2008年05月30日
かつて、ノルマンディーで 11点(100点満点中)
「ブタ殺し」は自主規制対象
公式サイト
1835年にフランス・ノルマンディの農村で起こった、長男が自分の家族を殺害した猟奇事件を、1973年に作家ミッシェル・フーコーがノンフィクション本『ピエール・リヴィエールの犯罪』として出版。それを映画監督ルネ・アリオが、実際に事件が起こった場所をロケ地に、その地の住人を出演者に製作した映画『私ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』の撮影現場に助監督として参加していた、現在はドキュメンタリー作家として知られるニコラ・フィリベールによる、現在の映画出演者への回顧インタビューを中心とした、ドキュメント映画。
映画はいきなり、ブタの出産シーンから始まる。母ブタの性器からひり出される新生児を真っ向から捉えた映像は、グロテスクだが"生命"に迫る視点に引き込まれる。仮死状態となった新生児ブタを、何とかして蘇生させようと懸命な作業を、荒々しく且つ繊細な、生々しいアップで見せられる長回しも、目が離せない。
続いて、仔ブタの牙をニッパーで切除する痛々しい作業と、我先にと母ブタの乳首に吸い付く授乳シーンの、双方から与えられる感情のギャップ、生命に対する矛盾とも言える光景に、大いに期待させられる事となる。
この豚が生まれてから屠殺解体されるまでの行程と、リンゴが収穫されて加工される行程を、"映画"にまつわる本筋の合間に挿入して構成されているが、この"農業"パート、どう見ても『いのちの食べかた』を意識したものであり、ドキュメント作家としての、他人が作った傑作に対する自意識が感じられて興味深い。
限りなくシステマチックに効率化された様を見せる『いのちの』と、昔ながらの手作業をメインとし、生々しさ、痛々しさ、汚なさを主眼に、"生命"の"始まりと終わり"を見せつける本作の手法は、全く正対するものであり、これは過去の事件と過去の映画を題材とした本作の、対象に対するアプローチが如実に投影されたものだ。
だがしかし、本題の"映画"の話になると一転、興味が一向に惹かれないのだから困る。
何よりも、お題となっている映画『私ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』は、最近になってイベントで一回だけ上映された以外、日本で公開もソフト化もされていない、未知の作品なのだ。
本作の有りようは、忘れられていく過去に対する想いを、あらためて再認識させる事も、狙いの一つとなっている。だが、忘れるどころか最初から知りもしないのだから、その狙いを捉える事は困難である。
これでは、映画本編ではなく、オマケについてくる特典映像だけを先に見せられている状態でしかない。そもそも映画本編を観ない事には、特典映像に興味が持てるわけもない。いや、本編は一体どんな映画なんだろうか、観てみたい、との興味を得る事は可能だ。だがそれだけのために、二時間近い時間を、金を払ってまで使い潰す意義は、本作には全くない。というかオマケのみで金を取るな。
知らない映画の出演者の同窓会の、画面の中で内輪で盛り上がっている様を客観的に眺めさせられて、一体何が楽しいというのか。まるで知らない人ばかりが列席している、赤の他人の結婚式ビデオでも見させられているかのごとき、拷問でしかない。
当時の主演俳優の消息を追う、とのストーリーが中盤から登場するが、そもそも興味を持ててもいないのに、更にいない人を探そうと言われたところで、全く持ってどうでもよすぎ、見つかったところで何の感慨もわかないのは当然だ。映画出演をきっかけに神学に興味を持った、などといわれても、そこまでの魅力が映画にあると、観ていないからわからず、どうにも反応出来るものではない。
現在、全国のミニシアターを巡回中のフィリベール特集の目玉として、本作を上映するからには、配給や劇場は責任を持って、お題の映画『私ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』をセットで上映するのが、誠実な商売と言うものだろう。一体何を考えて、こんな不完全な興行を企画したのか。
おそらくは"変わりゆくもの"の表現の一つとして見せられる、核廃棄物処理場建設の反対運動の様にしても、では他の場所に立てられるのは構わないのか。自分達さえ安心出来れば、他の土地の人達が嫌な気になるのは構わないのか。そもそもこんな施設自体が不用になる様な、ライフスタイルや国家・地方行政のあり方を積極的に変えようとは思わないのか。などと、ただ「嫌だ、嫌だ」と対案のない拒否ばかりを繰り返す幼稚なエゴイズムしか感じられない。映画同窓会と同じく、内向きで後ろ向きな内輪受けにウンザリするのみ。
同じく"消えゆくもの"として用意されている、映画フィルムライブラリーにおいても、「危機に陥っている」と言うから廃棄でもされるのかと思いきや、デジタルアーカイブ化されて映像は残るのだから、それでいいではないか。大切なのはハードではなくソフトだろう。これもまた、自分の価値観に固執する、老人のワガママな執着でしかなく、内向きで後ろ向きな内輪受けだ。
父への思いをも主題の一つとし、ラストカットが父親が映っているフィルムとなった時点で、映画の構造としては奇麗に一つにまとまってはいるが、結局のところ、監督個人の独りよがりなコダワリによる、内向きで後ろ向きな内輪受けでしかないと確定されたのだから、マスターベーション極まれりである。
ただし、事件の犯人、ピエールが遺したとされる手記の実物、ページ内にギッシリと詰め込まれた文字の羅列からは、本物のキチガイが放つ狂気が感じられ興味深い。その手記とブタの生涯だけは、ドキュメントならではの見どころとして、辛うじて成立していると言える。だがそれだけを頼りに、他の退屈な時間を耐えるのは、あまりに辛すぎるというもの。
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1835年にフランス・ノルマンディの農村で起こった、長男が自分の家族を殺害した猟奇事件を、1973年に作家ミッシェル・フーコーがノンフィクション本『ピエール・リヴィエールの犯罪』として出版。それを映画監督ルネ・アリオが、実際に事件が起こった場所をロケ地に、その地の住人を出演者に製作した映画『私ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』の撮影現場に助監督として参加していた、現在はドキュメンタリー作家として知られるニコラ・フィリベールによる、現在の映画出演者への回顧インタビューを中心とした、ドキュメント映画。
映画はいきなり、ブタの出産シーンから始まる。母ブタの性器からひり出される新生児を真っ向から捉えた映像は、グロテスクだが"生命"に迫る視点に引き込まれる。仮死状態となった新生児ブタを、何とかして蘇生させようと懸命な作業を、荒々しく且つ繊細な、生々しいアップで見せられる長回しも、目が離せない。
続いて、仔ブタの牙をニッパーで切除する痛々しい作業と、我先にと母ブタの乳首に吸い付く授乳シーンの、双方から与えられる感情のギャップ、生命に対する矛盾とも言える光景に、大いに期待させられる事となる。
この豚が生まれてから屠殺解体されるまでの行程と、リンゴが収穫されて加工される行程を、"映画"にまつわる本筋の合間に挿入して構成されているが、この"農業"パート、どう見ても『いのちの食べかた』を意識したものであり、ドキュメント作家としての、他人が作った傑作に対する自意識が感じられて興味深い。
限りなくシステマチックに効率化された様を見せる『いのちの』と、昔ながらの手作業をメインとし、生々しさ、痛々しさ、汚なさを主眼に、"生命"の"始まりと終わり"を見せつける本作の手法は、全く正対するものであり、これは過去の事件と過去の映画を題材とした本作の、対象に対するアプローチが如実に投影されたものだ。
だがしかし、本題の"映画"の話になると一転、興味が一向に惹かれないのだから困る。
何よりも、お題となっている映画『私ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』は、最近になってイベントで一回だけ上映された以外、日本で公開もソフト化もされていない、未知の作品なのだ。
本作の有りようは、忘れられていく過去に対する想いを、あらためて再認識させる事も、狙いの一つとなっている。だが、忘れるどころか最初から知りもしないのだから、その狙いを捉える事は困難である。
これでは、映画本編ではなく、オマケについてくる特典映像だけを先に見せられている状態でしかない。そもそも映画本編を観ない事には、特典映像に興味が持てるわけもない。いや、本編は一体どんな映画なんだろうか、観てみたい、との興味を得る事は可能だ。だがそれだけのために、二時間近い時間を、金を払ってまで使い潰す意義は、本作には全くない。というかオマケのみで金を取るな。
知らない映画の出演者の同窓会の、画面の中で内輪で盛り上がっている様を客観的に眺めさせられて、一体何が楽しいというのか。まるで知らない人ばかりが列席している、赤の他人の結婚式ビデオでも見させられているかのごとき、拷問でしかない。
当時の主演俳優の消息を追う、とのストーリーが中盤から登場するが、そもそも興味を持ててもいないのに、更にいない人を探そうと言われたところで、全く持ってどうでもよすぎ、見つかったところで何の感慨もわかないのは当然だ。映画出演をきっかけに神学に興味を持った、などといわれても、そこまでの魅力が映画にあると、観ていないからわからず、どうにも反応出来るものではない。
現在、全国のミニシアターを巡回中のフィリベール特集の目玉として、本作を上映するからには、配給や劇場は責任を持って、お題の映画『私ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』をセットで上映するのが、誠実な商売と言うものだろう。一体何を考えて、こんな不完全な興行を企画したのか。
おそらくは"変わりゆくもの"の表現の一つとして見せられる、核廃棄物処理場建設の反対運動の様にしても、では他の場所に立てられるのは構わないのか。自分達さえ安心出来れば、他の土地の人達が嫌な気になるのは構わないのか。そもそもこんな施設自体が不用になる様な、ライフスタイルや国家・地方行政のあり方を積極的に変えようとは思わないのか。などと、ただ「嫌だ、嫌だ」と対案のない拒否ばかりを繰り返す幼稚なエゴイズムしか感じられない。映画同窓会と同じく、内向きで後ろ向きな内輪受けにウンザリするのみ。
同じく"消えゆくもの"として用意されている、映画フィルムライブラリーにおいても、「危機に陥っている」と言うから廃棄でもされるのかと思いきや、デジタルアーカイブ化されて映像は残るのだから、それでいいではないか。大切なのはハードではなくソフトだろう。これもまた、自分の価値観に固執する、老人のワガママな執着でしかなく、内向きで後ろ向きな内輪受けだ。
父への思いをも主題の一つとし、ラストカットが父親が映っているフィルムとなった時点で、映画の構造としては奇麗に一つにまとまってはいるが、結局のところ、監督個人の独りよがりなコダワリによる、内向きで後ろ向きな内輪受けでしかないと確定されたのだから、マスターベーション極まれりである。
ただし、事件の犯人、ピエールが遺したとされる手記の実物、ページ内にギッシリと詰め込まれた文字の羅列からは、本物のキチガイが放つ狂気が感じられ興味深い。その手記とブタの生涯だけは、ドキュメントならではの見どころとして、辛うじて成立していると言える。だがそれだけを頼りに、他の退屈な時間を耐えるのは、あまりに辛すぎるというもの。
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この記事へのコメント
1. Posted by へちま 2008年05月30日 18:13
これ観ようと思って行けなかったんです。いつの日か『私ピエール・リヴィエール…』が上映されるまで完全スルーでOKですね、助かりました。
2. Posted by つぶあんこ 2008年06月04日 17:33
上映されるんですかね(笑)