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●アジア=アフリカ会議博物館
(インドネシア バンドン)
【歴史】
1955年 アジア=アフリカ会議が開催される
1980年 スハルトの時代に会議場を博物館として開館する

探訪日時:2019年12月
入場料 :無料
地図  :

歴史的意義 :★★★★★
規模    :★★★★
アクセス  :★★★★
個人的満足度:★★★★

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ジャカルタから電車で3時間半かけ、バンドンに到着。
バンドンといえば「アジア=アフリカ会議(バンドン会議)」が開催された都市として知られている。
会議場の前の通りは現在「ジャラン・アジア・アフリカ(アジア・アフリカ通り)」と呼ばれている。
アジア=アフリカ会議(バンドン会議)⑪ 1955年4月
インドネシアのバンドンで開かれた史上初のアジア・アフリカの首脳会議。29ヵ国からの参加を得て、平和十原則を発表し、反植民地主義・平和共存などの理念を強く打ち出した。
バンドン
インドネシアの都市。第1回アジア=アフリカ会議の開催地。

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この通りには、会議参加国の書かれた球体のオブジェが並んでいる。
日本を発見!

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博物館は13時にオープン。

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館内の様子。

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入口にはスカルノがお出迎え!!
少年の敬礼が映える笑。
インドネシアは議長国として参加国29ヵ国をまとめた。
スカルノ⑪ 1901~70
インドネシア独立運動の指導者。1928年インドネシア国民党を創設し、オランダ支配とたたかった。第二次世界大戦中は日本軍に協力したが、45年の日本降伏後、独立を宣言して初代大統領となった。その後オランダとたたかい、49年完全独立を達成し、55年にはアジア=アフリカ会議を主催するなど、非同盟諸国のリーダーとして活躍した。国内では軍部と左派(共産党)のバランスの上に政権を維持したが、65年のクーデタでスハルトらに実権を奪われ、67年に失脚した。

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インドのネルー首相の姿も見られる!
ネルー⑪ 1889~1964
国民会議派の指導者として独立運動を指導し、独立後は初代首相(在任1947~64)に就任した。国内政策では大規模な土地改革や五ヵ年計画を実施したが、順調に進まなかった。対外的には非同盟政策をとり東西対立の調停者として注目され、またアジア・アフリカの反植民地主義指導者の一人として活躍した。

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中国の周恩来、エジプトのナセルの姿も!!

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会議で使用された机と椅子。

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当時の読売新聞の紙面も展示されている。
「植民主義排す」「一番かせいだ周総理」「消極にすぎた日本代表」などの見出しがみえる。

日本は第二次大戦後に国際社会へ復帰しつつある状況であり、
会議にはオブザーバー参加であったため、中心国となりえなかった。

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バンドン会議で確認された「平和十原則」が各国語で翻訳されている。
平和十原則
アジア=アフリカ会議で確認された原則。⑴基本的人権と国連憲章の尊重、⑵主権と領土の保全、⑶人種と国家間の平等、⑷内政不干渉、⑸自衛権の尊重、⑹集団防衛の排除、⑺武力侵略の否定、⑻国際紛争の平和的解決、⑼相互協力の促進、⑽正義と義務の尊重、からなる。

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アジア=アフリカ会議後も「第三世界」の連携は図られ、
1961年にはベオグラードで非同盟諸国首脳会議が開催された。
ナセル、エンクルマ、ネルー、スカルノ、ティトーの顔がみえる。
非同盟諸国首脳会議
1961年ティトー・ナセル・ネルーの呼びかけで、ユーゴスラヴィアのベオグラードで開催された会議。アジア・アフリカ・ラテンアメリカの非同盟25ヵ国首脳、3ヵ国のオブザーバーが参加した。平和共存、民族解放闘争の支持、外国の軍事基地の一掃、新旧植民地主義反対を宣言した。冷戦終結後の1992年ジャカルタで開かれた第10回首脳会議には108ヵ国が参加し、ニューヨークに常設事務局をおくことなどを決めた。

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ネルーの写真が多く展示されているが、どれもかっこいい。

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会議場にも入れる!
国旗はおそらく当時のものであろう。