2007年03月14日

宗教について考えてみた

 宗教です。科学万能の時代といいながら。歴然とした勢力があります。

 信者数が多ければ、議員の当落も思いのままでしょう。

 さらに善意の団体なので税金もありません。

 税率加重票制が採用されれば、払わせろと言って来そうです。

 

 人生の真理を追求するなら、宗教でしょうか



 物理学や数学で真理を追求したくなるのは、人間の性分でしょう。

 難しい方程式や公式を解いて人が幸福になれるかどうかです。

 社会全体で恩恵もあれば、原爆というものが作られたり。

 便利になれば便利になるほど、犯罪も悪化したり。



 それで、人間性の問題が大きくなると、人間の内面を探求したくもなります。

  

 人間の欲望は、衣食住足りて礼節を知ればいいのですが、

 さらに欲が強くなって、止まることなく。多岐にわたっています。

 欲望が強過ぎて墓穴を掘ったりもします。

 弱肉強食の動物の世界で人間が最強なので、人間を淘汰するのは、人間ということでしょうか。

 人間が人間を淘汰しないで人口爆発するのは、少し怖いです。

 

 利己主義を追求して自己の欲望を達成させるのが人間の本性でしょう。

 問題は、利己主義を追及し過ぎると滅んでしまうということでしょうか。

 無性生殖なら利己主義を追及しても問題なく。増殖していけます。

 しかし、人類が無性生殖という手段でなく、有性生殖で増えるという手段を選択したことです。

 利他的にならなければ、交配すら困難になったことです。

 さらに集団になって社会生活を営むようになると。

 利害関係が生まれるので、ルールを決める必要も出てきます。

 社会秩序です。守られていれば、正義、守れなければ、悪というところです。

 

 利己主義と利他主義の釣り合いが取れなければ、さらに深刻です。

 集団生活そのものが危うくなります。

 二つの相反する性質を持った人間は、ある意味、不幸かもしれません。

 しかし、無性生殖を選択した生命より、有性生殖を選択した生命の方が圧倒的に優勢です。

 自己主義だけ、自己完結型は、アメーバー以上に育つことが出来ません。

 利己主義と利他主義で矛盾した生命が優性ということでしょう。
 「公正」「名誉」「仁愛」「自由」「生命」「幸福」も言葉としては、綺麗ですが、多くの場合。
 個人が、国民(民族)が、戦って勝ち取ってきたもので、戦って勝ち取るものでは、ないでしょうか。

  

 宗教が優れているのは、利己主義を追求すれば、滅ぶしかないということを教えていることでしょう。

 しかし、自己の育成をしていくというのも、本能的な戦いなので、奇麗事で済まないこともあります。

 また、人間が愛や優しさ、思いやりのほかにも、強さや強靭さなど。

 相反し、矛盾するものを求めようとすれば、どうしても混沌としてしまいます。

 当然、人間の話す内容も相反する結果を求めるので、支離滅裂になってしまいます。

 利己主義と利他主義の兼ね合いが重要になると思います。

 これは、個人から始まって、家庭、企業、民族、国家に至るまで当てはまるでしょう。

 慈善も重要ですがより重要なのは、バランスでしょうか。

 

 利己主義と利他主義のバランスが悪いと狂っているように見えます。

 結婚すると、利己主義と利他主義のバランスが問題になってきます。

 互いに利己主義が行き過ぎれば離婚です。

 お互いに一生、労働者と家政婦と開き直れば長持ちするでしょう。

 求めすぎてもお互いに許容範囲というのがあるのだから、

 最初のうちは我慢していても限界に達して破局、離婚です。

 自己犠牲が出来る限度は、人それぞれですから、それを超えたらお終いです。

 

 個人主義。

 むかし、旅客機が冬の川に落ちて、乗客を助ける乗客が何度も川を往復。

 何人も救出したあと、最後に力尽きて溺れたというのがありました。

 キリスト教を根底にした個人主義は、イエスキリストの生き方まで含んでいるので意外と奥深いです。

 個人主義と利己主義を使い分けるのもそれです。

 日本の場合、個人主義が蔓延しているのに、根底にキリスト教がないので、少しばかり不安です。

 日本のキリスト教徒の人口比率の少なさときたら、下手な共産主義国家より少ないです。

 そして、個人主義は、利己主義も利他主義も含んでいて、

 単純に善悪に当てはめるわけにいかないでしょう。

 それでも個人が自立した人権として認識されるというのは、悪くないと言えます。

 個人主義は、家族主義、地域主義、セクト主義に引っ張られにくいという点で特徴がありそうです。

 

 日本の場合、小乗仏教は馴染まずに、大乗仏教の影響が強い民族性です。

 組織重視で個人を殺してしまう組織依存の日本型セクト主義と

 個人の権利を優先する欧米型個人主義は、摩擦があるような気がします。

 個人的な意見でいうと、日本人は、個人の自立という点で欧米の個人主義に劣っています。

 しかし、組織そのものが不必要に肥大化せず、腐敗せず健全ならセクト主義も悪くありません。というのが感想です。

 日本でキリスト教が馴染まないのは、個人が独立した生き方を追求するキリスト教が、合わないという事でしょうか。

 キリスト教で、個人よりも、家とか、セクト主義を重視するような教理なら、日本でもブレイクするかもです。

 しかしながら、罪という概念と戦うよりも実利を求めやすいのが日本人です。

 アル・カポネを滅ぼしたアメリカ。清水の次郎長を社会組織に組み込んだ日本の文化の差でしょうか。

 キリスト教が徹底されていたら、清水の次郎長は、磔か、アルカポネと同様に隠遁死です。

  

 価値観の違いと立場の違い。

 マラソンを走っている人と短距離を走っている人とは、生き方が違います。

 お互いに自分が正しいと思って走っているのですから。

 そして、たぶん、正しいのですから。

 アスリートが一般的に頭が悪くても、

 マラソン選手が短距離選手に走り方を押し付けたり。

 短距離選手がマラソン選手に走り方を押し付けたりしないでしょう。

 アスリートもそこまで頭が悪くないということでしょうか。

 これが人間関係になると、よく起こります。

 男と女の違いは、マラソン選手や短距離選手以上に違いますが、それが分からなくなることもあるようです。

 男女の違いは、生き方で違います。

 誕生

 男は、少年、青年、夫、父親、祖父、労働者

 女は、少女、女性、妻、母親、祖母、家政婦

 死

 誕生と死以外は、内容が違います。

 男女平等や男女同権は、問題が生じてくると思います。

 男女別で幸福になる考え方や方法を考えるべきでしょう。

 

 さらに人間同士の違いもあります。

 人それぞれ、目的が同じでもそこにいたる方法論が違います。

 さらに目的が違う場合も出てきます。

 生きる目的が違うのですから、一緒にいることも苦痛になります。

 

 方法論が違っても、目的が違ってもいいのですが。

 犯罪まがい、行き過ぎた利己主義的に走られると他人が迷惑します。

 ほどほどにすべきです。

 

 宗教で露骨なのはヒンズー教かも・・・です。

 男女の交わりを露骨に石像に残したヒンズー教は、カースト制度など問題を抱えていますが勇気があります。

 親子と男女を血統を通じてつなぐ生殖器の価値を認め。大宗教として存在しているのは、ヒンズー教が最大です。

 ヒンズー教は、キリスト教、イスラム教、仏教とも、避けている性をきちんと石像で表現している。

 原始的でもあり、素直でもあるような気がします。

 性を教理で掌握しきれないところが、キリスト教、イスラム教、仏教の限界でしょうか。

 人生の真理を追究しようとする場合。どうしても伴侶が邪魔になるのでしょう。

 そして、世俗の誘惑と白い目も強いようです。

 しかしながら、人類の歴史を通じて親と子を繋ぎ、男と女を繋ぐ生殖器を無視して真理や人生を探求しようとしても、おのずと限界。

 そして、高潔性を教理にする高度な宗教は、性を教理に組み込むことに躊躇します。

 これに挑戦する宗教は、邪教とか、淫乱宗教とか言われるわけです。

 性教育をする教祖など、高潔性が吹っ飛びます。

 悪魔崇拝でやるサバトの領域に入って行きます。

 当然。幹部も信徒も教祖がご乱心〜 です。

 そういったわけで、キリスト教が精神的な愛で、ぼやかし。仏教も慈悲とかでぼかしています。

 もちろん、全歴史を通して、親と子を繋ぎ、男と女を繋ぐ生殖器を無視して真理や人生を探求しようとしても、おのずと限界です。

  

 カトリックでは、独身者が三世代の頂点に立つ祖父・祖母に神と人生を教えているのですから。説得力に欠けます。

 しかしながら、宗教自体に目的があるわけでなく。

 宗教は人間性の向上の手段でしょう。

 手段を目的にすると腐敗が始まります。

 キリスト教も、イスラム教も、仏教も同様です。官僚もそうでしょうが、人間が組織を作ると、似たようなパターンが生まれます。

 キリスト教がエルサレムから叩き出されたのも、仏教がインドから叩き出されたのも肥大化した宗教組織が腐敗したためです。

 それぞれの宗教組織で、独特の処世術があり。やはり、企業や官僚と同様に出世競争や追い落としがあるようです。

 それでもガンジーやマザー・テレサのように人に感動を与えられるような人間もいると思います。

  

 もう一つ、宗教をかじった事があれば、分かると思いますが、自己犠牲のほかに自己否定というのがあります。

 自己犠牲は、自分を犠牲にすることで、適当な例を挙げれば、特攻でしょうか。なかなかできることではありません。

 自己否定は、自分を殺すとか、自分が自分でなくなるといった。生き方になってしまうので、違う内容になってしまいます。

 自己犠牲の延長上に自己否定は、ないので、別の部屋になってしまいます。(ニュアンスがおかしいか)

 スイッチがまったく違います。

 こちらには、限界とか我慢という概念がありません。

 自分を殺して違う人間になっているので当然です。

 マインドコントロールとか言われそうですが、

 犯罪者相手に、これが出来なければ、再犯確実。

 さらにうまく使えば、勉強好きで東大に行ったりもします。

 我慢して勉強していないので楽です。

 夫婦関係でも自己犠牲でなく。自己否定が出来ているのなら。

 我慢していないのですから楽です。

 夫と妻が自己犠牲で一緒にいるのと、自己否定で一緒にいるのとでは、まったく違います。

 夫や妻が ”自分は、我慢している” といって怒るのは、自己犠牲組。圧倒的に多いはずです。

 人間が社会生活で死ぬまで我慢するのは、当たり前です。

  

 宗教が問題になってくるのは、目に見えない部分を体系化しようとしたときでしょうか?

 分派が起こります。

 ただ単に分かれるだけならいいのですが、相手を邪教扱いして、滅ぼすこともあります。

 特にキリスト教徒とイスラム教徒は、激しいです。

 カトリックとプロテスタントもなかなかです。

 仏教徒の大人しさに比べると、どっちが邪教なのだろうと思ってしまうほどです。

  

 宗教が違うと水と油の様に分かれてしまいます。

 それは、目的が違うからというよりも方法論で違うからでしょう。

 どちらから山を登っても頂上にいけると思うのですが、殺し合いにまで発展するのは、問題です。

 たぶん、頂上にいけないから、互いに相手のせいにして、殺しあっているのかも、です。

   

 一方、二つの宗教の目的が違う方は怖いです。国同士の戦争は、真っ向から利権がぶつかり合います。

 国と宗教が結託してしまうと聖戦になって100年戦争ということもあります。

  

 宗教が、その善の追求という目的から外れると本末転倒になると思いますが、相変わらずやっているようです。

 特にイスラム教は、十字軍や植民地の仕返しなのかもしれませんが、テロは、やり過ぎです。

 宗教が、選民思想の温床になる場合があります。

 民族的な自己満足を達成するための宗教になってしまうことです。

 日本にもたくさんあるかもしれません。言語と文化で独自のものがありますから

 こういう宗教は、内容はともかく、民族の外に出られなくなります。

 キリスト教の母体であるユダヤ教が民族を超えられないのは、そのためでしょう。

 宗教の教祖や主導者も個人の欲望や志向に影響されています。

 神から受けた恵沢や予言が教祖の闇の気質で捻じ曲げられることもあると思います。

 団体は、教祖や主導者。そして、教義以上に大きくなれません。

 そういう意味では、キリスト教、イスラム教、仏教は、人類の宗教性の限界と言っていい勢力でしょう。

 人種を超えられない。

 民族を超えられない。

 国境を越えられない。

 離婚はなくならない。

 犯罪はなくならない。

 

 しかしながら、宗教の教義は体系化された善です。

 各国の憲法や法律も宗教の教義を引っ張り出して、加工したものです。

 宗教無用論者は、そのことを触れないようにしています。

 善悪の基準に宗教の教義を利用するのは、当然。

 憲法や教義を自分勝手に作れば、それこそデタラメな憲法と法律になるはずです。

 宗教と言う建前(利他主義)は、欲望と言う本音(利己主義)を前にすれば劣勢だと思いますが。

 欲望と言う本音(利己主義)の暴走を許すべきではないです。

 もし宗教がなくなれば、倫理道徳で善悪を追求できなくなると思います。

 人を殺して何で悪いのだと言われて、何と答えるか。

 適当な宗教の教義を引っ張り出すのは、適当で便利でしょう。

 

 しかし、ながら、宗教の目的が達成されたときのほうが怖いです。

 人間の欲望が全てかなう世界も怖いです。

 憎い人間がいて、殺したいと思っている人間もいるので、どうなるのでしょうか?

 それとも欲望が自制されてしまうのでしょうか?

 結婚は?

 一方が望んでも一方が望まない関係は、どうなるでしょうか?

 一方が不幸であれば、宗教の目的は、達成されず。不幸が存在するでしょう。

 民族同士の欲望が叶うかどうかも怖いです。

 一方が一方を滅ぼしたいと思っている民族もあるのですから。

 それともそういった。思いも消失させてしまう力が宗教にあるのでしょうか?

 

 そういった疑問を全て解決した場合。

 人類が等しく愛で結ばれ、幸福になった時。平和になったとき。

 言葉が一つになったとき。

 人種差別がなくなったとき。

 民族紛争がなくなったとき。

 宗教紛争がなくなったとき。

 人口爆発が起こると思います。

 食料をいくら増産しても、間に合わないでしょう。

 人類が恐ろしく短命になるか、

 無尽蔵の食料庫と資源。土地を発見するか。

 エントロピーを無視した永久運動機関を発明でもしない限り。

 宇宙開発が間に合うかどうかも怪しいです。

 ねずみのレミングの様に海の突入していくことになります。

 怖すぎます。

 それとも、神は何か奇跡を起こして無限の空間を用意されているのでしょうか?

 キリスト教の聖書には、それらしい記所がありました。

 悪が全て滅ぼされて、新しい天と地が現れるのでしょうか?

 悪が滅ぼされたから、新しい天と地になったのでしょうか?

 天と地が現れるというのは、多分、無いような気がします。

 自力で、新しい天と地を現さないといけないのでしょう。

 

 だからといって人間に失望することもないでしょう。

 無宗教が国民の大多数を占めていながら高度な科学技術とモラルを有している日本。

 そして、日本人は、キリスト教やイスラム教など宗教国家に対する対するアンチテーゼの先鋒です。

 悪魔が存在して、神が存在しないという証明するため全精力をつぎ込んで日本の応援をしているのかもしれません。

 悪魔が人間並みに頭がよければ、それくらいのことは、考えるでしょう。

 わたしが悪魔だったら、それくらいの戦略は、考えます。

 

 科学で言うと神は、秩序とか法則という風に捕らえるべきでしょうか。

 しかし、神や悪魔といった名称を使った場合。そこには、意思というものを感じます。

 どちらも目に見えないのですが、目に見えなくても存在するものは、存在します。

 人間の心は目に見えなくても存在します。

 問題は、心だけで存在するかどうかでしょうか?

 石ころの様に物質だけで存在しているものがあるのであれば、心だけでも存在するものがあってもいいような気がします。

 

 心のあり方。

 コンピュータと人間の違いで大きいのは、人間が矛盾した意思があるという点が大きいと思います。

 では、コンピュータに矛盾するプログラムをフリーズしないように走らせたらどうでしょうか?

 理性を優先するプログラム。

 感情を優先するプログラム。

 理性と感情を調整させるプログラム。

 これだけで、随分、人間らしい感覚になるような気がします。

 しかし、やはり、

 善と悪のプログラムを組み込めば、よりリアルでしょうか。

 善を追求するプログラムと悪を追及するプログラム。

 それを調整するプログラムでしょうか。

 悪を追求するといっても、悪をしようとしても、それは動機になりえないでしょう。

 欲望を追求する手段として、制約がなければ、悪?

 欲望を追求する手段として、制約があれば、善?

 この場合、

 制約は、法律というものや慣習、伝統というものでしょうか?

 その制約、法律、慣習、伝統を破壊する者が悪になるのでしょうか?

 新しい発想を絶えず模索するのが人間なら。発展と破壊は表裏一体になります。

 その動機が問題になるのでしょうか?

 苦しくなって泥棒をする。強盗をするという選択をすれば、悪です。

 しかし、子供が飢え死にするくらいならと、やってしまう場合もあります。

 賛成できなくても、生存本能でやるでしょう。

 それで店が潰れて、路頭に迷う人間が増えれば、さらに同類が増えます。

 

 悪政が行われた結果ならどうでしょう。国民の過半数が飢えれば、悪政を倒したくもなります。

 軍隊の力だけで維持されているような国は、滅んだ方がいいかもしれません。

 むかしの日本軍がそれですね。いまだと朝鮮でしょうか。

 この場合。悪政を倒そうという勢力のほうが善でしょうか。

 

 日本の官僚は、危険な状況にあるといえます。お金を・・・・

 この場合、血税を無駄に食い潰す。官僚が多すぎます。

 浪費癖の強い主婦よりも酷いでしょう。

 ほとんどの国民は、恩恵を受けていないと思っていいでしょう。私服を肥やしているのでしょうか。

 国民に恩恵が行かないのなら。存在意義は、ないでしょう。

 官僚の天下り先のためだけに存在するような、部署は、廃止すべきでしょう。

 官僚は、頭がいいです。自分の都合のいいような法律に守られています。

 

 哲学や道徳は、どうでしょうか?

 それで解決しているのなら、とっくの昔に解決しています。

 人間は、理想を追えないほど悪徳ということでしょう。

 平和が続くと淀みが大きくなって腐ってくるのが今の日本でしょう。

 この場合、破壊衝動が生まれるのですが、連鎖反応が起こります。

 そして、ニートという存在は、その破壊衝動の一つでしょう。

 官僚や政治家は、腐敗を誤魔化してくれるニートの存在を喜んでいるかもしれません。

 どちらも自滅衝動とか、自殺衝動という感じです。

 その人数の大きさから、民族的な自殺未遂です。

 出来れば、どちらも平和的に解決したいものです。

 

 宗教は、個人のあり方や内面を追い過ぎて、観念的になるので、少しばかり、こういった問題提起をすべきでしょう。

 官僚は、無宗教者が多いのでしょうか?

 問題を解決する能力がなければ、宗教の価値は低いです。

 

 実を言うと宗教に失望しているわけではないです。

出来れば、期待したいです。

 しかし、宗教の目的が達成された場合も怖いのが、問題です。

 本当に悪が全て滅ぼされて、新しい天と地が現れるのでしょうか?

 利他主義だけで人間が生育できるとは思いません。

 利己主義と利他主義。相反する内容がぶつかり、切磋琢磨することで

 人類が鍛えられ苦しめられて、発展してきたのかもしれないです。

 なんとなく愚痴っぽくなってしまいました。すみません。

 

 神について

 宗教とつけた項目で神について書いてないと、なんだこれ? となるので書きます。

 実のところ、天啓もなければ、天恵もないので、実感としては、どうかな。です。

 信じたい者と信じたくない者がいるようですが、日本の場合は、どっちでも良いや、関係ないというのが、大半でしょうか。

 しかし、神を求めているのは、人間の方だという気がします。

 

 やはり、最大の理由は、自分自身が、傀儡だからでしょう。

 自分で自分自身を生成したわけでもなく、自分の力で成長したわけでもない。

 いつの間にか生まれ、育て上げられた存在。

 当然、両親もそうです。絶対的存在かというと、相対的な存在。

 そういう、系譜が綿々と連なって、自分が存在するとなれば、どこから来て、どこに行くのだろうかと、考えたりもします。

 その不安から、絶対的な存在、神が求められたと思います。

 無神論者は、進化論以前から、無神論者なので、進化論があるから無神論者になったと言うのは、違うでしょう。

 無神論者は、進化論を出したりもします。

 実は、口実なので、進化論が怪しいとわかっても、神を信じないと固執したりします。

 そんなもの天啓一つでどうにでも転ぶと言うのが人間でしょうか。

 結構、いい加減でファジーな人間です。

 なぜ、進化論が怪しいかというと最先端での研究では、あれれ〜 という部分が出ているからです。

 神という外圧を認めれば、あっさり解決してしまうので、意外と信じる側が、進化論を利用してくる可能性を秘めています。

 神父さんや牧師さんが進化論を恐れなくなってきている今日この頃です。

 

 結局のところ、有神論、無神論の戦いは、科学的な裏付けは、それほど関係なくて。

 傀儡である人間が、必然的に作られた尊い存在であると思いたい者が、神を信じ。

 苦しい人生や世界を見て、神はいない。偶然にできた存在であると思いたい者が、神を信じないような気がします。

 まだ研究中なので、今回は、ここまでです。

 
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tsukouninn at 21:14│Comments(0)TrackBack(0)clip!

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