達、手前に沸き立つコーヒーを配置し、ハーレドがキレた瞬間にあわせてコーヒーを吹きこぼれさせて、人物の言葉や動きではなく抽象的にその感情を表現し、今度は後半においてサイードの動揺を表現するために同じくコーヒーを用いるなど、その場限りに終わらず同じ事物を利用して表現を重ねて観客の理解をより深める、こうした工夫がそこかしこに見て取れる。

サイードとヒロインの関係性を、内面的にも形態的にも表すために、車のカギや時計、あるいは殉教者と裏切者のビデオなど、小道具を交えながら展開させる手法も同様。

正反対に評価される父親を持ち、自身はそれと正反対の指針で生きる、サイードとヒロインの対称構図は当然意図されたもので、そのアイロニカルなドラマ展開は悲壮感をより盛り立てているが、サイードとハーレドの関係性と推移においても同じく対称は用いられており、コーヒーのシーンなどで最初に提示されたキャラクターとその後の展開、そこから観客が推測する両者の内面を上手く誘導し、終盤にそれを逆転させてやるせない悲劇へと繋げていく、こうした"差異"、"ギャップ"を利用して物語を転がしていく設定、構成は秀逸。

それは当然ながら、パレスチナとイスラエルの対立構造や、ともに被害者と加害者の両側面を併せ持っている性質など、作品世界の舞台設定のみならず現実における構造をそのまま個人単位に象徴させたものであり、何事も正義や悪の二元論で括れはしないという根源的テーマを、徹底して主張するために張り巡らされた仕掛けである事は間違いない。

声明ビデオの撮影シーンの緊張と緩和のギャップ、そこから生まれる微妙な空気感や、サイードが奔走するナブルスの街並と、終盤に見せられるテルアビブの街並と、そこに歩く人々との、圧倒的な差異、それに圧倒される者と決意を固める者、と、やはり言葉の説明を用いず、目に映るものによって全ての意味を示唆し、意図を理解させる、演出、演技、映像の完成度は特段に高い。(北野武の映画を意識している様に見受けられる表現も多々)

終盤の「帰る、帰らない」の一連の流れでは、そられが一気に集約され、口で言っている事と心に決めている事が、同じ、あるいは異なって、"結果"へとなだれ込む、いちいちに意外、皮肉なその進展に、観客の感情までも二人の間を揺れ動いて留まらない様に誘導されてしまう事となる。

作戦の段取りや人物の過去など、どうしても言葉による説明が必要な段においては、それを語らせるのに最適な状況、人物をしっかりと設定する事で、必然性と説得力を与え、わざとらしい説明臭さを抑えるだけでなく、ドラマを盛り上げる方向へと利用している、脚本段階から考え尽くされている、あらゆる構成、仕掛けが素晴らしい。

中盤のすれ違い劇が恣意的すぎるとか、時間差テロを行うのなら、同じ服を着ているのはマズいのではないか、など、気になる点もあるのだが、全体的な完成度はかなり高く、大きなマイナス点とはならない筈だ。

イスラエルとパレスチナの関係を、一般常識程度に知っていれば問題なく理解出来るレベルに作られている事、特定思想の持ち主による独りよがりなオナニー的自己陶酔の押しつけではない、広く大衆に観てもらう映画であるとの意志がしっかりと感じ取れる作品となっている事も、本作の評価を高める大きな要因となっているだろう。

映画好きなら絶対に観て損はしない良作。機会があれば是非。



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2007年06月27日

歌謡曲だよ、人生は 51点(100点満点中)

渥美二郎と渥美清は別人です
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60〜70年代にヒットした12の歌謡曲をモチーフとしたオムニバス短編連作映画。各エピソードを担当する監督がそれぞれ自ら脚本も執筆し、より強い作家性が伺える作品がいくつかあるのも興味深いところ。

なのだが、矢口史靖や磯村一路などメジャーな監督だけでなく、今回が初監督となる人間が半分近くを占めている事もあって、タイトルやコンセプトから予想される様な、お祭り的娯楽に特化した様な内容のものは少なく、独りよがりで自己完結している作品が多く見られ、全体的な平均点を下げてしまっているのが残念。

オープニングを飾るオックスの『ダンシング・セブンティーン』にて、阿波踊りを延々映し続ける映像で、その"お祭り"を表現しようとしたのだろうが、あまりにストレートすぎてオチも展開も無く、いささか拍子抜けである。

そんな中でも面白さでまず最初に印象に残るのは、宮史郎の『女のみち』を題材とした第五話だろうか。

宮史郎本人が出演し同曲を歌うエピソードだが、自分の持ち歌、しかもヒット曲はこれしかなく忘れよう筈も無い歌詞が思い出せない、という自虐的な狙いだけでもかなり面白く、相変わらずの珍妙なビジュアルとキャラクターをそのまま活かした問答劇は、テンポの良さとワンシチュエーション、ワンアイディアだけで通した簡潔性もあって、それまで停滞気味だったテンションを高める事に成功している。

北原ミレイの『ざんげの値打ちもない』を題材とした第六話では一転して、エロ、バイオレンス系作品を撮り続ける水谷俊之が手がけただけに、そうした得意のカラーを用いつつ昭和のネガティブ面にノスタルジックな視点で焦点を当てたドラマは、短い時間ながら物語性、キャラクター性が高い一品として評価出来る。主演の余貴美子の、女の多面性をテンポよく演じ分ける技量も見事。

荒木一郎の『いとしのマックス』を題材とした第七話は、なんと漫画家の蛭子能収が脚本・監督を務め、その漫画の作風そのままに展開される、シュール且つバイオレンスな物語は異様に面白い

普段描いている漫画と全く変わらないストーリー、キャラクター、暴力描写が、静的なコマ割りとは真逆に、やたらと動的なカット割りで見せられるのだが、実写になった事と、武田真司や矢沢心、インリンなど、よく目にするタレント・俳優に演じさせている事によって凄惨さ、シュールさ、おかしさが更に増幅されており、新次元の蛭子ワールドが生み出されたと言って過言ではない。

カットを割らずに殴られ続ける矢沢心が、殴られる度にいちいち口から血反吐を吐く描写など、ディテールまでこだわり抜いて観客の目を引き続ける仕掛けが楽しすぎる。

ただ、クライマックスの暴力場面で、漫画のコマが挿入されてしまうのは興醒めである。ここは実写のみで通し、最後のクレジットで名前を出すにとどめておいた方が、監督が蛭子能収と知らずに観ていた人をより一層に驚かせる事が出来ただろうし、単体の映像作品としての完成度も高くなっていた筈だ。今後は長編にも挑戦してほしい気もする。

園まりの『逢いたくて逢いたくて』を題材とした矢口史靖による第九話は、まず、短編ならではの起承転結を簡潔にまとめあげながら、多く感じる登場人物一人一人のキャラクターもしっかり描写し、その描写とストーリー進行をシンクロさせて変転の妙を活かす、脚本構成の巧さが何よりも光る。

そのドラマをより効果的に活かすべく、アパート室内の光景を固定カメラで延々と映し続け、舞台演劇の様相で人の出入りと会話のみでドラマを展開する、前半のコンセプト作りと演出も的確。

そうして動かない画面に目が慣れた頃に、一転して外へと飛び出し激しく動き続ける映像へとシフトして、視覚的にもストーリー的にも人物の心情的にも性急さを強調し、観客の感情を激しく煽る事に成功している。この時にも前半で提示された粗大ゴミネタをさりげなく復活させるなど、全体を通しての構成にこだわり続けているのが素晴らしい。

上に挙げた四本、および大杉漣の存在感だけで印象に残る第三話などは充分に楽しめるが、他のエピソード群はどうにも凡庸あるいは表層的な奇をてらっただけのものばかりで、平均点としてはあまり高く与えられない結果となっている。

特に原始時代の同性愛をネタとした第四話は最悪である。まず見た目のインパクトをしっかり観客に与えるために、映像的な見せ方の丁寧さがなによりも求められる筈なのに、モアイ像の配置や数、種類がまったくカット割りで説明出来ていないなど、意図が見えずわかりにくいカット割りには辟易し、ストーリーなどどうでもよくなってしまう程のお粗末さだ。完全に滑っている。

と、エピソードごとの出来不出来が激しい本作、面白い話はしっかり観て、ダメなところでも歌は名曲でありそれだけ聴いておけばいいので、途中でイヤになる事はまず無いだろう。扱われている曲、参加しているスタッフに興味があるなら要チェック。機会があれば。


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2007年06月26日

赤い文化住宅の初子 65点(100点満点中)

実は植物状態なのび太の夢でした
公式サイト

社会の底辺をヌルく描写した作品を得意とする、松田洋子の同名漫画を、蜷川実花監督の『さくらん』にて脚本を担当したタナダユキの脚本・監督により実写映画化。

『さくらん』の時には、原作そのままに進められる部分において、漫画の台詞をそのまま流用しているせいで、生の台詞としての違和感が残ったり、オリジナル部分との乖離を感じさせられるなど、どうにも脚本家としての能力に疑問を感じた彼女だが、今回も同様。

特に本作はほぼ原作そのままに物語が進行するため、余計に"漫画の台詞そのまま"のダイアローグが多用され、少しだけ挿入されているオリジナル要素、少しだけ改変されている部分との整合性に違和感が残る結果となっている。

漫画なり小説なり映画なり、異なるメディアに作品を移行する上で、そのメディアに沿った自然なかたちにダイアローグを変更する事は、脚本家、作家としての腕とセンスの大きな見せどころである。下手に改悪してしまうよりはマシとは言え、ただ書き写せば事足りるという安易な考えは志が低すぎる。

その台詞がどういう意味、意図、つながりとして配置されているのかを、よく考えずにそのまま流用している場面などでは、その弊害が殊更に強調されてしまっている。兄が付け替えた電球の明かりを見て、「こっちの明かりがええわ」と漏らすくだりなどは、その比較対称となる風俗街の明かりの描写が乏しいため、その正確な意味が観客に伝わったのかどうかすら曖昧だ。

追加要素が挿入される事で、原作のテーマやストーリーの流れに不自然さを生じさせてしまっている部分も散見される。浅田美代子演じる女性に現金を恵まれる場面や、級友に卵焼きを貰う場面、あやとり絡みの展開、父親に同情的な描写などがそれに相当する。

これらの場面によって、初子の抱えている不幸と幸福のバランスが大きく崩れ、平凡な不幸自慢人情物語へと堕してしまっている感が強い。客観的にはかなり悲惨な境遇でも、初子自身の"頭の悪さ"によって、本人的には幸不幸のバランスは大して悪くはない、というギャップが、ブラックなおかしさを生む筈なのにだ。

また、本作の形態、あるいはテーマを示唆するファクターとして登場する『赤毛のアン』について語る場面において、ここで交わされる言葉自体はやはり原作そのままではあるが、原作においてその場面の面白さを大きく支配する、初子が脳内に描くアンのイメージ画が、映画においては全く触れられてすらいないのは何故なのか。

これは初子が述べる解釈の捉え方を、受け手側にハッキリと明示するために必要不可欠なものであり、何から何まで原作をなぞりながら、よりによってこの部分を削ってしまったセンスには首を傾げさせられる。原作に無いいくつかの妄想シーンを挟む余裕があるなら、ベッドで死にかけのアンの映像も作ってやるべきではないか。

そうした、脚本的な練りと理解の足らなさによるマイナス点もあるが、それと同じくらいに、実写映画化しただけの事はあると思わされる、良さが感じられる部分も存在する。

まずキャスティングの段階から、原作のイメージを損なわずむしろ上回る様な人選がなされている事は大いに評価出来る。初子を演じる東亜優が、薄幸な地味少女にハマりすぎているのは大前提として、兄役の塩谷瞬もまた、原作からそのまま抜け出して来たとしか感じられない適役ぶりにニヤリとさせられる。

『青春☆金属バット』以降、ただれた女が似合う事を再認識させられた坂井真紀の全てを捨て去った演技、一見マトモそうに見えて実は頭がおかしいオバサンをリアルに演じる浅田美代子、相変わらずどんな役でもノリノリで演じる大杉漣と、脇を固める名優も揃って強烈なキャラクターを作り出しており楽しい。

また、原作に無い追加要素においても、街で買った洋服絡みの描写のあれこれは、初子という少女が持つ、素の少女としてのキャラクター性を観客の共感を生むかたちで的確に描写しており、女性心理を服装に投影させるこの手法は、女性監督ならではの着眼点として評価出来る。

服は可愛く決めているのに靴が汚い、彼氏が家に来て慌てて着替えて迎え入れる、などは、おかしさと哀しさを両立させるペーソス描写として秀逸だ。特に、慌てて着替える場面にてタンスからはみ出したままにされていたインナーを、後のカットでさりげなく仕舞わせるくだりなど、おそらくは当初からの計算でなく現場のアイディアと思われるが、そうした細かい描写の積み重ねとその捉え方、見せ方の巧さによって、全体の雰囲気を醸し出している、狙いの面白さは素直に楽しめる。

そうしたいい部分が多々あるだけに、メディア移行センスの面で残念に感じてしまう部分が目立ってしまっている本作、興味があるなら観て損はしない作品ではあるが、原作未読ならば読まないままで観た方が素直に楽しめるだろうし、後から原作を読んで同じところと違うところを確認して楽しむ、そんな鑑賞法をオススメする。機会があれば。



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ヘドラとTシャツと水着

夏だ! 海だ! 猿くん! 今日は泳ぎで勝負だ!

…が、今月は鬼の様に多忙、来月もどうなるやら…
今年も海に行く余裕などありはしない…

現実逃避に屋内で写真撮るだけでガマン。ヘドT1

ついでだからCCPの抱き合わせヘドラTシャツ、略してヘドTに合わせてみる。(正式には富士宮ミキTシャツ、略してミキTらしい。確かにヘドラは描かれてないわ)
こんな機会でもないと一生パッケージ開ける事もないだろうし、着て外歩くわけにもいかんし(笑
ヘドT2
アメリカンSサイズ、ちょうどいいか?
↓の部分、汚れてるのではなく、
ヘドT3.5
ヘドラの体液が飛び散った様をイメージしたデザインなんだが、手作業で塗料をぶっかけているとかで、1枚1枚パターンが異なるそうな。CCPってこういうイレギュラーな仕様好きだなあ。ぶっかけパラダイス!
上下の色バランスも何となく合ってる感じ。
ヘドT3

↓はアメリカンXSサイズのピンクVer.
こっちのサイズの方がいいかな?
ヘドT4
水着の色も合わせてみた。ヘドT5
まあ海には行けないんだけどな。
ヘドT6
仕事ででもいいから、久々に海、行きたいなぁ。



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2007年06月25日

転校生 さよならあなた 92点(100点満点中)

「早乙女愛よ、岩清水弘は、君のためなら死ねる!」
公式サイト

山中恒の児童文学『おれがあいつで あいつがおれで』を尾道を舞台に映画化した、大林宣彦作品『転校生』の再映画化。

横溝正史の『犬神家の一族』を市川崑が再映画化したのと同様、本作も再び大林宣彦自身が監督を務める本作、やはり"原作の再映画化"であるよりも、"旧映画のリメイク"としてのカラーを重視した作りとなっている。

のだが、『犬神家〜』がストーリーそのままであるのに対し、本作は転校生、男女入れ替わり、という基本設定のみそのままに、特に後半にかけてのストーリーが全く変えられている事が、まず大きな特徴だろう。

舞台が長野県に変えられている本作、転校してくるのが男の方であり、前は尾道に住んでいた、とされている事で、旧作ラストシーンで尾道を去った主人公・一夫がやって来たのだ、と錯覚させる狙いがあるのだろうが、これは単に旧作ファンに対するサービスであり、深い意味はないだろう。

旧作においてはあくまでも記号的な描写でしかなかった"性差"を、今回はその根源的な意味までを物語内に内包させ、"男女入れ替わり"というギミックにとって避けて通れない、セックスに関する衝動、感情を生々しく見せている事が、まず大きい。

それは、高橋名人にしか見えない旧作の小林聡美と、今回の、原田知世を少し縦に伸ばした感じの地味美少女、蓮仏美沙子との、主演女優の見た目の差異によるものも多分にあり、あっけらかんと小ぶりの胸を晒していた旧作より、大事なところは死守しているはずの今回の方が、顔だけでなく、見せられない制約ゆえシチュエーションに凝った事により、よりエロティックさが強まっていると断言出来る。

下着の上にパーカー一枚のみ着用で自転車に乗る一美をローアングル気味で撮ったり、一夫の手で一美の胸を直に押さえさせているカットなど、"着エロ"などと安っぽい形容では及ばない"性の匂い"を感じさせる映像には、全く衰えない大林宣彦のメンタリティの強さを感じさせられる事間違いない。

哲学的な論理展開をする一美の彼氏"ヒロシ"を(芸人のヒロシが登場したのは駄洒落か?)、旧作とは異なり重要キャラクターとして配置し、主として彼に"性"および"生死"に関する観念的なセリフを述べさせ、あまつさえキルケゴールの『死に至る病』まで主要キャラクターに読ませてしまう事で、作品テーマの一端をまずわかりやすく明示し、それを物語の展開と有意に絡める事で、説得力や必然性を増すと同時により感情移入を促し、感動へと導く、物語構成、キャラクター設定と配置がよく考えられている。

そして"性の交換"だけでなく"生と死"をストーリーに新しく持ち込む事で、単に入れ替わった面白さだけでなく、肉体と魂が持つ意味、それが入れ替わることで、誰が誰になるのか、誰のものとなるのか、といった、形而上学的なフィールドへと物語を展開させている事が、本作の最大の"再映画化の価値"であろう。

旧作では唐突に感じられた終盤の家出から復元の展開も、今回の様により大きな問題と直面させ、それに入れ替わりを絡めて問題を更に複雑化させる事で、より自然にしかも面白く、旧作を知っていても緊張感を保ったまま最後まで目が離せなくなる、この流れは秀逸の一言。

旧作の「さよならオレ」「さよならわたし」とは敢えて異なる「さよならあなた」の意味が明確となる、オカルティックな次元にさえ踏み込んでしまったラストシーンには身震いさえ覚えてしまう程だ。

この、おそらくは大人の事情で持ち込まれたと思われるファクターを、ただ凡百のお涙頂戴映画に堕してしまう愚行には決して陥らず、それをも貪欲に、作品を面白くする方向に活かしきっている、これまた大林宣彦の作劇に対する大きなコダワリが感じられる部分であり、それを見事に昇華しきった点は、映画鑑賞を常とするものならば、大いに評価できるに違いない。

旧作では基本的に一夫(人格)視点で終始物語が進んでいたが(それは最初と最後が一夫が撮影した8m/m映像である事からも明白)、今回は前半は主に一夫(人格)、後半を主に一美(人格)視点で描写されている。これは後半の展開を考えると必然であり、上述の形而上学的な混乱を観客に対しても混乱として与え、複数の人格に対する観客の同一化を逆に容易にする狙いとして大いに有用である。

終始一貫して傾いたカメラで撮影された映像も同様に、まず最初のタイトル画面で水平と垂直を強調するために長方形をしっかり認識させ、その水平線が傾いて本編の実写映像へとなだれ込む構成からも容易に見て取れる様に、観客の現実世界と作中世界を次元の異なるものとして分離した上で、ノスタルジックな風景やエモーショナルな演出によって世界の境界をなくし、観客を異世界である作中へと導入する、そしてエンドロールでは再び現実へと回帰させる、と、単に画面的な美しさやトリックに終わらない、旧作のモノクロ8m/m映像と同様、映画館で観る映画としての意味を活かした狙いである。

いまだ全く衰えないどころかパワーアップさえしている、大林宣彦のセンスとメンタルを味わい尽くせる秀作。作品としての完成度は旧作より上と言って何ら問題はない。

旧作を絶対的なものとして盲信するタイプの人以外なら、機会があれば是非。


蛇足:
ヒロインの蓮仏美沙子より、関戸優希高木古都の方が美少女度では上なんだろうが、雰囲気、存在感では蓮仏が頭一つ抜けているか。ちょっとだけカメオ出演した高橋かおりの方が可愛かったのは揺るがない事実ではあるが。



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