信貴山城

信貴山城(しぎさんじょう)は、奈良県生駒郡平群町にあった城である。木沢長政・松永久秀の居城となった

信貴山城は大和と河内の国境にある生駒山系に属する信貴山(標高433m)山上に築かれた山城である。信貴山は大和と河内を結ぶ要衝の地で、松永久秀は山上に南北700m、東西550mに及ぶ城郭を築いて、大和経略の拠点とした。 信貴山中腹には、毘沙門天を本尊とする信貴山真言宗の本山である朝護孫子寺がある。この寺は聖徳太子が物部守屋討伐の戦勝祈願をしたことに由来する。 尚、平群町には信貴山城の他、椿井城、上庄北城、三里城、西宮城、下垣内城、高安山城、平等寺館等がある。

破竹の勢いで大和を治めていた久秀に対して、永禄11年(1568年)6月、筒井順慶、三好三人衆連合軍が突然攻撃を仕掛けてきた。そして29日に筒井・三人衆連合軍が雨の降る中信貴山城を攻城、攻め落とした。 久秀は前年に東大寺大仏殿の戦いで一旦勝利したが、9月3日に三好政康及び順慶に多聞山城を攻城され再び窮地に立たされていたが、観音寺城の戦いで勝利し京に上洛していた織田信長によって助けられることになる。久秀は芥川山城で信長に臣従することができ、織田軍の精鋭2万兵の援軍を引き連れ、信貴山城を逆に攻城、落城から4ヵ月で再奪取に成功する

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