2008年04月

2008年04月30日

NEXT -ネクスト- 76点(100点満点中)

「つれてって くださいますわね?」「いいえ」「そんな ひどい…つれてって くださいますわね?」「いいえ」「そんな ひどい…つれ(略
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SF作家フィリップ・K・ディックの短編小説『ゴールデン・マン』をベースとした、ニコラス・ケイジ主演の超能力アクション映画

といっても、現在より2分先を予知(同時認識)出来る特殊能力を備えた人物設定以外、世界設定もストーリーも、能力者のビジュアルも人格も、全て完全な別物

『トータル・リコール』『マイノリティ・リポート』と、ディック原作ながら設定のみ借用でストーリーが大きく異なる映画を製作してきたゲイリー・ゴールドマンが、本作においても製作および脚本を担当している事から、あるいは複数の原作映画化権をまとめて買い付けた名残などの背景が匂わされもするが、実質的には原作クレジットの意味は希薄であり、原作と比較してどうこう言うレベルでは全くない。

本作、最終的にはテロリストの陰謀やアクションになだれ込みはするが、冒頭のカジノ場面や、ヒロインとの進展などに顕著な通り、作品ジャンルとしては近作『ジャンパー』『フローズン・タイム』らにも類する、平凡な男が少し特殊な力を持ち、日常生活にどの様に活用するのか、との、観客自身に置き換えられる願望や妄想が具現化されるタイプの作品として楽しめるものだ。

主演のニコラス・ケイジが、殊更にショボクレたオヤジにしか見えない風体に徹しているのも、挙げた二作同様、能力以外はあくまでも凡人である事を如実に表している。

そんな「もしも〜だったら」路線としての魅力が、まずわかりやすく発揮されるのが、ダイナーにおけるヒロイン(ジェシカ・ビール)との邂逅場面である。

どうやって接触すれば上手くいくのか、を、何度も何度も失敗を繰り返し、その失敗をいちいち映像として繰り返し見せ、少しずつ"正解"へのヒントを見つけ出していき上手くいく、との場面構成は、まるで恋愛AVGにてあらゆる選択肢を試してみるプレイの様で、なかなかに楽しく、ショボくれたハゲ親父でも、忍耐強くあらゆる選択肢を試し、時には敢えてカッコ悪い道を選ぶなど工夫を重ねれば、いつかは美女をゲット出来るのだと、不毛な夢(ハゲだけに)をも与えているのだ。

そしてこれは冒頭のカジノ逃亡場面より共通する事だが、今見せられている映像が、主人公が予知した"失敗した未来"なのか、"成功した結果"なのかが、観客が見ている段階では区別が付かない様にされている事が、本作のポイントである。

このギミックは、まず各局面単体において、「ああダメじゃん」と一瞬思ったら時間が戻り、「驚かせやがって、じゃあ次はどうやって回避するのかな?」と興味を引くものであり、同じシチュエーションが繰り返される事によって、失敗と成功のギャップが如実に伝わり、成功のカタルシスが大きくなる効果にもなっている。

先述の繰り返し口説きシーンの様に、特に前半において、"繰り返し試行錯誤"の概念を観客に執拗なまでに叩き込んでおいて、後半になってからはその繰り返しを省略し、"分身"という、また目先の異なるビジュアルによって、複数の繰り返しを一度に見せているのだと観客に気づかせ、アクションのテンポを遮らずに主人公の能力を表現し、映像的にも変化をつけて飽きさせない工夫がなされているのだ。

つまり、前半と後半の能力描写は、見せ方、表現手法が変わっただけであり、やっている事も"2分先"のルールも、実は何も変わってはいないのだ。それを理解出来ないのは観る側の理解力の問題で、作品の責任ではない。"例外"の設定がご都合主義との批判は、この点とはまた別問題だ。

ヒロインがアッサリと心も体も許してしまったのも、描写は省略されているが無数の失敗の上に成り立った、ハゲしい忍耐の結果であると考えれば、充分に得心がいくものである。みんながんばれ。

何より、主人公の能力が"逃げる・避ける"事に特化したもので、それを如何に活用して局面を打開するか、との、能動・攻撃的なアクションとは異なるアプローチにて、アクションやサスペンスシーンが設定されている事が、本作の特徴であり面白さと言える。

冒頭の逃亡シーンから、クライマックスの"連続銃弾避け"に至るまで、その指針は貫かれており、稀に主人公から積極的に攻撃を行うシチュエーションとなった際には、その選択は最善ではなかったと皮肉なオチが用意されている徹底振りなのだから憎い。だからこそ、前述の連続銃弾避けが、クライマックスにて独特に奇妙なカタルシスとなるのだ。

奇妙と言えば、クライマックスの突入シーンにおいて、フル装備の突入隊の中で、主人公一人だけ素手の平服という絵ヅラもまた、奇妙さが突出したものであり、それでいて一番テキパキ動いて役に立っているギャップが、奇妙さを倍増して面白さを生んでいるのだ。設定を活かしてただのガンアクションに終わらせない工夫が嬉しい。

そして、先述の通り"観客にわからなく”していた未来予知ギミックの見せ方こそが、実は全体的な作品構成そのものの伏線トリックだったと気づかされる、終盤の大ひっくり返しは、これまた奇妙な騙され感を与える、いい意味での裏切りテクニックとして見事。ダラダラ引っ張らずにサッと終わらせる潔さも評価に値する。突っ込む猶予を与えないためとの見方もあるだろうが。

それ自体は珍しくもないワンアイディアを、どう描写してどう見せれば観客を魅了出来るのかにこだわりぬいた、表現や展開のあれこれこそが本作の主目であり、何故ヒロインだけは例外なのか、テロリストは何者なのか、などの説明不足な事柄も、大して気にはならない。むしろテロリストなどは、殊更に無個性、記号的に描写されているのだから、これは作品をポリティカルアクション寄りとせず、あくまでも一発ネタの「もしも能力」ものとして、主人公視点に集中させるための意図的なものだろう。

それは監督のリー・タマホリが007シリーズなど、敵の設定を決めるところから始まるアクション映画を手がけている事からも瞭然だ。もっとも、そこまで細かく設定がなされていれば、それはそれで更に完成度は高まっただろうが。

エンドロールも能力ギミックを匂わせる遊びが用いられ、最後まで奇妙な感覚に浸らせてくれるのだから、サービスは徹底している。最後に何かオチがあればもっと良かったのだが。

それにしても、劇中の描写からすれば、主人公は今までに"死ぬ"感覚を数え切れない程に体験しているのだろう。想像を絶する精神力である。だからハゲるのか。



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2008年04月29日

砂時計 10点(100点満点中)

お前もがんばれよ
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芦原妃名子の同名少女漫画を実写映画化。

原作は単行本にして八巻(+番外編二巻)、昼ドラとして製作された連続ドラマ版は全60話と長い時間をかけ、劇中でも14年の歳月が流れる大長編ラブストーリーである。それをたった二時間程度の尺で、導入から結末まで全てを描いてしまおうとする時点で、無理に決まっている。

結果、原作や昼ドラ版を知らないと、やたらと駆け足で上辺ばかりの、中身の薄いありがちなお話のダイジェストとしか感じられず、元のストーリーを知っている者からすれば、あれがないこれもないと、やはり上辺だけのダイジェストとしか感じられない、どうしようもない結果に。

この種の少女漫画の評価点は、まるで我が事の様に付いた離れたの恋模様に一喜一憂してしまうべく、登場人物特に主人公の心情が綿密に描かれて、読者がそれに共感あるいは時に違和感を抱かせる、心情描写の細かさと、それによって個性が引き立ち愛着となるキャラクター描写にある。

本原作も、ストーリー展開はお仕着せの強いものながら、主人公の人格や心情がどの様にして形成されていき、どの様に変化していくのかが、少女期の数奇な体験にてまずインパクトを与えつつ、初恋の進展のバックボーンとなるべく丁寧に描かれているからこそ、幸福と不幸のどちらの側に話が進んでも、読者の興味を持続させ続け、主人公の選択に対し必然や納得を与えている。

そうした細かい描写、および主人公の成長期において影響を与えた様々な事象、人物、あるいは周囲の人物達それぞれの相互関係などが、主人公が辿る運命を追体験するための基盤にあり、各局面にて基点となるポイントを外しては、何故こうなるのか、こうするのか、に必然も納得も生まれないのだ。

原作を読み込んだ上で各要点を解釈し、後付の連続で描かれた原作よりも、最初から最後までをひとつのまとまったストーリーとして構成すべく、更なる納得や必然を生む様に、時に大胆なアレンジが施され、「そう変えたか、なるほど」と頷かされた、昼ドラ版の製作姿勢とは真逆に、今回の映画版は、ひたすらにポイントを外しまくり、適当に上辺をなぞっているだけに終わっている。これで面白くなるはずもない。

まず全ての大元となる、主人公・杏の母親からして、描写不足のダイジェストなのだから、前提から成立していないのだ。

彼女がどんな人だったのか、どうして死ぬまでに追い詰められていたのか、といった必然がなく、ただそういう話だからそうでした、では、当初"弱い人間"の象徴であるかの様に杏の中に存在し続けた印象が、成長と経験に従って徐々に変化していき、あるいは生き方や男女関係にも表に裏に影響を与えていき、そして終盤の衝撃につながる、外的な事象と内面的な心情と両方の基盤の一翼を担う要素が、先に決められた筋書きに沿ってダイジェストで見せているだけにしかならない。

「がんばれ」という言葉あるいは概念に対して杏が抱いてしまった印象、感情や執着に流されすぎる事を弱さと思い込んでしまう事、一人で背負い込んでしまう事など、母の死が杏に与えた影響を、存命時の描写として何も描けておらず、母が杏に逆ギレする描写にて、精神的にギリギリの状態にある事を端的に表現していた、昼ドラ版で印象的に見せられた様な過程の描写も薄く、原作を尊重する事も、新しい解釈で上手く意味を伝える事も何も考えず、ただ上辺をなぞった作劇でしかないとは瞭然だ。

最初からその有様で、その後もずっと、適当に原作のシチュエーションをなぞらえている割に、各場面でのポイントとなる部分はことごとくカットしている様な展開に終始。夏合宿シーンなど、その時点でのライバルキャラ・楢崎歩の存在がカットされていては、シーンそのもののに意味がなくなると何故わからないのか。大悟の杏に対する強い想いを表現させるには、何らかの障害がないと成立しない。よほどの事がない限りギリギリまで自分に素直になれないキャラクター性が、ラストの展開にまでつながってくる重要要素なのに、最初にそれを描けていないのだから、大悟がどんな特別な存在なのか、全然わからないのだ。

映画では、最初から決められたカップリングである事におんぶし、決められた道筋に沿って付いたり離れたりしているだけでしかない。何が面白いのか。

三角あるいは四角関係となる、藤と椎香の月島兄妹の存在も極めて中途半端にすぎる。杏と大悟の関係に話を絞るのであれば、兄妹の出生の秘密にまつわるエピソードなど入れるべきではなく、ただ話が散漫になって、余計にダイジェスト感が強められただけだ。そもそも藤の片思い描写が全く薄く、大悟と対比させる様な描写も特にないのに、そういう位置づけだからといきなり二人の間に割って入り、その事も適当にフェードアウトでは、これまた決まった道筋に沿って適当につまみ食いしているだけだ。

そして本作で問題なのは、展開や描写を端折りすぎてダイジェストになっているにも拘わらず、場面ごとの演出テンポはやたらと遅く冗長で、ために尚の事描写出来る情報が少なくなり、ダラダラと薄い話を続けているだけに終わっている事だ。ストーリー展開を追う気にすらなれず、ただ退屈な時間が過ぎていくだけの苦痛を味わわせられるのだから困る。

本来メインとして八割方のウエイトとなる中学高校時代を全体の約半分に留め、残りを26歳となった大人場面に費やしているのは、松下奈緒主演作である事を強調したい、業界側の思惑によるものだろう。

これにより、大人時代での行動の基盤となる少女時代の描写は更に少なくなり、よって何故彼女がこんな行動をとるのかの必然が薄れてしまい、やはり決まった道筋に沿っているだけとの感が強くなる。そして大人時代の婚約エピソードもまた、描くべきポイントを外しているために、取ってつけた様な展開としか映らなくなってしまうのだ。

弱さに耐え切れず死んでしまった母の存在がまずあり、自分を強さで包んでくれた大悟の存在があり、そんな彼に依存してしまう自分を弱いと考え、その克服として男や他者に依存しない人生を選択して、杏が大人になったとのドラマがまず描かれていない。そして、弱さを言い訳にする人間を許容しない婚約者・佐倉が、そんな人物である事と、かといって悪人というわけでもなく、言っている事自体は至極正論である事、だからこそ杏は彼を選び、佐倉は"強がった"生き方を選択した杏をパートナーに選んだ、との、婚約に至るまでのドラマも全く描かれていない。

この映画版では、ただ普通にラブラブなカップルのマリッジブルー的にしか描かれておらず、これでは原作とは全く意味合いが異なる、中身のない上辺だけの事象でしかないのだ。別れの引き金になった杏の「強さ・弱さ論」が、彼女の経験、特に大悟の存在によるものが大きい事も匂わされず、場面の衝撃を強める名セリフである、佐倉が返す「昔の男の言葉で説教してんじゃねーよ!」との正論も用いられず、いきなり婚姻届ビリビリでは、意味が全く異なるものとしか伝わらない。

他にも挙げればキリがないが、この映画版の作り手は、原作の面白さや意味合いを全く理解しようとせず、ただ上辺をなぞる事しか出来ていない。それでいて、血まみれになる悪夢シーンなど、無意味にホラーめいた演出で不快にさせるのだからタチが悪い。

原作を未読でも既読でも楽しめた昼ドラ版とは全く正対し、原作への理解も尊敬もなく、単独作品として面白く意味のあるものを作る気概もない、単なるお仕事のひとつとして右から左にルーチン製作されてしまった本作、内容に興味があるなら原作を読めば、女性に限らず楽しめるだろうし、映像で観たいなら昼ドラ版が断然いい。

島根の田舎+夏帆の要素が共通する『天然コケッコー』と比較しても、風景を美しく切り取り、初恋の楽しさや切なさをリアルに描き、夏帆の魅力を最大限に引き上げる事に成功した『天然コケッコー』の足元にも及ばない、著しく魅力に欠ける愚作。夏帆ファンでも自転車で疾走するシーンの乳揺れくらいしか見るべきところはない。



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2008年04月28日

あの空をおぼえてる 28点(100点満点中)

死んだら驚いた
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アメリカの作家ジャネット・リー・ケアリーの同名児童文学を、冨樫森監督により映画化。脚本の山田耕大は、実写版『鉄人28号』でも冨樫監督と組んでいる。

と、いきなり悪評高い『鉄人28号』を挙げたが、本作もそれと大して変わらない、原作の移植に失敗した残念作に終わっているのが実情。

原作は、10歳の少年が妹に宛てて書いた手記の体裁をとっている。すなわち全ての描写が彼の主観を通したものである事が、悲劇を扱いつつも泣かせに走らない、作品の評価点にもつながっている。

のだが本作、冒頭の臨死体験ビジョンに始まり、現在と回想が混濁する前半部は、概して原作同様に、主人公の少年視点で描かれていながら、徐々にそれ以外、母親や父親を単独で見る、説明的な客観視点が多用され始め、どんどん印象が散漫となっていく事となる。

品川の登場シーンなどは特に蛇足で陳腐なものでしかなく、竹野内豊を主演扱いとしたい営業的な思惑が強く感じられる改変の数々が、作品の質を落としている。

それに始まり、原作と変える部分と変えない部分のバランス悪さが、違和感の元となっていると見られる部分も多々ある。

たとえば小日向文世演じるカウンセラーの存在。原作ではカウンセラーが主人公に、人に言えない事を書いておけとノートを渡し、そこに妹へのメッセージを書き続ける。との存在意義がまず設定され、作品そのものが成立しているのだが、原作ではノートを渡さず、主人公が自発的に妹への手紙を書き始めるので、存在する意味が実はないのだ。実際、ヅラを取るギャグなど、ストーリーとは特に関係ないかたちでしか、存在感を示せていない。

髪の毛が逆立った子供などは、立ち位置はともかく設定は完全なオリジナルだが、全く面白くもなく寒いだけで、コイツが出る度にシラケムードが漂い、作品への感情移入を阻害している。先述のヅラギャグも含め、作り手に観客のエモーションを操作するセンスが全く欠けている事は瞭然だ。重い話に息抜きをさせる役割に、完全に失敗している。

死のトンネル内で犬が暴走した理由も、原作では明確に語られてストーリー展開に組み込んでいるのに、何故かスルーして不明なままでは、本当に原作の意味を理解しているのだろうかと疑わしくなってしまう。そんな有様だから、一時間もあれば読めてしまう原作を二時間に引き伸ばしたとしか感じられない、ダラダラした退屈な出来になってしまうのだ。

その一方で、ギプスにメッセージを書いたり唾の飛ばしあいをするなど、アメリカ人的な思想や習慣が基盤にある原作の描写を、舞台を日本としながらそのまま変えずに用いている部分も気にかかる。どうにも乱暴な仕事だ。

先述の、現在と回想あるいは幻想を混濁させる前半部の構成は、一家に起こった悲劇の真相を、当初は明確に提示せずに、観客を困惑させておいて事実に衝撃を与える、との意図によるものである。現在と回想が切り替わる瞬間を曖昧にし、その時に着ている服装を共通させるなどの仕掛けも、観客の理解を曖昧にさせるためのものだ。だが、では一体いつその真相が明確となり、観客にショックを与えるのか、の段までもが極めて曖昧で不明瞭なのでは、演出意図あるいは脚本構成が曖昧としか思えない。これではただ単に時間がいったり来たりしてややこしいだけだ。

また、原作では、"現実"に苦悩する主人公を描きつつも、トンネル探検の準備描写などで、子供心を喚起してワクワクあるいは懐かしくさせる様な描写も多く描かれており、それが悲劇や苦悩との緩急として有意に構成されていたのだが、この映画版ではひたすら重いだけで、ギャグは滑るのでは、テンションは沈みっぱなしで疲れるだけだ。

それでいて終盤の泣かせになると、急にクドく押し付けがましくなるのでは、残念ながら残された家族達のドラマに対し、泣く事は出来ない。

どうも冨樫森という監督は、映像的なこだわりに見るべきところが多い一方で、人間の心情をドラマティックにあるいはリアルに描く能力に欠けている。彼を起用した段階で、この結果は想定内だ。オマケに脚本家が鉄人コンビときては尚更。

そんな中で一人飛びぬけて光を放っているのは、妹を演じた吉田里琴の存在に尽きる。

『みこん六姉妹』『山田太郎ものがたり』『クロサギ』など、作品の出来は別として、ただ出てくるだけで特段の存在感を放つ彼女の魅力は、今回は特に物語のキーとなる存在だけに、大いに表現されている。

どこからどう見ても完璧美少女の天使的ビジュアルを、女優を美しく撮る事には長けている冨樫森だけに、殊更に美しく、可愛く映し出せているのは言うまでもない。主人公の視点を通して見るからこそ、愛おしさが最大となっているのだと的確に表現している映像および、父の視点にて撮影された、同じく愛おしさを最大とする写真の数々は、現時点における彼女のビジュアルの集大成として永久保存すべき価値がある。

そして、自分が可愛いと自覚しているからこその小悪魔的な奔放な所業の演技も、まるで本人が本当にこんな子なのではと錯覚させられる程に秀逸。これは天才的な演技理解センスを持つ彼女だからこそなせる業だ。兄を呼ぶ人称が「アニ」という、「それ何てシスプリ?」な、ツボを押さえた設定だけは、脚本家を大いに評価したい。

ラストシーン、"新しい家族"をフルショットで捉えた画面内に、唐突に登場する彼女の姿に、唯一ここに限り思わず涙してしまうのは、そんな彼女の持つ魅力によるものなのだろう。吉田里琴ファンだけは必見だ。

それにしても、一瞬の出番で顔もロクに見えないのに、「ノッポさんだ」と気づかれてしまう高見氏の存在感は凄い。



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2008年04月27日

紀元前1万年 37点(100点満点中)08-130

一万年と二千年前から愛してる
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予算とCGの無駄遣いとしか思えない、ズッコケ超大作を作り続けるローランド・エメリッヒ監督による最新作。時に『ID4』の様に、偶然にズッコケがいい方向に働いて面白くなってしまう事もあるが、今回は普通にズッコケただけ。

恐竜と原始人とが何故か同時代に存在する『恐竜百万年』なる、映画史に残るトンデモ特撮映画を想起させる邦題の本作、歴史考証を完全に無視したトンデモ描写や、ヒロインだけがやたらと現代的な美人だったりと共通点も見られるが、これはオマージュと見て問題ない部分だ。

気になるのはむしろ、狩猟民族の狩りの様子から始まり、主人公の恋愛、進んだ文明を持つ異民族の襲撃、奴隷として連れ去られる人々、肉食獣の力を借りて逆襲に転じる、とのメインストーリー展開が、メル・ギブソン監督の『アポカリプト』に酷似している事の方だろう。こちらはあからさまに怪しい。

大枠からしてそんな有様な上、具体的な展開においても、印象的に登場するサーベルタイガーとの出会いが、サベッジランドの王者ケイザーの様に仲間になるか、あるいはクライマックスのピンチシーンに出てくるのかなど、王道的な展開を期待させておいて二度と出てこないとは、期待外れにも程がある。

奴隷達に匿われている預言者が思わせぶりに登場し、"神"の弱点として"しるし"を思わせぶりに語るも、結局それは主人公自身の戦いとは無関係で、預言者もその後登場しない。何のために出てきたのか意味不明

オリオン座の"しるし"が、北極星を"蛇の目"だと発見した事などとも関連せず、ヒロイン側の展開においても、しるしの存在は結局どうでもよくなってフェードアウト。更に主人公達が北極星を目印にした以降も、昼になっても歩き続けては意味がつながらない。

奴隷頭に「神には勝てないから戦わない」と言わせておいて、いざ反乱が扇動され始めると一斉に蜂起する奴隷達。そのままハイテンションで神殿に迫りながら、"神"が登場すると一斉にひれ伏す奴隷達。考え無しの行き当たりばったりなのは奴隷達ではなく脚本である。

奴隷達が殺到する神殿内にて、神官達が何か細工しようとしていた巨大なものが何だったのか、中途半端にブツ切りでこれまた意図不明な思わせぶりだけ。「この女は返すが神の奴隷は返さない」と言っているが、彼女も神の奴隷のうちだろうに。などなど、キリがない程に悪い意味でのツッコミ、ズッコケどころが連続するクライマックスシーンは、せっかくのテンションを停滞させまくりでガッカリの連続ばかり。

そこに至るまでの道中においても、ちょっと泳いだり槍を投げたりすれば届きそうな船をただ見ているだけだったり、様々な特徴を持つ部族が終結したのに、その特長が生かされるわけでもなく誰が何でもどうでもよくなったりと、やはり行き当たりばったりのダラダラに終始。同じく原始的な徒歩移動のみで全編描かれている、パクリ元の『アポカリプト』のスピード感や異様なハイテンションとは正反対に、嫌な疲れが残る鑑賞後感は厳しい。取ってつけたようなご都合主義ハッピーエンドもウンザリだ。傑作の上辺だけなぞっても、センスがなければ台無しと、至極当然の結果である。

ちなみに、全て古代マヤ語で通されていた『アポカリプト』とは異なり、本作の主人公達の集落はおそらくヨーロッパにあり、「山を越えて」アフリカへと移動し、エジプト周辺に到着した、との流れにおいて、アフリカの黒人達にそれぞれの部族語を話させておきながら、ヨーロッパ原始人が英語を話しているのは違和感が大きい。二つの言語が登場するため通訳を介する局面が多く、テンポを阻害している。アフリカ人とアトランティス人が同じ言葉なのだったら、いっその事全員が同じ言語でもよかっただろうに。この中途半端さが、エメリッヒ作品の大味感の元にあるものだ。

ストーリーは行き当たりばったりの思わせぶりばかり、そしてエメリッヒに人間の心情を描くドラマなど描けるわけもない事は、過去作からも瞭然とくれば、もはや見るべきところは、大規模な特撮やCGを駆使した、スペクタクル溢れる迫力の映像くらいなのだが、これまた、俯瞰の遠景が多すぎ、特撮を無駄遣いしている散漫な印象ばかりが強い。巨大感、スケール感で圧倒するために必須なローアングルを、あまり効果的に使えていない事が大きい

たとえばピーター・ジャクソンの『キングコング』中盤における、四足恐竜の疾走に追い立てられるシーンの様な、有無を言わさぬ迫力、スピード感、ハイテンションなスリル、などを、マンモスの群れが暴走する、序盤やクライマックスのシーンで全く表現出来ておらず、主人公目線で描きながら、ただそういう事があるとの客観的事象としてしか捉えられないのでは、あまりにセンスが凡庸すぎる。

現代人が演じる原始人というシチュエーションに期待される、裸族的な描写、つまるところおっぱいも皆無なのだからタチが悪い。こんなにガードが固すぎる原始人など、どれだけ汚らしく装束を作ろうがそれだけで不自然だ。

アトランティス人(1万2千年前である意味)がマンモスや原始人を奴隷として文明を築いた、との、子供向けオカルト読み物に登場する様なシチュエーションを、そのまま映像化してしまった意欲は買いたいが、構成や表現がこれでは、王道と見せかけつつツボを外しまくったズッコケエンターテイメント大作『GODZILLA』と同様に、企画倒れでしかない。

プラダガールカミーラ・ベルの、お宝扱いになって当然の飛びぬけた美貌は相変わらずだが、出演作に恵まれないのも相変わらず。



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2008年04月26日

少林少女 39点(100点満点中)

永遠の少女
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『踊る大捜査線』の亀山千広&本広克行と『少林サッカー』のチャウ・シンチーが贈る、柴咲コウ主演のカンフーアクション映画。

などと大々的に謳ってはいるものの、亀山&本広と言えば『UDON』、柴咲は『どろろ』と、興行的にはともかく作品として評価に値しない駄作が近作にあり、本作の鑑賞にあたっても、期待より不安が上回るのは当然。しかもその予想は概して外れなかったのだから困る。

柴咲コウ自身は、もともと特段にスペックが高い女優というわけでもなく、『バトルロワイヤル』から『ガリレオ』まで、何故かこれまでに彼女が出演してきた諸作品がことごとく当たり続け、「柴咲コウが出ると当たる」とのジンクスが生まれてしまったが、作品自体の評価は先の『どろろ』など、当たり外れがある事は、映画を観ている者ならば周知しており、「柴咲だから」との期待など、元より抱く事もない。

そして今回も、柴咲自身は、己に与えられた役割を出来る範囲で演じきっていると評して問題ない。しかし、演じる以前の段階あるいは彼女の責任外の部分、すなわちストーリー構成や演出等に問題が多すぎて、作品の質を大いに下げているという結果もまた、『どろろ』と同様の状態にある。

こうした、無駄に祀り上げられながらにマトモな舞台が用意されておらず、それでいて前面に出ている彼女が悪いかの様な印象となってしまう、まるで罰ゲームのごとき所業を、何故テレビ業界は繰り返すのだろうか。(『どろろ』も本作も映画ながら主導はTV局だ)あるいは「柴咲なら当たる」ジンクスに当て込んで、適当に作っても客が入ると舐めきっているのだとしたら、あまりに悪質だ。

とにかく、何も考えずに左足で書いたとしか思えない破綻した脚本と、その脚本すら再現する気もない的外れな演出、作品における最も重要なところがまず出来ていないのだから、誰がどう演じようが、マトモなものが出来よう筈もない。

基本的な流れは、『少林サッカー』および『カンフーハッスル』など、チャウ・シンチー作品を敢えて踏襲した作りとなっているが、『少林サッカー』すなわちスポーツ+カンフーの前半部と、『カンフーハッスル』よろしくカンフーバトル主体となる後半部が、全く噛み合っていない事が、全体的な構成としての大問題にある。この、前半と後半の乖離に始まる散漫な構成は、『UDON』とも似通っている。

前半のラクロスを通じてチームプレイ、仲間の和を習得した事が、後半のバトルにあまり関係していないのでは、何のためのラクロスなのか。決着の赦しや許容(?)も、チームプレイとはまた別の観念だ。道場での過去の描写が無さすぎるので、急に子供時代に戻られても唐突すぎる。

そもそも、ラスボスである学長(仲村トオル)の行動指針が不明瞭、曖昧で行き当たりばったりな事が、本作の構成の問題点を如実に象徴している。前半で「力と美を売る、特にこれからは美だ」と主張した割には、その後の展開にて力(体育会系)の人材を斡旋する描写はあれど、美に関しては何もしておらず、ラクロス部の活動とも全く関係していない。

主人公を追い詰めて怒らせて戦うに至っては、大目的の様に語っていた「美を売る」事と何の関係があるのかサッパリわからない。冒頭より思わせぶりに語られていた主人公の"気"が、そもそも何の意味があるのか、どうしたいのか、どうすれば克服なのか、など一切合切が曖昧なため、進むべき方向が一向に見えない。

主人公を追い詰めるにしても、現在の彼女の中で大きいウエイトであろうラクロス部には何もしないのでは、陰謀やバトルとラクロス部が完全に乖離している。これをストーリー構成と呼べるのか。

とにかくストーリー、演出ともに、何をどうしたいのかわからない事の連続である。中華料理店で投げられたチャーハンを受け取るシチュエーションにしても、店員がそれを受け取ろうとする気配すら見せなかったのでは、店長は一体何の目的でチャーハンを投げたのかがまず不明だ。主人公の身体能力を見せるためだけのシチュエーション優先であるとバレバレで、その割には、スープをこぼしてしまう結果が、彼女の未熟さを表したいのか、単にギャグなのかさえ曖昧では、何も伝わらない。

主人公とミンミン(キティ・チャン)の関係にしても、上述の主人公の動きを見て興味を持ったまではともかく、急に親友の様に仲良くなるのは唐突すぎて、やはり決まった進行優先である事がバレバレだ。しかも最初にミンミンの太極拳を見せているのに、少林拳を教える場面では武術素人の様な身のこなしでは、キャラクター演出としてつながっていない。太極拳はその後一切登場せず、そもそも何故ラクロス部なのかも不明で、何故主人公を誘ったのかも不明。何もかもが適当すぎる。

主人公が暴走して部内で孤立する展開にしても、力任せの悪投球である事を指摘しそれを克服するのではなく、スタンドプレイを諌めてチームプレイの重要さを説くのでは、やっている事と言っている事がバラバラでつながっていない。

キャプテン(山崎真実)が、子供達とサッカーをしている主人公を見て、少林拳を教わろうとする展開も意味不明。その後も少林拳の練習とラクロスの練習が、どっちがどっちなのかよくわからない不明瞭なまま羅列され、一体どうしたいのかがわからない。ラクロスと少林拳の融合を描くのであれば、その指針を明らかにした構成にすべきだ。

竹林でラクロスのパス練習をする場面などは、上達する説得力もありロケーション的にも面白いものだし、少しずつ仲間が集まってきて、立ち稽古の型が揃っていく様や、ボロボロの道場をみんなで修復していくなど、個々のシチュエーションは、集団部活ものの王道として、普遍的な魅力的を感じさせるものが多々あるだけに、大元のストーリーが破綻している事が、何とも勿体なさすぎる。

本当なら、そうした王道的な展開を丁寧に重ねていくだけで、娯楽性も高く感動も出来る、面白い『少林ラクロス』を作る事も、充分に可能だった筈。いやむしろ、積極的にそちらの方向で作るべきだった。

ところが実際には、部活が盛り上がってきたと思ったら流れを急にブチ切り、目的の不明瞭なバトルに突入してしまい、肝心の部活試合をエンドロールにダイジェストで流してしまうのだから台無しだ。

これでは、山崎真実を始め柳沢なな満島ひかり蒲生麻由沢井美優乙黒えりなど、豪華に揃えた部員構成が、全てエキストラ同然のまま終わってしまう、無駄遣い極まりない有様だ。大体、山崎真実をアクション映画に出演させて、全くアクションをさせずに使い潰すとは何事だ(スポーツブラとウェアを通り越して乳首が立っている映像は必見だが)。

雑多なタレントを無駄にひな壇に並べ、見栄えばかりを整えて中身のないバラエティ番組と何も変わらない、あまりに低い志で映画を作っていると瞭然である。

死亡遊戯のパロディとして展開する後半のバトルも、吹抜けホールと階段を使った立体的なアクションや、暗闇でストロボ照明の中戦ったり、水面上に"気"で立ちながら戦う場面での、水飛沫を効果的に使ったバトル演出や、水中からの視点で特異性を強調する映像など、面白そうだと期待させられるシチュエーションを用意しつつも、雑多でテンポの悪い演出、編集によって、緩慢な印象に終わっている。

画面が暗い事も、本来上がるべきテンションを停滞させる要因だろう。思わせぶりに登場する鏡の間が、ただ通り抜けるだけなあたり、材料を詰め込みすぎて全てが中途半端になった、本作のありようを象徴している様だ。脚本の十川誠志の前作『SS』を観ても、彼にストーリーをまとめ上げる能力に欠けている事は明白。

正直なところ本作は主演が柴咲である必然は特になく、誰が主演だろうが、題材を丁寧に扱いさえすれば、ある程度の面白さは確実なだけの材料が揃っていた。だからこそ、この散々な食い散らかし様は、正気ではとても考えられないレベルであり、タチが悪いのだ。

作品の出来はどうでも金さえ稼げればそれでいい、との業界の悪癖により、せっかくの素材を腐らせてしまった悪例が、またひとつ誕生した。勿体ない。

祖父の写真が富野由悠季なのは笑うところなのか?



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2008年04月25日

4ヶ月、3週と2日 93点(100点満点中)

はい誕生、 はい死亡。
公式サイト

2007年カンヌ国際映画祭にてパルムドールを受賞したルーマニア映画。

1987年、チャウシェスク政権下のルーマニアを舞台としており、その事が作品背景にリアリティを与えてはいるが、扱われている題材そのものは普遍的なものであり、特に詳しくなくとも問題は無い。ルーマニア映画だから、題材に一番相応しい舞台として、当時のルーマニアが用意されているだけだ。

むしろ、本作がどういった内容なのかを知らずに臨む方が、タイトル(邦題は原題の直訳)の意味も含め、作品をより興味深く鑑賞出来るだろう。その意味ではズバリ内容を明かしている宣伝や紹介は、それだけで充分なネタバレと言える。カンヌパルムドールだけを宣伝文句に、肝心な事はボカしつつ興味を引きつけるといった方向を考えてほしかったところ。

舞台に必然は無い、とは言え、当時のルーマニアである事を表す、事物や演出におけるディテールは徹底されている。蛍光灯が切れかけたまま放置されているホテルの廊下や、ホテルカウンターにおける国民認識標を用いた種々のやりとりなど、当時の世相の有りようを象徴するかの様に、さりげなく且つ印象的に周到されているそれらが、背景としてのリアリティに大きく貢献している。

そうした事象から、主人公達の背景にいたるまで全て、殊更な説明を行わず、あるがままを見せていくだけで観客に認識、理解させるべく作られている事が、本作の大きな特徴だろう。とある一室における、二人の女性の行動描写から唐突に始まる本作、彼女らが何者で、何をしているのか、と、何の準備も無しに作品世界へと放り込まれた観客は、能動的に意味を見出していくより他無いのだ。

ここがどこなのか、そもそも誰が主人公なのか、といった根本的な情報をまず認識させるべく、部屋を出て廊下を歩き、シャワー室へと出入りする一人の女性の後ろ姿を、カットを割らず延々と追い続ける長回しの映像により、ここが女子寮で、フォローされている彼女が主人公なのだと気づかされるのだが、このショット、彼女の背後から彼女の視点を表すべく撮られていると見せかけ、それと兼ねて彼女自身をも客観的に観察しているのだ。この、主人公と観客との絶妙な距離感が見事に保たれている事が、本作の秀逸点の一つである。

これにより、基本的には主人公の視点、感情を共有させられつつも、時に一歩引いて主人公自身に対する客観的な感情を抱かされる事にもなり、人物像に多様性を持たせているのだ。

アクションを重視する長回しと、そうでない長回しの使い分けによる緩急、および各々の作り込みの見事さが、的確にエモーションを伝える役割を果たしている。

歩く主人公を正面から捉え、そのままカメラが回り込み背面を映す画角になると、バスが到着して乗り込む、までをワンカットで収めているシチュエーションが、朝と夜に反復される。この、極めて自然に決まるタイミングを成立させるための、段取りや設計の周到さはハンパではない。

主人公と医者との行為が始まる事で部屋を出た友人、この時点で、これまで主人公に拠っていた視点は友人側に切り替わる。これまで主人公に拠った視点から、自分勝手な友人の態度にイライラしていながら、この時から観客の心情は、所在無さげな友人のそれに切り替わり、同じく所在の無い不安定な気持ちに置かれてしまう事となる。部屋に戻ってトイレに籠るところから始まる長回しでは、水を流しながら事が終わるのを待っているまでは友人視点のままで、"終わった"主人公が入って来、友人が入れ替わりに出て行った瞬間から、即座に観客の心情は主人公に切り替わる。物理的な視点だけでなく、感覚面においても的確に誘導がなされている、出と入りを有意に用いた視点変換はあまりに秀逸。この後また友人が戻って来る、反復の手法を用いて、二人が受けた印象の微妙な差異を伝えているのも上手い。

見知った場所の見知った人間ばかりの中を歩き回る、朝の寮内にて主人公をフォローする長回しが前提にあり、絶対に見られてはいけないものを抱えた状態の主人公が、真っ暗な夜闇を歩く様をフォローし続けるショットが、前者と正対した反復手法として用いられている。その真逆のギャップが、主人公の不安を真に迫るものとし、観客をもサスペンスのまっただ中に叩き込む事に成功している。カメラと彼女との位置関係によって、恐怖や焦燥から一息つくまでの変化を表現しているのも見事。

一見は主人公を通じて、その周囲の人物達の愚かしさを描いている様に見せかけつつ、主人公自身の愚かしさをも観客に感じさせる、先述の距離感を用いた演出が効果的に表出するのが、彼氏の部屋内での痴話喧嘩だろう。ここで見せられる男の態度がだらしない事は当然として、主人公の側もまた、つまるところ自分勝手に逆ギレし、「わかってくれない」と言いつつ自分だって相手をわかろうとしていないのだ。もちろんそれどころではない状況ではあるが、それを万能のエクスキューズにしているのは、単なる甘えにすぎない。バカな友人に振り回されるのも、ダメな男と付き合っているのも、全て自分の選択であり、人のせいには出来ない筈なのだから。

人間の浅はかさ、身勝手さ、愚かしさ、現実を直視出来ない弱さ、開き直る強さ、結局自分の事しか考えておらず、利用、依存しあっているだけ。との真理を、男女の性差による違いまでも明確に捉え表現し、主人公にさえネガティブで汚い部分を表出させる事で、観客はリアルさを痛感させられ、人間のどうしようもなさに脱力させられてしまう事となる。ありがちな人間関係や人物像を、表層的に終わらせず内面まで抉り込んで描いてしまう、人間に対する観察や理解、解釈の鋭さが尋常でないからこそ、これだけのリアルさを映し出せるのだ。だから本作は優れていると評価されるのだ。

これより前はどうだったのか、この後どうなるのかは一切触れない、あくまでもミクロ視点の限定された時間に焦点を絞り、あらゆる場面において、今見えている、感じ取れるものだけで全ての情報としている本作、長回しの多用という上辺の一点のみを採り上げて作品、『人のセックスを笑うな』と比較する的外れな傾向も見られるが、作品のあり方としては、『宇宙戦争』『クローバーフィールド』などの側と実は同一であり、あらゆる局面、映像、会話、演出、が、ことごとく特定の視点、感情を誘導すべく狙いすまされ、それが果たされるべく作り込まれている、技量とセンスの確かさも、また同様。

ただし、"見ている"主人公の表情だけで意味の全てを表現しきれていたと思われる"そのもの"を、直接映して見せてしまった段だけは、観客の想像を軽視あるいは拒否した、蛇足な表現であった様にも思われる。見せる事で却ってリアリティが損なわれる事もある。この箇所はその実例だろう。

例によって、説明がない事に意味があると考えようともしない、お話の筋を追うだけの浅い鑑賞しか出来ない類いの人種には全く向かない作品だが、それは観る側の能力の問題であり、作品が優れている事に対し何ら影響するものではない。「わからない」とバカにされていると感じるのは、それは自身が「わからない」事を見下しているからに他ならない。

中盤の転機となる、医者と二人の行為だが、必死さや覚悟を持たせ、事の重大さを自覚させるには、あれくらいの荒療治はあって然るべきであり、あの場面では男に対し腹も立たず、彼女らにも同情出来ない様に作られているのが凄い。むしろ連続で二回行える男のタフさに着目すべきだ。終わった後に微妙に優しくなっているあたりも芸が細かい。

と、題材が何なのか触れずに書いてみたがどうか。



tsubuanco at 18:53|PermalinkComments(3)TrackBack(6)clip!映画 

2008年4月開始ドラマ特撮アニメ 第一印象

観ているのだけ五つ星評価で。詳細は面倒なので書かない。

★★★★★ 面白い
絶対彼氏〜完全無欠の恋人ロボット〜
ホカベン
週刊真木よう子
パズル
スミレ16歳!!
コードギアス 反逆のルルーシュR2
BLASSREITER

★★★★ 観ていてダレない
無理な恋愛
ラスト・フレンズ
キミ犯人じゃないよね?
マクロスF
二十面相の娘

★★★ 面白い部分もあるがダメな部分も気になる 
Around 40〜注文の多いオンナたち〜
ROOKIES
ごくせん
猟奇的な彼女
DRAMATIC-J 超能力シックス
東京ゴーストトリップ
図書館戦争
ドルアーガの塔 〜the Aegis of URUK〜

★★ 出演者を鑑賞する程度には…
7人の女弁護士
秘書のカガミ

★ なんだかなぁ…
おせん
トミカヒーロー レスキューフォース
ケータイ捜査官7


さて終了時にどう変わるか。
他に面白いのがあったら教えてください。

tsubuanco at 17:53|PermalinkComments(10)TrackBack(0)clip!テレビ・ラジオ 
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