2008年03月

2008年03月31日

ベティ・ペイジ 15点(100点満点中)

誤差範囲が広すぎる58cm
公式サイト

1950年代のアメリカで裏マリリン・モンローとも称された人気ヌードモデル、ベティ・ペイジの半生を描いた伝記映画。

少女時代からモデル引退に至るまでのペイジおよび、彼女も出演していたボンテージ写真や動画フィルムの猥褻性を巡る裁判沙汰、の二つをメインとしていると思しき本作だが、ペイジの生身の人間像に迫るでもなく、裁判を通じて当時の世相を匂わせる中で、保守思想と表現の自由のせめぎ合いといった普遍的なテーマを追求するべく抉り込んでいくでもなく、今までに知られている通りの経歴に沿って、一通り映像として再現してみただけに終わっている内容は、あまりに薄味で底が浅く、土屋アンナによる頭の悪そうな語り口による宣伝も、あながち的外れではない様に見受けられるのは皮肉か。

熱心でマニアックな一見客と思わせて警察の手入れだった、なるプロローグは、ネタとしてはベタだが定石に沿った演出の的確さ、モノクロ映像によりリアリティが増した時代性の表現などが上手く噛み合い、今後の展開に期待させる導入としてよく出来ていただけに、それ以上の工夫が見られない本編の平板さが残念でならない。

少女時代の、父親からの性的虐待を想像させる、二階に呼び出される場面や、自動車で遠方へ連れ出されてレイプされる展開など、女性が性に対しネガティブなイメージを持つ要因となりがちな事象を序盤に印象づけておいて、それがその後の彼女の人格形成にどのような影響を与えたのか、といった構成とはならず、ただそんな事があった、と見せているだけ。『アメリカン・サイコ』で原作の陵辱・暴力描写を大幅に控えたメアリー・ハロンが監督だけに、直接描写がまるで無い事もまた、上辺をなぞっているだけの印象を強めている。

レイプされた後も男から声をかけられると素直にホイホイついていき、カメラの前で脱げと言われれば素直にホイホイ脱ぐ。でもプロデューサーに誘われても断る身持ちの堅さ。といった支離滅裂な行動の芯にあったものも見えてこず、やはり各場面、各展開をブツ切りで羅列しているだけとあっては、物語性も人物像も見えてこよう筈がない。

雑誌の表紙になる、といった事象の羅列にて、彼女の業界内での位置づけの変化や、消費者層の反応を感じさせはするが、業者側と告発する保守団体側と、両極端の反応ばかりを見せらるばかりで、ではアメリカの表社会一般として、どの様な反応が見られたのか、といったマクロ視点の存在がない事も、世界や時代との繋がりをあまり感じさせない要因となっているのだろう。

そういった、観客が興味を抱くであろう突っ込んだ部分をことごとくスルーして、ひたすらに簡易年表的なブツ切りの羅列に終始しては、あらすじを読んでいるのと変わらず退屈なだけだ。

モノクロでリアルな時代性を表現し、粗悪でアングラなエロ写真の雰囲気をも匂わせておき、表紙に載るなどサブカルチャー界に知られ始めたあたりで、総天然色風のカラー映像に転換し、陰と陽のギャップを伝えるまではよかったものの、またモノクロに戻ったり、カラーになったりと、意図の曖昧な転換が繰り返される後半は、これまたブツ切り羅列感を強めているだけで、失敗だろう。

業界を離れて信仰にのめり込んでいくくだりをラストに配置しているが、その事が後の彼女の人生に与えた意味には至らずそのまま終わり、何の総括も行わないのでは、観客それぞれの判断や評価に委ねると言えば聞こえはいいが、作り手自身のメッセージや解釈がまるで見られないのでは、単なる投げっぱなしでしかない。

ベティ・ペイジの事をある程度知っていれば物足りず、知らないなら興味を持てない、誰のために作ったのかすら曖昧な、全てが中途半端な無駄作品。彼女について知りたいなら、本を読んだりネットで調べるなどで充分だ。主演女優のファンでもなければ鑑賞の必要はない。


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2008年03月30日

アクエリアンエイジ 劇場版 2点(100点満点中)

燃心! 合体! ゴー!
公式サイト

『デ・ジ・キャラット』でオタク市場を席巻し、その後『ギャラクシーエンジェル』など、萌え美少女路線をメインとしているオタクビジネス企業ブロッコリーのカードゲーム、『アクエリアンエイジ』を実写映画化。

なる触れ込みだが、カードゲーム『アクエリ〜』は本来、マジック・ザ・ギャザリングのスタイルに萌え美少女キャラ育成をプラスしたものである。だが今回の映画版はなぜか、若手イケメン俳優達が主人公として登場する、BL系腐女子向けとしか思えない特撮オカルト映画なのだ。

これはアニメイトとの業務提携の影響下による、新規顧客層取り込みの手始めなのだろうか。ともかく、原作とは主要キャラクターからして全く変えられている映画版、世界や種族の設定などに原作のテイストやキーワードを残してはいるものの、全くの別物と考えた方がいいだろう。

しかし、原作ものにせよ別物にせよ、本作を一本の劇場映画として評価する事は非常に困難だ。これはどう観ても、連続テレビシリーズの初回2時間スペシャルでしかないのだから。

バラバラに生活していた主人公達が、受け継がれる宿命に導かれていく様を、各々で平行し、時に接触しすれ違いながら描かれていき、同じく敵となる存在も徐々に正体を現していき、敵が遂に牙をむき出したのと時を同じくして、導かれた主人公達がその前に集結する、という流れは、戦隊に代表される集団ヒーローものにおける序盤展開のテンプレートそのままである。

もちろんテンプレートとは、各作品ごとの特徴やキャラクターを当てはめて独自色を出すための基本素材であり、それに沿う事は間違いではない。だが本作は、TVシリーズの第一話でも、その序章となる劇場版でも無く、あくまでも単独の作品の筈だ。事実、現状知る限りでは、今回の続きが何らかのかたちで発表されるという情報は無い。

にも拘らず、先述のテンプレートに沿って話が進み、遂に主人公達と敵が対峙し、今からクライマックスのバトルが始まるのかと思った瞬間にエンドロールが流れ始めるのだから驚きだ。これが「次回に続く」ならば引きとして最適だが、「おわり」なのだから、納得出来よう筈もない。せめてエンドロール後に何かあるのかと我慢して待っていたら何もなく、そのまま場内が明るくなってしまっては、呆れ返るどころの話ではない。

ストーリーやキャラクター描写にしても、何故こいつらが急に下の名前で呼び合っているのか、何故そんなに急に馴れ馴れしく関係が変化しているのか、など、宿命や運命、あるいはお決まりのパターンだからとの共通認識にオンブしているだけの、何の考えもないものに終始。途中で見るからに怪しい奴が出てきたら、そいつがそのまんま怪しい奴だった、との展開に至っては、それでも尚、そいつが怪しかった事を衝撃の事実の様にフラッシュバックさせて演出しているのだから失笑する他ない。

世界設定や人間関係は全て台詞で説明し、ではお姉ちゃん(長澤奈央)は結局死んだのかどうかなどは適当にスルーし(というか何故あんなところに置く)、黒フードの三人組の、一人が離脱した後の二人は一体どこへ何をしにいったのかも不明なまま、など、それっぽいシチュエーションを適当に並べただけの、ひたすらに表層的、底の浅い描写、展開ばかり。

そんなありきたりで退屈なドラマが延々続いた挙句に、ラストは「ばかやろう、まだ始まってもいねえよ」ときては、これで金を取って構わないと考えている事こそが考えられない。

腐女子なんて適当にイケメンを出してBLっぽく絡ませておけば泣いて喜ぶだろう、などと客を舐めくさって金ヅルとしか見ていない事が瞭然の、オタク騙しビジネスによって生み出されたゴミの山の一つにすぎない。出演者のファンでもレンタルチェックで充分だ。

続きが作られるのなら、また話は別だが。



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2008年03月29日

カンフーくん 22点(100点満点中)

子供をバカにした子供をバカにする映画
公式サイト

中国からやってきた8歳の少年が、日本支配を企む悪と戦うカンフー特撮映画

何故かここ最近、日本やアメリカでパロディ系カンフー映画が多く作られているが、本作もあるいはそのムーブメントに便乗したのだろうか、にせよ企画意図が今ひとつ不明瞭で、その事が最終的な完成度にまで引きずられている感が強い。

基本的には子供層をターゲットとしているであろう本作だが、では何故泉ピン子が主人公少年と並ぶ重要ポジションにキャスティングされているのか、という疑問が、まず誰でも浮かぶだろう。あまつさえ、彼女の役どころは"ニュー幸楽"なる中華料理屋の女主人とあっては尚更、子供達はそれがパロディネタと理解出来るわけもなく、本作が対象としているであろう小学生の親達にしても、『渡る世間〜』を能動的に観る程には、まだ老け込んではいない。

それだけでなく、カンフーの使い手としてのアクション場面が、キャラクター立ておよびストーリー展開の必然として設定されている役どころなのだから、他にいくらでも適役はいる筈だ。いろんな意味で使いづらい泉ピン子をわざわざ使う意味からして不明瞭に尽きるのだ。

実際、公園で太極拳の演武を行っている初登場シーンでは、彼女に使い手らしい動きが出来ない事をごまかすべく、やたらとアップを多用して落ち着きなくカメラをグルグル回らせるなどして、肝心の体の動きが少しも伝わらない。この時点で、彼女の起用に無理があった事と、作り手の映像センスがその無理を補うまでに及んでいない事が顕著となっている。後に登場するエアギター場面でもやたらと顔アップを多用して、肝心のパフォーマンスを見せないのだから、センスや理解のなさは確定的だ。

メインのスタッフも、特撮監督としてはともかく、映画監督としてはセンスと力量に多いに疑問が残る小田一生が監督な時点で、良質なジュブナイルドラマは期待出来ない状態だ。さらに脚本が何故か『おじゃる丸』などで知られるアニメ監督・大地丙太郎と、どういうつもりなのか全く不明な人選。

そもそも原案としてクレジットされている山岸きくみなる名前からして、『カタクリ家の幸福』の脚本家として過去に仕事を残しているものの、経歴も素性も一切不明の謎の人物である。企画の時点で既に怪しさ満点で迷走しているのだ。これで面白いものが出来ると考える方がおかしい。

主人公・カンフーくんは、確かにアクションは頑張っているものの、中国語と日本語のコミュニケーション障壁という事項を踏まえても尚、心情部分でのキャラクター性が不明瞭で上辺のみに終始し、完全に記号化してしまっている。一応は慢心から挫折、克服といった、カンフー映画のお約束的流れに沿っている事で、余計に年齢以外の没個性・記号化が進んでいる。大体にして劇中で「かわいい〜!」と連呼される程、実は可愛い顔つきではなく、むしろ憎たらしいタイプの顔立ちとは、かなり早い段階で気づく筈。

子供をターゲットとした悪の陰謀に、友情と根性で立ち向かう子供達、という図式は、最近では『クレヨンしんちゃん』の劇場版における基本パターンそのままだが、『クレしん』の場合はTVシリーズで認知されている子供達が奮迅を見せるからこそ、そしてディフォルメされたアニメだからこそ成立しているのであって、そのまんま上辺だけを実写で再現されても、説得力のカケラもなく寒いだけだ。ストーリーはともかく、演出や映像、あるいは編集がひたすらに説得力に欠ける、狙いの絞りきれていないものに終始している事で、本当に上辺だけにしか感じられない

カンフーくんが日本へやって来るシーンにて、最初に老師に突き飛ばされる段階では、画面左側にいる老師が右にいるカンフーくんを後ろすなわち右方向に飛ばしているのに、空を飛び続ける一連の映像では、カンフーくんは右から左へと飛び続けている映像を見せられるのだが、普通の日本人の感覚として、中国から日本への移動は、左から右へ移動するビジョンを浮かべはしないだろうか、最初の段階で、映像で伝えるセンスや狙いの不確かさは露呈しているのだ。

テレビの中に敵がいると勘違いしてテレビに貼り付いていた筈のカンフーくんが、突然家を飛び出して学校へと急行する展開があるが、どうして彼がテレビに見切りをつけたのか、どうして学校へ向かったのか、など、ストーリーを進める上で最低限必要な説明が完全にスルーされているに至っては、とても正気とは考えられない。

ヒロイン(藤本七海)の父親が誰なのかを、意図的に不明確としているのかと思わせつつ、過去の回想場面で中途半端に父親の姿や声を見せてしまっては、その時点で誰だかわかってしまうだろう。ところがその場面の映像や演出をどう見ても、正体を隠したいのか、バラしたいのか、あるいは匂わせておきたいのか、狙いが全く見えてこないのだから困る。後の展開で「実は私が父親だ」と明かす場面の演出もまた、その時点で明らかとなって驚かせたいのか、そうではなく既に知られている事の再確認なのか、全く狙いが不明瞭に尽き、曖昧模糊とした中途半端に終始している。

観客の誰もが大人だと知っている矢口真里が、ヒロインの同級生として小学生役で登場する、ネタとして極めて美味しい素材も、彼女が初登場する一連のシチュエーションの段階で、彼女が同級生なのか、あるいは子供っぽい教師なのかもよくわからないまましばらく話が進み、教室に担任教師(佐藤めぐみ)が入ってきて、矢口が席について授業を受けている段になってやっと、小学生役である、というおかしさに気づかされるのだ。これまた狙いが不明瞭。

その矢口が大人である正体を現し、悪の女幹部(佐田真由美)と戦うシーンもまた、カンフーくんのラストバトルと平行して交互に見せるなどして、クライマックスを大いに盛り上げる事が出来た筈が、始まったと思ったら場面が飛んで、戻ってきたら決着がついている手の抜き様。『CASSHERN』では映像構成が雑多すぎて何をしているのかすらわからなかった佐田のアクションを、今回あるいはちゃんとしたものが見られると期待だけさせてこのザマでは、ガッカリにも程がある。

本筋の出来が悪くては、矢口が小学生という秀逸なネタも、藤本七海と上野樹里、武田真治、藤田ライアンらとの各競演ネタも、全て不発。非常に勿体ない。

子供向けだからこんなもんで構わないだろう、と、子供をバカにした姿勢で作られている事が、作品全体から伝わってくる、材料をトッ散らかしただけの子供騙し作品。出演者ファンや特撮、カンフー映画好きなら、一応は要チェックだろうが、期待だけは厳禁。



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2008年03月28日

ブラブラバンバン 13点(100点満点中)

ふしぎなボレロを てにいれた!
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柏木ハルコの音楽部活エロコメディ漫画を実写映画化。

音楽に限らず部活やスポーツで皆が頑張って上手くなるタイプの作品は、一つのテンプレートとして大量に存在し、その中で如何に独自のカラーを出すか、あるいは王道を突き詰めるか、といった作り込みが求められるジャンルに、本作も位置するとして問題ないだろう。

原作の場合は、音楽で発情する少女の特異性を前面に押し出し、エロを強調する事で読者の興味を惹き、そこに部活ものとしての努力や困難を絡め、常にエロありきで展開していく、という方向性をとっていた。音楽はエロに必然を持たせるための素材にすぎないと見ても過言ではない程に、である。そこに面白さがあったのだ。

にも拘らずこの映画版は、音楽部活映画の傑作『スウィングガールズ』の成功を意識したためか、あるいは登場人物達と同世代の若年層をメイン対象としたためか、エロは導入のスパイスに留め、音楽部活青春ものとしての側面に大きく偏った方向性をとっている。この事が本作の、雑多で散漫な仕上がりの根源にあるのだろう。

いい音楽を演奏すると発情し暴走してしまう少女を、だが音楽の才能は抜群にあるため部から外すわけにいかず、どうにかして暴走を押さえるべく試行錯誤する、との展開を表向きのメインストーリーとし、それに平行して部員達の技術や精神の成長を描いていくのが、原作のスタイルである。それを行うには当然、エロい場面をエロく演じられる出演者を起用しなければいけない。

だが出演者達は総じて、アイドル的な位置づけにある者達ばかり。当の発情少女・芹生ですら、元アイドルで現在は歌手の安良城紅では、エロい場面など撮れようもないのだ。実際、芹生と主人公・白波瀬(福本有希)が出会う場面では、発情を見せると思わせておいて、空高く舞い上がっていくという、非現実的な描写に逃げている。ただし、そうした非現実的なイメージ描写で最後まで通すのであれば、それはそれで一つの方向性ではあるが、次の部室での再開場面では、原作に近いかたちで芹生が白波瀬を脱がせて押し倒し、続いて村雨に抱きついてキスする場面まで用意されている。にも拘らずエロはそこ止まりで、そこから先の発情も、発情に対する主に男子のリアクションもロクに描かれなくなるのでは、中途半端にすぎる。

芹生の発情暴走と理由の解明あるいは克服などが、ストーリーのメインにあるかの様に思わせながら、特に後半からはごく平凡な青春部活もののストーリーに安定してしまい、発情に対して何ら説得力のある解答を見せないままに終わられては、楽しめるわけがない。ラストの歌いながらの指揮は、その場面単独で見れば高揚感のあるシーンとも言えるが、何故発情せず暴走もせず歌う事で演奏しきれたのかが謎のままでは、ストーリー構成から逃げて適当に終わらせただけでしかない。

原作を適当に食い散らかして羅列しただけの脚本構成は、あまりに雑で中途半端だ。名門美ヶ丘高校に行く場面などがそのピークだろう。何をどの様に、誰の立場から見せたかったのか、その後の展開にどう繋げたかったのかなど全てが曖昧で、転機として成立していないのだ。

芹生が指揮者に定着した理由もなく(『タブー』の時はホルンパートがなかったからであって、他の曲にその理由は適用されない)、そもそも演奏と指揮では発情の反応が異なるのだろうか、といった根本的な疑問もスルーのままで先へ先へと進められては、話がどこへ向かっているのかも、どこを楽しめばいいのかもわからなくなる。

後半における、他のメンバー達の努力や協調をクローズアップする展開そのものは、部活ものの王道として狙いは理解出来るが、村雨目当てで入ったのが大半と最初に説明しておいて、村雨がいるのに芹生が抜けただけで大量に辞めてしまうなど、自分で決めた話すら抑えられていないのでは、行き当たりばったりにすぎる。最初からいる3人の部員は残留して、ここにきていきなりメインキャラの様にアップを多用され始めるも、結局最初から最後までその他大勢としての扱いしか受けいていないのだから、映像にエモーションが伴っていない。これなら部員を大量に辞めさせる必要はなく、最後の演奏の不自然な吹替えの違和感も軽減された筈だ。

とにかく人物描写が記号、類型、表層的なものばかりに終始し、あまつさえ上述の様に、誰をどう動かし捉えるかすら、何の考えもないとしか思えない有様なのだから、青春群像劇として成立していない。白波瀬歩を中学時代に振った少女(南明奈)が、何の用もなく最後まで出続けているなど、あまりに作劇が雑すぎる。

怪物キャラとして周囲を振り回すべき存在である芹生もまた、中途半端な描写と演出により、良い意味での個性を出せずに終わっている。これはエロを控えめとした時点でも既に必然ではあったが、それに加えて演じる安良城紅がビジュアル演技双方ともに全く魅力や能力に欠けている事が最大要因だろう。

芹生は原作でも、「昔のエロ本に登場するインチキ女子高生」と揶揄される、とても高校生には見えない大人びたビジュアルと巨乳の持ち主ではあるが、強面ながらも美人であり、喋りさえすれば結構普通の子であるとの設定で、だからこそ発情や暴走時のインパクトが強くなるのだ。では安良城紅はどうか。中途半端な馬面の老け顔は、確かに「昔のエロ本に登場するインチキ女子高生」的ではあるが、美人には当たらない。汚らしい茶髪が老け顔の印象を強めているのも、明らかにヘアメイクの失敗だ。だいたい、マトモに日本語も喋れない人間を、普通の日本人役として起用し、台詞を喋らせている時点で、マトモに映画を作る気などない事は明白だ。ドラマ版『カバチタレ!』に出演していた頃の香里奈や、少し前の岩佐真悠子の様なイメージが、本来の芹生であった筈。

スクールカースト下位キャラを演じる福本有希や足立理あたりは好キャスティングと言えるが、近野成美はキャラ演出がチグハグで、無理から乱暴な言葉を使わされているだけにしか見えない、岡田将生などは結局どんな人だったのかすらよくわからないまま、といった具合に、ストーリー、人物設定、人物描写、演出、演技、全てが中途半端なバラバラな状態。これでは作品として完全に破綻している。

結局、『スウィングガールズ』らに類する作品のヒットに安易に便乗し、様々な金勘定を優先させただけの、志の低い企画の時点から、面白い作品など生まれよう筈もない事は決定づけられていたのだ。監督も脚本も無名の若手なのだから尚更。

エロコメディとしてはそこそこ面白い原作が、この映画のせいで一緒くたに駄作扱いされやしないか、そちらが心配だ。



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2008年03月27日

デッド・サイレンス 66点(100点満点中)

震える舌
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『SAW』の監督ジェームズ・ワンと脚本リー・ワネルが再びコンビを組んで送る、腹話術人形に込められた呪いを追うホラー映画。ジェフリー・ディーバーの小説『静寂の叫び』を原作とした、96年の同題映画とは無関係だ。

両人の出世作である『SAW』は、密室ゲームの閉塞感や、派手なギミックではなく理屈で興味を惹き驚かせるストーリーテリング、そして最後に明らかとなる真相の衝撃、と、低予算である制約をマイナスとせずむしろ活用して、ホラーやサスペンスの世界における新しいスタンダードと成り得た名作だったが、本作は、そうした特色も残しつつも、あらためて原典である王道ホラー映画に挑戦したものと見受けられる。

殺人人形の恐怖を題材とした作品としては、過去に『ドールズ』(86年、北野武作品に非ず)や『チャイルドプレイ』(88年)など、更に遡れば、68年に放送された日本の特撮番組『怪奇大作戦』内の『青い血の女』など、既にホラーの1ギミックとして定着したものだ。『SAW』に登場するジグソウ人形も、その路線上に位置する用法と言えるだろう。(本作にもコッソリ登場しているが、これは悪ノリがすぎる)

本作はそうした「人形は怖い」との一般認識を踏まえた上で、古典的欧米ホラー映画のカラーを踏襲しつつ、『リング』に代表される日本ホラーをも強く意識した作りとなっている。

始まって早々に最初の呪いを展開させ、その恐怖と衝撃で一気に観客を引きずり込んでおいて、そこから本筋である謎解きドラマが進んでいく導入部や、舞台上で恥をかいた女性がキーパーソンとなり、無念で無残な死を迎えた女性の呪いが人々を襲い、主人公は謎を追ってその女性の故郷を訪ね、いろいろあって解決し助かったと思ったら実は…とのオチに至るまで、『リング』の構成に酷似している事に気づいた人は多いだろう。

これは、日本はおろかハリウッドのホラー映画のスタイルを変貌させた『リング』なる作品が、テンプレートになり得る高い完成度を誇っている事の証であり、また同時に、『SAW』を作り出したクリエーターですら、『リング』の呪縛を乗り越える事が出来ないでいる証でもある。だがしかし、流石は『SAW』の作り手だけあって、単なる模倣には終わっていないのだから見事。

徐々に明らかとなっていく真相は実は、謎解きトリックにおいてはさして重要ではない事は、人に話を聞くだけでサクサク進んでいく展開からも瞭然である。本当の狙いは最後の最後で明らかとなる二段オチにあり、そこまでのストーリーが全てそのオチの準備であると提示される構成は、『SAW』と同様のものだ。

二つのオチそのものは、過去のホラー、猟奇作品などに同種のギミックが見受けられもするが、そこに至る直前まで真相に気づかせない様に、描写、演出が徹底されている事に注視すべきである。「途中で予想出来た」との声は、それは画面上に用意されている要素からではなく、脳内で先回りして思い描いたストーリーにおけるものに過ぎない筈。

そのオチを提示される事で、これまでの展開、描写において、オチへと導くための必然が用意されていた事にまで思いを至らせられ、納得、感心させられるべく、丁寧にフラッシュバックにて提示する手法を用いているのは、『SAW』と同様であり、作品の主目がここにあると確信出来る。

結局はそのオチの前振りに過ぎなかった本編ストーリーにおけるホラー描写も、「くるぞ、くるぞ〜」とジワジワと焦らし、緊張と期待を高めた上で急転させて驚かせ怖がらせる、という、やはり『リング』を強く意識したと思しく、呪い、幽霊ホラーとして的確な表現を巧みに重ねており、飽きの来ない様に構成されており娯楽性は高い。

『SAW』シリーズの様に、殊更に鮮血や臓物が飛び散るといった激しい残酷描写は控えめで、あくまでも呪いや人形による不気味さを主軸としつつ、全くの異形ではなく普通の人体から少し歪めた様を、呪い殺された犠牲者の姿として見せる事で、人体および人形を題材としている作品の特徴を活かした、ビジュアル的おぞましさを表現しているのも巧い。

人間を模した人形が持つ、人間でありながら人形の意匠を加えられた存在の持つ、それぞれ同じく不自然なおぞましさを同期させて観客の不快を生むべく作られている、ビジュアル的な要素をどう見るかで、本作の評価は大きく分かれそうにも思えるが、それは個々の感性の問題だろう。

刑事を悪役とし、いちいち主人公の邪魔をさせる事で、観客は刑事をイヤな奴だと思い、主人公の心情とシンクロして感情移入が果たされる事となる、人物配置や動かし方も的確だ。

ただし、いくら重要ではないとしても、何故今になって呪いが再開されたのか、完璧な人形が完成したからだとすれば、誰が作ったのかが気になるところだし、既に殺された人と生き残っている人の違いや、人形が発端となる事はわかっても、どんなシステムで呪いが発動し人を殺しているのかなど、曖昧な部分が多すぎるのは、脚本として乱暴に感じる。

惨殺死体が家族写真のごとく配置されている写真群も、視覚的なおぞましさは確かに強いが、ストーリーとしての必然が薄いのは困る。劇場の壁の隙間に主人公が入り込んで消える場面も、単に観客を驚かせたいだけとバレバレで、そう行動する必然が全くない、作為的にすぎるもので逆に興醒めさせられる。

オチを見た後にまた最初から見直したくてたまらなくなる『SAW』とは異なり、本作は確かに楽しめたが一度観たら充分と思わされてしまうのは、そうした至らなさによる部分が、あるいは大きいのだろう。

だがそんな不満も、オチからくる納得で綺麗に一掃され鑑賞後感はスッキリなのだから、作り手の狙いは充分に果たされているのだ。人によってはそれを、思うツボ、とも言うだろうが。


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2008年03月26日

アフター・ウェディング 81点(100点満点中)

あー父さん母さーん あー感謝してーますー♪
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デンマークの女性監督スサンネ・ビアによる、米アカデミー外国語映画賞ノミネート作品。同監督の『しあわせな孤独』にも出演していたマッツ・ミケルセンが主演となる。

幸せなラブストーリーを想起させるタイトルに反してヘヴィーな人間苦悩が繰り広げられるのは、前作『ある愛の風景』同様。基本的な作劇や演出、映像手法もまた、これまでの作品と大きく変わるところはないが、決してマンネリに陥らないのは、それだけ同監督の作家性が完成されているという事だろう。

家族を題材に、対比や対称、相似あるいは逆転の図式が描かれていく人物構図も変わらずだが、今回は特に、父親としての生き方を構図の主軸としている様に見受けられる。

主人公ヤコブ(マッツ・ミケルセン)と実業家ヨルゲンの二人が、父親像の投影として配置されている。実の子と育ての子というファクターを、二人それぞれに少し異なるかたちで背負わせながら、結果として"育ての子を手放す"同じ選択を双方に取らせるなど、比較によって人物像を彫り込み、一人の人物の感情描写から、別の人物の感情をも推測、想起させるべく作り込まれている。

ヨルゲンに生き方を左右する選択を迫られたヤコブが、今度は自分の養子(的存在)に同じく今後の人生を大きく左右する選択を迫る、相似の図式の後に、それぞれが選んだ結果は真逆のものとする、など、比較構図をパターン化せず様々に駆使する絡み合いが、単純化しないリアルなドラマを生んでいる。

序盤に娘の口から「父に本当の事を教えてもらった」と言わせておいて、終盤には、もう一つの秘密は教えてもらえなかったとし、互いに対する理想と現実の食い違いによって、愛や悲劇を単純化しないなど、似た図式をずらして反復させる手法の巧みさにより、説得力のある感動へ導かれる事となる。

判明する二つの大きな秘密自体は、大映ドラマや韓流ドラマにありがちなものであり、それそのものは特筆すべきファクターではないが、それを決してベタなメロドラマに終わらせずに、監督得意の手法にて、固執する志向思う様にいかない現実の狭間で苦悩する人間を描いているのだから、やはり創作にとって大切なのは、題材よりも表現手法に尽きるのだと再認識させられる。

複数の人物がそれぞれの思惑を抱えて絡み合うドラマを、本作では基本的に一対一の局面を多用して事態を推移させる事で、比較構図がより明確となり観客の理解や認識も容易となるべく構成されていると見出せれば、手法が的確であると一層に感心させられるだろう。家族が集うなどの場面でも、人物関係を描く段に至っては、対峙する二人以外は背景と化してしまう程に無駄なく用いられているのだ。

監督による男性像や女性像の特徴は、『ある愛の風景』レビューにて既に書いたので重複は避けるが、二人の父親の人物像と母親あるいは娘のそれを比較すれば、本作でも変わらない事は明白。子供の使い方が優れているなども同様。それにしても毎度、娘役のビジュアルおよび演技の魅力高さには畏れ入る。

主要人物が出揃うまでの展開があまりにも出来すぎていると観客に思わせておいて、劇中にて「出来すぎだ」と言わせる事で、これは誰かが何らかの目的で仕組んだ事であると、観客に対し真相への興味を抱かせるべくコントロールするといった様に、予想を先回りして興味を持続させる作劇も秀逸。

インパクトの強い題材を選択した前作『ある愛の風景』に比べれば、確かに重くはあるものの大人しめな印象を受けるが、完成された創作テクニックは健在であり、映画好きならば間違いなく楽しめる傑作である事に相違ない。

ハリウッドデビューとなる次作『悲しみが乾くまで』への期待も高まるというもの。


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2008年03月25日

燃えよ!ピンポン 80点(100点満点中)08-090

力士は絶滅寸前の保護動物なんだよ
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ハートフルドタバタコメディ『ナイトミュージアム』の脚本を手がけたロバート・ベン・ガラントとトーマス・レノンの共同脚本および、ロバート・ベン・ガラント監督によって製作された、卓球コメディ映画

導入部の展開などから、近作スポーツコメディ『俺たちフィギュアスケーター』と類似した作品であるとの印象を受けるが、実際の本筋は『少林サッカー』に近い、香港コメディ映画のテイストで作られている。

卓球が中国のお家芸である事はアメリカでも知られているらしく、インチキオリエンタル要素を前面に押し出しており、特に『燃えよドラゴン』のパロディが基調となるストーリー展開が始まってからというもの、それは顕著となる。冒頭の過去エピソードをソウルオリンピックと設定した事も、オリエンタルな方向性によるものであって、決して時代性を醸すだけの意味ではないことは明らかだ。本作の原題『Balls of Fury』が、『ドラゴン怒りの鉄拳(Fist of Fury)』のパロディであると気づけば殊更である。

アメリカ人を主人公に、卓球を題材に、『燃えよドラゴン』のパロディと、てんでバラバラな要素ながら上手い具合に渾然一体のカラーを発揮しているのは、先述の通り『少林サッカー』的ノリを採用した事による成功だろう。

その『少林サッカー』、日本では『キャプテン翼』との類似があれこれ言われていたが、漫画で喩えるならば島本和彦の諸作品がむしろ相当するものだ。力が入りすぎた大仰なアクションとリアクションおよび脱力ギャグの応酬を前面に押し出してそのギャップで娯楽性を高めておいて、シリアスな魂の叫びを堂々と謳う事で、それが真に迫る説得力を持って受け手側を燃えさせ感動させる、シリアスとコミカルがともにハイテンションに混淆した、独自の作風を誇っているのが、島本作品である。

本作も同様に、燃えるシリアスと脱力するコミカルの境界を意図的に曖昧とし、どちらとも取れるシチュエーションやネタを各所に用意している事で、単なるバカコメディでもスポ根でもない独特のノリを醸し、興味の方向性を一様とせず飽きさせない事に成功している。

ツッコミがなく(尻には突っ込んでいたが)どんどん先に進む、日本とは異なるコメディ構成である上に、「ここは笑うだけのところ」「ここは真面目なだけのところ」との割り切りを行わず、その双方を混在させたかたちで表現している本作は、頭の固い人間には理解し難いものであることも容易に想像出来る。だがそれは観る側の問題だ。

ラリーを続けながらどんどん外に出て行ってしまうクライマックスの展開を、単なるギャグとしてしか受け止められないのか、それとも白熱する勝負としても受け止める事が出来るのかでは、楽しめる度合いは大きく違ってくる。もちろんその場面は、その両方のテイストが込められており、そのギャップから生じる独自の面白さのみならず、周りが見えないかの様に勝負に熱中する二人と、周囲の大騒ぎとのギャップなど、あらゆる部分でシリアスとコミカルのギャップあるいは混淆を、作劇や演出に絡ませきっているのだ。(その意味では今川泰宏作品に通ずるところもある)

随所に挿入されるマギーQによる格闘アクションを、真面目に格闘アクションとして撮影しているのも、興味を単調としないためのもので、彼女の引き締まりすぎた肢体によるメリハリの利いた動きは、それだけで充分に娯楽足り得るものだ。肌やプロポーションを殊更に強調するコスチュームだからこそ尚更。(貧乳なのに胸筋で谷間が出来ているのが凄い)

彼女ともう一人、重要な役割にて登場する中国人少女もまた、マギーQと同じく顔は地味ながらも、衣装やヘアメイクによって、オリエンタルな魅力が最大限に引き出されており見どころ足り得ている。二人揃ってツンデレキャラなのも、心得た人物設定と評価出来る。

人体を使った壁打ちテクニックを、当初はブラックなギャグとして見せ、その時には人を死なせる事で観客に強く印象づけておき、かなり後になってその技を復活させ、今度はギャグではなく人を救うために使わせるといった様に、ギャグとシリアスの混淆が、伏線や繰り返しによるストーリー構成にも活かされるなど、単なるギャグ、パロディには絶対終わらせないとの意図が強く感じられるものだ。

だが、中盤の展開にて、修行シーンとドラゴンとの対決との間に、主人公が強さを取り戻したとの描写がないため、主人公が強くなったというよりドラゴンが弱いだけに見えてしまうのは問題だ。散々煽っていたドラゴンの正体が正体だけに、余計に弱く感じられてしまうのだから、この部分はもうひと捻り欲しかった。ドラゴンのキャラクター自体は秀逸なだけに惜しい。

もちろん、愛人メンズの鬱陶しさパンダオチ、あるいはメクラやシャム双生児ネタなど、単純にブラックなギャグとして笑い飛ばせる部分も用意されているのだから、島本和彦的なノリについていけなくとも、楽しむ事は可能だろう。

最後の脱出シーンがディズニーランドのジャングルクルーズっぽいのも小憎い仕掛けだ。これは間違いなく意図的なフリとオチの図式だろう。

『ナイトミュージアム』に続き、センスのいい作劇が楽しめる本作。この脚本コンビは今後が楽しみだ。



tsubuanco at 17:49|PermalinkComments(2)TrackBack(12)clip!映画 
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