龍馬さんを有名にしたがは加尾さんかもしれんがぜよ!
先日の土佐学協会(
http://tosagaku.cocolog-nifty.com/report/)主催の「第4回土佐学大会」(「
5月18日」と「
5月19日」のブログ参照)ん時、同級生のマンボ(
http://mnnbo2.exblog.jp/) から、こぢゃんと面白い情報をもろうちょったき、今回はちくとそのネタをご紹介さいてもらいますぜよ。
おそらく前号か前々号あたりの「女性自身」の「シリーズ人間」っちゅう連載が、「誰よりも龍馬さんに愛されたのは、私です」〈新説・女龍馬伝〉っちゅうタイトルやったがよ。
つまり、加尾さん、佐那さん、お龍さん、お元さんっちゅう龍馬さんを愛した4人の女性の、龍馬さん亡きあとのその後についてらあが書かれちゅうがやき。
ほんで、そん中の龍馬さんの初恋の人と言われちゅう平井加尾さんについてが、一番最初に書かれちゅうがやけんど、ここにこぢゃんと面白い話が紹介されちゅうがよ。
龍馬さんと言やあ、司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」が有名やけんど、実はそれ以前の明治16年、高知の土陽新聞記者の坂崎紫瀾さんが同紙に連載した「汗血千里駒(かんけつせんりのこま)」が最初ながやき。
この伝記小説は人気を博し、それまで無名に近かった龍馬さんの名を世に知らしめることになったっちゅうがよ。
ほんで、このときの土陽新聞の社長夫人が、何と加尾さんやったっちゅうがぜよ!
「龍馬さんを歴史に残したい」
そんな切ない加尾の一心が、連載を実現させたのか。
「シリーズ人間」にゃあ、そう書かれちゅうがやき。
大河ドラマ「龍馬伝」のイントロは、土陽新聞の記者坂崎紫瀾さんが、岩崎弥太郎さんに取材に行くところから始まっちゅうけんど、その坂崎紫瀾さんに取材を命じたがが社長夫人の加尾さんやったとしたら・・・。
なかなか面白いドラマが、もう1つ描けるかもしれんがぜよ!
また、お龍さんについちゃあ、再婚して横須賀に住んだけんど、龍馬さんのことが忘れられいで酒におぼれて孤独死したとか、長崎芸妓のお元さんは、龍馬さんについちゃあ一切最後まで沈黙を守ったとか、佐那さんは45歳で学習院女学部の舎監となって、その後も龍馬さんの形見の小袖を胸に一生独身を通したとか、4者4様の数奇な生涯が描かれちゅうがよ。
まったくタイプの違う個性的な美女たちみんなあから、とことん愛された龍馬さん。
やっぱし龍馬さんは、こぢゃんと魅力的やったがやろうのう!
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Posted by tsukasabotan at 09:41│
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美容院で何度も「前を向いて下さい」と
注意されながら、首を折り曲げて読んだ記事でしたが、
先日、元高知新聞の歴史通の新聞記者だった方に
裏を取らせていただくと、早速丁寧なお手紙をいただきました。
「先日のお尋ねの件、坂崎紫瀾が「汗血千里駒(かんけつせんりのこま)」を書き始めたのは明治16年1月のことです。西山志澄が土曜新聞の社長をされたのは明治39年から40年にかけてのわずか1年間です。ですから関係ないものと思われます」。ガックリ!女性自身の記者の方〜、だそうですよ〜!
とても興味深い記事ですね〜。
前文読んで見たいものです。
龍馬伝始まってから、そこかしこで龍馬さんにまつわる
資料が発見されてますね。
まんぼ姉やん、早速裏取りのコメントありがとうぜよ!
そうかよ、やっぱし土陽新聞社長夫人と「汗血千里駒」は、時期がズレちょったかよ。残念!これが一致しちょったら、こぢゃんと面白い大発見やったにのう・・・。
才谷龍之慎さん、コメントありがとうぜよ!
龍馬さんにゃあ昔っから放浪癖があったみたいで、土佐中をあちこち、日本中をあちこち、ぶらくり回りよったみたいながやき。まだ発見されてない龍馬さんの痕跡が、これからまだまだ出てくるかもしれんのう!
時期はずれていないと思いますよ。西山さんが社長をしていたのは明治16年で間違いないです。その後明治31年に警視総監になっています。元社員の勘違いでしょう。
平井加尾さんは維新後に兄の収二郎の汚名を晴らすため、中江兆民にレポートを依頼しています。三条家にお勤めの際には池内蔵太ら志士のサポートをしたり、土佐に帰る時には最盛期手前の武市半平太に盛大な送別会を開いてもらったりしています。ただの女中の奉公の扱いとは思えません。 西山さんは収二郎の弟子でしたから龍馬との仲も当然承知した上で結婚なされたはずです。 龍馬が寄せ書きした胴掛を生涯大事にし子孫へも伝えたことから龍馬への思いは明白でしょう。
資料は少ないとは思いますが新事実の発見が待たれるところです。
〜維新の女密偵さんへ
西山さんが社長をしていたのは明治16年で間違いないです。〜
そうなんですかっ!!!?それが本当ならすごいことですよね!!!
龍馬への思いを秘めながら、龍馬をよみがえらせたってことになりますよね!
〜龍馬が寄せ書きした胴掛を生涯大事にし子孫へも伝えたことから龍馬への思いは明白でしょう。〜
ところがこの元高知新聞の歴史通の新聞記者さんは、その胴掛を宮地さんと一緒に西山家にもらいうけに行かれた方なんですよね。その時のやりとりからも加尾さんと龍馬の間には何もなかった。同志の妹としての絆のみとおっしゃってました。ムムムムム…真実は歴史のみぞ知るですね!
維新の女密偵さん、まんぼ姉やん、コメントありがとうぜよ!
初恋かどうからあて、いま生きちゅう人やち分からんがやき、そりゃどう取るかだけやけんど、とにかく西山さんが社長やりゆう時が「汗血千里駒」の連載と重なっちょったら、そりゃまっことこぢゃんと面白いことになるがやき!
ちくとワシも調べてみるぜよ!
「土佐人名録」で調べてみました。
西山志澄(ゆきずみ)1842-1911
自由民権運動家、代議士、警視総覧、前述、直次郎。天保13年6月6日、高知城下南新町(高知市桜井町)で藩士西山嘉蔵の三男に生まれる。妻は平井収二郎の妹・加尾で、志澄は平井家の養子となっていたが、明治11(1878)年、妻共々離退して復籍した。〜省略〜武を武市瑞山に学ぶ。土佐勤王党に加盟し、文久3年、罪を得た平井収二郎を土佐に護送した。〜省略〜16年土曜新聞社長、また県議会議員になる。
…本当や…一致しますね…!!!
まんぼ姉やん、またまたコメントありがとうぜよ!
実はワシも、まずは「土佐人名録」で調べてもうと思いよったがやき。早速、感謝感謝ながよ。あとは、どっちが正しいかの裏取りぜよ!
今、小説『龍馬の娘』を書いています。
『龍馬さんは私を最も愛していた』加尾さんのコメント
詳しく知りたい。龍馬も加尾を最も愛していたという内容で書いています。胴かけに残された句『あらしやま・・・』俳号 八本こ は龍馬です。
安土弁さん、コメントありがとうぜよ!
小説「龍馬の娘」、こぢゃんと楽しみにしちょります!