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5月25日、火曜日。
武蔵野スイングホール。

スパン子の初ソロアルバム『spannkosmo』の発売記念ライブ。
その名も『SPANNKOSMO』。


武蔵境駅前にあるこの会場へは、以前、キッチンのライブで訪れたことがある。
そのときは、階段席がある中ホール、という印象だった。
都内で有名なところだと、北沢タウンホールとか、そんな感じ。
階段席は格納出来る造りになっていて、スタンディングのフロアにすることも出来る。

だからといって、こんなセッティングにしようという発想は、なかなかないだろう。

写真は開演前の会場の様子。
我々が陣取った席からの眺めである。
その席とは、通常、ステージ上手にあたる位置。
そう、「通常」のライブ空間ではなかったのだ。

会場の中央に各演奏者のセッティングが組まれ、PA卓も中央に置かれる。
その周囲を観客席が取り巻く。
そして音響は、会場の四隅に設置されたスピーカー、という形。

しかも出演者の数も多い。
アルバムのレコーディングに参加した全員が登場する。
当日のパンフから、ちょっと書き出してみよう。


日比谷カタン
熊坂義人
波多野敦子
イガキアキコ
オラン
熊坂るつこ
安宅浩司
オッシー
バッキー
岩原智
駒沢れお
尾引浩志
やまぐちまさ
山口けいこ
ウエッコ
idehof
そらな


こうした面々が入れ替わり立ち替わり、ときには全員で、スパン子の宇宙を奏でる。
それはまさに、宇宙と形容するのが相応しい音楽だ。
それぞれのミュージシャンは、それぞれの島宇宙を形成するようなひとたちばかり。
マイクはブラックホール、
PA卓はワームホール、
そしてスピーカーはホワイトホール。

スパン子はこのライブを自分の葬式と位置付けていたそうだが、同時に新たなる誕生でもあった。
この日は、スパン子の超新星爆発だった、ということかもしれない。


写真手前に置かれたオブジェは、アコーディオンを解体したものらしい。
まるで天の川だ。

不思議な会場の空間に浸っているうちに、観客が周囲を埋め、客電が落ちた。
「通常」ならステージ後方にあたる壁面に、映像が投影される。


日比谷カタンのギターから始まったライブは、極小から極大までを包括した音楽のスープだった。
やはり宇宙という言葉を連想してしまう。

メンバー紹介を兼ねて、中盤で全員が登場したセッション。
混沌としていた宇宙の塵が、ひとつの天体に結晶してゆく様子をみるような感覚があった。
興味深かったのは、その結晶化を促した音楽的要素。
それは熊坂義人のコントラバスだった。
まるで、散らばっていたビーズにテグスがするすると通ってゆくように、音がまとまっていったのだった。


このライブの、ただ音楽としかいえない感じは、やはり大福に通じるものがあった。
音楽に対する意識の持ち方、という問題だと思う。
「J-POPが音楽だ」と思っているミュージシャンには、J-POPのようなものしか作れない。
スパン子や熊坂義人にとっての音楽とは、もっと広く、もっと深く、名付けようのないものなのだろう。
もしも名付けるのなら「音楽」でしかなく、たとえ音楽と呼ばれなくても構わないとすら思っているのではないだろうか。

しかし、これが音楽でないのなら、この演奏はいったい何だ。


そもそも、音楽の定義とは何だ。
ひとが、意思を持って鳴らした音の連なり。
という言い方は、近いけど違う。
ぼくはこう思う。
ひとが、意思を持って聴く音の連なり、が音楽だと。

音楽には楽器すら必要ない。
必要なのは空気。
そして、音を音楽として感じる意識。

もっと言えば、音楽のための意識さえあれば、空気すら必要ない。
とすると、こう言いかえた方が正確だろうか。
音楽とは、ひとが意思を持って「聴こうとする」音の連なりである、と。

初見で譜面を読めるひとなら、真空の中でも、音楽できる。
もちろん、譜面がなくても、頭の中で音楽はできる。

スパンコスモと、それに関わったミュージシャンたち、そして彼らを支持する観客たちは、
仮に言葉にするなら、そのような意識を共有したのではないだろうか。

しかし、ここでぼくは慌てて補足しなければならない。
スパンコスモの会場にあったのは、そんな概念としての音楽ばかりではない。
フロアには、ヴィヴィッドな身体性/ダイナミックな肉体性が横溢していた。
何しろ、子どもたちが楽しんでいたのだ。


宇宙がみえた、と思った。
HONZIがいる宇宙だ。