ネットの功罪なんて別に私が語るべき話じゃないし、そもそもこれだけ生活に根付いてしまったネットを今更切り離すというのは不可能だ。社会インフラは前進することしか出来ない。
とはいえ自転車旅行で全くネットが届かないような僻地の町に来たりすると、どうしても考えてしまうのだ。「ネットを使わない旅行やるのも面白そう」・・・みたいなことを。
これは「世界から車を無くしたらどうなるか?」と同じく自転車旅行者同士でよく与太話のネタにされるのだけど、その根底にあるのは「昔の旅行者は羨ましい」という感情だと思う。
海外での自転車旅行って、現代においてもやはり情報が全く出てこない土地を走る・・・ということがある。地図で見てもそこにどんな施設があるのか分からない、町の名前すら付いてるのか怪しい、なんならそこまでの道がちゃんと続いてるのかも不安。そういうなんとか走れそうだけど、他に何も分からない道。
そうした土地におっかなびっくり手探りで踏み入っていくドキドキというのは普段の旅行中の比ではない。それとは明らかに別種の喜びと緊張感があって、これがなかなか堪らないのだ。
海外で訪れる町なんて全て「知らない土地」であるのは間違いないのだが、やっぱりネットで下調べを行い、そこで食・住の確保が取れそうか?程度の確認はする。それがそのまま出発時の食材等積載量に関係してくるのだし。何も悪いことではない、むしろ旅行する上で正統な行為だ。
ただネットでの情報収集は旅行に不可欠ではない。ほんの四半世紀前まで旅行者はそうした情報をネットからではなく、現地の人から聞いたり情報ノートを参考にしたりと別の形で入手していたし、そうした情報の出てこない土地へ向かうときは出来る限り備えをした上で徒手空拳で向かっていった。
私だって宿1つとっても、何も情報がない町だと3件4件回って慣れない言語で四苦八苦しながら料金比較&交渉し、ようやくチェックインして落ち着いたと思いきやすぐ側でもっと綺麗で安い宿があった・・・とかそういう経験を数多くしている。
つまり情報がないってのはどうしても無駄が多いし失敗や金銭的な負荷も増える。でもそれこそが「知らない土地を旅行する」ということなのじゃないか?・・・そんな気持ちがあるのも事実なのだ。
自分自身で人から情報を引き出し、その内容も不確実だけど行ってみる。なまじ自転車だとそういう実体験を色々経験しており、ネットでは味わえない喜びも面倒さも知っているから、ついつい思ってしまうのだ。「ネットに頼ってばかりじゃ駄目だ」とかね。
ネットの情報に従って効率的な旅行をすることを「攻略方法を教わりながらゲームをクリアする」みたく例えられることがあり、それは流石に実体験を伴う旅行に対して失礼じゃないか・・・と思いつつも、そう言いたくなる気持ちはちょっと分かる。
だって情報調べると潮流が出来てて同じような宿、観光地、食堂を紹介する金太郎飴になるんだもん。それは確かに効率的で料金も安く、無駄の少ないことだと思うけど。何というか、そこに本当に自分の意思は介在してるのか?みたいに感じてしまう。示された道をルート通りに進む旅行って、それもうガイドが居ないだけのツアーじゃない?
そうした気持ちのアンチテーゼがネットを使わない旅行に惹かれるのではないか?現代でネットを利用しないというのは相当な覚悟というか、強い目的意識が必要だと思う。そもそも自ら消息不明、音信不通になることを家族や近しい人が理解してくれるだろうか?という問題もあるし。
新しいインフラが出てきてそれを上手に活用していくことは、物事の幅を広げ多角的なアプローチを可能にするとても意義あることだと思う。むしろネットを使わないのはそうした手段を自ら捨てることであり、向上心がないとすらいえる。
それでも尚思ってしまうのだ。ネットを使わず自分の力で直接情報を集めて対処する旅行をやってみたい・・・と。多分、そうした強コミュ力に憧れがあるんだろうな。会話が苦手な茶壺さんは。