2008年02月08日

レディ・チャタレー 18点(100点満点中)

ある日 森の中 クマさんに 出会った
公式サイト

発表された1928年当時としては露骨すぎる性表現が物議を醸し、日本でも戦後すぐに翻訳された同作が猥褻と表現の自由の境界を巡って裁判沙汰となり世間を騒がした、イギリスの作家D・H・ロレンスによる問題作『チャタレイ夫人の恋人』を、これまで何本かの映画化の際にベースとされたていた、取り沙汰される性表現よりむしろ当時のイギリスにおける階級差別を始めとする社会問題を揶揄、批判するカラーの濃かった第三稿ではなく、不倫恋愛の描写に主眼を置いていた第二稿をベースとして映画化。

よって当然ながら当時の社会情勢を背景としたストーリー展開はダイジェスト的にサラリと流され、チャタレー夫人ことコンスタンスと森番パーキン(この名前も第二稿ならでは)との不倫関係の顛末が描かれていくに終始しているのだが、これがよろしくない。

本原作が騒がれたのはあくまでも当時だからであって、現在ではこの程度のお話は特段に珍しくないどころか昼間からテレビで放送していたり少女漫画でも扱われており、むしろ生ヌルいくらいなのだから、それをそのまま今の時代に映画化するのではあまりに工夫がない

そして恋愛やセックスを丁寧に描くにしても、まず基盤となる両者の心情が表層的しかも途切れ途切れにしか描かれておらず、まるで観る側が原作や旧映画を知っている事前提で作られているとしか思えない心情描写の浅さ、内容の薄さには畏れ入る。テロップで「〜でした」と説明するのみで省略など、ひとつの独立した作品として有り得る状況ではない。これでは原作や旧作で充分だ。

セックス描写も特段にエロティックなわけでもエモーショナルなわけでもなく、あるいは性交の生々しさをリアルに描くでも、美しい愛として描くわけでもない、極めて陳腐で工夫のない描写では、何の魅力があるというのか。

雨の中を全裸で走り回ったり、裸体に花を飾ったりといった場面描写も、まるでセックスを覚えたての10代の少年少女による恋愛ごっこのごとき痛々しさで、それを中年にしか見えない醜い男女が演じているのだから、初々しさどころか気持ち悪いだけで、オツムの弱い人達の話なのかとおもわされる程。また禁忌を侵している事に作品意義がありながらその意義が作品内で全く表現されておらず、作り手の意図とは別の浅はかさしか感じられない始末だ。

あらゆる意味で禁忌を侵しているその行為が、当時のイギリス社会に対しての、労働者階級出身であった原作者が皮肉として込めたメタファーであったからこそ、エロ描写に意味や意義が発生して単なるエロ小説とは一線を画する存在価値があったのだから、それを蔑ろにして不細工な中年男女が絡み合ってるだけでは、単に出来の悪いエロ映画としかならないのは自明だ。

やはり第三稿こそが完成稿であると逆説的に気づかされる意味はあるかもしれないが、それは作り手の狙いでは当然ないだろう。

夫が自動車椅子で坂道を登ろうとする場面など、そうした批判、揶揄的な表現が残されている部分もあるものの、それがその場限りのブツ切り展開ばかりで相互に重なりを見せず、やはりすぐに不倫セックスに話が戻ってしまう上に、場面場面が無駄に冗長なため余計にブツ切り感が強くなっている、構成もとても褒められたものではない。

何より、当時のイギリス社会が舞台となっている事に最大の意義がある作品を、何を思ったか全編フランス語で製作してしまっては、単に言語の違和感だけではなく原作テーマを理解していないのではとしか思えない。つまるところ大前提からつまずいているのだ。

と、あらためて今の時代にあたらしく作った意義が全く感じられない、原作や旧作に全く及ばない企画倒れに尽きた本作、洋ブス熟女専や薄ハゲ中年小デブ男専がエロ目的で観ても、あまりの陳腐さにガッカリするだろう。自己責任で。


tsubuanco at 22:20│Comments(0)TrackBack(0)clip!映画 

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