2007年11月

2007年11月30日

ヴィーナス 83点(100点満点中)

優しさだけの 言葉はいらない
公式サイト

『ノッティングヒルの恋人』で知られるイギリスの映画監督ロジャー・ミッシェルによる最新作。

ピーター・オトゥール演じる主人公モーリスの役柄である"往年の大スターであった老俳優"が、そのまんまなキャスティングなだけにリアル過ぎる程にハマり役である事が、本作の演技、演出面での基盤を支えている事がまず印象的。

友人役として各所で主人公との掛け合いを行い、メインである主人公とヒロインの物語に対するインターミッションとなる、イアン(レスリー・フィリップス)とドナルド(リチャード・グリフィス)のキャラクターおよび演技、演出もまた、老人のキャラクターパターンを戯画化して分担させ、ヒロインに対するそれぞれの観点を多角的に見せる事で人物像に深みを与えつつ、老人あるあるネタ的なコメディとして単純に楽しませる、気の利いたダイアローグと演出の妙が楽しい。

病院で家族に囲まれて息を引き取る老人の役、をモーリスが演じている場面は、場面切り換えの唐突さによって劇中劇と劇中現実の境界を不明にさせておいてオチとする、その場におけるコメディトリックとしてまず観客に印象づけておいて(日本人の視点では、「ベタな泣かせドラマ」は万国共通な事に苦笑させられもする)、だがそんな陳腐な絵に描いた様な死に様は、本当に普遍的幸福なのか、と、モーリスの最期の場面へ対比する大いなる伏線となっているなど、コメディとしての仕掛けとストーリーやテーマの構成とが、様々な局面で絡み合っている事に気づけば、更に楽しめるだろう。

開かれたドア越しに、その奥の室内にいる人物を観客に見せる事で、画面内に更なるフレームを配置し、作り手の表現したい画面のかたちを様々に変えて、観客の視点、観点を誘導する、映像手法が全編通して多用されている事が、視覚的に印象に残る部分である。

そうして、視覚的なトリックとしてまずドアや建造物を用いておいて、続いてドアそのものを物理的な境界として用い、視覚によって人物の内面や相互関係を表す演出としている、映像と演出を相乗させ、そこに気の利いた台詞をプラスして更にシチュエーションの意義を高める、狙い済まされた構造構築が素晴らしい。

モーリス宅の玄関ドアが、開かれたり開かれなかったりする事で、ジェシーと彼との距離感、障壁を表現している事は言うまでもなく、この仕掛けは、終盤、後悔して駆け戻ってきたジェシーがドアを叩くも開かれない場面に集約されている。

更には、喫茶店のドア越しにイアンとジェシーがドナルドを介して和解する場面へと繋がり、額縁に収まったヴィーナスの絵画へ帰結して、作品世界の風呂敷を完全に畳んでしまう。あるいはガラス窓や鏡を用いて、反射、投影といった物理事象からを心象を表現する手法もまた秀逸。

それらの映像演出を支えているのが、先述の通り主人公を始めとする老人達および、本作が映画初出演となるジョディ・ウィッテカーの、ディフォルメ(または記号化)とリアルのバランスが取れた演技によるものとは言うまでもない。

美(=若さ)あるいは性(=生)に対する、男性視点における果てない憧憬を、ウィットやユーモアを基調としつつ、時にネガティブな心情を交え、そのギャップで観客の感情を揺さぶる、老いを題材とした青春映画という、一風変わった作品である。

映画好きなら一見の価値あり。機会があれば。


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2007年11月29日

肩ごしの恋人 28点(100点満点中)07-330

お前のものは俺のもの
公式サイト

直木賞受賞作である唯川恵の同名小説を韓国にて映画化。当然ながら舞台は韓国に、登場人物は全て韓国人へと変えられている。

20代後半(ドラマ版は30歳、今回の映画版では30代半ば)の二人の女性の、女の理屈女の都合を各々の視点で緻密に描き、そこから無自覚な愚かさが内包されている事にも気づかされ、一方の観点からの他方への理解と誤解をそれぞれに対比させるなどして、一面的でない人間個人の有りようと相互関係を綴っていくスタイルで、外面的な事象はその内面を描くためのギミックであるところが、原作小説の主軸であり面白さである。

が、本年に日本で連続ドラマ化された際には、主人公の一人、萠(米倉涼子)の視点をメインにほぼ固定し、そちら側の観点で事象を描く形式へと改変され、普通のドラマに比べればモノローグを多用しつつも、本来の作品の特色であるべき緻密な内面描写はやはり原作に比べれば薄味となり、結果としてありがちな女の欲にまみれたスイーツ物語でしかなくなってしまった事も併せ鑑みるに、原作小説の方向性は映像作品向けでは決して無いのだろう。

これは、本原作と似たスタイルである、恋愛、セックス、自分らしさにまつわる女の内面語り作品が乱立するレディースコミックが、漫画の段階ではそれぞれ傑作と呼びうる作品がいくつもありつつ、それが実写映像化された途端に陳腐なスイーツ物語に堕してしまう現象からも明らかである。

それが製作者側のセンスや営業の方向性の問題だけでは無く、言葉を文字として読ませるメディアと声で聞かせるメディアとの差異が、移植に際しての大きな障壁となっていると考えるべきだろう。

今回の韓国映画版においては、ドラマ版以上にモノローグを排して主観的心情描写が大幅に減少しただけでなく、主人公達のそもそものキャラクター自体が外的にも内的にもかなり変えられているため、いくつかの事象は原作と同じながら、その事象に際しての主人公達の思惑や感情は全く異なるものとなり、もはや原作とは別物と呼んで問題ない状態である。

日本人と韓国人のものの考え方の差異や、いわゆる韓国映画、韓国ドラマ的な演技、演出スタイルが、そのギャップを更に押し広げている事は言うまでもない。

そして、全くの別物として鑑賞した場合、トレンディードラマ全盛期にいくらでも見かけた様な、ありがちな女がありがちな人間関係を繰り広げる、ありがちな三流ドラマでしか無く、もともと原作にあった面白さが薄れた代わりとなるものが何も無い状態の本作は、何ら特色の無い、見なくても何も困らない作品でしかなくなっている。

ただし、主人公ジョンワン(原作における萠)を演じるイ・ミヨンの、とても30代後半には見えない可愛さと、自然体を自然に見せる演技、表情の上手さにより、この映画版としてのキャラクターを好演していると評価出来る。

だがもう一方の主人公であるヒス(原作でのるり子・ドラマ版では高岡早紀)を演じたイ・テランは、「男に好かれて女に嫌われるタイプの美女」という設定から明らかに乖離した、サザエさんみたいな髪型のセレブ気取りのオバサンにしか見えず、こちらは明らかにミスキャストだろう。

彼女が美人でない事で、彼女が旦那の浮気相手を「若さ以外何のとりえも無い女」と評するくだりが、若くてそこそこ可愛くて魅力的なその浮気相手に対する、単なる負け惜しみにしか感じられず、本来の意味を損なってしまっては、ストーリーの方向性が変わってしまうのだから、これは大問題だ。

何より、見た目が魅力的である事が最大のアイデンティティであるからこそ、モテないタイプの旦那が固執する事にも説得力が生まれるのに、見た目がコレで性格も悪い女に何の価値があるのか、話が成立しない

後半に脱ぐシーンがある事から、キャスティングに制限があったのかもしれないが、だったら特に必要の無いそんなシーンを削除して、ツートップ美女主人公として誰もが納得できるキャスティングを優先すべきではないか。まさに本末転倒だ。

ドラマ版は出来があまり良くないと思っていたが、この映画を観ると、まだドラマ版の方が原作の良さを表現しようと努力していた事に気づかされもするが、目糞鼻糞か。

出演者のファンならとりあえず要チェックだろうが、内容に興味がある場合は原作を読む以外の選択肢は有り得ない、特に鑑賞価値の無い作品である。自己責任で。


余談:
本文中、似た様な作品がレディコミに乱立していると書いたが、原作小説の特異性はもちろん文章表現の巧みさや心理描写の説得力も評価点ではあるが、これが漫画ではなく小説である、という一点こそが最大である事は間違いない。

かつて景山民夫の『遠い海から来たCoo』が、明らかに『のび太の恐竜』そのままの内容ながら直木賞を受賞してしまった事なども併せ、同賞の選考委員がいかに、小説以外の"文化"に疎いかが丸わかりである。芥川賞も似た様なもんだが。



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2007年11月28日

ナンバー23 32点(100点満点中)

私は自由な人間だ! 番号なんかで呼ぶな!
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オカルトジャンルにおける定番ネタとして有名な、23エニグマの謎を題材とした、ジム・キャリー主演、ジョエル・シューマカー監督による、サイコ・ミステリー映画。

だが日本ではあまりメジャーではないオカルト説よりも、コメディ俳優として有名なジム・キャリーがシリアスなドラマに主演する、という点の方がまだ、興味を惹く要素としては強いかもしれない。

実際、彼が演じる主人公の、次第に狂気に呑み込まれていく演技自体は素晴らしく、また、序盤で見せられる、カウンセラーとのウィット溢れるアメリカンジョークな掛け合い場面などは、ジム・キャリーらしい上手さが感じられ、安心させられる部分でもある。

映像的な仕掛けによって、現実と想像、妄想、狂気など、様々に交錯する世界を表現し観客をその世界に引き込もうとする、視覚的な面での狙いは面白く、例えば、学校の外観→窓の中に見える光景に近づいて教室内へ、家の外観→窓の中に見える光景に近づいて屋内へ、と、同じ手法を重ね、まるで夢を見ている様に視点が切り替わる多層的な妄想世界表現を観客に認識させた後、そこから続いて床に落ちた本の表紙に近づいて、その表紙が本編映像として動き出す、と、大フレームである画面全体の一部に配置された小フレームの中に入り込んで、それが大フレームと化しまた別の小フレームが現われる映像を連続させて、深みに嵌っていく主人公の心情を体感させる演出は見どころだ。

あるいは、向かい合う双方の視点を切り換えるカット割りで緊張感を与える、迫り来る車の前で動じない犬と、迫り来るバスの前で動かない主人公といった、相似形の構造を心情的な伏線として映像表現して観客に印象づけるなど、映像的な面白さはそこかしこに見られ、楽しめる。

だが、それらによって語られるストーリーそのものは、あまりに問題が多く、評価に困ってしまうのが実情だ。

ミステリーとしての主軸の一つである主人公と本の関係は、"衝撃の事実"が確かに判明する。だが、結局23の謎自体の意味が不明なままなのは、有名なオカルトネタであり、ダ・ヴィンチ・コードの様に無理矢理なオチを決めつけて失笑を買うよりは、謎のまま放置で構わないとしても、何故みんなが23に固執したのか、そんなに人を魅了する何かがあったのかと、観客が納得できる理由が何も明らかにならないままでは、オカルト的側面を前面に押し出してミスリードさせる手段として使い捨てられたに過ぎず、これはストーリー的に完全に片手落ちだろう。

主人公と本が出会った事に23の数字による必然があったなら面白いが、単なる偶然でしかないのでは御都合主義と誹られて仕方ないものであり、また、いかにも教授や妻を怪しそうに見せかけたりと、ミスリードを狙う仕掛けまでもこじつけ感が強く、23関連がこじつけに終始するのだから、ミステリーまでもこじつけではあまりにクドすぎる。

ストーリーを非オカルトのリアル事象と位置づけた終盤になってもまだ、犬を始めとするオカルト要素を残しているのが単なる思わせぶりでしかない事も併せ、このやり口はストーリーテリングとして反則である。

また、主人公と本の関係と23の、二つの大きな謎が混線しながら進行していく展開は、先述のこじつけ感の強さと投げっぱなしによる構成の甘さによって、23の謎に興味を持てばいいのか、主人公と本の関係に興味を持てばいいのかが曖昧となり、結局どちらにも大して興味が湧かないのが致命的だ。

何より、有り得ないトンデモなストーリー展開にリアリティを感じさせ観客を騙して面白がらせるためには、関係ない事象、心情ではウソをつかずにリアルを追求しなければならない。何から何までウソや不自然では、はなから観客に愛想を尽かされるだけだ。

にも拘らず、例えば先述のバスの前に立ちはだかる主人公の様に、見通しの良いまっすぐな道路上で何故バス運転手はブレーキすら踏まずに全速力で主人公を轢き殺しにかかるのか、と、観ている誰もが突っ込まざるを得ない様な、作り手の都合が最優先な不自然すぎる場面、描写が多い事もまた、本作の本来の狙いには反するものである筈だ。妻の声は無視して息子の声で正気に戻る、アメリカ的家族観を皮肉ったと思しき顛末は別の意味で面白いが。

作り手が"衝撃の結末"トリックに懸命になるあまり、それ以外の本来重要な部分まで気が回らず、面白くなりそうな題材を無駄遣いしてしまったのが、結局のところだろう。つのだじろうの心霊オカルト漫画程度の説得力は、せめて構築してほしかった。

映像的な遊びやジム・キャリーのサイコパス演技など、見どころとなる部分もあれど、ストーリーに期待すると間違いなくガッカリするので注意が必要。自己責任で。



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2007年11月27日

マイティ・ハート -愛と絆- 35点(100点満点中)

私と同じ趣味や!
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パキスタンに滞在していたアメリカ人ジャーナリスト、ダニエル・パール氏が、イスラム系テロリストに誘拐、斬首殺害された、実際に起こった事件を、その未亡人であるマリアンヌ・パール氏自らが綴った実録本を原作に、ドキュメントやノンフィクション映画を多く手がけるマイケル・ウィンターボトム監督により映画化。

同監督の近作として、パキスタン系イギリス人がテロリスト嫌疑により逮捕されグアンタナモ収容所へ送られた事件を扱った、『グアンタナモ、僕達が見た真実』が先に存在するが、本作はその姉妹編ともいうべく、近似する事象を別の視点で捉えた作品と位置づけられるだろう。

『グアンタナモ〜』同様に本作も、明らかに危険な場所にいながら、危機意識に欠けるどころか自ら危険の渦中に飛び込んだ人間が、案の定災難に遭う展開であり、その点で始めから主人公達に同情し辛いところまで同じである。

これは原作うんぬんの枠を超えて、監督自身のものの見方が如実に現われていると考えていいいだろう。もともと社会派ドキュメントやノンフィクションの作り手だけに、自身も飯のタネを求めて危険に飛び込む行為を、無自覚に正当化しているのではとさえ勘繰らされる。

ユダヤ教徒アメリカ人ジャーナリストに、フランス出身の妻は仏教系カルト信者で、ヒンズー教徒インド人と同居、と、まるで殺してくれと言わんばかりにテロリストを刺激する材料が見事に揃っている、この出来すぎなお膳立てをまず、ノンフィクションとしてフラットに見るのは不可能だ。

人種や宗教の混淆を強調する事で、逆説的に人類愛や平和協調の素晴らしさを訴えたい狙いなのかもしれないが、これでは却って混沌のみが伝わってしまい、同情心も薄れようと言うもの。

ドキュメント的な臨場感、ライブ感を強調するカメラワーク、演出によって事件の推移を見届けさせる手腕は『グアンタナモ〜』と変わらず優れているが、明らかに主人公側の視点で描きながら主観の置きどころが曖昧な、中途半端さもまた変わらず。

被害者の妻を演じるアンジェリーナ・ジョリーの、慟哭シーンや出産シーンの真に迫る演技は、流石大女優の面目躍如たるものだが、それ以外の場面では緊張感、必死さに欠け、淡々とした印象が強いのは、タイトルの由縁である気丈さの表現なのかもしれないが、現実として共感し辛くノンフィクションとして受け入れ難い。

実際に被害者が存在する事件なための配慮があるのか、ショッキングな素材を用いたにしては今ひとつ踏み込みに欠け、ために作品そのものの請求力が希薄となりテーマが伝わらない、どうにも物足りない出来に終わっているのが残念。

題材に興味があるなら一応はチェックしておくべきだろうが、あまり期待しない方がいいだろう。直接的な残酷描写はないので安心を。



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2007年11月26日

ミッドナイト イーグル 3点(100点満点中)

朝鮮人に朝鮮語を喋らせない差別映画
公式サイト

高嶋哲夫による同名小説を映画化。

松竹配給の正月映画としては大本命の扱いらしく、LAでプレミア上映などやたらと宣伝に必死な事は伝わってくるが、予告編を見る限りではどのジャンルに属す映画なのかすらよくわからない有様で、観る前から地雷臭はプンプンしており案の定、ダメな邦画大作の究極典型とも言える、方向性が曖昧で中途半端に終始する出来となっている。予告編の制作スタッフも苦労したんだなあと同情してしまう程だ。

そもそも原作の時点で、政治や軍事の考証すらロクに行えておらず、読者を騙すリアリティに欠けている上に、登場人物の行動に一貫性が無いため、何故そうするのか、そうなるのかに全く説得力が無く話の都合で動かされている事がバレバレで、読んでいて引き込まれるものが特に無く、意外な事が一つも起こらない事が意外で驚かされてしまう、子供騙しな作品ではあったが、そこから更に輪をかけ、意図的かと思える程にダメな部分をクローズアップしては面白くなる筈が無い。

雪山でテロリストと戦う作品と言えば『ホワイトアウト』、北朝鮮工作員に奪われた最強兵器を奪還する話と言えば『亡国のイージス』など、本作と同ジャンルに括られる類の邦画大作は近年にもいくつか存在するが、それらは、地の利に長けた主人公が工作員を出し抜き翻弄して孤軍奮闘する、という設定をエンターテインメントとして前面に押し出し、その戦術の面白さで観客を楽しませる事には成功していた。

本作でも一応は、主人公(大沢たかお)とパートナー(玉木宏)は20年来の登山者で、その能力によって工作員に対抗し自衛隊員の協力者となるべく理由付けとされてはいるが、その設定が作品内に活かされている部分がほとんど無いに等しいのだから呆れる。

二人が登り始めてすぐに「ここなら先回り出来る」などと急斜面を登る場面があったが、実際には自衛隊にも工作員にも先行されている有様で、結局のところ、「この山は俺たちの方が詳しい」など、台詞によって説明する事はあれど、二人の登山能力が、何らかの描写として用いられている場面がどこにあるのだろうか。

その点に限らず、こいつは何者なのか、今何が起こっているのか、と、何から何まで一切の状況説明を、全て登場人物の台詞によって語らせている、これが本作の脚本段階での大きな問題点のひとつである。

例えば、謎の飛行物体がどこからどうしてどんな顛末で墜落したのか、普通なら米軍基地が襲撃される場面などを、イントロとしてアクション満載の映像で見せ、観客を惹き付けて物語世界へ導入しながら端緒の説明とするなどするべきが、本作では全て台詞で説明させているだけだ。これで面白くなるわけがない。

墜落物体が何なのか、謎として引っ張ろうとする意図だとしても、予告や宣伝の段階で核や生物兵器などの軍事的なブツという事は容易に想像がつき、実際にその通りでしかないため、興味の矛先として成立していない事に、作る前から気づくべきだろう。

自衛隊レンジャー部隊を凌駕する人員と作戦遂行能力を持つ工作員が何故そんなに強力なのか、あるいは自衛隊員が都合良く弱すぎるのか。爆発までのタイムリミットが異様に長かったのは何故か。それくらいの時間で工作員が安全圏まで逃げ切れるわけでもなく、だったら全員で爆弾爆発までの間周囲を固めて守り切るべきなのに、少数の見張りのみを残してその場を離れ(どこへ行っていたのだ)、時間がきても爆発しないとわかったらゾロゾロと戻ってくる。全く意味不明である。

マンションに群がる謎の男達を恐れ、子供を連れて脱出を図る場面は、サスペンスと見せかけて拍子抜けさせ、緩急を持たせる狙いなのだろうが、電話一つ入れておけばスムーズに事が運ぶところを、何故わざわざ無用な誤解を生んで事態を混乱させかねない事をするのか、行動原理が全くなく、作り手の都合でそうさせたいだけでしかない事が明白すぎるため、盛り上がるどころかあまりのくだらなさに怒りすら覚えてしまう始末だ。編集長が何故公安にそこまで顔が効くのかも、何一つ説明が無く、この馬鹿げたシーンのための材料でしかない。

謎の狙撃者に狙われている事がわかっていながら、派手派手なジャケットをどうにかしようともしないのは、殉職した自衛隊員のジャケットを借用する等して白づくめになってしまうと、誰が誰かわからなくなってしまうどころか真っ白な背景に埋もれて何が起こっているのかすらわからなくなるから、というのが製作上の理由だろうが、だったら観客にその事を突っ込まれない様に、常に追われ続けていて着替えている暇もないなど、サスペンスやアクションを楽しませながら必然として納得させる方法はいくらでもあるにも拘らず、それすら行わないのは単なる手抜きでしかない。

悪天候が原因でヘリ部隊が撤退したのに(この撤退するしないの押し問答も冗長すぎて台無し)、後から晴れても戻ってこない。これまた撮影状の都合だ。

物語展開も、登場人物の言動も、いちいち悪い意味でのツッコミどころが満載で、それを隠して押し通すだけのテンポもテンションもなく、ダラダラと緊張感のない芝居が続くのみ。これの一体何が面白いのだろう。

展開の何から何まで全てがこの調子で、行われる事象に対し一応の前フリや説明を置いていながら、それが必然として、あるいは説得力のあるかたちで用いられる事は無く、後付けの説明を先に配置しているだけでしかない脚本の稚拙さを如実に表している。

アクションシーンと呼べる場面が主人公よりもヒロイン(竹内結子)の方が多い時点で苦笑ものだが、そちらの側が出来がいいわけでもなく、やはり緊張感もリアリティも説得力も何もない、「こうなるお話だからこうしました」としか伝わらない展開に終始。

では政治、軍事サスペンスや主人公家族の感動ドラマなどが盛り上がるかと言えば、そちらの側も同様に中途半端な三文芝居に終始。陳腐なお涙頂戴のテンプレートすら踏み外し、失笑する他ない有様を、一体どこをどう楽しめというのだろう。

工作員に囲まれてたったの3人(後に2人)で防戦しているのに、何度も何度もカメラ前に戻ってくるくだりなど、もう電波少年のパロディで笑わせようとしているとしか考えられない。これで感動出来ると思って作っているのなら正気を疑う。

総理が「トマホーク、発射ー!」と叫ぶに至っては気が遠くなる。日本の総理が米軍の軍事行動を"命令"出来ると思っているのだろうか。

「この国には戦争も軍隊も必要ない」「我々は軍隊ではない。自衛隊だ」という、全く噛み合っていない知能ゼロな会話などからも、作り手に真面目に政治や軍事を考える能力すらない事は瞭然だが、それにしても、自衛隊のサポートの元に製作しながら、何一つ役に立たず死にまくりな最弱にも程がある内容は、それ自体が大いなるギャグなのかもしれない。

日本映画界の悪しき体質のみが前面に押し出され、こんな恥ずかしい国辱作品を海外で上映してしまったのかと、他人ながら赤面してしまうレベルの、どうしようもない駄作中の駄作。

実機を使ったF-15の夜間発進場面だけが唯一の見どころなので、TVで放送される時にそこだけ見ておけばいいだろう。



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2007年11月25日

FLY BOYS 86点(100点満点中)

ローカルな星人のボランティア軍
公式サイト

第一次世界大戦が激化する1916年のフランスを舞台に、アメリカがいまだ参戦を表明していない中、仏空軍に義勇志願兵として参加したアメリカ人パイロット達の活躍を描いた映画。

映画冒頭に「実話を元に」のテロップが表示され、舞台や設定は確かに史実に基づいたものではあるが、ストーリーや登場人物はこの映画のために創作されたフィクションである。

また、レッドバロンの呼称で有名な、ドイツ空軍の赤いフォッカーDr.Iが何故か大量に登場するという、ガンダムで言えばザクが全部赤い様な、史実を踏まえた考証の面から見るとリアルからは程遠い、やっちゃった箇所も多々存在するなどから、ノンフィクションとしての側面で本作を捉えるべきではない。

『パトリオット』や『インデペンデンス・デイ』のディーン・デヴリンが製作に絡んでいる時点で、その事には気づくべきだ。

本作は舞台が近代に設定されたヒロイック・ファンタジーあるいは、60年代あたりに日本の少年漫画で流行した類いの、フィクションの娯楽戦記活劇として楽しむのが正しい鑑賞法である。

その点に留意さえすれば、戦地における愛と青春の旅立ちを描いた王道ストーリーとしてツボを押さえた作劇を、アツく鑑賞する事が出来る筈だ。

それぞれの参戦意図と経緯を簡潔に描写している、プロローグの段階から既に見て取れる通り、様々な思いを抱えて戦地に臨む男達の群像劇として作られているが、そのプロローグが単なるメインキャラの顔見世に終わらず、ドラマ部の展開にいちいち活かされて、各々がベタな王道パターンを踏襲したものながらも、そのベタを丁寧に描いている事で、安定した面白さを最後まで維持している。

主軸の一つである、主人公ローリングスと先任パイロットのキャシディ間のドラマにおいても、主人公の少し先の姿をキャシディにそのまま投影させ、自己嫌悪にも似た第一印象から理解へと繋げていく心情変遷はまさに王道。

キャシディの末路を見届ける主人公の視点を、かつて戦友の最期を見届けたキャシディのそれとシンクロさせて、その後の主人公の行動を、これまでに見せたキャシディのそれを辿らせ、受け継がれる戦士の魂をベタにわかりやすく描く展開に、熱い感情を煽られない者はいないだろう。序盤にキャシディから貰った銃で最後の決着がつくなど、徹底されている周到さが小憎い。

戦死した先輩のパーソナルマークを受け継ぐくだりなどは、一条輝がロイ・フォッカーの機体を引き継いだ名場面を彷彿とさせ、その前段の特攻場面なども併せ、どう展開させれば燃える王道となるのかを、作り手は確実に理解している事がありありと伝わってくる上、その段取りとタイミングの的確さが素晴らしい。

単にイケイケドンドンなだけでなく、敵を倒して生き延びる者、何も出来なかったが生き延びる者、生き延びようとして適わなかった者、など、戦場における非情な生命格差を要所要所に配置して、命のやりとりを行う事のハイリスクさを悲劇として描き、それによって緊張感を維持しつつ、主人公達が勝利し生き延びていく事に対して更なる情動を与える、メリハリが計算された展開は基本に忠実だ。

実物大のレプリカとミニチュアをカットごとに的確に使い分け、その差がほぼ判別出来ないレベルに作り込まれている技術の高さが、作品そのもののクオリティを底上げしている事は言うまでもない。こうした特撮戦争映画では、違和感が致命的となるのだ。

その空戦場面でも、撃墜される敵機が画面手前を落ちていき、画面奥、その黒煙の彼方から友軍編隊の姿が少しずつ大きくなってくる、といった、やはりベタだがツボを押さえた、燃える、決まる映像が作られており、飛行速度の遅い複葉機での戦闘だけに、近い場所で複数の機体が入り乱れて混戦となる空戦に、観客の一喜一憂を見事にコントロールする演出は目が離せない。

まるでシューティングゲームのステージボスの様に登場する巨大飛行船の圧倒的ビジュアルは、それを破壊するカタルシスを高める狙いが成功しており、友軍の爆撃シーンで見せられる、爆撃機自身の俯瞰視点による地上爆破映像では、リアルな質感のミニチュアセットが気持ちよく爆破されていくカタルシスが最大限に計算されている。

まず何も無い地面が爆撃されてから、画面がスクロールするにつれて少しずつ建物が視界に入ってきてそれが大破される、縦スクロールシューティングゲームのごとき映像からは、どう段階を踏めば観客のテンションがより高まるかを考慮し、それが結実している、センスの高さが大いに感じられるところだ。

メジャー資本ではないため日本では全く宣伝されず公開規模も極少だが、70億円の大予算に恥じない、これを楽しめない人間が可哀相にすら思えてしまう、良質の王道娯楽映画である本作、この特撮クオリティは劇場の大スクリーンで見なければ間違いなく損な、映画好きなら必見の一本だ。是非とも。



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2007年11月24日

オフサイド・ガールズ 77点(100点満点中)

客観的に自分をみれねーのかバーカ
公式サイト

ドイツワールドカップへの出場を賭けた、イラン vs バーレーン戦の試合会場を舞台に、法律により会場での観戦が行えないため、男装して侵入した女性サポーター達に焦点を当てた、イラン人監督ジャファル・パナヒによる社会派エンターテイメント映画。

実際に当該試合が行われている会場で撮影を敢行し、出演者も全てアマチュアの市井人を使っている、ドキュメントとフィクションの境界を極限まで曖昧にしている事が、まず本作の大きな特徴として挙げられるものだろう。

そうした手法により、他のイスラム系国家とは異なる文化と歴史を持つイランの"リアル"を、観客自身がその場に立っているかの様に作品内へと没入させ体感させる事が可能となり、"演技"で見せられるメインのドラマでさえ、ドキュメントとして受容してしまう、作り手の狙いは充分に果たされている。

周囲の群衆とそこから物語に参加する人物、どこからどこまでが仕込みでリアルなのかすら曖昧な、あまりに自然な"試合当日のイラン"の様子をただ見るだけでも、サッカーと言う共通言語を介しながらもあくまでも異文化である、心情の共有と視覚の乖離のギャップが何とも楽しい。

序盤における会場に向かうバスや、終盤での街のお祭り騒ぎなどは特に、そうした楽しみは大きく、また、昼から夜へと時間軸と背景が変わりながらも、観点をバスの窓から見る光景と共通にして、試合前と試合後の対比、回帰構成を明確とした、場面配置の巧みさが感じられもする。

絶えず何らかの問題が起こり続け、一つが落ち着いたと思ったらまた新しいキャラが次々に登場して事態をややこしくする、シチュエーションを相互連続的に配置して観客を飽きさせない、娯楽性にこだわった脚本構成も見事。男装のレベルがどんどんグレードアップしていくあたりは、ギャグの教科書に極めて忠実だ。

各シチュエーションにおいては基本的に、ドツキ漫才や禅問答的な掛け合いで観客の興味を繋ぐべく作られているが、互いの噛み合なさをまず表層的なおかしさとして提示し、その中に込められているイラン社会の様々な問題を、決して噛み合させない事で矛盾や齟齬を浮き彫りとしていき、コメディ的なオチを付けて揶揄する、といった風に、脚本的にもかなり考えられている事は間違いなく、それを面白く見せてしまう演出力もまた素晴らしい。

1シチュエーションにつき1カットに近い、手持ちカメラによる長回しによって、リアル感、ライブ感を更に強調し、人物の移動に付き従ってカットを割らずカメラで追い続ける事で、同じく試合中のスタジアムにて行われている事を効果的に体感させている、カメラワークの巧みさも見逃せない。

トイレに行く女性と兵士にまつわる顛末の、延々と切られない超長回し場面などは特に、行っている内容のバカバカしさと反比例しての兵士の深刻さのギャップがあまりにもおかしく、それがやはり試合中の会場である事で時間感覚までもがリアルなものとして彼を追いつめていき、作品の特殊性が充分に活かされた名場面と評せるものだ。

特定の偏向した思想や主張を声高に押しつける事無く、あくまでも現実的な光景として社会問題を切り取り、抑圧される側、する側を共に悲喜劇として描き、つまるところ問題はどこにあるのかを観客に委ね、それを笑って楽しめる娯楽作品の体裁で作り上げてしまう、ジャファル・パナヒ監督のセンスと手腕はまさに秀逸。

同じワールドカップ予選でのイラン vs 日本戦にてイラン人観客の7人が死亡した、実際に起こった事故が背景となっている事など、日本のサッカー好きなら興味が湧くだろうが、サッカーや宗教、人権問題などの題材に興味が無くとも、良質な社会派娯楽作品である本作は映画好きなら必見の一本だ。機会があれば是非。



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