筆者は、放射線の健康影響に関して世間に流布しているリテラシーを、「安全説」科学リテラシー、「非安全説」科学リテラシー、人文社会科学リテラシーの3つに分けて整理し、それぞれの主張について論じた(辻内、2016)。「安全説」科学リテラシーの主張のほとんどが、原子力発電技術を推進しようとする国際的な会議で承認された科学的データをその正当性の根拠としており、現在の日本政府が採用している学説である。「核の平和利用」を目的に作られた国際機関が科学的根拠として使用している過去のデータは不十分なものであり、基礎となる放射線科学は原水爆という核に関する軍事技術と関連しているため、人体の健康影響についてもほとんどが軍事機密とされてきた歴史がある(中川、2011)。チェルノブイリ原発事故の影響についても、どのような立場の研究グループが実施したかによって、調査結果に大きな違いがみられており、公開されているデータそのものや、データの解釈には大きく政治性が関与しているのである(辻内、2016)。
このような「作られた安全・安心神話」によっても、「地域の分断」が生み出されていると考えられる。福島原発事故による放射能汚染に対して「安全・安心だ」と考えるスタンス、つまり「安全説」科学リテラシーに基づく考えは、福島県内に残って生活をしている人びとにとっては親和性が高い。一方、放射能汚染に対して「安全でない」と考えるスタンス、つまり「非安全説」科学リテラシーに基づく考えは、区域外の大勢の人びとが避難している根拠になっている。
「非安全説」科学リテラシーに親和性の高い県外に避難した人びとや帰還しない人びとの行動は、「安全説」科学リテラシーに親和性の高い県内で生活している人びとからは理解されにくい。この考え方の違いによって、「政府は安全だと言っているのに何故帰ってこないんだ」というように避難者が非難される現象も発生している。
「非安全説」科学リテラシーは、福島県内に残って生活をしている人びとにとってみれば、自分達の生活圏が危険だと言われていることを意味し、住民の不安が増強され、福島県産の農産物・海産物が売れなくなる、いわゆる「風評被害」の元を作っている危険な考え方だとみなされがちである。一方「安全説」科学リテラシーは、さまざまな生活支援の打ち切る根拠とされ、帰還を選択せずに長期避難を継続させようとする人びとの生活を脅かすことに繋がる。このような理由で、福島の現状を「安全」だと考えるスタンスと、「安全でない」と考えるスタンスの人びととの間に「対立」が生まれ、同時に「避難しなかった人びと」と「避難した人びと」の間に「対立」が発生してしまったのである。
ここに図示した現象はあくまでも概念的に整理したものであり、現実はきわめて複雑に混交している。県内と県外と明確に別れられるわけではなく、人びとの間にはこのふたつのスタンスの葛藤が存在し、ひとりの中にも「安全説」と「非安全説」が同居しているのである。そのため、原発事故から7年が経過した現在では、「対立」を避けるために、当事者間で放射能のことを話題にすること事態が「タブー視」されるような事態が生じている。
この対立は、当事者達の責任ではない。先に述べたように、「合理的でない避難・帰還区域」の政策決定と、そして原発推進派によって作られた根深い「安全・安心神話」という構造的暴力が生んだ対立・分断だと考えられるのである。
辻内琢也:原発避難いじめと構造的暴力.科学88(3):265-274,2018より抜粋
<文献>
辻内琢也:「第2章:大規模調査からみる自主避難者の特徴:「過剰な不安」ではなく「正当な心配」である」,福島原発事故 漂流する自主避難者達,戸田典樹編,pp.27-64,明石書店(2016)
中川保雄:放射線被曝の歴史:アメリカ原爆開発から福島原発事故まで,明石書店(2011)