世界遺産マイスターとして最高のパフォーマンスを!

世界遺産マイスターとして何らかの活動を行っています。かつては『パチスロで最高のパフォーマンスを!』目指していました。勝利に徹しつつも熱く打ったパチスロの記録と小説、2006年の日本一周の記録、継続しつつも成果の全く出ない株式投資の記憶、そして目指すべき世界一周への思い、読んだ本や見た映画、飲んだ酒などの雑多な記憶。半島や岬の先端と灯台の記憶も忘れ難い。

マニアにとっちゃプレミア物なんだよね

私の住む街でもプレミアム商品券なるものが発売されるという。使える店は限定されるのだが、その分10000円分の商品券に2000円のプレミアムが付いてくる。一人30000円が限度なので都合6000円のプラス収支になる。当然タバコや電子マネーのチャージ、クオカードなど換金性の高いものには使えず、商品券の使用期限も10月末迄となっている。とは言え普通に生活していれば2ヶ月もあれば36000円は使ってしまうし、万が一使い切れなくても全部酒にしてしまえば良いということで、購入することにする。ガソリンスタンドでも使えるようなので30000円では足りないくらいだ。家人も大きい買い物を控えているようで購入するということだった。

これは地域活性化という名目の元だろうか、税金が投入されているのである。おそらく。逆に言うと買っておかないと損というレベルである。使用できる店を調べていたら面白いことにパチンコ屋でも使えるのである。その店が等価交換かどうかは解らないのだが、・・・ということである。一人30000円限度と言っても本人確認なんかしてないだろうし、人を集めて並ばせたりするなど、なかなか香ばしい人々が食い付きそうな話ではある。

家人はちょうど実家に帰っており、地元の商店街へ買いに行くということで、一人で近所の大型商業施設へ引換券を貰いに行く。7000枚配布だったので、余裕だろうということで引換券配布の15分前に到着する。
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既に150人くらいが並んでいるも、この人数なら売り切れはないと安心して並ぶ。思っていたよりも香ばしい感じの人はおらず、普通の家族連れが多かった。パチンコ屋に一晩並んだこともある私にとっては15分の並びなら一瞬で、無事に引換券を入手することが出来た。それでは今から涼しい格好でビールでも飲みに行こうか。

『雨天炎天』

“旅行というのは本質的には、空気を吸い込むこと”(113P)
ギリシャの聖山アトスとトルコ一周。その場でしか感じることの出来ない”空気”を吸うために無理を押してでも渡航したくなる一冊。でも”異郷”の地での無茶はいけない。と自分に言い聞かせておきたい。

酒は百薬の長

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母上から酒を頂く。富山の薬売り風の箱に入っている。中身はこんな感じだった。
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おまけに紙風船まで入っていた。子供の頃に薬を販売に来る人が持ってきていたような、いなかったような。
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富岡製糸場、参道、無料ビジネス

次は富岡製糸場へ向かう。という訳ではなく、最後に富岡製糸場に向かう。ということになってしまった。時間の都合により、家人も納得の目的地である富岡製糸場へ行き、その後で遅めの昼食を食べると良い時間になるだろうということだ。「富岡製糸場と絹産業遺産群」のあと2つの構成資産である「荒船風穴」と「高山社跡」は次回以降に持ち越しとなった。

富岡市に到着し、観光客用の駐車場に車を停める。歩いて15分ほどで富岡製糸場だったのだが、富岡製糸場内で長距離を歩くことが予想されたのでここはタクシーで移動する。富岡製糸場に近づいていく道の両脇には派手な看板のお土産屋さんが並ぶ。まるで大きな神社の参道のようだった。

富岡製糸場内へ入るとまず見えるのが東繭倉庫である。よくテレビなどでも映るあの大きな建物だ。建物の長さは100mを超える、明治5年の建築物である。明治5年というと1872年、池田屋事件が1864年だから、ほんの数年前まで新選組が刀を持って走り回っていた時代である。テレビで富岡製糸場のガイドの人が言っていたのだが、「我々の思う明治は明治の終わりの方」である。明治5年とは4年前が江戸時代という時代なのである。東繭倉庫は明治人の意気込みと行動力の賜物と言える建物だった。
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東繭倉庫は木骨レンガ造りという木の骨組みの間にレンガを積み上げる工法で建てられた建物である。日本とフランスの建築技術の融合が、文化の国際交流を示しているという点でも富岡製糸場は世界遺産に登録されているのである。
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東繭倉庫の中、天井は板張り、石の礎石の上に木の柱が立っている。
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東繭倉庫の西側の入口で見事なアーチに見とれる。
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総糸場の入口の上部、木骨レンガ造りの特徴が出ている。
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総糸場の中には操業停止時の機械がそのまま保存されている。操業停止後の1987年から2005年の富岡市への寄贈まで、機械や建物を保護管理していたのは民間企業の「片倉工業」である。「売らない・貸さない・壊さない」という3原則のもと、18年間も遺産の保全に努めていたのである。製糸場の保全に関わるコストは年間1億円にもなったという。遺産の本当の価値を知る人々が、遺産を守り受け継いでいくという最高の例ではないだろうか。

1920年代には日本は世界一の生糸の輸出国となる。昭和初期には生糸は日本の輸出の4割〜7割を占めていたという。富岡製糸場は外国資本の導入を迫られるも日本独自の資本で建設された。こういった先人たちの努力と度胸を、我々は食い潰しているのかも知れない。

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帰る前に東繭倉庫の壁面を見ていて気付いたのだが、一箇所だけ窓の形状が違っている。
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その窓の下の方のレンガも新しく直されているようなので、ここは修復があった場所なのだろうか。
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富岡製糸場を出て、土産物屋が並ぶ参道をちょっとだけ散策する。お土産に購入したのがシルク石鹸、泡立ちが良いという。

この石鹸を購入したのは富岡製糸場を出た目の前で石鹸を泡立てて実演販売をしている店だった。家人も手の上で石鹸を泡立てさせて貰っていた。そこからしばらく歩くと同じシルク石鹸を扱っている店もあったのだが、製糸場から離れているせいか客付きは良くない。どっちが元祖かは解らないのだが、売上上々の店とそうでない店との関係性は上手くいっているのだろうかと要らぬ心配をしてしまう。

帰りもタクシーに乗り、駐車場へ戻る。本来は昼食には「こんにゃく懐石」を予定していたのだが、そういった料理屋は昼食の部と夕食の部との間の時間帯では一旦営業を止めるものだ。ちょうど谷間の時間だったので、タクシーの運転手に教えて貰った「こんにゃくパーク」という所へ行ってみる。懐石とまではいかなくてもこんにゃく料理で遅すぎる昼食にしようと考えたのである。

富岡市から車ですぐの所にこんにゃくパークがあった。駐車場は車で一杯であり、家人もテレビで見たことがあるスポットだと言う。とりあえず入館し受付、入場無料だが名前は記帳せよというシステムだった。一旦、こんにゃく工場を見学してくれということだったので、チラリと一瞬見学する。その後はいよいよこんにゃく料理ということで進んでいくと長蛇の列である。この先頭がレストランか何かなのかと先頭まで行ってみると「こんにゃく無料バイキング」というコーナーの行列だった。時間と晴天ほど貴重なものはないということを、我々はここ数日間で痛いほど体感していたので行列には並ばずにこんにゃく料理が食べられるような所を探す。こんにゃく懐石にだいぶ予算をみていたので、無料じゃなくていいから早く食べさせてくれということだ。

レストラン的な所を探すも見つからないので掃除をしていたおばちゃんに聞いてみると「そんなものない」ということだった。「内緒ね」と無料バイキングの先頭への割り込みに連行されそうになるも丁重にお断りする。危うく強制連行されそうになり逃げるように退館する。ここの定番コースは、無料のこんにゃくバイキングの後で500円のこんにゃく詰め放題、ちょっと待て、こんにゃくを小さな袋にギュウギュウに押し込んで500円もするのかと。他にもこんにゃく関連製品が大規模に販売されており、レジもまた長蛇の列だった。恐るべし、無料商法。

昼食を食べ損ねたので、慌ただしく帰宅し、地元の焼肉屋へ。昼食兼夕食と疲労回復のため肉を食する。鬼怒川温泉あたりでもう一泊しておけば、もうちょっとゆっくり出来たのかも知れないと思いつつも、とりこぼしスポットが多数あったのでまた同じルートをたどることになるのかも知れない。来年の登山は二荒山神社の中宮祠から男体山かなと考えてもいるのである。

┷虫や蛇に怯える人々

駐車場に戻り、家人と合流する。家人の食べたがっていたソフトクリーム屋さんへ行く。そういえば宿で朝食を食べた以来、既に夕方なのだが何も食べていない。これは家人も疲れるはずだ。まあどうせ夜は大宴会になるので、我々の場合、昼食はそんなにいらないのだが。しばらく車を走らせて、鬼怒川温泉の宿泊先へ到着する。

温泉に入った後、宴会スタート。今夜も部屋食だったのだが、前日にはシャンパンやら日本酒やらとだいぶ飲んだので、今日はビールだけに留めておく。デザートが出て、食べ終わると客室係の人が「では後ほど、布団を敷きに係の者が来ますので。」と去っていく。その瞬間、「ピンポーン」と部屋の呼び鈴が鳴り、布団敷き係の人が登場。素早い動作で布団を敷いていく。そう言えば昨日も部屋食だったのだが、食事が終わった10秒後くらいに食事係とは別の人が布団を敷きに来た。そして尋常ではないスピードで布団を敷いていったのである。この高速布団敷きは温泉旅館の伝統芸能のようなものなのかも知れない。ただ東日本だけ、もしくは関東圏だけの文化なのだろうか。部屋食の温泉宿というものにあまり泊まったことがないのでよく解らない。だいたいは食事を終えて部屋に戻ってくると、布団が敷いてあるものだ。ただ我々が夕食場所に行っている間も、あのプロフェッショナル達が凄まじいスピードで布団を敷いているのかも知れない。

翌日は朝食を食べた後、一旦コンビニへ。飲み物を買っておく。そこで発見したのが「レモン牛乳」である。
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名前が思い出せないのだが、駄菓子のラムネのレモン味のような味である。「ジューC」でも「ハイレモン」でもないのだが、何だっただろうか。細長い円筒状にパッケージされていて、外装を少しずつ剥いで食べていくのである。緑というか青というかトイレ洗剤のような色の外装パッケージに赤字で商品名が書いてあったような気がする。たしかその下品な色の外装の下に銀紙でさらに本体が包まれていたような気がするのだが・・・。

そんなに嬉しくも懐かしくもない駄菓子の記憶をたどりながら、群馬県方面へ戻るようにドライブ。目指すは世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」である。この世界遺産は中心となる富岡製糸場と絹産業の発展に寄与した3件の資産から構成されている。西へ向かいながら、それらの構成資産を1件ずつ巡っていこうというのである。

まずは伊勢崎市の「田島弥平旧宅」へ向かう。ここは「清涼育」という養蚕技法が実践された場所である。切妻造りの屋根の頂点の部分に、両妻側まで屋根幅いっぱいの総櫓がついている。この櫓は、”清涼”の名の通り換気を行い、空気を循環させるためのものである。この清涼育は田島弥平により体系的に文書にまとめられ、養蚕技術に大きな影響を与えた。なおこの旧宅には現在でも人が住んでいるということである。

目的地の田島弥平旧宅に近づくと警備員の人に駐車場へ誘導される。この島村という地域は、世界遺産登録直後はかなり混乱もあったのではないかと思われるほど、静かな場所だった。親切な警備員に教えて貰ったとおりに、まずは田島弥平旧宅案内所へ向かう。その案内所はほぼ小学校の敷地内にあったのだが、そこへ向かう途中の「まむし注意」の看板が非常に怖かった。私の経験からすると、この前兆があると大概何らかのヘビが出現するのである。このときは前兆がガセったから良かったのだが、怯えすぎたせいか、石か何かを踏んづけて軽く悲鳴を上げてしまったのだった。

案内所には係の人が詰めていて決まった時間にビデオ上映や展示品の解説を行うのだが、先客はいなかったので我々二人だけのために説明やビデオの上映を開始して頂けた。みっちり一時間弱の講義に途中から家人はちょっと飽きていたのと、蚕の模型(標本?)に怯えていたようである。やはり清涼育という養蚕技法は田島弥平旧宅を語る上では外せないようで、しっかりと説明をされていた。ただ私は清涼育を漠然と養蚕技法と考えていたのだが、実際には「弥平さんはお蚕(かいこ)さんの卵、蚕種を作っていた」ということだった。なかなかここまで細かい内容は多少調べた程度では理解に至らないし、熱の入った説明からこの地域の文化遺産に関わる人々がその遺産をどのように見ているのかという思いの末端が伝わってきたような気がしたのだった。文化遺産の持つ本来の意味を知らない人に、その価値を伝えること、これが遺産の保護につながるのである。

案内所を後にし、いよいよ田島弥平旧宅へ。とは言っても個人住宅であるため、立ち入りの許可されている庭先まで入って、そそくさと帰ってきたのである。案内所には小一時間滞在したのに、こっちにはほんの数分だった。こちらのお宅の玄関には、”猛犬”と表示された犬がいたのだが、のんびりと昼寝していた。おそらく何度も写真に撮られて、番犬もお疲れなのかも知れない。この家の前にも警備員の人が常駐していて(週末だけなのかも知れないが)、遺産の保全保護、広報や教育、付近住民の安寧な生活の保障となかなかの費用がかかるようである(まさか全員ボランティアということはないと思うのだが)。世界遺産登録から1年が経過し、遺産を次世代に受け継いていくための準備が着々と行われていたようである。
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Э潅譴反清

家人がいなくなってしまったのだが、引き続き東照宮を早足で周る。西側の廻廊に、陽明門の修理に伴い本来は陽明門にあるはずの随神像が移動されていたようなのだが、本物なのかどうかは解らない。特に説明書きもなく、時間もなかったので良く解らなかった。随神像の袴の家紋が明智光秀の桔梗紋であり、これは家康の側近であり、東照宮の創建にも関わった天海の正体が実は明智光秀だったというような、怪しげな陰謀論の根拠にもなっているとか。
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拝殿と本殿に関しては撮影禁止だった。ある種の静けさは感じられるのだが、何と言っても人が多い。東照宮は拝殿と本殿をつなぐ石の間まで入ることが出来た。外国の団体の中の一人が石の間の床についてガイドの人に質問しているのが印象的だった。「石の間なのに床が畳なのですが?」「良い質問ですね、もともとの石の上に現代の畳を敷いてあるのです」という回答だった。私の立っていた場所は畳がなく、オリジナルの石の部分だったので足の裏がひんやりと冷たかったように記憶している。輪王寺の大猷院の場合はこの幣殿の部分を石の間ではなく相の間と呼ぶ。床が石敷ではないのかも知れない。

最後に奥宮と呼ばれている徳川家康の墓所へ向かう。200段の石段を登らないといけない。家人にはどうせここは厳しかったのかも知れない。
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ただ見事な石垣と石段だった。「石段は、一段毎に一枚石を用い、石柵は一本石をくりぬいて作ったものである」という説明書きの立て看板があった。
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奥宮まで行くと人もだいぶ少なく、しっとりとした静けさがあった。しかし、ただの雨後のしっとり感だったのかも知れない。奥宮から引き返すとようやく晴れてきたので、雨に濡れた石敷の地面や屋根の瓦が夕日に照らされ美しかった。
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家人の待つ駐車場へ急ぐも、泣き龍の説明だとか五重塔の心柱の特別公開だとかでだいぶ時間がかかる。五重塔の中央にある柱を心柱という。東照宮の五重塔の心柱は四重の部分から吊り下げられており、地面の礎石には乗っていないのだそうだ。これは懸垂式と言われている。その心柱が浮いている部分を下からのぞき込むことが出来た。これは塔が経年の重みで縮んだときに、心柱が天井を突き破らないようにされた工夫であるという。また法隆寺の五重塔などと同じく、塔の中央にある心柱は、塔の各階の他の部材に全く触れていない独立した構造である。心柱が塔の先端部分の相輪だけを支えているために可能な構造なのだそうだ。また地震の際には心柱が振り子のように揺れることで揺れを吸収するという説もある。木造塔が地震に強いのは事実であり、心柱構造は東京スカイツリーの免震建築の参考にもされているという。

早足で神橋へ向かう。これはなかなかの距離だった。神橋には大蛇が化けた姿であるという伝説がある。
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神橋は日本三大奇橋にも数えられる橋である。諸説あるがあとの2つは山梨県の猿橋、
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これは猿軍団が体を重ね合って、谷を渡る様子を参考にして作られた橋だという伝承がある。もう1つは山口県岩国の錦帯橋である。奥の山頂に見えるのは再建された岩国城である。
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神橋はどうやら渡ることが出来るらしい。正確には通り抜けは出来ず、渡って戻ることが出来るようだ。時間の都合でこれはスルー、また今度である。川沿いを歩き駐車場へ戻る。雨の影響で川が濁流となっていた。濁った水面からは水煙があがり、上空の空気を湿らせている。こんな大雨の中で無事に二社一寺を巡ることが出来て良かったと、この辺り一体の神々に感謝したのである。
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Τ運、幸運と価値観の相違

大猷院を後にして、だいぶ疲れてきた家人を励まし二荒山神社へ向かう。こちらも肝心な本殿が修復中だった。これは本当に知らなかったので下調べ不足だったとしか言いようがない。
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二荒山神社には美容に良いという霊泉や火を灯すと怪しく揺れたために武士に斬りつけられた傷が残る化灯籠、その他の摂末社を含めて多数の重要文化財があったのだが、家人が一番興味を示したのが輪投げだった。

大国殿という実は世界遺産の建物の縁側のような部分に輪を投げ入れる棒が立っている。運試しの輪投げというもので、1セット3つの輪を投げてそのうち1つでも入れば運気は良好らしい。簡単に入りそうな距離だったのだが、私は見事に3つとも失敗してしまった。付近に誰もいなかったので再度挑戦、再々挑戦と何度かやってみたのだが、1個も入らない。運気が決して良好ではないので、どうしても輪が入らないような制御が、何らかの見えざる力で行われているのではないかという気がしてくる。そう言えば雨もまたひどくなってきた。恐らく10セット弱、計30投弱の末にようやく運気が回ってきた。家人にやらせてみると、1回目で輪を棒に見事に投げ入れていた。散々連れ回されているわりには、わりと良好な運気のようだった。

最後に東照宮へ向かう。わりと長めの距離を歩くことになる。雨はまだ止まない。もしかすると晴れていれば気にならない距離ではあったのかも知れない。
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そしていよいよ日光東照宮に着いたのである。想像の象、神厩舎の三猿と楽しんでいると、家人が座り込んでいる。だいぶ疲れているようだ。それでも進んでいくと陽明門は知っての通り修復工事中だった。平成31年3月31日までの大修理である。かなり頑丈にガードされていて、工事の様子は全く見えない。そもそも土砂降りの雨で中止しているのかも知れない。工事の施工内容を表示している立て看板を見ていると家人が戻ってくる。リタイアということだった。仕方がないので車の鍵を渡す。「ごゆっくり」と言われたのだが、そういう訳にもいかないのでぐんぐん前に進む。陽明門では修復工事の時に外壁をはがして見つかったという鶴の絵が公開されていた。修復が終われば元通りに埋められ隠されてしまうのだろう。
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家人はせめて修理の終わった唐門は見られたのだろうか。精緻な白い彫刻が彫られている。全体的に白い門というのは珍しいのではないだろうか。
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あの日光東照宮にやって来て、本殿に行かずに帰ってしまうというのはもったいないと思うのだが、異なった価値観を認めるとか異文化を知るということも世界遺産の思想において重要なファクターである。家人にはここまで付き合って貰っただけでもありがたいと思わねばなるまい。熊野へ行ったときにも那智の滝までは行ったのだが、家人が力尽きたため目前の熊野那智大社へは行かずに帰ってきた。後白河法皇が34回も行ったという熊野参詣だが、古来よりこんな目と鼻の先まで熊野詣にやって来て、Uターンして帰った人はいるのだろうか?我々を含め、力尽きて本当に倒れた人を含め数少ないのかも知れない。

3代目

三仏堂を出ると、東照宮の参道に出る。東照宮は後回しにして、輪王寺に属する大猷院へ向かう。ここは3代将軍徳川家光の霊廟である。三仏堂からはわりと距離があり、雨の中を歩くことになった。大猷院には門が幾つかあり、それを越えるごとに家光公の墓所へ近づいていく。階段を上り、門をくぐると体感温度が下がるような気がするのは、ただ単に標高が高くなったからというだけではないような気がする。実際に二天門という門より先へは10万石以下の大名は進むことが出来なかったという。まさに結界である。古来、門の両脇に恐ろしい顔をした像が置かれているのは、何らかの悪いもの、魔の侵入を防ぐためだとも言われている。
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最初の門である仁王門の両脇にも金剛力士像が置かれている。右側の像は口を「あ」の形に開いた「阿形(あぎょう)」、左側は「うん」の形に口を結んだ「吽形(うんぎょう)」である。これが「阿吽(あうん)の呼吸」の語源となっているらしい。沖縄のシーサーも雄は口を開け、雌はおしとやかに口を閉じている。何か関係があるのかも知れない。
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2つ目の門、二天門は修復中で足場と灰色のビニール製の覆いで覆われていた。こうして継続的に修復工事を行うことにより、伝統的な技術を継承していくことが出来るのである。ふと気が付くと家人が消えている。さっきまで「阿吽の呼吸」に感心して仁王像の写真を撮っていたのだが、何処にもいない。探し回っても見つからないので入ってきた方へ戻ると、既に外で待っている。修復中の二天門へは左折する進路で階段を上っていくことになり、正面の一帯へは立ち入り禁止という札があったので、ここでゴールと勘違いしてしまったという。「あんな立派な門があるんだから、立派な本殿があるに決まってるだろ」と頭にきて説教し始めたのだが、気を取り直して再度拝観料を支払い出戻ることにする。微々たるものだが、建物の保護保全に役立てて貰えると思えば安いものである。

修復中の二天門、夜叉門、唐門と階段を上って門をくぐる度に、やはり気温が下がるというか空気が厳かになっていくような気がする。家人にそう言ってみたものの、反応は薄い。しかしここまで付き合って貰っただけでも感謝すべきであろう。祖父であり神となった家康公の廟所を凌ぐことのないようにという家光公の遺言のため、大猷院廟は東照宮本社よりも規模が小さく造られてはいるが、同じ権現作りという建築様式である。
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奥の本殿と手前の拝殿を相の間という部屋がつなぐスタイルである。この本殿は鬼門である北東を向いている。これも家光公の「死後も東照大権現にお仕えする」という遺言によるものである。通常の寺院は本尊が南を向くように建てられるため、大猷院の本尊も実は、本殿の奥の壁の裏の部屋に釈迦三尊画像が南を向くように掛けられているという。浄土思想に基づく寺院の場合は西方浄土という考えから本殿は東を向き、本殿の背後に日が沈んでいくことになる。家光公の墓所はこの伽藍を出た外の皇嘉門という竜宮造りの門の奥にあるのだが、一般には公開されていない。
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偉大な祖父を持つ3代目の廟所は、奥ゆかしいまでに神君家康公の廟所を中心に設計されていた。家康の鶴の一声で将軍になることの出来た家光は祖父を敬い、東照宮を最高の技術で改築し、死後も家康公を尊崇する姿勢を残した。だがちょうど我々が本殿にいる頃に一旦雨が上がり、後で行った東照宮の陽明門や二荒山神社の本殿が修復中だったことも含めて、結果的に今回は大猷院が一番バランスのとれた良い空間だったように感じられたのだった。これが3代目の持つ賢さなのかも知れない。
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ご間限定動物園

朝食を食べたあと、いよいよ日光へ向けて出発する。朝食の時の箸がやたらと使いやすいなと思っていると、お土産として販売されていたので購入する。竹の箸。
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大雨の中、日光白根山を越える。日光へ向かう途中にあった、行きたいリストに残留しているスポットは大雨と時間の都合でスルーし今回も残留となった。東洋のナイアガラ「吹割の滝」、昔々神々が戦ったという「戦場ヶ原」、有名な「華厳の滝」、中禅寺湖の「中禅寺」、同じルートをもう一度辿らなければならないのかも知れない。それにしてもひどい雨で日光の社寺を周ることが出来るだろうかという気分になってくる。ちょっとヤケな気分で「いろは坂」を下る。いろは坂のいろはだが、カーブ毎にい、ろと平仮名がふられているのでいろは坂と命名されている。「や」のカーブで「YAGIのや」とヤケ気味に言っていると、家人が大爆笑していた。「ヤケのや」である。

いよいよ日光に到着する。世界遺産「日光の社寺」には日光山内の二社一寺に属する103棟の建造物が登録されている。それらの建造物は人類の創造的資質を示す傑作であり、また寺社建築の発展を示す遺産として、そして自然信仰と神仏習合という日本独自の宗教空間としての普遍的価値が認められ、世界遺産として登録されている。

二社一寺とは一番有名な徳川家康を祀った「日光東照宮」と「二荒山神社」の二社、「輪王寺」の一寺である。もともとは二荒山神社に男体山、女峰山、太郎山の三神が山の神として祀られ、輪王寺の方にも同じ三神が仏や菩薩の姿で祀られている。仏教が伝来し、古来の日本の神々は仏が日本バージョンに姿に変えたとする日本独時の神仏習合の考え方である。このおおらかな考え方のもと日光という聖地が近年まであった訳だが、明治維新直後、維新政府が神道を国教として政治を行おうとしたことから神仏分離令を出し、厳密に二社一寺に分割されることになった。

この二社一寺だけはスルーする訳には行かないので、家人を伴って動き出す。傘が手放せない大雨である。まずは輪王寺の三仏堂へ。三仏堂は輪王寺の本堂で前述の三体の本尊が祀られている。東日本最大の木造建築物である。
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見ての通り修復中であり、素屋根という修復期間用の建物で覆われている。素屋根の外観には一応、実物大の三仏堂の絵が描かれている。逆にこういった機会はチャンスである。修復中の現場を見ることが出来るし、文化財自体が今しか見ることの出来ない状態にあるからである。家人曰く「動物園のよう」な感じで修復の様子が公開されていた。プラスチックの檻の中で職人の方が作業を行っている。本尊の三体の像も解体され修復中だった。姫路城でも最近まで修復の様子が公開されていたが、伝統的技術の継承と広報のため、あるいは収益を維持するためにこういった企画を行うのはとても良いことだと思う。作業用の素屋根を出ると未だに大雨だった。一向に止む気配がない。

三仏堂の背面に周る。素屋根の背面には三仏堂の絵が描かれていなかった。手前に見えるのは相輪塔である。
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相輪塔は五重塔などの上部にある相輪や内部の柱だけを建て、周囲の4本の支柱で支えたものである。この塔は江戸時代の作で、内部には1000冊もの経典が納められているという。この相輪塔の後方に無機的な素屋根に覆われた三仏堂の姿が見られるのは平成30年の修復完了までの現在だけである。

M夕鞍

四万温泉の積善館に到着する。案内された部屋は「松風」、確かに部屋の窓からはだいぶ大きな松の枝が見える。下の階の部屋は「梅枝」だったし、ラウンジからは竹林が見えた。もしかして松竹梅の由来は木の育つ高さなのだろうかと思ったりしたのだが、この順位付けには大した意味はないらしい。

相変わらずの雨だが館内や付近を探索することにする。そもそもこの積善館は国の登録有形文化財や県の重要文化財に登録されているような建物である。床のきしみや揺れが建物の歴史を足元から伝えてくる。一部、工事中の建物があり、そのため割安な宿泊料金だったのだが、工事している音もカンカンカンカンと暗闇の中から聞こえてきて、不思議な感じがする。
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暗くなって、さらに雰囲気の良さが増したのだが、相変わらずの雨と写真の腕が悪いのか、そんなに良い写真が撮れなかった。
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そして家人と二人宴会へ突入。シャンパン、ビール、日本酒。就寝。家人が先に寝たので余った日本酒を飲みながらぼんやりと外の景色を見ていたのだが、窓の外の光が揺れるのである。海に浮かぶ船のように船団の光が波に揺れているかのようである。酔っ払っていた訳ではなくて、よく見てみると手前の松の木の枝が揺れて、その奥にある別の建物の灯りが揺れているように見え隠れしていたのである。私は高原や山頂から遥か下を見るとそこに(雲の下に)海があるようにいつも錯覚してしまう。常に海がそばにある、海のそばに生まれた者の感覚なのかも知れない。しかし「雲海」という言葉もあるので、これは日本人共通の感覚なのだろうかとも考えながら、眠りについたのである。

しかし、案の定、午前3時くらいに起きてしまうことになる。家人を起こして「ビール飲もうぜ」と行きたい所だったのだが、明日は運転しないといけないし、日光山内をさんざん歩かせることになる家人の体力回復を優先させ、布団の中で大人しくしていたのだった。友人のガンド氏の地元では例年この時期に祭礼が行われるため、今年も勧誘のメールが来ていたのだが、今年もスケジュール調整と腰の補強が追いつかず再来年は是非にという回答をしていた。その祭礼に行っているミサイル氏から酔っ払い気味のメールがちょうど宴会中に来ていたことを思い出す。丑三つ時に静かな温泉宿で起きだして、夜中にビールを飲むという”非”様式美をミサイルと私で確立した数年前のことを思い出した。夜中に開ける缶ビールの爽快な「プシュ!カシャ」という音とミサイルと私のボソボソ声、安らかな眠りを脅かす木の道具を使った湯もみ、貴重な私の温泉宿の記憶遺産である。
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