信長公記

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)は、中世~近世の記録資料。安土桃山時代の戦国大名である織田信長の一代記。著者は信長旧臣の太田牛一。江戸時代初期に原本が成立[1]。信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した1568年(永禄11年)までを首巻とし、上洛から本能寺の変が起きた1582年(天正10年)までの記録が全16巻(16冊)にまとめられている。 読みに関しては米沢藩上杉氏旧蔵本である個人蔵十冊本の内題に「しんちやうき」と有ることから、音読みで「しんちょうき」と読まれていたと考えられている[2]。また、森銑三は江戸時代にはその人に敬意を表する意味で人名を音読みする習慣があったことを指摘し、同様の事例に『義経記(ぎけいき)』を挙げている。

歴史上初めての織田信長の一代記。著述姿勢は真摯であり、一部錯綜が認められる箇所もみられるが、文書上から確認される事跡を正確に記しているため、史料としての信頼が高く[3]、信長期の事情を知るには無くてはならない史料とされている。 信長自身については、果断にして正義を重んじる性格であり、精力的で多忙、情誼が厚く道理を重んじる古今無双の英雄として描かれている。 また東大寺大仏殿を焼いた松永久秀が、焼いたのと同じ10月10日に鹿角兜(鹿は奈良にて神鹿として敬われる)を付けた織田信忠によって奈良・信貴山で自刃に追い込まれたことに触れるなど、神道・仏教・儒教が融合した中世的道徳がうかがえたり、信長に離反した荒木村重の妻子の最期を憐れみ、村重と妻との短歌のやり取りを詳細に記すなど、全体に客観的ではあるが牛一の価値観や人物観を現す内容となっている。

織田信長

少年期//織田信長

家督争いから尾張統一・上洛//織田信長

桶狭間の戦いから清洲同盟へ//織田信長

美濃攻略と天下布武//織田信長

中央幕府の情勢/上洛と将軍擁立//織田信長

武田氏との外交/上洛と将軍擁立//織田信長

足利義昭上洛の警護/上洛と将軍擁立//織田信長

伊勢侵攻と北畠家簒奪/上洛と将軍擁立//織田信長

第一次信長包囲網//織田信長

第二次信長包囲網//織田信長

室町幕府の事実上の滅亡と「天下」の継承へ//織田信長

長島一向一揆の制圧//織田信長

長篠の戦い//織田信長

越前侵攻//織田信長

右近衛大将就任・天下人公認・家督継承・安土城築城//織田信長

第三次信長包囲網//織田信長

織田右府//織田信長

中国侵攻//織田信長

京都御馬揃え~左大臣推任//織田信長

高野山包囲//織田信長

甲州征伐//織田信長

本能寺の変//織田信長

交友関係//織田信長

日本統一政策//織田信長

織田長益//織田信長

本能寺の変後/織田長益//織田信長

関ヶ原の戦い/織田長益//織田信長

江戸幕府政権下/織田長益//織田信長

子孫/織田長益//織田信長

織田信広//織田信長

謀反/織田信広//織田信長

上洛後/織田信広//織田信長

織田信治//織田信長

織田信正//織田信長

冬姫//織田信長

織田信包//織田信長

豊臣秀吉の時代//織田信長

村井貞勝//織田信長

京都所司代/村井貞勝//織田信長

織田信長

徳川家康

豊臣秀吉

桶狭間の戦い

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