2008年09月10日

らいふをろぐするおしらせ

久しぶりの更新。

こんにちはクラウド(tsukinomichikake)です。少女漫画レビューと化していたこのブログ。

期間限定NYOI出張所「1998年に彼女がキックオフする前にホイッスルを鳴らしてしまった恋みたいなもの」と「1998年に彼がフランスの隣国スイスのリヨンに置いてきたつもりと言っていた魂みたいなもの」との間にある親密な関係を音楽の中に見つけ出すまで続けるブログ

の他に、もうひとつ始めてみました。こちらです、ホイッ。


tsukinomichikake-site


あっ、告知しようとして気がついたんですが、タイトル決めてないですね。まぁ、とりあえず

tsukinomichikakeの脳内カオス閲覧所

ということでいいかな。

こちらの方は現在「禁煙生活日記」と化していますが、後々はtsukinomichikakeの活動に合わせて、そちらの方もうまくフォローしていけたらなと考えています。

一番最初のエントリーでも触れていますが、レーベルメイツも全員30代になり、なかなか昔のように傍若無人に生きていくことも難しく、表立った活動もできていない状況でして。

けど、人生って100か0かでも無く。

このご時世、メジャーの舞台に這い上がれた一握りの人間たちだけが、歳をとっても好きなことをやっていられるという特権を手にする訳ではなく。

好きなことを、好きなタイミングで、何でもできる。ちょっと昔では考えられなかったような、表現者にとっては夢のような環境が整っていて。

そんなことで、とりあえずすぐにライヴができるわけでもないので、日々の生活の断面を、わたしの脳みその断面を活字と写真と映像とでライフログ化していこうかなって。

かる〜い気持ちでやっていきます。

こっちでやっていた少女漫画レビューなんかも、そのうちやってみます。

では、では。



  

2006年04月30日

Salyu Acoustic Tour 2006 “close to you” 

e1b3f420.jpgこんばんは、クラウド(tsukinomichikake)です。

一週間も前になってしまいますが、ラフォーレミュージアム六本木でおこなわれたSalyuのライヴ「Salyu Acoustic Tour 2006 “close to you” 」に参戦してきました。本日はそのライヴのレビューをお届けします。

タイミング的にはニューシングル「Tower」のリリースが記憶に新しいところ。MCでSalyu本人も言っていたが、「春が持つキラキラした雰囲気」を意識したというサウンドプロダクションにもうってつけの季節。

しかし当日は、それまでの春らしい穏やかな気候が嘘の様に、一転して小雨が降る肌寒い一日となった。こうした「点在する寒い日」を何回も通り越すからこそ、春がより春らしく暖かくなっていくもの。そうした「雨の一日」も欠かすことのできない「春の一部」であることは揺るぎない事実。

「Tower」演奏前の「暖かくキラキラしているのと同時に、環境、心境の変化の時期でもあり、心の動きがある季節でもある」というMCを借りるなら、「変化のために通らなければならない雨の一日」といった趣き。そしてそれはまた、彼女が見せる「笑顔やキャラクター」と、相反する「歌声」との関係にも似ている。そう考えると実にSalyuらしい一日におこなわれたライヴでもあった。

こうしたことを考えてしまうキッカケにもなった、ライヴの本編ラストで演奏された「Tower」。ひとつ前のシングル「風に乗る船」を挟んで、続くアンコールラストの「to U」。たしかにこの流れがライヴのハイライトであった。新曲のプロモーションとしても満足のいくものになったと思う。

それに普段では聴くことができない(?)ナンバーたち。リリィ・シュシュ名義の「エロティック」「飛べない翼」やスターパインズ・カフェ時代にカバーしていたと紹介されたビートルズ「something」のカバー。こうしたちょっとした意外性を盛り込めたということも込みで、今回のアコースティックツアーは大成功だったと思うし、彼女の新しい魅力を提示することできた。

しかし、一番の強烈な印象を残していったのはライヴの中盤に演奏された二曲。「体温」と「landmark」であった。

プロモーション的ショウの演出や、アコースティックならではのサプライズ的選曲を今回のライヴの「陽」とすると、この二曲はまさに「陰」ともいえる、Salyuの持つ魅力の本質を如実に浮き彫りにしていた瞬間だった。

それではSalyuの持つ魅力の本質とは一体なんなのだろうか?

少し偏った意見になるが、普段は基本的に「作曲・作詞」に携わらない歌い手を「アーティスト」と感じることは少ない。少ないということは勿論「アーティストである」と感じるときもあるということ。それは「与えられた曲」に対して恐ろしいまでの集中力で、曲に込められたメッセージとシンクロしている歌を聴いた時。この二曲を唄っている彼女の姿こそまさにその瞬間であった。

「あなたと、あなたの大切な人のために唄います」と紹介された「体温」。「わたしは どんな呼吸をしようか・・・」というフレーズに導かれる「あなたとわたしは 本当に それぞれで よかった 別々で よかった」というサビ。その理由を「なぜなら あなたを抱きしめるから」としているが、こうして文章だけで見てみるとどうしても「ありきたりな結論」といった印象しか与えない。他愛のないラヴソング。

しかしひとたびSalyuが唄うとどうだろう。「結局生きているうちにはこんな結論にしか至れない」からこそ、自分ではない他人との体温を感じ合えるこの「わたしという個」と「あなたという個」の接点をいとおしく想えるまでの、「個という悲しみに対する深さ」の道程をも強く感じさせる。そしてそれはまた、絶対的に分かち合うことのできない「個」への「同化の願い」とも言える。

「個」であるからこそ感じる「叶わぬ願い」と、「個」であるからこそ感じられるもうひとつの「個」のいとおしさ。そのアンビバレンツを構成するもうひとつの要素が「landmark」である。「個」という迷宮を螺旋の様にグルグルと駆け巡る。

Salyuが見せる「集中力」には、何かが取り憑いたイタコのうめきにも似た、教会で唄われる賛美歌にも似たすごみがある。しかも前述した二曲には宗教に頼ることが少ない日本人にはなじみ深いテーマが存在していることや、アコースティック用にアレンジされた演奏、効果的に用いられていたバックに映し出された映像により、その姿たるやもはやトランス状態と形容できる程のテンションであった。

こうした姿こそがSalyuが持つ魅力の本質のひとつではないだろうか。当たり前のような歌に、計り知れない深さを感じさせることができる集中力と声。今回のアコースティックライヴで、より深くそう痛感させられた。タイトル通り「close to Salyu」な夜だった。


・SET LIST

Peaty
Dialogue
光の束
-
エロティック
飛べない翼
-
体温
Landmark
Dramatic Irony
-
something(ビートルズ)
VALON-1
-
彗星
-
Tower

EN 風に乗る船
   to U

「こいぬのさんぽみち。」さんのエントリーを参考にさせてもらいました。
  
Posted by tsukinomichikake at 03:09Comments(1)TrackBack(0)音楽ネタ 

2006年01月06日

どうやら「Chocolat&Akito」は今年もつづくよ

ショコラ&アキト060106
こんばんはクラウド(tsukinomichikake)です。日々のネット・サーフィンで訪れているお気に入りのアーティストのサイト。気になるのは彼ら(彼女ら)の「日記」的なコンテンツ。こういうコンテンツって更新が頻繁なら頻繁なほど嬉しいもの。正月と言えば気になるのは「ファンのみんなへの新年の挨拶」コメント。

「Salyu」なんかは律儀な方で、元旦にはメッセージをアップしていました。普段は週一くらい(時には10日以上間隔が空くこともしばしば)の更新なのに、こういうタイミングを外さないあたりが「Salyu」の「しっかりしてる感」を与えるところなのでしょうか。

そして本日ついに「ショコラ」のミニ・ダイアリーにも「新年の挨拶」がアップされていました。そして、常々言っていた事ではありましたが、「この日記は非常に生々しい情報を得られる」ことでも有名(まぁ、こういうのってアーティストと事務所との方針で左右するところは大きいんでしょうが)。

「今年もChocolat & Akitoの新しいアルバムのレコーディングをする予定で、もちろんツアーもやりたいと思っています♪去年よりさらに精力的に活動できたらいいな。」というメッセージが。

彼女がここにこう書くということは、ほぼ100%の確率でそうなるということ。今までも過去の「ミニ・ダイアリー」での発言(今後の予定について)がほぼその通りに実現しているところからも確証が持てるでしょ。

「そしてcorcheaのアクセサリーを身につけてくれて、ありがとう!」の辺はいつもの「可愛い顔して商売熱心」な茶目っ気ということで。

今年もアルバム出したり、ツアーやってくれるのはすこい嬉しいんですが、「その分GREAT3の復活も遅れるのかなぁ」なんて考えてしまうと、ちょっと複雑な気持ちです。はい。


  

2005年12月31日

クラウド(tsukinomichikake)からのお知らせ

tsuki
ただいま、クラウド(tsukinomichikake)です。わけあって(たいしたことでもないのですが)しばらく留守にしていました。

といっても実際に旅に出ていたわけでもなく、心の旅路についていたのです。きっと大学生だったなら、「ハチクロ」の「竹本くん」ばりに「稚内までの自転車の旅(もしくは「自分探しの旅」)」に出ていたことでしょう。現実問題として生活を維持する為のお金の稼がなければならないので、ふらっと心だけ旅をしていた次第です。

結局五月病も完治することなく、本日「クラウド、心の旅'05」はその幕を地味におろします。いや、おろさないことには結局前に進めないということに気がつきました。しかもたった今。

こういう「心の旅」をしている時って、ちょっとした些細なこと、普段なら見落として気付かずに通り過ぎてしまう様なことに、敏感に反応してしまうもの。何かのチャンネルが開いていしまっているせいで、妙に涙を流す機会が増えていたり。そして、色々なものに励まされたり(むこうに励ます気はゼロでも)。

オーストラリアのKAZUに、浅野いにおのマンガに、Shing02のラップに、愛車のクロマニヨン号(FTR)に、ウイニングイレブンに、そしてぼくを取り巻く友人たちに。

すべてのものがあって、クラウドは今ここにいるのだと。今はやっとそう思えることができます。

年が明けたら、色々なことが待っています。

「nyoi label」のHPがリニューアルされます。「tsukinomichikake」のHPもオープンします。今まで地下に潜って暖められてきた様々な企画やプロジェクトたち。一斉にその芽が地表に顔を出し、日々大きく育っていくことでしょう。きっと。

この「恋魂ブログ」でも「少女マンガ」「少年マンガ」「音楽」などのレビューは続いていきます。お休みの間もここに足を運んでくれていた方々、本当にありがとうございます。年明けからガンガン更新していきます(希望)。

2005年も残すところあとわずか。皆さん良い年を。クラウド(tsukinomichikake)でした。  
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2005年11月30日

グミ・チョコレート・パイン 全6巻 大槻ケンヂ 佐佐木勝彦 清水沢亮 すべてのバランスが崩れてしまった結末に涙した

グミチョコパイン6巻
こんばんは、クラウド(tsukinomichikake)です。久しぶりにマンガ関連のエントリーですね。

皆さんは「大槻ケンヂ」の「グミ・チョコレート・パイン」という小説を知っていますか?「グミ編」「チョコ編」までは読んでいたなんて方も多いかもしれませんね。その後6年ほどのブランクを挟んで、「パイン編」が発売されたのが2003年の11月のこと。

しかもそれがひっそりとマンガ化されていたことを知っていましたか?そして先日ついに最終巻が発売されました。

「パイン編」があまりに突拍子もない展開になってしまっていたので、マンガはどう物語を進めていくのか。そこが一番気になるところでした。正直に言うと、「まぁ、うまくきれいにまとめたな」くらいの感想。

やはり小説でもマンガでも、「山口美甘子」が高校を辞める件(くだり)近辺が、一番物語としていきいきしていた。今回6巻の巻末に収録された「佐佐木勝彦」との対談でも「大槻ケンヂ」が話していたが、「やっぱり僕の女性不信ですかね」というこの要素こそが物語をつまらなくしていったのだと思わずにはいられなかった。

「女性に対する逃げの姿勢」まではいいと思う。そうした「ネガティブな要素」というものは、物語に独自の色をもたらす。「コンプレックス」があるからこその世界観とはクリエイティビティーには必要不可欠なもの。

「グミチョコ」の初期設定であった「大槻ケンヂの半自伝」という、1980年代における日本のユースカルチャー(「ナゴム」などに代表されるインディーズ・ブーム)をあくまで「モテない」側面から描くというコンセプト。そこに盛り込まれた「恋愛とも呼べない、中学生並みに奥手な恋物語」と「バンドを通しての自分を見つめ直す青春物語」との二本立て。

このメイン・ファクターが甘酸っぱく機能していたのが、さっきも指摘した「山口美甘子が高校を辞める」あたりまでであった。そしてその根底には「半自伝」と銘打つだけの「リアリティー」がしっかりと存在していた。その「リアリティー」こそがこの物語を魅力的なものにしていたのも事実。この物語の生命線でもあった「リアリティー」は、「大槻ケンヂのネガティブさ/コンプレックス」によって生み出されたものに他ならない。それはまた、商業的に見たときの宣伝文句でもあったはずなのに・・・。

小説「パイン編」においては、当初存在していた「リアリティー」はもはや跡形もなく消え失せてしまっている。「大槻ケンヂ」が「リアル」であることを放棄してしまったのである。「不信感から女性を直視できない」という要素が、今までの売りでもあった「リアル」という観点から全速力で逆走をはじめてしまう。マンガ版ではかろうじてその「残り香」を感じさせるものの、そこに「大槻ケンヂの魂みたいなもの」は注入されていない。

もう一度言う。前述した「大槻ケンヂが抱く女性への不信感」こそが、物語から「リアリティー」を奪ったといっても過言ではない。おそらく「大槻ケンヂ」自身が「女性を直視できる限界点」を今よりも高く持てるようにならない限り、この失敗は続いていくのではないだろうか。

「パイン編」を読んだ時点で期待はしていなかったが、改めて「先細りな結末」を見せられると、正直へこんでしまう。ぼくの人生において未だかつてないほどに落ち込んでいた時に、あれほどまでに励ましてくれた作品だったから。  

2005年11月28日

Chocolat&Akitoの殺傷能力pt.4「ツアー・ファイナル at 代官山UNIT」を見てきました。その報告2  

ショコラ&アキト051122
こんにちは、クラウド(tsukinomichikake)です。みなさまお待たせいたしました!本日お届けするのは、先日のエントリーで予告していた「Chocolat&Akito」の代官山UNIT(11/21)でのライヴ報告です。

開場は18時、開演19時ということで、今宵奇跡の共同目撃者となるNYOI-label代表でおなじみNAOKIROCKと渋谷のモヤイ像前で17時に待ち合わせ。彼の到着を待ちながら、学生時代などにはよくこの場所で待ち合わせて、夜な夜なクラブなんかに行ってたなぁ、なんてことを思い出していた。「若さ」と言っては少し語弊があるようなものを体中に溜め込んでいた頃の話。

二十歳からこっち、年を重ねれば重ねるほど(自分がライヴを行うようになってから、とも言える)、ライヴを見にライヴハウスやクラブなどに足を運ぶことも少なくなってきた。むかしはそれこそ年間何十というライヴに出向いていた。

そんな昨今には珍しく、今年はライヴを見に行く機会がよくある(と言っても数回でしかないが)。しかも全部が全部NAOKIROCKとである。最近甦った彼のギラギラとしたパワーに背中を押されると言うか、グイグイ引っ張られると言うか。まぁとにもかくにもこうして表に出て行くというのも悪くはない。しかも今夜はなんと言っても「Chocolat&Akito」を生で拝めるのだ。

到着してみると、代官山UNITの前には開場を待ち望む客の列ができていた。30〜40人といったところだろうか。GREAT3の客層とくらべると、こころなしか皆さんオシャレに決め込んでいる様な気がした。「ショコラ効果なのか?」などと心の中で呟いてみる。ぼくは本日も「ライダースにラバーソウル」といったクラウドにとってのユニフォーム(正装)姿。

大好きな音楽のために大好きな服に包まれて、同じ気持ちとそれぞれの日常を抱えながらも、今日、この時のためにここに集まる仲間たち。「わるくない」。

家の中で音源を聴いたり、ネット上で色々な情報に目を通しているだけでは感じることのできない、「自分の目や耳に飛び込んでくる生の情報」。ライヴ会場に足を運び、こうした空気を感じ取れるというのも良いものだ。むしろ閉鎖的なぼくにとっては、もはや「健康的」ですらある。

入場待ちの列を横目に、上がっていくテンションを胸に秘めながらも、駒沢通り沿いの「フレッシュネス・バーガー」へと。本日のもうひとりの参戦者の到着を待つ為に。このもうひとりの参戦者がぼくたち二人のもうひとつのテンションを上げさせる。

NAOKIROCKとクラウドにとって、「片寄明人」並びに「GREAT3」というアーティストはとびきり特別な存在である。二人が出逢ってからというもの、お互いがどんな気持ちの時にも、「彼らの奏でる音楽」だけは常に共有してきた大切なものでもある。そしてどんなに困難な時であっても、「彼らの奏でる音楽」だけはぼくたちを見捨てることなく、時に慰め、時に励まし、時に抱きしめてくれた。

NAOKIROCKとクラウドの歴史とは、言い換えるならば「GREAT3の共有」の歴史でもある。

「ラスト・ソング」「クルーエル・ワールド・トゥ・ヘブン」「エデン特急」etc...そして「影」。彼らの楽曲の全てに、それぞれの想い出が詰まっている。それこそまさに「偉大なる3人と愚か者の2人」と言えるぐらいに。

そして「Chocolat&Akito」のライヴが行われる今夜、もうひとりの大切な仲間がやってくる。これを共有しない手はない。彼女がぼくたち「愚か者の2人」に運んできてくれたものは少なくない。NAOKIROCKが取り戻した「ギラギラとした若さ」もその中のひとつ。クラウドが来年バリ島へいこうと決心できたのもそのひとつ。

開演時間である19時ジャストに彼女が到着。UNITの前で合流してそのまま会場内になだれ込む。階段を下りフロアに入ると、すでに後方まで人が溢れ返していた。

人をかきわけて前の方を見てみると、ステージ前には椅子が敷き詰められていた。二人の「i-RADIO」で話していた、「最近はショコラを家のソファーに座らせて、音楽の聴きくらべ(ステレオのケーブルを変えたり、同一レコードのUK盤とUS盤であったり)をしている」「みんなにもソファーに座って一緒に味わってもらいたい」なんていうエピソードを思い出してしまった。そんな二人が考えた、アットホームな雰囲気を作り出すための演出なのだろう。

開演までの「永遠に続くのではないか」と思えてしまうそわそわとした至福の時間。そこに花を添えたもうひとつの出来事、関係者席がない小さなハコだからこその演出。「Chocolat&Akito」と親交のあるアーティストたちの顔もちらほらと。「深沼(メロウヘッド)」に「ザマギ」のメンバーたち。中でも入ってきた瞬間に格別なオーラを発していたのは「佐野元春」。「佐野」に気がついた「深沼」が挨拶に来た瞬間、「佐野」「深沼」「クラウド」という奇跡の3ショットに。

1998年に「ファクトリー」の司会を「佐野元春&ショコラ」でやっていた時、「GREAT3」がゲストで出てたなぁ。既に付き合っていた二人が「一緒にテレビに出ちゃったね」なんて発言をどこかでしていたことを思い出し、なんともいえない気持ちに。本編のMCで片寄が言っていたが、どうやら二人の結婚パーティーはここ代官山UNITでやったらしい。「色々なことが繋がっているのね」なんて思ってしまったよ。

パラパラとステージに現れるメンバーに送られる暖かい拍手。まだ一曲も演奏されていない状態で、既に会場にはアットホームな空気が充満している。あの「片寄明人」というアーティストが、こうした空気を作り出せるようになるなんて、一体誰が想像できただろうか。いつだって「死ぬまでギリギリな」ぼくたちが、彼の歩んでいく後ろ姿に励まされていく。今日、この瞬間にも。この後にこの会場で今夜起こる全ての出来事が、いとおしく、優しく、暖かく、全ての人を包み込んでいくことを予言するかのようなプロローグ。

まるで「そんな空気」を乱さないかのように、そっと奏ではじめたのは「Walking In The Park」。「なんてことのない喜び、かけがえのない喜び」というリフレイン。このフレーズに全てが集約されているかの如く、ここに集まった人々の「なんてことのない日常」が「かけがえのない日常」にそっと移り変わっていく。

今回のツアー中に磨かれたという二人のMC。「GREAT3」のライヴでは「圭」と「白根」に頼るところの多いMCを、今日はガンガンと引っ張っていく。「ロッテンハッツ時代、ぼくのところに「星の王子さま現る」なんて書いてあったけど、今ではこんなに光っちゃって」なんていうお馴染みの「髪の毛」ネタで会場を更に和ませる。「頭のことは話さないようにしてたのにねぇ」とショコラ。どうやら「本日の禁止事項」を早速破ってしまうくらいに、本当は緊張していたご様子。

本日のライヴは2部構成とのこと。いったんメンバーがはけて、15分ほどの休憩を挟む。去り際に片寄が「後ろの方も人が多くなってきたみたいだから、椅子の人たち、ちょっと前につめてくれますか」と紳士な一面をのぞかせる。

第2部のスタート、ステージに現れたのは片寄ひとり。そして「Oh Baby」の弾き語り。アーティストとしての片寄に唯一足りなかったところと言えば、ミュージシャンとしての技量的な部分。こうやって「弾き語り」という丸裸にされた状態での演奏に、ひやひやとした気持ちいっぱいで耳を傾ける。しかし、ツアーで鍛えられてのはどうやら「MCの腕」だけではなかったみたいである。歌もさることながら、ギターを弾くということになんの後ろめたさも感じずに演奏していた姿に、感動すら憶えてしまう。「これはGREAT3が復活したら、えらいことになるぞ」と密かに心躍らせていたのは決してぼくだけではなかったはず。

第2部になっても片寄のMCの勢いは衰えない。ショコラとの私生活をのぞかせる数々のエピソードに会場も終始ニヤニヤ顔。ショコラが育てている観葉植物に話しかけている姿を見て、「ピュアぶってんじゃねぇ!」とキレる話に、会場は今日一番の沸きをみせていた。

ショコラのナンバーなどもはさみつつ、後半はキラー・チューンの連発であった。片寄のソロアルバム「HEY MISTER GIRL!」からの「GEIST」、「先に旅立ってしまった友人に捧げます」と紹介された「Nostalgia」。中でも一番ぐっときたのは「ラブソングのつもりで作りました」と告げて本編でもラストナンバーとして奏でられた「Time」。

「時がだんだんスピードを上げていくようで恐ろしい。二人に残されてる時間はもう長くない。思うより長くない」という歌詞には、そのむかし「今はこう言うことしかできなかった」と片寄が話していた「Last Song」で描かれた物語の「つづき」を垣間見れたような気がした。終始ハーモニーを印象付けてきたライヴの最後に響く、二人のユニゾン「あなたを愛してゆく、春も夏も秋も冬も」。いつかは終わるぼくたちの永遠。「片寄明人」という決して器用ではない人間が、ショコラというパートナーを得て辿り着くことのできた「今はこう言うことしかできない」であろう現時点でのひとつの答え。

1度目のアンコール。その最後に演奏されたのは「VERANDA」というエピローグ。二人にとっての「はじめての共同作業」的名曲。歌詞の意味をわかってなのかどうかはわからないが、ジョン・マッケンタイアーがMIXをほどこしたアルバム・ヴァージョンでは「ささやかな幸せがせつない」というフレーズが最後にテープの遅回しのようになっていく。この日のそのフレーズも、ぼくの耳にはなぜかそのヴァージョンの様に聴こえていた。とても不思議な体験。

GREAT3の活動が滞ってからというもの、片寄の動きはやけにフットワークが軽くなっている。濃い時間を過ごしてきた「GREAT3」という物語の臨死。彼はもう一度生まれ変わったのかもしれない。彼もまた「ギラギラした若さ」を胸に、歩き出したのかもしれない。大切な仲間との再会の約束のために。「GREAT3」という名の約束の地に向かって。

歳をとって丸くなったわけではない。狂気の中にも「優しさ」を見つけ出せ、またいとおしく感じられるようになっただけの話。彼もぼくもきっと「死ぬまでギリギリ」なことに変わりはない。

ライヴの帰りに11月の夜道を歩きながら、ふと、そんなことを考えてしまった。「愚か者の2人」であるぼくたちも、大切な仲間たちと、歩いてゆこう。いつだって「片寄」は目印として先導してくれる。

ちなみに当日のセットリスト(「ダラックマ日記」さんのエントリーを参考に使わせてもらいました。)

Waking In The Park
Fall In Love
Kiss Me Black

-MC-

100の疑問符
Fly
Blue Tuesday

?休憩?

Oh Baby(片寄のみ)
虹と雨
Chocolate Notes ドレミファソラ
I Will Forgive You
左ききの夢
Geist
Nostalgia
Time

-アンコール-
Butterfly(ショコラのみ)
Veranda

-アンコール2-
ブルーでハッピーがいい  

2005年11月25日

「YUKI's SINGLE HISTORY」 今だからこそぐっとくる「プリズム制作裏話」

yukisinglehistory
こんにちは、クラウド(tsukinomichikake)です。みなさんいかがお過ごしでしょうか?ぼくはと言えば、日々の生活に追われるあまり、体調管理がイマイチうまくいっていません。最近は「モノモライ」に悩まされています。ぼくの場合は体内に溜め込まれた疲労が蓄積されていって、「もうこれ以上無理!」ってなるできてしまうみたい。あぁ〜、この煩わしさから早く開放されたい。

ぼくのイメージの中では「モノモライ」って、人体に必要のない「憑き物」みたいな感じ。

これがあるとコンタクトを入れられないから、眼鏡の日々。この季節の風は鋭くて、ゴーグルをしていないと目に突き刺さってきて、涙がポロポロ出てきて視界が良くない。バイク乗りにはキツイ。

「眼鏡=バイクに乗りづらい」。そんなこともあり、今では「眼鏡」っていうとちょっとネガティブなイメージを持ってしまう。バイクに乗り出す前なんかは、「眼鏡大好き!」って感じだったのに。

今でも確かに「眼鏡」は好きではある。だけどそれより「バイク」が好きになった。人はこうやって変わっていく。価値観やら何やらを、時にちょっとずつ、時に劇的に変えていく生き物。

例えばバンドをやっていた人がいるとする。何年かの濃い活動期間を経て、そのバンドが解散してしまう。「バンド」というフォーマットから、「ソロ」という形態への移行。

愛して止まなかった「バンド」との別れ、新しい「アーティスト」たちとの出会い。愛していたがために過去に縛り付けられてしまうことや、これから広がる無限の可能性を前にして、「否定する」ことでではなく「受け入れていく」ことで「生まれ変わろう」と悪戦苦闘する日々。

「価値観の変化」。

CMの曲を担当しているYUKIが過去にリリースしてきたシングルのレビューが、「花王エッセンシャル・ダメージケア」のHPにて連載されています。現在は2ndシングルの「プリズム」まで。何週間かおきに更新されるみたいなので、チェックしてみてください。非常に熱い内容にぐっとくることうけあいです。  
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2005年11月22日

Chocolat&Akitoの殺傷能力pt.4「ツアー・ファイナル at 代官山UNIT」を見てきました。その報告1  

ショコラ&アキト051122
こんにちは、クラウド(tsukinomichikake)です。20日近く振りのエントリー。この間にも毎日たくさんの人がこのBlogに訪問してきてくれていました。本当に「ありがとう」。そして「ただいま」です。

前回のエントリーを立ててから、思うところあって、低空飛行の日々に突入。「5月病」と申しますか「鬱」と名前をつけましょうか、まぁ、年に数回クラウドちゃんにたびたび訪れるあの「黒い影」ですよ。

彼ったら「上がらせてもらうよっ」なんて気さくにやって来て(そのくせテンションに関しては「下がらせてもらうよっ」な困ったちゃん)、ちょっとの間クラウドの中に我が物顔で居座ってました。もはや「居直り強盗」感覚で。

そんなピンチを救ってくれたのは、またしてもあの男。「星の王子さま」こと「片寄明人」。正直、「この人がいなかったら、人生やれてなかったかもしれません」っていうくらいぼくの中では大きな存在。何度彼が(そして彼の仲間たちが)紡ぎ出す音に救われてきたことか。

昨夜、11月21日。代官山UNITで繰り広げられた、彼とそのパートナーによる「クラウドの心の救済劇」。すなわち「Chocolat&Akito」のツアー・ファイナル。その模様を数回のエントリーに分けて報告していきたいと思います。

書きたいことが多すぎて、一体どこから書き始めたらいいのやら。  

2005年11月03日

「landmark」 Salyu  「せつなさ」という感情はいったいどこからやってくるのだろうか?

landmark
こんばんは、クラウド(tsukinomichikake)です。本日は久しぶりに「音楽ネタ」のエントリー。このブログのタイトルに「音楽の中に・・・」なんて付いてるのに、ホント「音楽ネタ」少ないですねぇ。そんなこんなで本日紹介するのは、ニューシングル「風に乗る船」を最近発売した「Salyu」の1stアルバム「landmark」。

「せつなさ」という感情はいったいどこからやってくるのだろうか?

ぼくらは日々様々なものにふれては「さつなさ」を感じ取っている。そして同じようにプラスの感情(「楽しい」とか「うれしい」とかの類)も感じ取っている。

しかし不思議なのもで、プラスの感情に対しては、「いったいどこからやってくるのだろう?」なんてそこまで深く考える機会は少ないと思う。

人が感じる「せつなさ」の根源には、実に様々な要因が存在する。きっと「せつなさ」の数だけそれは存在する。そしてその大半は人生における「トラウマ」にも似た「何か」によって生み出されている。

幼い頃にテレビで見た「クリーミー・マミ」の最終回。ぼくが「せつなさ」を感じる時に、無意識のうちにくらべてしまう、基準となる「せつなさ」を幼少のぼくに植え付けたもの。肝心なストーリーはもう細かくは憶えていないが、あの時に生まれた感情はまるで「トラウマ」のようにぼくの中に刻まれている。

魔法でアイドルに変身できるマミが、その魔法が永遠に失われてしまう期日を、嵐に見舞われる野外コンサートの中で迎える。たしかそんな感じの最終回だった。28歳になった今でも、思い出すと何とも言えない気持ちになってしまうシーン。

続いていたものが終わってしまう。大切なチカラを失ってしまう。最後のステージ。雨の中。そしてやってくる最後の瞬間。

「せつなさ」という感情はいったいどこからやってくるのだろうか?

「landmark」8曲目に収められた「Dramatic Irony」がぼくに与える「せつなさ」とは、「クリーミー・マミの最終回」によってぼくにもたらされた「トラウマ」に似ている。

「大切な何かが失われてしまう、そんな終わりが近づいてくる」。当たり前のように続いていく日常に、不意にやってくるもの。「そのうち痛みも、きっと消え去ってしまう」。そこに当然のように存在していたランドマーク<位置を知る目印>が消えてしまうように。

風に乗る船





10月26日の発売になった「風に乗る船」。特典として収録されている「Dramatic Irony」のライヴ映像は必見!Salyuの表情と、曲の世界観と、背景のCGとが織りなす「せつなさ」を堪能できます。
  
Posted by tsukinomichikake at 04:44Comments(1)TrackBack(5)音楽ネタ 

2005年11月01日

かの人や月 全3巻 いくえみ綾 2005年における日本の「サザエさん」

かの人や月
こんばんは、クラウド(tsukinomichikake)です。今日は一日中めっきり冷え込んで、冬ももう間近といった天気でした。そんな寒い毎日に、ポッと心を暖かくしてくれるようなマンガ。本日の「少女マンガをめぐる冒険」のエントリーは「いくえみ綾」の「かの人や月」について。

先日、最終巻である3巻がでたばかりのこのマンガ。3巻を読み終えるまでは「けっこう面白いんだけど、なんか掴みどころの無い話だなぁ」なんて思っていました。

しかし、その「掴みどころ」は物語の終盤に描かれた、羽上家の長男「顕(あき)」とその家を建て直す際の建築士「金子うらら」との「結婚をめぐる件(くだり)」の最中に突如としてやってきた。

物語の大半を引っ張ってきたのが「ひろの」と「深町」の恋物語であることは確かだが、要所要所で描かれてきた「顕」に関係したエピソードこそが、「かの人や月」だったのではないだろうか?

祖父母、父母、長男と二人の妹、猫のポセイドンと犬のコマル。今ではなかなかお目にかかれないような、「サザエさん」的な大所帯である羽上家が舞台。「お化けにうなされるから」という理由で、一人暮らしのアパートから「顕」が実家に帰ってきたところから物語は始まる。

上記の登場人物の他にも「深町」や「隼人」もやってきて、その人数の多さから一見してバタバタした印象を与えがちだが、物語のトーンは一切派手なところもなく、意外にもタンタンと過ぎていく。過剰に演出されることもなく、「平熱感」とでも言えるような温度で。

そしてその「物語のトーン」とは「顕のトーン」でもあった。「顕」を想いながらも死んでしまった「花川沙織」とその後輩である「西尾ゆかり」とのエピソードからもわかるように、彼の熱量が上がることは一向に無く、常に客観視しているポジションにいる。

大家族を舞台に選びながらも、こうした「顕のトーン」が物語を支配していたからこそ、「掴みどころの無い」ものになっていたのだと思う。

しかし「金子うらら」との出会いによって、それまで終始低調であった「顕のトーン」がその温度をグングンと上げていく。

その直前まで「無」に取り憑かれていたこともあってか、「人間の心とはどこからきて、どこにあるものなのか」という疑問にぶちあたることになる。「トーンの変化」の真ん中に、この問題が存在していることに間違いはないだろう。

しかし「顕」と「うらら」のエピソードが進んでいっても、結局その疑問に対する答えは明確な言葉として描かれはしなかった。

しかし、「かの人や月」で描かれてきた一見バラバラなエピソードは全て、同じものにそのベクトルを向けられていたように思う。「家族や、自分を大切に思ってくれる人々、自分を家族のように思ってくれる人々」との、なんとも形容しがたい関係性の「愛おしさ」や「かけがえのなさ」。

そうした人々とのまじわりが「心」を形どる輪郭になるのだと。

「サザエさん」がもはやフォークロアと化してしまった感の否めない日本において、これほどまでに嫌みなく「家」であったり「そこに住む(そして時に訪れる)人々の心」を定義できたマンガは実に稀である。それこそがこの物語における「掴みどころ」なんだと思う。  
Posted by tsukinomichikake at 04:05Comments(0)TrackBack(4)少女マンガをめぐる冒険