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脳内出血発症からの23年にわたる闘病記録

2011年01月

脳内出血からの24年  (87)

D社よさらば    正直に言えば、私は今までD社勤務の期間は2,3年ぐらいだと思っていた。
 ところが記録を調べてみて驚いた、実際は平成2年から7年までの5年だったのだ。
 また私が脳内出血を発症してから24年が過ぎたが、自分の名前も書けなかったピンボケ頭がここまで回復したのには我ながら驚く。
 しかし私はもしD社での5年間がなければ回復は不可能だったと言い切ることが出来る。
 つまり5年間のD社勤務は私の破壊された脳の修復には必須のプロセスだったのだ。
 なぜなら私はD社で種々の脳リハビリ作業を思う存分に試してみることが出来たからである。
 そして私は奇跡とも思える聴力回復や視野欠損の解消はこれらの作業が効いたお陰だと信じている。
 前にも言ったが、もっとも有効と思われる脳リハビリ法は「言葉のキャッチボール」であり、これを5年間も続ければ大きな成果を得られて当然だろう。
 まさに「継続は力なり」を感じさせてくれることだ。
 私はD社に長く勤務することが出来て本当に幸運だったと思うが、私にこのチャンスを与えてくれた人たちに心から感謝している。
 ところがである、私にとっては「命の恩人」とも言えるD社は既にこの世から消滅している、私が去った3年後に解散したのである。
 だから私を助けてくれたD社の話は、なんとなくあの「白いネコ」(参照ブログ番号、28および32〜41)を思い出させてくれる。
 

脳内出血からの24年  (86)

退院    突然会社の人事部から「定年退職」を言い渡されて深い悲哀を感じた私だったが、本当に残念に思ったのは長年勤務してきたD社を去らねばならいことだった。
 やっと大勢の従業員たちとも親しくなれたし、ピンボケ頭の修復に有効と思えるリハビリ作業をもっと継続したかったのだが、どうやらタイム・リミットになったようだ。
 ついに私はD社を出て行かねばならなくなったのである。
 そんなわけで私は勤務最後の日に従業員達へ別れを告げる機会を作ってもらった。
 ある日昼食を終えた全従業員が食堂に整列した。
 そして彼らの前に立った私は、涙を見せることなく大きな声でお礼の言葉を述べた。
 このとき私はこう言って自分の感謝の気持ちを表している、
 「この会社は私にとって理想的な病院でした、会長はじめ皆様方の暖かい心に守られて私は病気の療養に専念することが出来ました、お蔭さまで今日は晴れて退院です、たいへん有難うございました」。
 この後で私は従業員の代表から餞別を受け取るのだが、これには大感激をした。
 というのは餞別は従業員全員からのものであり、なかには一度も話をしたことのない人たちが含まれていたからだ。
 こうして私は着任のときとはまったく別人になってD社を退院していったのである。
 なにしろ勤務初日に私は帰宅の道が分からなくなるし、時計が読めずに赤っ恥をかくなど本当にひどいピンボケ頭を持っていた私だった。
 
 

脳内出血からの24年  ( 85)

青天の霹靂    話を戻すが、平成7年の12月に私は会社の人事部から呼び出しを受けた。
 そこで不安な気持ちを抱いて出頭した私だったが、そのとき思いもよらぬことを言い渡される。
 というのは人事部の担当者が私にこう言ったのだ、「あなたは来年早々に55歳になりますね、従って社内規約により定年となります」。
 「青天の霹靂」とはまさにこれである、私はただ驚くしかなかった。
 なぜなら私はそれまで60歳が定年だと信じ込んでいたからである。
 ところが彼の説明では本来の定年は55歳と規約で決められているが、その時点で「健康で通常の職務能力を有する」と認められた場合には、さらに続けて5年間勤務することが出来るということだった。
 当然私もこの規約については知ってるはずだが、どうやら発症によって記憶が欠落したようでまったく記憶がなかった。
 そして最後に彼は言った、「身体障害者のあなたを健康体と認めることは出来ません」。
 社則とあれば仕方がない、私は55歳定年を受け入れるしかないのだ。
 その日の夕食の席で私は、「社員たるもの社則には従わねばならないのだ」と言って家族と自分自身を納得させようとしたが、私の無念の思いは強まるばかりである。
また妻も「悔しい! 」と言ったきりしばらくは口を開かなかった。
 妻は日ごろから「お父さんの病気の引き金は仕事による過労よ」と言ってたので、その気持ちは非常によく分かる。
 ふり返って見れば突然の脳内出血発症から10年、私たちは多くの苦悩や屈辱に耐えてがむしゃらに頑張ってきたのである。
 その努力に対してこんな形で幕が引かれるとは考えてもみなかった。
 復職決定の通知を受けた日の夜、妻と乾杯して喜びあったことが懐かしく思い出される。
 ところがありがたいことに、会社は私との縁を残しておいてくれた。
 
 
  

脳内出血からの24年  ( 84)

奇跡は続く   いつも私が身につけてる「身体障害者手帳」には、障害の程度を示すため「両眼の視野10度以内(5級)」と明示してある。
 つまり大きな視野欠損も私の後遺症のひとつなのだ。
 ところが平成8年の春のことだ、訳あって私は市の指定病院で改めて視野検査を受けるよう指示された。
 そこである日妻と共に指定の眼科へ行って私だけが検査室に入った。
 係りの女性による検査はとても慎重に進められたようで、予想外に時間がかかった。
 ところが彼女は検査中に部屋を出て、待合室の妻から私の「身体障害者手帳」を受け取ると記載事項をチェックしたようだった。
 次に彼女は担当の眼科医がいる部屋に入って視野検査の結果を報告したようだ。
 やがて隣の検査室で待つ私の耳に二人の声高の議論の様子が聞こえてきた。
 このとき待合室で待つ妻は長すぎる検査にちょっと不安を感じていたらしい。
 まもなく私と妻が呼ばれて担当の女医の前に立ったが、彼女は笑顔も見せずに言った、「あなたの視野欠損はほとんど消えてます、もう身体障害者に該当しません」。
 その瞬間私は危うく涙が出そうになったが、どうにかこらえることが出来た。
 それもそのはずだ、妻がいつも「将来の回復の見込みがないから身体障害者に認定されたのよ」と言ってたから、私も完全に回復をあきらめていたのである。
 それが視野欠損がほとんど消えてることを専門医が確認したのである。
 その女医の話では、脳出血の場合はまれにだがこんな現象があるそうだ。
 だが正確に言えば私にはまだ視野の左下部にこぶし大の欠損部が残っている。
 だからこの範囲に妻が夕食後のお茶を置くと、私はいつまでも気がつかない。
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