2008年02月

2008年02月29日

2007年特撮番組 & ドラマ

例によって100点満点で。
仮面ライダー電王 75点

タイムボカンを彷彿とさせるキャラクターコメディ路線が充実していた序盤の展開は単純に楽しく、それによって各キャラクターの個性がどんどん明確となり、彼らが存在する世界に入り込まされていく、キャラクターものとしての作りは秀逸。

ゆえに良太郎とモモタロスらを中心としたドラマ展開においては、彼らにすっかり感情移入させられているだけに、時にシリアスじみた方向に話が振られた時には、普段の楽しさとのギャップにより感情を大きく揺さぶられる事となる。クライマックスフォーム登場に至るまでの一連のエピソードなどは、その究極だろう。

のだが、謎自体は序盤から提示しつつも、そのヒントとなる伏線のバラマキが、キャラクターコメディの面白さの影に隠れてしまって散漫となり、後半から終盤にかけての畳み掛ける様な急展開の連続は、どうにも後出し説明的な臭いが強くなってしまい、そのせいでコメディも楽しみ辛くなる悪循環に陥りがちとなり、どうにもバランス取りに失敗した感が強い。

特に桜井侑斗がらみのシリアスなストーリー展開にそれは顕著で、消えたり復活したりよりデネブとのドツキ漫才の方が楽しいんだからそっちを見せてくれと思われるのでは本末転倒。ギャグ回でのくだらない呼び出しでカードが最後の一枚になってしまったなど、ヒーローコメディとしての作劇は秀逸なのだから勿体ない話だ。

モモタロス達が消える → ケータロスで復活、の流れと、侑斗が消える → ゼロフォームで復活、の流れが似通っており、意図外の既視感を持たされたのも痛いか。

パワーアップ話をパターンに終わらせない事に定評のある小林靖子らしからぬ、そんな状況に陥らせてしまう程に、白倉伸一郎による思いつきアイディアをまとめるのは大変だったのだろうかと偲ばされる。

何よりも子供は絶対に謎解きの意味を理解出来ていないだろう。それにしても、『タイムレンジャー』以降に小林靖子がメインを務める東映特撮が、時間軸やパラレルワールドを用いた作品ばかりなのは何かの縁だろうか。

主人公にイマジンが憑依して人格だけでなく出で立ちと声が変わるアイディアを、フォームチェンジのギミックとしてキャラクターおよびドラマ双方に絡ませたのは非常に面白く、作品の面白さの根底として有用だったが、撮影現場において、たとえばキンタロスに憑依された良太郎と、電王アックスフォームと、キンタロスイマジンのそれぞれは存在と声は同一だが各々で演者が異なり、それでいて同一であると視聴者に認識させるために動作を共有させなければならず、それを良太郎と電王は都合各6パターンの演じ分けを行わなければいけなかった事となり、主人公の影武者に徹するのが本職のスーツアクターはともかく、新人俳優の佐藤健がそれをスンナリと行っていた事が何より驚異的だ。

役者だけでなく、憑依される度にメイクや衣装をチェンジしなければいけないため、通常より何倍も手間と時間がかかる撮影を段取りよく行った、各現場スタッフのプロの仕事も大いに評価すべきだろう。よくこんなややこしい企画を通したもんだ。

『重甲ビーファイター』の初代レッドルもかくやの白鳥百合子の緊急降板事件を、逆にケガの巧妙的にストーリー展開に有為に活用したくだりも、今までの交代劇らしからぬ手際とセンスの良さが伺え、何より急遽後任となった松元環季の、子供らしい可愛らしさを残したままでハナのキャラクターを全く違和感なくそのまま引き継いだ、理解と表現センスの高さは天才的と評して過言ではないもので、大いに驚かされ感心させられた。とは言え、最後くらいは白鳥百合子も少しでいいから顔を出してほしかったものだが。
獣拳戦隊ゲキレンジャー 62点

1年ぶりの塚田戦隊に期待大だったが、メインライターに横手美智子が起用された事を主因に、その期待が大いに裏切られ出端をくじかれたのが痛い。

世界観やキャラクター設定をまずしっかり作り込んでおいて、それを基盤としてキャラクターを動かして膨らませていき、ドラマを展開させて作品世界の魅力を高めていくのが、プロデューサー塚田英明の得意とするところながら、それを実際に脚本としてまとめる段階でつまづいたとしか思えない程、以前から横手美智子との相性は最悪。

当初、正義と悪の単純対立構造すら、基盤となる両組織の設定説明を行えておらず、安易に「イイモノとワルモノ」を先入観としてそのまま受け入れろと押しつける手抜きぶりに加え、キャラクターは紋切り型あるいは空気でしかなく、演じ手の個性すら活かせていない魅力の無いキャラクターによる、安易な定番パターンに乗っかっただけの魅力の無いストーリーが続いた時には絶望すら覚えさせられた。

大体、敵側にある理央やメレの存在が、そうした善悪二言論に陥らせないためのキャラクター配置でありながら、その事を活かせていなかったのだから正気とは思えない。

荒川稔久がゲストライターとして参入した第7話になって初めて、敵に苦戦した原因を修行で克服してリベンジする、当初よりの基本パターンに、キャラクター性を活かした作劇が加わって、やっと魅力的なエピソードが作り出されたに至り、諸悪の根源が横手美智子にあると、ここで完全に露呈するとともに、脚本さえしっかりすれば塚田英明の志向している路線は間違っていなかったと再確認出来た次第。

これ以降、OPで横手がクレジットされるとガッカリし、それ以外ならたとえ會川昇だろうが安心してしまう状態となり、デカで武上純希を起用した以上に横手を使い続ける事にストレスが溜まり、荒川回で癒される事の繰り返しが続く。劇場版が荒川担当で本当に良かった。

だが結局、コメディにおいてもストーリー進行においても、理央とメレ側の面白さを主人公側が凌駕する事なく、最終決戦ですら理央の真相や決断がメインとなるなど、主人公達の影の薄さを最後まで克服出来なかったのは、スタートで躓いた事が大きな要因か。やはり横手美智子が最大のガンだった模様。

伊藤かずえが変身してくれなかった事が最大の心残りか。
SP 50点

上層部のお役所体質に悩まされる現場警官、なる基本的方向性は『踊る大捜査線』とスタッフが同じだからか似通っており目新しさはないが、警護対象の守るべき価値を回を追うごとにどんどん落としていき、職業としての志向と現実のギャップによる葛藤がストーリー展開の一翼を担っているあたりは、単なるエキスパートジャンルに終わらない意志が見られるか。

が、話数の少なさに比して、メガネデブら無駄キャラクターの存在とその中途半端な扱いが、ストーリー進行を遮るだけの役割でしかなく、作り手が意図している緊張の緩和ではなく停滞によるイライラが発生してしまうのはマズかっただろう。

シチュエーションをピンチに陥らせるための、作為、恣意的にすぎる人物動向の不自然さも度を超しており、特にラストエピソードの、要警護者に銃を向ける暗殺者という状況において、主人公はわざわざ遠いところでじっと立ち止まって仲間が撃たれていく様を見ているだけで、暗殺者に近づこうとも狙いやすい場所にいこうともしないのは、子供でも突っ込んでしまう不自然さであり、他のメンバーが丸腰で撃たれまくっていくのも同様、それが定番の妄想シーンなら構わないが、現実パートでこれでは盛り上がるどころかシラケるだけだ。ギャグのつもりでやっているのなら構わないがそうではないだろう。

最終回なのに「つづく」は卑怯だ(笑)
ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル 76点

怪獣好きな子供であれば誰もが妄想した、人気怪獣同士の夢の対決をオフィシャルとして作ってしまっただけでも、たとえバンダイによる商品プロモーションのためとしても素直に嬉しい。

怪獣の元設定に少しだけ新規設定をプラスして、その特性を活かした怪獣対決を、シチュエーション設定の段階から構築している、「わかっている」配慮が非常に嬉しい。エレキングの水中戦などは、今までのレギュラーシリーズでもそうそう見られなかった秀逸なバトル映像だ。

昭和怪獣に関しては、マックス以降に新規で製作された着ぐるみを使い回すこと前提なため、駒が限られているのが惜しく、ムカデンダーが死体のみだったりバキシムが登場しなかったりと不満もあるが、徐々に敵対怪獣が強くなっていき、最終的にはゼットンとキングジョーのツートップが満を持して登場する配置は、ストーリーではなくバトルで盛り上げる作品の方向性をよく心得ている。

良い怪獣と悪い怪獣の対決ではなく、怪獣同士がバトルロイヤル風に弱肉強食を繰り広げているところに、主人公が使う怪獣が参戦する図式も、バトルを単純構図に陥らせないために機能しており、それによって最終回のゼットン対キングジョーなどの夢の対決がどんどん見られる様になったのは有り難い。

のであれば、ストーリーは本当に繋ぎに徹してくれても良かったくらいなものを、謎の引張りや人間関係を中途半端に描いているのは、あまり嬉しくない時間の稼ぎ方だ。結局惑星をひとつぶっ壊しているのにハッピーエンド風など、RXでもあるまいし有り得ないだろう。

もう結構メジャーになってる筈が、サキュバス以来の特撮悪役をノリノリで演じてくれた蒲生麻由山田夏海など少女大人ともに美形を揃えておいて、一応メインヒロインらしき女性隊員のビジュアルに限って今イチなのも困る。

が、コニタン隊長のその場しのぎに徹した指揮のあれこれや、ジャイアントロボ並に曖昧な命令でバトルを展開するレイなど、どこまで本気で作っているのかわからない、奇妙なテイストによって作られた作品世界は妙に楽しく、低予算によるチープさがそれをプラス方向に働かせているのは、計算ではないと思うが面白い。

と言ってもやはり、安っぽい印象である事には変わりない。ウルトラファイトを真面目に作ってみたとでも思えば、それでいいかもしれないが。




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君のためなら千回でも 63点(100点満点中)

怒りのアフガン
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アメリカ在住のアフガニスタン人作家、カーレド・ホッセイニのデビュー作である自伝的小説『カイト・ランナー』を、マーク・フォースター監督により映画化。日本公開を機に発売された文庫版より、邦題と同じタイトルに改題されている。

主人公の少年期であるアフガン激動の1970年代後半と、青年期の"現在"として描かれる2000年代との二部構成の体を成しているストーリーは、おおむね原作に沿って進むものの、前半部における描写の入念さに比して、後半となる現代パートの展開、描写に拙速あるいは大味な感が強くなっているのが、まず大きな問題だろうか。

"永遠の友情"がテーマであるかのごとき邦題の印象とは異なり、生涯をかけた贖罪こそが本作のメインテーマとなっている事は、原作を読むなり本作を鑑賞すれば明白だ。その罪の原点を観客にとってもリアルに体感させるべく、言葉による説明を一切行わない状態で、主人公の心理を浮き彫りとし、誰もが"過去の愚行"に思い至らせられるであろう、痛々しく愚かしい行動のいちいちの作劇、演出は極めて秀逸。そこに至るまでの二人の関係と父子関係を、その前段として丁寧に描写していた事も、破綻が訪れる瞬間に観客が抱かされる感情の基盤となるべく大いに有効だ。

主人公と使用人の子ハッサンとの関係だけでなく、繰り返される愛や情あるいは罪とその償いが展開されていく、双方の父子間に発生する、皮肉に交錯する人物構図を主軸とし、また、主人公以外の主要人物において、誇りや信念を基調とした人物描写を重ねて魅力を引き出し、物語の伏線ともしているなど、物語展開と人間描写を絡み合わせてテーマを主張する、ストーリー構成は良くしたものだ。

当時のアフガニスタンを襲ったソ連侵略の悲劇と、それに立ち向かったタリバンの台頭によるまた別の悲劇という、作品の独自性を醸すと共に現実と地続きなリアルを感じさせる歴史的な事実を背景として用意している事も、その扱いに恣意性が感じられるとは言え、事実それを我が身で経験した作者だからこそ描き得るものとして興味深い。

劇中で描かれている悪逆非道な行為は、一面的ではあれど紛れもない事実であり、アフガンで戦ったソ連とタリバンの両方が"悪役"となる側面を持っている、その皮肉を強調していると取れば、原作者の故郷に対する思いを感じ取る事が出来る筈だ。アメリカの"自由"や"平和"を強調せず、あくまでも在米同胞コミュニティの描写にのみほぼ留めているあたりにも、配慮は感じられる。

主人公の父が逃亡時、他人の妻を救うために身を挺する場面を、その場としては芯の通った人間性描写として用い、後に全ての真相が明らかになった時に、あの行為こそがかつて犯した過ちに対する贖罪の一環であったと気づかせるなど、尊敬すべき人物であるとの印象を崩さずに、内実の露呈によって更に奥深い人物像となってくるといった仕掛けが、ことごとく周到されている、原作を踏襲した人物描写も見事だ。

だからこそ、後半のクライマックスとなる、タリバンアジトにおける顛末の、あまりに安易な展開のお粗末さが、残念な落差として浮き上がってしまう事はおおいなる皮肉か。たとえ尺が長くなっても、やはり原作に沿って丁寧な人間描写を行い、説得力のある展開にすべきだったろうに勿体ない。

その前段での孤児院のエピソードにて、一人を犠牲にして大勢を救う、逆に一人を救うために大勢を見捨てる、相反する二つの行いを、主人公と院長の二人に象徴的に投影させ、"善意"や"善行"の不確かさを痛烈に突きつける場面が印象的に描かれている事や、大人になった主人公とハッサンを感動的に再会させて泣かせを押しつける様な、安っぽいお涙頂戴劇とはしない事で、決して単純なハッピーエンドとはなり得ず、主人公の贖罪はまだ終わったわけではないとする締めこそが、本作の持つ奥深さのひとつだろう。

父と子が近似する災厄に見舞われてしまう、ハッサン父子の連鎖はともかく、その元凶となる人間が同一という、あまりに作為的な展開を、そのまま安易に且つ拙速に用いてしまっては、まるで大映ドラマを観ているかと勘違いしていしまう程に、それまでのリアルの蓄積は一気に瓦解してしまう。あまつさえその後の逃亡描写の安っぽさは致命的だ。

少年時代の凧揚げ大会において、上空の凧を映していると単純に見せかけて、その背景として映っている、まだ平和な時代のアフガンの街の光景を印象的に焼き付けておいて、現代パートで主人公がアフガンに戻った時の、荒涼とした廃墟から受ける精神的ダメージを最大とするなど、CGや特撮をそうと気づかせずにドラマティックな効果に活かしているのは、現実と幻想を絡ませてきた監督得意の作風によるものだ。その様に、過去と現在の双方のリアルを対比させる事で、寓話とも言える物語を紡いでいながら、どうしてアジト場面だけがお粗末に尽きたのか、大いに疑問ではある。

ソ連のアフガン侵攻やタリバンの存在などは、日本人でも常識として知っているだろうし、被差別民族ハザラ人の実情を知らずとも、劇中における描写から簡単に想像がつくものだから、史実が背景ではあるが特段の事前知識は必要なく、むしろ主人公とハッサンおよびその父親達の、相似、対称として繰り広げられる人物構図に注視すれば、深い感慨を得られる筈だ。

マーク・フォースター作品にしては、原作つきな事を制約と感じたのか幾分落ちる気もするが、興味があるなら観ておいて損はないだろう。より描写が真に迫る原作小説は更にオススメだ。




tsubuanco at 19:54|PermalinkComments(0)TrackBack(13)clip!映画 

いつか眠りにつく前に 32点(100点満点中)08-060

何もかも懐かしい…。
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アメリカの作家スーザン・マイノットの小説『EVENING』を、ジュゼッペ・トルナトーレ作品などの欧州映画の撮影監督を務めてきたラホス・コルタイ監督により映画化。今回の日本公開を機に、原作も日本語版が刊行された。

現代と50年前のアメリカを舞台としたハリウッド映画らしからぬ、原題に沿った光色の用い方や空間構成など、欧州映画を彷彿とさせる叙情ある映像が紡がれているのは、監督の経歴によるものが大きいのだろう。

丘の上から海を見下ろす風景の美しさと、そこに配置されている人物とボートの奇妙な構図によって興味を惹く、導入部の映像演出は良くしたものだ。同じ海を見下ろす光景をラストにも用い、落陽によって幕引きとするのも、世界観とエモーションの描写を両立させた秀逸な映像演出と言える。

のだが、女性の視点から女性による恋愛観や結婚観の露呈あるいは母性の継承を描く作品において、その女性を美しく魅力的に見せられていたか、あるいは逆に、ディフォルメされたリアルとしての生活感などを醸し出せていたか、との点では、かつてイタリア映画などで女優を本来以上に美しく映像に捉えていた監督とは思えない、ひどい有様だ。

老いて病床に付く主人公アン(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)の回想(幻想?)として展開される、50年前の若き日のアンをクレア・デインズが演じているが、『ロミオとジュリエット』や最近では『スターダスト』などでの美しきヒロイン像とは程遠く、眼だけがギョロギョロデカく、アゴがゴツゴツしてニューハーフにしか見えない、メイクが濃すぎる気持ち悪いオバサンにしか見えず、正視するのも辛くなる。

この時点で、彼女を中心にネチッコい三角関係が繰り広げられる回想シーンの説得力も興味も、大幅に薄れてしまうのだから致命的だ。自分自身の思い出を美化・正当化しようとする物語において、その自分の見た目が美化されていないのは問題だろう。ローアングルやアップ、または目を殊更に見開く様な演出が多用される事で、その気持ち悪さが強調されている。そんな顔で本命とのラブラブや"友達"に対する"気づかないフリ"を見せられても、感情移入も共感も同情も何も出来ずむしろ逆効果だ。

主人公の次女役のトニ・コレットが、現代パートでの悩めるヒロインとしてウエイトを大きく置かれているが、彼女もまた何故か額の長さや口元の汚さ、それに反しての目のギョロデカさを強調する様なメイク、髪型、撮影がなされ、劇中で言われる「キレイ」 とは程遠く、脳が異常発達したミュータントにしか見えず、同様に全く入り込めないのだから困る。

よりによって出番が多く感情描写の主となる二人に限っての事だけに、ワザと気持ち悪くブサイクにしているのかと邪推させられてしまうが、そんな事をしても誰も得をしないだろうから、いろいろと間違いが重なった結果なのだろう。

一方で、主人公の人生、歴史の対称の様に配置されている、親友のライラの側は、対称を意図したのか柔らかい印象を抱かせる顔立ち(メイク)となっており、むしろこちらの方に感情移入したくなるくらいである。当初は回想シーンにのみ彼女を登場させ、演じるメイミー・ガマーのビジュアルを充分に印象づけておいた上で、後半になって現代パートに颯爽と登場するメリル・ストリープの姿に、一瞬で「お、ライラだ」と観客に認識させて驚かせ、50年の歳月の流れをもスムーズに受け入れさせる、実の母娘であるキャスティングの意義を最大限に活かした構成は面白い。

主人公とライラがベッドで添い寝状態となり、一方が一方を慰めるシチュエーションを、過去と現在の両方に印象的に繰り返し、その立場を逆転させる事で、歳月の流れによる人生の悲喜こもごもを一気に表現するなども、本作のギミックを上手く用いた構成と言える。ライラの結婚を回想のメイン舞台としておきながら、当の新郎がほとんど画面に映らずないがしろな映像、演出もシニカルで痛烈だ。

その様な、ライラ絡みの描写、展開においては、演じるメリル・ストリープ母娘の一人勝ち的な存在感や表現によって、リアルかつドラマティックな人生を感じさせられもする。だがそれはあくまでもサブファクターであり、肝心の主人公母娘側のドラマに、それに勝る効果が見られないのでは本末転倒だ。

娘達からの母に対する思いは通り一遍ながら描かれているものの、それと相似を成すべき主人公から自身の母親に対する思いは特に描かれず、登場すらしないのでは、受け継がれていく、繋がっていく女心や母性というメインテーマを扱いきれていないのではないか。姉が理想的な主婦で妹が奔放という、あまりにありがちで類型的な人物配置も安易だ。

そもそも、自分が親になって初めて親の気持ちを理解する、との定番ネタを感動あるいは共感どころとして用意しているが、そんな事は言うまでもない当たり前の事で、むしろ親になって尚、自分が子供だった時に親に対して抱いていた気持ちを忘れず、それを踏まえて子供を育てていく事こそが肝要であり、そこまでの言及がないのでは通俗的にすぎ底が浅い

物語の"謎"として描かれていく、ライラの弟バディ(ヒュー・ダンシー)との関係も、ありがちな片思いの友達関係を悲劇として描く狙いは悪くないとしても、実際には相手を傷つけないためとしつつ、自分がワルモノになりたくないだけの、自分本位な計算による保身に過ぎないものを、「過ちではない」と正当化するのはあまりに利己的にすぎ、本当はとっくに気づいていながらギリギリの状況まで"知らないフリ"をして相手を追い込んだズルい有様を、鬱々たる演出によってネチネチと見せられては、とても共感出来よう筈もない。

相手のバディの側もまた、煮え切らずストーカーめいた演技、演出に徹底されているのだから、どちらも気持ち悪く共感も同情も出来ないのでは、楽しめるわけがない。確かによくある話だが、だからこそ映画として人が観る意味がある様に作劇、演出すべきだろうに、それを放棄して不快にさせる事に徹したとしか思えず、狙いである筈の美化や正当化にそぐうものではない。

母と娘をテーマに、過ちを過ちと認めたくない、浅ましい自己正当化に終始する内容は、松嶋菜々子主演の『眉山』に似ていなくもないが、傍流となるライラの存在に救われているだけ、こちらの方がマシだろうか。

自分は間違っていないと思いたくて、誰かにそう言ってもらいたくて仕方のないタイプであれば、「そうそう、アタシは間違ってない!」と、極めて後ろ向きな共感を見出せるかもしれないが、理性と常識をわきまえた分別ある大人には、到底ついて行けないシロモノだ。


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東京少女 74点(100点満点中)

もしもーし、大石内蔵助さんですか
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堀北真希主演の『東京少年』に続く、BS-iのドラマプロデューサー・丹羽多聞アンドリウ主導によるCINEMA Drive企画作品の、夏帆主演の第三弾。二代目ケータイ刑事・舞の堀北と、四代目・零の夏帆、氏の発掘後メジャー化したアイドル女優の再起用は、劇場作品らしい嬉しいキャスティングだ。

監督はSFやファンタジーギミックを用いたジュブナイル作品を得意とし、ヒロインを魅力的に捉える事に定評のある、丹羽作品では『恋する日曜日』内のエピソードを手がけた小中和哉。脚本は『ケータイ刑事』シリーズのメインライターとして、同作の劇場版も手がけた林誠人

林は、少女を主人公にSFギミックを用い、その超常性によってリアルな人間像や人生観を引き立たせて切ない感動を生む人情劇を展開した佳作、『恋する日曜日 ニュータイプ』のメインライターも務めており、メタコメディ色の強い『ケータイ〜』よりむしろ、本作に類するジャンルの方が向いていると言え、今回の監督および脚本の人選には納得が行く。

(余談だが今回のロケーションに使われた明治村は、『恋する〜3rd』の初回エピソード(黒川芽以主演)でも使われており、撮影時期が近いのではなどとも想像させられる。閑話休題)

若い男女が少し変わった状況にて出会い、その進展を主軸としていく基本ストーリーは、前作『東京少年』と共通の方向性だが、同一空間に異なる人格が存在する歪みがメインギミックであった前作に対し、今回は同一空間ながら時間が異なる歪みがメインギミックとなり、前作との似て非なる差異を設けている事がまず大前提にある。

この種の、隔絶して平行する二つの時間軸間で、それぞれに存在する人物同士が通信、交流を行うというSF設定は過去から広く用いられており、特定作品を挙げてパクリだ盗作だと揚げつらうのは滑稽だ。むしろ、その汎用設定を用いてどの様な人間模様や世界構築を行うかこそが見どころだろう。

しかし本作において、その時間ギミックの有りようを観客に伝えるべく語られていく、設定説明となる前半のストーリー構成には工夫が足りず、劇中人物にとっては有り得ない信じられない受け入れ難い出来事としても、観客にとっては良くある話であるとの、双方の認識のギャップを埋めるには至っておらず、劇中人物の予定調和的なもたつきにクドさを感じさせられるのは、あまり良くした結果とは言えない。

地震でワームホールが開いた事と、月が出ている間だけ通話可能な事の因果が結局明かされず、月が出ている時間の共有による日時の共通や、空を見上げて通話する、絵になるシチュエーション作りばかりが優先されているのも、前半を冗長な説明パートとしている割には詰めが甘い。

また、主人公・未歩(夏帆)と時次郎(佐野和真)の双方に、親との確執とそこからの脱却や理解による成長という、共通する背景を用意して、時代は異なれど変わらない人情を描こうとした狙いは悪くないものの、未歩の側においては母の再婚やその相手との確執まで描かなくとも、共に父子家庭として共通項を増やした方が、平行時間の相似形を上手く表現出来たのではないか。父が漱石を研究していたとするだけで何ら問題ななく、親子の会話による関係変化をも自然に盛り込めた筈だし、自室でネット検索が行える環境にありながら、わざわざ図書館で本を山積みにして調べ物をする不自然さも払拭出来ただろう。

などと、特に前半において作りの不確かさを感じさせられる部分はあるものの、時次郎がデートを発案するくだりを基点とし、それまでに感じさせられていたストレスが一気に四散し、テンポよくストーリーが進み出すのは、あるいは緩急を意図的したものなのだろうか。

同じ場所を同時に見せ、変わっているもの変わっていないものの描写にて作品世界の意味を魅力としてを提示し、時代差を用いたキャラクター描写を、二人のリアクションの違いで表現し、その人物像を彫り込んでいくなど、乖離した時間が平行する設定と普遍的な青春模様とを有用に絡ませたデート風景は秀逸。

そのデートの一部となる呉服屋での手鏡エピソードにて、現代と過去が相互に干渉する事で、文字通り作り出される"歴史"を描き、両方の時代に生きて存在する女性によって、その歴史とはすなわちそれを生きた人の人生そのものであるとし、その場におけるひとまずの感慨、感動を生みつつ、実はそれ自体が後に活かされる伏線となり、単発の仕掛けに終わらせないなど、ギミックをドラマに何重にも織り込んだ物語構成が展開され、もはや前半に感じた不満は完全に払拭されるに至る。

百年後にも名前を残したい、との言葉、声はつながっているが互いに相まみえる事が決して無かった関係、それらが石碑との出会い場面に一気に収束されて、生きて何かを為す事の意義、時間が隔てられている事そのものの意味にまでテーマを昇華させつつ、今現在には確かに彼は生きていないのだと思いを至らせるドラマティックな作劇に、感情を揺さぶられない者はいないだろう。この段にて先述の手鏡シーンにおける老婆の涙と感謝の言葉の本当の意味が判明し、同じ場面を二度美味しくさせる仕掛けも見事だ。

そこで終わっても充分に感動出来ただろうに、更に多段的に伏線の回収を丁寧に重ね、感動を幾重にも発展させる終盤の展開は、極めて据わりのいいものだからこそのストレートな感動を抱かせるものであり、題材に対するクリエイターならではの思い入れがありありと伝わってくる。

携帯電話の会話メインで物語が進む、ほぼ一人芝居に近い環境において主人公・未歩を演じきった夏帆の、目線の配り方ひとつとっても相手と向かい合っての会話とは全く異なる動作振る舞いを理解、表現した演技力もまた、大いに評価に値する。そんな彼女の魅力を捉えつくした監督の演出と映像づくりも同様に素晴らしく、意外と主張の大きい胸をしっかり強調すべくコーディネイトされている衣装もよく出来た仕事振りだ。

先の夏帆の主演映画『天然コケッコー』とは趣を異にする作品ながら、ビジュアル演技ともに彼女ならではの持ち味を活かした点では相違なく、たとえ夏帆ファンならずとも、前作『東京少年』と併せ、興味があるなら観ておいて絶対に損はしない、良質のSF青春映画に仕上がっている。



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2008年02月28日

全然大丈夫 2点(100点満点中)

全然+肯定は誤用ではない
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劇団大人計画とのコラボレーション等で知る人ぞ知る映像作家・藤田容介による、初の劇場用長編映画であり、若手個性派俳優として近年認知されつつある荒川良々の初主演映画でもある。

三木聡や萩上直子、あるいは当の大人計画の松尾スズキなど、ユルい脱力や癒しの空気を全編通して醸し、各所に小ネタを散りばめ、個性的な俳優達のキャラを活かしたやりとりで魅せる、そうした類いの映画が近年やたらと多産されており、先に挙げたクリエイター達によるそれは、思想的な事はさておきネタづくりや演出、映像のセンスが多分に見て取れるもので、魅力的な出演者の魅力を引き出し、観客を飽きさせない娯楽性が充分に織り込まれ、作家性を際立たせている。

上辺を見れば、そうした諸作家による諸作品と似た傾向にある本作だが、作り手のセンスが大きく及ばないためか、魅力的な出演者の魅力を大して活かせず、観客を飽き飽きさせる自己満足作品に終わっている。

この種の作品は何より、ユルい空気から感じられる自然体をベースとし、脱力やシュールなネタによってクスリと笑わせる小ネタやキャラクター描写との、ギャップと融合のバランスが何より大切であり、それを管理出来るかどうかも作り手のセンスにかかっている。

本作の場合、ウクレレ演奏によるスローライフ(笑)調BGMに代表される様に、ユルさ、癒しの空気を全編に漂わせようとしている事は明白であり、無理をせず自分らしく生きる尊さを、ストーリー展開から伝えようとしている事も同様。だが、木村佳乃演じるヒロインの、いっぱいいっぱいな状態を表現する際の、あまりに不自然で恣意的な動作演出や、オバケ屋敷ギミックによる驚かせなど、その"自然体"が上辺だけの作為に他ならないと露呈させてしまう、あからさまに押し付けがましいクドい演出や作劇が目立ち、バランスを完全に破綻させている。

テレビ画面内に登場するリポーターの髪型など、笑わせようと必死な事が瞭然な、痛々しく寒々しい滑りまくったギャグの羅列も致命的だ。総じて本作からは、人の感情を動かそうとの思いではなく、作っている自分達ばかりが楽しんでいるだけの、レベルの低いマスターベーション臭ばかりが漂って来、そんな底の浅さに同調出来るレベルの人間にしか笑う事は出来ないだろう。

ぬぼーっとしたビジュアルと朴訥な台詞回しが魅力の荒川良々を主演に起用した狙いは面白いが、彼に感情的な行動をさせたり台詞を発せさせたりしては、単に感情表現演技が苦手な大根役者の棒読みとしか映らず、本来の魅力を引き出すどころか持ち味を損ねているだけで可哀相すぎる。

大きな事件が起こらない、平凡な日常の中の発見、なるありがちな方向性も間違ってはいないが、その平凡さを実は平凡でないと表現しなければ、本当に平凡で退屈なだけに終わってしまう。本作はまさにそれに尽き、先述のウクレレBGMの単調さ(似た様な曲ばかり)が、その退屈を更に押し進めており、狙いは完全に逆効果だ。

何より、主人公自身の口から早々に、「憩うの。憩いまくりたいの」などとテーマを言わせてしまっては台無しだ。この時点で観る意味すら無くなったと言って過言ではなく、事実その通りなのだからどうしようもない。

主人公とその友人(岡田義徳)とのやりとりにおいて、「人は中身だ」と言っている主人公が実は、女性の外見イメージから中身を勝手に決めつけていると描き、それこそが人を外見で判断しているのでは、と、無自覚な欺瞞を提示する場面を前段としたにも拘らず、顔に大きなアザがある男(ココリコ田中)の人物描写とヒロインの関係性において、その顔のアザが特段の意味を持たないのであれば、それはヒロインが"人を見た目で判断しない人"である表現と意図しながら、その実作り手こそが一番人を見た目で判断しているではないかと気づかされるに至り、作為、欺瞞、語り口の下手さが顕著となっているのは、大いなる皮肉だ。

少しだけ登場する鳥居みゆきのキャラクターや、エレベーターからゾンビが登場するドッキリ映像など、ところどころに笑える箇所は無くは無いが、そうした面白どころはクロースアップせずスルーし、ダラダラと退屈なギャグばかりを延々繰り返されては、楽しめよう筈もない。

チラシやポスターなどで気になる存在となっている、顔が荒川良々で首から下は怪物のフィギュアなどの造形物は総じて出来が異様に良く、商品化されれば買いたいくらいだが、それがストーリーに活かされる事はなく、小ネタとしても、半魚人フィギュアの口から粘液がドロドロと滴り落ちるギミックが、「産ませてよ!」の剽窃じみているなど、やはりセンスのない使い様でガッカリだ。

脱力癒しムービーのムーブメントに安易に乗っかっただけの、センスも才能も感じられない、俳優の魅力を使い潰した、あまりに悲惨な凡作でしかない。何の説明もなく根岸季衣が途中から消える中途半端さも気持ち悪い。

出演者のファンとしても(鳥居みゆきファン以外)ガッカリするだけなので、特段に鑑賞の必要はない。



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2008年02月27日

PERSONA ペルソナ 34点(100点満点中)

たてがみかがやくライオン丸
公式サイト

ピンク映画を数多く手がけてきた樫原辰郎の監督・脚本による、山崎真実主演のSFアクション映画。同タイトルのゲーム等とは無関係のオリジナル企画だ。

この種の作品に観客が求めるものは、ヒロインが如何にカッコ良くあるいはイロっぽく派手に戦ってくれるかであり、それ以外はストーリーも含め刺身のツマに過ぎない。すなわちどれだけ設定やストーリーが破綻していようが、画面から安っぽさがにじみ出ていようが、見せるものさえちゃんと見せてくれれば文句は出ない、極めて目的のハッキリしたジャンルである。

もちろんその"目的"にそぐわない結果だとしても、他に何か代わりとなる見どころ、楽しみどころが用意されていさえすれば、それはそれで文句は出ないのだが、本作、その"何か代わり"は全く見当たらず、肝心の"目的"も食い足りない、極めて残念な出来となってしまっている。

しかし食い足りないとは言え、全体の中で二箇所配置されているアクションシーンは、その場だけを見ればヒロインアクション映像としてのクオリティは充分に高い。山崎真実自身が極力スタントを使わずに自ら格闘をこなす様は、『轟轟戦隊ボウケンジャー』や『超忍者隊イナズマ!!』時のキャリアを活かした、アクションの見栄えがする"決め"を心得ているだけでなく、自分の後頭部ごしに前方の敵を蹴り倒す、『コータローまかりとおる!』に登場した蹴り技"スコーピオン"など、そんじょそこらのアイドルにはマネの出来ない常人離れした超絶技を見せられるに至っては、さすが元新体操選手と惚れ惚れさせられる驚くべき身のこなしだ。手足が長くガタイのいいプロポーションが、その見栄えを更に高めている事は言うまでもない。

彼女の衣装が青系統でコーディネイトされているのは、先述の『ボウケンジャー』における風のシズカ役を意識したものだろうと推測され、ラストバトル時の、純白スポーツブラ&ショートスパッツのみの半裸にジャケットを羽織った、アメコミヒロイン調のスタイルも、プロポーションの良さを強調し、ストイックとエロティズムを同居させた秀逸なコーディネイトと評価出来る。

のだが、肝心の彼女の顔そのものを、本来の可愛さ、美しさを捉えるべく撮られていたかと言えば厳しく、顔だけでなくせっかく露出度の高い衣装ボディラインが露になる衣装を着せていながら、醸し出されるエロスがよく活かされているとも感じ難く、特に本編部分は女性の魅力を引き出すのが本道のピンク映画出身監督ながら、それが大して果たされていない事には少なからずの不満を感じる。アクション監督の谷垣健治が設計したアクションシーンもまた、アクションの流れ、決めは確かに的確に押さえられてはいるが、彼女のビジュアル的魅力を捉えきれていなかったのが惜しまれる。

とは言え最初にも述べた通り、アクション場面に見るべきものが多い事は間違いなく、それだけでも鑑賞した価値は少なくはないのだが、その尺があまりにも短く、その間を繋ぐ本編ストーリーは正気で考えたとは思えないお粗末さで、とても評価出来たものではない。

『死霊のしたたり』を想起させるオープニング映像から、少なからず抱かされた期待はコテンパンに打ち砕かれる物語はあまりに退屈極まりないものだ。ヒロインの出自だけでなく世界設定そのものを支配する基盤ギミックすら徹底されておらず、かごめかごめの歌や糖分エネルギーなどの扱いの中途半端さにより、ヒロインの人格の入れ替わりに法則性がある様でないなど、行き当たりばったりな展開は、思わせぶりばかりで回収というものがまるで無い。

ロードムービー調の体裁をとってはいるが、ただ車で適当に移動しているだけ。ヒロインを連れて逃げる男(萩原聖人)が「○○さんのところへ行こう」と思いついて初めて、それまでの流れとは無関係な人物が登場するばかりで、それ以前に意味ありげに登場した人物は特に回収もされず出てこない、など、構成意図が全く見えてこない

移動と説明会話の繰り返しばかりが延々と続くに至っては、単なる時間稼ぎとしか思えない退屈さで、実際寝ていて何の問題もないのだから困る。銃声で目が醒めたあたりからだけ観ていれば充分だ。

中盤において、追っ手が迫る建物から一度は逃げておきながら、残された恩人の危機を感じて引き返す、まではいいとして、引き返して追っ手どもを倒す段の、それを見るために観客がずっと退屈なドラマを我慢してきた筈のアクションシーンを何と省略し、既に倒れている追っ手達を見せていくだけ、に至っては、客が求めているものと作り手が目指しているものとの乖離が明瞭となり、ガッカリは最高潮に達する。

アクションを見るために観ている映画で、アクションが省略されて怒らない観客などいる訳がない。服を脱ぎ始めた直後に射精シーン(しかも男側の顔アップ)に飛んでしまうAVと変わらない有り得なさで、まさに正気を疑う。

焦らしに焦らし、溜めに溜めて最後で一気に噴出させるカタルシス、という手法も定番ではあるが、それは焦らしや溜めがそれとして機能していればこそで、ただ冗長で退屈なだけの本作は、狙っていたとしても全く及んでいない。

森次公嗣演じる博士(?)が一度撃たれて倒れ、しばらく後にいきなり起き上がって「一発撃ったくらいで死ぬと思ったか〜」と意味の分からない言葉で観客をケムに撒き、銃を向ける佐野史郎の手を押さえて揉み合いになる、までは、意味がわからないながらも、隠れて見えないが佐野の手の銃を力づくで佐野側に向けているのだろうか、などと予想させておいて、銃声が鳴り響くと撃たれたのはやっぱり森次公嗣の方と、じゃあ今まで何を揉み合ってたんだと更に意味がわからない。そして撃たれた森次がアッサリ死ぬのだから、全くもって何が何やらである。

その一連の流れを、例えば黒沢清や園子温の様に、シリアスに見せかけて内実を歪ませる事で不条理感を醸し出させるといった、天才的なセンスによって構築されているのならともかく、ただ訳が分からないだけでは笑う事すら出来ないし、その後の展開に関わらないのなら尚更だ。

ラスト間近、雪原に佇む二人に少しずつ近づくハンディカメラが許容範囲以上に揺れすぎて、"撮っている"事が前面に押し出され叙情性も消し飛び、ラストカットの俯瞰ロングショットに至っては、よりによって対向車が通り過ぎてしまい台無しだ。意図的にやっているのならセンスが無さ過ぎる。

全部が全部駄目だったら、二度と観なければそれで済む話ながら、数少ないアクション場面が充分なクオリティを備えている事で存在価値が発生し、だからこそ、それ以外の駄目さが一層に浮き立っている状況は、何とも皮肉だ。

オマケ映像として最後に見せられるメイキング映像が、アクション練習とアクション撮影の光景ばかりだった事からも、本作から樫原辰郎監督のセンスや才能といったものは全く感じられない一方、谷垣健治アクション監督の、小規模作品だからこそやりたい事を盛り込んだ殺陣センスや、それを見事に体現した山崎真実の身体能力の卓越だけが残されている結果は自明である。

アクション映像と上述のメイキング映像だけを切り取って観れば充分、いやむしろそうした方が、作品の魅力を素直に楽しめる事請け合いだ。



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2008年02月26日

ライラの冒険 黄金の羅針盤 58点(100点満点中)

帰れるんだ これで 帰れるんだ オォー
公式サイト

1995年に刊行された、イギリス人作家フィリップ・プルマンによるファンタジー児童文学『ライラの冒険』シリーズ三部作の第一部、『黄金の羅針盤』を実写映画化。

原作は少女を主人公とした児童文学ながら、独自に構築された世界設定が当初より自然、必然として殊更な説明なしに提示され、読み進むに連れその意味、全貌あるいは現実世界との差異や近似が明らかとなっていく、SFおよびファンタジー小説の基本に忠実かつ巧妙に描かれる魅力的な世界観や、既存宗教をモチーフとした概念をベースとしながらその価値観を逆転させるといった、日本では永井豪の『魔王ダンテ』以降コンスタントに用いられているが、欧州ではタブー視されやすい題材をメインテーマのひとつとしている(第一部では触りしか描かれないが)など、織り込まれた奥深さは大人が読んでも堪能出来るもので、今回の様に超大作として映画化されるのも当然な傑作である。

のだが、第一部だけで日本語訳版にして500ページを超える原作を、2時間に満たない映画に収めるのは無謀に等しく、最近のハリー・ポッターが2時間を超えながらもダイジェストにしか感じられないのと同様、いやそれ以上にブツ切りの駆け足となり、RPG的イベントの名場面だけが羅列されている感が強いだけでなく、終盤が大幅に省略されているために呆気なく途中で終わった印象となってしまうなど、まず全体的な作りにおいて、あまりに問題が大きい。

物語や人物構図を単純、簡略化してストーリーの理解や進行を早めようとの狙いは真っ当であり、序盤にてアスリエル卿(ダニエル・クレイグ)に毒を盛る人物の変更や、中盤にライラが救出する子供がライラの友人だったりなどは上手い改変と言え、冒頭にいきなりダイモンやダストなど作品特有の概念を言葉で説明しきってしまうのも、それらの意味を少しずつ見出していく楽しみは損なわれはするものの、無理からぬ判断として受け入れる事は可能だ。

しかし、後半における盛り上がりの配置を考慮したのか、スバールバルでの王位を巡る戦いと、ボンバルガーでの子供救出の順逆が入れ替えられている事は、それ自体は悪くないとしても、入れ替えた事を作劇の必然として、更にはより面白くなるための仕掛けとして利用出来ておらず、ただ入れ替えただけなのは問題だろう。

鎧グマのイオレク・バーニソンが王座につく展開を先置きしておきながら、その後となる実験施設襲撃にてイオレクが配下のクマ達を引き連れずに単身で来るのはあまりに不自然で期待外れだし、逆に魔女セラフィナ・ペカーラ(エヴァ・グリーン)が大量に仲間を引き連れて来るのは前段の説明が不足すぎてやはり不自然だ。順序が逆になっていながら、ライラとその他メンバーとの離合集散は変わらないままなのも、付いたり離れたり、イオレクも鎧を着たり脱いだりと無駄に慌ただしく、作品の拙速感を強める一因となっている。

そして先述の通り、アスリエル卿との再会と新世界への旅立ちを描くラストの展開が丸々カットされている事で、結局アスリエル卿は何だったのかも、コールター夫人との関係も、ダストの役割も、ライラの目的さえ中途半端なままで終わられてしまっては、完全な尻すぼみでしかない。原作では早々に明らかになったライラの両親の真相を、意図的にぼやかして引張った意味が、これではあまりに薄い。

今回の脚本と監督を担当したクリス・ワイツの、監督としての代表作がヒュー・グラント主演のコメディ映画『アバウト・ア・ボーイ』で、脚本の代表作がCGアニメーション『アンツ』と、どう考えてもこのレベルの超大作を任されるには不向きな人材な事は自明であり、監督選びに迷走した時点でこの結果は目に見えていたのかもしれない。(超天才ピーター・ジャクソンの様な事例もあるので一概には言えないのだが)

視覚的に盛り上がりどころとなり得るバトルや冒険の映像も、クマ王対決場面においては、勝負を決める一撃を何故か迫力のカケラもないロングの寒々しい画角で見せてしまうなど、引きと寄りあるいは視点移動の狙いがあまりにも散漫に尽き、左前肢を負傷したと見せかけて実は騙していた駆け引きも描写不足でわかりにくい。

実験施設での戦闘シーンも、ラストバトルとして大乱戦の迫力を感じさせるには、画面が暗すぎて誰が誰やらすらわかり辛いのでは適わない。それ以前のキャンプ襲撃シーンと映像の作り方が変わらない事もまた、物足らなさを感じさせる一助となっている。

超大作としての迫力やスペクタクル場面の作り方が苦手であろう事は、ライラが氷の橋を渡る場面において、崩壊する橋にライラが追い立てられる肝心の局面のみを何故かカットしている、完全に逆効果な省略の用い方などにも良く表れている。

一方で、そうした派手さを伴わない、人物同士の会話によるやりとりなどのキャラクター演出や、背景や小道具などで世界を描写するといった、場面場面での細かい配慮が感じられる事もまた確かであり、クリス・ワイツ監督の得意とするところは本来、そうしたドラマづくりにこそあるのだと痛感させられる次第だ。

ダコタ・ブルー・リチャーズ演じる主人公・ライラはまず、絵画か劇画かとも形容すべきあまりに整った顔立ちの、睨みのきいた強力な眼力にまず有無を言わせぬインパクトがあり、非の打ち所のない美しさには驚嘆する他ないが、その、キャラクター設定の再現に最適と断言出来るビジュアルを最大限に活かし、凡百のファンタジーヒロインと一線を画する強烈なツンデレヒロインを具現化した、監督の演出とダコタの演技は極めて秀逸なもので、それだけでも本作が実写映像化された価値は大いにある。

タタール族を前にして不敵に唾を吐き捨ててみせるといった、究極にハードボイルドなヒロイック性を"ツン"の代表として気持ちよく見せつけられる一方、鎧グマの城に自分を救いに駆けつけたイオレクに対し、再会による気の緩みや彼に対する心配からつい弱音を漏らしてしまうなどの、時折見せられる"デレ"との落差によって、彼女の魅力は最大限となる。"デレ"の対象が人間ではなくクマやダイモンである、少なからず倒錯した関係性という、原作にも織り込まれている本作特有の仄かなフェティシズムがしっかり再現されているのは有り難い。

敵本拠地に囚われた窮地から脱出する手段として用いる、口八丁による騙しテクニックの描写において、クマの城の場面では、最初に"騙す"事を観客にも知らせておいて、彼女のテクニックをそれと認識させて駆け引きのサスペンスを盛り上げ、後のシーンでコールター夫人(ニコール・キッドマン)を騙す局面では、観客には敢えてそれを説明しない事で、同じ戦術を繰り返し用いさせライラの個性や強みを印象づけつつ、印象をワンパターンに陥らせない意図が成功していると言える。

馬車(?)や気球に見られるジャイロ状の謎動力機関やスパイ虫のメカメカしさなど、古典ファンタジーとは異なり現代が舞台である事を活かしたビジュアル的なデザインも面白く、CGによって自在に演技させられるダイモンも魅力的だ。自分のダイモンの顔を平手打ちしたコールター夫人の顔に、うっすらと掌の跡が浮かんでいるなど、細かい配慮が感じられる演出も世界観の基盤を支えている。

その様な、よく出来たと素直に評価出来る部分が多々あるからこそ、尺の短さによるものが大きい脚本の甘さが、ひたすらに残念でならない。

原作ファンには物足りなく、原作未読の人には何故原作が人気なのか疑問に感じるだろう出来ではあるが、過大な期待を抱かずに臨めば、ライラやクマらのビジュアルおよびキャラクター的楽しみはそれなりに得られる筈だ。配給会社による圧倒的物量の押し付けがましい宣伝攻勢には辟易させられるが。



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