こじらせすぎて、意味も直ちにわからない。
和やかに、のびやかに生きていくことと、折り合いをつけるのは難しい。
わたしが空気だと思っていたようなものが圧の強い窒素だったのか、実は人体に影響を及ぼしかねないような。

けどわたしが今動かないでどうするっていう、少し前とおなじ、もはや強迫観念じみた想いに、なんとなく突き動かされている。
きっとそれが、わたしの一番悪いところ。

有楽町は上塗りできても。

霞ヶ関はいつ、上塗りできるんだろね。


また簡単に一年以上は無駄にできるくらいのこれ、数年後に振り返れば、また、なんてない事象になりますように。。

それが甚大な結果をもたらす事項と、おそらくリンクしてしまったとしても、それを自業自得と評価できる程度にはなりますように。


自分が進もうとしている方向に、本当は絶望感、孤独感しか感じないけど、でも、今ここにいる事実って、きっと長い目で見れば刹那的な満足感であって、中途半端な自己肯定感でしかなくって、それが客観的に「優」の評価を得られないレベルの事象ならば、もっと上を目指すことに遅いとかなくって。。


一番いいところ。は、もしかすると、その言葉の選び方だったのかもしれない。

そこに計り知れない無駄に直感的なシンパシーと、僅かな自己肯定感が重なるがために、この無駄な苦労があったということなのか。。


いいんだけどね、こんな独り言。
でも言わないと潰れそうで、というより、大切な事実として、ここに記しておきたいという気持ちが勝って。





だれもわるくないのだ。

巡り合わせはむしろ良かったと思うし、ひとつひとつの行動にはなんの嘘もなくって、その傷跡の模様も、むしろ双方愛でるべきものであって、この言葉が届いたところでなんの解決にもならなくって、もしかすると、原始的不能の一類型だったのかと思っている。


重ねた時間に何か意味はあったのかといえば、大きな意味があったとも思いながら、とにかく頭の整理を求めて書いているけれど。


何か意味があったのだろうか、と、でも、きっとなにもかもが避けられなかったような気がしていて、ダレトクとか思いながら、そうでもないよと、わたしは悲しく豊かになったぞとは、思ってるような気がする。


心では忘れなさい。


でも記憶としては忘れちゃダメ。


そして午前休はソウユウコトだから、ご容赦下さい。。。