2006年12月

2006年12月27日

ポルシェターボ

08df9ba1.JPGポルシェ ターボ
ああ、なんて響きのいい“ことば”でしょう!
ポルシェファンには、ターボが付かなくても“ポ”とか“P”のイニシャルが目に入っただけでもドキドキしますよね!

小学校時代では、片思いの彼女の苗字が本の中にあったりラジオで聞いたりしただけでもドキドキしたあの気分と同じ感触です。
それくらい気になる言葉ですが、音でも心地よいのです、ファンにとっては、、、。
何度も言いますが自分は、ポルシェが死ぬほど好きではありません。
前の会社にいたころは逆に敵でしたので、坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い、、、てな感じで毛嫌いしておりました。

それくらい完璧なレース運びをする車両でしたから、、、。
レース前半は、962Cは後方のほうで頑張っているのですがそんなに気になる相手でなく、敵はニッサン、そして周りのトヨタCカー軍団でしたので、、、。
しかし、500Kmくらいのレース後半には気が付いたら我ら車両の背後にいたりします。
で、ボンミスでもあれば逆転劇の始まりです。
叩いても壊れん怪物でした、あのころは、、、。
だから、その会社、要はポルシェ社が発売している911などは兎に角気に入りませんでした。小癪な奴であります。
こうやって作文してるしりからその当時のことが思い出され文章からして興奮してしまうくらい、怖い存在でした。敵に回したくない相手NO,1であります。

ですから、アイメックが発足してもまさか今日のようなポルシェショップになろうとは夢にも思いませんでした。
昨日の敵は、今日の友とでもいうのでしょうか、、、。ポルシェはそう思ってないでしょうが、、、。

サード時代、初めてのお客さまがその当時VWシロッコ1977年ごろの車両ですが、ターボを付けて欲しいといって来られ、Kジェトロニックに四苦八苦し、エキマニやフロントパイプ、その他全てを手作り完成したのやく2ヶ月かかりました。いやもっとかかったかも、、、。
で、そのお客さまがそのあとカレラRS2,7をその当時600万円で中古を買われ、それも面倒見させてもらえたのがポルシェとの付き合いでした。
もちろん今では2,7RSといえば誰しもが欲しがり、漫画にも登場した名車ですが自分は全く興味無く、その当時はセリカ18RGやDR30のNAなどにKITを開発の為、日夜本当に寝食もおしんで毎日朝は6時から夜は翌朝まで工場にこもり、まだ独身だった時などはアパートに帰るのも面倒な為、工場内に簡易ベットを持ち込んで仮眠しました。
まあ、若かったから何とも思いませんでしたが、会社の社長さんもよく理解してくれてました。半分趣味の延長みたいな感じでしたから、、、。

そうこうして平成2年からアイメック設立となりますが、ターボずめの生活は変わりませんがポルシェに関わるのは、又あのシロッコのお客様でした。
今度は964Cを中古で買うのでこれを何とかしてという相談でした。
そのころは国産車中心でしかも純正ターボ車オンパレードでネコも杓子のターボ装着して、ターボ付いてねば車じゃあるめェ!なんて東北弁なまりになります。

それくらい毎日ターボのチューニングに明け暮れてました。
そこへNAのそれもあまりすきでねェポルシェときた!
気はすすまねんど、彼の頼みじゃ仕方あるめ!なんて役者じゃありませんがいやいや取り組んだのです。ちっともポルシェが面白くありませんでした、、、。

その当時は、ゲンロク誌の仲間もみんな旧知の仲でしたので964やるんだけんど、取材ばしてくれんかの!と頼んだら、それならロングタームやりましょなんて気軽に受けていただきましたので、ほんの1回のつもりで小手先チューニングで逃げようとしたのがエライことになっちまったがや!(方言もくっちゃくっちゃで)であります。

本気出さねばと始まった取材には、最初のころは気が進まなかったのですが964を触り始めて色々なことに気が付きました。
別に自慢してるわけではありませんが、基本的には自動車という枠のなかでの設計なのですから、例えばプロのギターリストが新しいメーカーのギターを試しに演奏してもすぐにその素性を見極めるのと同じで良い物はやはり良いのです。で、素性はすぐ解るのです。

食わず嫌いのポルシェが自分の中でこりゃすごいわ!と毎回言わしめました。
まあ、当たり前のことですがアウトバーンとドイツ人に鍛えられた車両がこのオイラにも強烈な印象を与えてしまったのです。
つづく。

追伸; 2006年は、皆様どうお過ごしでしたか?自分は相変わらずでした。
会社の方は、本日で年内終了とさせていただきます。2007年は、1月7日から仕事始めです。おかげさまで今年は、社内では事故やトラブルなども無く平穏無事にやっていけました。
2007年が皆様にとって良い年でありますようにお祈り申し上げます。

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2006年12月21日

スタッドレスタイヤ 5

0e2a5523.JPGスタッドレスタイヤ 5
12月21日木曜日、豊田市は本日も晴天で日中最高気温17度cであります。
これは、10月の気温にも匹敵するものでなにか温暖化を肌で感じてる今日この頃です。
弊社ショールーム窓ぎはに4年前にもらった高さ40センチくらいのレモンの木を植えたのですが、ツルタの丹念なるお世話と肥えが効いたのか毎年成長しいまでは2mを越えまして、窓をおおっております。

今年は、不作で10個のレモンの実が出来て黄色のたたわな姿を毎日眺めております。
そのレモンは、9月まで色んな蜂や蝶、てんとう虫、すじきり虫が飛んできて、アゲハチョウ、黒アゲハチョウと毎日、若葉に黄色い直径1mmくらいのタマゴを産み付けにどこからともなく飛んできまして、ツルタのタマゴ落としと競争でした。

やがて昆虫は来なくなり、本来なら気候も朝晩冷え込み、寒さに弱いレモンの緑の大きな葉は黄色く変色するのですが、今年はなんと今月上旬につぼみが出来、今このままでいくとあと1週間もすると花が咲きそうなまでの直径5mmくらいに成長してしまいました。

二毛作ではありませんが、アメリカ、カリフォルニア州のロス近郊のコスタ・メサあたりの住宅街の庭になるレモンのように年がら年中、花を咲かせ実をつけるその光景をつい思い出しました。

温かいのはありがたいですが、やはり何か天変地異でしょうか、、、、、。
シートヒーターの付いてることがオイラの車両購入に重要なポイントで選ぶのですが、最近では、ヒーター設定温度も低いのはやはり温かいからでしょう。
本日は、窓を開けての走行でした。外気が気持イイです。
腰のあたりはホカホカで、顔には涼しい外気があたります。何か変な感じ!!!!
カブリオレの車両であれば、最高のドライブ日和です。
オイラは、仕事でしたが、、、、、。“そんなこと聞いてない!”  “あ、そうですね!”

もちろん中部地方でも岐阜、長野の山間部、北陸の山間部は降雪はありますが、スキー場でも現在は降雪機で30cmくらいのゲレンデ一部滑走可状態です。
スタッドレスタイヤどこで使うの???
元気な若者はTシャツ、短パンでスノボー状態でしょうね、、、、。

自分の通勤途中には、高速のインターチェンジ側道を何箇所か通るのですが、なんせ豊田市は市周辺を7箇所もICがあるものですから、東名と東海環状の交差する真下あたりを通過するときなど田んぼ道の中に上を見上げるといきなり未来都市を連想させる高架のきれいなアールをした高速道が交差したビューテフルな未来都市を連想させる光景です。
で、それを通過して東海環状の豊田東インター横の側道を通ります。

今4兆円の税金を道路以外に使う、使わせないで道路族さまと他の議員がもめておりますが、、。
そもそもこの自動車税なるものは当時田中角栄氏が総理大臣の時、自動車なる贅沢な物は、金持ちしか買えないからということで国会の法案をすんなりとおったそうです。
与党の反対がお仕事の野党さまもこれには異論がつけれなく、、、。逆に“それはいいことだ!!!!”と言ったとか、、、。
田中氏の先見性はやはりすごかったとしか言えません。日本列島改造論であります。
だれが今日のこの急速に発展したモータリゼーションを予測できたことか、、、。

もちろん田中氏はもうお亡くなりになったので聞く由はありませんが、この税金に官僚さまが群がらないわけありません。
それは道路族とも呼ばれ、他の誰も犯すことのできない神聖なものとなりやりたい放題です。チョッと言い過ぎか、、、、。
もちろん発足当時は、そんなこと、、、、、。
なんでもそうですが、お金の集まるところに悪も集まります。失礼、言い換えます。
頭の優秀な方がお集まりになります。
と、話が横道にそれましたが、その側道から日本道路公団の倉庫が見えるのですがこの冬に備えてか除雪車や融雪材などがたくさん用意されてます。

いよいよ冬到来ですが、なんか全くそんな感じのしない今日この頃です。
スッタドレスタイヤを冬には履き替えるという習慣を与えた日本のタイヤメーカーさんは、やはり偉大であります。まあ、真似事が大好きな、そしてその効果を約3ヶ月間くらいの間に1回も体験しないままでも、そりゃ損だとかもったいないとか思わない自分達は世界でも有数な消費王国を作り上げたのです。

カーメーカーの多さ、そしてタイヤメーカーもこの狭い日本に国産も含め世界中から攻め込んでます。不思議な国のジパングと他の国から思われてもしかたありませんが、シノギを削る戦いの中から多くの優秀な商品が生まれるのですから、そしてそれらを安く安易に手に入れられるのですからシアワセかもしれませんが、、、。
同じ地球上で、1万円もあれば1ヶ月余裕で暮らせるところもあるのです。
そしてここに表現できないおぞましいことも毎日どこかで行われてるのです。

ああ、今日もグチしか出せないチキンツルタであります。
つづく。






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2006年12月14日

スッタドレスタイヤ 4

4fd11503.JPGスタッドレス 4
韓国は、特別かもしれませんがつい最近までヨーロッパでも日本ほどスタッドレスは普及してなかったことはそのレンタカーでも表れてまして、最近はドイツでは、夏でも一部の車両はオールシーズンタイヤ、要はスタッドレス又はマッド&スノータイヤが装着されてまして210Km以上速度を出さないでとクドク言われます。

特にツーリングワゴン系は殆んどで夏スキーをやりにスイスや北欧まで足をのばす方には重宝されます。
世界的にチェーンは使用禁止区域が広がったようです。

ちなみにポルシェなどのスポーツカー用は一部サイズが用意されています。
速度域は、250KmまでO,Kの高速タイプですが、ドイツあたりでは日常的に真冬のシャーベット状態のアウトバーンあたりを時々スライドさせながら走ってるようです。
この件やはり重複してますが、ポルシェのコマーシャルDVDで996がドリフトしながら雪で真っ白になったニュルサーキットを走ってるのを見た方々も多いと思います。

もちろんポルシェではスノースクールがあるくらいですから、雪なんか何とも思ってないでしょうが、、。
まあそれでも4WDであれば完璧冬対策でしょう。
最近のスタッドレスは本当にすごい性能です。なんか1年ごとに進化してるみたいですが、、。でもこの中部地区でもスキーに頻繁に行く方でさえ、除雪が行き届いてるので目的地周辺のみ発揮しますが、あとはオンロード走行であります。

まあ、夜中出発で明け方4時ごろ目的地到着の日帰りコースでは、路面が凍ってますのでスタッドレスタイヤの威力を多いに発揮できます。
しかし、タイヤの寿命はやはり3〜4年が限度ですので出来れば3、4年目は注意されて走行しないとグリップ力は新品の半分くらいは劣化しますので、、、。
まあ、夏の保管も気をつけて厚手の毛布やビニールカバーなどで完全に紫外線をシャットアウトしないといけません。ゴムは生鮮食料みたいなもんですから外気と直接接すると表面のゴムは分解し、徐々に劣化するのです。

これはスッタドレスタイヤだけではなく、当たり前ですがオンロードタイヤでも同様です。
よく中古車で購入された車両を弊社に持ち込まれ点検を頼まれますが、大体ポルシェに関しては、減ったタイヤは誰が見ても交換を理解できますが、10年以上経過してる993や964などの装着タイヤで山がまだたくさんあり、購入された本人は“おお、タイヤはまだ山がたくさんあるがや!助かったのォ!”などとのんきなことを言っておられますがそこで安心してはいけません。
“鶴田の部屋”を以前よりお読みになってる方々は“また、いっとるがや!”などとお思いでしょうが、ここは今回初めてお読みになる方々の為に我慢してください。

実は、タイヤには製造番号っていうものがありまして、タイヤのサイドに刻印されてます。
“2406”と刻印されてますと2006年の24週目に製造されたということです。
中古車でそれを確認しますと“169”とか3桁の番号も存在します。
そうです、1999年16週目です。
いまからさかのぼると7年前になります。山はまだ5部山でもゴムのグリップ力は低下し、晴天時はそれなりに直進では何にも起りませんが、濡れた路面やそれにカーブが加わるとてきめんその劣化具合を発揮します。

多分50Kmくらいの速度でも横滑りが生じてきます。
自分はそれを身を持って体験させられました。迷手ツルタドライバーでも簡単にスピンしました。
それがスタッドレスタイヤでしたら雪道で遭遇した場合、もっとひどいことになります。
20代のころ、自分が装着していたSP44を北海道に帰る友人にホイールごと安く売りました。
まだ、自分もタイヤの寿命などツユとも知らなかったころです。
多分、倉庫にほかってたので4〜5年は経過してまして、これが紹興酒でしたらいい頃合のうまみが出てた上物になったでしょうが、ゴムちゃんの場合は全く逆で表面はABS樹脂くらいうまく硬化してたと思います。

2Wくらい経ってその友人か何かのことで電話があったのですが、あのタイヤの話になって“先輩、アレは全く役立たずで、積雪時はまだ良いんですけど、夜間路面が凍るとまるでスケートを履いてるみたいでしたよ!!!!”
自分は“そんなはずは無いんだけどな、アレでよく蓼科に俺の愛車カリーナGTでよくスキーにいったけどな、、、数年前は、、!!”と、会話がまとまりませんでした。

今考えると(考えなくても)彼には知らなかったとはいえ、悪いことをしたなと、反省してま、、、、、!!!!!!

ロレックスであれば、レアものは、、、、、。比較対照が全く理解してないツルタでした、、、。
とまあ、こんな感じで自分はかわいい青年時代を恥ずかしくも無く生きてきまして、周りの皆様に多大なるご迷惑をおかけしてました。
今、オールシーズンタイヤをはいてるツルタは、この暮れの広島帰省に4WDであるから心配ないと思いつつ、チェーンを用意してるチキンラリードライバーであります。
“前輪だけでもスタッドレスにするってか、、!!!”
ツルタ。


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2006年12月12日

スタッドレスタイヤ 3

スタッドレスタイヤ 3
SP44というラリータイヤは、公称はマッド&スノータイヤというものでしたが、オンロードでもその当時としては、普通のラジアルタイヤにもひけをとらないスーパータイヤだったと今でも懐かしく思います。
ダンロップタイヤとしても当時はポルシェ906の時代からダンロップレーシングタイヤを使用してました。もちろんグッドイヤーやファイアストーンも比較の為に時々は使用してましたが、、、。

908や917の時代には車両にダンロップのステッカーを貼ってましたので、そのころからスポンサー料や政治がらみで優先的に使用されてます。
69年の日本グランプリでは生沢徹氏ドライブの910や同じタキレーシングティームからエントリーされたデッビッド・パイパー氏所有の917はスポットでブリヂストンタイヤが初めて使われました。

そのころの縁でポルシェとBSはロードカー用専用タイヤの開発にはいります。
有名なエクスペデア S−01などはその当時現役バイバリであった黒澤元治氏が開発ドライバーとなって連日ニュルブルクリンク北コースで試乗を繰り返してました。
と、ツルタがさも見てたような感じで言えるのにはもちろんワケがあります。

そうそのテストに立ち会った人から聞いたからです。
その当時の天才ドライバー黒澤氏でも何度かクラッシュされたそうです。930ターボを、、、。80年当時で日本価格1,600万円の車両をです。まあ、現地で購入されるのですから多少は安いでしょうが、、、。
BSさんも相当ニュルにはつぎ込んでいらっしゃいます。でないとあの当時の日本技術レベルでポルシェの規格に適合するには相当のご苦労があったと想像できます。
しかし、日本人の勤勉さはゼロ戦を作ったくらいですから、、、、。

で、最近の話にひっととびですが、7年位前にドイツ南部のフライブルグという地方に出張で行きました。12月の20日ごろです。もちろんフランクフルトからは雪が怖かったので電車でしたが、フライブルグ(フランクから南に250Kmくらいですぐとなりはフランス、スイス、オーストリア、イタリアとドイツでありながらヨーロッパ南部の暮らしが出来る比較的温和な過ごしやすいところで大学の町として知られてますが、第2次大戦の空襲で建物はやられ、旧家と新しく建てられた建物が入り組んだドイツとしては和洋折衷の町です)では移動に不便なのでレンタカーを借りました。

到着した日は、雪など無かったのですが運悪く当然のように雪が降り始め5cmくらい次の朝積もってました。
普通、この国ではスノータイヤでしょと思ってましたが普通のラジアルです。
もちろんツルツル、車はプジョーの1300ccくらいの小型車でしたが、TRCコントロールが効いて不便は感じませんがやはり停止時とかちょっと加速時にはカッカッカっとタイヤがやはり滑ります。

注意して見てますと殆んどの車両がスタッドレスタイヤなど装着してません。
たまたま帰りは一部タクシーを使いましたがそのドライバーはへんてこなドイツ語なまりの英会話でスタッドレスタイヤなど知らない、使うのはケッテ、要はタイヤチェーンだと言ってました。もちろんアウトバーンはこんな時でもシャーベット状で融雪材が常時まいてあるので余程のことがない限り、部分封鎖はあっても使用可能なのです。

たまたま、この地方がそうだったのかも知れませんがその後2003年くらいの時、やはり4月ごろ行きましてそれはフランクフルトから借りたのですが、ニュルを走りかったこともありマニュアル車のワゴンをと注文したら“マニュアル車はアールシーズンなにがし、、それだけ、、、”などと、最初は何を言ってるのか解らなかったのですが何回か効きなおすとアールで無く、オールシーズンタイヤと言っておりました。

オールシーズン、すなわちスタッドレスタイヤなのです。で、制限速度210Kmまでだからと言われました。まあ、オートマよりはましであろうと、そのBMの5シリーズディーゼルターボを借りまして、スタッドレスでニュルを走ったのです。

日本ではここ数年スノータイヤといえばスタッドレスのことをさし、雪を経験しない九州、沖縄のかたを除けば殆んどのドライバーの方は冬になればこのスタッドレスの購入を考えられます。まさにタイヤメーカーとすれば、お客様が正月になれば、しめ縄、おせち料理と自然に連想され買わなければいけないような冬特有の商品となり、2度おいしいじゃあありませんが、冬特需が毎年確実に望めるのです。

ましてや、田舎よりも都会では12月上旬にパラときて通勤渋滞にでもなれば、もうバッチリです。昨年はそれがあり12月前半から1月までは明け方まで連日タイヤを組み込んでたと友人のタイヤ屋さんは言ってました。
それくらい日本人は、右にならえ!が大好きで一人だけオイテケボリは、不安でしょうがありません。

その点ヨーロッパとかお隣り韓国では全く事情が違います。
その韓国ではこの時分もう零下何度という世界ですが、あまり雪も降りませんがスノータイヤなど殆んど売れません。普通タイヤが減っていれば考えもしますが“なんで冬用タイヤまで用意せにゃいかんの!”てな具合でそのままのりきっちゃいます。
つづく。

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2006年12月07日

スタッドレスタイヤ 2

スタッドレスタイヤ 2
後にも先にもあんな大雪の中を車で移動するなんざ、到底常人のなせる行動ではございません。若気の至りでしょう、、、。
あの後、あんな大雪の中を田舎に行った記憶がないということは、デューク東郷アニキもコリタのだと思います。
ちょっと付属説明しますとアニキと自分は6歳年が離れておりまして自分が小学6年でアニキは18であります。もう大人と子供くらいの年の差ですから、デュークアニキは自分にとってヤクザの親分であります。
今ここで悪口をいうつもりはありませんが、ご主人さまと奴隷の状態です。
絶対服従の関係でそれはそれは怖い存在でした。

中学、高校になってからは自分も背もアニキと同じ位に高くなり、自然と子分扱いはしなくなりました。高校では1年生の後半には自動二輪の免許を取ると中古のバイクをオヤジに買ってもらったので(それでも5,000円の実用バイクでスズキコレダ125cc、2サイクルツインエンジン)、それで行動し始めるとアニキとは行動が別々で、、、、。
アニキの次なる車両ニッサンチェリーX1という、当時でもスポーツタイプのFF車で今日のカローラレビンかシルビアのような車両です。名作B110エンジで、プッシュロッドのOHCでSUツインキャブ仕様です。これは自分も薦めた車両でした。

で、パシリはなくなりそれまでの鬱積が一度に晴れたようにバイクの魅力に取り付かれたツルタは、明けてもくれてもバイク小僧です。バイトで買った次なるバイクはヤマハのR1といってヤハマ初の2サイクル350CC、そうその当時はビックバイクです。これも楽しかった、、、。

冬が来ました。どうするかというとその当時は自分はもういっぱしのモータースポーツファンですから、4輪は全く興味は無かったのですがアニキに頼まれます、、、。
あまり自動車関係に強くないアニキは、なんでも自分に相談に来ます。
“おい、冬タイヤは、どうする?”自分はすかさず答えます。“まあ、スノータイヤでもエエけど、走るクルマだからマッド&スノーでは評判のダンロップSP44にしんさい!”、、、、。アニキは全く何か解りませんので“アキオミがエエというんなら、それにするか、、、!”

当時、ダンロップSP44といえばラリー全盛のころでニッサンブルーバードP510、フェアレディー240Z,タミヤのプラモデルでフロントフードをつや消しブラックに塗った真紅のボディの奴、これが冬のモンテカルロで優勝したりサファリで優勝したときにに開発され装着されたタイヤで、レース、ラリーファンなら知らぬ者がいない伝説のタイヤです。自分も社会人1年生の時、20万で1800cc510を買いましたが、、、。
余談が続きますが雪のモンテでアルトーネンのカウンター走りは、、、、、、、。

これをタイヤ屋さんに頼んで装着してもらい初めて試乗した時は(もう自分も18で、いやいや4輪免許を試験場で2回で受かり、取りました、ただの自慢話)ステアリングは非常に軽くなりましたが、もちろんオモステで、グリップはアスファルト面でも以前履いていたバイアスタイヤなんか及びもつかぬほど向上していて、そりゃ、“やっぱり、SP44じゃねー!”とアニキに感想を言ったのですが、アニキにはあんまり感動はありません、テッポウと猟以外興味ありませんので、、、、。

そして、このSP44が威力を発揮したのです。
アニキは、高校卒業後、その辺の事情は良く知りませんが自衛隊に入りました。
2年間勤めましたが、やはり防衛大学を卒業して入ってくる後輩が1年の新人教育の後、アニキたちを飛び越して昔でいう少尉になるのをみて、やはり大学に行かねばと思ったらしく、2年後に大学受験して大学に入っておりまして確か、卒業して今度は警察に入ったのであります。飛び道具はアニキの分身ですから、、、、で、自分が大学生1年か2年のとき勤務先がチョッと遠く車での通勤も出来なかったので、自分が朝、時々アニキが寝坊するとパシリを警察署までやらされるのです。

そのときは、五日市というところの警察署にアニキを送り届けまして朝の8時ころですが、その海岸線を走る国道は渋滞なので、近道の山越えをしました。自分も大学に、、、、。
寒い冬の朝ですが、市内は霜くらいでしたがその山は小高いけどさすが山ン中です、所々凍りついております。登りは難なくSP44の威力を発揮してグイグイ登っていきます。
峠を越えて今度は急な下りでした。

いくら山の中といっても町から近いし、他の通勤者も利用してる道です。
調子よくいろは坂のようなS字のくだりを降りてまして180度の急なカーブを曲がりきって直線になったところで前方からトラックがガーと突っ込んでくるのが30mくらい先に見えました。

まあ、イカンと思ってブレーキをかけました。するとかなりの下りですが15mくらいですがズッズーとかすかに滑りながら止まってしまいました。
トラックも5m先で止まりました。
そうです、自分の後ろからゴツンと音がして何だったかカローラくらいの車両に追突されました。
兎に角その時の制動力は、本当にいまでも覚えてますがタイヤが路面に食いつくといのは、こういうことかと思うくらいすごかったです。おまけに降りて後ろを確認しようとしましたがすべって転んだんですから、、、。追突した相手もズルリ滑ったの覚えてます。
50くらいのおっさんでした。もう路面はアイスバーンとまではいいませんがツルツルです。“よ−止まったな!”て感じでした。

運がいいのかそんなもんか、バンパー同士でぶっつかったのか下りでしたし、その当時の鉄バンパーは頑丈なのかキズ1つ無く、自分もアニキに怒られずに済むので“何にも無し!”と、その場でそのまま別れました。おじさん何べんも頭を下げて“すまんかったのー!”と言っておりましたが、自分はもうこのタイヤの高性能に感動してまして、そんなことどうでもよかったように思います。“こりゃーすげーわい!やっぱり、SP44にして正解じゃー!”ほうとうにこのタイヤはパターンもカッコよかったです。
つづく

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2006年12月05日

スタッドレスタイヤ

d286e4c2.JPGスノータイヤ、スパイクタイヤ、マッド&スノータイヤ、そして最近はスタッドレスタイヤと呼び名や性能が格段に進歩して、冬専用になってきました。
もちろん、自分がガキのころ昭和30年後半には、アニキの所有していたスズキフロンテ360という空冷2サイクル3気筒、型式はLC10、、、、と当時では高性能の360CCエンジンで最高出力は、確か、、、25PS、でもホンダのN360は31PSであったのですが、、、。
カタログ値はともかくとして、心地よい吸気音と排気音でその当時自分はまだ中学生でしたが、アニキに連れられてよく広島の市内の家からオフクロの里である東北に60Kmくらい離れた豊栄町という田舎(なんとこの当時は人跡未踏のど田舎であったのが、現在は東広島市になってまった!!)にしばしば帰っていました。真夏で広島市内が35℃以上のとき、大体夏休みですが、田舎で屋根が茅葺の200年以上経ってる旧家なので昼間でもヒンヤリ、夜など普通のフトンをかけてないと寒いくらいなところで、もちろん雪も多く降りました。

豪雪地帯ではないので、どんなに多く積もっても20Cmくらいですがそんな時は広島市内もちらほら小雪まじりです。
すると大体お調子もの一家の自分ちは、ましてや11月15日から狩猟解禁でおじいちゃんの鉄砲が威力をはっきするころです。
アニキは、結局自衛隊、警察とその系統がただで撃てる方面にいきましたが18になるやいなや鉄砲の免許を取り、上下2連や水平2連のソレを購入して田舎の山道を2山、3山と歩きまわります。もちろん手下である優秀な自分を引き連れて、、、。
おじいちゃんの元気なころは、ウサギ、キジ、ヤマドリ、キツネ、タヌキと(イノシシ、クマ以外、これらは一人では危ないので)残雪に残る足跡で何かをかわゆい孫であるアニキに手取り足取り教え、愛犬に追わせてバーンと一発やるのですが、、、。

そんなとき、市内は小雪なのですが急いで“いくぞ!といったらもう車に乗って用意しなければなりません。
スノータイヤです。その当時のスノータイヤは、軽四用でもスパイクが打てるようになっていますが、それは高いし一般道ではすぐにスパイクが減るし、チャーっとやかましいので大体はチェーンを用意して出発します。

だんだん田舎に入っていくうちに小雪は大粒になり道路や周りの田んぼや畑は白くなります。遠くの山々もうす白くなってます。
“おにいちゃん、こりゃあ向こうは積もっとりゃせんかの?”と、心配のナビゲーターツルタですが、そんなもんでひるむデューク東郷アニキではありません。
自分の意見なんか眼中に無く、頭ん中は白銀の世界と動物の足跡です。

で、その時は、いまでも忘れやしませんがあと田舎まで500mってとこまで、チェーンを付けたり、スコップ(もちろん冬期運行の常備品ですが)やムシロ(ワラで編んだ敷物)等でそこまで這ってきたような、まるで第二次大戦時の日本軍がアジア大陸の雪中行軍と大差ないようなシチュエーションでありますが、、、、もうダメであります!と鬼アニキに報告であります、、、。

アニキは、黙ってましたが、近くの民家はかって知ったるとこばかり、、、。といっても5〜6家だけですが、、、。
もう時間は夕方の6時ごろで薄暗くお昼に出てから普通では2時間もあれば到着しておせんべいでも食べてるところですが、途中で雪中行軍に何回も止まっては雪堀して、、、。もおそれはみごとな記録映画にもなりそうな状況でして、たしかその時は大雪で20cmくらい積もってまして、その最後の峠の前にカーブがあるのですがそうです、吹き溜まりです。
多分40cm以上積もってたのでしょう。スノータイヤ、もちろんチェーンもとっくに装着してますが、そのころにはフロンテのフロントバンパー部分で雪を押しのけてる状態、リヤの駆動輪は、雪もぐれでむなしく空転しております。

スコップで掘ったところでものの1mも前進できれば、フロント部にはまたも雪の壁が立ちはだかります。
で、アニキはその一番ちかい同じ苗字の遠藤家(実はアニキは中三の時、母方のおじいさんちに養子となりました、神社を継ぐために)に助けを求めに行きました、、。
そのあと、あまりくわしく覚えてないのですが、そのお爺さんと息子(といっても40歳くらいの、、)さんが頭にほっかむりをして手伝いに来てくれたのだそうです、、、、。
だそうですということは、、、そう、その辺からあまり覚えてません。

今年の11月の秋祭りで自分は、その実家が神社ですので手伝いに帰ってたのですが、お祭りが終わり、“ねぎらい”といって氏子さんたち(神社の式典を手伝う村の衆)に神社内で20人くらいの方に神社側(すなわち自分達が)がお酒などを振舞ってねぎらうのですが、、。その際に大体古参のお爺さん方が酔ったいきおいで昔の話を持ち出すのです。

それらを合いの手うって拝聴するのですが、今回あの豪雪のときのアクシデント(自分らの恐れを知らぬノーテンキな行動を)のことを思い出したように話し出したのです。
そのおじいさんは今はすでに永眠されましたが、その息子さん、今では70歳をとうにこえられた方でしたが、“今でも思い出すが、いきなりヨシノリさんが来て、助けてくれなんていうけー、どうしたじゃーいうたら、雪で動けんていうけー、もうすでにいっぱい飲んどったけど、あわててオヤジと一緒に助けに行ったよのー、大雪で前もろくに見えんかったけー、、、、。まあ、よう、あんな大雪んなか来たよのー!!!!”てな感じで昔話に花が咲きました。
つづく。

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2006年12月03日

訃報の知らせ

今年、自分のまわりで友人の親戚や昔お世話になった方々の近親者の訃報による、年始の挨拶を控える由のはがき等の連絡が相次ぎました。

そのはがきには先々月に長年苦楽を共にされた令夫人を亡くされたと内容が書かれてました。そのご夫婦には、この16年間は、年賀の挨拶だけでした。

そのご夫婦には、20代の何も知らない若かりしころ公私共々お世話になった人です。
そのはがきを今朝家内から見せられまして、“なんでもっと早く知らせんか!”と、まず、家内にあたりそして次に、はがきを送られた方に水臭いと思いました。

そして、時間をおいて冷静になり、その方の部下に電話しました。
すると部下は、社長であるその方から一切誰にも知らせないで欲しいとの厳命があり、社内でもお葬式に出るなといわれたのを無理に幹部のみ、出席されたそうです。
式もお別れ会の形をとり、近親者のみで行われたようです。
まあ、その方の気性を考えるとわかるような気がしました。

自分は、今朝、ここから手を合わせご冥福を祈りました。

人が亡くなるということは、自分の見えてる周りからは今後一切見ることも会うこともかないませんが、心のなかではその当時の面影や思いでは一層強く残るのをこのごろ強く感じます。
とても悲しく寂しいことですが、致し方ありません。

10代の多感なころは、片思いで失恋したり、大失敗をして恥ずかしい思いをして“もう死んでしまいたい!”などと今思えばかわいいことをしてましたが、実際自殺などした者は、自分の周りでは一人もいませんでした。

最近のいじめによる自殺は、大きな社会問題になってますが根底にはやはり生まれ育った周りの環境が大きく影響してるのでしょうね、、、。
どの時代でも、もちろん自分の小学校、高校といじめはありましたがそれで自殺するまで発展することは無かったように思います。
学校給食を払わないとか、小学校の学芸会で主人公の桃太郎が10人くらいいて、絵で書いた鬼を退治してるとか、先生の権威は下落し生徒の親が皆ヤクザの女親分がごとくなにかとPTA総会で意見を並び立てます。

極端ですが、そんなに学校のしきたりが気に入らないなら自分で子供を教育しなさいよ!
自分たちの時代は、それが理想とはいいませんが怖い担任や生活指導の先生がいてテストの点が悪いといえば教科書で頭を叩かれてまして、しまいには先生の本が湾曲しだしたので先生は怒って、“オレの本が台無しだ、これからは自分の教科書を持って出て来い!”などといわれ、地図帳(今の方がたは御存知無いでしょうが、昭和40年代の社会の地図帳ってのがあってあつみ15mmくらいの大きさがB4くらいある写真集みたいな)をもって並び、テストの答案用紙を帰してもらうのですが大体皆なんやかやとケチをつけられて、そのあと地図帳を先生に渡しますと、先生はおもむろにそれを持って表紙で頭をどつかれます。

まだあって、たしか35点以下だったと思いますがそれ以下の生徒は、今度はその地図帳の背中(15mm厚のところ???)の部分で頭、どつかれます。
自分もやられました。本当に目から火がでました。
一部のむちゃくちゃ優秀で要領のいいやつを除いて、地図帳は、表紙も湾曲、背も外側に向いてきれいなカーブをしてました。
それでもみんな“あのフグブタヤロウ!”とかアダナは付けましたが、親に言うとかそれが問題になったとかありませんでした。

また、いじめに関しても中学でも高校でも大体、番長てのがおりまして、このお方が学校全体を影で統括してるというか、俗にシメテルというか皆一目おいてましてそんな陰湿ないじめなどは、ありませんでした、、、、。
それが良いとは思いませんが、生徒数もそのころは、どこもマンモス学校(全校生徒1500人くらいの)で大体1教室50人くらいはいましたので、現在ほど担任は目が行き届かないはずですが大きな問題は無かったと思います。
まあ、今に比べ色々な情報は入り込んできませんからうぶっだったとは思いますが、、、、。

人生、ひとりでは生きてゆけないってことを幼児教育から徹底して、北朝鮮式強制国家行事にしてしまえば、、、、。
チョッと前までは自国もそうであったのに、現在のこの様変わりは一体なにが原因か、、、などとどこかの評論家がまくし立ててますが、、、、。このままこの状態が続けばアタマのキレル、お金もちは海外の移住して子供たち育てたりするんじゃないでしょうか、、、。

アメリカのおばあちゃんやイギリスのおじいちゃん、ドイツのおじさんたちは他人の子供でも悪い時はちゃんと叱ったり、諭したりしているのです、、、。
日本人にもそれらを期待しますし、自分も含め今日から行動したいです。
つづく。



turuta_s_room at 15:40|この記事のURL
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