2007年09月14日
ラザロ 73点(100点満点中)
合体前に16発でボーナス
公式サイト
ピンク映画の脚本を手がけながら、自ら監督としてインディーズ映画を製作し続けている井土紀州の最新作。
2005年に製作された『蒼ざめたる馬』、2006年の『複製の廃墟』および2007年に完成した『朝日のあたる家』の、三本の連作を総称するべく完成後に付けられたタイトルが、この『ラザロ』である。
ラザロという言葉が新約聖書に登場する貧民の名である事は、キリスト教圏の住民ならずとも知っている人は少なくないだろうが、それ以前、ユダヤ教やエジプト神話にも既に登場するエピソードでもある。すなわち、人間の根源から発生する普遍的な概念と言えるだろう。
格差に対する怒りと人情の不確かさの二つの要素が、大きな命題として本三部作を通して描かれており、それを象徴すべく創造されたシンボルキャラクター、マユミ(東美伽)は、川崎三枝子や篠原とおるの描く悪女ピカレスク劇画のヒロインを彷彿とさせるものだ。
独自の理論構築によって屍を踏み越えていく彼女を最初に登場させた『蒼ざめたる馬』は、だが物語の主人公は彼女ではなく、彼女と共に行動するミズキ(弓井茉那)なる平凡な女性を中心としてストーリーが描かれる事で、マユミを客観的な視点で観客にも伝え、その怪異性をより感じ取れる様に構成されている。
クレジットの順列からも明白だが、マユミではなくミズキが主人公だからこそ、マユミの"理屈"とミズキの"感情"との対立に勝利するのがミズキの側となる事は当然の帰結だ。
そして、ミズキの観点からマユミを"理解不能な存在"として描きながらも、ミズキの言動を最後まで通俗的なフィールドに留める事で、マユミの存在するフィールドとの乖離を提示し、単純な二元論へは持ち込まない、登場人物の少ない短編だからこそ必要である確固たる人物造形が、日常と乖離した物語世界に説得力を与えている。(もっとも、福岡で起こった看護婦四人による保険金殺人事件を着想としているので、何よりも現実の方が恐ろしいのかもしれないが)
金持ちを殺して金を奪う所業の正当性を主張するマユミだが、それを見て誰もが『罪と罰』のラスコリーニコフを想起する事は間違いない。のだが、本作では劇中の会話でマユミ自身にその名前を語らせてしまうのは直裁的すぎないか。おそらくはこの撮影時点で『ラザロ』という名前が浮かんでいたならば、それも語らせていただろうと想像すれば、後になって思いついた事は幸運と言えるだろう。
ストーリーやキャラクター造形はもとより、カメラワークやカット割りに対するコダワリが感じられる映像もまた、画質以外は自主映画として質の高いものではあるが、ファーストシーンに限って、ロケセットが狭すぎた事が原因なのか、三人の女性の各アップとそれに続く死体の俯瞰ショットの画角がタイトすぎ、まず最初にインパクトを与えて状況を伝えなければいけない筈が、三人と死体の位置関係が掴み辛いままストーリーが始まってしまうのが非常に勿体ない。
よりによって一番大切な一番最初が一番見辛いのは大問題だ。それ以降は最後まで、特に屋外の映像については計算とセンスの高さを感じさせられるものだっただけに尚更である。
この序編にあたる『蒼ざめたる馬』では、形の上での勝敗こそは見せられるものの、それが本当に正しい事であるかは決して明言されないまま終わりを告げる。これは続く二編でも同様であり、そうする事で却って、観客の心を作品世界に取り残したままとする狙いが感じられ、それにマンマと嵌められてしまうのが悔しい。
続編に当たる第二部『複製の廃墟』でもまた、マユミだけではなくその周囲の人物達の視点を交えていく事で、マユミのキャラクター性を表現していく手法がとられている事は前編と同様だが、今回はマユミ自身にも視点を振る事で表現の幅を広げ、スケールアップしていく事象ともシンクロさせている。
偽札で社会を混乱させるという今回の行いは、社会派特撮ヒーロー『レインボーマン』のM作戦編を想起させもするが(奇しくも同じ"第二部"だ)、彼女が述べる社会批判とその破壊と再生の論理とは裏腹に、実際のところ彼女の真意は自分を"殺した"資本主義社会に対する私怨による復讐でしかなく、他者の事など考えてもいないのだ、と、突きつける事で、単なる社会批判の左翼映画に終わらせない魅力を作品に与えているところが評価点だろう。
マユミを追う刑事も、マユミに協力する女性も、共に前編のミズキ同様に"感情"によってマユミに振り回される事となる、相似した構図を用いているのは狙いだろう。
ただ、この刑事役だが、他の出演者同様に素人演技なのは仕方ないとして、声があまりに汚いため、いい事を言っても声のせいでシラケてしまう事となり、作品のクオリティを一人で落としてしまっているのが残念だ。他にいなかったのか。
また、短時間でストーリーと主張をバランスよくまとめあげていた前編の倍近い尺を用いながら、内容的には前編を超えるものではなく、間延びしている感が強い。長尺を製作できる環境が与えられたとしても、完成度を優先させる勇気が欲しかった。
完結編となる第三部『朝日のあたる家』は、これまで時系列に沿って進行していた流れを遮り、『蒼ざめたる馬』より以前、悪女としてのマユミの起点を描くエピソードとなっている。
『ドラゴンクエスト』のロト三部作や『ヤング・スーパーマン』など、人気を博したキャラクターや作品世界の魅力の原点を後付けで構築する手法は定番であり、後付けだからこそ"後からわかる"意義を考慮して考えられているのだから、当然ながら時系列順ではなく発表順に観ていくのが正しいに決まっているのだ。(ドラクエを3→1→2の順にプレイし方がわかりやすいとか言ってるガキは熱出して休め)
楳図かずおが好んで用いる、姉妹の表の関係と裏に隠された心情とのギャップが悲劇を生む、救われない愛憎のドラマは、その発露の頂点となる取っ組み合いの映像、演技の迫力によって更に観客の心に入り込み、人情の脆さを強く訴えかけるものだ。
大資本による大型ショッピングセンターの進出によってシャッター通りと化した商店街を舞台とする事で格差社会を現実に即したかたちで端的に象徴し、それをもマユミを追いつめる一因として、愛憎劇と分離させずに巧みに絡めて一つの悲劇を生む事で、格差と人情という、これまで描かれてきたテーマそのものがマユミを追いつめて彼女を生まれ変わらせる、端緒でありながら当然の帰結とも言えるストーリー構成は秀逸であり、完結編にふさわしいものだ。
本編でマユミが迎える"結末"は、序編『蒼ざめたる馬』の主人公であったミズキの結末とは対称的であり、そのギャップは当然意図したものだろう。
だが、伝承では貧民ラザロは死して楽園へ召される一方で金持ちは地獄へ落とされるが、だからと言って、あの世に期待しているだけでは現実は何も変わりはしないのだというジレンマを、マユミというキャラクターを通じて"人間そのもの"を描く事を主目的としている本作において、終盤に唐突に登場するホラー映画的な表現は、これまでに築いてきた世界を壊すものと捉えられる畏れがあり、評価に困ってしまうところではある。
目の部分が黒くなった人間がいきなり車の後部座席に現われて運転席を襲うシチュエーションは『魔鬼雨』を意識したものと思われ、バックミラーを用いて観客の期待を煽る映像構成も上手い盛り上げではあるが、どうにもやりすぎてしまった感が強い。
前編と同じく、時間が長すぎると感じてしまう事もマイナス要因だろう。結局、まとまりの良かった序編の完成度が一番高くなってしまい、後の二編は蛇足ととられては台無しなのだから、もうひと頑張り欲しかった。
本作、頭でっかちな反体制左翼映画でもなく、自己憐憫に満ちたセンチメンタル左翼映画でもない、社会派でありつつ娯楽性を忘れない、悪女ピカレスクロマンの良作である。
その貢献として最も大きいのは、マユミを演じた"女優"、東美伽自身の持つ優れたセンスと存在感に尽きる。他の出演者と比較しても、演出や脚本ではなく女優個人によるものである事は明白である。素人同然でここまで演じ切った彼女も素晴らしいし、彼女を起用した作り手もまた慧眼だ。
三部あわせて三時間を超え、自主制作作品であり配給もつかない状態なため、鑑賞の機会そのものが貴重だろうが、可能であれば観ておいて損はない作品である。自主映画に興味があるなら是非。
公式サイト
ピンク映画の脚本を手がけながら、自ら監督としてインディーズ映画を製作し続けている井土紀州の最新作。
2005年に製作された『蒼ざめたる馬』、2006年の『複製の廃墟』および2007年に完成した『朝日のあたる家』の、三本の連作を総称するべく完成後に付けられたタイトルが、この『ラザロ』である。
ラザロという言葉が新約聖書に登場する貧民の名である事は、キリスト教圏の住民ならずとも知っている人は少なくないだろうが、それ以前、ユダヤ教やエジプト神話にも既に登場するエピソードでもある。すなわち、人間の根源から発生する普遍的な概念と言えるだろう。
格差に対する怒りと人情の不確かさの二つの要素が、大きな命題として本三部作を通して描かれており、それを象徴すべく創造されたシンボルキャラクター、マユミ(東美伽)は、川崎三枝子や篠原とおるの描く悪女ピカレスク劇画のヒロインを彷彿とさせるものだ。
独自の理論構築によって屍を踏み越えていく彼女を最初に登場させた『蒼ざめたる馬』は、だが物語の主人公は彼女ではなく、彼女と共に行動するミズキ(弓井茉那)なる平凡な女性を中心としてストーリーが描かれる事で、マユミを客観的な視点で観客にも伝え、その怪異性をより感じ取れる様に構成されている。
クレジットの順列からも明白だが、マユミではなくミズキが主人公だからこそ、マユミの"理屈"とミズキの"感情"との対立に勝利するのがミズキの側となる事は当然の帰結だ。
そして、ミズキの観点からマユミを"理解不能な存在"として描きながらも、ミズキの言動を最後まで通俗的なフィールドに留める事で、マユミの存在するフィールドとの乖離を提示し、単純な二元論へは持ち込まない、登場人物の少ない短編だからこそ必要である確固たる人物造形が、日常と乖離した物語世界に説得力を与えている。(もっとも、福岡で起こった看護婦四人による保険金殺人事件を着想としているので、何よりも現実の方が恐ろしいのかもしれないが)
金持ちを殺して金を奪う所業の正当性を主張するマユミだが、それを見て誰もが『罪と罰』のラスコリーニコフを想起する事は間違いない。のだが、本作では劇中の会話でマユミ自身にその名前を語らせてしまうのは直裁的すぎないか。おそらくはこの撮影時点で『ラザロ』という名前が浮かんでいたならば、それも語らせていただろうと想像すれば、後になって思いついた事は幸運と言えるだろう。
ストーリーやキャラクター造形はもとより、カメラワークやカット割りに対するコダワリが感じられる映像もまた、画質以外は自主映画として質の高いものではあるが、ファーストシーンに限って、ロケセットが狭すぎた事が原因なのか、三人の女性の各アップとそれに続く死体の俯瞰ショットの画角がタイトすぎ、まず最初にインパクトを与えて状況を伝えなければいけない筈が、三人と死体の位置関係が掴み辛いままストーリーが始まってしまうのが非常に勿体ない。
よりによって一番大切な一番最初が一番見辛いのは大問題だ。それ以降は最後まで、特に屋外の映像については計算とセンスの高さを感じさせられるものだっただけに尚更である。
この序編にあたる『蒼ざめたる馬』では、形の上での勝敗こそは見せられるものの、それが本当に正しい事であるかは決して明言されないまま終わりを告げる。これは続く二編でも同様であり、そうする事で却って、観客の心を作品世界に取り残したままとする狙いが感じられ、それにマンマと嵌められてしまうのが悔しい。
続編に当たる第二部『複製の廃墟』でもまた、マユミだけではなくその周囲の人物達の視点を交えていく事で、マユミのキャラクター性を表現していく手法がとられている事は前編と同様だが、今回はマユミ自身にも視点を振る事で表現の幅を広げ、スケールアップしていく事象ともシンクロさせている。
偽札で社会を混乱させるという今回の行いは、社会派特撮ヒーロー『レインボーマン』のM作戦編を想起させもするが(奇しくも同じ"第二部"だ)、彼女が述べる社会批判とその破壊と再生の論理とは裏腹に、実際のところ彼女の真意は自分を"殺した"資本主義社会に対する私怨による復讐でしかなく、他者の事など考えてもいないのだ、と、突きつける事で、単なる社会批判の左翼映画に終わらせない魅力を作品に与えているところが評価点だろう。
マユミを追う刑事も、マユミに協力する女性も、共に前編のミズキ同様に"感情"によってマユミに振り回される事となる、相似した構図を用いているのは狙いだろう。
ただ、この刑事役だが、他の出演者同様に素人演技なのは仕方ないとして、声があまりに汚いため、いい事を言っても声のせいでシラケてしまう事となり、作品のクオリティを一人で落としてしまっているのが残念だ。他にいなかったのか。
また、短時間でストーリーと主張をバランスよくまとめあげていた前編の倍近い尺を用いながら、内容的には前編を超えるものではなく、間延びしている感が強い。長尺を製作できる環境が与えられたとしても、完成度を優先させる勇気が欲しかった。
完結編となる第三部『朝日のあたる家』は、これまで時系列に沿って進行していた流れを遮り、『蒼ざめたる馬』より以前、悪女としてのマユミの起点を描くエピソードとなっている。
『ドラゴンクエスト』のロト三部作や『ヤング・スーパーマン』など、人気を博したキャラクターや作品世界の魅力の原点を後付けで構築する手法は定番であり、後付けだからこそ"後からわかる"意義を考慮して考えられているのだから、当然ながら時系列順ではなく発表順に観ていくのが正しいに決まっているのだ。(ドラクエを3→1→2の順にプレイし方がわかりやすいとか言ってるガキは熱出して休め)
楳図かずおが好んで用いる、姉妹の表の関係と裏に隠された心情とのギャップが悲劇を生む、救われない愛憎のドラマは、その発露の頂点となる取っ組み合いの映像、演技の迫力によって更に観客の心に入り込み、人情の脆さを強く訴えかけるものだ。
大資本による大型ショッピングセンターの進出によってシャッター通りと化した商店街を舞台とする事で格差社会を現実に即したかたちで端的に象徴し、それをもマユミを追いつめる一因として、愛憎劇と分離させずに巧みに絡めて一つの悲劇を生む事で、格差と人情という、これまで描かれてきたテーマそのものがマユミを追いつめて彼女を生まれ変わらせる、端緒でありながら当然の帰結とも言えるストーリー構成は秀逸であり、完結編にふさわしいものだ。
本編でマユミが迎える"結末"は、序編『蒼ざめたる馬』の主人公であったミズキの結末とは対称的であり、そのギャップは当然意図したものだろう。
だが、伝承では貧民ラザロは死して楽園へ召される一方で金持ちは地獄へ落とされるが、だからと言って、あの世に期待しているだけでは現実は何も変わりはしないのだというジレンマを、マユミというキャラクターを通じて"人間そのもの"を描く事を主目的としている本作において、終盤に唐突に登場するホラー映画的な表現は、これまでに築いてきた世界を壊すものと捉えられる畏れがあり、評価に困ってしまうところではある。
目の部分が黒くなった人間がいきなり車の後部座席に現われて運転席を襲うシチュエーションは『魔鬼雨』を意識したものと思われ、バックミラーを用いて観客の期待を煽る映像構成も上手い盛り上げではあるが、どうにもやりすぎてしまった感が強い。
前編と同じく、時間が長すぎると感じてしまう事もマイナス要因だろう。結局、まとまりの良かった序編の完成度が一番高くなってしまい、後の二編は蛇足ととられては台無しなのだから、もうひと頑張り欲しかった。
本作、頭でっかちな反体制左翼映画でもなく、自己憐憫に満ちたセンチメンタル左翼映画でもない、社会派でありつつ娯楽性を忘れない、悪女ピカレスクロマンの良作である。
その貢献として最も大きいのは、マユミを演じた"女優"、東美伽自身の持つ優れたセンスと存在感に尽きる。他の出演者と比較しても、演出や脚本ではなく女優個人によるものである事は明白である。素人同然でここまで演じ切った彼女も素晴らしいし、彼女を起用した作り手もまた慧眼だ。
三部あわせて三時間を超え、自主制作作品であり配給もつかない状態なため、鑑賞の機会そのものが貴重だろうが、可能であれば観ておいて損はない作品である。自主映画に興味があるなら是非。