2005年04月14日

護国寺の雪(エッセイ小説)(16)

 哲多は長いこと呆然としていた。剛が呼びかけているのは判っていたのだが、その声はまったく耳に入ってこなかった。何度目か名前を呼び、肩を揺らしていた。
「……帰ろう」
 哲多がつぶやいて立ち上がると、すべてを悟った社長が呼び止めた。
「これ、うちの案内。それと……」
 社長は慌てた様子で机の引き出しから数枚の書類を出してきた。
「あんた、他人のとこで書かないで、ちゃんと出してみたらどう?」
 それは小説や漫画、シナリオの原稿募集だった。
「大賞とか狙うわけじゃなくてもさ、自分の実力もわかるし……。こういうのを体験するのも勉強だよ」
 社長は慰めようとしているのだが他に言葉が浮かんでこない様子でインクで黒ずんだ右手で頬を擦っていた。哲多はそのたるんだ肉を見つながらも受け取った書類を叩き捨てたくてしかたがなかった。その時の彼にはまったく無関係の社長がまるで佐藤の共犯のように思えたのだ。
「……どうも」
 声を絞り出し、頭を下げると足早に印刷会社を出る。
 雨で滑る階段を駆け下り、小走りする。
 佐藤を殴るつもりだった。
 殺したってかまわないと思っていた。
 苦労して書いた作品を、構成を考え、徹夜して、何度も、納得するまで書き直して……。
「……ちくしょう。殺してやる」
 突然、腕を捕まれ哲多は相手を睨む。
 剛が息を切らせて追いかけて来たのだ。
「どこ行くん?」
「あいつ。佐藤のこと殺す」
 怒りで熱が増したのか、剛より吐く息が白く、視界が一瞬ぼやける。
「なぁ。飯食わへんか? 朝から食うてないし。何か食いたい」
「なに言ってんだ……。ふざけんな」
 搾り出した声が震える。
「ふざけんなよ……」
 こんな状態でよくのんきなことが言えるものだと剛の人間性を疑った。今、自分はこの勢いで佐藤を殺そうとしているのだ。なのに剛は熊田の誘拐は面白がって協力するのに自分の時は平然と何か食べたいと言い出している。
 哲多は苛立ちながら捕まれた腕を解こうとしたが、彼の掴む力は尋常ではなかった。
「ええかげんにせぇよ!」
 細い路地で剛の怒鳴り声が響いた。
「おまえも小さい奴やなぁ。たかだか小説の作者名が違ってるだけでなんやねん? 名前がそんなに大事なんか? インクで刷り込まれた名前がおまえの人生にそんなに影響あるんか?」
 哲多は唖然としていた。剛はやはりどこか狂っているのではないかと思った。作品が盗まれるというのがどれだけ辛くて悔しいことか彼には想像つかないのだ。
「盗まれたんだぞ……?」
 子供が駄々をこねるような甲高い訴えだった。
「だからなんやねん。おまえはその二本しか小説書けへんのか? もうネタ切れか?」
「……」
「そんな二本、そいつにやったらええやん。もっとデカイ人間になれや」
 剛の言っている意味は判っていた。
 自分はたった二本の小説に執着してあがいている情けない人間だ。剛はいつも作品に名前を入れない。彼にとって描くことが喜びで、誰の作品なんて関係ないのだ。
 哲多は俯き、静かに泣いた。
 それは悔しさなのか情けなさなのか自分でも判断できなかったが、異様に目元が熱を帯びていた。
 剛はそれ以上何も言わず、雨の中で一緒に突っ立っているだけだった。  
Posted by tsuhsan724 at 13:00Comments(0)TrackBack(0)

護国寺の雪(エッセイ小説)(15)

 翌日、哲多と剛は朝九時にアパートを出て渋谷に向かった。霧雨より少し強めの雨が昨夜遅くから降り始め、剛に借りた傘を持つ手が冷えすぎて感覚がなくなる。
 会社には熱が出たと嘘をついた。電話越しに出た佐藤は本気で心配してるらしく仕事は気にするなと言った。剛の我が侭のせいで急に今日印刷屋を訪れることになったが、もう少し段取りがあったら佐藤に相談しただろう。おそらく色々とアドバイスをくれたはずだ。哲多は予備知識がないことが不安であったが、渋谷の駅に付くとまったく関係のない剛の上機嫌が可笑しくてちょっとした社会見学の気分になり、足取りが軽くなる。
 印刷会社は繁華街から外れ、細い道を幾度と曲がったところにあった。
「ホンマにまた眼鏡作らんとあかんわ。俺なぁ、道がみんな同じに見えねん」
 数メートル先の「カシワ印刷」の看板に目を凝らし、剛が言った。
「おまえ、今まで眼鏡いくつなくした?」
「たぶん五つやなぁ。そのうちの三つがあの部屋でなくした」
 何十枚と描いた絵と一緒に捨ててしまうらしいと彼は付け加えた。
 なぜ剛は顔ばかり描くのか。なぜ描いたものをすべてすぐに捨ててしまうのか。
 以前から気になっていた疑問がふと蘇り、哲多は訪ねようとしたが剛が会社に続く鉄の階段をひょいひょいと昇り、会話はそこで中断した。
 アルミの扉を開けるとインクの匂いと機械音が呆然とする二人を一気に襲った。印刷前と印刷後の紙が天井近くまで高く積み上げられている。三台の印刷機が回転する間に社員らしき男が印刷された紙を覗き込んでいた。
 哲多が声をかけたがまったく聞こえないらしく、額の汗を拭っている。何度か呼び掛けたが反応がなく、見かねた剛が声を張り上げて呼ぶとようやく二人に気が付いた。
「自費出版のことを聞きたいですけど」
 男は軽く頷き、黒く汚れた手を振り、入れと合図した。
「社長! 客! お客!」
 奥から現れたのは恰幅の良い四十代の男であった。
「お名前は? いつごろ注文されました?」
 社長と呼ばれた男は哲多が出来上がった本を確認に来たのかと勘違いしたらしく帳簿を捲った。
「いや、違うんです。その……なんていうか……」
「自分の本を出したいんやけど、どうやって出すんかと思いましてね。ちょっと見学ですわ」
 もたつく哲多に代わって剛が愛嬌良く微笑んだ。
「あぁ。そんなんですか。誰かの紹介とか?」
「紹介ではないんですけど佐藤孝也さんがよく利用されているとか」
「佐藤さんね……」
 印刷音で時々途切れる声が妙に苛立つ。社長はまた名簿を捲り、指でサ行を探し始めた。そして哲多と剛を連れて奥の応接室へ向かった。
 扉を閉めても印刷音は大きく聞こえてくるその部屋にはこれまで印刷した本がずらりと棚に納められている。嫌に分厚い本から小雑誌程度の薄い本もある。普通の書店と違うのはやはり本そのものに華やかさがないからだろうか。ソファーに坐るよう促した社長は哲多の前に数冊の本を置いた。それは佐藤が以前出した本でどれも哲多が持っているものであった。
「うちが作った佐藤さんの本。もしかして持っています?」
「はい」
 社長は発行部数と基本料金、カバー付きやカラー印刷にした時の料金をさらさらと説明した。そして横にあった印刷して間もない紙と原稿をテーブルの上に置いた。
「これが本になるけど、ここがトンボ。印刷の印なんですよ」
 哲多と剛は言われるまま原稿用紙を覗き込んだ。それは先日佐藤が入稿した短編小説集の目次部分であった。五本の小説タイトルが並ぶ。
 間に合わないと慌てていたが、哲多も書いたのでどうにか無事に本になるらしい。
 哲多は社長の話に頷きながら自然と自分の名前を探す。
 すうっと血が引く。
 印刷音も社長の声も聞こえなくなった。
「あの。すいません。この本の原稿を……、この短編部分の表紙だけでもいいので見せてもらえますか?」
 目次のタイトルを差す指が小刻みに震えた。
 まさか、そんなはずはない。何かの間違いだと必死に言聞かせた。
 話を中断され、社長は訝しげながらもまとまった原稿から一枚を探し出した。
 震える両手で受け取る。
 間違いなく哲多が書いた小説だ。
「どないしてん? なぁ、おい?」
「信じられない……」
 そこには確かに哲多が書いた作品のタイトルはあるのだが彼の名前はない。
 筆者には佐藤のペンネームが記されていたのだ。
「……盗られた」
「え?」
「俺の……作品。俺が書いた……」
 まるでこの世の終りのように感じていた。

  
Posted by tsuhsan724 at 13:00Comments(0)TrackBack(0)

護国寺の雪(エッセイ小説)(14)

 哲多は久々に剛の所へ行った。あの日、車の窓越しに姿を見てからすでに二週間が過ぎていた。軽く息を切らせながら駅の長い階段を昇り、すぐ脇にある大手出版社の古いビルを眺めた。昭和初期を臭わせるその建物の窓は夜の九時を廻っていたが全て明かりが灯っている。時々、書類を持った社員の陰が慌ただしく動き回っているのがわかる。
 自分の原稿があそこで使われたらどんなに嬉しいか……。
 だいぶ前に諦めた夢を感情の奥底から引っ張り出し哲多は唇をとがらせた。
 いつものように予告なく部屋に訪れた哲多を剛はいつものように気にすることなく短い返事だけで迎え入れる。
 炬燵の上でいつものように絵を描き、いつものように流れている曲は三流バンドの聴いたことがない曲。何も変わっていないことが剛らしくもあるが異様な不気味さを感じさせる。
「……熊田。どうした?」
「何が?」
「あれから、どうした?」
 必死に絞り出した声はすり切れていた。
「どうもせぇへんよ」
 剛がシャーペンでユーズリーフに描いているのは有名タレントの横顔だった。すでに数十枚も同じタレントを描いているようで部屋に散乱している。描く早さは驚異的で写真とそっくりなその絵は一枚三分もしないうちに仕上がる。
「……そう」
 一枚を手にし、ため息混じりにつぶやくと剛は呆れた顔をして絵を取り上げた。そして散らばるユーズリーフをかき集めすべてゴミ袋に入れてしまう。
「おまえ、本出したらどうや?」
「え?」
「会社におるゆうてたやんか、自費出版しとる奴。小説書いてそいつみたいに本出したらええやん」
 一瞬、意味が判らなかった。長いこと小説は書いていたがそんなこと考えもしなかったのだ。
「いや。そんなこと急に言われても」
「なんやねん、根性ないなぁ。明日、会社休んで俺とその印刷屋に行こうや。な。そうしよ」
 剛は勝手決め、自費出版の会社名は覚えているかと訪ねてきた。そして哲多が記憶の奥から引っ張り出した名前を頼りに電話番号の案内で場所を知ると明日朝一番に行こおうと言った。
 自費出版はプロのマネごとというつまらないプライドが邪魔をして正直、気が進まなかったが、剛のまるで遊園地に誘われたようなわくわくした子供の表情を前に哲多は反論することができず苦笑で負けを認めた。
   
Posted by tsuhsan724 at 13:00Comments(0)TrackBack(0)

2005年04月13日

護国寺の雪(エッセイ小説)(13)

 翌日は仕事に集中などできるはずがなかった。
 あの後、熊田の女房から電話があったのだ。それはまるで全てを見透かしているかのように詳しい事情も聞くことなく哲多を責め立てた。誘拐するつもりだったのか、余計なことをしないでほしい、放っておいてくれ、今度保育園に来たら警察を呼ぶ。
 神経が過敏になっているらしく半分泣きながらそう訴えた。彼女の叫びが自分に向けられているようだが実際にはそこにいない熊田にぶつけているのを哲多は感じ取っていた。なぜなら長い沈黙の最後に、すいませんと一言いうのが精一杯だった哲多に、彼女はごめんなさいと消えるような声でつぶやいたからだ。
「前に頼んだ原稿。出来た?」
 辺りを気にして小走りに近づいた佐藤がぼんやりする哲多の耳元で囁いた。
「あぁ、ごめん。渡すの忘れていた」
 哲多は引出に入っていた茶封筒を差し出した。
「助かるよ。もう来週入稿だからさ。これで間に合う」
 渡したのは佐藤が自費出版する本の原稿であった。哲多が気が向いた時に小説を書いるのを知っていた佐藤がどうしても予定のページ数にたどり着かないというので穴埋めのゲストとして頼んで来たのだ。
「短編二本になったけど、いいのかな」
「充分だよ。短編集だからさ、調度いいって。おまえの話、俺すごい好きだし」
 佐藤は原稿枚数を確認しながら嬉しそうに言った。
 たった一人でも自分の小説を他人が共感し、喜んでもらえるのが一時期プロを目指した哲多はには嬉しくてしかたがないかった。若い頃と違い、最近では下手だと実感していた。いつの間にかプロを目指すなんてこともなくなっていた。
「本になったら真っ先に見せてくれよ」
 佐藤の喜び様で憂鬱な気分から少し解消された哲多はそう笑顔で言った。
 しかし佐藤はごまかすように少し首を傾げるだけで何も答えなかった。
 そしてその原稿が印刷される前に、佐藤の裏切りに気づいた哲多は生まれて初めて殺意を抱くことになる。
  
Posted by tsuhsan724 at 13:00Comments(0)TrackBack(0)

護国寺の雪(エッセイ小説)(ちょっと休憩)

タケノです。
今日は本編をお休みして裏話を。

本編で出てくる「剛」は天才的な画力の持ち主でありながらプロにならなかった人物。

その「剛」に以前、こんなことを言われたのを濃厚に覚えています。

当時から私は小説をぼちぼち書いていたのですがそれを「剛」に読んでもらった時のことです。
「もう二度とタケノの小説は読みたくない」
結構なショックでした。そんなに下手かと・・・。
理由を尋ねると、
「読むとすごくイヤなものが心を支配する。
人が誰でも持つ陰鬱をあからさまに文章にして他人に実感しろと訴えている。イヤな小説だ」

当時は「そうか?考えすぎじゃないか?」などと思っていましたが・・・今は?

みなさんはどうですか?

追伸:更新と同時にコメントも書き換えられます。私の心情なんかです。おまけに読んでみてください。

  
Posted by tsuhsan724 at 13:00Comments(0)TrackBack(0)

2005年04月12日

護国寺の雪(エッセイ小説)(12)

 保育園はすべてが小さい。遊具から園児の下駄箱にロッカー、机、トイレ。まるで自分が巨人のような錯覚になる。哲多は園児が作ったらしい展示物を眺めながら廊下を歩く。子供の姿はどこにもなく静まり返った園内を深夜の病院を訪れた感覚でスリッパの音が響かないようにした。
 動物が描かれた手製の「しょくいんしつ」という張り紙の前で止まる。
「はい?」
 書類を書いていた年配の女性がすぐに哲多に気付き、老眼鏡のずり降ろして上目遣いをした。恐る恐る扉を開け、軽く会釈する。大きめのストーブの上でヤカンの蓋が微かに音を立てていた。
「あの、私、熊田さんの友人の榊といいます。今日、こちらに娘さんがいらっしゃると聞きましたが」
 女性はすぐに警戒心を解いたのか軽い笑顔を見せた。
「ええ。つばめ組の教室にいますけど。お迎えの代理かしら?」
「いえ、その。連絡を……。熊田さんの奥さんと連絡取りたかったんで、手っ取り早くこちらに覗いました」
 言葉を選びながら哲多は少し微笑んだ。本当はこのまま娘を預かって熊田と逢わないようにするのが早いのかもしれない。しかし、今回のことはなるべく穏便に、大事にならないようするのが一番だと判断した。
「あら、緊急? あと三十分くらいでいらっしゃるはずだけど……」
「それなら少し玄関で待たせていただきます。もし時間かかるようならそのまま帰りますので」
 寒いからここで待てと不審な表情を見せた女性に、大したことじゃないと言葉を付け加えて職員室を後にした。
 廊下の先につばめの絵が描かれた教室を見つけ、近寄る。
 中では哲多と年が変わらない女性と熊田の娘がママゴトをしているのがガラス越しに見えた。
 小さく鮮やかななプラスチックの茶碗と皿を並べ、ころころ笑う。この真似事には父と母が食卓を囲んでいるのかと考えると切なかった。
 哲多は無邪気な少女を見ているのが嫌に辛くて足早に下駄箱まで戻った。
 乾燥した風が砂を巻いた。
 柵の外では買い物途中の主婦が寒さを忘れて話に夢中になっている。笑い声の時々にわざとらしい真剣な表情で頷き合っていた。それは誰かの悪口を言っている独特の表情だ。
 二段しかないコンクリートの低い階段に直接坐る。厚手のコートでもその冷たさは瞬時に伝わる。
 自分はいったい何をしているのか。
 体を丸め、本当にくるのか判らない熊田の影を目を細めて見張っている。なんとも滑稽な姿であるがこんなことぐらいしか出来ない。
 数分が過ぎ、俯きながら熊田になんて声をかけようか、どうやって止めようか考えながら乾いた風で痛み始めた両耳に手を当てた。
 不意に風が強く吹き、哲多は顔を上げる。
 すると柵の向こうにモスグリーンのジャンパーを着た男が立っていた。
 熊田だった。
 隣りに紺のワゴンがある。運転席には剛がいた。
 一瞬、時間が止まったように感じられた。哲多は思わず立ち上がる。
 熊田は両手をポケットに入れ、身動じせずに哲多を見ていた。
 それは恨むような、それでいてすべてを諦めたような侘しい表情であった。
 数歩前に出た哲多を余所に熊田は助手席に乗り込む。剛も何も言わない。
 車が走り去り、影なっていた主婦達の姿が再び現れると時は元に戻る。
 小さな校庭の中心で呆然と立ち尽くす哲多はそのときようやく自分が間違っていたと悟った。  
Posted by tsuhsan724 at 13:00Comments(0)TrackBack(0)

2005年04月11日

護国寺の雪(エッセイ小説)(11)

 小学校の校庭は明かりなど一切なかった。比較的涼しいはずの白い砂の地中にも夏の熱気が残っているらしくどろりとした空気が足下にも渦を巻いているように感じた。剛と熊田が手持ち花火で円や星を描いているのが遠目でも判った。哲多に気づき、その花火を二人はぐるぐる回して合図した。
「あんたが哲ちゃんか? 熊田がむっちゃおもろい奴言うから期待してんで」
 自分は平凡そのものと思っていた哲多にはいったいなんの期待がかけられているのかと少し不安になる。同時に、関西弁を使う友人がいないのでその聞き慣れない響きのせいで一気に引き込まれた。
 二十連発花火を手で持ち、互いに打ち合って子供のようにはしゃぐと剛との壁はすぐになくなった。
「なんか、よく見ると気味悪いなぁ」
 熊田が暗闇に浮かぶ三階建ての校舎をまじまじと見つめてつぶやいた。窓ガラスからもれる非常灯が煌々と眩しい。
「あぁ、出るって話だからな」
 哲多はいつだか耳にした怪談話を短く話した。
 素直に怯える熊田とは別に剛は妙に感心し、
「そんなら俺、そいつ探してくる」
 と嬉しそうに言うと校舎に向かった。
「あいつ、変わってんな……」
 思わず口にすると熊田は火がついたように笑い出し、
「俺に言わせると剛ができの悪い哲多で、哲多はできの良い剛だと思うぞ」
 その時の哲多は一人で笑い続ける熊田の意味がまったく判らなかった。
 しばらくすると剛が曇った表情で戻って来た。
「その話絶対嘘やで。昇降口って表のひとつしかないやんか。裏にないもん。悔しいからションベンして終わりや」
 唇をとがらせ心底悔しそうな剛は言葉の最後でニッと笑って見せた。
 それはとても二十歳を過ぎた大人とは思えない、罪を知らない無邪気な笑顔だった。
 
 保育園の前まで来ると哲多は辺りを用心深く見渡した。
 熊田の紺色のワゴンは見当たらない。哲多は嫌に重く感じる柵をゆっくりと引き開けた。
 氷のように冷たい鉄の柵は擦れた音が子供の啜り泣きのように聞こえた。
  
Posted by tsuhsan724 at 13:00Comments(0)TrackBack(0)

2005年04月10日

護国寺の雪(エッセイ小説)(10)

 気温は日中でも十度にいかない寒い日だった。
 ポケットに手を突っ込んでいても指先に感覚がない。雲もなく気味が悪いくらい澄んだ空で、横切る鳥が椋鳥と判る。十年前は田圃ばかりの田舎だった哲多の地元はこの数年でベットタウン化した。泥まみれになって夢中でザリガニを捕っていた裏の用水路は下水道になり、しっかりコンクリートの蓋が収まっている。ヤブ蚊林と言われていた空き地も住宅と駐車場になり、どのくらいの広さだったかも判らない。嫌がりながら通った習字の先生の家も、授業はおしゃべりだけだったそろばん教室もない。
 哲多はそれら一つ一つを眺めながら心の風景と重ねる。奇妙な虚しさだけが渦巻いていた。
 熊田の家は哲多の家から徒歩で三十分くらいの場所にある。幼なじみである熊田の実家が一分くらいにあるのだが、結婚した当初からここは物価も安いとあって二人は近場にアパートを借りたのだ。
 喫茶店での計画では熊田の女房が仕事探しの面接をこの日曜に三件一気に行うのだという。それで通常なら保育園は休みなのだが、時間外の料金を払って娘を預かってもらっているというのだ。そして女房が引き取りに来る二時より前に娘を連れ出すと言うのだ。保育園はまだ離婚のことを知らないはずなので父親の顔を見ればすぐに引き渡すだろうと熊田は言った。
 哲多は阻止する方法などまったく考えていなかった。いや、考えることなど出来なかったのだ。昨日悩んだあげく、今朝電話をしたがすでに遅かったらしく出ることはなかった。そして何も思いつかないまま足は保育園へ向かっている。
 大通りではなく家々の裏にある下水を埋めたコンクリの細道を縫うように歩く。浮き上がった蓋が哲多の歩調に合わせて軽快な音を立てた。
 足下ばかり見ながら歩くと不意に剛の顔が浮かんだ。
 下水の道が真っ直ぐと左に別れている。
 左を進むと小学校がある。そこは哲多が初めて剛と会った場所だ。
 一年少し前の夏に、熊田が、面白い奴がいるから今すぐ来いと電話してきたのだ。
 熊田と剛は小学校に忍び込み、花火をしていた。
 蒸し暑い、べたついた風が首にまとわりついて不快な汗になる。そんな夜だ。
 
  
Posted by tsuhsan724 at 13:00Comments(0)TrackBack(0)

2005年04月09日

護国寺の雪(エッセイ小説)(9)

「俺、別に社員になりたいって思ってないんで。それに……」
 哲多は極めて明るい声を作り、
「愛想で社員になっても嬉しくないですよ」
 と続けた。
 この会社を紹介し、高校の先輩でもある佐藤は学生時代から自費出版をしている。先日、池袋にある大手書店の自費出版コーナーに自分の本を置いた彼はいつでも哲多を助け、二年先の社会人らしい経験とアドバイスをちょくちょくしてくる。何も知らない哲多にとってそれはありがたいことでもあったが、半年も経った今では最近うっとうしく感じるようになったのも事実だ。
 面倒そうな哲多の口振りに佐藤は片方の眉をひそめる。
「社会人ってそんなことばっかりだぞ。FAのあの女子社員は社長と寝たって話しだしな。おかげでボーナスもかなりいいらしいぞ」
 去年まで社会と無縁だった哲多はこの数ヶ月で一気に身の回りがどす黒いものに覆い尽くされているような錯覚に陥っていた。学生で、兄の交通事故を起こす前はとても裕福とは言えないが細々と生活をしていることに不満を感じたり、誰かを妬んだりしたことはなかった。しかし、バイトとはいえ会社勤めするようになったとたんに他人の感情というか、渦巻く悪意や欲望の波が押し寄せている。言いようのない不快感が常に体に巻き付いているようであった。
「どうでもいいよ……」
 上司に呼ばれ、去っていく佐藤の背中を見つめながら波から逃げるように吐き捨てる。
 どうでもいい。それですべてが片づいてしまえばどんなに気が楽だろうか。しかし見えない黒い電車が走り出す。乗りたくないのに切符を持っている哲多はどうあがいてもその電車に飛び乗らなくてはならない。
 熊田の計画はやはり自分が止めなければならないのだろうか……。
 哲多は取り憑かれたように図面を描きながら思う。
「……とにかく今日中にこれを終わらせよう」
 そう掠れた声でつぶやくと黒い電車が渦の中に吸い込まれていくのを感じていた。

  
Posted by tsuhsan724 at 13:00Comments(0)TrackBack(0)

2005年04月08日

護国寺の雪(エッセイ小説)(8)

 計画話が本格的に進んでいたがこのまま聞いているわけにもいかず、哲多は喫茶店を後にした。風が少し離れた住友ビルの空洞を抜け、だらしなく広がる雲を流している。女の悲鳴のような甲高いその音は引き千切る冷たさで哲多の耳を攻撃した。営業中のサラリーマンと擦れ違いながら、いったい自分は何をしているのか、どうすればいいのか、まったく解らなかった。
 熊田の話しはもちろん冗談ではない。必ず明日、実行するだろう。犯罪になるのだろうか。法律と無縁のせいかまったく解らない。熊田の娘は今年四歳になる。いつだか保育園での運動会のビデオを見せられたことがあった。明るく、はにかんだふっくらした笑顔は貧相な熊田より、女房の美知子に似ている。夫婦間が悪いという話は剛から少しだけ聞いていた。あまり他人の事情に興味のない彼の口から出た時は以外であったが、それだけ深刻な状態だったのかもしれない。
「お前、社長に愛想なさ過ぎだぞ」
 不意の声に顔を上げる。
 友人夫婦の遠い笑顔を思い浮かべ、黙々と図面を描いていたせいで先輩が隣りにいるのも気がつかなかった。
「はい?」
 抜け出したことはさして咎められることはなかったが、代わりに意外な注意を受けた。
「その、笑顔だけじゃ社会人勤まらないって。もっとなんて言うかさ」
「お世辞とかヨイショをしたほうがいいっていうんですか?」
 哲多は最近ようやくスムーズに操作できるようになったドラフターを横に大きく動かした。
「総務にバイトで入った伊藤。あいつ来月から社員になるぞ」
 哲多は先輩のずっと遠くで大げさに笑う伊藤を見た。背が低くどっしりしているが笑い上戸で相槌と間が上手い。今日は総務の仕事がないが社長に頼まれたドリンク剤を十ケース運んできた。実家が薬局でその金は全部内緒で伊藤の懐に入るのだと、以前昼食を食べたとき本人が自慢げに話していた。
  
Posted by tsuhsan724 at 13:00Comments(0)TrackBack(0)