tt222のブログ

脳内出血発症からの23年にわたる闘病記録

2009年06月

   脳内出血からの23年  (  8)

いつまで寝てるんだ? 開頭手術の麻酔がさめるはずの時刻を過ぎても、私の意識が回復する気配はまったくなかった。
 だが聴力はわずかにあるようで、口はきけないが体で反応を示すことはあった。
 このあたりの様子は妻の「病床日記」に残されている、
 発症 2日目  左足の親指がかすかに動いた
     3日目  脳のはれにより高熱が出た
     4日目  左手足が少し動いた
     5日目  左まぶたを日に数回開け、主治医が胸を押すと両肩をね   
           じって反応した。 
           血圧・体温ともに高い
    10日目  妻が「私ですよ分かりますか」と言うと、私は首を上下に振    
            った。夕方の体温38.1度、 一日中眠っていた
    13日目  主治医の出す腕を左手で握り返すが、右手はダメ
    14日目  主治医の問いに反応を示すが、言葉は出ない
    17日目  初めての食事をとる、といっても流動食200mlを鼻のチ 
           ュ−ブから流し込むだけだが
    18日目  意識回復を促進するという薬の注射が始まる、10日間が
           使用の限度らしい
    19日目  娘が来て話しかけたが、私は薄目を開けただけ
           長い間両眼を開いて天井の一角を凝視してることもある
            が、一日中眠っていた
    26日目  妻の声にこたえて指を二度やや強く握り返した。
 
    
     

     

   脳内出血からの23年  (  7)

バカヅキは続く    今回の私の発症には確かに多くの幸運が重なっている。
 この運のいい現象は前夜のバカヅキの続きと思えるが、私は自分が神に「生かされている」と信じている。
 とにかくそうとしか思えぬ事実が多すぎるのだ。
 たとえばこの話もそうだろう。
 私が脳内出血を発症したのは昭和61年の9月20日だが、実を言うとその10日後の10月1日に私が転勤することがすでに決められていたのである。
 というのは私が研究所にいたとき開発した特許技術が、愛知県のアルミ加工会社に採用されて事業化することになり、私は技術責任者として出向する計画になっていたのだ。
 すでに現地での宿舎となる独身寮の下見も終えて、私の家には荷造りしたばかりのテレビとフトンがいつでも送り出せるようになっていた。
 そんな状況であり、もし発症が10日ほど遅れておれば、ある朝寮の管理人が部屋で冷たくなってる私を発見して大騒ぎになっていたに違いない。
 まさにT・P・Oを心得た私の発症だった。
 運命とはいえ、生きるやつは生きるのだ。

   脳内出血からの23年  (  6)

死神はジャンプする   私は病院に4号室という病室はないと信じてきた。
 そんな縁起の悪い数字を使った部屋などあるはずがないと思ってきたのだ。
 ところが驚いたことに、23年前のこの病院にはそれがあった。
 つまり長時間の手術を終えた私が収容された病室が部屋番号「2204」の個室だったのだ。
 これは「22病棟の4号室」を意味するので、不吉な予感がして妻の不安が増すのも当然だろう。
 よりにもよってなぜこんな番号の部屋なのかと悩んだはずだ。
 そして何日間も昏睡状態が続く私がベッドに寝てた頃、同じ並びの個室にいる患者が部屋番号の順に死んでいった。
 つまり初めに1号室ついで2号室、そして3号室という順に患者が亡くなっていったのである。
 なにしろ当時はMRIもない時代である、主治医が「この病気は手術をしても半数以上が死にます」と言ってたのも理解できる。
 それにすでに手遅れの状態で運び込まれる患者も多いはずだ。
 私だって手術を受けたときは手遅れ寸前だったではないか。
 そして昨日はベッド横にいる妻の耳に3号室の患者の心臓の動きを知らせる電子的な音がピーピーと廊下伝いに聞こえてきたが、やがてそれがピタリと止んだ。
 そのとき妻は覚悟を決めた、明日は私の番だと悟ったのである。
 ところがである、当日亡くなったのは5号室の患者だった。
 なんとあの忌まわしい死神は私の部屋を跳び越えたのだ。
 この話を信じない人も多かろうが、これはフィクションではなく本当のことです。
  この不思議な現象を一連のバカヅキの続きと考えることも出来るが、私はそうは思わない。
 というのは私は何者かがいつも自分を遠くから守ってくれてるに違いないと信じてるからだ。
 そしてその何者かの正体が分かってくるのはずいぶん後のことである。

   脳内出血からの23年  (  5)

開頭手術   私の脳血管は右・側頭葉部で切断していた。
 手術には6時間半かかったが、切れた血管の端には小さなゼムクリップ状の金具が取り付けられた。
 またこの金具によって脳の血流が遮断されたとしてもすぐ別のバイパス血管が出来るとのことだった。
 私は日ごろの血圧が130を超えることはなかったから、なぜあのとき脳血管が切れたのかと妻は疑問に思ってたが、主治医の説明で答えは分かった。
 というのは私の脳血管が切れたのは「脳動静脈の奇形」によると知らされたからだ。
 詳しく説明すると脳の動脈と静脈をつなぐ細い血管は、本来直線状なのに私のは糸を巻いたようになってたようだ。
 こんな奇形血管は血圧の変化に敏感で、たいていは若いうちにそこが切れるらしい。
 そんなわけで私は赤ん坊のときから頭の中に爆弾を抱えたまま運よく45歳まで生きのびたことになる。
 「知らぬが仏」とはまさにこれだ。
 ところがである、私の発症は絶妙のタイミングで起きていたことが後に分かる。
 というのは私たちが今住むこの家の権利証を受け取ったのが発症の数日前だったからだ。
 発症後の私はどの生命保険にも加入できなくなったから、もし発症が遅れていれば、私は住宅ローン利用の必要条件である「団体信用生命保険」に加入出来ないことになり、死ぬまでマイホームを持てなかったはずだ。
 やはり前夜のバカヅキはまだ生きていた。
記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

tt222

カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
livedoor × FLO:Q
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ