2008年05月09日

軍鶏 -Shamo- 59点(100点満点中)

ちーちよー はーはよー 妹よー
公式サイト

実写ドラマ版『スケバン刑事』などの脚本で知られる橋本以蔵原作、たなか亜希夫作画のバイオレンス劇画『軍鶏』を、日本と香港の合作として、『ドッグ・バイト・ドッグ』のソイ・チェン監督により実写映画化。

原作は、『カラテ地獄変』など70年代の梶原一騎原作アダルト向けバイオレンス劇画を大きく意識した上で、1998年の連載開始当時に、社会問題として話題にあがり始めた"キレる10代"を着想とした、徹底したアンチヒーローである主人公像を追求する作品として、メインストリームの格闘技漫画とは異なるカラーが興味深い。

原作の序盤に登場する「人間の性は"悪"だ」の言葉は、『カラテ地獄変』のやはり序盤、少年院エピソードにて主人公が痛感し連呼される「人間の性、悪なり!」のオマージュである。房内の孤独な時間を全て空手の修練に費やし、己を凶器と化していく展開も同様に『カラテ地獄変』から(大元は『あしたのジョー』だが)。今回の映画版では、房の壁を正拳突きで殴り続ける、原作にはないシチュエーションが用いられているが、これもネタ元は『カラテ地獄変』だ。

性欲が溜まったら躊躇なく通りすがりの女をレイプし、場合によっては殺人も厭わず、勝つためなら手段を選ばない、アンチストイックな主人公像は、『カラテ地獄変』の牙直人よりはむしろ、同じく梶原一騎原作『人間兇器』の主人公・美影義人に通ずるものだ(だけに今回の映画にレイプシーンが無かったのは問題)。また、気弱で虚弱な優等生だった筈が、極限状況における自己防衛として、野獣の空手を磨いていく、との転機と変遷は、やはり梶原作品『虹をよぶ拳』の主人公・春日牧彦を彷彿とさせる。

主人公・成嶋亮の空手の師となる黒川健児が、その名前と憂国の武闘派右翼人との設定から、日本フルコンタクト空手および日本キックボクシング界の黒幕的人物であった黒崎健時をモデルとしている事は瞭然として、それだけでなく、黒川の正拳突きを正面から捉えたコマが、大山倍達が正拳突きの拳圧でロウソクの炎を消す、有名なスチールと同じ構図であるところから、大山倍達をも併せてモチーフとしている事もまた明らかだ。この非情なエゴイスト且つ求道者である人物像は、『カラテ地獄変』における師匠・大東徹源に近いものがある。

など、原作者橋本以蔵の、梶原作品への揺るぎないリスペクトが見え隠れする本原作ながら、掲載誌を渡り歩いてまで続く長編ストーリーが、終わるべき時に終われない人気作の末期症状に陥り、結局中断したまま放置状態というあたりも、『新カラテ地獄変』末期の状態と、悪い部分で似てしまっているのは困るが。

話を映画に戻して、本作は中華人主演の香港主導映画でありながら、原作者自身が脚本を手がけている事が、大きなポイントと言える。この種の漫画の実写化において、「原作と違う」なる批判は、その正当性はさておき避けて通れないものだが、何せ作者自らが作った"映画版としての"ストーリーなのだから、そんな批判が出せよう筈もない。そして実際、ストーリーを知っている原作読者にとっても、いやむしろ読者の方があっと驚く仕掛けが用意されているのだから、原作者によるアナザーストーリーとして受け入れなければ損だ。

だが、原作コミックスの1巻から13巻までの、少年院編およびリーサルファイト編にて構成される映画版は、長いストーリーを二時間弱にまとめるにおいて、かなりの無理が生じている事も、また残念ながら明かである。原作者自身だからこそ、あれも必要、これも必要と、削る勇気を出せなかったのであろうと偲ばれはするが。

ただし、省略による情報量の不足だけではなく、ストーリー展開の順逆構成に乱れや不条理があり、ために不理解を生じてしまう様な構成が見受けられる、いくつかの局面においては、これは単純に失敗と断ぜざるを得ない。その事と、先述の取捨選択のアンバランスが相乗して、全体的なストーリーの断片化という結果につながっている。

例えば少年院での展開、まず、黒川という男の作中における位置づけが、かなり後になるまで曖昧なまま話だけが先に進んでしまう。原作とは大きく異なる風貌や立ち居振る舞いは、『あしたのジョー』の力石徹を意識してると明白ながら、ここは少年院なのにどう見てもオッサンである。なのに、「空手講師」とのみ紹介されて、受刑者なのか違うのかすらよくわからず、と思ったら主人公の独房の隣に収監されているらしき描写が始まり、ますますよくわからなくなってくる。原作では「別の刑務所の囚人だが空手講師として少年院に出向させられている」と説明が最初にあるのに、これを省いた意味がわからない。(関係ないが同役のフランシス・ンが竹原慎二に見えて仕方なかった)

少年院内での主人公(ショーン・ユー)の扱いについて、"空手授業"内での組手で相手を倒しただけなのに、何故か次のシーンではいきなり拘束衣でガチガチに固められ独房入りを喰らっているのでは、筋が通らずよくわからない。オマケに上達後に、他の院生との私闘で全員ブチ倒した後には何もなく、あまつさえ出所時とはいえ院長を殴り倒してもやはりお咎め無しでは意味が通らない。原作では、組手で相手を倒しても別にどうともならず、私闘で集団を倒した事で拘束衣独房を喰らいイメトレをし、出所時に院長に殴りかかるが拳圧でメガネを割るのみで寸止めに終わらせビビらせるだけ、と、しっかり筋が通っているのを、何故わからなくなる方へと変えてしまったのか、疑問だ。

原作の大沢秀治を元としていると思しき、左目が義眼のイケメン空手家(ディラン・クォ)の存在にしても、このあたりの展開は原作にはないオリジナルストーリーながら、「俺は格闘技界に顔が利くから、お前をリーサルファイトに出させてやれる」と言った直後に、リーサルファイト運営者の望月(ブルース・リャン)に道場を潰されているのでは、やはり筋が通らない。また、このイケメンと主人公の戦いに至る段取りも問題。自分に好意的に接してくれた相手であっても、自分の目的のためなら再起不能にまで叩き潰す、主人公の屈折した非情な人格を表現したい事と、望月という熟年親父の、その見た目に反する空手家としての強さを披露したい事の、二つの作劇上の目的が混濁して、先に望月とイケメンが戦って望月が圧勝した後に、主人公がイケメンと戦って倒したのでは、イケメンの強さも望月の強さも、主人公の現時点での強さも、全てがよくわからない中途半端な印象にしかならない。ここでも、展開構成の順逆不備による不整脈が感じられてしまう。

黒川の病気や望月の衰えを示唆する様な描写といった、本筋のストーリーとあまり関係なく唐突に挿入される思わせぶり要素もまた、ストーリーの断片化、不合理の要因となっている。脚本段階からそうだったのか、撮影現場や編集でそうなったのかは不明だが、ここまでストーリーが雑すぎては、原作未読でも原作のダイジェストである印象を抱かされてしまうだろう。実際には原作には無いエピソード部でさえ、そう思わされてしまうのだから。

試合会場にて時々その姿をインサートされる、黒幕らしき女性が何者なのかと、映画だけで理解した人など皆無だろう(原作におけるテレビプロデューサーなのだろうが)。だったらそんな役自体をカットしてもよかった筈なのに、そうせずに中途半端に使うから、また断片化するのだ。ドーピング場面はあるが副作用に苦しむ描写は特に無いなど、中途半端な食い散らかしが多すぎる。

だが、そうした乱雑なストーリー展開に対する不満を大いに覆してくれるのが、原作未読既読を問わず観客全員を驚かせてくれる、終盤に判明する映画版オリジナルの"真相"のインパクトである。

この展開によって明らかになる、"事件"から現在に至るまでの全ての主人公の行動基盤は、原作とは完全に正対するものであり、読者によってはそれだけで拒否反応を示す畏れもある。仮にこれが原作者による脚本でなければ、読者からの評価は否定がほぼ全部を占めていたであろう事は、想像に難くない。

しかしながら本作は原作者自身による「ifストーリー」なのだ、と、終盤になって突きつけられるのだから、その驚きと衝撃を素直に受け入れ、全ての意味がひっくり返る快感を味わった方が、何よりもお得だ。メディアから与えられた断片的な情報だけで他人を断罪しスケープゴートとしてストレスを発散した挙句に、それを社会正義だと思い込む事で自らを正当化する、世にはびこる"聖戦士"達に対する痛烈なアイロニーが、この展開には込められているのだろう。そして何より、一本の映画としての極めて据わりのいいオチであり秀逸。

原作における藤吉のキャラ設定を改変した、少年院時代からの腐れ縁であり、主人公の強さに憧れサポートしている、との、マンモス西のごときキャラクターも、梶原一騎リスペクトが感じられる部分だ。

映像的にも、ラストの試合前にて、左目を赤く染めた主人公が舌を出す、憎々しいにも程があるアップのスローモーションや、殴られる側の姿のみを映し、そのモーションだけで殴られている様の表現とし、そのままカットを切り換えずに回り込んで殴る側も可視化する、といった、漫画、アニメ的な映像表現が要所要所で印象的に決まり、気分を高揚させてくれ楽しめる。原作の"落ちたら死ぬぞトレーニング"を街中で再現したショットなどは、高所恐怖症ならば失禁モノだ。

プロローグの"朝食"シーンにおいても、最初は室内での映像にて、普通の食事風景として見せておいて、屋外から窓越しに食卓を見る、俯瞰のロングショットにて、座っている人物達の座り方だけで異変を端的に表現するなど、ドラマパートにおける映像構築は秀逸。

と、大いに評価出来る部分が少なからずあるだけに、ストーリー展開の雑さによるダイジェスト感が残念。それにしても石橋凌は、どうしてこうも外国映画に出たがるのか。

蛇足:
極めて私見だが、"親殺し"なる現象は、言ってみれば親の自殺に等しいものであって、他の殺人と比べて殊更に非難される様なものではない、と思うのだが。むしろ無関係な他人を殺す奴の方が迷惑だ。



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JUGEMテーマ:映画 5月12日(月)◆803日目◆ さーむーいぃー。 セーター着ててもちょい寒い。 仕事はごく普通に。 午後6時前に終わる。 虎ノ門から銀座線に乗り渋谷へ。 「イメージ・フォーラム」って実はそんなに駅から遠くなかったりするけど、 宮...

この記事へのコメント

1. Posted by 虎翔   2008年05月11日 17:06
黒川役の人が竹原慎二に見えて仕方ありませんでした。
2. Posted by <二:彡   2008年05月13日 18:38
>"親殺し"なる現象は、言ってみれば親の自殺に等しいものであって、
>他の殺人と比べて殊更に非難される様なものではない、と思うのだが。
>むしろ無関係な他人を殺す奴の方が迷惑だ。

自分を扶養し育ててくれた、本来敬うべき親が
まるで「無関係なアカの他人」と同価値ででもあるかのような物言いですね。

そもそも親(親、という関係性を除外して他者と言い換えてもいいですが)を
殺害するという行為が、どうしてその人間の自殺に等しいものになるのでしょうか。
敷衍してくださると助かります。
3. Posted by つぶあんこ   2008年05月16日 14:39
同価値とは書いてませんよね。むしろ逆の事を書いてます。また、「我が子が他人様を殺すくらいなら、自分が殺された方がまだマシだ」と考える親も、少なからずいるかと。

もう一つ読み違えておられる様ですが、自殺とは殺した本人(子)にとってではなく殺された側(親)にとってです。

親が子供に殺されるという現象は、「親を殺す人間」に子供を育ててしまった親自身にも責任がありますから、ある意味では時間をかけた自殺みたいなものだという事です。
4. Posted by ケータロス   2008年06月08日 10:45
この作品に関しては、映像的な部分などに不満はあまり感じられなかったんですが…。
ただ、ストーリー的な部分での不満が、多いに残りました。見てる分だと、繋がりづらいんですよ。
無性にソコは残念に思えました。

そうそう、黒川のモデルの黒崎先生には実際に対面した事があるんですが、めっちゃ怖いです(笑)
その怖さを、出来れば表現して欲しかったと思いますが、ソレは贅沢なんでしょうな…。
5. Posted by つぶあんこ   2008年06月11日 17:38
黒崎健時と梶原兄弟は、見た目ヤクザですからね。
特に黒崎健時はリアルで修羅場を踏んでる分、マジ恐ですよね。

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