とりあえず日本1周を走ってみて思うことは、「自転車日本1周」とは自転車に乗れる健康な人間ならば、誰でも可能であるということである。凄いことでもなければ特別なことでもない。ただ自転車という乗り物に乗って走り続ければ、そのうちゴールできる。
体力的に辛いならば走行距離を減らせばいい。キャンプ用品が重たいならばホテルに泊まるだけのこと。少なくとも自転車における日本1周は「冒険」ではないし、「一部の人にしかできない」ような行為ではない。誰もが挑戦することができるけど、ほとんどの人がやらないだけのことである。
だから、理屈の上では明日からママチャリ1台でフラッと飛び出して日本を1周することもできる。十分な資金さえあれば日本国内で野たれ死ぬ可能性は限りなく0に近い。
しかしそれでも尚、自転車で日本1周をするという行為は素晴らしいものだ。先の言葉と矛盾するが、日本中を自転車という乗り物で走りきるのは結構大変なことであり、簡単に達成できることではないのである。
実際走ってみてつくづく実感したことだが、別段自転車旅に体力的な要素は重要ではない。そうではなく、自分が旅という良いことばかりではない日々を、それでも楽しんでゆくことができるかなのだと思う。
夜眠る場所を探すのにも一苦労。汗まみれの体でシャワーを浴びることもできない。夕食を食べようにも食堂はおろかコンビニの1件も無い。洗濯は公園の水道の水。トイレが見つからずに大慌てetc…
そうした普段の生活で味わうことの無い不便さもまた「旅の楽しみ」であり、こうした出来事を「苦労」と取るタイプの人は旅を続けるのは難しいと思う。逆になかなか得難い経験だと思い、そうした出来事を楽しめるような人にとって、旅という娯楽はこれ以上無い愉悦となる。
国内で「行ってみたい」と私が思った場所においては、ほとんど全ての場所を訪れたのであるが、自転車の旅において大切なのは「移動している最中」なのである。これこそがモータリーゼーションを使用して旅をしている人達と、自力での移動をする者共との大きな違いであろう。
こうして走り終えた後に思い出す光景には、必ず旅の途中で出会った人がおり、良くしてくれた人がいた。自分1人の力で進んでいくはずの旅なのに、どこでも見ず知らずの人達と一緒だった。その出会いのほとんどは、名前も覚えてないような道の途中やコンビニで休憩していた時である。
目的よりその過程が大切!なんて説法を語る気持ちはほとほと無いが、私の日本1周の旅とは「人との出会い」であった。美しい景色よりも、歴史ある建造物よりも、美味しい食べ物よりも、だ。そうした旅であったことが嬉しくあり、そうした旅ができる自転車が好きなのである。
日本1周の延長線上として世界1周があるとは思っていないが、世界中の各地に住んでいる人達は日本と変わらずに良い人達だと信じている。そんなわけない、考えが甘いなんて言わせたい人に言わせておけば良い。
言葉の違いに文化や宗教、肌の色からそれまで生きてきた国から環境まで、その全てが違っても関係ない。私との出会いを嬉しく思ってくれる人が確実にいる。自転車で日本1周をして私が得たものは沢山あるが、そうした確信を持てたことは、これ以上ない喜びだといえる。