2007年12月

2007年12月31日

エイリアンズ VS. プレデター2 43点(100点満点中)07-370

やあ、プレデタリアンじゃないよ。プレデリアンだよ。
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ダークホースコミックの企画作品を原案に、ポール・W・S・アンダーソン監督によって作られた映画『エイリアン vs プレデター』の続編作。

同監督による映画『バイオハザード』の二作目に当たる『バイオハザードII アポカリプス』は、監督が別人となり、アクション画面は真っ暗で寄りすぎブレすぎ割りすぎで何をどうしているのやらサッパリな惨状で、ラストは街ごと吹っ飛ばしてあぼーんだったが、やはり監督が別人に交代した本作もまた、『バイオII』とは別の人ながらやっている事は何故か酷似し、同じ運命を辿ってしまった嬉しくない結果に。

映画は脚本と映像が面白さの大方を占める場合が多いが、本作の場合、その脚本と映像の両方において出来が悪いため、エイリアンやプレデターに対し思い入れの無い観客にとっては、本当にどうしようもない愚作だとは容易に想像がつく(その場合点数は30点マイナス)。

まず映像的には、先述の通りにアクションの見せ方が決定的に下手糞なため、戦いどころかモンスターの姿さえ良く見えない状態で、楽しめるどころかイライラするばかりである。

『エイリアン』一作目にて、意図的にエイリアンの全体像をハッキリとは見せない事で、スリルとサスペンスを持続させていた、リドリー・スコットによる秀逸な演出とは完全に似て非なるこのやり口は、センスの無い人間が天才の真似をしても滑るだけという事実が克明となっている、あまりに皮肉な状態だ。

気がついたら背後にエイリアンがいてキシャーーッ!で暗転、といった、予想を裏切らず期待を裏切る工夫の無いワンパターンを何度も繰り返すあたりからも、観客を楽しませようとの意志は全く感じられない。

前作の半人前とは異なり、プロの始末屋であるはずの今回のプレデターながら、これまた後手後手のドジっ子に終始して、ほとんどマトモに"仕事"を遂行できていないばかりか、結局決着がつかず中途半端なままでは、そもそも何のための映画なのかすらよくわからないではないか。

シチュエーション的に、序盤であっさり子供が犠牲になって、お約束が通用しないのかと期待させたり、中盤では妊婦を寄生主として利用して悲惨度を高めるなど、あるいは下水道場面などプレデターの"戦士"としてのカッコ良さを感じさせる状況や、ラストのガチンコ対決など、見ものとなる部分もいくつもあるだけに、全体としての構成意図があまりにも曖昧で散漫に尽きるのが非常に勿体ない。

また、怪物対決のとばっちりを喰らう、大きく二つに大別される人間側のドラマにおいても、元軍人の母親と長く離れていたために馴染めない娘の、比較的ありがちな構図を用い、父親は即死し母が娘を守って逃げる状況まで作っておきながら、それを通じて母と娘の関係が修復されていくといったドラマすら全く無く、娘が思わぬところで意外な活躍をし皆を救う、あるいは逆に足を引張る行動を起こすなどの、お約束的な存在意義も無く、逆にアッサリと娘が犠牲になってしまうとか、母が娘を見捨てるといった、パターンを裏切る様な仕掛けも全て何も無く、これでは何のために序盤に時間をかけて家族描写を行ったのか意味がわからない。

暗闇での活動に有効な暗視スコープも、娘が最初にエイリアンを発見して以降は全く使われず、"母のプレゼント"である意義も希薄なまま使い捨てられているのでは、設定の無駄遣いだ

もう一方の、ドラマや映画で使い尽くされている王道パターンである、ヘタレ少年とビッチ美少女の側においても、途中までは基本に極めて忠実な展開に終始して観客を退屈させながらも、終盤、ビッチが戦闘の巻き添えを食らってしまう唐突さと意外さ、そして特に序盤での彼女の不誠実な行動に感じていた不満が、この展開で一気に解消される事で少なからずの興味が再燃し、あまつさえヘタレだった少年がブチ切れてプレデターに突撃するに至っては、ここからプレデターと人間との"戦士"としての関係性が一作目の様に始まっていくのか、あるいはプレデターが人間すらも敵と見做してしまい余計に事態が悪化してくのか、などの期待を抱かされながらも、そういう事には何もならずに単にプレデターが落とした武器を人間が拾うだけと、これまた期待外れに終わる。

ムショ帰りか何かで不穏な空気を漂わせていた兄が、特にその設定を活かすことも無く、結局普通に良い兄さんでしかない、本当に何のための序盤のドラマなのか、単に時間の無駄遣いでしかないではないか。

軍人母とヘタレ少年の、二人の人間側主人公らしきキャラクターが、『エイリアン』『プレデター』への介入に相応しい役割を全く果たさず、結局のところ単なる巻き添えの被害者でのみ終わってしまう時点で、ドラマを描こうとも盛り上げようとも思っていないことは明白で、これなら長い前フリは全く不不要だった筈だ。

本題であるエイリアンとプレデターの戦闘においても、まずシチュエーション的に、エイリアンに爆発的な増殖力を与えてしまった事で、町を襲うエイリアンvs犠牲となる人間の間を、一人のプレデターがチョロチョロとちょっかいを出している、としか感じられない構図にしてしまった時点で大失敗だ。

その人間達とエイリアン群の攻防でも、広場を包囲する圧倒的なエイリアンによって絶望的な光景を見せるといった事すらなく、ひたすらアップどアップでマクロ視点が無いのだからどうしようもない。

予告からも想像されるような、暴走するエイリアンとそれを狩るプレデターの激闘の狭間で、巻き添えを喰らった人間達が踏みつけられていくといった、僻地ではなく街を舞台とした時点で本来期待される展開に持ち込まなかったのは、観客が何を欲しているのか理解出来ずに、作り手の自己満足を優先させた愚かな結果であろう。

最後は全く意外性の無い、誰でも予想がつくバタリアンオチで唖然としていたら、エンドロールにてダン・オバノンの名前を見せられて更に失笑。ユタニの名前を出したところで、一般客にとっては「誰?」でしかなく、ガッカリ感を補う役割には全くなっていない。

両シリーズのファンからはいろいろと不満の向きもあろうが、モンスターバトル娯楽映画としては手堅くまとまり、両シリーズに相応しいオチまで用意されていた前作からは格段に落ちる、ファンサービスとしても娯楽作としても落第点と評して何ら問題はない本作、シリーズファンならとりあえずチェックしてあれこれ言うのも楽しみのうちとなるだろうが、特にそうでもない一般人にとっては退屈なだけなので観なくていいだろう。自己責任で。



tsubuanco at 19:25|PermalinkComments(4)TrackBack(24)clip!映画 

いのちの食べかた 75点(100点満点中)

待望のステーキをほうばりながら俺は泣いた
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現代社会における食料生産の現場を捉えたドキュメンタリー映画。

原題は『OUR DAILY BREAD』すなわち『日々の糧』と言ったところで、本編映像には生命ではない食料品も登場するのだから、邦題に倣った付け方をするならむしろ"食べ物の作り方"であり、全く持って不適当な邦題としか思えない。

何故こんな邦題がつけられたのかと言えば、食の根源を紹介すると思わせて実際は政治、人権のプロパガンダ本でしかない、ジュニア向けレーベルで刊行されているが子供には読ませたくない本である、森達也の著書『いのちの食べかた』と連動したプロモーションを、日本の配給会社をはじめとする関係各社が行っているためで、そのあからさまな偽善的恣意性には辟易するばかりだ。

と、観る前からケチがついてしまいがちではあるものの、本来の作品とは無関係な雑音やゴミは無視するのが賢明な鑑賞法だろう。

約90分に渡って見せられる映像の数々は、ナレーションもテロップもBGMもSEも一切なしに、食料生産現場の状況をただひたすら現場音とともに映し続けるのみで、見るもの聞くもの全てが、行われているそのままを表現し、観客に突きつけるものだ。

当然ながらこれは単なる素材の羅列ではなく、本作を"映画作品"として完成させるために用いられている、意図的な手法である事は言うまでもない。画面内での事象が"ありのまま"であると観客に印象づけ、また、それ以外の情報を差し挟まない事で、フラットな観点において作られていると、観客に捉えさせる事が狙いである。

シンメトリカルな画面構成を多用した視覚的演出により、大量生産という行為の画一性を強調している事なども含め、見せる順番、タイミング、時間などが的確に計算された構成によって、下手に作れば単なるBGVに成り果ててしまう題材を、もう終わりなのかと退屈させない出来に仕上げているのは、なかなか成し得る事ではない。

本作を観て「単調で退屈だった」との感想が出る様な人種は、話題の映画だから飛びつきお話の筋を追い人気俳優の顔を見て満足する程度の、底の浅い表層的な面でしか映画を見ていない人種でしかなく、映画鑑賞および映画について語るといった行為には向いていない。「命の大切さを〜」「罪深さを受け止めて〜」「自然の摂理〜」などと賢ぶっていながら、ゴテゴテに加工されたジャンクフードをバリボリ頬張っているがごとき滑稽さを自覚すべきだ。

閑話休題。まず一巡して単純にインパクトを与えられるのは、ニワトリ、ブタ、牛ら家畜が、工業製品の様に生産、加工されていく段階的描写だろうか。

最初に紹介されるのは卵から孵化する段階のニワトリだが、大抵の人がヒヨコに大して抱いている"可愛い"という印象をベースとし、その"命"があまりにぞんざいに扱われ、良品と不良品に分別され淡々と処理されていく様を、前述の対称画を中心としたフラットで冷徹な視点にて見せられていく事で、複雑な感情を覚えてしまう事は、人情としては当然だ。

まず仔ブタが母ブタから授乳している風景を長めに見せた後、泣き叫ぶ仔ブタが次々と治具に嵌め込まれ去勢されていく様も同様。ライン工業としての流れ作業におけるシステマチックな整然美と、前フリによって発生させられた感情を刺激する行為とのギャップが、観客の興味を更に惹き付けている。

ニワトリは選別、ブタは去勢と、それぞれ人情として痛々しくなる様なシチュエーションを各畜種ごとに別個に用意している本作、メインイベントの様に最後に見せられる牛におけるそれは、屠殺(なぜかへんかんできない)に絡む一連の工程だろうか。

それまでの二種においては、ニワトリでは吊るされて運ばれていく工程にワープし、ブタでは中の見えない場所に追いやられ、出て来たら既に吊るされている、という状況を、やはりデザイン的に構成された固定の一画面にて見せる、といった手法が用いられ、その"瞬間"を敢えて見せなかった事で、牛の屠殺を直接見せる前フリとなり、大いに感情を刺激されるべく狙われている。

その場面でもまた、先述のブタの屠殺場面の様に、一画面の左右に連続した異なる状況を配置し、既に電気ショックを与えられて吊るされ運ばれていく牛の巨体を右側に見せ、その状況を"次の番"として左側に待機させられている牛が目の当たりにしている画面構成とし、その流れ作業を披露していく事で、観客はまるで自分が死刑の順番を待たされているかの様な錯覚を起こしてしまうハメとなる、秀逸な構成には畏れ入る。

続いて見せられる血抜き作業では、"命"が"肉"に切り替わる瞬間の無常感を、大量に流れ落ちる血と体液によって突きつけ、そこから始まる一連の解体作業においては、牛の"大きさ"とそれを扱う大掛かりな機械や作業を次々に羅列していく事で、何故ニワトリやブタに比べて牛肉の値段が高いのか納得してしまい、先程の屠殺で生じた感情は既に無くなっている事に気づかされる。

そうした、観客の感情をコントロールする編集構成の上手さは、牛肉の加工が一段落し、それまで作業が行われていた場内および機械類が次々と洗浄されていく、清掃作業をまた長く見せて、観客の気持ちも一段落させ、そのまま暗転して清掃作業の現場音のみが聞こえる中エンドロールが流れ始める終わり方まで一貫している。

ここに至るまで退屈するどころか、エンドロールを見て「え? もう終わりなの?」と感じさせてしまう程に、目が離せない様に考えられ作られているのだから感心するばかりだ。

そもそも流れ作業を映す映像においても、固定の画面ながら奥行きのある立体的な配置が意図されており、つい手前の作業者ばかりに目が行ってしまいがちながら、流れていく奥や、流れてくる前など、奥や端に見える状況にも目を移せば、もっと見ていたいと思っているうちに次の映像に切り替わってしまい、退屈など有り得ないのだ。

一方で、同じく対称画をメインに農作物の生産、収穫、出荷を見せていくパートにおいては、家畜の処理映像に比べると"残酷さ"を感じないと見る向きもあろうが、だが何故動物と植物が作中にて同等に捉えられているのかに考えを及ばせるまでもなく、淡々と処理される動物と、淡々と処理されていく植物、そこに何ら差異はないのだとの事実に気づけば、そこに込められた意味は必然として伝わってくる筈だ。

バスに詰め込まれて現場まで運ばれていく作業員を映し続ける映像など、"人間"という存在が、表層的には作中で失われていく"命"を支配している様に見えながら、その本質においては何ら変わるものではないと、こちらは比較的安易に突きつけている様に、それぞれに対し観客である個人が抱いている印象の差異こそが、現実社会に存在する差別や偏見に繋がっているのではないか、との、作り手の意図がよく表れており興味深い。「生命に感謝すべき」などという思想こそが、人間を特別視した驕りに他ならないのだ。

そうした"食物連鎖"の現状を映し続ける一方で、中盤に挿入されている塩の採取作業のシチュエーションは、インターミッションとして"食"のあり方の多面性を表現して、単純なものの見方にクサビを打ち込む役割を果たし、永遠に続くかと思われる時間、超スピードで降り続けるエレベーターや、その先にある現実離れした光景など、視覚的な興味で観客を繋ぎ止める事にも成功している。あるいは黄泉の国と塩の柱の逸話にも絡めた仕掛けだったのだろうか。

ともかく、思想的な事はさておき、シンメトリックを意識しすぎ、作りすぎな感がある画面構成が時に鼻につくものの、単調な素材を退屈させない編集構成は見事の一言に尽き、"映画"が好きならまず楽しめる必見の一本である事は間違いない。機会があれば是非。



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カンフー無敵 6点(100点満点中)

泣くーものかー 僕はー男だー♪
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『花より男子』の台湾版ドラマ『流星花園』において、F4役で出演した事がきっかけで結成されたアイドルグループ"F4"の一人、『流星〜』では美作あきらを演じていた、ヴァネス・ウー(ロンブー淳似)が主演する香港映画。

宣伝ではやたらと『少林サッカー』『カンフーハッスル』の名前が強調され、まるでチャウ・シンチーの最新作かの様な印象すら与えられるが、単に脇役で同じ人が出ているだけで特に関係ない。ビデオスルーの怪しげな作品ならともかく、劇場公開作品でこれとは呆れ返る。

それでも実際に観て面白ければ文句も出ないだろうが、やはり詐欺的なやり口を使って宣伝するしかないのも仕方がないと納得してしまえる程の、どうしようもない作品なのだから本当にどうしようもない。

この種の映画として当然の様に、ストーリーはバラバラで一貫性が無く、その場その場の思いつきで適当に作っているとしか思えない乱雑さで、結局何をどうしたかったのかは最後までよくわからないままだ。

犯罪組織とギャンブラーとの確執は主人公と関係なく、ヒロインの存在によって無理から繋げられているだけなのに、無駄にボスやギャンブラーのシーンが多く、その部分がどこにも展開していかないのでひたすらに退屈なだけだ。

ヒロインとなる歌姫(エマ・ウォン)のレビュー場面がやたらと長いなど、誰も見たいと思っていないシーンばかりが冗長で、しかもストーリーの中身が無いのだからどう楽しめというのか。

オマケにカットやシーンの繋ぎすらも乱暴で、リールが飛んでいるのではと首を傾げさせられる様な唐突な転換や投げっぱなしが山積みとあっては、もはや話を追おうという気すら無くなってしまう。

そうした、どうでもいい部分にやたらと時間を割いておいて、観客が目当てにしているヴァネスのアクションはほとんど見られないのだから、本末転倒にも程がある。

冒頭の、犯罪組織が仕切る格闘賭博場では、そこで行われている格闘試合は結構リアルで面白そうなのに、そちらはあくまでも背景としてしか映さず、どうでもいい会話やドタバタばかり見せている時点で、観客が何を楽しもうとしているかすら理解せずに作っていると最初から明白だ。

ドタバタを行うにしても、格闘試合と絡んでアクションを見せるなどすればいいものを、それすら行わずにサッサと別の場所へ移動してしまい、その移動先でのアクションも、デブキャラがオタオタしているところばかりを優先的に映し、主人公の戦いはないがしろと、終始その調子で最後まで進むのでは、これで観客が喜ぶわけがない。

ヒロインが死んで主人公が激怒し、敵の本拠地に殴り込みにいくのかと思いきや行かず、店に戻って何故か店にある鉄格子部屋に監禁されるなど、せっかく高まりそうになったテンションにすぐ押さえつけるべく、ワザとそうしているのではとすら勘繰らさせられる展開にはウンザリする。

最後にいきなり登場する強敵は思わせぶりなだけで中途半端に退場し、唐突に父親と再会して唐突に終わるとは、完全に何も考えていないとしか思えず、こんな仕事で金をとるなと怒りすら覚えてしまう。

『流星花園』にて、ストーリーとあまり関係なく美作がダンスを踊っている映像を延々見せられるなど、身体能力に定評のあるヴァネスだけに、少ないアクション場面ではよく動いている。だからこそ、そのアクションを何故もっと見せないのだと歯がゆくてならない。

主演がヴァネスでなければ間違いなく日本で公開される事はなかったであろう、かつてジャッキー・チェンブームの頃に大量に持ち込まれた凡百のC級香港カンフー映画そのままの、何ら見るべきところの無い駄作。出演者の大ファンでもない限り、鑑賞意義を見出すのは困難だ。自己責任で。



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その名にちなんで 73点(100点満点中)

迎え撃つのは黒き稲妻
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インドで生まれ育ったベンガル人を両親に持ち、イギリスで生まれアメリカで育った女性作家、ジュンパ・ラヒリによる、自身の経歴を元に書かれた同名小説を、インド系女性映画監督であるミーラー・ナーイルが映画化。

在米ベンガル人の家族を題材とした本作だが、扱っているテーマはあらゆる民族において共通しうる普遍的なものであり、原作が世界的に支持を受けた理由のひとつはそこにあるのだろう。

登場人物の主観に立った一人称によって、事象と心象をディテールまでいちいち緻密に描写し、読者との一体化を図っている事で、ただでさえ25年の長い歳月を辿る物語が、長編小説と呼ぶに相応しいボリュームとなっている原作を、二時間程度の映画にまとめてしまう事は困難かと思われたが、結果としてそれを上手くこなしているのは、製作者のセンスと原作に対する理解の賜物である。

一見してダイジェストのあらすじ紹介的に構成されながら、要点を的確に押さえ、それぞれのシチュエーションにおける感情表現やディテールの描写を入念に行っているため、省略されている筈の"間"さえも観客は容易に埋められ、物語の流れや人物の経緯が見て取れる、とある家族の四半世紀をまるで自分の事の様に体感出来る、情報の取捨選択および構成は秀逸。

ベンガル人にとって名前、特に愛する者の名前と、それを口にして呼ぶ事がその様な意味を持っているのか、など、当の民族にとっては常識だが異人には知った事ではない、原作ではいちいち説明されている情報を、この映画版ではあまり差し挟まず、それによって長い原作を短くまとめる一因ともなっているが、これが観客の理解や解釈を阻害するどころか、却って特定の民族に拠らない普遍的な意義を観客に伝え、各々が自身の理解の中で解釈出来る様されているのも、あるいは狙いの内なのかもしれない。

基本的には母親と息子、それぞれの視点を交互に見せていくスタイルとし、両者の意図的に近似された行動、経験を見せる事で、一世と二世の世代差の強調を意識した作劇および構成が用いられているのも印象的だ。それが特に明確となるのは、母親と息子、それぞれの"新婚初夜"シーンにおける、全く空気の異なる表現だろう。

また、母親が実父の死を電話を介して人づてに聞く事となった場面と、後に夫の死を再び電話を介して他人から聞かせられるなど、似たシチュエーションを年月を超えて再登場させる事で、良くも悪くも"因果"を感じさせる仕掛けも散見されるなど、要点が押さえられていると感じさせる由縁は明確だ。

その電話のシチュエーションでは、両者の物理的距離感を再認識させて母親の孤独感を強調し、彼女の境遇のマイナス面を突きつける意図があり、また、民謡を歌っていた彼女の登場シーンを踏まえ、同じく彼女が故郷に帰って民謡を歌っているラストシーンに文字通り帰結させた構造は、年月を経ても変わらないものと変わった事の双方を共に見せ、観客の感情をも締めくくる狙いが果たされている。

息子の側のドラマにおいても、父の死を経験して初めて、否定していた家制度の重要さに気づき、本当の意味で大人にならなければいけないと突きつけられるなど、やはり民族や時代を問わず、長男なら誰でも経験しうる展開を通じて、観客の共感を得て感動へと導くべく、事象、心象のリアルな描写を入念に行っており、また、彼と母親との視点、観点の差異によって、一つの事象に対する実感を深める事にも繋がっている。

のだがやはり、原作者も監督も女性なためか、どちらかと言えば母親側に寄った姿勢で描かれていると感じられる部分が多く、何より劇中に登場する全ての女性の中で、最初から最後までずっと、この母親がまるで女神の様に飛び抜けた美しさを誇り続けるあたり、美人作家として有名(右画像)である原作者にもなぞらえているのだろうか。

この母親が産んだ娘も、息子が交際あるいは結婚する女性達も、ことごとく決して美人とは言い難い微妙なビジュアルに留められ、母親だけが美しいままなのは、母親のフィルターを通して見ている像を表現しているのだと思えば、各女性の扱われ方の差は全て納得が行く。

特定の民族、状況を扱いながらも、移民や海外在住者に限らない、普遍的な家族観や親子のあり方をテーマとした本作、インドやベンガルの文化に詳しくなくとも、自分の事と重ね合わせて鑑賞出来る作品であり、独特の趣を持つ原作の映画化としても一つの正解と言えるだろう。興味があれば観ておいて損はない一本。



tsubuanco at 16:51|PermalinkComments(0)TrackBack(4)clip!映画 

たとえ世界が終わっても 68点(100点満点中)

それがさだめだ俺の道
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ヨーロッパ映画『シルク』に抜擢され話題となった、芦名星初主演映画。監督も本作が初の劇場作品となる野口照夫。

『仮面ライダー響鬼』の敵役を演じていた当初は声が男声による吹替えだった事で、却って神秘的で妖艶なビジュアルが引き立っていた芦名星、最近になってようやくゴールデンのドラマにてヒロイン役を務めるなど、一般にも存在が認知され始めてきて何よりだが、見た目はともかく演技には相変わらず不安が付きまとい続けるのは困りものだ。

本作でもやはり、演技力そのものは他作品で見られる彼女と当然ながら同等だが、当初は感情を露にしない暗い性格付けであるとのキャラクター設定が功を奏し、無表情も朴訥とした喋り口調も、そういうキャラであると受け入れてしまえるのは有り難い。もちろん限度はあるが。

その、生きながら死んでいるかの様な本作の主人公像が、彼女の運命を変える謎の男妙田(大森南朋)の、あからさまにオーバーアクションによるウザッたい"演技"との間に大いなるギャップを生み、妙田のウザったさが更に強烈な印象となって観客に突きつけられる事となる。

そうして、妙田の言動のいちいちにイライラさせられてしまう観客の心情が、主人公が妙田に対し感じている感情と一致する事によって、観客を作品世界へと導入する事に成功している。

主人公の背景や過去、あるいは人格を前もってほとんど説明せず、観客が彼女に対して抱く印象をフラットにしておく事で、そのシンクロが容易になっているのもまた、狙いのうちだろう。

妙田に対し主人公が抱く感情、疑問、印象の変化が、観客のそれともまた一致し、それが物語展開による印象変化にも同期している、全てを絡めた構成はよく考えられている。

例えば、序盤での行きの電車で出会った女性とのやりとりにおいては、主人公は死ぬ事を考えており、女性は死ぬのをやめる。そして本筋を挿んで終盤での帰りの電車で出会った同じ女性との顛末では、その時既に主人公は生きる事を選んでおり、逆に女性は死のうとする、といった様に、最初と最後で同じ舞台や小道具を復帰させ、その意味や意義が逆転している構図、構成を多用し、例に挙げた展開では衝撃と悲劇に説得力や必然性を持たせ、観客を得心させるべく仕掛けられている、構成の妙が活きている。

序盤での集団自殺の集合と、終盤の同じく集合場面で、同じ行動を違う人物にとらせて妙田の行いの意味および物語の意味を明確とするなども同様。このループ的な回帰構造は、題材の一つである輪廻転生にも繋がっているものだ。

その輪廻転生の概念を、妙田がそう言っているとだけに敢えてとどめ、実際にはどうなのかは明らかとせず、単なる思い込みであるとの解釈も可能な余地を残して、物語を現実から乖離させない事も、観客の感情移入を阻害しないための配慮だろう。

集合場所では主人公にだけ『お久しぶりです』と言い、主人公と長田が初対面する場面では『あんなに愛し合っていたのに』と口にするなど、妙田の台詞と現状とのギャップに対し、主人公と観客の双方に戸惑いを覚えさせ、ひょっとして主人公達は記憶喪失で妙田だけが過去を知っているのかなどと観客には想像させておく事で、後に全く有り得ない超常的な"真相"が判明した時に、逆に納得させられてしまう、観客の心理や感情を巧みに操作する、情報提供のタイミング配置も上手い。

ただし、大森南朋の演技が上手いせいか本当にイライラしてしまうのは精神衛生上よろしくなく、その事でいつの間にか作品世界に没入させられているとしても、あまり気持ちのいいものではない。手放しで褒める事にはためらいを感じてしまうものの、観客の予想や感情を誘導して結末へと自然に導く手腕は、やはり大したものだ。

芦名星、大森南朋、安田顕らのファンなら間違いなく必見だが、そうでなくとも、地味な小品ながら、映画好きなら観て損したとは思わない一品。



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シナモン the Movie/ねずみ物語 ジョージとジェラルドの冒険 20点(100点満点中)

FUJIWARAの面白くない方
シナモン 公式サイト ねずみ物語 公式サイト

サンリオキャラクターのひとつ、シナモンを主人公としたオリジナルアニメーション映画『シナモン the Movie』および、完全オリジナルキャラクター、ストーリーによる『ねずみ物語』の二本立て興行

『シナモン』がメインで『ねずみ』がオマケの様な宣伝がなされているが、それは単にキャラクター知名度による集客を意識したものであり、『シナモン』が45分、『ねずみ』53分と、時間配分はほぼ同等の扱いだ。

スタッフ的には『シナモン』側に『あらしのよるに』の監督および作画監督を起用し、こちらも宣伝では名前を大きく出しているものの、『ねずみ』の側も実は、監督に虫プロ出身でサンリオアニメ初期からのベテランである波多正美、脚本は今敏作品を手がけている水上清資、作画監督には近年の手塚アニメを手がけている瀬谷新二と、それなりの豪華スタッフなのだから侮れない。むしろ『ねずみ』の方に力が入っているのではとすら思わされる程だ。

のだが、興行的には『あらしのよるに』よりも更に低い年齢層を狙ったのか、二作ともストーリー的には悪い意味での幼児向けの範疇を出ず、同伴の親にとっては金を払って爆睡する勿体ない時間でしかなくなっているのは残念。『おねがいマイメロディ』の様に、大人でもそれなりに楽しめるべく作れなかったものか。

二作ともに言える事だが、ファンタジックな世界を舞台としたキャラクター冒険アニメでありながら、世界観もキャラクターも、その作り込みが極めて中途半端なのがまず問題。

『シナモン』では、主人公が雲から誕生するという設定は、フワフワしたビジュアルとも重なり面白いが、では雲から生まれた事が、空から落ちてくる導入部以外で、冒険や活躍あるいはキャラクター性に活かされているかと言えば全く無く、後から登場する犬(?)キャラクター達と何ら変わらない存在に紛れ込んでしまっては、設定が無駄なだけだ。

当初は"敵"かと思わせた魔法使いチャウダーは、実は悪い奴ではなく冒険を通じて素直になって仲間入りする、と、全体的な構成はお決まりながら座りのいいものながら、では作中にて"敵"となる悪夢的な存在の正体が、劇中で示唆された様にチャウダーの欲望が暴走したものなのか、あるいはそれは"敵"が主人公達を惑わすための嘘だったのか、結局何だったのかが不明瞭なまま終わっては、話の意味自体が不明瞭となってしまい、これでは単なる思わせぶりの投げっぱなしでしかない。

最後を教育的な予定調和に収束させるのなら、欲望は果たして悪なのかといったテーマをもう少し掘り下げる事も出来た筈で、それをしないのは、幼児向けだからと侮ったためか。子供をバカにしてはいけない。そもそもシナモンロールを作って食べる事だって欲望によるものだ。

また、幼児向けな割には、パン生地が怪物化したビジュアルや動きの歪みが、必要以上に不気味で不快感と嫌悪を催すものであり、これでは幼い子供には恐すぎて、作品を楽しむ事が出来なくなってしまう危惧すら覚えさせられる。

その様に、子供にどう伝えるか、どう感じてもらえるかとの意向のバランスが極めて悪いため、上辺だけ可愛くて恐くてドタバタしているだけの、中身のない作品に終わってしまっている。これでは親もガッカリだ。

そして、これも客寄せの一要因なのだろうが、いわゆるタレント声優の起用にも問題はある。特に"捕われの姫"となるアンナを演じる石原さとみの声質のマズさと棒読みは尋常ではなく、作品にとってマイナスでしかない事は明白だ。

一方、チャウダーを始め怪物達の声を一人であてた陣内智則は、発声の基礎ができている芸人だけに(面白いとは思わないが)、言われなければ陣内とは気づかない程に違和感はかなり薄く、こちらは卒なく仕事をこなしていると評価出来る。

そして『ねずみ物語』だが、何故かこちらの側が『あらしのよるに』を彷彿とさせる、絵本調の描画と彩色による作品となっている、逆転構図は面白い。

また、明らかに『ガンバの冒険』を意識したであろう、大量のネズミ達の、一つ一つが異なるキャラクターデザインと、それらが集団で動きまくる動画のクオリティは高く、小さいネズミ視点によって人工物や動物を見る構図も、劇場のスクリーンで見るのに適したものだ。

これまた『ガンバの冒険』を彷彿とさせるイタチとの戦闘シーンも、ここが最大の見せ場と気合いを入れた事がありありと伝わってくる、動画構成の巧みさは評価出来、作画監督の手腕が表れている。

のだが、こちらもやはり、世界観やキャラクターの周到にはかなりの甘さがあり、それが作品全体の完成度を大きく落としている事が残念に尽きる。

人間の住居に隠れ住んでいる設定ながら、人間の使う道具類などを身体サイズ差を活かして別の用途で用いているなどの工夫もなく、単にネズミサイズの家具や食器がそのまま用意されているのでは安易すぎ、まるで自分がネズミサイズにまで縮小され、その視点でものを見ている様な擬似体験の楽しさも大幅減だ。

ネズミやフクロウには人格があるのに、猫やイタチにはそれがなく、単なる"敵"あるいは"獣"として都合良く置かれているなど、どういった生命体系の元に物語やキャラクターが存在するのかがも不明瞭なまま放置で、探索の対象となるドラゴンも単にドラゴンでしかなく、旅の過程こそが大事であるとの狙いはわかるものの、結局のところそのドラゴンはネズミにとってどの様に特別な存在だったのかは放棄とは、お話の根本が揺らいでしまうだろう。

キャラクターも、ビジュアル的には確かに様々に個性的なネズミ達が大量に登場するものの、ストーリーに絡む"個性"が与えられているのはホンの数体にとどまり、それらも極めて類型的、記号的な個性でしかなく、あまつさえ、例えばノロマで役立たずと印象づけたキャラクターが、後に意外な活躍をしたりといった展開が全くないため、そのキャラクターがそうである意義すら希薄な状態だ。

これでは冒険も人間(?)関係も面白く転がらず、ただありがちで教育的なストーリーに沿って導かれるのみに終わっているのだから、子供でも退屈するだろう。

結局のところ二作とも、子供向けというカテゴリに囚われすぎて、子供が何を観たがっているか、何を楽しく思うかなどの思慮にかけ、大人目線で勝手に作り上げた"子供像"に向けての安易な"ためになるおはなし"を押しつける結果となっている。これでは本当に子供のためを考えて作っているとは言えず、作り手の自己満足による子供騙しでしかないのだ。

と、子供にどうしてもとせがまれた以外では、特に鑑賞の必要は無いだろう。自己責任で。




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光の六つのしるし 59点(100点満点中)

胸に燃えてる日輪は
公式サイト

イギリス出身の作家、スーザン・クーパーによるファンタジー児童文学シリーズ、『闇との戦い』の二作目である同名作品を原作とした映画。

現在日本で発売されている同シリーズは、本原作を一作目とした四部作となっているが、実際には本当の一作目である『コーンウォールの聖杯』が別の出版社から発売されており、そちらを先に読まないと作品世界の基盤を正しく理解する事は出来ない、少しややこしい状態になっているのが困りものだ。

さて本作、"太古から続く光と闇の戦い"なる壮大なスケールの戦いを、極ミニマムな視点で描ききっている事がまず大きな特徴である。

この手法は、たとえば平井和正のハルマゲドン小説などにも見られるもので、あえて世界の全体像を見せず、あくまでも主人公の周囲に限定した異変を描いて、受け手側にそれ以外の部分を想像させる事が狙いであり、それは本作においても上手く用いられている。

主人公が14歳(原作では11歳)の少年であり、世界がどうこうよりも家族というコミュニティこそが認識領域である事を、物語描写のスケールとして投影させたもので、少し前に話題になった"セカイ系"なる手法の原点とも言えるだろう。

家族問題に始まる周囲との人間関係も、世界の存亡をかけた使命も、主人公にとって等価であると、闘鶏場での兄とのエピソードや、水のしるしと魔女のエピソードなど、宝探しと人間関係の解消を同時に行う展開によって、それは明確に示されており、作品の特徴になると共に、ストーリーに重層的な意味合いを持たせているのだ。

闇の象徴として登場する"黒騎手"が、街路を疾走しながら闇を振りまくなど、西欧の民間伝承などでよく知られるイメージを踏襲したものであり、表層的に見せられているものの意味や背景を基礎知識として知っている事が、本作を鑑賞する上で求められるため、それらに乏しい人間には、上辺のスケールの小ささしか目に入らないのは痛し痒しだ。

だがそれにしても、各宝探しエピソードそれぞれがあまりに拙速で描写不足である事もまた確かで、本来ならワープする各世界にそれぞれ歴史や伝説をバックボーンとした物語と、光と闇の戦いに象徴される意義が存在するのだから、連続ドラマとして一話一アイテムの冒険を毎回見せる様な映像化を行った方が、本原作には向いていたであろうとは、想像に難くない。

また、映画化に際してストーリーの流れを簡略化するために用意されたと思しき"魔女"の存在は、主人公の等身大の少年としてのメンタル描写によって、観客の感情移入を生む方向での作用は行えていたものの、黒騎手と話す謎のフードの人物が登場した時点で、どういう流れになるのかが簡単にわかってしまうような構成は安易すぎ、結局のところ魔女との戦いとその決着が、主人公の精神的成長にどういった作用を与えたかまでの言及が無くフェードアウト気味に消えてしまうため、余計に中途半端な感は否めない。

ロッカー内部からの視点で扉が開けられる映像をファーストカットをとし、そこにタイトルである『THE DARK IS RISING』を表示する事で、光と闇およびそれに関わる主人公の役割を視覚的に象徴させていると印象付けるやり口は上手く、次の場面となる主人公宅のファーストカットもまた、冷蔵庫の中の視点から扉を開く映像を用意し、その後も"扉を開く"シチュエーションを各所に印象的に配置して、光と闇、場面転換、局面の打開といった、様々なイメージの象徴としている狙いは面白い。

可能な限り主人公の視点に描写を限定する事で、ショッピングセンターでの警備員との顛末など、主人公の抱く感情と観客のそれとをシンクロさせるべく、不快感や嫌悪感をより掻き立てる様な、不安定な映像構成がなされているなど、視覚表現による誘導は的確だ。

と、ストーリー展開が拙速すぎる欠点はあるにせよ、地味系ファンタジー映画好きならば、原作が児童文学であると認識さえしていれば、まず観て損はしないだけの出来である事は間違いない。興味があれば。



tsubuanco at 13:19|PermalinkComments(0)TrackBack(4)clip!映画 
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