つきかげや

かわいい私的領域です。ひろうい。

お銚子者

こんにちは、つきかげやです。
フェイブックに書くと、色々と差し障りがあるので、今後はこっちに書いておきます。

今日は、銚子に向かっています。風邪を引き、体調がすこぶる悪いので、本当は家で寝ているべきかもしれません。しかし、僕は短気ですので、部屋で横になっていると、壁のシミの形に怒りが湧いてきて憤死してしまったりします。そういうことを避けるために、まずは家を出る。

銚子へ行くために、東京駅から特急列車に乗っています。なんだか妙におんぼろな特急列車です。特急列車というと、常磐線や成田空港に走っているピカピカのやつとか、逆に伊豆の方へ走っている渋いやつとかを想像するのですが、この千葉の方へ行く特急列車は新し目なのにボロくて、作りがチープです。ただ、乗る人が少なく自由席でものびのびできるのはいいことですね。そのうち廃止になるでしょう。

今日はいい天気です。外環道の建設現場を車窓から眺めました。車掌が歩いてきて、僕の特急券にハンコを押してくれます。千葉運輸区です。千葉運輸区の人も働くんですね。
車掌との会話を聞くに、斜め向かいに座っている乗客も、銚子に向かうようです。若い女性2人でオシャレしてわざわざ特急列車で銚子に向かうというのは驚きです。だいぶ美人です。どういうことなのでしょうか。風俗とかでバリバリ稼いでる人かな?と思ったけど、それほど派手ではありません。余談ですが、風俗で働いている人には三種類いるんだそうで、騙されて奴隷のように働かされている人と、そこそこ金あるけどもっと稼ぎたくてパパ活とか風俗とかキャバとかをがんばっている人と、本当に性的行為を通じた遊びが好きな人、なんだそうです。
斜め向かいに座っている乗客のことに話を戻すと、しかし、この2人はプロレタリア的職業とは縁のない単なるお嬢様、という感じです。気品があります。慶應女子OGの同期旅行かなにかでしょうか。銚子のような辺鄙なところへ旅行するのも、慶應女子高校卒業の人ならあり得そうです。白百合のお嬢様や、聖心のお嬢様が辺鄙なところへがんばって行ったとしても、せいぜい北軽井沢といったところでしょう。旅行で銚子に行くのは、僕の知る限り、慶應女子か、お茶女のOGくらいのものでしょう。あるいは、フェリスのお嬢様が母方のおばあちゃんちに年末のご挨拶へ向かうところなのかもしれません。

もう千葉に着きました。特急列車は速いですね。錦糸町を出てから一回も止まりませんでしたし、線形が良くて減速もほとんどありませんでした。

ここまで読んで、賢明な読者のみなさまは気づいたことでしょう(こう筆者が書くときは、だいたいそんな人はいないということが想定されています)。僕のブログ記事にしては、衒学的言い回しが1つも出てこない、ということに。
そうなんです。それが今回の旅の理由です。
どういうことかというと、最近の僕はとても頭が悪いのです。いや言わなくてもわかってます、「それは元からだ」とあなたが言いたいということは。それにも増して、悪いのです。
実を言うと、夏頃に論文を投稿してから、どうも日常の忙しさにかまけて研究に手がつかないのです。本などを、全く読んでいないのです。インプットなくしてアウトプットはできない。なので、衒学的なことも言えない。これはまずい。僕の沽券にかかわる事態です。

で、今日。予定がない1日なのです。自分を、本を読むよりほかにすることのない状況に追い込みたい。あと、大好きな鉄道旅行をしたい。列車に乗っていれば、本を読むよりほかにすることもないだろう。そういうわけで、長時間列車へ乗るわりに何もすることがないような場所を目指している、とまぁこういうわけなんですね。

まわりの乗客は、僕を見かけても、まさかそんな高尚な理由のために僕が銚子に向かっているとは、思わないでしょう。

まわりの人は、「クリスマス・イヴに銚子へ1人旅行に行くような奴は、塾高でもない、学院も違う、御三家もないだろうし、埼玉あたりの男子校出身者か」、と考えているはずです。しかし、人間の行動を、卒業した高校やその人の身なりや職業で判断してはいけません。僕はあくまで、自らの内省的理由によって銚子を選び、旅行しているのであって、それには僕の出身高校も、寝間着みたいな身なりも、無職であることも、関係していないのです。
しかし、世の中のゲスな人たちは、そういうことを慮ってはくれません。それに、何もすることがなくて本を読むだろう、というのがこの旅の趣旨なのに、僕はまだ携帯でブログを書いています。僕は一体何をしているのでしょうか。

そして、列車は成東に到着しました。旅は続きます。

楽しいの価値

改めてこのブログを眺めてみると、ずいぶんたくさんの記事がある。
ブログが行き場のない自己表現の掃き溜めとして一般に認知されてから久しいが、未だに意味のない長文を垂れ流して悦に入っている人間もそうそういないのではないだろうかという気がしてきた。

この意味のなさはなんなのだろうか。僕も生きていくためにお金を稼ぐなど、非常に人間的な理由から非人間的環境で身と精神を削っているが、そこには意味が満ち溢れている。しかも、そこそこ意味があるものであっても効率や高度化の観点から無意味とされるものすらある。とにかく無意味であるこのブログと違って、本当に意味、意味に満ち溢れているのが世間というものだ。

このブログで意味について論じたのも一度や二度ではない。同じことを何度も何度も繰り返すというのもの、またずいぶんと無意味な行為である。
研究の世界では、必ず何か新しい要素がなくてはならないと言われる。新しい要素に意味があるのである。また、会社法人の世界では収益がなくては意味がないし(ただの慈善事業なら会社法人でやる必要はない)、慈善事業であれば誰かが喜ばなくては意味がない(嫌がらせをし続ける慈善事業というのは成り立つだろうか?) 。意味を追い求めるのはなかなか大変である。

イケダハヤトのブログをなんとなしに読んでいると、彼は「楽しい」ということをよく言っている。余談だが、彼はまだ30歳になったぐらいなんだそうだ。若い。「楽しい」で終わるのはいい。マルクスが本来の労働について述べたように、生きて労働することそれ自体が「楽しい」ものなのだ、という前提がいい。ドミニク・メーダは労働が楽しいという前提自体が虚構だといみじくも指摘しているが、楽しい方がいいに決まっている。楽しいという言葉にはいいという傾向が含まれている。

面白法人カヤックじゃないけど、「楽しい」に意味を見出す共同体なり生活方法なりがあったらいいのではないだろうか。うれしい、楽しい、大好き。めぐりあいたいそんな世界に。

そう考えると、楽しければ全て救われる、みたいな宗教が欲しい。他者とのコンフリクトを避けるために道徳を守りましょうとか、生産性を高め生き延びるためにストイックになりましょうとか、来世の救いのために頑張りましょうとか、そういうんじゃなくて、みんなが今日楽しければそれでいいじゃん、みたいな刹那的宗教。マック赤坂みたいになっちゃうな。30°教。

 楽しくないことが世の中には多い、それはそうかもしれないけど、みんな楽しくないことの話をするのが好きすぎると思う。もし、楽しいことに価値がある社会だったら、みんなもっと楽しい話をするんじゃないかな? 楽しくないことばっかり話してたら、なんでそんな意味のない話するの?みたいな。
それはそれでちょっとディストピアっぽいっていうか、楽しいことを強制するみたいな感じになっちゃうけど、そこまでいかなくても、楽しい話するのいいよね、楽しいよね、みたいな文化。そういうの、重要な気がする。楽しくない話すれば、嫉妬もされないし同情も得られるっていう考え方もあるかもしれないけど、それは楽しくない話を重視する文化だから。ルソー的って言ったら大げさかな。スミスみたいに、実は同情より楽しいことへの共感の方が、強い感情なんだよ〜、みたいな考え方、もっと広まらないかな。誰かが楽しい話をし始めたら、それを茶化したり僻んだりするんじゃなくて、そこに楽しい話をかぶせていく、みたいな流れ希望。

だいたい、ポルノグラフィティの歌じゃないけど、楽しいことについて本気出して考えてみたらもっと色々あるはずなのにみんな人生の暗い部分にスポット当てすぎなんだよね。いや、当ててもいいんだけどさ。

話を元に戻すと、僕はなんとなくブログとか書くのが楽しくて書いてる。まぁ、イケダハヤトみたいにお金は稼げないし、読む人も全然いないブログなんだけど、でも書くのが楽しいんだよね。書くの楽しいってだけで価値が生まれる、そういう風になったら僕ももうちょっと堂々と楽しくブログ書けるのになー、今はなんか時間の無駄だし、恥さらしで、無意味だ・・・というもやもやがあって純粋にブログ書くの楽しめないなぁ、っていう、そういう話でした。

ベートーベンの入門盤

 「初の本格的クラシック入門レコード登場」と銘打って、"Top of Classics"という10巻物のレコードが発売されたのは1973年ごろのことだ。コロンビアとソニーの合弁であるCBS・ソニー創業5周年を祝っての企画であった。

 この「初」には重要な意味合いがある。というのも、LP以前のオーディオ再生機はSPであり、クラシックの「音」に親しむには、SPで短く細切れにされた曲を聴くか(しかも針がすぐに擦り切れてしまう)、ラジオにかじりついて待つか、あるいは凡人の払い難い金額で開演されるオーケストラ・コンサートに行くか、であった。つまり、名実ともに、日本史上初めての、耳で楽しめるクラシック入門盤だったわけである。

 それが、たった1セット4枚のLPでクラシックの有名どころを聴きこむことができ、10巻で10人のクラシック作曲家を堪能することができる。面子は、バッハ、モーツァルト、ヴェートーヴェン、シューベルト、ショパン、ブラームス、チャイコフスキー、マーラー、ラヴェル、ストラヴィンスキーである。 

 入門というと、なんだかライトな響きがある。しかし、このレコードに限り、入門だからといって演奏がチープなわけではない。
 1973年だからアナログ録音で、非常に音がいい。70年代だからもとの録音も綺麗だ。日本盤だがペラペラじゃない。5周年、勢いのあるころの気合の入った盤である。

 なにより、演奏がいい。今聴いているヴェートーヴェンの盤には、グレン・グールドで「皇帝」、ゼルキンで「月光」、バーンスタイン指揮で「運命」などが入っていて、文句なしに名演奏ぞろいだ。CDのこういう入門盤だと音がチープだったり、演奏がしょっぱいやつだったりするが、このLPの入門盤はもはやベスト盤である(CDだとベスト盤もしょぼいが)。
 そして極めつけは、諸井誠のライナーノーツだ。ベートーベンの盤についている諸井のライナーノーツはベートーベンを人生めぐる四方山話調の語りで、読んでいて楽しい。今のように凝った音楽史を踏まえたものでも、あるいは知識のない人がちょろちょろっと書いているものでもない、肩ひじ張らずに読める音楽史である。

* * *

 CDでもいい入門盤のようなものはあるんだろうが、結局CDの音質だし、と思うと、LPの時代に、入門盤でこれほどのものを聴けた時代はいいなぁと思う。とはいえ、今日ではyoutubeやナクソスであらゆる音楽を聴けるから、それはそれで一興である。YoutubeがなければLoccatelliやFrederick Deliusには出会えなかっただろうな。

 21世紀は、レコードのような高音質高品質の音楽がいつでもどこにいても聴けるっていう時代にならないものか。それとも、すべて多様性の名のもとに大量生産大量消費の音楽が流れ続けるのだろうか。後者であれば、音楽から精神が失われ、音楽そのものの価値というものが誰にもわからなくなってしまうだろう。そしてそうなれば、僕は誰もいない半地下の部屋の隅で、ほこりまみれになりながらLP盤を回すのである。。。
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