2017年04月09日

「共謀罪に反対!」という言葉が分かりにくい

 4月6日から衆議院で「組織犯罪処罰法改正」案の審議が始まりました。この提案の最大の争点は「テロ等準備罪」の新設を認めるかどうかです。「テロ等準備罪」は、過去に「共謀罪」として提案されながら、野党の反対で3回も廃案になったものと酷似している犯罪です。テレビや新聞では大きく報道されていますが、報道の大きさほどに国民の関心が高まっているようには感じられません。
 安倍政権は本質的には非常に危険な政権であるにもかかわらず、不思議に支持率が落ちません。衆議院と参議院で圧倒的多数の議席を有している安定感ゆえかも知れませんが、私は、安倍政権の「言葉のうまさ」に理由があるように感じています。さまざまの提案を、一般市民の素朴な正義感をくすぐる言葉や理屈で正当化してくる場面が多いので、野党側の政治家や専門家たちがひっくり返すのは非常に難しいのです。

素朴な考えをひっくり返せるか?
 今回の「テロ等準備罪」には、そういう安倍政権の「うまさ(=ずる賢さ)」が如実に表れています。たとえば政府は「テロ等準備罪は、国際的な組織犯罪の防止に関する条約(パレルモ条約)の批准のために必要」と説明しています。「テロ」とは、もともと「恐怖」を意味するフランス語で、爆発物・銃砲刀剣・薬物などを使った破壊・殺人行為を指します。一方「パレルモ条約」は、麻薬や人身売買などの国際犯罪組織(いわゆるマフィア)を取り締まるための条約で、「テロ防止のための条約」ではありません。それゆえ「パレルモ条約批准のためにテロ等準備罪が必要」という説明は、事情を知っている人々にとっては明らかな間違いなのですが、安倍首相はそんなことはお構いなしに平然と言ってのけるわけです。すると多くの一般市民はどっちの言い分が正しいのか分からなくなり、結局よく顔を知っている安倍首相のほうを信頼してしまいます。
  「テロ等準備罪は東京オリンピック開催のために必要」という説明も同じです。安倍首相は東京オリンピック招致の際に「東京は犯罪が少ない」とアピールしていました。それとこれを比較すれば、彼の説明が矛盾していることは明らかなのですが、素朴に考えれば「オリンピック会場でテロが起きないほうがいい」に決まっていますから、言葉の上の矛盾は吹っ飛んでしまいます。「テロを防止するためテロ等準備罪が必要なのは当たり前だろう、それに反対する人間は、それこそテロリストじゃないのか」という素朴な考えが出てきます。素朴に考えている人たちに、10年前からの「共謀罪」の話をしても、遠く難しい回り道になってしまうのです。

 今回の「テロ等準備罪」の提案に対して、野党側が「共謀罪に反対!」という言葉で対抗するのは果たして有効なのでしょうか。私はそこに、今回の問題に立ち向かう野党側の根本的な弱点を感じます。もちろん私は「テロ等準備罪」には反対です。基本的人権を保障する立場で、約10年前から「共謀罪」が繰り返し廃案になってきた経過を多少でも知っている人間であれば、「あの共謀罪を今度こそ成立させようというのだな、それは許せない、共謀罪には反対!」と言いたくなるのは当然だと思います。しかし、そういう経過を知らない(あるいは昔から無関心だった)人たちの側から見れば、「テロの共謀や準備が罪になるのは当然だろう、何が悪いのか?」という発想になるのではないでしょうか。そういう意味で、「共謀罪に反対!」は分かりにくい言葉です。
 この点、2015年の「安保法制」を「戦争法」と名付けたのはヒットだったと思います。政府がいくら「安全保障のための法制だ」と言っても、集団的自衛権の行使容認など日本を戦争に巻き込む「戦争法」じゃないか、という指摘は比較的分かりやすかったのではないでしょうか。多くの人々を国会前に集めることができたのは(もちろん若者たちの呼びかけも重要でしたが)、「戦争法」という言葉に「それは本質的に悪法である」というメッセージが分かりやすく表現できていたということも手伝ったのだろうと思います。
 安保法制を「戦争法」と捉えたセンスから言えば、「共謀罪」ではなく「不平不満罪」とか「市民的抵抗罪」という言葉で反対を訴え、理解を広げていく必要もあるのではないかと私は思います。少なくとも、もともと「共謀罪」という言葉自体、約10年前に政府みずからが使った言葉であり、悪法としての本質を隠蔽する言葉であったということを忘れてはいけません。

「テロ等準備罪」の恐ろしさ
 もちろん、もし「共謀罪に反対!」が分かりにくいなら、分かるように説明すればよいではないか、という反論もあるでしょう。確かにその通りです。しかしこの問題を理解するには、ちょっと専門的な知識と、国家権力に対する冷静で批判的な姿勢が必要になってきます。
 専門家の説明を私なりに整理すると、日本では既に、テロ防止のための法制度は十分整備されています。例えばテロ防止のための13本の国際条約はすべて批准していますし、破壊活動防止法・銃刀法・爆取法・暴力団対策法など国内法の整備も充実しています。それゆえパレルモ条約を批准するために、いまさら「テロ等準備罪」が必要というわけではありません。
 政府は「テロ防止」のためと言いますが、「テロ『等』準備罪」は、約270の既存の犯罪行為を対象にその準備段階で処罰を可能にする法案です。対象となる行為の中には、例えば「著作権法違反」など通常テロとは無関係の犯罪も入っています。また政府は「一般市民を処罰対象にはしない」と言いますが、一般市民が処罰対象にならないようにする明確な規定は設けていません。それゆえ、「テロ『等』準備罪」が成立すると、例えば原発反対運動で座り込みを計画している市民を「威力業務妨害の準備罪」で逮捕することが可能になります。ブラック企業に勤める社員たちが経営者と時間無制限で交渉しようとした場合にも「威力業務妨害の準備罪」で逮捕することが可能になります。ある著名な弁護士は、無実を証明するために弁護士が証人と打ち合わせをしたら、それだけで「偽証の準備罪」になる危険があるとも指摘しています。なぜなら検察官にとっては、検察官自身が考える事件の筋書きが「真実」であり、それを否定しようとする弁護士の活動は、仮に弁護士の主張のほうが真実であっても、警察・検察の側から見れば「偽証罪の準備行為」ということに解釈されうるからです。これは非常に恐ろしいことです。
 もちろん政府は「それは考えすぎだ、そんなことはあり得ない」というふうに反論していますが、法律案の言葉の上では、そういう間違った使われ方が起きないという保証は、どこにもありません。「団体の性質が一変すれば、一般市民の団体であっても犯罪集団となり、テロ等準備罪の対象になりうる」ことを政府は認めているのですから。

 ちなみに1925年に成立した治安維持法は、当初は「国体(天皇主権の体制)と私有財産制を護持するため」つまり共産主義運動を取り締まるための法律でした。まだ法案として帝国議会で審議されていたとき、当時の政府は「治安維持法が一般市民に影響を及ぼすことはない」等と明言していたのです
 しかし現実はどうだったでしょうか。治安維持法が成立してからのち特別高等警察(特高警察)が作られ、共産主義運動のみならず、大本教などの宗教団体が治安維持法違反で弾圧されました。やがては戦争を遂行する政府を批判しただけの一般市民までもが逮捕され拘禁される事態になりました。国民は「壁に耳あり障子に目あり」と言って特高警察の監視を恐れ、うかつに政府や軍の行動に批判的なことは言えなくなってしまいました。かくして治安維持法は戦時中「天下の悪法」として猛威を振るい、戦争遂行の大黒柱の一つとなったのです。いま国会で審議されている「テロ等準備罪」がそのような悪法にならない保証はどこにもありません。
 このように考えると、いま議論になっている「テロ等準備罪」は、一般市民の素朴な考えを超えて、「政府・大企業にとって不都合な行為をすべて取り締まる」という意味にまで広げて考えたほうが実体に近くなってきます。つまり「テロ等準備罪」を必要とする真の狙いは「テロの防止」よりも「市民的抵抗の弾圧」のほうにあるのではないか、との疑いが増してくるわけです。政府はこのような疑問に誠実に答えようとはしていません。

北朝鮮と同じ監視社会になる危険
 しかしそれでも、多くの人々には「やはり自分には関係のない話だ」と思われるかも知れません。でも本当にそうでしょうか。
 「テロ等準備罪」が成立するためには、 屮謄軼の計画」と◆崕猗行為」の2つが必要です。,靴し「テロ等の計画」は水面下の動きですから、警察は「テロ等の計画」をしている者がいないか、常に多くの市民や団体を監視しなければならなくなります。これは警察による日常的な盗聴やスパイを認める根拠となります。早稲田大学の水島朝穂教授によれば、かつて検察庁の元高官までもが「共謀罪が成立すると、かつての特高警察のような組織が必要になってくるだろう」という趣旨のことを言っていたそうです
 盗聴というものは、一度始めてしまうと「テロ等の計画」とは無関係の人までも広範囲に対象となるので、プライバシー侵害の危険が増大します。アメリカの元CIA職員のスノーデン氏が暴露したように、既にアメリカ政府は一般社会の膨大なメールのやりとりを傍受し監視しているそうですから、「テロ等準備罪」が成立すると、日本の警察もあらゆる通信を傍受し監視するようになるでしょう。メールだけでなくLINEも監視されることになるでしょうから、何かのメッセージを「既読」にしたまま放置すれば、それだけで「計画に同意した」とみなされる危険も生じます。
 次に◆崕猗行為」は、「銀行預金をおろす」など普通の生活行為も含まれますから、ふつうに生活していても「資金調達をした」と解釈されて、「準備行為あり」とされる危険が生じます。従来、日本の刑法は実行行為を処罰するのが大原則で、殺人など重大犯罪に限って例外的に未遂行為や準備行為を処罰の対象にしてきました。「テロ等準備罪」は約270の多数の行為に幅広く適用されるので、これが成立すると日本の刑罰法規の原則と例外が逆転することになります。これは相当に重要な問題です。
 さらに、2燭「テロ等の計画」で何がそのための「準備行為」であるかは警察が勝手に自由に判断できるわけですから、市民がちょっと冗談で言ったことが発端になって、警察が勝手な思い込みで事件化する危険も出てくるでしょう。広い意味で思想・表現の自由を侵害し、冤罪事件が多発する危険が生じるわけです。
 このように、「テロ等準備罪」が成立すると、政府(警察)による市民監視が強まり、少しでも政府・大企業に批判的なことを考えたり相談したりしただけで「犯罪集団」として逮捕される危険が増します。このように政府が国民を徹底的に監視するような社会は、もはや民主主義の社会とは言えません。民主主義は、国民の自由なコミュニケーションと、政府に対する批判的行動を容認する土台のうえにこそ成り立つものなのです。「言いたいことも言えない」息苦しい監視社会なんて、今の北朝鮮と同じです。北朝鮮をひどく敵視する政府が、自ら北朝鮮のような社会を作る方向に動いているのが今の日本の矛盾した姿なのです。

 途中で妨害が入ったり枝葉末節に迷い込むことなく、首尾一貫してこの程度の説明を続けることができ、聞き手の側も真面目に聞き考えることができて初めて、「テロ等準備罪」が、その言葉から受ける印象とは違って、また素朴な感情とは違って、とんでもない悪法=「21世紀の治安維持法」になりうる危険な存在だということが理解できるのではないでしょうか。いや、この程度の説明ではまだ理解してもらえないかも知れませんが…。

素朴で間違った理解はこんなところにも
 ここまで書いてきて、朝日新聞(ウェブ版)が面白い記事を掲載したのを発見しました。「自白強要は仕方ない? 高校生7割が肯定的 1千人調査」という見出しで、「憲法で権力を制限するという「立憲主義」への理解が8割の高校生に浸透する一方、差し迫った重大犯罪を防ぐためには自白を強要してもよいと考える高校生が7割近くに上ることが、高校生1千人を対象にした研究者の調査でわかった。」と報じています。
 ちょっと驚くような調査結果ですが、高校教員の私にとっては、十分にありうる結果です。基本的な概念や用語の意味がよくわかっていないケースは、この記事が問題にしている「法の支配」や「自白の強要の禁止」だけではありません。たとえば「日本が攻撃されそうなときには北朝鮮に先制攻撃を加えることも合憲だ」と自信たっぷりに語る高校生もいます。もちろんこの理解は間違いで、先制攻撃は(合憲であるかどうか以前に)現行の国際法上も認められるかどうか学説上争いがあるのです。このように、日本社会に古くから浸透している勧善懲悪の理念や、功利主義(最大多数の最大幸福)的な価値観、あるいは素朴な思い込みが、国際法や憲法のルールの真の意味の理解を妨げている例はたくさんあります。「テロ等準備罪」にしても「共謀罪」にしても、言葉の表面だけで「分かったつもり」にならないことが非常に大切だと思いますね。

 私たちが本当に防止したいテロは、いま審議されている「テロ等準備罪」に基づく監視社会をつくることによってではなく、テロが発生する背景にある「貧富の格差」や「大国のエゴ」などを解決することによってこそ防ぐことができるのではないでしょうか。野党議員の皆さんには、ぜひそういう根底的なレベルからの議論を展開していただきたいと痛切に感じます。このままでは日本がアメリカと一緒になって北朝鮮と戦争を始めるということもありえない話ではありません。万一そうなったときに、「戦争反対」を叫んで行動する多くの市民が「テロ等準備罪」で監視し弾圧されるという悪夢が現実にならないように、私たちは徹底的に政府を監視し弾劾しつづける必要があるのです。

2017年03月26日

本物と偽物を見分ける眼力をつけよ 〜卒業生に贈る言葉2017

 1年がたつのは本当に早いもので、今年度もあとわずかになりました。1月末に「倫理」の授業を終えた後も、国公立大学の前期入試の小論文対策として数名の生徒の答案の添削指導などで忙しい日々を過ごしていましたが、それもようやく終わり、先日は無事に卒業式も終えて、新入生の入試も一段落して、やっとホッとしたところです。
 さて報告が遅くなってしまいましたが、卒業式の前日に配布された『生徒会誌』の「卒業生に贈る言葉」に、今年は次のような言葉を書きました。
 勝利にうぬぼれるな。敗北を恐れるな。真の幸福は、挫折を経験し涙を飲みながら一生懸命考えぬいた者に、少しだけ与えられる。人生の途上には、悔しさを乗り越えて自分の足で立った者にしか見えない広大な景色があるのだ。本物と偽物を見分ける眼力をつけよ。勝つことにしか関心がない人間の調子のいい言動を過信するな!
 昨年までとは視点を変えて、今年は少し内面に踏み込んだメッセージにしてみました。共感してくださる人は少ないかも知れませんが、「挫折こそ人間を成長させる」というのは私の持論です。若いころに多少なりとも(いろいろな意味で)挫折を経験し自分の生き方を見直した人ほど精神的に成長できる、ということを私なりに表現したつもりなのですが、いかがでしょうか。
 もちろんこの言葉は、受験に失敗した生徒たちを励ましたい気持ちに発するものですが、必ずしもそればかりではありません。そもそも私たちの生き方それ自体に対する根源的な問題提起を含んでいます。それは、競争に勝つ(勝ち得る/勝った)者の側に身を置く生き方をするか、それとも競争に負ける(負けかねない/負けた)者の側に身を置く生き方をするか、自分の生き方を吟味してほしいということでもあります。そして若いころの「挫折」体験は、自分の生き方を吟味する貴重かつ重要なきっかけを与えてくれるものである、というメッセージを込めています。

 いま世の中を見渡せば、どの方向を向いても競争、競争です。電車に乗れば「企業経営に成功するノウハウを教えるセミナー」だの、「難関大学・有名高校・一流中学校の入試対策の塾」だのと、各種さまざまの宣伝があふれています。テレビのスイッチを入れれば、高校生や大学生の年ごろの若者がアイドル歌手やスポーツ選手として注目され、脚光を浴びています。才能のある者や「努力」をした者が競争に勝って幸福になれるのは当然だ、平凡で競争に勝てない者は成功者の幸福を指をくわえて見ていろ、ライバルに勝つことにしか生きる意味がない、というメッセージが氾濫しています。
 いま平凡な中学生・高校生は、授業でも部活でも個人的生活でも、どの方向を向いても競争と無縁でいることはできず、ひとつ間違えば競争に負けてしまうという危機感、あるいは今更少々努力しても勝てそうにない競争に付き合わなければならない不毛感・徒労感に押しつぶされそうになっているのではないでしょうか。彼らがスマホをいじってSNSでのコミュニケーションに多くの時間を費やすのは、それが彼らにとって競争からの格好の「逃げ場」になっていることを示しているのかも知れません。
 私は、そんな環境で暮らしている平凡な高校生たちの姿を見ていて、「競争に勝ち抜くことに生きがいを見出す」のではなく、かと言って「競争に背をむけて自分の殻に閉じこもってしまう」のでもない、そのどちらでもない第三の道、すなわち「競争に挫折することを契機に、自分の生き方について考え抜く」道を選んでほしいと思うのです。今年の「贈る言葉」はそんな気持ちの結晶です。

 私はここで、あえて「競争」の悪弊を強調しておきたいと思います。もちろん「競争すべてが悪いのではなく、健全な競争には存在意義がある」という考え方もありますが、その議論は別の機会に譲ります。なぜなら私は、「競争に勝つことが評価される社会は、必ず差別と抑圧を生む」ということを、まず第一にしっかり考えてほしいからです。
 競争社会にどっぷり浸かり、競争に勝つことにのみ生きがいを見いだし、うまく競争に勝ち続けた人間は、必然的に「自分は優れた人間だ」と思い込むようになります。あるいは、何度か敗北を味わったとしても競争それ自体を疑わなかった人間は、自分より劣っている存在を見出して、「自分は彼らよりはまともな人間だ」と思い込むようになります。他人を優劣の上下関係という物差しでしか処理できない人間は、絶対に他人を「同じ仲間」としては認識できません。自分と違って競争に勝てない者、競争に勝とうと努力しない者を蔑んだり(さげすんだり)、邪魔者扱いしたりすることになってしまうのです。そこに差別と抑圧が生まれます。私は、昨今の政治・社会の弊害状況の多くは、この競争原理が生み出した差別と抑圧のメカニズムの影響が大きいと感じています。

 たとえば最近の国内問題でいえば、仮設住宅問題もその一つではないでしょうか。つい先日、東日本大震災から満6年の節目を迎えましたが、いま被災地では仮設住宅での長期避難生活が大きな問題になっています。戦後まもない1947年に制定された災害救助法には、「仮設住宅は応急措置ゆえ原則2年」という趣旨の規定があるそうですが、実はこれが壁になって、被災自治体がある程度長期間の避難生活に耐えられるような仮設住宅を建設したくでもできないそうです。町の復興が進まない中で災害公営住宅の建設も自宅再建も進まず、多くの被災者が劣悪・狭小な仮設住宅での厳しい長期生活を強いられています。また災害救助法は、仮設住宅の代わりに賃貸住宅の借り上げを容認してはいるものの、厳格に仮設住宅と同レベルの物件しか代用を認めていないため、このままでは、次に大きな災害が起きた時に、仮設住宅・賃貸住宅が大幅に不足し大変な事態になるということが予想されます。既に阪神淡路大震災のときから、専門家たちは、災害救助法を改正して被災者や被災地の個々の状況に応じた柔軟な制度、長期的な視点に立った避難と復興のしくみを作っていくことの必要性をずっと訴えているのに、内閣府の高級官僚たちは未だに法律の改正にまったく関心がないようです。
 私はこのことを知り、競争に勝利した者のもつ冷酷さに、怒りを通り越して諦めさえ感じました。「内閣府の高級官僚になるような人は、大部分は難関大学を優秀な成績で卒業したような秀才ばかり。幼いころから優等生で通ってきて、敗北や挫折の経験がほとんどなく、それゆえ名もない被災者が具体的にどんな暮らしを強いられているかには関心がもてないのだろうなあ。彼ら自身が被災者になってみて、官僚として墨守してきた法律が彼ら自身の生活を苦しめることを身に染みて理解しないことには、たぶん何も変わらないのだろうなあ」と。彼らの「優秀さ」が、社会の中で助けを必要としている人々のために用いられていないことが、この国の最大の不幸だと私は思います。

 ですから私は、「競争に勝つことに生きがいを見出すな」と敢えて言いたいわけです。競争は社会における物事の決め方の1つに過ぎません。競争の限界を認め、皆が「勝利が良いことで、敗北・挫折はみじめなことだ」という競争原理の価値観そのものを克服しなければ、皆が幸せになることはできません。競争原理の価値観を克服するために必要なことは、私たち自身が競争原理に対抗できる価値観を獲得することです。それは「競争に背を向ける」ことではなく、むしろ逆に「競争に批判の目を向ける」ことなのです。それは決して「敗北」ではなく、(哲学の用語でいえば)「弁証法的発展」なのです。
 「挫折を経験し涙を飲みながら一生懸命考えぬ」いた結果、競争の非人間性を見抜き、「悔しさを乗り越えて自分の足で立」った者だからこそ、自分と同じように小さな存在である他者を同胞として受け入れることが可能になるのです。それは「逃げ」ではなく、私たちが本当に人間として生きるために必要な共通の精神的土台だ、と私は思います(ちなみに宗教では、それを「神との出会い」などと表現しますし、その結果可能となる新しい人間関係を「実存的交わり」と表現する哲学者もいます)。多少なりともそういう過程をくぐり抜けてこそ、「本物と偽物を見分ける眼力」が養われるのではないでしょうか。

 さて、この「贈る言葉」を脱稿したあと、アメリカではトランプ大統領が誕生しました。私に言わせれば、トランプ氏は競争原理から抜け出せず、勝利しか眼中にない「お調子者」の代表です(つまり「偽物」ということ)。そんな彼と、そのトランプ氏に尻尾を振る安倍首相の態度をニュースで見ていて、早くも来年の「贈る言葉」の候補が浮かびました。もちろん来年このまま使うかどうかは未定ですが、一応それを紹介して終わりたいと思います。
 「偉い人」にペコペコするな。「偉い人になろう」と思うな。「偉くなる」とはどういうことか分かっていない人間が「偉く」なると、暴君になる。「地位が低」くても卑屈になるな。「地位の低い者」をバカにするな。それはイジメである。「人間は皆ちっぽけな存在である」ことを肝に銘じて、「真実・正義・友愛を大切にする人」とともに歩め!
 毎度同じような言葉ではありますが、私が毎年こんな小言を書かなくてもよいくらい、まともな世の中になってほしいものです。


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2017年03月05日

巨悪と闘う男たちを描いた3本の映画

 ふだん映画館に足を運ぶ機会の少ない私が、珍しく4日間に3本の映画を立て続けに観ました。でも、いずれも従前から観たいと思っていた作品ではありません。近日中に観ようと思っていた別の作品の上映期間を確かめていたところ偶然に知った作品と、市民活動の会議中に勧められた作品です。でも内容が内容だけに、将来DVD化されないかもしれないので映画館で上映されている間に観ておかなければと思い、文字通り仕事の「合間を縫う」ようにして観て回りました。

 観たのは順に
 『アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男』 >>公式サイト
 『スノーデン』 >>公式サイト
 『「知事抹殺」の真実』 >>公式サイト
の3本です。時代も舞台もバラバラですが、ご存知の方はピンとくると思います。結果的に「巨悪と闘う男たち」を描いた作品ばかりとなりました。急いで観て回った作品がそういう作品ばかりだったとは、後で気づいて自分でも笑ってしまいました。

 1本目の『アイヒマンを追え!』は、1950年代の末にドイツ・ヘッセン州の老検察長官フリッツ・バウアー(実在の人物)が、ユダヤ人絶滅政策を遂行したナチスの重要幹部アイヒマンの潜伏先情報を入手し、イスラエルの諜報機関モサドと秘密裏に連携しながら、アイヒマン拘束に至るまでを描いたドラマ作品です(アイヒマンはその後イスラエルで裁かれ絞首刑に処せられた)。アシスタント的存在の若手検察官は架空の登場人物だそうですが、基本的には史実に沿って作られているようで、圧巻でした。当時のドイツの政権内部には元ナチスの関係者がたくさんいました。それゆえ一つ間違えばユダヤ人出身のバウアー自身が国家反逆罪で葬り去られかねない危険な状況だったのです。そんな中で、バウアーがアイヒマン追跡という難しい仕事を不撓不屈の精神で完遂したことを知って、大いに感動したところです。
 私は、以前から「アイヒマン裁判」(やこの裁判に関するハンナ・アーレントの業績)について少々のことは知っていましたし、1950年代にはまだ保守的だったドイツが1960年代になってアウシュビッツの史実を知った多くの若者たちの行動をきっかけに民主化が進んだことも一応は知っていました。でも恥ずかしながら、自分が授業で紹介している「ナチス犯罪追及センター」の設立や、その青年たちの行動の契機となった1963年の「フランクフルト裁判」の実現にも実はバウアーの努力があったということまでは知りませんでした。この作品で、今まで私の頭の中でバラバラに存在していた出来事が「バウアー検事長」という共通項で一つにつながったわけで、私としては大いに学びを深めることになりました。

 2本目の『スノーデン』は、2013年にアメリカ国家安全保障局(NSA)職員として得た膨大な国家機密情報をマスコミに暴露して、アメリカ政府が違法に世界中の市民を監視して大量の個人情報を収集している実態を内部告発した、いわゆる「スノーデン事件」を描いたドラマ作品です。もちろん脚色が入っていますが、おおむね史実に沿って作られているようで、アメリカ政府の(「国防」を口実にした)市民監視と情報収集のひどさがよくわかる作品になっています。
 もちろん「国家機密を暴露することは、それがどういう目的であれ許されない」という考え方もあるでしょう。映画はそういう考え方も意識してか、スノーデンをただ単なる英雄に仕立てあげてはいません。素朴な愛国心をもちリベラルな価値観に距離をおく青年が、過酷な軍隊経験に挫折したあと、頭脳で国防に貢献する理想を追い求めているうちに、自分が開発したプログラムが戦争やプライバシー侵害に悪用され、さらには自分自身までもが監視対象にされていく現実を目の当たりにして、自由と民主主義の精神に反逆する国家を告発するために国家に反逆せざるを得なくなっていく、その変化の過程を克明に追っているだけです。しかしそこから伝わってくるのは、健全な批判精神の大切さです。その意味で現代人必見の1本と言ってよいでしょう。

 3本目の『「知事抹殺」の真実』は、2006年(第一次安倍晋三内閣の成立直後)に「引責辞任」した福島県知事・佐藤栄佐久氏の「収賄事件」に迫ったドキュメンタリー作品です。実は、この「収賄事件」は佐藤知事にとって完全な冤罪であって、真相は、原発から県民の生命と安全をまもるために東電や政府と深く対立していた知事を排除するため、検察当局ひいては日本政府によって仕組まれた陰謀だったことを明らかにしようとしています。
 映画の中でもそういうコメントが出てきますが、確かに、もしも佐藤氏があと1期知事を務めていたら、「3・11」が起きる前に福島原発の安全対策が万全に行われていたかも知れません。そう思うと、どんな手段を使ってでも原発政策に抵抗する者を排除しようとしてきた日本政府の病根の深さにつくづく溜息が出ます。
 唯一の救いは、命がけで修羅場をくぐり抜けてきた佐藤氏が、本当の敵を見失わず、ますます意気軒高であるところです。裁判で自分を有罪に陥れる虚偽の証言をした元土木部長と、たまたまハイキングに出かけた山の中で不意に遭遇したときも、「彼もまた(国家権力の)被害者」と受け止めて、復讐に及ぶようなことをしなかったというところにも、佐藤氏の良心をみた思いがしました。

 さて、この3本に共通するのは、まさに「巨悪と闘った男」の雄姿ですが、私はいずれも、現在の日本を生きるうえで大きなヒントと教訓を与える作品だと思えてなりません。戦後70年を過ぎた日本は、再び「国家の安寧秩序を守るためなら国民の自由や権利などどうでもよい」という考え方の政治家や官僚たちに牛耳られつつあり、そういう動きをきちんと封じ込めるためには、政府に対する批判と抵抗の精神をもつことがますます必要になっているからです。
 それはまさに「テロ等準備罪(いわゆる共謀罪)」の創設をめぐる昨今の論議にも表れているのではないでしょうか。「東京五輪に向けてテロを防止するために必要な法改正だ」と安倍首相に言われれば、多くの国民には「ありがたく」聞こえるかも知れませんが、でもよく考える必要があります。規制の対象は「テロ」だけではなく「テロ等」となっているのですから、その意味では、政府にとって都合の悪いことは何でも規制の対象にできるわけです。たとえば一昨年秋に、戦争反対という気持ちで「安保法制反対」の国会前行動に集まった多数の人々がいましたが(私も参加しました)、安倍首相たちがその行動を「組織的な威力業務妨害」だと解釈すれば、それも「テロ等」になりかねないわけです。しかも「テロ等の準備をした」という理由で逮捕するには、その前から監視していなければなりませんから、「証拠集め」のために、関係者のみならず、その友人だの親戚だのという形で、あらゆる人物・団体を盗聴・盗撮することが広くまかり通ってしまいます。
 政権政党やその政治家が、自分に反対・抵抗する目障りな人物・団体(マスコミや労働組合なんてその代表でしょう)をいつでも排除できるように、常日頃から警察関係の機関に命じて、秘密裏に、善良な市民を巻き込んで、あらゆる通話やネット通信を監視させて、あるいはハッキング技術を駆使してパソコンやスマホのカメラやマイクを密かに起動させて、「証拠」を収集するために盗撮・盗聴するなんて、簡単です。これはまさに『スノーデン』の世界です。もしそんなことになったら(いえ、もう既にそうなっているのかも知れませんよ)、「思想・表現の自由」なんて絵に描いた餅になってしまうでしょう。
 昨年秋には、原発再稼働に批判的だった新潟県の泉田知事が突然「謎の辞職」をしました(幸い継承派の候補が再選されましたが)。同じころ脱原発を掲げて当選した鹿児島県の三反園知事も、あっけなく川内原発の再稼働を認めてしまいました。これらの出来事は、何が何でも原発を再稼働して利益を確保しようとする「原子力ムラ」という巨悪(政府・大手電力会社・関連企業・研究者の集合体)に対して、地方自治体が県民の生命と安全を第一に考えて反対し続けることの難しさを示しています。その意味では『「知事抹殺」の真実』は過去の出来事ではなく、現在進行形なのです。
 このような時代にあっては、私たち一人ひとりが、不撓不屈の精神で巨悪に立ち向かわなければなりません。私たち一人ひとりが、バウアー検事長のような正義感(そのひとかけらでも)をもたなくてはならないということです。そのような「英雄」の出現を安易に待望するのではなく、自分自身がそれぞれの生活の場で第二・第三のバウアーになったつもりで行動しなければならないということです。人権と平和と健全な民主主義こそ人類にとって最高の価値であり、それに反逆する存在は、たとえ政府といえども官僚といえども、「テロ集団」であるという価値観に立たなければなりません。それが「主権者である」ということの意味なのです。

2017年02月12日

失敗を失敗と認めることの重要性 〜今年の「とよティー・ワールド」授業実践報告〜

 今年度も3年生の「倫理」の授業は1月末日をもってすべて終了しました。今年度も年末までに教科書を終わらせ、1月はセンター試験をはさんで恒例の「とよティー・ワールド」と称するオリジナルの授業を行いました。
 基本的な枠組みは従来と同じで、畑村洋太郎氏が提唱する「失敗学」のパラダイム(とりわけ「失敗したときに私たちはどう行動すべきか」=私はこれを「失敗倫理」と名付けています)に従って日本の戦後処理を考えていくという内容がメインでしたが、今年は昨年の実践にいくつか改善を施してみました。

 第一の改善点は、順番を入れ替えて、さだまさし氏の歌『償い』を「失敗学」のビデオを見た直後にもってきたという点です。昨年度までは、日本とドイツの戦後処理の違いを説明した後で、仕上げの意味で『償い』を聞かせていました。この歌に登場する交通事故の加害者「ゆうちゃん」が被害者「奥さん」に対して非常に誠意ある行動をしている様子が、ちょうど日本の戦後処理とドイツの戦後処理の違いを理解するのに効果的だと考えていたからです。
 しかし昨年、その順序で授業すると、結果的に「日本はドイツと同じような戦後処理をしなければならない」というメッセージの押しつけになる危険があることに気づきました(そのきっかけを与えてくれたのは、非常に真面目で勉強熱心な一人の男子生徒からの指摘でした)。ドイツの戦後処理は日本に比べれば遙かに優れているのですが、それでもドイツの戦後処理が完璧というわけでもありません。例えば東西分裂の影響で国家賠償が後回しになってしまったことや、強制連行の被害者に対する補償が長期間にわたって行われていなかった点など、理想を言えばドイツの戦後処理にも不十分なこと(や外交上の妥協の産物と言えなくもない点)があります。確かに「ドイツにはドイツの事情があり、日本には日本の事情がある」のです。むろん、だからといって「ドイツと日本を比較するのは間違っている」という後ろ向きな意見には賛同したくありませんが、その反面「ドイツの真似をすれば良い」という楽観論でもありません。ドイツのやり方を大いに参考にしながら、主権者の一員として日本に足りない点にもっとしっかり思考を向けるためには、授業が『償い』の歌で終わってしまっては尻切れトンボだ、と思うようになったのです。
 そこで今年は、「失敗倫理」を当てはめる失敗を「六本木ヒルズの回転ドア事故」から「戦争」に向け変えていく際の中間ステップとして、身近に起きる失敗として交通事故をとりあげ、そこで『償い』の歌を聞かせることにしてみたわけです。いろいろな失敗場面でどのように「失敗倫理」が生かされているかを検証する過程の中で『償い』を取り上げたほうが、失敗への向き合い方の一例としての「ゆうちゃん」の行動が、後で戦後処理の問題を考えるときにスムーズに参考になるのではないか、と考えたわけです。

 第二の改善点は、「戦争」を失敗ととらえる視点をしっかり強調したことです。よくある誤解なのですが、私は「負けた」ことを「失敗」と言っているのではありません。勝敗に関わらず「戦争」になってしまったこと自体が「失敗(=失政)」である、と考えているのです。この点は「失敗倫理」を当てはめるうえで重要なところです。「負けた」ことが失敗だという捉えかたをすると、失敗倫理の上では「では次に勝つためにはどうすべきか」という話になってしまいます。しかしそれでは「武力による紛争解決をしない」という戦後日本の決意を否定してしまいかねません。例えば、広島の原爆慰霊碑に「安らかに眠って下さい、過ちは繰り返しませぬから」と刻まれている言葉の「過ち」とは「敗北」のことではありません。「戦争」そのものを「過ち」と表現しているのです。

 第三の改善点は、「とよティー・ワールド」の核心である「戦後処理を考える」段階の導入に、中国における遺棄毒ガス被害事件(2003年に起きたチチハル8・4事件)の具体的な中身と、被害者(牛海英さん)の証言に触れる時間を設定したことです。
 昨年度までの授業では、こうった具体的な事件や被害証言はありませんでした。そのため「顔」が見えない授業になっていました。そういう状態で「謝罪や賠償は十分に行われているか?」という問題を考えようとしても、思考の中身は抽象的なレベルにとどまってしまいます。ナチスの被害者でもあるユダヤ人哲学者レヴィナスが、倫理とは顔が見える相手への応答責任だという趣旨のことを述べているように、具体的な事例を踏まえて考えることが必要だと思ったのです。この改善のきっかけは、昨年静岡で開催された全国教育研究集会でした。「平和と国際連帯の教育」分科会で、全国の意欲的な先生方の実践報告に触れて、「顔が見える」ことの大切さに改めて気づかされたのでした。
 なお、具体例として「遺棄毒ガス事件」をとりあげたのは理由があります。最初は南京大虐殺や慰安婦の被害者証言を読むことを考えて、いろいろ教材を準備してみました。慰安婦問題については、ちょうど今ソウルとプサンの「少女像」をめぐって日本と韓国の政府が火花を散らしていますので、そのニュースの背景を学ぶことにもなって一石二鳥かと考えたからです。しかし他方で、南京大虐殺や慰安婦には、ご存知の通り多様な論争があります。それらの論争を真正面から説明している余裕はありません。かといってそれらの論争を避けたところで、生徒たちが純粋に南京大虐殺や慰安婦の出来事を「失敗」として受け止めてくれるかどうか不安です。そこで、いろいろ思案した末、おそらく生徒たちにとって初めて知るであろう事実、しかも今世紀に入ってから起きた事件で現在なお多くの被害者が苦しみ続けており(純粋な過去の話ではない)、日本政府も多少なりと反応した経緯がある(つまり大きな論争が起きていない)事件として、遺棄毒ガス事件をとりあげたほうが、問題の本質をとらえやすいのではないかと思ったのです。
 結果的には、私が予想した通りに、生徒たちは誰も遺棄毒ガス事件のことを知りませんでした。牛海英さんの悲痛な体験談を読んで、生徒たちはみんな息を飲み、自分たちに何ができるかを真剣に考えようとしていました。中国では大きく報道されている事件が日本ではほとんど知られていないという事実! それだけでも、歴史認識をめぐって日本と中国に深い溝があることが実感できたようです。

 そして改善点の第四は、上記の第二点とも関連するのですが、『償い』の歌が抜けたことで空いたコマ(戦後処理問題を扱う最終回)で、白井聡氏の『永続敗戦論』を紹介したことです(マンガ版の一部をプリント配布)。ご存じのように白井氏はこの本で、要するに「日本は敗戦した事実を未だに正面から認めていない(敗戦の否認)。そしてそのことが、一方では近隣アジア諸国に対する高慢な態度と、他方ではその日本を受容してくれるアメリカに対する盲従につながっている。それゆえ日本はいつまでも敗戦を克服できないままになっている(永続敗戦レジーム)」というふうに戦後日本をとらえています。この議論を「失敗倫理」的に翻訳すると、「ドイツのような戦後処理ができないのは、日本がそもそもあの戦争を失敗と思っていないからだ」ということになります。「失敗」を「失敗」と思っていないのであれば、「失敗に向き合う」ことは出来ないし、まして「償う」ことも出来るわけがありません(この点は、実は岡本茂樹氏の『反省させると犯罪者になります』とも共鳴すると私は思います)。もちろん白井氏が示す理解のしかたが正しいかどうかは、最終的には生徒たちがそれぞれに決断すべき問題かもしれませんが、戦後日本が何か「大切なところで道を間違え」(さだまさし『風に立つライオン』の一節)ている可能性はないか? それを問題提起して授業を終わってみてはどうだろう、と考えたのです。

 以上のほか、グループ・ディスカッションの題も大幅に見直すなど、細部にもいろいろ改善を施した結果、今年の「とよティー・ワールド」の授業は、昨年度よりボリュームが少し増えましたが、そのぶん水準も向上した、と自分では思っています。ただし、いつものことですが、年明けのセンター試験をはさんだ約3週間、しかも午後の授業が一部カットされる短縮型の時間割の中で、じっくりと時間をかけて学びを深めることはきわめて困難でした。そのため今年の「とよティー・ワールド」では、昨年度まで良心的兵役拒否を説明した後で聞かせていた『あと1マイル』の歌は、断腸の思いで省略せざるを得ませんでした。戦後処理問題を終えた後の冤罪問題と、恒例の内村鑑三『後世への最大遺物』の輪読も、わずかに数分ずつしか時間がとれず、本当に駆け足になってしまいました。その点がとても残念でした。

 授業の終わりに、生徒たちに、「(日本の戦後処理を学んだ)私たちはどう生きるか」というタイトルで感想文を書いてみるよう提案しました。時間の都合で全員から回収することはできませんでしたが、数名の生徒が提出してくれました。
その中の一人は、長い文章の中で、「重要だと私が思うのは、忘れない力だ。いくら失敗を認め、原因を究明したり責任を追及しても、それらを忘れてしまっては意味がない。これは戦後日本のこれからを担う私たちにとって欠かせないものだ。日本が戦争で行ったことを失敗だと認め、またそれを後世の人々が忘れないように、多くの人々に真実を広め、形に残していくことが、私たちが行うべき倫理的な活動なのではないだろうか」と綴っていました。
 率直に言って、被害者に「償う」ことについて言及がなかった点、私は少し淋しく思いました。両親が直接の戦争体験者だった自分たちの世代とは違って、戦後70年が経過し戦争被害者がどんどん少なくなっている現状を、彼ら若い世代は敏感に感じ取っているのかも知れません。でも、「忘れてはいけない」ということをしっかり心に刻み付けてくれたことは救いです。安倍首相は2015年の戦後70年談話で「戦争に関係ない世代がもう謝罪をしなくてよいようにする」と述べました。表向きの意味とは違って、そこには「もうそろそろ忘れてもいいのではないか」という意識が見え隠れしています。でもこの生徒のメッセージは、安倍首相の言葉に対するアンチテーゼになっていて、大いに勇気づけられました。彼らの活躍が楽しみです。

 かくして、今年の「倫理」の授業は終わりました。これまでの実践に満足せず、来年もさらに磨きをかけていきたいものだと思っています。


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2016年2月15日 本当の和解とは何か 〜戦後処理と『償い』を重ねる理由〜

2016年12月31日

「アソシエーション(協同性)」実現のための精神

 1ヶ月ほど前になりますが、東京・渋谷の青山学院大学で「大塚久雄没後20年記念シンポジウム」が開催されました。大塚久雄氏(1907-1996)は、西洋経済史の大家で、マックス・ウェーバーの社会学とカール・マルクスの唯物史観の方法を用いて、近代市民社会=資本主義社会(と、その担い手となった近代的な人間類型)の生成過程について、精緻な研究を残したことで有名な学者です。
 大学時代の恩師がマックス・ウェーバーの研究者で、このシンポジウムで講演をするということもあり、上京して参加してきました。会場となった建物に入るなり教え子の卒業生と遭遇したり、シンポジウム会場内でも偶然に学生時代の友人と数年ぶりに再会するなど楽しい旅となりましたが、それ以上にこのシンポジウムは私に久しぶりにアカデミックな刺激を与えてくれました。なかでも最も刺激に満ちていたのは、東京大学教授の小野塚知二氏の講演でした。小野塚教授は、おおむね次のようなお話をされました。
 近代的人間とは、絶対者(=神)の前に独立する自律的な存在ということになっているが、現実の人間は唯一人では生きていけない。生きていくために必要な仕事を為すために、効率的・目的合理的に他人と協同していく必要がある。しかし歴史を顧みると、この「協同性(アソシエーション)」は未だに実現したことがない。
 近現代社会においては、自由な諸個人が(単なる仲良しクラブではなく)協同で何かを効率的に実現しようとするならば、そこには必然的に機能的な指揮命令関係=支配服従関係が発生する(これを小野塚氏は「労指関係・労支関係」と名付ける)。生産労働の現場はもちろんであるし、大塚久雄氏が評価していた『ロビンソン・クルーソー』の話の中でさえ主従関係は存在した。またユーゴスラヴィアでは労働組合による自主管理企業も「労指関係・労支関係」を克服することはできなかった。
 また「協同体」は、ほんらい自立・自律した個人の集まりであるはずなのに、他方では協同体それ自体が個人を統制し個人の自由を抑圧する装置に化けるという矛盾も生み出してきた(英国サッチャー政権が労働組合を攻撃する口実ともなった)。
 このように「自立・自律した諸個人の自由な協同性」は、「共生」「連帯」「ネットワーク」などと様々に言い換えられながら、未だ実現したことのない夢のままである。なぜ協同性は失敗しつづけてきたのか?
 私たちは、 屬茲蠅茲し覯漫廚魑瓩瓩詭榲合理性や「飽くなき欲望」は社会を牢獄に変え、労指関係・労支関係を必然的に生み出すこと、∋笋燭舛亮匆颪砲蓮◆崋由・平等・友愛・平和」という理想に対して「抑圧・支配・競争・闘争」という反理想が、(人間の本質に由来するのか社会構造に由来するのかは不明だが)明らかに作用していること、そんな中で「想像の共同体」としてのネーション(国家)が根強い影響力を持ち続けていること、ぜ他二分法(自分か他人かという二律背反の考え方)に基づいて、個人の利益に少しでも反する協同性を常に攻撃対象にしようとする価値観が存在していること…などを忘れているのではないか。
 この講演を聴きながら私は、以前から何となく肌では感じていながら敢えて正面から議論するのを避けてきた問題について、ズバッと斬り込まれたような刺激を受けました。「労働者が人間らしく生活できる社会」の実現をめざして活動しているはずの労働組合でさえ本当の協同体(アソシエーション)になっていない、という指摘は、いちおう労働組合の役員をしている自分自身にとって厳しい指摘でした。
 確かに現代社会においては、あらゆる職種の職場で上司と部下の間に多かれ少なかれ指揮命令=支配服従の関係性が存在します。教育現場においても教師と生徒との間には多かれ少なかれ指揮命令=支配服従の関係性が存在します。完全に自立・自律した自由な諸個人の協同性だけで成り立つ社会を理想と考えるなら、それは確かに永遠の「夢」かも知れません。そもそも現実の人間には知力面でも体力面でも格差がありますし、人間社会は経験豊富な先達の知識や技術を後継者に伝えていく営みを欠かすことはできませんから、その意味でも「労指関係・労支関係」を完全になくすことは不可能でしょう。

 私は、この講演を聴きながら、数か月ほど前にあった飲み会で、実業高校に勤めている一人の教員が、「言われたことしかできない人間も世の中には必要なのだ。単純労働を嫌がらずに続けられる人間がいるからこそ、世の中は回っているのだ」という趣旨の発言をしていたのを思い出しました。どんな人間にも「適所」があるという趣旨で、悪意はありません。さまざまの職業(あるいはその訓練機関としての学校)に上下の序列をつけること自体が間違っている、という文脈の議論の中での発言だったのです。私はその発言を聞きながら、「それは役割分担の平等性ということだな」と理解してはいたのですが、自分の心の中でそれ以上前に進めないでいました。でも小野塚教授の講演を聴いて、そのときの教員の発言と小野塚教授の問題提起が結びついたのです。

 私は、この講演を聴いた後、旧友とわかれて新幹線で帰宅するなか、小野塚教授の問題提起は、「労指関係・労支関係を消滅させるために何が必要か」という意味ではなく、「仮にそういう関係性があってもそれが個々人の利益と相反しないようにするにはどうしたらよいか」という意味ではないかと考えました。そして、その意味においてであれば、何か答えが出せるのではないかと思いました。
 もとより私は専門家ではなく、飽くまでも「素人考え」に過ぎないのですが、それでも私なりにいろいろ考えた末の結論は、やはり「契約」の精神の復活ではないかということです。その契約とは、文学的に表現すれば、一つは「神との契約」であり、もう一つは「他者(あるいは協同体)との契約」です。「神との契約」とは「自分自身を含めて一切の存在を神にしない(被造物神格化の拒否)」ということ。つまり協同体といえども(国家といえども)実在する個々人の生活に不合理な制限を加える権限をもたないという(人々の間の)合意であり、一方「他者(あるいは協同体)との契約」とは、「自分自身を含めて一切の存在を奴隷にしない」ということ。つまり実在する個々人の協同体(や国家)への関わりは、常に一定条件の下における限定的なものに過ぎないという合意です。
 これは、宗教改革者ルターの『キリスト者の自由』冒頭にあるテーゼ(「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、何人にも従属しない」という命題と「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕(しもべ)であって、何人にも従属する」という命題=一見矛盾する2つの命題)をヒントにしたものです。ルターに続く宗教改革者のカルヴァンも基本的にこの考え方を踏襲していますし、ウェーバーの分析によれば、カルヴァンが「職業労働による隣人愛の実践」を説いたことが近代資本主義経済の土台となったわけですから、現代社会におけるアソシエーションについて考えるときに、宗教改革の精神に立ち戻ることは無駄ではないのではないでしょうか。小野塚教授がいう「アソシエーションの失敗」は、近代社会の土台にあったはずの精神が忘れられたために起きた現象ではないか。私はそんなふうに考えてみたのです。
 現代社会に引き寄せれば、これらの「契約」は、憲法あるいは法律の制度によって(完全とは言えないまでも)徐々に整備されてきていると見ることができます。例えばすべての労働者が労働基準法によって守られているならば、少なくとも過労死あるいは過労自殺といった悲劇は起きないはずです。その場合「労働基準法」は、社会を構成する基本的な思想のレベルにある「実在する個々人の協同体(や国家)への関わりは、常に一定条件の下における限定的なものに過ぎない」という合意、すなわち個別具体的には「際限なく働き働かせる関係性を否定する契約」の具現化と解釈することができます。
 じっさい最近はいろいろな働き方が生まれています。フレックス・タイム制は以前から可能になっていますが、最近ではパソコンの発達で在宅勤務(テレワーク)も広がっています。大阪には3年前から「出勤するか休むか、いつ出勤していつ退勤するか、事前連絡不要の完全自由労働制」という食品工場まであるそうです。このように自主性を重視した制度にしたことでかえって効率がよくなり業績がアップしているというのですから驚きです(11月23日の朝日テレビ「報道ステーション」より)。もちろんすべての企業が成功しているわけではないでしょうが、安倍政権が「働きかた改革」の音頭をとる前から、度重なる過労死・過労自殺を契機に、かつて「社畜」とまで呼ばれた労働者と使用者の関係は、いま少しずつ変わる兆しを見せているのです。

 社会の根本に、暗黙の合意としての「契約」があるという発想は、「社会契約説」の思考法です。17世紀イギリスのジョン・ロックが提唱した社会契約説は、名誉革命やフランス革命、そしてアメリカ独立に大きな影響を与え、近代市民社会の基本原理となっています。「日本国憲法」にも、実は社会契約説の考え方が活かされています。戦後アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズは、健全な民主主義社会を形成するための条件として格差の解消に焦点を当て、「公正としての正義の原理」を提唱しましたが、彼の思考のベースにあったのも社会契約説でした。
 行き詰まりを見せている今こそ、現代社会の基本構造を形成している根本思想をもう一度洗い直し、確認することが必要なのではないでしょうか。「大塚久雄シンポ」を受けての私のささやかな感想です。

2016年11月06日

「社会主義」に対する誤解を解く必要

先日、私のウェブサイトの読者から1通の匿名のメールが届きました。
 こんばんは、突然すみません。
 戦争被害者への謝罪と補償を読みました。日本とドイツを比べてる文章(Q4)を読み少し疑問を持ったので、メールさせていただきました。読んでいただけたら幸いです。
 私は、まず日本とドイツは比べるべきではないと思います。ドイツ(民主主義)のナチス・ヒトラーは国民の選挙で選ばれたのに対し、当時の日本はほぼ軍が独占してました。つまり、私が言いたいのは、ドイツは近隣諸国に補償金を支払っていますが、国民の責任はどこにいってしまったのでしょうか? 日本は国民に責任はありません。
 二つ目にドイツの近隣諸国はキリスト教、日本の近隣諸国は韓国(何年か前に民主主義になりましたが…)や中国やロシアは社会主義です。つまり物事の考え方が違うのです。ドイツは考え方が近いため、腹わって近隣諸国と話ができましたが、日本の場合、尖閣諸島や竹島などその他もろもろ、腹わって話せる状態ではないと思います。今でも耳をふさがせているのは近隣諸国だと思います。
 以上より、私は日本が正しい、とも言いきれまんし、ドイツが正しいという意見もおかしいと思います。以上です。ありがとうございました。
 私は、読者からのメールには応答しないことが多く、特に誹謗・中傷の類は無視しています。しかしこのメールは、私のウェブサイトの内容に対する批判ではあるのですが、真面目に考えている姿勢が想像され、好感を覚えました。ジャーナリストの池上彰氏がよく使うセリフでいえば「いい質問ですね!」というところでしょうか。そこで、私は珍しく応答することにして、次のように返信しました。
 先日のメール拝読しました。ご意見ありがとうございました。
簡単で申し訳ありませんが、お答えしておきます。
 1)私は、現在の日本国民は戦前の日本(大日本帝国)の過ちについて責任を負う立場にあると考えます。大日本帝国の戦争責任は第一義的に天皇と軍部にありますが、戦後の日本は(天皇に政治的権能がなく軍部もないため)、国民がそれを引き継いでいると考えます。
確かに、ドイツの場合、戦争責任は第一義的にヒトラーとナチ党にあります。そして彼を選挙したという意味で国民にも責任があります。
 これに対して、日本の場合、戦争指導者は天皇と軍部で、国民が選挙したわけではありません。しかし当時のほとんどの国民は、(現実には極めて困難だったという面はあるとしても)天皇や軍部に積極的に反対したわけではなく、天皇や軍部と一体化し、あるいは騙され、あるいは追従していた面もあるわけですから、当時の日本国民にまったく責任がないというのは正しくないと思います。
 しかし、今ここで問題なのは、戦前の日本国民にどのような責任がどの程度あるかという議論とは別に、戦前日本の責任は戦後日本が引き継がざるを得ない以上、(そして天皇がそれを引き継げない体制を作り上げた以上)、第一義的には現在の日本政府が、そして結局は主権者である国民がそれを引き継いでいると考えるしかないということです。
 このことは、たとえばシベリア抑留や北方4島占領をしたソ連の地位を、ソ連崩壊後に成立した現在のロシアが引き継いでいるのと似ています。もしロシアがソ連を引き継いでいるのでなければ、いま北方4島を巡って日本政府がロシア政府と交渉する意味はありません。同様に、日本が中国大陸で交戦していたのは中華民国(資本主義=現在の台湾)ですが、戦後はその地位を中華人民共和国(社会主義)が引き継いでいます。

 2)私は、近隣諸国との間の「考え方の違い」は大きな問題ではないと思います。
 例えば、アメリカと日本は同じ資本主義国であり、いちおう友好的な関係にありますが、アメリカはキリスト教と西欧文化の影響が強い国ですから、日本と考え方がまったく同じというわけではありません。広島・長崎への原子爆弾投下をめぐって、日米では今でも正反対の「考え方」がありますし、日本国憲法は「押し付けられた憲法だ」と考える政治家がいるのも、日米の間には現実には大きな「考え方の違い」があるからです。
 また、資本主義国であった西ドイツは、(同じキリスト教文化圏とはいえ)社会主義国であった東ドイツと統一できました。他方、同じ社会主義で、ともに宗教を否定していた中国とソ連が、実際は対立関係に陥りました。
ですから、宗教や思想が違うから友好関係を構築できない、という理由づけは正しくないと私は思います。もちろん同じ宗教や思想であるほうが事は簡単かもしれませんが、本気で友好関係を構築しようとするならば、宗教や思想の違いを乗り越えるべく、本気で努力するのが正しい姿勢ではないでしょうか。
 なお、韓国は軍政の経験はありますが、社会主義国(東側陣営)になったことはありません。また現在のロシアは社会主義国ではありません。
 ご理解いただけますでしょうか。

 私たちが社会や人間について考えるときには外見や名前よりも中身を洞察することが重要だ、ということを、私は最近よく考えます。たとえば「社会主義国」を標榜している国の政治が、実際にはまったく「社会主義」的でないことがあります。他方、社会主義国とは位置づけられていない国が、実際には貧富の格差の少ない社会を実現しているということもあります。政党にも同じことが言えます。国内外の「共産党」が純粋に共産主義的に活動しているとは限りませんし、「自由」や「民主」という言葉を名称に使っている政党が本当に自由や民主主義を第一義にしているとは限らないのです。

 「倫理」の授業では今ちょうど「社会主義」の思想を扱う単元が終わったところです。特に社会主義に限ったことではありませんが、毎年、授業の前後で「社会主義」に対する印象が大きく変わる生徒は少なくないようです。
 教科書にも書かれているように、社会主義という思想は、18世紀後半以降の資本主義経済の発達に伴って生じてきた「人間疎外」という問題を、社会のあり方を変えることによって克服しようとする思想の総称です。たとえば巨大組織の発達によって一人一人の人間があたかも組織の歯車のように非人間的な労働を強いられるようになった結果、働く喜びを失い人間らしい暮らしができなくなってしまった社会を改め、人と人との豊かな結びつきを復興しようというのが思想としての社会主義なのです。この「人間疎外」の問題を克服しない限り、思想としての社会主義の存在意義が消滅することは無いだろうと私は考えています。
 しかし現実の歴史はこれとはまったく逆に進行しているように見えます。ソ連を始めとするいくつかの国が実際に「社会主義国」を建設しながら、実際には(東西冷戦のためもありますが)短期間のうちに軍事優先の恐怖政治に陥り、あるいは経済混乱を来して崩壊してしまっています(現在の北朝鮮はその典型でしょう。私は機会あるごと生徒たちに「今の北朝鮮は、社会主義でも共産主義でもなくて、戦前の日本と同じだよ」と言っています)。

 でも他方で、北欧はどうでしょうか。例えばフィンランドでは、貧富の格差が小さく、多くの国民が豊かな生活をしています。消費税は25%程度もありますが、そのかわり教育にも医療にもほとんど金のかからない福祉社会です。人口が少ないこともありますが、子どもが生まれれば1〜2歳ごろまで心配いらないほどの多種多量の育児用品と養育手当が政府から支給され、小学校から大学まで授業料も給食費も無料、大雪の日にタクシーを使って通学したらタクシー代も無料になるのだそうです。そんな話をすると、生徒はみんな驚きの声を上げます。
 一方でアメリカは「貧困大国」ですね。数年前のデータですが、ニューヨークでは盲腸で1日入院しただけで250万円近くもかかってしまうそうです。日本のざっと10倍です。そのためアメリカでは、大きな病気をして何日も入院したために破産に追い込まれる家庭も少なくないとか。社会主義を潰そうとした資本主義のリーダーであるアメリカは、いま「1%対99%」と表現されるほど貧富の格差の大きな社会になっているのです。
 「あなたはどちらの国に住みたいですか?」と私は生徒に問いかけます。あえて答えは求めません。それぞれが考えて答えを出せばよいのです。でも真面目に考えれば答えは1つしかないだろうと私は思います。これは「資本主義」か「社会主義」か、という名称の問題ではありません。

 国会では4日、「TPP承認案」が衆議院の特別委員会で強行採決されました。「明後日にも衆院通過」とマスコミは報道しています。「TPP」とは要するに、それに加盟する国々の間では貿易を完全に自由化しようという計画です。「自由化」と言えば聞こえはよろしいが、内実はそれとはまったく逆の結果になるでしょう。なぜなら、TPPがいう「自由」とは「強者の自由」だからです。もしTPPが現実になれば、『(株)貧困大国アメリカ』(堤未果著・岩波新書)に描かれているように、遺伝子組み換え大豆で大儲けをしているモンサント社などが日本の多くの農家を牛耳って極貧に追い詰めていくでしょうね。アメリカの大手の保険会社などが、いずれはISD条項を使って日本政府を裁判で追い詰めて医療保険制度をつぶしていくでしょうね。10年〜20年後の日本国民は、食や医療を始めとする多くの生活部面でアメリカ資本主義の論理に翻弄され、「地獄の沙汰も金次第」という状況に追いこまれていくだろうと私は想像しています。それでも国民は「自由」で「民主的」な政党に日本の未来を託するのでしょうかね。それこそ「冗談」じゃありませんよ。名称にだまされてはいけませんね。

2016年10月09日

疑うべき「当たり前」は、日常生活の中にもたくさんある

 私は、担当している3年生の選択「倫理」で、よく「当たり前を疑え」という言葉を口にします。世間一般で「それが当たり前」とされていることを鵜呑みにせず、ちょっと立ち止まって「本当にそうだろうか?」と考える習慣をつけてほしい、という趣旨で、機会あるごとにいつも言っています。

 先日も、モラリスト(モンテーニュとパスカル)とデカルトの授業の際に「当たり前を疑う」ことの重要性について語りました。モンテーニュは、かつて西洋でカトリックとプロテスタントが血みどろの宗教紛争を繰り広げていた時代(16〜17世紀)に、師とあおぐソクラテスの思想を基礎に思索を深め、「ク・セ・ジュ(私は何を知るか?=何も知らない)」という言葉を残しました。これは、私たちが物事について十分わきまえないまま決定的な判断をする傲慢を戒め、あらゆる事物について謙虚であることを求めた言葉です。教科書では彼のこの姿勢は「懐疑論の表れ」と評されています。
 「懐疑論」といえばデカルトの方法的懐疑が有名です。哲学の第一原理を見出すために、周囲の「当たり前」と思われている事柄を徹底的に疑っていった結果、「我思うゆえに我あり(=あらゆるものを疑っている自己の思考の存在だけは絶対に疑い得ない)」という真理に到達した、という話でした。
 もっとも、彼らは「疑いさえすれば良い」と言っているのではありません。「疑う」という行為の本質は、「当たり前」と思っていることが独断・偏見・差別などにつながっていないかを自己吟味するということにあります。疑った結果かえって間違った結論に陥るようなことがあっては本末転倒ですから、その点は注意が必要です。

 授業では、モンテーニュの説明を一通り終えた後で、「私たちが疑いもせずに“そうだ”と思い込んでいるような間違いはないだろうか?」というテーマでグループ・ディスカッションをしてもらいました。この課題は、どんなに忙しくても必ず考えてもらうようにしています。毎年いろいろな意見が出ます。数年前には「原発の安全神話」を挙げた班がありました。今年は、ある生徒が「世間ではイスラム教徒はみんなテロリストだと思われているけれど、大多数のイスラム教徒はテロリストではないですよね。先日もそのことで親とケンカしたんですよ」と発言して、教室中がどっと湧きました。
 このような「根拠のない(もしくは根拠薄弱な)思い込み」は、「尖閣諸島は日本の固有の領土だ」とか、「日本国憲法はおしつけられたものだ」とかいう政治的主張にとどまらず、もっと卑近な日常生活のあらゆるところにも存在しています。「テレビでそう言っていたから」とか、「アイドルがそうやっているから」というような曖昧な理由で鵜呑みにする態度を少しずつでも克服していかなければなりません。

 デカルトの授業の際には、彼の道徳論(自分の行動を常に何らかの原理から根拠づけようとした)に絡めて、次のような話をしました。
 多くの生徒が毎回の授業で配布されるプリントを紙製の簡易なファイル(フラットファイル)に綴じていますが、どういうふうに綴じているでしょうか。私はそこにも吟味が必要だと思います。ほとんどの生徒は、プリントを表向きにした状態で、前回配られたプリントの上に重ねて綴じています。この綴じ方を疑う人はほとんどいません。でも、その綴じ方で不便を感じることはないでしょうか? 例えば試験前に復習していて何か感じたことはありませんか? すると、ある生徒がそっと手を挙げて「試験前にプリントを復習するときに、ときどき順番がわからなくなってしまうことがあります」と発言しました。そう、私が言いたいのもそこなのです。
 「当たり前」の綴じかたをしていると、プリントが配布された順番に(つまり授業の進行に沿って)プリントを読み直そうとした際に、資料の続く方向と逆の方向に紙を動かさなければならない場面があります。具体的に説明すると、たとえば(横書きの資料という前提で)、両面印刷の資料や片面印刷でも紙を2ツ折にして綴じている場合ですと、1枚目の表ページから裏ページに続くときは紙を右から左に動かしますが、1枚目の裏ページから2枚目の表ページに続くときには、紙を左から右に2枚動かさなければなりません。2枚目の表ページから裏ページに続くときは紙を右から左に動かしますが、2枚目の裏ページから3枚目の表ページに続くときにも、紙をまた左から右に2枚動かさなければなりません。それって面倒ではないですか?
 これに対して教科書を読むときには、ページの繰り方は一方向です。常に右側の紙を左側にめくるだけです。ところが授業プリントを復習するときは、紙の裏面に続くときと、新しいプリントに続くときで、紙の動かす方向が変わってしまうのです。ページの変わり目で集中力が途切れてしまいかねません。「当たり前の綴じ方」は、あとで見直す必要がほとんどない資料を逐次的に保管するには適していますが、授業プリントのように後で読み直す必要があるような資料を保管するには不向きです。
 ここで頭を使わなければなりません。私は(たぶん高校生の頃から)、フラットファイルに資料を綴じるときには、ファイルの天地をひっくり返して、「当たり前」の綴じ方では「裏側」に相当する方向から、資料を裏向きにして綴じるようにしています。このように綴じると、自然に1枚目の裏ページの次に2枚目の表ページがくるように綴じられていきますので、後で読み直すときに紙を動かす方向が常に一定になります。集中力もほとんど削がれません。
 もっとも、このような綴じ方は一般的ではないので、たとえば仕事の引き継ぎで前任者からフラットファイルに綴じられた資料を預かると、まず間違いなく「当たり前の綴じ方」になっているので、少し不便を感じることがあります。また、自分が「逆の綴じ方」をした資料を次の担当者に引き継ぐと、相手に不便を感じさせることになるかもしれないと配慮して、引き継ぐ可能性のあるファイルはあえて「当たり前の綴じ方」をしておくことも少なくありません。
 それでも、私はファイルの綴じ方をいま一度吟味するよう生徒に提案しました。「ファイルはこう綴じるものだ」という固定観念に陥っていないかを考えることは大切なことだと思います。小さなことでも「なぜ自分はそのようにしているのか」、分かっているかいないかの違いは大きいと言うべきでしょう。「なんとなく」ではなく、自分の行動の理由や意味を意識するという思考態度を大切にし、日常生活の場面で発揮することによって、私たちは少しずつ独断や偏見や差別から脱することもできるのではないでしょうか。それが思想的・精神的に独立するということなのだと思います。
 生徒たちは真剣に話を聞いていました。多少は自分の勉強法を見直すきっかけにはなったかなと思いますが、どうでしょうか。

2016年09月11日

こういう時だからこそ「倫理」の学習を!

 先日、と言っても夏休み前のことになりますが、3年生の希望者を対象にした大学入試センター試験対策の「倫理」の課外授業で、ちょっと面白いことがありました。

 私が勤務している高校では、センター試験対策の課外授業が6月下旬から始まります。放課後や休日を利用しながら5教科の時間割が組まれ、年を越してセンター試験の直前まで続きます。私は、この課外授業の「倫理」も担当していますが、全期間を前半後半の2つに分けたうえで、前半は教科書の一部(現代社会の倫理的課題を扱う最終章)を授業し、後半をセンター試験の過去問演習に当てています。
 特に前半の授業編では、生命倫理・家族倫理・環境倫理・情報倫理・異文化理解・国際社会を生きる倫理の6分野にわたって、現代社会の一員として生きるにあたって考えるべき倫理的諸課題を扱っています。たとえば生命倫理においては優生思想の克服、家族倫理においては男女平等の実現、環境倫理においては次世代への責任の自覚、情報倫理においてはプライバシー保護への配慮、異文化理解においては自民族中心主義の克服といった点がそれぞれ重要な倫理的課題ということになります。

 その日は、前半の最後の時間で、国際的な人権保障について学ぶ単元を扱いました。教科書は、こういう分野についての記述は非常に薄っぺらで、あまり大切なことは書いていません。そこで私は、毎年オリジナルの教材を作って、一般教養程度の知識を説明するようにしています。
 具体的には、「国際社会を生きるための倫理」というタイトルで、
 ‘酲面簑蠅硫魴茲里燭瓩砲鷲鷲戮粒丙垢硫鮠辰必要であるという視点から、アマルティア・センの潜在能力論や、ムハマド・ユヌスのソーシャル・ビジネス論、あるいは中村哲医師のアフガニスタンにおける支援活動、コーヒーやオリーブオイル等のフェアトレードの取り組みなどを紹介し、「上から目線」ではなく「途上国の人々と共に生きる姿勢」の大切さを述べ、
 次に国際的な人権保障への貢献が必要であるという視点から、日本は国際人権規約を批准してはいるものの、一部の条項を留保していたり、個人通報制度や死刑廃止を定めた選択議定書はどれも批准していないこと、規約の遵守状況を監督している国際委員会から日本政府は何度も改善勧告がなされていること、それは女性差別撤廃条約や子どもの権利条約の場合でも同様であることなどを紹介し、
 さらに9餾殃刃造悗旅弩イ砲亙軸錣琉稻_修判霧困必要であるという視点から、ユネスコ憲章の冒頭部分やラッセル・アインシュタイン宣言以来、最近のオバマ大統領の演説に至る核兵器廃絶の主張と、それにもかかわらず最近国連で議論されている核兵器禁止条約の協議において被爆国日本が消極的な姿勢に終始していること、NGOが中心となってできた対人地雷禁止条約やクラスター爆弾禁止条約、また毒ガス兵器禁止条約などの各禁止条約が次々と作られているなかで、自衛隊はいまだにクラスタ―爆弾を保有しつづけていることなどを説明して、日本は、国際社会においては人権保障の面ではあまり優等生とはみなされていないことを話しました。
 これらの内容は、教科書にはあまり記載されていませんが、傍用の資料集にはだいたい記載されていますので、大学入試に出題される可能性もあります(じっさい数年前のセンター試験ではリード文に「フェアトレード」が登場した)。

 この授業が終わった直後、一人の女子生徒が私に近づいてきて話しかけてきました。「先生、私、倫理を勉強すればするほど、日本がとんでもない国であるように思えてきます。先生の授業を取っていなかったら、日本がこういう国なんだってことをずっと知らないでいたと思います。倫理って必要ですよね!」と。たまたま周りにいた生徒たちも「ほんと、ほんと」と同感の様子でした。
 この生徒はとても大切なことに気づいたな、と私は思いました。日本人として生きるということと、日本国(政府)をどう見るかということは別の問題です。日本人だからといって日本国(政府)に従順=無批判であってはいけません。主権者であるということは、そういうことです。この生徒は、一連の授業で国際社会から見た日本のありようを知ったことによって、自分自身の立場と日本国の立場がぴったり重なってはいないことに気づき始めたのだと思います。
 私は、「そういうことが分かってきたというのは良いことだね。でもね、倫理の必要性を感じている人って少ないんだよ。だいいち倫理は選択科目なので、すべての高校で倫理の授業が行われているわけではないからね。高校時代に倫理を勉強しないまま教員になってしまって、倫理をしっかり授業できない教員は沢山いるんだよ」と話しました。
 「倫理」を選択して1年間勉強した生徒の多くは「倫理」を勉強して良かったという感想を残して卒業していきます。中には「倫理はぜひ必修科目にすべきだ」という意見を書く生徒もいます。でも実際に「倫理」を選択する生徒は減少傾向にあります。

 しばらく前に私が勤務している高校で、来年度の選択科目の受講者数が発表になりました。日本全国どの高校でも、教科書発注の都合上、夏休み前には次年度の科目選択者数を確定しなければなりませんので、夏休み前にはその数が分かるのです。それを見て驚いたことに、来年度の私の「倫理」の選択者は今年度の半分以下になってしまうことが分かりました。3年前には100名近くいたのに、信じられない激減ぶりです。
 理由はいくつか考えられます。1つはセンター試験の「倫理」の問題が難化し平均点がここ3年で大きく下がっていることです。かつては70点程度あった平均点が今年は60点を下回って過去最低水準でした。もちろん、いわゆる難関大学が「倫理」と「政経」をセットで入試科目に指定するようになってから成績優秀な生徒が「倫理・政経」で受験するようになっていることの跳ね返りで、「倫理」単体の平均点が下がっている事情も影響していると思われます。でも、それ以上に、明らかに「倫理」の問題そのものが数年前より(私自身が受験生だったころに比べると格段に)難しくなっています。幸い私の授業を受けた生徒たちはそんな厳しい状況の中でも立派な点数を取ってきていますが、公表されている数字だけを見れば「倫理」は入試には不利な科目とされつつあるようです。
 2つ目の理由としては、私の「倫理」の授業ではグループ・ディスカッションをすることが多いので、一方的な知識注入型の授業に慣れている生徒は敬遠したくなるのかも知れません。授業でグループ・ディスカッションをするようになってから今年で3年目ですが、この3年間で目立って減少しているのです。そこで今年は例年以上に詳しい説明プリントを作成しました。「倫理」という科目でどんなことを勉強するのかをQ&A形式で具体的に説明し、将来のことも考えると文科系で大学進学予定の生徒はなるべく倫理を選択して勉強しておいたほうがよいという趣旨の文章を書いて2年生全員に配布したのです。ところが蓋を開けてみると、それがかえって仇になった形です。
 3つ目の理由は、英・数・国の重視です。2年生の担任団の先生方に事情を尋ねてみたところ、英語・数学・国語の主要3教科の学習時間を確保するため、理科・社会はなるべく選択しないように指導していたらしいということが分かってきました。私は「それは逆ではないか」と思いました。5教科をバランスよく学ぶうちに相互作用が働いて主要3教科の成績も良くなっていくものではないでしょうか。国語の試験の問題文に哲学的な内容の文章が使われる場合もあります。そんなときには倫理の教養が役に立つのです。でも、そういう脈絡を理解していない先生方は、英数国をバリバリやらせたほうが良いと単純に考えてしまうのでしょうかね。

 「倫理」学習を困難にしているこのような環境の悪化は、既に学界でも認識され始めているようです。日本学術会議の哲学委員会の哲学倫理宗教教育分科会が、「未来を見すえた高校公民科倫理教育の創生・考える倫理の実現に向けて」という提言を2015年5月に公表していて、冒頭の「要旨」には次のように書かれています。
 …「倫理」は、思考力や洞察力、判断力を身につけ自己形成し人格を確立することを第一の目標とするからである。だが、現在の「倫理」教育は、内容の点でも、それが置かれている状況の点でも、その目標に合うものになっていない。
 …現在、「倫理」では思想史などの知識伝達に偏った授業が行われている。こうした事態をもたらした主な原因は、第一に、思考力を育成するような授業を行う教員を養成、採用するシステムがこれまで存在してこなかったこと、第二に、2単位の授業には過大な知識量を盛り込んだ教科書が用いられていること、第三に、知識をまんべんなく問う大学入試に対応する授業になっていること、にある。
 実に鋭い指摘ではありませんか。特に私が同感なのは、「2単位の授業には過大な知識量を盛り込んだ教科書が用いられている」という点です(2単位とは、標準(=理想)的には1コマ50分の授業を週2コマで35週授業する分量ということ)。この点について提言は、
 こうした事態をもたらした原因の第一は、広汎な学習内容を網羅的に扱った教科書にある。平成21年度のある教科書についてみると、取り上げられる人名は283名、うち約60%の169人が太字扱いである。現学習指導要領のもとの平成26年度版においては293人と増加している。昭和54年度(「倫理・社会」の時期)の同じ出版社の教科書の掲載人数が98人であるから、3倍以上の増加である。2単位の授業では明らかに過大な数であり、先哲の思想の効率的、網羅的な解説に追われざるを得ない。
 と述べています。
 これを読んで私は急いで自分自身が高校時代に使っていた「倫理・社会」の教科書を取り出して、いま自分の授業で使っている教科書(好都合なことに同じ出版社でした)と比べてみました。すると提言が書いているように、いま私が授業で使っている教科書の人名索引にはやはり300名ほど並んでいました。ところが私が高校時代に使っていた教科書には、たとえば平安仏教の大家である「最澄・空海」さえ載っていなかったのです(聖徳太子の次は法然・親鸞。表見返しの年表にも記載なし)。当時の授業ノートには辛うじて「天台宗・真言宗」とは書いてあるものの、「最澄・空海」の人名はありませんでした。「よくぞまあ、この程度の勉強で大学入試を受けたものだ」と仰天せざるを得ませんでした。そんな私でも当時は共通一次試験(現在の大学入試センター試験の前身)で8割以上の点数を得ていたはずですから、今の高校生に対する入試問題が異常なほどに難しく、血を吐くほど勉強していなければ太刀打ちできなくなっているのは明らかというべきでしょう。これでは「倫理」が敬遠されるのは当然ですね。
 かくして、2単位の授業では消化しきれないほどの知識を盛り込んだ教科書に追われ、(一般的な傾向として)意味もよく分からないまま言葉だけを暗記するような勉強になってしまい、学んだ知識を活用しながら日本や世界を冷静に客観的に見るような学習をする余裕も無くなってしまうわけです。これでは、せっかく「倫理」を勉強しても大切なことは何も残りません。時間と労力の無駄でしょう。

 提言は、「公民科『倫理』教育の問題点」として、「|亮洩嵳綸な教科書」の他にも、「教員の数と質の不足、C亮韻鬚泙鵑戮鵑覆問う大学入試」を挙げ、このような状況に対応して「倫理」を履修する高校生が減少しているため、このままでは「(倫理という)科目の存続すら困難になる」と危機感を露わにし、「知識中心の倫理から考える倫理へ」という改革の方向性を強く打ち出しています。まったく同感です。

 今日は9月11日。2001年のアメリカ同時多発テロから満15年の節目の日でした。新聞は、事件を追悼する人々を紹介する記事を掲載する一方で、核実験をした北朝鮮に対する追加制裁の協議について報じていました。複雑な心境です。こういう時だからこそ、私たちは、日常生活において目に見える範囲のことだけで物事を処理していくのではなく、目には見えない崇高な理想とその平和的な実現方法について改めて思いを馳せる必要があると思います。
 現在の高校「倫理」では、まず精神的に大人になるとはどういうことなのかを学習します。次にキリスト教やイスラムや仏教の基本思想を学習します。そして近代西欧で発達した資本主義経済の功罪、立憲主義や民主主義の意義、社会主義など貧困と闘った思想を学びます。教科書の太字を覚えるだけの勉強ではなく、たとえ少しであってもこれらの思想と現代社会の問題を関連づけるような勉強をすれば、私たちはもっと賢くなれるはずです。それが「倫理」の学習なのではないでしょうか。

2016年08月18日

「生前退位のための憲法改正は必要ない」としても…

 参議院議員の選挙で自民党が大勝したわずか3日後の7月13日夜、まだ選挙の余韻も消えないうちに、突然「天皇が生前退位したいと思っている」ことが報道され、翌日から世間は一気に「天皇陛下」の話で持ちきりになりました。

「天皇陛下」で思考停止してはいけない
 大半の日本人にとって「天皇陛下」は尊敬と憧憬の対象です。民主主義を基調とする日本国憲法の施行から来年は満70年になろうとするにも関わらず、どういうわけか大半の日本人は「天皇陛下」の話になると頭が真っ白になって、「国民主権」など学校で勉強した知識は全部吹っ飛んでしまうようです。「天皇」を権力側・政府側の人間として距離を置く思考態度はほとんどなく、天皇の「お気持ち」は何でも「ありがたく、叶えて差し上げたい」ものとして受け止めてしまいます。そこには憲法もへったくれもありません。
 今の天皇は、戦後の民主教育を受けたおかげで、個人的にはたいへん良心的で民主的な考え方をし、日本国憲法を尊重擁護する気持ちも強くもっている人のようです。例えば、避難所の被災者を慰問した際に、被災者が畳の上に座っているところで、天皇自身は硬い床に膝をついて慰めの言葉をかけた場面がテレビで何度も放送されていますが、そういう姿勢ひとつ見ても、彼が決して傲慢な態度でふんぞり返っているのではないことが分かります。それは賞賛されてよいことだと思います。
 しかし「天皇」は、「象徴」とはいえ政府機関の一つです。過去の歴史的経緯はともかく、少なくとも戦後日本においては、国民主権を定めた日本国憲法に基づいて設置されている役職に過ぎません(憲法は天皇の地位は「国民の総意に基づく」と表現していますが、これは天皇が憲法の枠を超越した存在であるという趣旨ではありません)。それゆえ「生前退位」を認めるかどうか、もし認めるとしてどのような内容にするか(例えば定年制を導入するのか今回限りとするのか等)は、主権者である国民が議論して決めることであって、天皇が決めることではありません。天皇が「そうしたい(そうさせてほしい)」からといって、その希望を一直線に易々と認めるのではなく、(天皇の希望はもちろん十分考慮しつつも)象徴天皇制を定めた憲法に基づいて、憲法の枠内で何ができるかを考える、そういう姿勢をもつことが絶対に必要です。それが民主主義・立憲主義ということですから、これはとても大切なところです。

憲法改正の突破口にさせるな
 でも現実はどうでしょうか。「天皇陛下のお気持ち」が独り歩きし、憲法の枠を飛び出して、あらぬ方向に事態が進んでしまう危険性はないでしょうか。私はそれを非常に心配します。
 私は7月13日夜のニュースで「生前退位の気持ち」と聞いて、すぐに「ははーん、安倍首相はこれを憲法改正の突破口にするつもりだな」と思いました。選挙に勝って、衆参両院で3分の2を獲得した安倍政権が、いよいよ憲法改正への切符を手に入れたとたんに、これまでとはまったく違った方向から「憲法改正」に道をつけようという魂胆だと感じたのです。一種の「天皇の政治利用」です。
 そもそも、どういう経緯でこの情報がマスコミにもたらされたのか詳しいことは分かりません。宮内庁の誰かがリークしたのだろうと思いますが、報道によると「天皇は数年前からそういう気持ちだった」そうです。しかしそれなら逆に、どうして今このタイミングで国民に知らせることになったのでしょうか。そこに、この「事件」の真相が隠れているようにも思えます。
 確かに、日本国憲法は、基本的に天皇の生前退位を想定していません。憲法は皇位継承について「皇位は世襲である」(第2条)と規定しているだけです。「世襲」とは親子代々受け継ぐという意味でしかありませんので、憲法は生前退位を(ついでに言うなら女性天皇さえ)明確に禁止しているわけではありません。でも生前退位を積極的に認めているわけでもありません。
 そこで安倍政権としては、多くの国民から信頼のあつい天皇の生前退位を持ち出すことで国民の同情を買い、「生前退位を実現するには憲法改正が必要だ」という誰も反対できそうにない雰囲気を作り出して押し切ろうというのではないか、私はそう思ったのです。
 やがて8月8日午後3時から「天皇陛下のお気持ち」がテレビで放送されることになりました(「平成の玉音放送」!)。するとサンケイ新聞はその日に合わせて世論調査を行い、「生前退位が可能となるように憲法を改正してもよい」と思う人が84.7%に達した、と報道したのです(ちなみに「思わない」と答えた人は11.0%)。
 でも、生前退位を実現するために憲法改正は必要ありません。上述したように憲法は生前退位を禁止してはいないからです。それゆえ皇位継承について具体的な制度を定めた「皇室典範」と呼ばれる法律を改正するだけで実現可能です。皇室典範の中身をどうするかが問題になるだけで、憲法をいじる必要はないのです。そのことが分かっていてサンケイ新聞はこのような調査をしたのでしょうか。だとすれば、きわめて悪質な世論操作を試みているとしか言いようがありません。サンケイ新聞に騙されてはいけませんね。
 しかしこの世論調査の問題点はもう一つあります。それは、「天皇のお気持ちとあらば、憲法改正もやむなし」と考える日本人が8割以上もいるということです。恐ろしいほど民主主義・立憲主義が分かっていませんよね。大丈夫でしょうか…

摂政案も一度はきちんと検討すべし
 さて、生前退位を実現するために憲法改正は必要ないとしても、しかし、だからといって、いきなりそのための皇室典範改正の議論に直進してよいのかどうか、私にはちょっと疑問があります。そこには生前退位を望む「天皇のお気持ちをいかに実現して差し上げるか」という態度ばかりが強く表れていて、憲法に基づいて考えるという思考態度が欠落しているように感じられるからです。たとえ結論が同じであっても、思考回路としてはちょっと回り道をする必要がある、と私は思います。

 まず、日本国憲法は、天皇に何らかの事情がある場合を想定して、天皇の代わりとして「摂政(せっしょう)」を置くことを予定しています(「摂政を置くときは、摂政は天皇の名で国事行為を行う」(第5条))。そして摂政の詳細は「皇室典範」という名称の法律(第16条以下)に規定があります。現在のところ摂政を置く理由としては、天皇が「未成年」であることと「重大な病気または事故」を規定しているのみで、「高齢」が含まれていません。ですので、それを追加すれば、天皇には事実上リタイアしてもらうことが可能になります。
 私は、今回のように天皇が高齢化した場合の対処としては、まず「摂政を置く」という選択肢がしっかり検討されるべきだと思います。憲法がもともと想定している制度ですし、皇室典範の改正も最小限度で済むからです。
 しかし今の天皇は摂政を置くことには否定的です。その理由は、「天皇としての務めを果たすことができないから」なのですが、私はここに慎重な議論が必要ではないかと思います。確かに、形式的には天皇の地位にありながら実質的な務めは摂政にお任せ、というのは天皇自身の個人的な責任感として納得できないのは理解できます。しかし、憲法は「それでよい」としているわけです。天皇に事情があるときには「摂政を置く」と規定しているわけですから。
 世の中には、地位や業務の形式化は多々あります。例えば私たちの業界で言えば、出張は校長が「命じる」ことになっていますが、それは法的形式であって、実際に校長が出張を「命令」しているわけではありません。あるとき変な校長が現れて、校長としての「務めを果たすために、きちんと出張命令式をやりたい」と言い出したら、現場はかえって混乱するでしょう。出張に関しては、校長は形式的に存在しているだけでよいのです。
 天皇自身があれこれを心配して、「天皇としての務めが十全に果たせないくらいなら、いっそ退位したほうがましだ」と考えるのは、個人的には理解できますし同情もできます(少し脱線しますが、ちょっと関連の本を読んで見れば、天皇は私たちが想像するよりはるかに多くの仕事を抱え、日夜忙しくしていることが分かります。憲法が定める国事行為の他に、象徴としての公的行為があり、さらには皇室伝統のさまざまの祭祀など…。それゆえ高齢に達した天皇には、それらの「務め」を果たすのは身体的精神的にかなりの重労働でしょう。そもそも天皇や皇族には労働基本権がまったく保障されていないわけですから、なおさらです。皇族にも労働組合が必要かも知れませんよ)。
 しかし他方で、いまの天皇が「世襲の象徴天皇制」を定めた日本国憲法を尊重擁護する気持ちを強くもっているのであれば、なおさら摂政の設置という選択肢もまた尊重するべきではないか、とも私は考えます。ともかく一旦はそういう議論を経由すべきではないでしょうか。

「天皇にも人権保障を」で考えるべき
 そのうえで、しかしここで、天皇といえども一人の「人間」であり、しかも基本的人権の対象たる「個人」なのだから、「公共の福祉に反しない限り」その希望を尊重するべきだ、言い換えれば「退位の自由」とでもいうべき権利を新たに認めるべきだ、という「別のモノサシ」を持ってきて、「摂政を置く」ルールを押し付けるのではなく、「生前退位」の選択肢を追加する方向で議論を進めて行くというのなら、私はそれには反対しません。なぜなら憲法といえども所詮は「ルール」であり、私たち人間は決してルールのために生きているのではないからです。ルールは人を幸せにするためにあるのであって、ルールが人間の幸せを不当に制限することがあってはいけませんから、憲法があらかじめ準備している「摂政」を押し付けるのではなく、人権保障の一環として「生前退位を認める」という理屈であれば、それはそれで憲法の趣旨・理念には反しない(民主主義・立憲主義に沿っている)と言えるでしょう。
 でも、そういう思考の結果ではなく、「天皇陛下が摂政を望んでおられないから」という理由だけで、一直線に「生前退位」の議論に進むのは、別の意味で憲法を軽視することになるのではないか、と私は思います。「天皇陛下が望んでおられるから(おられないから)」という理由づけは民主主義・立憲主義に基づく態度ではありません。そんなことを言うなら、例えば仮に天皇が「誰が首相にふさわしいか言わせてほしい」と希望したとして、それも「叶えて差し上げ」るのでしょうか。それは明らかに憲法(第4条)違反です。そういうふうに考えてみれば、「天皇陛下が望んでおられる(おられない)」を理由にしてはいけない、ということが分かると思います(まあ、茶飲み話のレベルで言えば、平和主義を曲解している安倍首相と考え方が違うようにみえる今の天皇には、むしろ誰が首相にふさわしいか言ってもらいたいくらいですがね)。

日本の高齢者福祉への射程
 結論を急ぎますが、とりあえず私は、今回のことを契機に、天皇に「選択的定年退位制(一定の年齢になった時に、摂政をおくか退位するか、そのまま在位しつづけるかを選択できる制度)」とでも呼ぶような恒久的な制度を新設して、憲法の枠内で、現在の天皇だけ特別扱いするのではなく、同時に社会の高齢化にも適応させていくのが妥当な結論ではないかと考えます。遠い将来構想としては、いつか日本も天皇制を廃止して、大統領制に移行する日がくるかも知れませんが、とりあえず今はそのあたりで、どうでしょうかね。
 但しその際、人権保障として生前退位を認めるとしても、それが「天皇陛下」一人の問題に矮小化されないことが大切です。82歳の天皇がついに悲鳴をあげるほどに、私たちは一般論として高齢者の労働問題に無関心でいたことを改めて問い直さなければなりません。日本社会が、82歳になってもあくせく働かなければ生活できないような社会になっていないかどうか、それこそが問題の本質なのです。低所得の高齢者に選挙前に一人3万円を配って満足しているような安倍政権ではなく、すべての高齢者が豊かな老後を送れるような政権選択をしているのかどうか。その思考の射程の中で天皇の退位問題が位置づけられて初めて、日本は名実ともに民主主義の社会になったと言えるのではないでしょうか。

【本稿の執筆には主として下記の諸先生方の論考を参考にさせていただきました】
水島朝穂「象徴天皇の「務め」とは何か――「生前退位」と憲法尊重擁護義務」
朝日新聞「「お気持ち」切り離し議論を 西村裕一さん」
猪野亨「天皇の生前退位を憲法「改正」の口実に使う最悪の政治利用」

2016年08月07日

福祉施設での惨殺事件について考える

 7月26日未明、神奈川県相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」に、26歳の元職員の男が押し入り、入所者19人を殺害、職員を含む23人を負傷させる事件が発生しました。犠牲者の多さという点では1995年の地下鉄サリン事件を上回る戦後最悪の殺人事件ということです。
 報道されている情報を総合すると、事件直後に警察に出頭し逮捕された男は、もともと教員志望の青年だったようですが、その夢を果たせないまま事件のあった施設に就職しました。当初から障害者を見下す態度があり、入所者への暴言や背中の入れ墨について施設から指導を受けるようになりましたが、やがて障害者を劣った存在として排除する思想(優生思想=ナチスにもあった思想)を露骨に発するに至りました。今年2月には衆議院議長あてに重複障害者の安楽死の制度化などを提案する内容の手紙を書いたことが原因で退職、措置入院させられました。約10日後に退院した直後、犯行に及んだようです。

 やりきれない事件です。あまりにも特異な事件ゆえ「滅多にあるものではない」と思いたいところですが、しかし他方で、2014年に川崎市の有料老人ホームで元職員の23歳の男が入所者の男女3人を相次いで転落死させた事件も記憶に新しく、こういう「ヘイトクライム(憎悪犯罪)」が連続していることは無視できません。
 厚生労働省の調査によると、2014年度の介護施設職員による虐待件数は、公式に虐待と認定されたものだけでも300件と、前年度比35%増の過去最高。2年間で倍増しています。虐待の主な発生原因については、「教育、知識、介護技術の問題」が約6割で最も多く、「職員のストレスや感情コントロールの問題」も約2割ありました。
 これらを考えあわせると、障害者や高齢者といったいわゆる社会的弱者に対する否定的感情が、関係施設で働くごく一部の(若い)職員の心に沸々と煮えたぎっているのではないか、と私は思います。容疑者の男がやった凶行を正当化するつもりは毛頭ありませんが、しかし他方で、彼もまた歪んだ現代社会の犠牲者なのではないでしょうか。

障害者にも尊厳はある
 事件後、障害者の関係団体は相次いで声明などを公表しました。その中のひとつ、知的障害のある当事者と家族らでつくる「全国手をつなぐ育成会連合会」は、事件について「抵抗できない知的障害のある人を狙った計画的かつ凶悪残忍な犯行で、到底許すことはできない」と強く非難した上で、「今回の事件を機に、障害のある人一人ひとりの命の重さに思いを馳(は)せてほしい。お互いに人格と個性を尊重しながら共生する社会づくりに向けて共に歩むようお願いします」と訴えました。
 至極もっともな話で、まったくその通りだと思います。私はかつて7年間、病弱児のための特別支援学校(当時は「養護学校」と言っていました)に勤務し、重複障害の生徒たちと過ごした経験がありますので、障害者も一人の人間として尊重されるべきであることはよく理解できます。たとえ障害者であっても家族にとって大切な存在ですし、また障害者がいるおかげで、病院や施設が建設され、そこに雇用が生まれ経済がまわっているわけですから、障害者も社会に貢献していると言えます。また、音楽を聞かせたり長時間やさしく抱きかかえるなど多様な教育的刺激をすることで、重度の重複障害者といえども確実に何かを感じ成長していることを確かめることができます。障害者にも人間としての尊厳があることを肌で実感できます。

理念と現実のギャップ
 でも同時に私は、この事件の後で「障害者も大切な人間だ」という理念が強調されるだけでいいのだろうか、とも思いました。「障害者も含めて私たち皆一人一人が大切な存在だ」という理念はもちろん正しいのですが、その言葉と、障害者を含む社会全体のありかたとの間には、大きなギャップがあるのではないかとも感じたのです。
 それは端的に言って、「障害者が大切にされる一方で、俺たちは大切にされていない」というような無力感・敗北感・不満・怒りです。そういう感情が、確実に社会の中の一定範囲の人々に宿りはじめているのではないでしょうか。「馬鹿とできそこないは滅ぶべし」(『アンチクリスト』)と書いたドイツの哲学者ニーチェと同様、「障害者には生きる意味がない」と思い込んでいる人に向かって「障害者も大切な人間だ」といくら繰り返しても、たぶん伝わらないでしょう。話がかみ合わず、すれ違うだけです。
 「どんな人間にも生きる価値がある」という理念・思想は間違いなく正しいのですが、それを心から納得し誠意をもって障害者に接することは、現実にはとても難しいことだと私は思います。それは、ちょうど神様を信仰することに似て、授業で先生の話を少し聞いたからといって簡単に獲得できるようなものではありません。その意味で、重複障害者の介護には「覚悟」が必要かもしれません。

 ひとくちに「重複障害者」といっても個人差はありますが、重度になるとまず言葉でのコミュニケーションは不可能です。声を出すことがあっても唸り声や叫び声のようにしかなりませんし、そもそも声が出ない人もいます。運動能力のある人は病室のベッドから転落する危険があるので、ベッドの周囲にはベビーベッドのように柵が作ってあったりします。また食事・排せつ・入浴など日常生活の全てに介助者の世話が必要です。病室のなかには汚物の臭いが漂っていたりもします。さらに重篤な病弱者になると、両眼・両耳とも機能していない人とか、さまざまの医療機器に囲まれてベッドに寝たきり状態という人もいます。
 確かに「人間」ではあるのですが、一見すると率直なところ「半分は動物のよう」でもあり、養護学校に勤務するようになった当初は私も複雑な心境になりました。ある現職研修会で、重度重複障害者を担当していると自己紹介したところ、ある先輩教員から「私も経験があります。重度重複障害者に接すると、人間っていったい何だろうって、つくづく考えてしまいますよね」と言われたことがありました。重度重複障害者と接したことがある人は、一度は同じことを感じるものなのかも知れません。
 私は、大学時代に特別支援教育について勉強したことは一度もなく、教員として就職した直後の研修で1日だけ養護学校を訪問してダウン症児と接した以外、ずっと普通の高校に勤務していましたし、特別支援学校への転勤も自分から希望したわけではなかったので、転勤していきなり重度重複障害者の担当になった当初は、排せつ物の処理までする仕事内容に、「転勤というより転職と言ったほうがいい」ほどの戸惑いを覚えたものです。
 幸い当時の私の周囲には、特別支援教育に深い理解と豊富な経験をもつ優れた先生方が同僚として多数存在していて、素人の私にいろいろ教えてくださり支えてくださったので、無事に過ごすことができました。私の場合は、公立学校教員としての給与が保障されていましたし、いずれは別の学校に転勤する見通しもあったので、「それまでの数年間は精一杯頑張ろう」という前向きの気持ちで過ごすことができました。でも低賃金で将来の見通しがない職場であったならば、果たしていつまで勤め続けることができたでしょうか。

 そういう自分自身の体験と重ね合わせながら改めて見直すと、今回の事件は違って見えてきます。容疑者の男は教員になりたかった夢を果たせていません(敗北感)。障害者を見下す人間が、障害者施設に就職しても労働の達成感を覚えることは非常に困難だったでしょう(無力感)。おそらく彼は(自己中心的な反応ではありますが)、自己実現できない状況を「自分は世の中から大切にされていない」と感じ、その不満を「大切にされている障害者」にぶつけるようになったのだろう、と私は想像します。
 彼は、「一銭も金を稼ぐことができず、言葉でコミュニケーションもできず、ただ生きているだけで、あえて生かしておくメリットもない重度障害者に、多額の税金を投じて世話を続ける世の中は間違っている、そんな金があるならもっと俺たちのために使ってくれよ(例えばもっと給料を上げてくれよ)」とも感じたのではないでしょうか(不満)。だから彼は、そういう間違った社会を正そうとして、障害者の安楽死制度を提案する手紙を衆議院議長に書いたわけです。それは政府を味方につける意味もあったのだろうと私は思います。
 ところが、彼としては正しいことを提案しているつもりなのに、それが措置入院という形で否定されたわけですから、もろもろの敗北感・無力感・不満・怒りは、著しく大きくなっていたと想像されます。たとえて言えば、頼りに思っていた政府と、不当に大切にされている障害者という2つの山の谷間に、大切にされていない自分が落ち込み、もがいているような状況です。その苦境を脱出するために、彼は自分より弱い存在である障害者を攻撃したのだと考えてみれは、辻褄があうような気がします。
 事件後、自分から警察に出頭し(逮捕され)悪びれず笑顔でいられるのは、障害者の抹殺という「正義」を実行できたという達成感と、政府が自分の提案を真剣に検討する可能性が出てきたという勝利感があったからではないでしょうか。討ち入りを果たした直後の『忠臣蔵』の四十七士と同じような心境なのではないか、と私は想像します。

社会の競争原理が「矛盾」を生んでいる
 このように考えてみると、問題は単に「障害者が大切にされていない」ことなのではなく、それ以上に「障害者をふくむ社会全体に、大切にされる人とそうでない人の格差がある」ことが問題の本質なのではないか、と思えてきます。つまり今回の事件は「障害者に対するヘイトクライム(憎悪犯罪)」という理解からさらに突っ込んで、障害者を含む社会全体に対する深い怨恨(ルサンチマン)がもたらした事件だと考えるべきではないか、と私は思うのです。
 いま私たちが住む社会は、人々がいろいろな尺度で優劣をつけられ格付けされる社会です。幼いころから学校の成績や運動能力や容貌などで評価・選別されていきます。大学入試の失敗など多少の順序の入れ替わりはあっても、大雑把にみて成績が良いとか運動能力があるなど有能な人は、やがてそうでない人が羨ましく思うような職業や企業に就職し、ちょっと贅沢な生活ができたり、社会に多少の影響を与えることができたりします。私たちは、意識する・しない・良い・悪いは別として、いつの間にかそういう生き方をめざし、そこに自分の人生の意味さえ見出しています。他方で、能力に恵まれず、さまざまの競争に負け続けた人たちは、社会の中で目立つことなく、社会に貢献しているという充実感をもてず、けっして待遇が良いとはいえない職場で、毎日砂を食むような灰色の感情で働くしか道がないわけです。
 そういう「優劣の価値尺度」が縦横に張り巡らされ格付けされていく競争社会にどっぷり浸り、周囲の人間を優れているか劣っているかの尺度でしか見ることができなくなっている(そしてそのまま障害者施設に勤め始めた)人たちにしてみれば、「最も劣っている」はずの障害者が「一人の人間として」大切にされていることが我慢できないのではないでしょうか。それは単に「無駄」である以上に、自分自身がそこで負け続けてきた競争原理に違反する深刻な「矛盾」なのです。優勝者に賞金が授与されることは諦めがつくとしても、真ん中をすっ飛ばして最下位に賞金を授与することは納得できないでしょう。今回の事件を起こした容疑者は、障害者施設に就職したことで、図らずもその「矛盾」を目の当たりにし、もともと持っていた障害者に対する差別意識を爆発させたのではないでしょうか。
 恐らくこういう考え方に囚われてしまった人にとっては、能力の有無に関係なくすべての人に基本的人権を保障する日本国憲法は根本的に間違っている、ということにもなるでしょう。憲法が規定する「法の下の平等」と現実社会における「生活実態の平等」は違うのだという説明は、苦しい生活実態にある人には理解困難です。障害者が大切にされている現実を見て、それと自分自身を比較しないことはあり得ないからです。

すべての人が「大切にされている」と実感できるような社会が必要
 結局、突き詰めていくと、言葉や理念だけでなく生活実感として「すべての人間が大切にされている社会」を実現しなければ、同じような事件は繰り返す可能性があると思います。どうすればそのような社会を実現することができるのか、問題はそこに発展していきます。その答えは多岐にわたると思います。いくつか思うまま並べてみます。
 1つには、学校での進路指導の在り方を見直す必要があると思います。人間にはそれぞれ適性があることを認め、その適性を生かせる進路を個々に具体的に示していくことです。特に「友達が行くから自分も」というような態度で(必ずしも学習意欲のない)高校や大学に進学するということがないようにしなければなりません。
 2つめには、職業や肩書の違いは優劣の違い(上下秩序)ではなく役割分担の違い(水平秩序)にすぎない、という考え方を周知していくことが必要だと思います。どんな職業も社会に貢献しており、ただ仕事の中身が違うだけ。能力の違いは適性の違いであって、人間としての優劣ではない。「大統領も靴磨きも世のため人のために仕事をしている点では同じで、職業に貴賤はない」(リンカーン大統領のエピソードらしい)という考え方が常識にならなければなりません。
 3つめには、職業間の所得格差をなるべく縮小していく政策が必要だと思います。これは「どんな職業も社会に貢献している点で同じ」という理念を生活実感で裏打ちすることです。能力のある者でなければ高収入の職業にはつけないという状態を少しずつでも崩していかなければ、適性に応じた職業選択は結局うまくいかず、理念は宙に浮いてしまいます。まずは福祉施設で働く人たちの賃金改善と、高所得者に対する累進課税制度の強化が喫緊の課題でしょう。
 4つめには、「社会に貢献する」とは、社会の中でより弱い立場にある人に幸せをもたらすことだ、というような理念が広く認識される必要があると思います。これはアメリカの政治哲学者ロールズも提唱している考え方ですし、日本の「社会福祉の父」とも称せられる糸賀一雄が残した「この子らを世の光に」という言葉にも通じるものがあります。
 糸賀は「この子らに世の光を」ではなく、「この子らを世の光に」と言いました。障害者に憐みの気持ちを(世の光を)というような、(それ自体は決して悪いことではないのだけれども)どちらかというと競争原理を前提したうえで、障害者に「上から目線」的な姿勢で施しをするというのではなく、障害者を世界の中心に(世の光に)据えるほど、つまり社会的弱者を幸せにするために私たち自身が生きている、と思えるくらいの価値観の転換、言い換えれば「思想的革命」と表現してもよいほどの大転換を糸賀は追求したのだと思います。
 私が重度重複障害者の担当をしていた時に、ときどき洗濯物を取りに病室にやって来るお母さんと何度も話をする機会がありました。彼女はある日「私は、神様からこの子を託されたのだ、と思っているのですよ。この子を幸せにするために私が選ばれたのだ、私はそのために生かされているのだ、と思っています」と私につぶやきました。私はそのとき、何か崇高なものに出会ったような感動を覚えました。このお母さんの言葉には、重度重複障害者を私たち自身よりも貴い存在としてとらえる価値観が表われています。

 私たちは、相模原市の事件を悪夢としてとらえ、事件を犯した青年を処断して終わりにするのではなく、これを私たち自身の社会のあり方に対する警鐘(木鐸)ととらえ、社会の構成原理を改めて見直す契機にしなければならないと思います。競争に勝って目先の利益を獲得することが「生きる意味」になっているような社会を少しずつ変えていくことが必要ですね。