2008年06月03日

JOHNEN 定の愛 36点(100点満点中)

あたしぃぃぃの 赤ちゃぁぁぁん!!
公式サイト

1936年に起こったいわゆる阿部定事件を題材とした、杉本彩主演映画。

女性が男性を殺し性器を切除した、猟奇事件として知られる阿部定事件だけに、現在までに何本か製作された、同事件を扱った映画においても、エロ、セックスの描写が興味の一つとなるのは必定である。というか何だかんだ言ってエロいシーンが見たい!というのが、作り手の思惑は別として、大方の観客の希望するところだろう。

既に『花と蛇』二作にて、逃げのないセックス演技を披露した杉本彩だけに、その点で不安を抱く者がいるわけもなく、むしろ期待して臨んだ観客の方が多かったとは、想像に難くない。

のだが、セックスシーンそのものは、実は大して過激なわけでもない。いやもちろん、ポルノ女優やAV女優とは違い、杉本彩が演じているとの点で、観客の興味を惹きつけるアドバンテージが備わっている事は確かだ。ファンならずとも、彼女の正統派としての全盛期を知る者にとっては、一様に感慨深いものがある筈だ。

年齢を重ねて垂れてきたとはいえ、その事で熟女としてのエロスはむしろ増大している巨乳と、その存在を引き立たせるべく、締まるところはきっちり引き締められた体躯は、自らのエロスを評価される事に誇りを持つ彼女の、真摯な生き様が体現されており素晴らしい。

そして今回、単にセックスだけではなく、男性器に対する執着や偏愛が作品テーマに直結するだけに、彼女が男性器を愛撫する描写に対する、演出、演技双方のコダワリが強く表現されているのも、見どころの一つと言える。

つまるところフェラシーンだが、それを消し無しで見せるにあたり、"光る張り型"が用いられている。これはAVや着エロIV等でも用いられている手法であり、やはり特段の珍しさというわけではない。だが、見せられるのは"杉本彩のフェラ作法"なのだから、スクリーンいっぱいにクローズアップされた光るチンポに絡みつく舌の動きが、特段の見どころとして機能しないわけがない。

また、この手法を単に消しの回避として用いているだけではなく、ヒロイン定が、"ただ一人の相手"である石田吉蔵のチンポをフェラする局面にのみ用いている、との点が、表現としてのポイントとなる。他の女性が石田のチンポを咥える局面では、この手法は用いられていないのだ。すなわち光り輝く表現こそが、定の視点による美化、お宝化であると、観客は気づかされる事となる。

定にとっての吉蔵のチンポは特別視しつつ、では定という女性が殊更に特別なもの、と描いているわけでもない、噛み合ない視点が興味深い。これはあるいは、女性を描きながらも、あくまでも男性の視点にて作られている事の限界なのかもしれない。だが逆にその事が、一人の男性に固執した女のサガと、そうはいかない男性のサガが投影されていると見る事も可能だ。

あるいは、胸は見せるが尻を強調して撮る事が許されていなさそうな、杉本彩に対する不満を、他の出演女優でまかなおうとの意図なのか。海岸シーンでオシッコをする女性モデルを、尻の曲線を入念に捉えるべくして撮られたショットは、彼女のベストショットと言っていい出来であり、「いい尻をしている」との台詞が引き出される必然的な説得力を与えている。ハシゴを昇るメイドの尻を、下にいる男の視点で捉えたショットもまた、尻の曲線の魅力を強調する、秀逸なエロス美として完成したものだ。

直接的なセックスよりむしろ、そういったフェティッシュな視点、プレイの方に力が割かれている様にも見受けられるのは、映画としては正解だろう。そうしたエロ関係の描写、展開が、冒頭からラストまで、観客が眠くなった頃を見計らって随所に挿入されているため、そちら方面での楽しみは、それなりに得る事は可能だ。

ただし、単にエロいものが見たいだけなら、わざわざ映画館まで足を運ぶ必要もない。自宅でAVを見ている方が、より実用的な楽しみ方が出来るのだから、映画として面白く仕上がっているかどうかこそが、重要となるのは言うまでもない。

過去に作られた阿部定映画とは異なり、実際の事件だけでなく現代の事象や事件当時の他の事象など、様々な時間と空間と人物が混濁、混淆して、ついには現実と虚構の境界すら曖昧となって、だが最終的には一つの結論へと結実する、とのスタイルにて作られているのが、本作の構造的な特色である。

だがこれは、三池崇監督による、人斬り以蔵こと岡田以蔵を扱った映画『IZO』と全く同じスタイルである事に、映画好きならば容易に気づくだろう。何せ脚本家が同じだけでなく、主演男優までもが同じなのだ。これは明らかに確信的な焼き直しである。

『IZO』で扱ったのは暗殺テロというバイオレンスであり、本作では情痴のエロスが主軸とされている。本能に直結して興味を引く要素として、あるいは低俗で教育によろしくない要素として、並列に扱われがちな両者を、同じスタイルの作品にて双方使い分けているのもまた、相似の意図によるものだろう。

権力構造が大きく変革した幕末と維新の時代が、『IZO』の背景として必然的に現代との近似をもって混濁に用いられていたのと同様、本作では、阿部定事件と同年に起こった2.26事件を、時代背景を表すメタファーとして用い、現代の社会動向にも通ずる指針を示している。

この、当時と現代を近似させる狙いに関して、一部批評では「軍靴の響きが強まりつつある現代を投影させた〜」と言った文意が語られるもの画存在するが、本作が語りたいのは軍国主義などという具体的な思想性ではなく、一部の権力が大衆に対する統制を強め、それに大衆も無抵抗、無関心なまま、社会が閉塞しつつある、お先真っ暗な時代性との、抽象的な近似を用いているととった方がより現実的だ。

本作において現実と虚構の橋渡し、あるいは混濁の担い手となるのが、中山一也が演じる、過去編では石田吉蔵、現代編ではカメラマン石田の存在となる。

カメラマンという存在は、現実を切り取って虚構への変換を行う者である。その事を周知させるために、スナッフフィルム的な猟奇写真の撮影風景を序盤に配置し、まず本当に殺して撮っている「現実」かと観客に思わせ、撮影中の凄惨な光景から倒錯したエロスを醸し観客を戸惑わせておいて、実は仕込みで撮っている「虚構」だったとバラし「現実」に戻りながら、作り物の腸をぶら下げて歩くモデルの、あまりにシュールな様によって「虚構」じみた認識を与える。こうして、虚構と現実の逆転混濁を観客に叩き込んで、作品の有りようを明示する、導入の役割を果たしている。

和服の少女がカメラマンだけにしか見えないのも、レンズを通して現実が虚構へと変わる、導入の意味を表しているものだ。その和服少女を追って"虚構"へと入り込んでいくカメラマンの図式は、『不思議の国のアリス』における、ウサギを追って幻想世界へと入り込むアリスの様を、大きく意図したものだろう。トンネル状のロケーションにて、現場空間を有意に用いて構成された、印象的な空間構成などからも、現実から虚構への移行が見て取れる。

アングラ演劇を意図して構成される、法廷シーンもまた同様。イントレの資材剥き出しで組まれたセットによって、"映画撮影現場"を観客に想起させて、現実と虚構を視覚的にも曖昧とさせ、白塗り学生服の傍聴人や、リアルタイムの画面分割にプロジェクターを用いるなど、アングラ舞台劇の演出によって、法廷=劇場の概念を打ち出し、裁判など茶番劇の見世物にすぎないとのアイロニーを込めている。法廷がストリップ小屋に変わったかの様なシロクロショーとの混濁や、御輿の上でまぐわう男女など、種々の演出を用い、時に繰り返して強調し、狙いを明確としている。

のだが、基本的なスタイルは所詮『IZO』の焼き直し、セルフリトライにすぎないため、同じ事をダラダラと続けられても、あまり楽しめないのも事実。他者を愛して行うはずのセックスが、つまるところは自己回帰、究極の自己愛すなわちオナニーにすぎないのだとも、ラストシーンにて突きつけられる本作、だからといって作品そのものがオナニーでは困る。

女優人や脇を固める俳優陣には、ある程度演技達者な人材を揃えておきながら、主演男優の中山一也と、ストーリー内にて重要な位置づけとなりテーマを語る内田裕也の、肝心の二人に限って棒読みにも程がある大根演技なため、"虚構"を表すには向いているが、"現実"には全くそぐわない事が、何よりの問題。この二人が何か喋る度に興醒めさせられては、表現やテーマを楽しむ以前のお話だ。



tsubuanco at 12:56│Comments(0)TrackBack(0)clip!映画 

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