出任せ系







罪なき者なおもて石を投げる。いわんや罪人をや。
(人生修行中のフリーライターの針小棒大な日々)

554 みんなやさしい声

汚れっちまった悲しみについて書く。

先日、テレビでACジャパンの意見広告を観た。
2016-06-10
絵本に出てきた
王子様も
キリギリスも
お化けも
魔女も。

みんなやさしい声でした。
なるほど。

絵本に出てくる人たちは、
みんな優しい声で近寄ってくる、と。

これを聞いて最初に思いついたのは
「白雪姫と七人の小人」のお話に出てくる魔女だ。

白雪姫に魔女が言う。

「そこの可愛らしいお嬢さん、このリンゴをあげようね」

「まあ魔女......じゃない、おばあさん。ご親切に」

「いいのさ。今すぐさっくり食べちゃいなさい」

「でも私、あまりおなか空いてないし」

「リンゴはね、栄養たっぷりなんだよ。
 ほら、あの、なんとかノールがいっぱい」

「ポリフェノール?」

「そうそう、そのポリフェがたーんと入っててね
 絶対に白雪......じゃない、お嬢さんが食べても
 昏睡状態になったりすることはないのよ」

「あら、魔女じゃなくておばあさんありがとう」


読んだのが数十年前なので記憶は定かではないが
こんな会話がなされていたように思う。

翻って赤ずきんちゃん。

「ねえおばあさん?
 おばあさんの目はどうしてそんなに大きいの?」

「それはね、お前をもっとよく見るためだよ」

「おばあさんのお耳はどうしてそんなに大きいの?」

「お前の声をもっとよく聞くためだよ」

「おばあさんのお部屋はどうしてこんなにケモノ臭いの?」

「いやいや、次は口の大きさに注目する番でしょ?」


詳細はさておき、こんな会話だったように思う。

つまり、だ。

絵本に出てくる悪い人(人だけじゃなくて、
キリギリスもお化けも魔女も)たちは、
みんな優しい声で語りかけてくるけれど、
本心がどこにあるか分かったものじゃない。

だから、

優しい声でかかってくる電話に注意せよ。

という、高齢者が詐欺にひっかからないように
啓蒙するためのCMだと思ったのだ。

それが、
声を通してほんの楽しさが心にしみこんでいく。
子どもの読書推進会議
だったとは。

あゝ、汚れっちまった。

しかし「高須帝国の逆襲」に文句をつけた小学館よ。
絵本「しらゆきひめ」の「こびと」は問題ないのか?
(もちろん嫌味だけど)

553 舛添都知事が辞任すべき理由

ニュースを見てガラにもなく考えていたら
なんかアホほど長文を書いてしまった。
読み返すのが面倒なのでそのまま投稿。

誤字脱字は個性です。

今やどの報道を見ても、ほとんどが舛添都知事は辞めるべきという主張になっている。
……ような印象を受ける。すべての報道を見てないので、あくまでも「印象」。
もちろん、中には「今、辞めるべきではない」という主張も散見する。
しかし、これらはあくまでも与野党ともに「次の都知事選までに候補者を擁立する余裕がない」や「辞める前に説明責任を果たせ」という文脈の中で語られることが多い。
もはや「説明責任を果たせないなら辞めるの当たり前」的な空気が日本列島を覆っている。

しかし考えてみれば、舛添都知事は政治資金を私的流用した程度のことで本当に辞めるべきなのだろうか。
「悪いことをしたら辞めるのは当然」というのはもっともらしいが、理屈としてはいかにも子供じみている。

私は、舛添都知事は今回の一連の騒ぎ(だけ)で辞める必要はないと思う。
もちろん本人も(本人が選んだ「偽の第三者」である弁護士も)言うように、「違法ではないが不適切」な金の支出に関しては相応の責めを負うべきだ。
しかし彼の仕事は都知事である。
たとえ、多少の不適切さはあったとしても、その信条と行動のベクトルが「都民のために尽くす」という方向に向いているならば、敢えて言うが辞める必要はないと思う。

彼も人間である以上、お金も欲しいだろうし、良いホテルに泊まりたいだろうし、毎週温泉に入ってビールを飲んだりしたいだろうし、そんな姿を家族に見せて「お父さんってすごい!」と言われたいだろう。
政治家とは、そういう、人としての見栄とか欲をすべて捨て去った、聖人君子か仙人のような人物でなくてはいけないなどと誰が決めたのだ。

あくまでも日本は法治国家である。
法律という、人が長年の知恵と経験によって定めたルールに従って複雑な人間関係を調整し、住民が最大の利益を得られるよう導くことができれば、首長たるもの、それで良いではないか。

法治の反対語は「人治」である。
個人あるいは一定の集団による(ある意味で)属人的な価値観で統治が行われるという仕組みである。
その点で、共産党と軍の独裁国家は法治国家ではないし、大統領に都合の悪いニュースを流したら法律の適用を曲げて長期拘束するような国家も法治国家ではない。
さらに言えば、「不徳の至り」で有名な「徳」でもって国を治めるという「徳治」も、属人的という意味で人治主義の域を出ない。

今日の日本では、政治家に求められる「法治」的な能力と、「徳治(あるいは人治)」的な能力(あるいは人間性)が曖昧になっているように思う。
だから、「あの政治家は人間として信用できない」「なんだか陰で悪いことをしていそう」「なんか、感じ悪いよね」などというふんわりしたイメージが一定の立場に対する反対の大きな根拠になったりするのである。
友達を選ぶわけではないのである。

政治家というよりも、人間に「徳」が求められるのは当たり前だ。
しかし、その人に「徳」がないから、政治家には向いてないというのは間違っていないか。
感じ悪くたって、国民のために尽くしてそれなりの成果をあげることができれば、それは立派な政治家なのだ。
とても感じが良くて、耳障りのよい発言ばかりしているけど、政治的に何の能力もない無能(あるいは詐欺)(言い方が悪ければ理想主義者)と比較したら、どちらが政治家に向いているか簡単に分かりそうなものではないか。

最初の話に戻ると、都知事は前回の会見で「私の不徳の致すところ」と何度も繰り返し、「自分は徳治ではない」ことを明言している。
これは単なる謙遜や遠慮から発言しているのではなく、最初から「僕は道義的・人治的な責任については重きを置いていません」という意思表示に他ならない。
そう考えると、本人(と偽の第三者)が言った「違法ではないが不適切」という落としどころは極めて当然だ。

違法であるかどうかは、法を適用する人材の主観に左右される部分が大きい。
だって、日本にとって最も大切な憲法の解釈をめぐって何十年も議論が行われているのを見れば、法律なんて解釈次第でどうにでもなることは明らかだ。
都知事も(偽の第三者も)(しつこい)それは熟知しているはずだから、法律的には問題ないと言い切ったのだろう。

つまり、法治的には(あくまでも主観だけど)何の問題もない。
しかも、自分は徳治で政治をしていない。だから、多少問題があると言われたところで痛くもかゆくもない、と。

まあ、こんな事態になってしまった責任はちょっと感じるけど、都知事は辞めません。

となっているのはご存知の通り。

私は都民ではないので別に偉そうなことを言う義理もないのだが、さはさりとて、私はやはり都知事は辞めるべきだと思っている。

理由は、個人的な金の使い方の問題ではなく、都知事個人の人間性の問題でもない。
昔、自分の名前で出していたテレビゲームで言ってた内容と今の言動が著しく食い違い、昔の自分に今の自分が叱られている(某党が得意とする、いわゆる「ブーメラン現象」)からでもない。
都知事が辞めるべきだと私が思う最大の理由は、彼の政治活動のベクトルが都民に向いていないからだ。

「韓国の民族教育の中心」(産経新聞)とされる東京韓国学校増設のために、新宿区矢来町の私有地を韓国政府に貸し出す方針を打ち出したことなどはその最たるものだ。
しかもこの土地は、それより前に新宿区が保育所設置のために貸し出してくれるよう要請したのだという。
彼はそれを無視したのだ。思い起こせば、彼は厚生労働省の大臣をしていたのではなかったか。
さらに言えば、東京韓国語学校は以前、日本語の課程をを正規課程にすることに難色を示した学校である。
そのような韓国国粋的な学校である以上、「竹島は日本の固有領土」と書かれた日本の教科書を採用するはずがないことは容易に想像がつく。
都民の福祉を無視して韓国に便宜を図り、自分の土地で(この辺りは想像)反日的な教育が行われるのを看過するのは、都知事としてというよりも、もはや日本人としてどうかと思わざるを得ない。

さすが国際政治学者だけあって、ご本人はこの行為を「都市外交」などと称しておられる。
かつての石原慎太郎都知事が羽田空港に国際便を導入するために各国と交渉したり、猪瀬前都知事がオリンピックを東京に誘致して大きな経済効果を上げたりしたことも都市外交ではある。
しかし舛添氏との大きな違いは、石原・猪瀬氏は都民の方向にベクトルが向いており、舛添氏は自分(と韓国)にベクトルが向いているということではないだろうか。
(猪瀬前都知事は、やはり「人徳」的な問題で辞任に追い込まれたが)

私は人間的にどうだとか、言動が気にくわないとか、まして「川に落ちた犬は徹底的に叩く」的に発言しているのではない。
外交は国家の専権事項であり、一都市が、ましてや一個人が判断すべきことではないはずだ。
その一点を以て、私は舛添都知事の一刻も早い退任を願うものである。

だって、こういう「人徳」的な話題、たとえばお金をもらった、もらわないとか、不倫したとか、酔っぱらったとか、居眠りしてたとか……、そんな(敢えて言う)「くだらない」話題に、大切な議会の時間を費やすことこそ、税金の無駄遣いではないか。

都民じゃないから、次の都知事選に行けない(しかも立候補だってできやしない!)のが残念だ。
でも、ここ数年(いや、もっと前からかも知れないけど)の「なんか、人間として嫌い」的な視点で政治が語られるのにもう我慢ならないのだ。

 

552 「高須帝国の逆襲」をいま購入した

ニュースが飛び込んできたのは昨夜のこと。

「高須帝国の逆襲」をいま絶版にした

ツイート主は、もちろんあの高須先生。

経緯はニュースなどを読んだ方が早いので割愛。
高須先生が出版した本にクレームが入り、
ビビった出版社が回収および書き直しを依頼し、
怒った高須先生が「出すのやめた!」と。

いつか買うつもりではいたのだが、
こうなったら今すぐ買わねばなるまい。

その後のツイートを見ていると、昨夜の時点で
アマゾンではもう入手不可能だという。
明日、名古屋に行く用事があるので、
名古屋の大きな書店で探すことにする。

というわけで、明けて本日。

朝、9時少し前に最寄り駅に到着した。

通りかかった駅テナントの書店の扉が少し開いていた。
オープンは9時からなのでまだ開店前だが、
とりあえずのぞきこんで声をかけてみた。

「すみませ〜ん」とワシ。

カウンターから顔を出したバイトらしきお姉ちゃんに
「高須帝国の逆襲という本、ありますか?」と告げる。

調べてもらうと、数冊が平積みになっていた。

「あるんですね? 良かった〜。
 実はこの本、昨夜絶版になったらしくて、
 近いうちに回収されるので、見かけたら
 すぐに買おうと思っていたんです」

さっそく購入しようと思ったが、9時にならないと
レジが開けられないので売れないという。
待っていると電車に遅れるので、取り置きしてもらい、
夕方に取りに行くことにした。

だが、これで安心してしまう私ではない。

心配に憂慮と思い過ごしを振りかけて石橋を叩き壊す私だ。

念のため、仕事の帰り道に、名古屋の大きな書店を回って
「高須帝国の逆襲」があるかチェックしてみた。

どこにもないのである。

売り切れたにしても、どこにも、一冊もないのはおかしい。

まさかと思いつつ、地元の駅に戻る。

朝、取り置きしてもらった書店に入り、
見覚えのあるバイトのおねえちゃんに声をかける。

と、彼女は

「まずいヤツが来た!」

という顔をしてパタパタと奥に引っ込んでいった。

棚を見ると、朝は平積みになっていた
「高須帝国の逆襲」が、その時点ではもう
一冊も並んではいなかった。

ぜんぶ売り切れ? まさか。

もう悪い予感しかしない。

数分後、代わりに正社員と思しき店員が現れた。
手には「高須帝国の逆襲」を数冊持っている。

「ちょっと確認しますのでお待ちください」と店員さん。

「なにかあったんですか?」とワシ。

「実はさきほど出版社からファックスがあって、
 この本をすべて回収することになりまして……」

やはり。

「でも、朝、取り置いていただくようお願いしましたよね?」

ここは食い下がる。

「本社に確認してみます」

彼女は電話を取り上げた。

「おつかれさまです。○○店の○○です。
 はい……。ええ、回収の本の件で……」

がんばれ! ○○店の○○さん。

「そうです。例の、朝から取り置きしておいた
 お客様がいらっしゃったんですが……」

ん? 例の? ということは、話題になっていたのか。

そこからしばらく何やら話し合った後、
受話器を置いた彼女はにっこりと笑って

「大丈夫です。失礼いたしました」

IMG_1650

おお!

一度回収になってしまった本だから、書店としては
「申し訳ございません。やはり売れません」
という判断があっても仕方なかったと思う。

しかし朝、開店前の書店にずかずかと入り込み、
取り置きまでしてしまうような物好きなオヤジに免じて
(或いはそんなオヤジに関わると後が面倒だと思って)

「まあ、昨日のうちに予約が入ったことにすれば、
 一冊くらい売っちゃってもいいんじゃね?」

という、書店の本社スタッフの大岡裁きによって
手に入れることができたのではないか(想像)。

しかし朝、開店前の書店に入って良かった。
ここで取り置きしておかなかったら、
きっと手に入れることはできなかったろう(想像)。

ありがとうバイトのお姉ちゃん!
ありがとう○○店の○○さん!
ありがとう本社の人!

心して読みます。

551 肉肉しいは日本語か

先日、私をはじめとする多くのモノノフにとって
もはや単なるハンバーガーショップとは言えない、
いわゆる一つの「聖地」といっても過言ではない、
げんこつハンバーグの炭焼きレストラン「さわやか」に行った。

はじめての「おにぎりハンバーグランチ」は絶品だった。

が、問題はそこではない。

一緒に行った知人が、ハンバーガーを食べながら
しきりに「この肉、肉肉しいよね」と感心していたのだ。

「そうですね」などとうなづきながら、
私はどうにも違和感を覚えていた。

少し前から、この「肉肉しい」という言葉が気になっていた。

いつ頃からこんな言葉が使われているのか知らない。
だが、私の手元にある「広辞苑」(第三版)にないので
昔からある、由緒正しい日本語ではないことは分かる。

ニュアンスとしては、肉の味が強い、肉のボリュームがある
といったところであろうか。

肉を感じられるから、肉肉しい。

なるほど。

だがしかし。

単語を繰り返して、最後に「しい」をつけたら
なんでもかんでも形容詞になる訳じゃないと思うのだ。

加えて、日本語には「憎々しい」(たいそう憎らしい)
というれっきとした形容詞があるというのに。

新幹線の座席でのんびりビールとか飲んでたら、
そこに、いきなり筋肉質で屈強そうな男が現れて
「おっさんよー。そこ、オレの席だけど?」
と因縁をつけられているようではないか。

激しく不愉快だ。
場をわきまえろ。場を。

……そう考えていた。

しかしその後、気づいたことがある。

確かに、単語を二つ並べることで、
形容詞になるという日本語はある。

たとえば

白い→白々しい(たいそう白く見える、見え透いている)

軽い→軽々しい(いかにも手軽である、軽率である)

痛い→痛々しい(見るからに痛そうな、同情できる)

すべて、物自体の「状態」を表す形容詞を繰り返すことで
見た目や印象を表す別の形容詞になっている。

一方、繰り返すのは形容詞だけではない。

空→空々しい(知って知らない振りをする、見え透いている)

華→華々しい(華やかである、見事である)

刺→刺々しい(突き刺すような、意地悪な)

こちらは名詞を繰り返すことによって、
空や華、刺という言葉が内包するイメージを強調し、
見た目や印象を表す別の形容詞になっている。

だから「○○+しい」という言葉には、

Aパターン:形容詞を繰り返す場合
と、
Bパターン:名詞を繰り返す場合

の二種類がある、ということになる。


そこで先ほどの話に戻る。

肉肉しい」という言葉を聞いて違和感を覚えたのは、既に

憎々しい」(たいそう憎らしい)

という形容詞があるというのが一つの要因だと書いた。

しかし落ち着いて考えてみると、
こちらは「憎い」という形容詞があって、
そこから派生した言葉だと考えられる。

先ほどの例でいえばAパターン
既存の形容詞から派生した言葉なのだ。

一方で「肉肉しい」は、「肉」の持つ味わいを
強調する言葉であり、先の例でいえばBパターン
既存の名詞から派生した言葉と思われる。

同じ「にくにくしい」でも、構造が違う。

「おっさん、そこ、オレの席」と言う輩に
「は? そんなはずはないのです」と答えて
高々と自分の乗車券をかざしてみたら、
「おっさん、おっさんはA席。オレはB席。
 おっさんのカバンが邪魔で座れねえんだよ!」

と逆にマナーをなじられたような気分である。

そもそも、言葉なんて移り変わっていくものだ。
いくら正しくて美しい日本語であっても、
人々に使われなければ「死語」や「文語」、さらに
「古語」などのフラグが立てられ、やがて消えていく。
そして、日々の生活の中に当たり前になっている、
セイタカアワダチソウのような言葉だけが残っていく。

それが日本語なのだと考えると、まあ、そこまで
頭ごなしに否定してしまう必要もないと思えてきた。

まして、それは「日本語の乱れだ」などと
目くじらを立てるのも大人げないなあ……と、
大人大人しい大人の私は思うのであった。

550 リアル「カエルの楽園」に出会った

愛知県のJR某駅に久しぶりに降り立った。

しばらく見ないうちに、すっかりあか抜けて
「どえらい綺麗になって見違えてまったわ〜」などと
十数年ぶりに法事で会った親戚のように感心していたら
後ろから誰かに声をかけられた。

私がゴルゴでなくて良かった。

そこに立っていたのは、
「グレー」というとグレーが気を悪くしそうな、
「ねずみ色」、いや「灰色」のジャケットを着て、
頭には「ダークグレー」というよりもむしろ
「どぶねずみ色」、いや「汚い灰色」の帽子をかぶった
60代半ばと思しきオジサン。

手には紙とペンを持っている。

 「去年、安倍内閣が通した戦争法案って知ってますか?」

あ、そういう手の人か。

オジサンの肩越しに交差点の向こうを見れば、
「憲法九条を守ろう!」という垂れ幕を掲げた集団が
マイクで何やら熱く語っておられる。

なるほど。これは言っておかねばなるまい。

 「戦争法案? そんな名前の法案がいつ衆院を通りました?」

オジサンも察したようで、言い直した。

 「いえ、安保法案です」

 「いるんですよねー、そうやってレッテルを貼る困った人達が」

そこから、20分くらい道端で激論。

 「あれは集団的自衛権を認め、むしろ戦争しにくい
  状況をつくるための法案だと理解してますけど?」

 「いいえ。あの法案によって、日本はアメリカと一緒に
  世界中で人殺しをする国になろうとしているんです!」

オジサンの話によれば、
日本は独裁者安倍のせいで、人殺しをする国になりつつある。
今こそ、日本の誇りである憲法九条の精神を国民が取り戻し、
独裁安倍政権にNOを突き付けなくてはならないのだ!
ということらしい。

 「でも、実際問題として中国の脅威はご存知ですよね?」

 「もちろんです」


 「それはどうお考えですか?」

 「話し合いです。人間、話し合えば必ず通じます」

 「通じなかったら?」


 「通じるまで話し合えばいいんです」

 「チベットの問題も新疆ウイグル自治区の問題も?」

 「話し合いで解決できると信じています」

万事この調子で話が進んでいく。

まるで、百田尚樹さんの「カエルの楽園」
芝居を目の前で見ているようで、面白くなってきた。

実在するんだ。こういう主張をする人。

反論は山ほどあるけれど、話していても埒が明かないし
だんだん時間もなくなってきたので聞いてみた。

 「で、私に何の用ですか?」


 「安倍政権に反対する署名をお願いし……」

と言ってきたので

 「ぜっっっったいにしません!」

と食い気味に返答すると、オジサンはため息をついて




 「ですよね〜」

我慢しきれず、つい笑ってしまった昼下がり。
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