2007年07月14日

甘利虎泰 武田晴信の股肱の重臣(Wikipedia加筆項目)

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甘利虎泰. (2007, 7月 13). Wikipedia, . Retrieved 23:59, 7月 13, 2007 from http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%94%98%E5%88%A9%E8%99%8E%E6%B3%B0&oldid=13652588.
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甘利 虎泰(あまり とらやす)は、戦国時代の武将。武田氏の家臣で、武田二十四将、信虎時代の武田四天王の一人である。

家系は甲斐源氏・一条忠頼の流れをくむ武田氏の庶流にあたる。甲斐国甘利郷(山梨県韮崎市旭町付近)を治めていた。

板垣信方、飯富虎昌、原虎胤らとともに武田信虎時代から仕え、天文10年(1541年)の晴信による信虎追放の主導的役割を果たし、武田家の宿老で、「甲斐国志」に拠れば最高職位「両職」を務めた譜代家臣とされるが、信虎期の来歴や行政責任者としての実務を示す史料は少なく、史料上の初見は「高白斎記」天文11年(1542年)11月付の甲府へ屋敷を新築した際や、翌天文12年(1543年)の諏訪郡上原城代の板垣信方へ晴信の上意を伝える使者を務めた際や、西郡鷹尾寺(南巨摩郡増穂町)へ禁制を与えた際の文書が見られるのみである。

『甲陽軍鑑』は虎泰を「荻原常陸介(信虎の軍師)に劣らぬ剛の武者」と評し、山本勘助も虎泰の見事な采配ぶりを感嘆している。『軍鑑』や『武田三代軍略』などの軍記物によると、信虎時代の天文7年(1538年)に諏訪氏、小笠原氏が甲斐に攻め込んだ韮崎の戦いで二番合戦で手柄を上げ、晴信が家督を継いだ直後に諏訪氏、小笠原氏、村上氏が侵攻してきた天文11年(1542年)の瀬沢の戦いでも奮戦しているが、これらの合戦は実在自体が疑われている。

天文16年(1547年)の佐久郡北部の志賀城攻めに参加。関東管領上杉憲政が後詰の援軍を派遣したため、虎泰は板垣信方とともに別動隊を編成して伏撃し、小田井原の戦いで大勝してこれを打ち破った。

天文17年(1548年)2月14日に武田晴信が小県郡に侵攻して村上義清と戦った上田原の戦いにおいて、板垣信方を討ち取って意気上がる村上勢から晴信を守り、初鹿野伝右衛門らとともに戦死した。

国務大臣・経済産業大臣の甘利明は子孫にあたる。

参考文献
柴辻俊六編『武田信虎のすべて 』(新人物往来社、2007年)ISBN 4404034237
近衛竜春『武田家臣団』(学研、2006年)ISBN 4059011916
『闘神武田信玄―戦国最強・甲州軍団の激闘』(学研、2006年)ISBN 4056043973
柴辻俊六編『武田信玄大事典』(新人物往来社、2000年)ISBN 4404028741
野澤公次郎『武田二十四将略伝』(武田神社、1993年)
『風林火山―信玄の戦いと武田二十四将』(学習研究社、1988年)ISBN 4051051439

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武田家臣団―信玄を支えた24将と息子たち
武田信玄―武田三代興亡記 (Truth In History)
謀将山本勘助と武田軍団


2007年07月13日

ダンボール入り肉まんの恐怖とオリンピック

【中国】ダンボール入り「恐怖の肉まん」、10年前から販売か
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070713-00000008-scn-cn

中国では想像を絶する食い物が平然と売られていたのかと驚くというか呆れるというか。
とくにかく来年が北京オリンピックですから、通常の数倍の外国人観光客が見込まれ、そこで露店で買い食いをした外国人の食中毒が頻発すると中国としてはえらく恥ずかしいことになるし、ダンボールを肉まんを食べて中毒死まで出ると国際的な騒ぎになって外国人が買い食いを控えるようにもなり観光収入に大きくひびく。
そんな訳で、北京の衛生当局は腰を取り締まりをしてるんですな。
たぶん、オリンピックの時は北京の露天商には(中国なりに)許可制を厳格にして、とりあえず人間が食える物を出す業者だけになるとは思うけどね。

板垣信方 武田晴信の股肱の重臣(Wikipedia加筆項目)

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板垣信方. (2007, 7月 13). Wikipedia, . Retrieved 09:06, 7月 13, 2007 from http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E4%BF%A1%E6%96%B9&oldid=13639475.
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板垣 信方(いたがき のぶかた)は、戦国時代の武将。武田信虎、晴信(信玄)の2代に仕えた。武田二十四将、武田四天王の一人。

武田晴信が父信虎を追放して家督を継ぐと家臣団の筆頭格となる。晴信が諏訪氏を滅ぼすと諏訪郡代(上原城代)となり、諏訪衆を率いて信濃経略戦で戦功をあげた。晴信と村上義清との上田原の戦いでは先陣となり緒戦で村上勢を破るが、逆襲を受けて討ち死にした。

生涯
板垣氏は甲斐源氏宗家の武田氏の祖の武田信義の三男の板垣兼信にはじまる。

信方は武田氏の宿将として信虎の代から活躍したといわれ、天文9年(1540年)の信虎の信濃国佐久郡侵攻の際に敵城十数を落とす活躍をしている。『甲陽軍鑑』によれば嫡男晴信の傅役であったという。

信虎は晴信を疎んじて二男の信繁に家督を譲ろうとし、また乱行が甚だしく家臣領民を苦しめていた。そのため、同10年(1541年)に晴信が家臣団とともにクーデターを起こして信虎を駿河国へ追放した。『甲陽軍鑑』では晴信は信方と甘利虎泰の両人を頼りにして事を起こしている。晴信が家督を継ぐと、信方と虎泰は武田家最高職の「両職」に任じられた(『甲斐国志』による)。

同11年(1542年)7月、晴信は高遠頼継と結んで諏訪郡へ侵攻して諏訪頼重を降し、頼重は板垣郷東光寺で自害させられた。同年9月、諏訪家惣領職を望む頼継は藤沢頼親と結んで諏訪郡へ侵攻して上原城を落した。晴信は直ちに信方を先陣とする救援の軍を送り、安国寺の戦いで頼継を打ち破った。高遠頼継を追い、藤沢頼親を屈服させた晴信は同12年に信方を諏訪郡代(上原城代)に任じて占領地の統治を任せた。

『甲陽軍鑑』や『名将言行録』にはこの頃のこととして信方の忠節ぶりを示す有名なエピソードがある。気が緩んだ若い晴信は詩会や遊興に耽るようになった。信方は病と称して暇を受けて30日間留守にした。再び出仕した信方は晴信の詩会に出席して見事な詩を五度も書いてみせた。晴信がどこで学んだのかと問うと、信方は主君の嗜むことを家臣がしないのはどうかと思い留守の間に僧に学んだと答えた。晴信が機嫌を良くすると、信方はすかさず「父君は非道が過ぎたために追放されたのに、それから3年も経たずにこの有様では信虎様以上の悪大将であられる。腹立たしければご成敗ください。それがしは何時でも馬前で討ち死にする所存です」と諫言をした。晴信は感涙して、それ以後はよき大将になったという。

天文14年(1545年)、晴信は高遠城を攻略し、高遠頼継は没落した。続いて晴信は再び背いた藤沢頼親の福与城を攻めるが頼親は信濃守護小笠原長時と結んで抵抗した。信方は藤沢氏・小笠原氏に与する龍ヶ崎城を攻め落とし、孤立した頼親は降伏した。『甲陽軍鑑』によると戦勝した信方は小笠原勢へ追い討ちをかけるが不意打ちを受けて敗北してしまい、他の家臣は信方の責任を問うが、晴信は後続に損害を出さずに踏み止まった信方を褒めたという。

天文16年(1547年)閏7月、晴信は信方率いる諏訪衆とともに大軍で佐久郡に侵攻し、志賀城の笠原清繁を包囲した。関東管領上杉憲政は金井秀景に西上野衆を率いさせ救援の軍を差し向けた。晴信は信方と甘利虎泰に別動隊を編成させて迎撃にあたらせる。8月6日、信方は小田井原の戦いで関東管領軍を撃破し、敵将14、5人、兵3000を討ち取る大勝をおさめた。救援の望みを失った志賀城は陥落し、晴信は佐久郡の平定を完了する。

『甲陽軍鑑』などによると信方は、この頃から増長気味の行いが目に付くようになったという。戦勝の折に晴信の許可なく勝鬨式や首実検等を行うようになり、晴信からやんわりと『誰もみよ、満つればやがて欠く月の、十六夜ふ穴や、人の世の中』と和歌でその行いを窘められる等、大人気ない行いが目立つようになった。また軍才もやや衰え気味で、天文16年(1547年)の村上氏との戦いではあわや全滅の憂き目に会い、原虎胤に救援されたりしている。

天文17年(1548年)2月、晴信は村上義清を討つべく小県郡へ出陣。2月14日の上田原の戦いで信方は先陣を務め、緒戦では村上軍を撃破するが、気を緩めてしまい勝鬨をあげ備から離れて首実検をはじめた。村上勢は体勢を立て直して急襲し、信方は馬に乗ろうとしたところを敵兵に槍で突かれ討ち取られた(『甲陽軍鑑』による)。

上田原の戦いで武田軍は信方の他に甘利虎泰、才間河内守、初鹿伝右衛門が討ち死にし、晴信は初めての大敗を喫した。

信方の死後、家督は嫡男の信憲が継いだが、不行跡のために武田信玄によって武田家から追放され、のちに誅殺された。これにより板垣家の嫡流は断絶している。

信憲の子息が関ヶ原の戦いに際し、山内一豊家臣の乾彦作に陣借りをし、その後に彼の養子となったため乾家の直系に当たる乾退助は子孫と称し、後に板垣退助と改めている。乾家の系譜によれば、先祖の正信は信方の孫で、武田氏滅亡後、浜松にいた山内一豊の重臣乾彦作の養子となり、以後、代々土佐藩山内家に仕え、退助は正信より十代の子孫だとしている。


参考文献
柴辻俊六編『武田信虎のすべて 』(新人物往来社、2007年)ISBN 4404034237
近衛竜春『武田家臣団』(学研、2006年)ISBN 4059011916
『闘神武田信玄―戦国最強・甲州軍団の激闘』(学研、2006年)ISBN 4056043973
平山優『戦史ドキュメント 川中島の戦い 上巻』(学研M文庫、2002年)ISBN 4059011266
柴辻俊六編『武田信玄大事典』(新人物往来社、2000年)ISBN 4404028741
河合秀郎『風林火山 信州制圧』(学研、『歴史群像 2001年8月号』)
野澤公次郎『武田二十四将略伝』(武田神社、1993年)
『風林火山―信玄の戦いと武田二十四将』(学習研究社、1988年)ISBN 4051051439

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