☆クレーター通信☆

【音楽・文学・その他、文化と愛と怠惰な革命の日記】                                                                                                                                  ※コメントの受け付けは終了しました。  ●Twitter : @tsudamakoto     ●管理者 : 津田 真

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南青山ルナを会場に毎月開催してきた『音街ピクニック』ですが、次回7/11(火)のvol.67開催をもって、いったん休止することになりました。
「休止」というと、どのくらい休むのか、と思われる方もいるかもしれませんが、要するに「終了」です。

理由は簡単にいえば、出演者の減少による開催の困難です。
呼びたいミュージシャンが減ったこと。
新しい才能に出会わないこと。
オファーに応えてくださるミュージシャンの減少(そもそも返事がない、というミュージシャンも増加)。
といったところでしょうか。

『音街ピクニック』くらいの規模のイベントだと、出演候補に考えられるミュージシャンは、つねに開拓していないと減る一方です。
少し動員が増えたら呼べなくなるし、逆に動員が伸びない人は年齢とともに活動が縮小して辞めていきます。
だからイベントがスタートした当初は、応援する必要のあるフレッシュな才能をメインにブッキングすることが、そもそものテーマでした。

とはいえ、もともと自発的なイベントではなく、やってみませんかというお誘いがあって始まったものなので、ここまで続いたことが完全に予想外ではあります。
そして、そろそろ潮時だとも思う訳です。


 ***


『音街ピクニック』とはどんなイベントだったんでしょうか。
現在の南青山ルナでの『音街』は、いわばシーズン3となります。
最初(シーズン1)は、もう10年くらい前になりますが、矢舟テツローさんに声をかけられ、公園通りクラシックスという会場で開催しました。

「音街」という言葉は、自分の音楽リスナーとしてのルーツのひとつ、NHK-FM『サウンドストリート』を直訳したものです。
「ピクニック」は、これもNHK特集で観た『ヨーロッパピクニック計画』から持ってきて、くっつけました。
ミュージシャン同士の〈交通〉みたいなことを考えてた訳です(そしてミュージシャンとお客さん、お客さん同士の〈交通〉も)。
だから、イベントを通じて親しくなったミュージシャンが後にコラボレーションしたり、互いのライブに足を運んだりしているのを知ると、イベントの最初のテーマはあちこちで達成されているなとは思います。

でも、1回目のあとは次のことなんて何も考えていませんでした。
しばらくすると、そろそろまたやりませんかと誘われる、という感じで《たまにイベントをやる人》みたいになりました。
そんなことから、池ノ上ボブテイルで「津田枠」を作るから誰かブッキングして、という話もありました。

また少しして、同じような感じで、矢舟さんの公園通りクラシックスでのイベントに津田枠が用意されました。
その時にブッキングしたのが、19歳の青葉市子さんでした。
ちょうど、ボブテイルがルイナと名前を変えていた時期のことです(今はまたボブテイルという名前で経営を再開しています)。
実質的にお店を仕切っていたのがPAJANさんで、ぼくは月に数回ライブを観に行っていたと思います。
その頃、つまり《ボブテイルのルイナ期》にカウンターを手伝ったり、閉店後にギターの練習をしたりしていた青葉市子さんが、ある日、ポツリと言ったんですね。
「津田さんがルイナで『音街』を毎月やってくれたらいいのに」と。
するとPAJANさんが「本当にそんなことやってくれるなら、津田さんはルイナはいつでもフリーパスにしますよ」という悪魔の契約をちらつかせ、ぼくはあの地下室でサインをしたのでした(してません、もちろん)。

とにかく、そういう成り行きで月例イベントとしてスタートしたのがシーズン2です。
この時期まで、毎回パンフレットを手書きで作っていましたね。
シーズン2の出演者で出世頭というと、平賀さち枝さんやチャラン・ポ・ランタン、AZUMA HITOMIさん、中村千尋(「たらりらん」として出演)さん、といった辺りでしょうか。

余談ですが、平賀さち枝さんを初めて観たのは下北沢440で、その時は青葉市子さん目当てに行ったんですね。
はっきり言ってまだ下手くそで、ものすごく間違う人だな、という印象で。
でも同時に、捨てがたい魅力、光るものもあって、月例化したばかりの『音街』に誘うかどうか、少し迷いました。
それで終演後、青葉市子さんに「あの子、『音街』に誘ってみたいんだけど、どう思う?」と訊いてみたら「あっ、いいと思う!」と弾んだ声で即答してくれて、その場で物販中の平賀さんからCD-Rを買いながらオファーしたのでした。
二人はこの日が初対面だった訳で、後にユニットを組んだりすることを思うとなかなか感慨深いです。

ルイナの閉店とともに、シーズン2も終了します。
さっきから名前が出てきているミュージシャンたちも、どんどん次のステージへ飛び立っていきます。
ぼくもライター仕事が増えたり、CDをプロデュースしたり、『音街』とは違うコンセプトのイベントを(いま考えたらけっこうたくさん)やったりしていました。
そしてPAJANさんが南青山ルナに移り、ある程度お店として態勢が整ったところで月例イベントとして再開したのが、現在に至るシーズン3です。

南青山ルナはお店のつくりやロケーションが素晴らしく、シーズン3の裏テーマは「月に1回くらいはルナに行く」というものになりました。
アフタートークやフードがある空間が定番になって、また新しい『音街』になったと思いますが、もうシーズン2を知っている出演者やお客さんはほとんどいません。
すっかり入れ替わりました。
それで良いと思うし、シーズン3についても、ミュージシャン同士の交流やステップになってくれていたら、この規模のイベントとしては役割をまっとうしたのではないかと思います。

新しい才能に出会うには、現場に行かなければならないのですが、この数年間ですっかりバンド/シンガーソングライター系の現場から足が遠のきました。
面白いものはアイドルシーンの周りにあって、金子麻友美さん、しずくだうみさん、里咲りささん、工藤ちゃん、シバノソウさん等、シーズン3の出演者も何かしらアイドルシーンと接点があったりしますね。
角森隆浩さんやthat's all folksさんはヲタクとしてアイドル現場で顔を合わせますし。
いまやアフタートークもアイドルの話題ばかりです。


 ***


今回の休止=終了というのは、テレビシリーズの最終回、みたいな感じに捉えてもらえたらと思います。
そのうちに不定期で、スペシャル版とか劇場版みたいな感じで開催するかもしれません。
あと、ルナで別のイベントをやることも考えられます。
まだ全く未定ですが。

とりあえず、ラストの『音街ピクニック』、お時間ありましたら遊びにいらしてください。



 ***



ライブ&トーク
『音街ピクニック vol.67』
7/11(火)@南青山Lunar(ルナ)

19:00 open
19:30 start
¥2000+order

【出演】

●角森隆浩
●that's all folks
●(and more)

※アフタートークあり
※安くて美味しいフードあります

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伝え聞くところでは、先日どこかのトークイベントで、さも新発見であるかのように「アイドルは宗教」と、今更なご意見を語った方がいたそうで。
それが誰かは知らないし、興味もないのだが(結構あちこちにそういう話あるんでしょうね)、昔からアイドルは「菩薩である」とか「キリストを超えた」とか言われてきた訳です。
なので門外漢がアイドルファンの前で今更感しかない発言をするのはまったく意味ないし、場合によっては害悪ですらある、というのは判っていただきたいところです。

何をもって「門外漢」とするか。
この場合、線を引くなら知識や業界での立ち位置やCDを積んだ枚数とかではなく、当事者意識の有無である。
当事者意識がある人ならファンでもヲタクでもなくても、先のような発言は出てこないはずだ(ファン/ヲタクでなくても当事者意識を持つことはできる、と思います)。


さて、あらためて〈宗教としてのアイドル〉を考えるのであれば、教典も大事な要素である。
まずは音源。
そして、これも昔からある自伝やエッセイ集等のいわゆるタレント本、写真集、といった辺りが挙げられる。
現在は、SNSを中心としたネット上の発言や写真・イラスト等もそこに含まれるだろう。

それとは別に、アイドルやアイドル現象についての言説をまとめた書物(件の菩薩やキリストだ)がある。
最近は面白いものも多いと思うけれど、まあ玉石混淆という印象である。

そんな中でも、いまや古典的な価値を持つ一冊として稲増龍夫『アイドル工学』を挙げることができるだろう。
というかまあ、定番ですよね。
アイドル批評という観点からすれば、バイブル的な存在といって良いと思う。
それが、新たな一冊の登場によって、ああ『アイドル工学』はバイブルはバイブルでも「旧約」だったのだな、と思わされた訳です。
で、「新約」こそがこの文章の主役、中森明夫『アイドルになりたい!』(ちくまプリマー新書)なのである。

旧約には世界の成り立ちから黙示録までが描かれていて、新約は神の子の物語、という点も両者に当てはまる。
だいたい、ちくま文庫版『増補 アイドル工学』にインタビューで登場し、さらに解説まで書いているのが中森明夫さんその人であり、ちゃんと繋がっている感じがある(版元まで同じ筑摩書房だ!)。

まあ、そういう捉え方は半分遊びではある。
しかし『アイドルになりたい!』は遊びではなく、真剣な本だ。
これは形としては、判りやすく具体的な、中学生くらいのアイドル志望者に向けた入門書である。
ではあるけれど、アイドルに関心を持つ「当事者」であれば全員必読といえるし、ちょうど、優れた児童文学は大人が読んでも面白いという、あの感覚がある。
その意味では、ケストナーっぽいと思う。
内容的には、アイドルの定義や歴史からシーンの現在・未来にいたるまで、すっきりと見通している人でなければ書けない面白い読み物になっている。
が、それだけではない。
一気に読めるリーダブルな内容にもかかわらず、ある種の凄みが宿っている。
さっきケストナーっぽいと書いたばかりだけれど、実はもうひとつ連想したものがある。
誤解を恐れずに言えば、これは〈アイドル版『キャッチャー・イン・ザ・ライ』〉なのである。

「新約」云々はさっきも述べたように半ば冗談だが、『キャッチャー』というのは冗談ではない。
中森“ホールデン”明夫氏は徹頭徹尾、二人称でたったひとりの「きみ」に語りかける。
その構造からして『キャッチャー』と同じだが、それだけではない。
中森さんは本当に、自分こそが「きみ」のキャッチャーになろうと宣言するかのような、強い覚悟を持ってこの本を締めくくるのだ。
たったひとりの読者に向けて書くということ、一冊の本を読むということの意味が、最後のページに集約されている。

ぼくがこの本を購入したのは4月8日で、その日のうちに読了した。
でも、感想をツイートしたりするのは、ちょっと控えることにした。
はっきり言って、ぼくはかなり感動していたので、的確な感想が書けるかどうか判らなかったのだ。
代わりに、1986年の4月8日に関する思い出をツイートした。
それが何の日なのかも、この本の中に書いてある。

中森さんは大ベテランであって、ぼくの感覚では違う世界にいるくらいの方なのだけど、『アイドルになりたい!』はちゃんと我々のよく知っているライブアイドル/地下アイドルのシーンも踏まえて書かれていて、その意味でも実用性が高い。
何しろ表紙イラストはぺろりん先生で、帯のイラストクレジットにはツイッターアカウントまで記載されているのだ。
時代の空気を少し先まで読んでいるし、場合によっては遥か未来にまで目を向けた内容となっている。
今だけ通用すればいい、というものではなく、未来の読者に届くように書かれている。
だから、信用できる。


いま十代のアイドルにインタビューすると、ミニモニ。の影響力の強さに驚くことが多い。
そんなことから、これからアイドルの世界を意識するようになる子たちは、果たして何に影響を受けて出てくるのだろう、と考えることもある。
いつかきっと我々は、『アイドルになりたい!』を読んでアイドルになりました、と言う少女と出会うだろう。
それは予想や願望ではなく、確信である。

ぼくもまた、「きみ」と出会う日を待っている。

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『この世界の片隅に』は公開後、わりとすぐに観て、この文章も途中までは書いていたのだけど、止まったままになっていた。
その時は「すずさんが一番きれいだったとき」というタイトルを、仮に付けていた。
ちょっと、タイトルが強すぎたのかもしれない。

いつの間にか年を越して2月になり、『騎士団長殺し』が出て、ファンとしては当然すぐ読んだ。
そして、たまたま同じタイミングで『この世界〜』の2回目を観に行った。

どちらの作品にも第二次世界大戦が描かれてはいるが、そのことだけにとどまらず、2017年の同時期に話題となっているのには何か意味があるように感じられた。
この際、並べて書いてみようと思う。


 ◆◆◆


映画館で映画を観る、ということがまだ〈特別な体験〉になりうる。
そのことを思い知らせてくれただけでも『この世界の片隅に』は特筆すべき作品だが、これでは書き方として冷静に過ぎる。

「泣ける」作品なのかと訊かれたら、それはイエスだが、すべての観客に共通の泣きどころがあるかというと、必ずしもそうではない。
これはこの作品の豊かさのひとつのあらわれだ。
観る人によってそれぞれグッとくるポイントが違う。

他の人はどうか判らないけれど、始まってすぐの迷子になる辺りや、きょうだいのエピソード辺りで何故か涙腺がゆるむ感じがあったりした。
その理由を無理やり言葉にすると、こぼれ落ちるものもあるけれど、ひとつはっきりしているのは「これが観たかったんだ」というものがいま観れている、ということになる。

ぼくが観たかった「これ」とは何かというと、ひとつには大滝詠一がラジオで言っていたことで、記憶に頼って引用すると《現在からすると戦前や戦中は暗黒時代みたいに感じられるかもしれないがそうじゃない。歴史は寸断されてはいなくて、当時には当時の文化や暮らしがあったはずだ》といったことだ。

病院で、入院中の負傷兵が“ムーンライト・セレナーデ”を聴いているシーンにも、そういうことを感じた。
その場面は、原作では音楽は出てこないので、映画らしいアレンジとして素敵に仕上がっていると思う(ちなみに、クレジットを見なければ演奏はグレン・ミラーだと信じて疑わなかっただろう)。

そのような作品内のあれこれに関する反応は、観た人の数だけあるだろう。
それだけ大きなものを含んだ作品だし、だから簡単に消化しきれない。
そして映画館(渋谷と吉祥寺で観ました)には本当に様々な観客がいた。
女子高生の二人連れ、中年の夫婦、大学生らしき若者、サラリーマン風の男性、主婦のグループ、シニアのグループ、老夫婦。
ぼくが見た範囲では、中学生以下の児童や子供はいなかった。
ただ、子供以外のあらゆる層がいた。
こんなことはほとんど初めての体験で(子供を含むいろんな層の観客がいる場合なら何度も経験しているが)、これも映画館で観て良かったことのひとつだ。

原作と映画の違いについて少し触れるなら、基本的には、かなり原作に忠実といえるだろう。
おそらく読者の印象として共通の〈最大の違い〉は、りんさんのエピソードの扱い方ということになると思う。
けれど、そのせいで映画では原作の良さが損なわれているかというと、そんなことはまったくない。
映画ならではの表現を用いて、単になぞるのではなく、非常に細やかな神経の行き届いた構成がなされている。
エンドロールの最後の最後まで、しっかり考え抜かれているし、それは2度観て改めてよく判った感じもある。
リピーターが多いようだけど、本当に、何度観ても発見がありそうだ。

片渕須直監督は実に物凄い作品を作り上げた。
その「作り上げた」中にはクラウドファンディングのことや、のんさんの起用にまつわることも全部入れないといけない。
〈総合芸術としての映画〉という在り方が、お題目や単なるスタイルではなく、激しい情熱と厳しい抑制と並外れた持続力によってここにもたらされたのだと思うと、ちょっと言葉が出てこなくなってしまう。
また、多くの映画は公開後すぐにソフト化され、上映はソフト販売のためのプロモーションみたいな形に(結果的にというべきか)なってしまっている現在、『この世界〜』の「映画」としての広まり方には考えさせられるものがたくさんある。


個人的にはそもそも、ヒロインすずさんが絵を描く人だという点に、非常に感じ入るものがある。
例えば手塚治虫は『紙の砦』等の作品で自伝的な戦争体験を描いている。
けれど世代的に戦争を体験していない原作者こうの史代は、絵を描く女の子をあの時代に置くことで、物語の中に〈仮説としての自分〉を送り込んだのではないか。
絵を描く者にとっての右手(利き手)の意味も、作者がリアルに感じている希望や恐怖の投影だと思うのだ。

ぼくは幼い頃から絵を描く子で、紙とペンを与えておけば、いつまでもおとなしく絵を描いていたらしい。
その後、物心ついてからは漫画ばかり描いていたし、油絵にも興味があったので高校では美術部に入っていた。
いまだに何かにつけ絵を描くのが好きで、画材店に行けば幸せになれるようなところがある。
そういう者からすると〈絵を描く人のメンタリティ〉は戦争を挟んだくらいで変わらないというか、すずさんのような人はいつの時代にも、どんな土地にもいたはずだと感じられるのは非常に嬉しく、救われる気持ちがしたものだった。

そうした感覚をみずみずしく映像化した、というだけでも素晴らしいのだが、同時に、これはとても恐ろしい作品だった。
空襲の場面での凄まじい音響は、まさに映画館で映画を観る理由を実感させたし、映画が体験であることのひとつの証左であるといえるほどのものだった。
けれど本当に恐ろしかったのは、「その9日後」というテロップがさりげなく浮かんだ瞬間だった。
それからの数分間は、比較的静かなシーンだったのにもかかわらず、身体中が冷たくなったような気分だった。
実際には館内は(2回とも)平日の昼間なのに盛況で、熱気にみちていたというのに。
いま思い出すだけでも、ちょっと背筋がぞくっとする。


 ◆◆◆


こうの史代作品と出会ったのは『夕凪の街 桜の国』が最初だった。
そのインパクトが強かったせいもあるが、『この世界〜』のすずさんの妹すみちゃんの描かれていないその後のお話は、例えば『夕凪の街』の皆実の物語に繋がっていくのだと思うと、慄然とする。
『夕凪の街』で語られていたように、何も終わってはいないのだ。
だからこそ〈今〉の作品として支持されているのだ、と(ひとつには)言えるのではないか。

ところで、同じ作者の作品という括りを離れるなら、こんな連想もできると思う。

戦時下、前線から離れたコミュニティーでの、夢と現実の狭間に生きる少女の成長、という要素から考えるなら『ミツバチのささやき』に重なるものがある。

また、日常を丹念に描いたラブストーリー、という視点から考えるなら、時代さえ違えば『耳をすませば』のようになっていたかもしれない。

アナとしての浦野すず。
月島雫だったかもしれない北条すず。

これは決して突飛な発想だとは思わない。
我々はつねに、そのような(文化的な)地面の上に立って、地下水の流れを感じながら暮らしている。
ただ、ここでは敢えてそれを言葉にしてみているだけだ。
そこでもうひとつ、こんなふうに付け加えたい。

映画館で隣に座った老婦人だったかもしれないすずさん。


 ◆◆◆


『ねじまき鳥クロニクル』で村上春樹がノモンハン事件を描いてから20年ほど経つだろうか。
最新作『騎士団長殺し』ではついに、本丸に踏み込んだ感がある。
ナチスが併合したオーストリアに翻るハーケンクロイツ、南京事件の現場、そうした過去と地続きのポスト3.11の現在。
登場人物の一人が東京拘置所にいたというエピソードもある。
言うまでもなく、東京拘置所は(場所こそ移転しているが)、かつての巣鴨プリズンだ。
「関連性」、という言葉が重要な役割を果たす。

 「そう、すべてはどこかで結びついておるのだ」と騎士団長は私の心を読んで言った。「その結びつきから諸君は逃げ切ることはできない。(後略)」
 『騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編』より

もちろんこれは読み方のひとつにすぎないかもしれないし、例えば長編における一人称に初めて「私」が採用され、その一方でかつての長編のように主人公(語り手)には名前がない、という点を重要視すれば、また別の読み方が可能だろうと思う。
「名前というのはなんといっても大事なものなのだから」(同作品より)

「翻案」という言葉も出てくるが、今作の主な舞台となる小田原の山は、まるで黒澤明が翻案したシェイクスピアのように、鮮やかな書き割り風の印象がある。
わずかに海が見える山頂の家と、谷を挟んで向かいの山の斜面に建つ豪邸。
どこか『グレート・ギャツビー』の構図を山に置き換えたみたいな感じもする。

そうした翻案や置き換えを含む、あらゆる物語の〈語りなおし〉こそが、無意識下の地下世界を豊かにし、物語が現実に対抗する力を強くしてゆくのだろう。

この作品が安倍政権下の日本で発表されたこと、そしてやがて英訳がトランプ政権下のアメリカで出版されるであろうことは、非常に意味があるのではないか。


論理的には、あちこちにおかしな箇所がたくさんあるのだが、気持ち的には逆に、その「論理的におかしい」はずの箇所がすべて、すとんと腑に落ちる。
そのようなお話に、我々は怪異譚とか幻想小説といった呼称を与えることができるだろう。
ただ多くの場合そうしたお話は、比較的短いものとして語られてきた。
村上春樹はしかし、そのお話の枠組みを拡大し、過去に遡って時間的な奥行きも確保し、長編小説の形で強固な物語世界を作り上げてきた。
しかもキャリアを通して徹底的に。

なぜ、そんなことをするのか(言うまでもなく大変な作業である)。
少なくともひとつ言えるのは、こうした時間的奥行きと様々な怪異を内包した長大な物語でないと決して表現できないものがある、ということだろう。
では、それは何か。

『騎士団長殺し』は村上春樹のキャリアにおいて、最高傑作かとか、そうでなくてもベスト5に入るかとか、そういうふうに考えると、正直難しいと思う。
今のところは。
この「今のところ」というのがポイントで、ある程度時間が経ってから、今作に描かれた何かが、忘れがたく重要なものとして心をとらえるような、漠然とした予感があるのだ。
例えば『ダンス・ダンス・ダンス』における「雪かき」という言葉や『ねじまき鳥クロニクル』における「暗渠」のエピソードが、村上春樹読者の中に居場所を持っているように。
今回はイマイチだったな、では済まない様々な〈引っ掛かり〉が無数に潜んでいる(個人的には「妹」と「風穴」の話が非常に気になっている)。
そして、そういう感触というか情感というか、〈明確に言語化できないインパクトを、言語によって与える〉というのは、小説の持つ大きな役割のひとつではないだろうか。

読みながら、また同じようなモチーフだ、とも思うが、それが確信犯的なテーマなのは作者本人も幾度か語っていることだ。
登場人物や舞台装置を変えて繰り返し語られる物語の底にダイブしながら、なんて豊かな世界だろうと、ぼくは思う。

いつかまた読み直すだろうけれど、プロローグだけは気になって読了後すぐに読み返した。
プロローグがあるのにエピローグはないんだなと、目次を見た時に思ったのだが、エピローグは必要なかったのだ。
プロローグこそが、見事なエピローグだった。


 ◆◆◆


で、本当にこの2作品を並べることに意味があるの?と訊かれたら、何となくなんだけどね、としか言えない。
ただ、繰り返しになるけれど、2016年終わりから2017年初めという「この時期」に発表されたことの意味を、少し長い時間をかけて考えていきたい。
それにやはり、地下では繋がっているものがあるという気がする。
文化というのは有史以来、そのように続いてきたのではないか。

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これはライブレポートではないことを、最初に断っておきます。
そういう、ある意味「悠長」なものは書けなかった。


 ***


2017年3月30日、木曜日。
渋谷、Milkyway。

シバノソウ初ワンマンライブ
『非日常に連れてってあげるよ』


初ワンマンであると同時に、3rd ミニアルバムのレコ発となるライブ。
既にニュースが出ている通り、重大発表が3つあった。

ひとつめは、無事進級したこと(笑)。
次に、来月もCDを出すこと。
そのタイトルが、今回のワンマンと同じ『非日常に連れてってあげるよ』であること。
これはその場でオケをバックに披露されたのだが、単にアイドル寄りの打ち込み楽曲というだけでなく、いわゆる「電波ソング」に分類していいのではないか。
弾き語りとバンドと打ち込みを使い分ける、というパターンはこれまでもあったが(この辺、後述)、攻め方にエッジが立っていて新世代感が凄い。
なにしろ17歳、このライブの時点でぎりぎり高2である。

そして最大の発表が、来年2018年の3月15日に渋谷WWWで2ndワンマンを開催する、ということ。
今回の初ワンマンは盛況だったし、内容的にも素晴らしく、大成功といって良いと思うが、ソールドアウトという訳ではなかった。
けれど、あと1年で3倍のキャパを埋めるぞ、ということだ。
高校生で、無所属で、それを達成しよう、という挑戦である。


 ***


ライブは二部構成で、一部は弾き語り、二部はバンド編成。
いきなり1曲目に、新譜『ポップ、ロック、セブンティーン。』のM-1収録曲“オレの前前前世”が歌われた。
本来「ヲタクに《ありがとう》がテーマ」の沸き曲だが、イントロで「コールなしのバージョンで」とひとことあって、しっかり聴く感じになった。

シバノソウのライブが普通のシンガーソングライターと違う最大のポイントは、本人はもとより客層ではないだろうか。
というか観客と作り出す空気であり空間。
観客はおそらく、ほとんどドルヲタで、誰もそのことを疑問に思っていないし、ノリもアイドルのライブとだいたい同じである。
ある曲では観客を前方に集めてダイブし、ゆらゆらサーフしてみたり、また別の曲ではマイクを持ってフロアの真ん中に飛び込んで歌ったり、MIXや口上があったり、地下アイドル的なパフォーマンスは枚挙にいとまがない。
ライブのみならず、物販もアイドルと同じといっていいだろう。

さて、“オレの前前前世”だが。
ふざけたタイトルとは裏腹に、この歌は素晴らしい。
むしろ、こんなタイトルじゃもったいないのでは、と思ってしまうくらいだ。
いちばん最後のフレーズ、「大人になっても輝く向こうへ!」が歌われた瞬間、ぼくはあるシンガーの昔の曲と、彼の(やはり前半弾き語り、後半バンド編成で構成されていた)当時のライブを連想していた。
今はなき新宿ルイードのフロアを揺らし、彼=佐野元春はこう歌って熱狂を生み出していたという。

「つまらない大人にはなりたくない」


 ***


1980年代前半のこと。
佐野元春のブレイクと、彼の渡米中に尾崎豊がデビューしたことで、「十代」というマーケットが「発見」された。
そもそもレコードの購買層は若者がメイン、という文化ではあったが、「アイドルではないシンガーで十代、詞の内容も十代の目線」というのが、それ以降ひとつの大きな潮流となった。
基本的なところでは、それはずっと変わっていない。

尾崎豊がデビューした時、確か藤沢英子だったと思うが、これは十代からの実況中継だ、といったことを、まるで事件であるかのように書いていた記憶がある。
つまり、17歳が17歳のリアルについて歌う、ということがそれだけ新しいことだったのだ。

もっとも、個人的には尾崎の歌にリアリティはあんまり感じなかった。
なぜなら、ぼくは千葉県銚子市の高校生であって、青学に通って渋谷の夕日を眺め、満員電車に揺られて、ディスコで女の子と出会ったり、なんてことがまるで別世界だったからだ。
佐野元春の歌う「街」は普遍的なイメージとして届き、目の前の情景と置き換えることができたが、リアルなはずの(そう言われていた)尾崎の歌は、おそらくその具体性ゆえに、どうもピンとこなかったところがある。

しかしシバノソウの歌は、今、日本中どこの十代も共感できるのではないか。
というのも、尾崎の時代と現代の最大の違いはインターネットの有無、特にSNSだろうから。
あらゆる情報は擬似体験的に行き渡っていて、東京的な原風景はたぶん、すべてのティーンエイジャーが共有していると思う。
もちろん、歌のモチーフにネットやら何やらが使われることじたいは今や当然のことで、それは前提でしかない。
問題は、SNS時代の感覚が、自分の言葉によって独自の作品に結実しているかだ。
そして、その独自性はシバノソウの現在の主な観客である大人たちに、新鮮な才能として突き刺さっている。

そのあたりは少し大きな視点から見れば、ポスト大森靖子のアーティスト(シンガーソングライターやアイドルの総称として)に共通のものがあるように思う。
それは影響というより、そういう「状況」が出現したと言ったほうが近いかもしれない。
例えば、ぱいぱいでか美、里咲りさ、工藤ちゃん、といったシンガーは、いずれも活動のスタイルや歌の情感など様々な面で、その「状況」を生きていると思う。
ソロではないが、パジャマ文庫もそこに加えていいだろう。

では、その「状況」とは何かというと、「シンガーソングライター/バンドとアイドルの、クロスオーバーしたカルチャー」ということになる。
バンドとアイドル、という旧来型の二項対立を越えて、ごく自然に融合されたシーンがそこにある。
先に「後述」と書いたが、いま挙げたようなアーティストは、バンド・弾き語り・カラオケをひとつのステージで使い分けたりするし、パフォーマンスにおける発想が恐ろしく柔軟である。
ここで、ひとことで「自由」とか書くと読み飛ばす人もいそうなので、しつこく繰り返すと、パフォーマンスにおける発想が必要以上に、あるいは過度に、柔軟である、ということだ。
この流れは止まらないだろう。
なぜならこれは一種の発明だからで、発明されたからには、それ以前には戻れないのである。


 ***


そんなことは判っているよ、という人は既に彼女(たち)のファンか、ライブを体験済みの人だろう。
この文章はどちらかというと、まだシバノソウを知らない人に向けて書いている。

最後に少し、作品に触れたい。
佐野元春と尾崎豊の名前を出したりすると、シバノソウを知らない方は、渡辺美里あたりを連想するかもしれないが、全然違う。
いっそ「全然違う(笑)」と表記したいくらい違う。
でも例えば、意外とユーミンなんかは近いかもしれない。
荒井由実時代の。

「まるでソーダみたいな空だ 君はいないと思う 私の心に」
“soda”

「ソーダ」というワードから“海を見ていた午後”を連想する人は多いだろうが、むしろ「君はいないと思う 私の心に」というフレーズにユーミンとの近さを感じる。
そういう気持ちを「ソーダみたいな空」という情景を通して表現するところに。
これはユーミン的な意味では、ある種古典的な表現かもしれない。
では、これはどうだろう。

「これからどうなっていくんだろう?/大統領はトランプになった バカリズムは結婚しちゃうかな」
“オレの前前前世”

近い未来を考える時に、トランプとバカリズムを並列する、これなんかは「TL的」という感じがする。
SNS世代、ポスト大森靖子的、そういう形容もできるだろう。
ただ、そこにあるユーモアのセンスが、シバノソウがあの声とルックスで歌うことで具現化/肉体化され「他にない感じ」として発揮される時、シンガーソングライターの音楽を聴く醍醐味が生まれる。
この曲ではさらに「来世はきっと生駒里奈だよ」「ヲタクはいつでもお金がかつかつ」といったフレーズを挟み込みながらクライマックスへ向かう。
そのクライマックスこそ、最初に引用した「大人になっても輝く向こうへ!」である。

詞だけ見ていくと決して明るくはないのだが、言葉の選び方にはユーモアが感じられるし、特に今作は詞だけではなく、言葉と音の兼ね合いに独特のユーモアがあって、口当たりが良くて深みもある、という進化をしている。
さらっとしているようで、重層的でしぶとい。
そういう構造は、いくつもの曲に見られる。
そのしぶとい感じを、ロックと呼んでもいいと思う。
『ポップ、ロック、セブンティーン。』のラストに置かれた、ワンマンでも本編最後に歌われた“信号”という曲はこんなふうに終わる。

「赤よ青に変われ 明日 世界 終わるかも/悔いのないよう 走れ 未来を変えろ その手で」

この歌は、人生訓的なものではなく、ライブイベントに間に合いたい(!)というストーリーなのである。
十代(のヲタク)の、しぶとさがこんな力強いフレーズにたどり着く。
間に合うか、遅刻するか、走ることで未来が決まる。

シバノソウは走っている。
彼女は未来を変えつつある。

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何かとばたばたしているうちに3月も半ばになってしまった。

音楽への興味は変わらないのだけど、新譜やライブに対して、ハードルが上がっている感じは、年々大きくなる。
それはまあ、当然といえば当然かもしれないし、音楽に限らないことではあるが。

話題のバンドやヒット曲を聴いても、タワーレコード店内でかかっている新譜に耳を傾けても、自分の中ではハードルを倒してしまうものばかりである。
購入するCDは旧譜ばかり、古いブラックミュージックが中心で、この数ヶ月のヘビロテはマーキーズやスタックス時代のエモーションズなど。

…という中での2016年ベストとなります。
CDは邦楽の新譜からのセレクションです。



【アルバム ベスト10】

1.BELLRING少女ハート『BEYOND』
2.スピッツ『醒めない』
3.宇多田ヒカル『Fantome』
4.工藤ちゃん『工藤ちゃん一発宅録ベスト 
5.乃木坂46『それぞれの椅子』
6.坂口喜咲『きいちゃんとひまわり』
7.吉澤嘉代子『東京絶景』
8.里咲りさ『売れるまで待てない』
9.WHY@DOLL『Gemini』
10.じゅじゅ『イケニエ』


【シングル/ミニアルバム/EP ベスト10】

1.えんがわ『おばんざいTOKYO/オー・シャンゼリゼ』
2.山下達郎『CHEER UP!THE SUMMER』
3.工藤ちゃん『私からさようなら』
4.SHE IS SUMMER『ラブリー・フラストレーションEP』
5.脇田もなり『IN THE CITY』
6.里咲りさ『R-and U』
7.ねうちゃん『ばいばいピエロ』
8.パジャマ文庫『I Don't Believe In The Future』
9.シバノソウ『スクールフィクション』
10.BELLRING少女ハート『Spine EP』

次.サトウトモミ『サマータイム』


【企画・編集盤/リイシュー(順不同)】

●大滝詠一『デビュー・アゲン』
●BELLRING少女ハート『BEST BRGH』
●でんぱ組.inc『WWDBEST 〜電波良好!〜』
●中村千尋『花束』※ワンマン会場配布限定シングル
●森田童子『GOOD BYE(グッドバイ)』他、全9W


【ライブ ベスト10(日付順)】

●1/2・Zepp Tokyo/BELLRING少女ハート
●2/1・渋谷WWW/BELLRING少女ハート
●3/3・NHKホール/でんぱ組.inc
●4/30・TDCホール/BELLRING少女ハート
●10/22・新宿BLAZE/中村千尋
●11/3・江古田 日本大学芸術学部 芸術祭2016/えんがわ、清竜人25
●11/21・赤坂グラフィティ/『Gambare Yoshiko!! 川喜多美子さん(D-DAY)にエールを送る会』
●12/2・渋谷Milkyway/朝倉みずほ、もかろん、他
●12/22・赤坂BLITZ/BELLRING少女ハート
●12/31・渋谷O-nest(夜)/BELLRING少女ハート


ライブ、夏が全然ないですが、実際あまり観てなかったですね。
というのは、It's a Chelsea Dayという自分のアイドルグループをめぐるあれこれがあって、単純に時間がなかったりして。
ちなみに、その後チェルシーは、またいろいろ準備期間に入っています(メンバーはつねに募集中です)。

面白かったのはやはり、圧倒的にベルハー。
今年から改名して新体制「There There Theres(ゼアー・ゼアー・ゼアーズ)」として始動したばかりだが、新曲や新メンバーも素晴らしいので、引き続き注目したい。

一方、シンガーソングライターの新しい波も要チェック。
工藤ちゃんは今から聴くなら2月にリリースされたばかりの『杉並にて』が入口として最適かも(ライブ会場での販売なので、まずライブへ、ということになりますが)。

地道に充実した活動をする中で、2015年の渋谷CLUB QUATTROに続いて新宿BLAZEでもワンマンを成功させた中村千尋も、今後どこまで行くのか気にしていたい。

ブライテスト・ホープ的な存在として、シバノソウを挙げたい。
まずは高校2年生17歳というプロフィールをあまり気にせず聴いて(YouTubeにMVあり)、もし気に入ったなら、今度は大いに17歳ということを気にして応援していただきたいと思う。

里咲りさのベストソングは“かわいた空気の夜に”だと思っている。
彼女をアイドルとして捉えるかどうかはまた別として、カルチャーとしてのアイドルとシンガーソングライターのクロスオーバー、という面で重要なアーティスト。

たまたまリストには入らなかったけれど、テンテンコ『工業製品』も記憶に留めたい作品。
彼女に関しては一度、思い切りポップサイドに振り切った作品も聴いてみたい。

現役のバンドでいちばん好きなのはたぶんスピッツなので、毎回のアルバムがちゃんと良いのは嬉しい。
ただ、ぼくの耳には、バンドシーン全体はこのところ低調に聴こえる。
売れてるとか活気があるとかの話ではなくて、詞もサウンドも新しいものに出会えない。
悲観はまったくしていないけれど。
新しい才能はつねに生まれ続けているから、明日にでもスリリングなバンドが登場するかもしれない。
ゼアゼアより面白いバンドが、もしも登場したら、すかさず大騒ぎしようと思います。

一方で闘病中の川喜多美子さんを励ます企画『Gambare Yoshiko!! 川喜多美子さん(D-DAY)にエールを送る会』は、パンク/ニューウェイヴ世代がしぶとくエネルギッシュに活動を続けていることが感動的な、素晴らしいイベントだった。
みんな年齢と共に100%健康ではなくなっていく訳だけど、音楽をはじめとする文化に関わりながら楽しく生き抜いている人達を現場で目撃できたのは得難い体験でした。
そしてもちろん、川喜多美子さんの完全復活を強く願いつつ。

ではまた。

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七夕ですね。
あの「笹の葉さらさら」って歌、ポップス的な視点で考えると、全部サビだと思いませんか?
実際にポップスにおいて「全部サビ」という曲があったら最強って感じですが、ぼくの知っている範囲では、ダイアナ・ロス&スプリームスの“ベイビー・ラブ”がそれに当たると考えています。
そしてこの曲は当時、全米1位を獲得したのでした。
理想的なポップスの形のひとつだと思っています。

それはさておき。

実はこの度、アイドルグループを手がけることになりました。
7/24(日)昼に、月見ル君想フで初ライブです。
グループ名は、

It's a Chelsea Day
(イッツ・ア・チェルシーデイ)

といいます。
昨今のインディーズアイドルはコンセプトアイドルが多いという印象がありますが、そうした《○○アイドル》と掲げるような意味でのコンセプトはありません。
津田の音楽観を反映したポップス/ロックをやるグループです。

今回、つまり最初期の段階のグループには、作編曲として「サトウトモミ」が参加。
オリジナル曲の他にバンド「MiyuMiyu」のカバーバージョンも制作しました。

ただ、ここに来て怪我等で活動辞退のメンバーが出てしまい、初ライブ当日は正式メンバー1人+サポートメンバー数人という、ちょっと変則的な形でのスタートとなります。
サポートしていただくのは「Bee Brownie」さん所属の皆さんで、対バンとしてもご出演となります。

まもなく、メンバー(現在1名ですが)のツイッターもスタートします。
また、8月以降のライブに向けて、追加メンバーのオーディションも並行して開催していきます。
応募要項は下記をご参照ください。

初ライブ後には、お馴染み南青山ルナ(ライブ会場の目と鼻の先です)で、軽くパーティーも予定しております。

以下、ライブの詳細です。
チケットは、お目当てがチェルシーの場合なら、ツイッターでのリプライやDM、メール等での予約が可能です。
あと他に、手売りの機会が作れないか考えています。
その辺はまたツイッターでアナウンスいたします。

是非、遊びにいらしてください。


 ***


グリニッチ・エンタテインメント presents
“The First Day”

7/24(日)@南青山 月見ル君想フ

12:00開場/12:30開演
前売2000円/当日2500円

【出演】
●It's a Chelsea Day
●サトウトモミ
●劇団ブラウニー(学園天国組、贋Beeすく)

主催:グリニッチ・エンタテインメント
協力:Bee Brownie


 ***


It's a Chelsea Day
◆追加メンバー募集◆

●高校生〜20歳くらいの女性(年齢はあくまでも目安です)

●歌が好きで、情熱と向上心がある方

●現在、事務所・レコード会社等との契約がなく、都内を中心にすぐ活動出来る方
 (未成年者の場合、保護者の承諾を得ている方)

※以上の条件を満たしている方は、写真(自撮り可、プリクラはちょっとNG)を添付して、以下のメールアドレスまで自己アピールを送ってください。

※お返事は一週間以内に差し上げます。
 質問等は同じメールアドレスで受け付けますが、応募後の合否に関するご質問にはお答え出来かねます。



★宛先はこちら!★

tsuda.gr@gmail.com
(津田 真)

ご応募お待ちしております!


冨田真由さんの事件を受けて、この文章を書いている。
何よりもまず、冨田さんの容態が一日も早く回復することを願います。


 ***


アイドルシーンにおける《共通理解》は、第三者であるマスメディア=テレビや週刊誌によってスルーされ、それどころか敢えて無視されているようだ。

と言ったものの、うちにはそのテレビがない。
それは特別アンチという訳ではなく、デジタルに移行するときに「なきゃないでいいか」くらいの感じで買い替えなかっただけだ。
『紅白』とかは、実家で観ていたりする。
せっかく出演させるのなら乃木坂にもっと時間を与えればいいのに、とか思いつつ(余談)。

そんな訳で、今回の事件がテレビでどう報じられているのかは観ていない。
ただツイッターではテレビの話題が流れてくるし、いわゆる「地下アイドル」の関係者が酷い目に遭っていたりする様子から、察することは出来る、という程度だ。

だからこれはテレビ報道に対する反論ではない。
観てないからコメントしようがない。

それもあって、途中何度か「これ別に書かなくてもいいかな、もっと知名度のあるアイドル関係のライターとかがきちんと書いてくれるんじゃないかな」とも思った。
けれど、今朝(5/26)コンビニへ行った時に週刊誌をチェックしたら、予想以上に酷いものだったので、書き手は一人でも多い方が良いだろうと思い直して書いている。


 ***


【「アイドル」の問題ではない】

事件の直後から、いくつかのアイドル運営がツイッター等で、警備上の理由として特典会での変更を発表し始めた。
アイドルはほとんど十代の女の子であり、親御さんからあずかって活動しているのだから、気持ちは判らないでもない。

けれど、観客が2〜300人程度の規模、つまりライブハウスを主な現場として活動しているアイドルの運営が、今回の事件を受けて警備の強化を言い出すのを見ると、もっと自分達の客を信じたらどうか、と思う。
アイドル現場はそもそも性善説で維持されてきたのではないか。

冨田真由さんの事件は、例えば2014年5月25日のAKB握手会襲撃事件とは本質的に違う文脈で捉えるべきだ。
週刊誌もここを完全に読み誤っていた。
なぜなら、これは彼女が「アイドル」として目立つポジションにいたから起きた事件ではなく、むしろ誰でも巻き込まれうるような、ストーカー案件だから。
AKB襲撃犯は「AKBなら誰でもよかった」と供述している。
特定のメンバーへの執着ではなく、巨大アイドルグループへの妬みが動機となった。
今回の事件とは、まるで方向性が違う。

地下アイドルないしシンガーソングライターだから被害に遭ったという文脈も、雑すぎる。
相手はストーカーなのだから、どんな形であれ人前に出たりすれば被害に遭う可能性があるし、「人前」というのは通勤通学やバイトのレジ打ちからSNSまで、広範囲に捉えたほうがいい。

それと、見た目は似ているけれど、ジョン・レノンの事件とも違う。
ジョンは確かに、おかしなファンに対しても気さくに接するようなところがあったけれど、基本的にはスーパースターであり、一般のファンとは接点がない。
インターネットだってまだなかった。
今回は、ネットを含む、いろんな意味での《近さ》が犯行に繋がっている。
ジョンの事件の場合、逆に《遠さ》、つまりスター幻想が、マーク・チャップマンを駆り立てたのではないか。

もう一度書くけれど、誰でも巻き込まれうるタイプの事件と考えたほうがいい。
その上で、警察に相談していたのに警察側は何もできなかった、という点をきちんと問題視すべきだろう。

仮に冨田さんが、SEALDs奥田愛基さんや、はるかぜちゃんのように、もっと注目されている「有名」な存在だったら、警察の対応も違っていただろうか?
警察に相談する、って簡単に言うけれど、いち市民の感覚からしたら相当のことですよ。
考えるべきはその辺ではないのかと。


【警備について】

AKB襲撃事件以降、大規模なライブイベント等で、入場時に金属探知機によるチェックを受けることが普通になった。
関係者として入場する場合も、チェックされるのは同じで、その辺に漏れはない。
これで完全に危険を回避出来るかというと、100%とはいかないだろうけれど、ある程度の抑止力にはなっているはずだ。

では、もっと小さい規模のイベントはどうか。
会場が小さければ当然、人が少なくなり、警備も簡略化され、それで事足りる。
今回の事件があった武蔵小金井の「イベントスペース SOLID」はスタンディングで200人のキャパらしい。
会場の様子を画像検索すると、広めのライブバーといった印象。
当日のイベントフライヤーを冨田さんのブログ等で見ると、明らかにシンガーソングライター系のイベントで、これなら椅子を出して、50人くらい入れば大盛況という感じだ。

こういう会場では「警備」というのは、閉店後のセコムとかを指すのであって、明らかに変な客は店主や居合わせた客がつまみ出したり、手に負えなければ110番通報、ということになる。
ほとんどの店はそれでオッケーだろうし、事件当日も、もし開場後であれば、そうなったかもしれない。
実際には、事件は入り時間のタイミングで店の外で起きた。
店側に警備上の落ち度はないし、全国に無数に存在するこの規模のライブバーやライブハウスも、これを機に警備を強化するなんて必要もないだろう。

それがシンガーソングライターのイベントでも、アイドルのイベントでも、同じことだ。
むしろアイドルイベントのほうが、安全性は高い。
アイドルのファン=ドルヲタは元気だし、変な客なんかいたら各自チェックしているから、観客のほぼ全員が警備員みたいなところもある。

ドルヲタにとっては、アイドルとヲタとで作るその空間が何より尊いものだから、性善説が機能するし、不文律が浸透している。
例えば、ライブ後に出待ちした場合、アイドルを見送った後はしばらくそこに留まって、自分達が追いつかないようにする。
そういうのは基本である。

アイドルにインタビューすると異口同音に、
「最初は(チェキや握手等の経験がないので)不安だったけれど、お客さんがみんな優しかった」
と言うし、ちょっと特典会を見ていれば、それは誰にでも判ることだ。

今回の事件を受けて、やみくもに会場の警備を強化するというのは、やはりちょっと見当違いで、警備はその都度、適切に考えていけばいいはず。


【本質はストーカー問題】

いわゆるAKB商法が諸悪の根源であるかのように、隙あらば叩きたい、みたいな人がいる。
そういう人はそもそもアイドルシーンとは無関係だし、音楽業界の未来についても考えていないのは明らかだから、耳を傾ける必要はない。

ただ、その辺の反アイドル勢力みたいな人が、今回の事件を歪曲するのは非常に危険である。
事件の本質はストーカー問題であり、ストーカー規制法の不備(SNSが対象外になっていることなど)と警察の対応について、きちんと考えなければいけない時だ。
それを、アイドル商法が問題であるかのようにすり替える報道は、ノイズでしかない。

映画『羊たちの沈黙』で、執着はしょっちゅう見ることから生まれる、みたいな台詞があったけれど、人と会う生活をしていれば、そしてSNSでもやっていれば、誰だって、自分に非がなくてもストーキングされる可能性はある。
ぼくも、あなたも。


 ***


ちなみに、昨日(5/25)で、AKB襲撃事件からちょうど2年が経った。
被害に遭われたふたりのメンバーのうち、川栄李奈さんは、結局グループを卒業した。
入山杏奈さんは、本日(5/26)発売の『週刊少年チャンピオン』で表紙と巻頭グラビアを飾っている。
止めに入って負傷されたスタッフについては不明だが、元気になっていてほしい。
なお殺人未遂で現行犯逮捕された梅田悟は、傷害および銃刀法違反で起訴され、昨年2月に懲役6年の実刑判決を受けている。


開催は毎月よ、でもね、たぶん、きっと…な『音街ピクニック』。
2016年4月のご案内です。


 ***


『音街ピクニック vol.52』
4/7(木)@南青山Lunar(ルナ)

open 19:00/start 19:30
¥2000+order

【出演】

●里咲りさ
●ホノベミナミ
●角森隆浩

MC:津田 真


 ***


では今回の出演者をご紹介しましょう。


【里咲りさ】
子どものようにアナーキーなアイドルグループ「少女閣下のインターナショナル」のメンバー兼運営にしてフローエンタテインメント社長、そして今や各メディアが注目するシンガーソングライター里咲りさ。
CD-R作品をタワーレコードで流通させ、各地でインストアを満員にしている。
名実ともに、2016年のインディー音楽シーンの台風の目。


【ホノベミナミ】
無名のシンガーソングライター女子があふれる東京で、彼女らの中でも最もか細い歌声を持ちながら、一度聴いたら忘れられない底知れぬ音楽的才能を秘めたホノベミナミ。
日によってローザ・ルクセンブルグ、たま、吉田拓郎など数々の名曲をカバーし、それらと並べてまったくひけをとらないオリジナル楽曲を歌う。
「ギタ女」シーンから遠く離れた橋の下で育つケシの花。


【角森隆浩】
かつてアメリカ南部で歌っていたブルースシンガーたちは、一度レコードデビューした後に消息不明になって、その後再びデビューするということがあった。
これを「ブルースマンの再発見」と呼ぶことがある。
2014年12月、ルナのPAJAN氏によって「再発見」されたブルースマン角森隆浩はすっかりドルヲタと化していたが、ソウルは健在で、ウクレレ片手にあろうことかアイドルシーンにまで踏みこむならず者・オン・メインストリートであった。
敬愛する女子2名を前に、ならず者が紳士になる春の夜にようこそ。


…というラインナップで、各40分のライブ+全員でのアフタートーク、美味しいお酒とフードで、楽しく過ごしたいと思います。
是非お越しください。

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昨年(2015年)の今頃は、まがりかどという4人組バンドの全員インタビューをまとめ、フリーペーパー(音楽新聞)『CLOSER』創刊号の一面にするべく作業の真っ最中であった。
フリーペーパーはウェブに移行して、自由なアティチュードのメディアとして地味に続いているのだが、まがりかどは当時期待されていたようには続いて行かなかった(ちなみに、そのインタビューは今もウェブで読める)。

まがりかどは突然、活動休止を発表し、予定されていたいくつかのライブを終えるとシーンから姿を消した。
何故、活動休止したのかは語られていないが、バンドというのは夫婦や恋人同士のようなものなので、本当のところは結局本人たちにしか判らないだろうし、であれば中途半端に言葉にしたくないと考えてもおかしくないので、それはまあいい。
解散ではなく活動休止と呼んだところに、このバンドの《終わり》に対するニュアンスを感じるだけだ。

だが、まがりかどとは何だったのか、という問いは未だ有効なものとして我々に突きつけられている。
パジャマ文庫の始動は、それを改めて証明するものでもあった。

まがりかどを構成していた4人のうちのふたり、すなわち双子の工藤みさき・ゆきみ姉妹が立ち上げた新ユニット、それがパジャマ文庫である。


 ***


2016年3月12日、土曜日。
新宿、deus。

パジャマ文庫の初ライブは、ぱいぱいでか美との2マンにして自主企画という形で開催された。
最初にぱいぱいでか美が登場し、工藤姉妹について、
「きっと今、すごい緊張してると思う」
「相変わらず声が小さかった」
など愛情のこもったいじり方をしながらステージを展開。
ちなみにいつもの衣装ではなく、パジャマ文庫に合わせてセクシーパジャマという設定の姿で登場したのだった(実際のパジャマは「普通にスウェット」だとか)。


工藤姉妹は、パジャマ文庫を名乗る前に一度「工藤みゆき」名義でライブをしている。
その頃から始まっていたのだろうが、とにかくパジャマ文庫としては、これが初ライブである。

ライブは、大きく分けて3つのパターンで進行した。
打ち込みのオケをバックにふたりが並んでハンドマイクで歌ったりラップしたりする曲。
みさきがギター、ゆきみがドラムスを担当する曲。
ゆきみがギター、みさきがドラムスを担当する曲。
つまり、曲によって入れ替わる訳だ。
その方が自分たち的に自然でやりやすい、という風に見えた。
少なくとも、気を衒ったような印象はない。

そうした進行やスタイルじたいは大したことではなかった。
あの素晴らしい楽曲群を前にしたら、スタイルは(もちろんそれが必然的なものだとはいえ)どうでもよく思えた。

どの曲も良かったが、オケで歌った1曲目の後、みさきがギターを持ち、ゆきみがドラムスの前に座って、ピアニカを構えた時に、いきなり焦点がピシリと合ったように感じた。

ゆきみはその曲のイントロに、ピアニカでチャイムを吹いた。
学校で鳴っているあのチャイムのメロディーを。

ピアニカといえば、まがりかどには“下北沢”という名曲がある。
あの曲も、ゆきみ(当時はドラムスもギターも弾かず、キーボード担当)がピアニカを吹いた。

その“下北沢”を演奏する際には、確か毎回「ライブハウスに通うあなたと私たちの歌」みたいな曲紹介があったはずだ。
そこでライブハウスはどんな空間として描かれていたか。
いや、具体的な描写などはほとんどなかったのだが。
まがりかどの世界においてライブハウスとは、学校からも家庭からも離れた、放課後や休日のサンクチュアリであり、そこで過ごす時間がやがて失われてしまうことも判っていて、だからこそ大切な場所、誰かに(あなたに)会える場所、であった。

そうした、バンドの精神性を刻み込んだ代表曲に、印象的に使用されていたのがピアニカだった。
そして今回、ピアニカが使われたのは、こんな歌だった。
以下、CD『I Don't Believe In The Future』からの聴き取りで引用する。


「文化祭も 体育祭も 水泳の授業も廃止さ
だから学校においでよ
ダンス部も サッカー部も 軽音楽部も廃部さ
だから学校においでよ

君の不安や退屈を 僕が殺してあげるよ
君の悲しみや憂鬱を 僕が殺してあげるよ

お母さんや お父さんも もう怒っちゃいないよ
だから帰っておいでよ
先生や 友達も もう怒っちゃいないよ
だから帰っておいでよ

君の不安や退屈を 僕が殺してあげるよ
君の悲しみや憂鬱を 僕が殺してあげるよ」


ここに来て、以前はあらかじめスルーしてきた(ように見えた)学校や家庭とまともに向き合った上での言葉が出て来たのだ。
むきだしの本質をつかみ取って、手作り感満載の音に乗せること。
それは、まがりかどのその先、いわばコーナーの向こう側に鳴っていたはずの歌ではないのか。

しかも、この歌のタイトルは何と“工藤姉妹のテーマ”なのである。
彼女たちは新たな戦場に立った。
戦場という言葉は決して大袈裟ではない。
これは不安や退屈、悲しみや憂鬱を殺戮せんとする双子のテーマなのだから。


オケを使用した曲は、双子の新しい魅力を開花させており、ラップを含め《確かに新しいグループだ》と感じさせるだけの説得力はあった。
一方、ドラムスとギターによる、ふたりバンド編成はというと、歌も演奏も技術的な面では下手としか言いようのないものだが、それは同時に、このように鳴らされなければ決して届かなかったであろう切実さを体現していた。
こうした表現を何と呼ぶか、我々は知っている。
「パンク」である。

昔、パンクロックが好きだ、優しいからと歌ったバンドがいた。
パジャマ文庫こと工藤姉妹は、彼らの末裔なのだと感じる。
ぼくの目に映る2016年の退屈なロックシーンも、きっと彼女たちが殺してしまうだろう。

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2016年3月2日、赤坂BLITZ。
生ハムと焼うどん ワンマンライブ二品目【〜生と死〜】。


生ハムと焼うどんはこうして解散した・・・というストーリーの映像が、最初に流れた。
世界中を席巻し天狗になった挙げ句、スキャンダルにまみれ、解散を発表して消えた、という生うどんらしからぬステレオタイプな話だが、別の角度から見ると、これほど生うどんらしい顛末もないようにも思えてくるから面白い。
で、解散後の二人はホームレスとなって新宿で路上生活しているところを発見され、赤坂に来て欲しかったら(手にしたアサイーの紙パックをカメラに向け)アサイーと言え、ちゃんと見て、言え、とごねて繰り返す。
そして「SAY!SEE!SAY!SEE!生と死!」とライブのタイトルに強引に結び付いたところで映像が終了。
同時に東と西井がステージ上に登場し、ライブがスタートした。

そこからはお馴染みの生うどんワールドである。
歌とコント風の寸劇を絶妙に織り交ぜた、ジェットコースター・ライブ。
仮に普段の対バンをテレビシリーズだとしたら、今回は劇場版という感じだ。
構成がヴァージョンアップした分、セットもしっかり作ってある。

とんでもない新曲もあったし、衣装替えもあった。
だが、いったい誰があのような《衣装替え》を想像しただろうか。
茶色い全身タイツに、とぐろを巻いた黄色い帽子。
完全に小学生レベルの下ネタだが、生うどんの二人がそれをやると、くだらなさが一周まわってアリになってしまう。

その「アリ」の根拠のひとつは東理紗による楽曲(詞・曲)である。
ポップなメロディーと判りやすい言葉を使いながら、生うどん以外にはない世界を生み出している。
特に歌詞の《他にない感じ》は新しい曲ほど鋭さを増して、遠慮なくなっているように思う。
にもかかわらず、ちゃんとポピュラリティーのある仕上がり。

そうしたバランス感覚は生うどん全体に行き渡っているし、身体表現も含めて、観客が見事だと感じるポイントをしっかり突いている。
破綻がないとかではなく、トゥー・マッチなところも込みでバランスが良いのだ。
生うどんの魅力のいくらかは、そうした印象が作り出していると思う。


 ***


「生うどん」こと「生ハムと焼うどん」は、西井万理那(生ハム担当)と東理紗(焼うどん担当)による二人組のセルフプロデュース女子高生アイドル。
最初に噂を聴いたのは2015年の春で、面白いよ、というものだった。
あんなに美形の二人なのに、可愛いよ、という声は聴かなかった。
実際に観たのは5月2日。
少女閣下のインターナショナルが主催した阿佐ヶ谷ロフトAのイベントに出演していたのを目撃した。
その時は物販へは行かなかったのだが、その後、別の現場で「食いしん坊ネーム」を授かった(物販へ行くと、ヲタクにあだ名を付けてくれる。ちなみに生うどんのヲタクの呼称が「食いしん坊」)。

8月10日売りの『MARQUEE Vol.110』では、ラッキーにも紹介記事を書かせてもらったのだが、良いタイミングだった。
夏を境に生うどんの勢いは増してゆき、10月25日の1stワンマンでは、キャパ300人の新宿MARZをソールドアウトにした。

とはいえ、この短期間で次は1000人キャパというのは、けっこう直前まで、食いしん坊を含む多くの人が半信半疑だったのではないか。
けれど当初掲げていた1000人はクリアし、キャパ1200人の赤坂BLITZは満杯になった。
安易に奇跡とか呼びたくはないが、最新の伝説を作り上げたのは間違いない。

こういうことがあると、みんな考えてしまうのである。
頭が分析魔や評論家のようになって、自分なりに納得したくなる。
何故、成功したのか。
既に生うどんに関心を持つ人々によって様々な理由が語られているし、それぞれに当たっていたりするのだろう。
成功要因としては、それらのどれかではなく、どれもが正しいのかもしれない。

ただ、生うどんの本質的な凄さは「JKなのに」とか「セルフプロデュースで」といったパーツ的な部分ではないような気がして、ちょっともどかしい思いがある。

初めて観た時から、観客はこう感じたのではないか。
《あっ、これは面白いし、このまま出るとこに出たら売れるわ》と。
「このまま」すなわち《ここが良いね!》ではなく《総合的にその世界が面白い》。
生うどんとの出会いの衝撃は、恐らく多くの人にとって、そのトータリティーにあったのではないかと考えている。

セルフプロデュースの女子高生ユニットが赤坂BLITZをフルハウスにする、それは偉大な達成であり、そこまでの努力や行動力等には素直にリスペクトしかない。
でも、ファンは《いずれこうなる》と思っていたはずだ。
そういう才能だと。

だからポイントは、速度だろう。
まず、300人キャパの1stワンマンの発表からして、ちょっと早いのでは、と思わせるタイミングだった。
その成功を受けて、いきなり次が1000人キャパで、しかも4ヶ月後。
才能は信じていても、この展開は早過ぎるのではないか。

けれど結果的には、決して早くなかった。
クラウドファンディングに至っては、100万で達成のところが300万近くまで行った。

この《才能と、その広まり方》は、彼女たちが後ろ盾のない女子高生だからこそ衝撃的だという点も、当然後押ししているだろう。
メジャーのレコード会社とも、大手事務所とも絡んでいない、完全にDIYな活動としての常識には、まるで収まっていない。
その上、卒業後もJK(=常識を覆す)だと宣言したチャレンジャーっぷりは本当に頼もしい。

単に才能があるというだけでなく、才能の運用における《アイデアと速度》を兼ね備えた在り方。
「生うどんの本質的な凄さ」は、そこにあるのではないだろうか。

過去に似たようなケースがなかったかと考えると、案外、ザ・フォーク・クルセダーズ辺りが近いような気もする。
主に《完全にインディペンデントなところから頭角をあらわし、シーンに衝撃を与えた》という点で(東・西井を加藤和彦・北山修と比較しても面白いかもしれないが、そこまでやるとこじつけかもしれない)。
ただ、フォークルと生うどんでは、最初の《成功への意識》が違う。
フォークルはもっと、無意識の部分が大きかった。
逆に考えると(比喩的に言うのだが)、意識的に“帰って来たヨッパライ”を作ってヒットさせようとしているのが生うどんということになるのかもしれない。

もちろんヒットのためには、市場にニーズがなければならない。
そして実に今、それはあるのである。
アイドル・ブームはもはやブームとは呼べない地点にまで到達し、成熟しつつ更に拡大している。


 ***


何故、アイドルは《歌って踊る》というスタイルばかりなのか。
存在のすべてが表現になりうる、それがアイドルだと、ぼくは考えている。
しかし、そうであるなら《歌と踊り》に固執しなくてもいいのではないか。

乃木坂46の舞台『16人のプリンシパル』を取材した頃から、そうした思いが裏テーマのようにして頭の片隅にあった。
それはその後も折に触れて浮かんでくる。

そこで生うどんである。
彼女たちに関しては、セルフプロデュースゆえに、その裏方的な部分にまで《アイドル活動》を感じることができる。
その点で近いところにいるアイドルは、例えば里咲りさ(少女閣下のインターナショナル)が挙げられる。
グループの一員であり、同時に運営であり、ソロ活動もしており、フローエンタテイメントの社長でもある。

生うどんの活動が拡大してゆく時に、例えば、事務所を設立する必要に迫られたりもするかもしれない(何しろ次のワンマンは3000人キャパのホールが決定しているのだ)。
どこまでもセルフでやるなら、それすらもアイドル活動になりうる。
それは《アイドルの在り方》だけでなく《アイドルの魅力》を拡張してゆくことでもある。

いずれにせよ新しいアイドルの形は生うどんを筆頭に作り出されてゆくだろう。
この赤坂BLITZワンマンの冒頭で予言されていたように。
思い出してみよう。
ホームレスになった生うどんの二人は、1000人のファンの要望で現場に連れ戻されたのである。
つまり、ホームレス状態でただ生きてるだけでも、アイドル。
そうなると、もはやどんな未来でもアリだし、生うどんには勝利しかないのである。

なんて強引な論理だ。
チャリーン。

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