☆クレーター通信☆

【音楽・文学・その他、文化と愛と怠惰な革命の日記】                                                                                                                                  ※コメントの受け付けは終了しました。  ●Twitter : @tsudamakoto     ●管理者 : 津田 真

2010年01月

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世界を止めて、
天使を振り向かせ、
妖精が舞い降りる──

そんなフレーズで、このところずっと、クレーター通信でもプッシュしてきた、青葉市子のデビュー・アルバム。
『剃刀乙女』、いよいよ全国発売である。

明らかに違うでしょ。
あらためて言うのが、もう馬鹿らしいくらいはっきり違う。
本物の出現によって、偽物が何か判る。


まず、ファースト・アルバムのジャケットが真っ白である、という点からして、尋常ではない。
普通はいろいろ、表に向けてアピールしたがるものだ。
ミュージシャンのルックス、ということに限らず、見た目も含めた「センス」を、とにかく出そうとみんな必死に考えるものだ。

ビートルズのホワイト・アルバムの場合は、ジャケットでのアピールなんかもういらないくらい有名だった訳だし、逆に「セルフ・タイトルで真っ白!」という痛快さがあったと思う。
リアルタイムでは知らないけれど。

でも、無名の新人が真っ白ってのは。
しかも「どうだ、思い切っただろう、凄いだろう」って感じは微塵もない。
いろいろ考えた末に、真っ白がいちばん良いんじゃないかな、となったような冷静さがある。
浮かれていないし、狙ってもいない。
それは実に、青葉市子のライブから受ける印象そのままだと感じる。
こうして出来上がってみると、これ以外なかったんだな、と思う。
そんなジャケットだ。

その一方、アルバムで初めて青葉市子に触れたひとは「うわっ!」と驚きそうなのが、絵本『光蜥蜴』というオマケであるが。
その驚きは、クレジットに至るまですべて手書きの歌詞カードを見れば、中和されるのではないか。
そして、「この感じ」が青葉市子なんだ、としっくり馴染んだ頃には、聴き手はすっかり虜になっていること請け合いです。

これは特に秘密にするべき事柄でもないと思うので書くのだけど、歌詞カードは当初、手書きの予定ではなかった。
普通に写植の、かっちりした綺麗なものだったはずだ。
しかし結局、それは却下され、青葉市子自らすべて「書き下ろす」ことになった。

一事が万事、その調子なのだ。
ひとつひとつ納得ずくでやっている。
慎重ではあるが、それは外界を恐れているのではない。
乙女の剃刀が、最大の効果を得る為である。


これまで散々語ってきた青葉市子の、類い稀なる楽曲群について、これでようやくライブに行けないひととも共有出来る。
レコーディングは一発録りだから、ライブと同じだ。
音質も含め、青葉市子というミュージシャンの実像を真空パックした作品である。

1曲目“不和リン”の最初の一音が、魔法をかける。
青葉市子のライブで、毎回繰り返されて来たことが、銀盤の上にそっくり再現される。
これまではライブが終わったらとけていたはずの魔法が、これからはもう、永遠にとけないのかもしれない。
さあ行け、J-POPをことごとくなぎ倒し、甘美な呪いをばらまくのだ。

とは思うけれど、あまり大声で言う必要もないかもしれない。
不安要素が全くない。
自然に広まって、浸透してゆくだろう。
本物だから。


これまで、ずいぶんたくさんのバンド/ミュージシャンを観てきたけれど。
そして、ずいぶんたくさんの才能と出逢ってきたけれど。
青葉市子は、他のどのミュージシャンとも違う。

どう違うのか。
他のたくさんの、才能あるミュージシャンたちは、それぞれ、
「このひとはこういう才能だ」
とか、タイプ別に分けて見ることができた。
それが、通用しない。

──というのは、後から考えて整理したことである。
最初から、直感はひとつの答えを出していた。
要するに、青葉市子は天才なのだ、と。

本人が、そう言われることを良く思っていないのは判っている。
しかしそれでもなお、ぼくは断言したい。

青葉市子は、ぼくがこれまでにただひとり、直接に出逢った天才である。

「直接に」と断ったのは、もちろん間接的に、CDなどを通して出逢った天才たちもいるからだ。
例えば、椎名林檎や、宇多田ヒカルや、七尾旅人──。
そう、青葉市子は、彼らと同列に語られるべき才能なのだ。
天才というのは、そういう意味である。

もう10年以上前になるが、昨日のことのようによく覚えている。
『無罪モラトリアム』を初めて聴いたとき、ぼくはずっと、
「天才だ…天才だ…」
と頭の中で呟き続けたものだった。

それに匹敵する才能がいきなり目の前にいたら、夢中にならない方がおかしいってものです。
初めてルイナで音源を聴いた後、一週間ずっと、その歌声が離れなかったって話は、以前書いた通り。

本人が否定しても、始まってしまったものは止められない。
青葉市子は発見され続け、彼女を見つけた誰もが「天才だ」と呟き続ける。



さあ、
青葉市子のサーカスの始まりだ。
紳士淑女諸君、
みなさんの心を奪う為に、彼女は歌う。

ほら、マイメロディが懐中時計を片手に走ってゆく。
急がなくっちゃ。
一緒に穴に落ちましょう。

兎と妖精が道案内するサーカス小屋へ、ようこそ。


J・D・サリンジャーが、1月27日に亡くなった。
1919年1月1日生まれだから、91歳。
死因は明らかにされていないそうだが、老衰なんじゃないか。
十分生きたって年齢でしょう。


まだ生きてたんだ、って声もある。
死んだことによって、これまでは生きていたことが判った、と。

でも例えば日本では、村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に続き、柴田元幸訳『ナイン・ストーリーズ』が、昨年出たばかり。
結構話題になっていたから、存命であることも、気にしているひとには知れ渡っていたはず。


ブローティガンがピストル自殺したときの反応は、冷めていたそうだ。
作家として人生を完結させたような死だと、後に言ったのは高橋源一郎だったかな。
サリンジャーの死は、しかし、不思議な感覚をぼくにもたらした。

そういえばサリンジャーと高橋源一郎は、共に元日生まれですね。
いや、完全な余談ですが。


ええと、ある意味ではサリンジャーは、既に死んでいたともいえる訳で。
社会/世間からすればね。
しかし、本人にとっては、生きる為の隠遁生活だったはずだ。
だって彼は生きたのだから、91歳まで。

書き続けたのかどうかは判らない。
これからもし、遺稿が出て来たら、非常に興味深いけれど。


ところで、マーク・チャップマンはまだ生きているのかな?
『キャッチャー』を懐にしのばせてジョン・レノンを撃ち殺し、警察が到着するまでその場で『キャッチャー』を読んでいたという、あの男。

そのエピソードのせいか、サリンジャーはロック世代の作家と勘違いされることがある。
でも、もちろん違う。
そして、ホールデンが徘徊するニューヨークは、まだロック誕生以前の街だ。
そこで吐き気を覚えないティーンエイジャーがいる訳がない。

ホールデンがやたらと大人の真似事みたいなことを繰り返すのも、十代にしっくりくる在り方がないからだ。
当時は学校と家庭以外に居場所はなく、両者を否定したらどうなるか、という物語でもある、『キャッチャー』は。
それは音楽も同じで、彼らの胸に響くヒット曲なんてなかった。
だからホールデンは孤独と混乱の中で、自分自身の中のイノセンスを守り抜こうとし、その具体的な対象を妹のフィービーに求める。

そう考えると、もしロックンロール誕生以後であれば、学校と家庭を飛び出した少年がギターと出会ってロックンローラーになる、って話になってもおかしくない。
でも、そうはならなかったことで普遍性が生まれている。

ぼくの想像に過ぎないが、サリンジャーにとってロックンロールという《装置》は、現代における携帯電話みたいなものだったのではないか。
携帯の存在を恨めしく思っている物語作家は多いだろう。
話が作りにくくなるってことで。
ロックンロールによって誕生したのは新しい音楽だけではなく、ティーンエイジャーの居場所でもあった訳で、それは同時に《図式》の誕生でもあった。
さっきのように、もしホールデンが楽器を持っていたら、つまらない話になっていただろう。
実際、その手のつまらない話は量産され続けて現在に至っている。
それが見えていたのかもしれないな、サリンジャーには。


ジェームズ・ディーンもロック世代の反抗のシンボルのように思われているが、それも後付けのイメージだ。
『理由なき反抗』なんかは、まだロックンロールが生まれる前の、ぬるいヒットソングが流れている。
それでもジミーやホールデンを、ロック世代は、普遍的な反抗のシンボルと見なしてゆく。
それは、そこにロックンロールがなかったから、風俗として古びなかった、ってこともあるのかもしれない。

ジェームズ・ディーンは死んでしまったし、サリンジャーは65年には姿を隠してしまう。
どちらも伝説になったからこそ、都合よくシンボルに祭り上げられた、という側面もあるだろう。

サリンジャーからすれば、それは実にどうでもいい現象だったろう。
だってサリンジャーを伝説として扱う連中こそが、サリンジャーを追い込んだのだし、彼らこそがホールデンによって糾弾されるべきいんちきな奴らだったのだから。


ほんとはね、読んでなかったの、『ライ麦畑』。
キョンキョンが笑顔でそう語っていたのは、いつかのIDジャパンの表紙だった。
それでもキョンキョンの当時の影響力は大変なものだったし、彼女のひとことで売れた本は他にもあった。
そこで出会ったひともいるだろう。
ちなみに、ぼくは下村誠の著作『路上のイノセンス』でサリンジャーを、『ライ麦畑』を知った。
18歳だった。
十代で読むと影響されると聞いて、しばらくは近寄らなかった。
でも、年は関係なかったようだ。
いまではぼくは、ライブハウスのキャッチャーだ。


こんな話を思い出す。
80年代のある日。
ポール・マッカートニーは散歩していた。
ジョンのことがあってから、散歩にも気を使うようになっていた。
久しぶりの散歩だ。
すると、ひとりの中年男が近付いて来た。
変な奴かもしれない。
緊張。
男は、ポールの前に来ると、言った。
「十代の頃、あんたの音楽を聴いて、人生が変わったんだ」


サリンジャーは、彼の理解者からも姿を隠し、塀を築いてひっそりと暮らした。
彼の本は世界中で売れ続け、時々、誰かの人生を変えた。
けれど、そのことを読者から直接聞く機会はなかった。

サリンジャーがそこまでして守ろうとしたイノセンスは、彼の死によって消滅してしまったのか?
答えはもちろん、ノーだ。
彼のイノセンスとマッドネス(両者はセットだ)は、既にあまねくばらまかれているのだから。


もう、誰にも会わなくていい。
そのことはサリンジャーにとって、救いだったのだろうか。
いや、そういうことじゃないんだな。
きっと。

最も純粋なコミュニケーションとは何か?
サリンジャーにとっては、作品を通した交流こそが純粋で、至高のコミュニケーションだったのかもしれない。
完璧にイノセントな世界が実現するとしたらそれしかない、と考えていたのかもしれない。

全部、推測だ。
本当のことは判らない。


サリンジャーは死に、ホールデンは生き続ける。
死んだはずのシーモアもまた、生き続ける。
世界中にばらまかれた彼のイノセンス。
それは明日、誰かの人生を変えるかもしれない。


ミスタ・サリンジャー、どうか安らかに眠って下さい。
もう、他人を気にしなくていいんですよ。

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1月27日、水曜日。
池ノ上、ルイナ。


青葉市子、十代最後のライブ。
二十歳の誕生日前夜。
ワンマンライブ。
その名も、

『剃刀乙女 洟垂れよ 放たれよ』


この夜、ルイナの店内には、実に多くのものが詰め込まれた。
様々な無機物、様々な有機物。
それはビデオカメラであり、ICレコーダーであり、観客であり、関係者であり、多くのひとが持ち寄った青葉市子への誕生日プレゼントであり。
そして様々な妖精、天使、悪魔──。


通常の営業とはスタイルを変えていた。
ルイナ始まって以来かもしれない動員に備えた、シフトが敷かれたようである。

ドリンク代込みの入場料を、入口で払う。
それがまず違う。
ルイナはいつも、後払いである。

ドリンク・メニューも違う。
ふだんは何でもありだが、今回はアルコール/ソフトドリンク共に5種類ずつに限定された、スペシャル・メニューから選ぶようになっていた。
フード・メニューは終演後のバー・タイムまでなし。
また、バー・タイムにはドリンクのオーダーも通常通りとなる。

そうした違いの代わりではないだろうけど、入場時に「おやつ」が配られた。
でんろく豆、柿ピー、ラムネ、キャンディ、の小さな詰め合わせ。
手のひらサイズ。

店内に足を踏み入れると、いつものテーブルがなく、とにかく多くの椅子が用意されていた。
最初から立ち見を想定した客席の造り。
客席中央と、カウンター内のPA卓の前にはビデオカメラが、三脚に乗ってスタンバっている。

12月の新宿紅布では、我々のチームが撮影をしたが、今回はそれとは全く別で、レーベル側が手配した撮影班である。
ぼくはこの夜は、諸々の事情から、業務用のカメラではなく、小さなやつを回していた。


定刻の20時を少し過ぎてから、照明とSEが絞られ、青葉市子がステージに登場した。
MILKの白いワンピースだ。
ここぞ、という時に、天使のようなその衣装を身につける、ように思う。

客席を見て、驚きと喜びが入りまじったリアクションを、一瞬してみせたりする。
何しろ、彼女の言葉を借りれば、
「敷き詰まってますね〜」
という具合に、観客はみっしりと店内を埋めていたのだ。

そういえば、最後列の方々は、壁際のソファの上に立って観ていたらしく、MCで話題にされていました。
顔が天井に近くて、首を吊っているように見える、とか(笑)。


これまで、何度かワンマンライブはやってきている青葉市子ではあるが。
この日の気合いの入りようは、以前にはなかったものだ。
例えば、店内の様々な装飾。
カウンターには紙粘土で制作された人形たちが吊るされていたり。
ステージの背後には、青葉画伯による多くの絵が貼られていたり。
また、ドリンク・メニューにはオリジナルの市子ドリンクが用意されていたり。

ちなみにアルコール入りの方はお馴染み(?)の「妖精エキス」。
今回新たに加わったメニューはソフトドリンクの「悪魔エキス」。
飲みながら聴くと、青葉市子の音楽がより理解出来る。
気がする。


気合い、というなら、もちろん音楽面での充実に、それが最も現われていた。
二部構成のステージは文字通り「構成」があったのだ。
これまでは、単に休憩を挟んで分かれているだけ、という感じだった。
行き当たりばったりで曲を決めていたようだし。
それでも、持ち曲が少ないから、自ずと漠然とした流れや順番は出来てしまう、そんな感じだった。

そうした、無意識と意識の狭間を漂うような印象は、今回は全くなかった。
今まで以上に観客を意識して、音楽的な効果を計算したステージになっていた。

1曲目は“不和リン”。
これは不動のオープニング。
だが2曲目は、夏以来ずっとそのポジションにあった“腸髪のサーカス”ではなく“ココロノセカイ”だった。
この違いは大きい。

個人的には、どちらがより良いとかは、決め付けてしまいたくはない。
いろんなパターンがあって良いと思う。
ただ今回は、レコ発、と捉えるならあの構成で正解だったのではないだろうか。
簡単に言うなら、アルバム『剃刀乙女』の世界を、より拡大したステージであり、あの真っ白なジャケットに、カラフルな彩色を施したような空間を作っていた。

“腸髪のサーカス”が2曲目ではなかった時点で、ある予感が生まれ、それは的中した。
これまで青葉市子のライブを観て来た者ならば、みんなその予感を持ってライブを観ていたのではないか。
つまり、本編の最後が“腸髪のサーカス”になるのであろう、と。
それはアルバムと同じ構成でもある。

この夜は出発であると同時に、これまでの集大成でもあった。
いや、結果的にそうなっただけで、本人からしたら途中経過にすぎないのだろうけど。

未完成の断片を集めた「新曲のCMソング」シリーズもまとめて披露されたし、一部の最後には“機械仕掛乃宇宙”もやった。

マイクスタンドには、レモン色の三日月(紙粘土製)がぶら下がっていた。
気紛れにピアノに向かって適当に弾いてみたり、東急ハンズで見つけたというオタマジャクシ(八分音符)型のオモチャで“ピーターラビットとわたし”を演奏してみせたり。
いつものように自由な青葉市子的ステージではあるが、やはり少しずつ、変わって来ている。
そして観客の反応も、人数が増えたぶん、しっかり変化して来ていた。


休憩の後、青葉市子は衣装を着替えて出て来た。
Emily Temple cute のピンクのワンピース。

二部はまず、カバーを中心にやります、と言って、新人らしい初々しさを感じさせた。
が、演奏が始まってしまえばそんなのは吹き飛ぶ。
芸術に新人もベテランもない。
あるのはただ、良いか悪いかだけだ。

“遠いあこがれ”も、“夏色の服”も、“黒のクレール”も、素晴らしい演奏だった。
ライブでは“遠いあこがれ”は久しぶりで、うれしい──といった個人的なレベルの感想は、最早どうでもいいだろう。
これらの選曲と、明確な音楽的達成には、意味はともかく、意義はしっかりある。


以前にも書いたが、青葉市子は大貫妙子が好きで、声やメロディの好みも近い。
大貫妙子は、あれだけメジャーな存在でありながら、フォロワーがほとんどいない。
矢野顕子にはフォロワーがたくさんいるけれど──実際にどれだけのことが出来ているかは別として。
まぁ成功例はクラムボンとか、僅かだろう。
でも矢野顕子を目指すひとは多い。
矢野顕子と大貫妙子は盟友と言って良いだろうし、どちらも破格の才能を持っている。
が、大貫妙子のようにやろうというひとは、見たことがない。
その違いは何か。
ずばり、スタイルだと思う。

矢野顕子は、レコーディング作品としては実は多彩なアプローチをして来ているが、世間のイメージは、《超絶ピアノ弾き語り》であり、童謡をジャズにしてしまう天才、みたいに見られている。
ライブでのスタイルが彼女のイメージを強固にしているのだ。

一方、大貫妙子には、判りやすいスタイルとしてのイメージは、ないと思う。
シュガー・ベイブ時代を別にすれば、大貫妙子には音楽のイメージとパフォーマーとしてのスタイルが直結することがなかったような気がする。
それは音楽じたいのクオリティとは関係ないし、実際、彼女には素晴らしいキャリアがある。
けれど、若いミュージシャンの雛型にはなりづらい。
あまりに独自過ぎる上に、判りやすいスタイルを持たないからだ。

そこで青葉市子だが。
彼女は偶然(だろうか)にも、ひとつのスタイルを通して大貫妙子を見る機会に恵まれた。
山田庵巳というスタイルである。
青葉市子の“夏色の服”は山田庵巳ヴァージョンを下敷きにしている。
スタイルを、フィルター、と言い換えてもいい。
それは、大貫妙子解釈の為の、魔法の鏡のようなものだったのではないか。
クラシック・ギターのみで歌われる大貫妙子の曲は、山田庵巳を経由して青葉市子に繋がった、まっすぐな一本の線を観客に見せる。
キューピッドの矢のようにまっすぐな線。

別に、青葉市子は大貫妙子のフォロワーだと言いたいのではない。
そういう要素もありつつ、他にない青葉市子独自の世界を展開している。
あらためて思う。
青葉市子以外のいったい誰に“重たい睫毛”が、あるいは“腸髪のサーカス”が、歌えただろうか、と。


アンコールを求める拍手が起こり、楽屋へ戻ろうとした青葉市子はステージの端から中央へと引き戻された。
やはり、と言うべきかアンコール曲は“はるなつあきふゆ”。
山田庵巳というひとはこんなにスタンダード感溢れる名曲を作れるのに、何故、あんなステージングをするのだろう──、まぁ、その話はまた今度(笑)。


初めて見る顔のお客さんがたくさんいた。
これがリリース効果だろうか。
洟垂れたのだ、放たれたのだ、剃刀乙女が。


写真は終演後、十代も残り僅かになった頃に登場した、サプライズのケーキと共に。


青葉市子、
Happy Birthday 20♪

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さてさて、『音街ピクニック』です。
チラシも完成しまして(写真参照)、ぽつぽつ配っております。
出演者も全員発表出来ましたし。


そんな中、marble Beeたかはしまいこから、こんな連絡が。

after the greenroomが大好きなので、共演出来てうれしい!

とのことです!
おお!

今回は弾き語りで登場の山田真未ですが。
彼女の音楽は、弾き語りを観ればバンドを、バンドを観れば弾き語りを観たくなるようなものです。
どちらにも捨てがたい魅力がありますね。


そう考えると、今回は3組ともそうだな、と気付いたりして。
marble Beeも、たらりらんも、アコースティックでもエレクトリックでも、それぞれに魅力がある。
両者とも、ちょうどいま、新たにバンド・サウンドでやっていこうというタイミングですが。
もしもそうじゃなくても、オファーはしていたと思います。

これは!というミュージシャンを呼びたい。
自分のイベントだからそれは当然だけど、ルイナだから、ってことで更にハードルは上がる。
出演者にハズレなし、という神話(笑)を持つルイナであります。
しかし、この3組なら怖いものなしですな。

もちろん、これまでに『音街ピクニック』に出演してくれたバンド/ミュージシャンのみなさんは、全員そういう「怖いものなし」感溢れるメンツだったと思いますが。
理想としては、お客さんが、
「今回はひと組も知らないけど『音街ピクニック』だから観に行こう」
と思ってくれるようなイベントであって欲しい。
その為には毎回、絶対の自信を持ってブッキング出来ないと。
で、今回も、これならと胸を張れる3組になった訳です。


たまたま3組とも女性シンガーですが、それは偶然です。
まぁこれまでの出演者にも女性シンガーは多いですが、そういう狙いは全くありません。
ぼく自身がそういう聴き方をしませんから。
いや、しないというか、出来ないです、ぼくには。
あくまでも、音楽的でありたいからです。


あ、そうそう。
今回、またイベントをやると発表してから、会うひと会うひとに、同じことを訊かれました。
それは、
「青葉市子さんは出るんですか?」
というもの(笑)。
『音街ピクニック』のお客さんで、青葉市子が観たいという方は、是非、2/20、2/21と、二日続けてルイナへ足を運んで下さいまし。
『音街』翌日の2/21には、青葉市子が出演致します。

それか、今夜。
池ノ上ルイナで青葉市子はワンマン・ライブをやりますから。
間に合うようでしたら是非。

詳細はこちらで。
『クライシスコール』青葉市子ブログ
http://kiranfuwan.jugem.jp/


また続報(という名のよた話)を書きますので。
とにかく2月20日、土曜日、メモしておいて下さい。
その夜、東京でいちばん面白いイベントですから。


★★★★★★★


『音街ピクニック』
vol.4

●2月20日(土)
●池ノ上 bar ruina
http://music.geocities.jp/pajan_rock/

【出演】※出演順

★たらりらん
http://ip.tosp.co.jp/i.asp?I=tararilan

★山田真未(after the greenroom)
http://www.freepe.com/ii.cgi?grnrm

★marble Bee
http://marblebee.net/

●OPEN /19:00
●START/19:45
●\2000+order

音街ピクニック掲示板
http://8820.teacup.com/otomachi/bbs

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やまみちゃんこと山田真未の歌を聴くのは、3回目。
でも、バンドではまだ2回目だ。
前回観たのは今月の始めだというのに、記憶の中の姿よりも、遥かに凄いバンドだった、after the greenroomは。


1月23日、土曜日。
新高円寺、CLUB LINER。


バンドはかなり頻繁にライブをしていて、さて、いつ行こうか、いつ行けるか、と検討していた。
そこで、このバンドについてはぼくより予備知識がありそうな、ぴかちゅう(fromロシア)に参考意見を訊いてみる。
で、結局、なんだかんだでこの日にする。

ちなみに「(fromロシア)」というのは、そういう帽子を被ってたんですね、ぴかちゅうが。
何ていうの、あのメーテルが被ってるような形の、ロシアのスタンダード(?)な帽子は。
やまみちゃんも帽子を被って来ていて、そのフェルトのハットはなかなか似合っていた。
もちろんというか、ぼくもいつもの如く帽子でした。
それで、帽子の試着会みたいなことになる。
やはりロシア帽(仮名)のインパクトが強かったのかな、そこから始まったんだ、確か。
ぼくのキャスケットをやまみちゃんが被ってみたら、非常に似合っていて、なんか悔しかった(笑)。

それは余談でした。。


after the greenroomを最初に観た時は、新年のお祭り的雰囲気のイベントだったから、そのせいかとも思ってたのだけど、いや、山田真未は対バンをガン見するのです(笑)。
普通の観客よりもステージに寄って、言ってみれば最前列で、ノリノリで観ている。
それは前回観たナインスパイスでの弾き語りライブの時も同じだった。
ベースのあゆちゃんもしっかり対バンを観ていたようだけど、やまみちゃんは本当にかぶりつき(笑)。

ぼくからすると、そういうのは不思議なのでした。
何故なら、ぼくが観た3回とも、after the greenroom/山田真未は、他のどの出演者よりも凄い、それはもう圧倒的なライブをやっていたからだ。
本人的には、あまり自覚がないのだろうか。
だから、他の出演者もあんなに楽しめるのだろうか。


出番がやってきた。
セッティングを終えると、そのまま演奏に突入した。

耳をつんざくギターのフィードバック・ノイズがサイレンのように鳴らされ、転換中から流れていた曲が絞られる。
暗転。
山田真未がドラムセットの方を向き、テレキャスターのヘッドを避雷針のように垂直に掲げ、振り下ろすと同時に激しい演奏が始まった。
ヘヴィな爆音は、しかしあくまでも透明に響く。
それがafter the greenroomのサウンドだ。

ドラムス細根雄一は、ハイハットの横に置いたボンゴをスティックで叩いたりして、独特のアクセントを付ける。
ベース日置亜由子は、小さな身体で楽器を振り回し、低音で空気をうねらせる。
そしてギター&ヴォーカル、山田真未。
もしもパティ・スミスが、詩人ではなく童話作家だったとしたら、きっとこうだったのではないか、そんなイメージを抱く。
心に優しく爪を立てる歌=物語の数々。

現在発売中の7曲入りCD(\500)『深海のスープ』からは、今回、2曲が演奏された。
“ねこの暮らし”、そして“夜喰いバク”。

どちらも良い曲で、というかCDじたい素晴らしい出来だし、未収録の楽曲もみんな良いのだけど。
今回は特に、ラストに演奏された“夜喰いバク”が良かった。
この曲をCDで聴いていると、轟音の中からそっと「大丈夫」という声が聴こえる瞬間がグッとくるのだけど。
CDよりも力強い演奏は、ちゃちな切なさを吹き飛ばし、大音量で音楽を奏でる喜びに満ちていた。


そんなに寂しい夜ならば
食べてしまいなさい
そんなに悲しい夜ならば
食べてしまいなさい
たとえお腹を壊したとしても
怯える夜はもうこないから
(“夜喰いバク”)


孤独を突き詰めることと、それによる意識の拡大、青い夜の底に横たわる夢の世界──、
紙一重で悪夢に落ちてゆきそうな、綱渡りするイメージを、こちら側に引き戻そうとするかのように歌う山田真未。
濁った世界をまるごと飲み込んで、濾過してゆくような、そのパフォーマンス。

女性で、山田真未と比較できるシンガーを、ぼくはちょっと思い浮かべることが出来ない。
でも男性なら、ひとりだけいる。
西村茂樹だ。
そう気付いた時は、我ながら驚いた。
だって男女問わず、西村茂樹と比較出来るシンガーが登場するなんて考えたこともなかったから。
しかもそれが、こんなに華奢な女の子だったとは。
はっきり言うけれど、エモとかいってパンクごっこをしているバンド群より、after the greenroomは遥かにパンクだ。
決してパンク・バンドではないのだが、それでもなお。
あ、でもソウル・フラワー・ユニオンを《本当のパンクのスタンダード》とするならば、after the greenroomは立派にパンクだな。
そういうバンドである。

3人のバランスも良いし、演奏は常に創意工夫に溢れているし。
こうして文章にするとどうも、山田真未ばかりクローズアップしがちになるが、バンドとして非常に面白いし、日本語のロック表現に興味のあるひとなら、きっと驚き、喜んでくれると思う。

短めのステージだったが、とんでもない爆発を観せてくれた。
バンドは3月から4月にかけて、10ヶ所のツアーが決まっている。
関西、北関東、長野、その辺りの方は是非!
期待して行けば、期待以上のものが観られるはずです。

写真は終演後。
左が山田真未、右がベース日置亜由子。


◆◆◆


さて、そんな訳で。
ここでニュースです!

2月20日(土)、池ノ上ルイナにて開催されます『音街ピクニック』vol.4ですが。
これまでmarble Bee、たらりらん、と2組の出演者を発表してきましたが、いよいよ3組目の発表です。
そのミュージシャンの名前は、

山田真未!
フロム after the greenroom!

今回、やまみちゃんには弾き語りで参加していただくことになりました!
3マンで、持ち時間は各40分です!
たっぷり堪能していただけると思います。

以前、絶対の自信を持ってすすめられなければイベントなんかしないと書きましたが、まさにそういうメンツでのイベントになりました。
控え目に言って、日本の大衆音楽の将来を担う、若き3組の共演です。
是非、楽しみにしていて下さい。
予約は各出演者かツダまで、絶賛受け付け中です!
(1/16の記事も参照して下さいまし)


after the greenroom
http://www.freepe.com/ii.cgi?grnrm

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さっき──と、言いましても。
1月23日の、1:20頃の話ですが。

J-WAVEで青葉市子が流れましたよ!
新譜の試聴コーナーみたいなやつで。
その前には、0.8秒と衝撃。の、今週出演したイベントでのライブ・テイクがかかっていて、そのまま聴いてたらそんなコーナーになって。
新譜コーナーか、じゃあ、かかっちゃったりして、なんて思ったら本当に(笑)。
内訳は、
“不和リン”(イントロ)、
“ポシェットのおうた”(飛び飛び)、
“腸髪のサーカス”(部分)、
という、触りばっかりではありましたが。
でもまぁ、電波に乗って当然、という感じか。
仮にも音楽業界にいるひとならば、『剃刀乙女』を聴いて引っ掛からない者は皆無だろうから。
で、その後はschool food punishmentのコーナーになったと。
素晴らしい流れですねこれは(笑)。


◆◆◆


そんな訳で、たらりらんです!

タイトル通り、バンド編成になってから今回が2回目のライブ。
前回はオープニングアクトで3曲だった。
それが今回はいきなりの3マン。

早い!
若いからね!
成長が早い(笑)。


1月22日、金曜日。
吉祥寺、曼荼羅。


今回ぼくは、『音街ピクニック』のチラシを折り込んでもらう為に一度、16時過ぎに曼荼羅へ行った。
到着していたのは中村千尋ひとりで、諸々の準備をしていた。
たらりらんのことだから、道に迷ったり、電車に乗り遅れたりしているのだろう(憶測)。
でも、徐々に集まって来る。
そんな中、B5サイズに2枚分コピーしてきたチラシを、カッターで半分に切る作業を続ける。
今回の音街フライヤーは、B6サイズで可愛くいこうかと。

顔見知りの曼荼羅スタッフ嬢(最近髪切って更に可愛くなった)に
「今日はたらりらんのスタッフですか?」
と訊かれる(笑)。
もーずっとたらりらんのスタッフを続けたい気持ちは山々なんですが(笑)。
面白いもん、たらりらん。

チラシを置いてから、別の用事で外へ出て、19時過ぎにあらためて入場。
今回も1番手。
でも持ち時間は40分。

たらりらんは、まだ、5人編成でのレパートリーが少ない。
でも持ち時間は長い。
で、曼荼羅の店長に、以前やっていたアコースティックの曲も加えたら、と言われたのだそうだ。
MCで、そんなことを喋っていた(笑)。
普通のバンドなら、あんなことはステージで言う必要ない、もっとプロ意識を持て、と思うところだが。
たらりらんはそれすら許容してしまう雰囲気がある。
その独特の脱力キャラ集団が、あまりにも優れた楽曲を演奏する、というギャップも良いし。
演奏力は別として。
そんなものはこれから幾らでもついて来るから問題ない。

金曜日に相応しく(!)“金曜日の午後”からスタート。
しっかがリードギターだ!
しかも今回はマイクも立てているぞ。

カテキンはコーラスやディレイを使った音作りのようだ。
アルペジオと、さらっとしたカッティングをメインにして、サウンドに奥行きと厚みを作る。

ゆうやんのドラムスとみのりんのベースが、たらりらん固有のグルーヴを生み出す。
みのりんはプレイヤーとしても引っ張りだこな、うら若き実力派である。
それに対し、ゆうやんは決してうまいドラマーではない。
しかし、バカテクのドラマーを代わりに入れても、たらりらんの魅力は、ゆうやんほどには引き出せないだろう。
バンドってそういうものだな、と感じさせるサウンドであり、メンバーの楽しそうな関係の在り方がそのままアンサンブルに出ていて観客も楽しくなる。

2曲目は“「好きなもの」”。
その後、千尋とカテキンを残してメンバーがステージを去る。
ふたりは椅子を用意して、ここでアコースティック・タイム。

すると何と、しっか・ゆうやん・みのりんの3名が、客席に出て来て、ちょうどぼくの横にずらっと並んだ。
ここで観る気か(笑)。
これが普通のバンドだったら、もっとプロ意識を持て、と云々かんぬん、以下同文。

この自由さは最高である。
ぼくの中ではP*rf*meを越えた(笑)、キャラ的に。

“おかえりなさい”、
“なつのひ”、
いずれもそのうちバンド・サウンドで聴きたい名曲を演奏。
“なつのひ”が終わりかけると3人はそそくさとステージへ戻って行った。

たらりらんを知らないひとは、名曲とか簡単に言うと思うかもしれないけれど、中村千尋のソングライターとしての才能は相当なものである。
バンドに戻って最初に演奏された、たらりらんの代表曲と言っていい“うたたね”なんて超がつく名曲だ。
今年は無理としても、来年、この曲で紅白に出ててもちっとも不思議じゃない。
そういうレベルなんである。
い○○○○○りの百倍は素晴らしい。

まぁ、このメンバーで2度目のライブだし、というか前回が実はフライングで、この日が本来、バンドでの初ライブだったはずなのであって。
課題が山積みなのは、当然のことで、それでもなお、紅白レベルと言い切れる可能性を、たらりらんは持っている。

それが、全く大袈裟な話じゃないことを判ってもらう為に、ぴったりの機会があります!
そうです、『音街ピクニック』vol.4!
2月20日(土)、是非とも池ノ上ルイナに遊びに来て下さい。
共演のmarble Bee共々、邦楽の輝かしい未来を垣間見ることが出来るライブをやってくれるはずです。

ラストは“バイバイ”。
もしかしたら中村千尋本人も気付いてなかったかもしれないが、たらりらんは初ライブからちょうど1年になるのである。
泥だらけの原石のようだった、あの初ライブから1年。
感慨深い、けれど、感慨にふけるのはまだ早いな。
だって「その日」が見えるのだ、たらりらんを見ていると。
未来はきっと、楽しいぞ。


写真は帰り際、曼荼羅の裏口にて(笑)。
左上から、みのりん、しっか、カテキン、ゆうやん、そして真ん中が千尋。
HPはこちらです!

たらりらんのHP
http://ip.tosp.co.jp/i.asp?I=tararilan


余談ですが、中村千尋の手首のシュシュが、ぼくにはポンデリングに見えてしようがなかったのでした(笑)。

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昔、いわゆるフィルム・コンサートというのがあった。
ビデオ・コンサート、ってのもあった。
今回も、形としては同じはずだと思っていたから、わりと気楽に出かけた。
とんでもない間違いだった。
記事を書くつもりも、全くなかったのだ、観る前は。


1月19日、火曜日。
タワーレコード渋谷店B1《Stage One》。

今回足を運んだイベントは、12月に発売されたミッシェル・ガン・エレファントの2枚組ベスト盤の、購入特典である。
詳細は、当日まで知らなかった。

渋谷タワーB1でのイベントの時は、大抵そうなのだが、エレベーター寄りの入口のすぐ横に、入場券との引き換えをするカウンターが出る。
購入特典として客がもらうのは、入場券そのものではないのだ。
ここで、整理番号付きのチケットと引き換えて、時間になったら、あらためて並んで入場する。

そのカウンターで、19時の回と21時の回があるが、どちらが良いかと訊かれた。
ふむ。
ちなみに、上映時間はどのくらいなんでしょうか?
すると何と、1時間半だという。
それはスタンディングですかね、と訊くが、その方はよく知らないようだった。
でも、1回の上映につき300名分のチケットがあるというから、明らかにスタンディングだ。
300名分もの椅子席を用意できる会場ではない。

終了時間のことを考えて、19時の回にしてもらう。
ううむ、300人で立ち見か、ライブ映像を。
聞いたことないな。


昔、スピッツが『ハチミツ』を出した時、やはりこの渋谷タワーのB1で、ビデオ・コンサートがあった。
当時は、いまとだいぶ状況が違ったから、ソフト化以前のPVや何かが観られるだけで嬉しいものだった。
女の子ばっかりのお客さんに混じって、後に『ソラトビデオ』に収録される辺りの映像を観たんだった。
もちろん椅子が出ていた。
普通に並べたら、50席くらい、そのくらいのスペースである。

時間だって、30分くらいではなかっただろうか。
ライブを観たこともあるが、その手の購入特典フリーライブは、長くてもせいぜい30分くらいだと思う。
要するにインストアライブの感じ。

ミッシェルは違った訳だ。
だって今回観たその映像は、以前同じ会場でやったライブなのだ。
時間になったので並んで入場したら、そういうアナウンスがあった。
上映するのは2000年のライブ映像であり、今回はその時のライブを出来るだけ再現する、『爆音上映会』なのだという。

一般のライブハウスでいうと、渋谷O-Crestくらいの広さの会場である。
そこが満員の立ち見になって、スクリーンに映像が流れるのだ、1時間半。
何だ、それは。
映画ともライブとも違うぞ。


関係ないけど、ぼくはミッシェルのライブを生で観たことがない。
現役で1、2を争うくらい好きなバンドだったのに、何故か観ていなかったのだ。
だから今回、初めて客層を見た。
女の子が軒並み可愛いのに驚いた。
普通、ロックっぽい、と一般に思われるようなファッションの女の子は、男性が見て可愛いと感じる外見とは、ちょっと違ってしまう場合が多い。
それがないのだ。
センスが良い。
男性ファンも、一部の変にロケンローな例外を除いて、シックでクールな雰囲気。
さすが、と思った。


さてさて。
2000年といえば、『カサノバ・スネイク』の時だ。
と頭の中で考える。
でも映像を観れば、これはいついつのものです、なんて言われなくてもすぐ判るだろう。
つまり、チバがオールバックで、キュウちゃんがモヒカンの時だ。
いや、モヒカンはその後も続くのだけど、チバのオールバックはこの時期だけなのだ。
ファンなら一目瞭然である。

そして、異様な時間が始まった。
照明が落ち、上映がスタートする。
映像の中の観客は、最初からヒートアップしている。
口々に何か叫び、スピーカーからは怒号のようなノイズが流れる。
もちろんバンド登場のSEは“ゴッドファーザー”だ。
1曲目は“デッド・スター・エンド”。

針を振り切ったような熱狂。
再現を目指しただけあって、通常の上映会では有り得ない、まさに爆音である。
それを、じっと立ったまま、暗闇から見つめる300人。

どうしても、アベのことを考えてしまう。
それなりに、気持ちの整理をしてここへ来たつもりだったのだが。
周りの観客が、何を考えているのか知りたかった。

画面の左上に、ずっと
《LIVE》
という表示が出ていた。
当時、外へ向けて流された映像の、これは録画ってことだろう。

でも途中からは、そうした意識の上澄みは、どうでもよくなった。
ミッシェルが何故、このような凄まじく過剰なライブを繰り返していたのかに、思考は移って行った。
普通ではない。
普通ならこんなフリーライブは、4曲からせいぜい6曲くらいのセットで事足りるのだ。
しかし恐らく、ミッシェルにとっては、こうした在り方が普通だったのだろう。
あまりにも過剰だ。
それは同時に、あまりにも正しい。
ここまでやらなきゃダメなのだ。
異界を現出させる為には。

もはやライブ会場ではなかった。
それはひとつの世界だった。
超ヘヴィなロックンロールをマシンガンのように連射し続けることで、空間が変容していた。
観客の意識が作る空間が。
映像からでも、それが感じられた。

ケミストリー──化学反応、という言葉は、安易に使いたくないのだが、ミッシェルが目指した、いや、自らに課していたのは、観客とバンドの音楽/演奏による化学反応を、毎回、つまり全てのライブで引き起こす、ということだったのではないか。
思えば、たった1曲、テレビで演奏するだけでも、破格の存在感と臨界を越えたエネルギーを放射していたバンドだったのだ。

ひとつだけ確かなことがあった。
これは10年前の映像だというのに、現在もなお、他のどんなバンドより圧倒的に優れている、ってことだ。
日本だけの話ではない。
ミッシェルは世界レベルのバンドだった。
そういうバンドが、あくまでも日本語の歌詞で極めて高い文学性を持ち続けていたことを、日本のロックは誇りにして良いと思う。
国内なら紛れもなく、いまもなお、ナンバーワンだ。


クライマックスは“ドロップ”だった。
久しぶりに聴いたが、あ、こういう歌だったのか、と意味がすっと入ってきた。

「ぶらぶらと/夜になる」
「じりじりと/夜になる」
「神の手は/にじむピンク」
「なめつくした/ドロップの気持ち」

当時インタビューで、解散を匂わせているんでは、的な質問があったと思う。
それはまぁ、違っていた訳だけど。
でも、「終わり」を歌っていたことは間違いない。
これは、どうしようもなく、死の匂いがする歌だ。

無論、ミッシェルは最初から「世界の終わり」を歌って登場したバンドではあるが。
そういう言葉の端ではなく、もっと本質的なところで、終わりを意識したのがこの曲だったのではないか。

本質。
音楽は最も時間の本質に近付いた表現形態であり、まして加速を命題とするロックンロールならなおさら時間の核心に迫らねばならない。
ひたすら終わりに向かうということ。
終わり続ける、ということ。
それがロックンロールとして、ひとつの究極の姿だ。
つまり、死と向かい合う、ってことだ。
神の手は何色だ?

“ドロップ”の次に演奏されたのは“GT400”だった。
至極当然のように思えた。
夜を追い詰めた先にあるのは、死を覚悟した夜明けだからだ。

「青っぽい夜明け近く」
「サボテンの毒バリで/俺は死ぬのさ」


ミッシェルは、混沌を混沌のまま鳴らすことが出来た、別格のバンドだった。
デビューから『ギヤ・ブルーズ』までは、その混沌の解像度をひたすら上げるような歩みだったと言っていいのではないか。
だから、全部最高だし最初から素晴らしいけれど、どんどん濃く、息苦しくなる。
混沌の正体に迫ってゆくからだ。

『カサノバ・スネイク』では、その思いきり解像度を上げた混沌に、方向を与えていたように思う。
これ以降、チバの歌詞は宇宙のことばかりになってゆく。
それは必然だったのだ。
『カサノバ・スネイク』は“デッド・スター・エンド”で、
「俺の星には何もないけど/あの娘がいれば/宇宙の果てまでぶっとんでゆける」
と歌って始まり、“ドロップ”で終わったアルバムなのだから。
死という混沌の正体と向き合い、突き抜けて宇宙の果てまでゆくのだ。

思えばこのタイミングでライブ盤とベスト盤を出したのだ。
移籍はまだ先だった。
しかし移籍なんていう大人の事情は、お呼びじゃなかったのだ。
これから宇宙へ行く。
みんなにサヨナラを告げて行かなきゃ。
ライブ盤のタイトルは
『CASANOVA SAID“LIVE OR DIE”』
で、ジャケットを開くとこう書かれていた。
「BYE BYE JENNY」
「BYE BYE DANNY」

後は一直線だ。
世界を暴いてしまったら、そこが宇宙のど真ん中であり、神のジャズに震えるしかない。
星屑の気分だって判るし、ビートの亡霊も見える。
チバはただ「見た」ままを歌っていたのだ。
そしてあらゆるものにバイバイと叫び、太陽すらつかみ、銀河を突き抜けて宇宙を手に入れようとしたのだ。

現代の日本でなかったら、例えば、60年代後半のサンフランシスコだったりしたら、チバは生きていられなかったかもしれない。
そして、それだけ凄まじいバンドを経験した後では、本人でもそれを越えることは難しい。
死と宇宙を突き抜けた先で、新たに生まれなければならない。
チバの現在のバンドには、そういう名前が付いていると思う。


“リボルバー・ジャンキーズ”で本編終了。
「世界の果てにボサノバが鳴り響いて」
「さよならベイビー」
そうか、そういう歌だったんだ。

バンドはアンコールに応えてくれた。
イントロで打ち鳴らされる、ドラムのフィルでグッとくる。
“リリィ”だ。
すぐ近くに、女の子のふたり連れがいて、ゆらゆら踊っていたのが救いだった。


上映が終了すると、恐ろしい異界も消滅したようだった。
しかし、それは既に、我々自身の内側に存在していた。
ミッシェルを知っている者の刻印のように。

そうして我々は、疲れた足を引き摺って地上を目指した。
再び生きなければならないのだ。
ミッシェル・ガン・エレファントがいない世界を。

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久しぶりのキッチン。
ライブじたいも、レコーディングの為、9月以来、かな。
その9月ってのが12日だったんですよ。
公園通りクラシックスでの矢舟テツロー企画の「ツダ推薦枠」に、ぼくが青葉市子を呼んだ日。
で、その日キッチンの方はルイナでやってたという。
いや、あれは残念でした。


1月20日、水曜日。
吉祥寺、スターパインズカフェ。


到着すると、入口前の路上にキッチンのふたりが。
キッチンはだいたい、外にいる。
挨拶して中へ。
今回は1番手なんだそうだ。

全然知らなかったのだけど、持ち時間の長いライブだった。
定刻の19時に始まったのに、終わった時はもう19時50分だった。
でも、ちっとも長いとは感じなかったけれど。

パーカッションにイトケンさんを迎えての、3人でのステージ。
イトケンさんはバスドラ抜きのドラムセットに座り、ブラシを持っている。

照明が落ちると、最初に溝口こうじが登場。
すぐにイトケンさんも現われ、ふたりで演奏が始まる。
軽いお囃子的なサウンドに乗せて霜島由佳里が出て来ると、1曲目へ繋がる。
“どうってことないよ!”。
本人たちにとっても難しい曲だと思うが、イトケンさんを交えた演奏は、だいぶこなれていた。
イトケンさんは的確で出過ぎることがなく、楽曲をちゃんと理解してバランス良く叩く。
上手い演奏ってつまりそういうことで、これは見本だ、といえるくらい見事でスマートだった。

ステージは現在のキッチンのベスト的な選曲で、そこに新曲が加わっていた。
レコーディングが終了し、作業も残り僅か、という非常に前向きで充実した状態だったと思う。
夏前に一度聴いた“羊の群”も良かったけれど、今回のトピックはやはり“トノサマバッタ”だろう。
ソングライター溝口こうじの本領発揮、といったところだ。

キッチンの曲に時々ある、ストーリーもの、物語うた、の最新版。
今回は姉弟の話。
弟の視点から過去を振り返って、ある事件が語られる。

姉は、仕事に出かける母から二千円をもらって、弟を連れて床屋さんへ行くのだ。
交通量の多い国道を歩く時、弟はトノサマバッタに夢中で、姉を心配させる。

そんなイントロダクション。
春に出るアルバムに収録されるので、是非聴いて欲しい。
またしても名曲の誕生である。

まだ一度聴いただけだが、この曲のポイントは、やはりこの弟の視点にあるのだろう。
姉から見ると、トノサマバッタに夢中で危なっかしいのだが、それを語っているのは弟自身であり、つまり彼は確信犯なのである。
姉にどう見られているか、幼い頃から判っている。
そして、この“トノサマバッタ”というタイトル。
歌の前半では、いや、かなり最後の方まで、トノサマバッタというのは狂言回しで、弟から見た姉が主人公なのだと聴き手は思うだろう。
しかし、最後まで聴くと、作者の企みにまんまとはまっていたことに気付く。
これ以上はネタばらしになるので、実際に聴いて欲しいとこです。

家族だからといって、同じ人生である訳はなく、姉と弟も、実は最初から全く別の人生を歩んでいた。
でも、もしかしたら、姉にはそれは理解できない、あるいは理解したくないことなのかもしれない。
そういう意味ではシビアな歌だ。
この曲がミュージシャンに受けているというのもよく判る。
確かに、ミュージシャンに聴いて欲しい曲です。

21世紀のスタンダードともいえる超名曲“ブックカバー”も演奏されたが、そこだけが突出して良かったということもなく、全体が素晴らしかった。
演奏じたいの良さと、次作収録曲の良さ。
喋りの魅力もたっぷりあるキッチンではあるが、今回は控え目で、音楽をじっくり届けてくれた。

思わず背筋を正したくなる“たまねぎ”、
憂歌団 meets カウボーイ・ジャンキーズな“きょうのあて”、
そしてキッチンの集大成にして新たなるステージへの第一歩と言える“かざみどり”。
タフでしなやかな音楽的パワーが、10年代の幕開けに相応しい。
アルバムは相当良いだろう、間違いない。


写真も久しぶり。
相変わらずなふたり。
ちなみにイトケンさんはダブル・ブッキングで、キッチンの後すぐに、バウスシアターへ向かったそうだ。
いまやってる、例のあがた森魚のやつに出るんだとか。
さすが、引っ張りだこですな。

次のライブは、もうレコ発のタイミングらしい。
MCで、ワンマンをやる、と言っていたので、この機会に是非、キッチンのライブを体験して欲しいものです。
切なく、ユーモラスで、力強く、滋味深い、色とりどりの物語を満載した、歌の魅力に溢れたキッチンの世界。
音楽ファンの期待を裏切ることはない、と断言できる。
春が楽しみだ。

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そんな訳で、毎度恒例の、イケナイコトカイ・シリーズ。

いやいや、青葉市子!
渋谷塔でも新宿に負けず劣らず、ばんばんプッシュされてますよ!
試聴機もばっちり!

クレーター通信で青葉市子の名前を見るたびに、眉に唾つけてる方は、是非、試聴していただきたいです。
試聴はタダですから!
もー伊坂幸太郎の小説に出て来る死神みたいに、時間を気にせず、通して聴いちゃって下さい、この際。

ぼくはふだん、しないけどね、試聴。
チェック程度に、たまにするけど、一瞬で判るからなぁ、良いかどうかは。

ぼくなら、1曲目“不和リン”の途中まで聴いて、レジに持ってくけど。
一昨年、相対性理論でほとんどそういう買い方をしたように。


では、これから渋谷塔地下室にて、ミッシェル爆音上映会に紛れ込んで来ます!


今日は、女性シンガーソングライター多産日ですな。

宇多田ヒカル、
Cocco、
川本真琴、
松任谷由実、


とどめに、


ジャニス・ジョプリン!


おまけに、
石川梨華!(笑)



好きなミュージシャンばかり。
まぁ石川さんは別として(笑)。
天才型の日かね?
川本真琴は来月、新作が出るので大変楽しみです。



この辺までは知ってたので、ついでに調べてみる。
携帯でちまちまと。
そしたら、インターネットは万全ではないな、と再確認した。
リストになってたりするけど、バラつきがある。
抜けてたりする。
中には、ユーミンが抜けてるリストがあったりして。
気をつけましょう。。


で、ちなみに。
他のジャンルでも、なかなか錚々たるメンツがいまして。

作家のエドガー・アラン・ポオ。
これはヒッキーが以前言ってたのを思い出した、そういえば同じ誕生日だっけ。
『エキソドス』にポオをモチーフにした曲があって、その時期に言ってたのかな、確か。

あとは、画家のポール・セザンヌもこの日。
ま、このふたりは19世紀生まれですが(笑)。

個人的には、漫画家の竹本泉、これはテンション上がった(笑)。
『あおいちゃんパニック!』は名作です。



生きてるみなさん、
誕生日おめでとうございます。


ポオとセザンヌは、それぞれ好きなひとなので、不思議な気持ちになりますね。
セザンヌは、漠然と昔から好き、ってだけですが。
ポオは創元推理文庫の全集を持ってます。
でも《推理作家》という肩書きは、ちょっともうやめた方が良いと思う。
カポーティを推理作家と呼ばないように、彼のルーツにあたるポオも、単に小説家・詩人ってことで良いはず。
まぁ、ネットでリストを作ってるひとは、そういうことには無頓着なタイプなんだとは思いますが。



…どうでもいいけど、ジャニスに影響受けたとか、よく言えるな、あのひとは。って思いますが、名前は伏せておきましょうかね。
カーティスの、サントラのタイトルを名乗ってるひとですけど。
あれが売れてる現実を位置付けるのは、なかなか困難な作業だ。


ところで。
青葉市子のデビュー・アルバム『剃刀乙女』は、いよいよ明日全国発売!
もう今日の夕方には、店頭に並ぶはず!
ちょうど渋谷へ行く用事もあるし、またタワーを見てこようかな。

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