2020年10月18日

「軍事目的研究の自制」は「学問の自由」に優先する

 学者の立場から政策提言する国の特別機関「日本学術会議」が推薦した10月からの新会員の任命に際して、「任命権者」の菅義偉首相が、推薦者としてリストアップされていた105人の中から99人だけを任命し、残り6人の任命を拒否したことが大問題になっています。
 菅首相自身は「総合的・俯瞰的観点から活動を進めていただくため(任命しなかった)」と繰り返すのみで、任命拒否の実質的理由はまったく語ろうとしませんが、任命を拒否された6人の学者には、これまで「安全保障関連法」や「特定秘密保護法」など政府の立法政策に批判的だったという共通点があり、そこを嫌って任命拒否したのは確実です。

 その後、記者会見で菅首相が「もともとの105人の推薦リストは見ていない」と述べたことから、首相がみずから6人を名指しして拒否したわけではなく、首相が決裁する前段階で誰かが6人を除外したリストを首相に見せていたらしい、という流れが見えてきました。しかし、それはそれで、日本学術会議法が定める「推薦に基づいて任命する」手続きを経ていないことになるので違法だということになります(早稲田大学の岡田正則教授の指摘)。
 これに対して、加藤官房長官は、「決裁文書にはもともとの105人の推薦リストも添付されていたが、首相自身がそこまで目を通さなかっただけだ」という趣旨の弁明をして、問題はないと強弁しましたが、その後、事前に6人を排除した人物が菅首相の意向を受けた(つまり忖度した)杉田官房副長官だったことが明らかになって、今回の任命拒否事件が数年前から着々と準備されていた「確信犯的」行為であったことが浮き彫りになっています。

 しかし、そもそも日本学術会議の会員は、法律で「優れた研究又は業績がある学者」が任命されることになっているので、もし「研究又は業績」以外の(反政府的な)発言を考慮して任命しなかったとすると、これは「思想信条の自由」や「表現の自由」に反することになりますし、もし「研究又は業績」を理由に任命しなかったとすると、それは「研究又は業績」の優劣を政治家が評価したことになりますから、「学問の自由」に反することになるわけで、いずれにしても法的観点から首相の任命拒否の余地はあり得ません。1983年に国会で首相の任命権について質疑がなされたときに「任命は形式的なものにすぎない(つまり推薦にもとづいて全員を任命する)」との説明があったのは、憲法の条理からする当然の帰結とみるべきです。この点で、菅首相は根本的に憲法の趣旨を誤解している(もしくは無視している)と言わざるを得ません。
 政府は、まるで火の粉を払うかのように、この任命拒否の問題を、「行革」問題にすり替えようと躍起になっていますが、この態度は、日本学術会議が戦後一貫して「軍事目的の研究」に批判的な姿勢をとってきたことが気に入らないゆえの、「日本学術会議つぶし」の一環とみるべきでしょう。

 憂慮すべきは、この動きに呼応するように、日本学術会議が軍事目的の研究に批判的である点をとらえて、「学術会議自体が学問の自由を侵害してきた」という由々しき主張まで飛び出していることです(例えば森清勇「日本人から「学問の自由」を奪ってきた日本学術会議」10月15日)。この論者は「学術会議が特定の研究を排除したことや自衛官を大学院から追放して、日本国家の危機対応能力を低減させてきたこと」こそ憲法違反だ、と主張しています。一見すると同情を招くような内容ですが、しかしこのような主張は日本国憲法における「学問の自由」に対する誤解(もしくは浅薄な理解)に由来する暴論だ、と私は思います。
 なぜなら、日本国憲法における「学問の自由」とは、この主張の論者が素朴に理解しているように「何でも自分の好きなことを研究してよい」という消極的な意味ではなく、「理性に基づく真理探求に政治権力が介入してはならない」という積極的な意味をもっているからです。

 これを理解するには、「自由」とは何か、という哲学的・根本的なところから考えていく必要があります。高校の「倫理」の授業レベルでざっくり説明しますと、おおむね次のようになるでしょう。
 近代科学が生まれ発展した16〜17世紀のイギリスで科学の方法論を論じたベーコンは、「知は力なり」と述べました。これは、学問はそれ自体が目的ではなく、自然にはたらきかけ、自然を支配し、それを人類の福祉に役立てるための手段である、という意味です。ここには、科学研究は私たち人間の生命と生活を向上させるためにある、という大きな方向性が示されています。
 いっぽう18世紀ドイツの哲学者カントは、自由とは(欲望の奴隷になることではなく)理性の命令に従うという意味での自律性である、と定義しました。私たちはふだん「自由」という理念を、たとえば「服装の自由」のように「自らの心の赴くままに行動できること」と理解していますが、カントは「それは本当の自由ではない」と説いたわけです。カントは、普遍的な道徳法則に従って、見返りを求めず、お互いを人間として尊重しあいながら生きることこそが、理性をもつ人間にふさわしい自由だと考えたわけです。
 ベーコンとカントの考えを足し合わせると、自由な真理探求(学問研究)とは、生命と生活を向上させるために、理性が命じる普遍的道徳法則に従って遂行されるべきものだ、ということが見えてきます。
 しかし、私たちがその意味での「自由な学問研究」を維持し続けるためには、さらに政治権力の介入を防ぐ必要があります。なぜなら「権力」とは人々をその意思に反して動かす力(強制力)であり、権力をもつ者は、古今東西おしなべて、国民を自らの都合に従わせ動かそうとする態度を示してきたからです。言い換えると、権力者という存在は、自分が望むように国民を動かそうとする欲求に常にとらわれているのです。国民が権力者にとって都合のよいように動かされないようにするため(=自由を守るため)に「憲法」が作られているわけですから(立憲主義)、要するに、憲法に規定された「学問の自由」とは、(私たち国民が「欲望の赴くまま何でも好き勝手に研究してよい」という消極的なものではなく)、もっと踏み込んで、「権力者の都合によってではなく、私たち自身の理性が命じるところに従って、生命と生活を向上させるために真理の探究を行うこと」だと積極的に理解しなければなりません。
 これは、ちょうど戦後ドイツが「ナチス賛美の自由」を認めていないことと軌を一にすると思います。戦後ドイツではナチスの再来を阻止するため、ナチス賛美を禁止することは「表現の自由」の侵害には当たらないと理解されています(「闘う民主主義」)。つまり「表現の自由」よりも「ナチス賛美の禁止」が優先するわけです。それに重ね合わせて、私は敢えて、戦後日本において「軍事目的研究の自制」は「学問の自由」に優先する、と考えます。

 「学術会議自体が学問の自由を侵害してきた」という主張の論者は、この点を誤解しているのです。彼は、自由に(=自分自身の欲求の赴くままに)取り組みたい軍事目的の研究を認めてくれない(くれなかった)日本の大学院や日本学術会議の姿勢を批判しているわけですが、それは「お門違い」ではないでしょうか。戦前の学問研究が「関東軍731部隊」に代表されるように国策に奉仕してきたこと等への反省に立って、日本学術会議がこれまで何度も「軍事目的の研究をしない」と決議してきていることは、カント風に言えば、それが日本の研究者たち自身の理性に基づく「道徳法則」だからです。これに従い、これを貫き、これが目指す方向において人間の生命と生活の向上のための真理探究をなすことこそが、戦後日本の研究者の「学問の自由」と理解すべきなのです。それゆえ日本の大学(院)がこれまで軍事目的の研究から一定の距離を保とうと努力してきたのは、みずからの自律性の表れであって、「学問の自由の侵害」ではありません。彼は、「自らを律する理性」と「自由を侵害する権力」との違いを区別できていないのです。

 先述の哲学者カントは、『永久平和論』の中で、抑止力をつけるための軍備拡張が戦争の原因になる危険性を説いています。日本国憲法は、このカントの理念を踏まえ、「戦争の反省」に基づき、二度と戦争のない国際社会を作るため、率先して戦争を放棄し戦力不保持を表明しました。私たち戦後を生きる人間は、9条に込められた「世界史的任務」(幣原喜重郎の言葉)を深く自覚すべきです。
 私たちは、現下の国際情勢に過剰反応して単純に国防のための軍事研究や抑止力の必要性しか想像できない戦前的な姿勢を克服しなければなりません。戦後の国際社会が国際連合を中心に、曲がりなりにも戦争と兵器の違法化に取り組み、あるいは戦争回避のために努力していることに背を向けるような時代錯誤的な思考に囚われていてはならないのです。このような思考と行動を推し進めていけば、カントが警告するように、早晩日本は再び戦争に突入することになるでしょう。それは理性ある人間がすることではない、と私は思います。理性ある人間であれば、歴史の教訓に学びながら、国際社会に深まりつつある亀裂をいかに平和的に(軍事的手法を使わずに)修復できるかという問題に、もっともっと多くのエネルギーを使うべきです。

 戦前(1933年)の滝川事件を彷彿させる、かくもあからさまな学問への介入を許していたら、いずれ私たち一人ひとりの言論・表現もペナルティーの対象になりかねません。先見の明をもって臨む必要がある出来事です。その意味で、10月5日に発表された映画人有志による「日本学術会議への人事介入に対する抗議声明」が、反ナチス抵抗運動に参加したマルティン・ニーメラー牧師の言葉を(森達也さんの提案によって)引用しているのは、きわめて重要なことと思います。

2020年09月22日

止めよう!沖縄・辺野古の新基地建設・埋め立て工事

 沖縄・辺野古の新基地建設を強行する政府・防衛省が、「マヨネーズ状」と言わ れる軟弱地盤に関して4月に沖縄県に「設計概要変更申請」を提出しました。こ の変更による埋立工事の費用は沖縄県の試算で2兆5500億円にもなります。沖縄県が設計変更を不承認とし工事を停止させることが必要な情勢になっています。
 「止めよう!辺野古埋立て国会包囲実行委員会」が沖縄県への意見書提出を呼び かけています。納税者として国民として、意見書を提出するよう私からも皆さん に呼びかけます。ぜひご協力ください。意見書の書き方等詳しくは下記をご覧ください。郵送(封書・ハガキ)のほかFAX・メールでも大丈夫です。
https://humanchain.tobiiro.jp/index.html
なお、意見書提出の締切が9月28日(消印有効)にせまっていますので、お急ぎください。


tyngt at 18:12|PermalinkComments(0)clip!時事評論 

2020年08月16日

コロナ禍の教育現場への影響と課題(2)

 新型コロナウイルスの感染拡大による「緊急事態」宣言が5月25日に全面解除され、6月1日から2ヶ月遅れで新学期が始まりました。それから約2ヶ月が経過しました。日本では7月中旬ごろから第2波と思われる感染拡大が広がり、世界的にも依然として深刻な状況が続いています。私が勤務する高校は、夏休みが8月中旬の1週間だけに短縮されるなどイレギュラーな状態が続いています。この2ヶ月間の学校現場の様子を報告します。例によって今回も長文になりますが、どうぞお付き合いください。

授業の録音は続けています
 この約2ヶ月間、私は、開始が遅れた1年生の「現代社会」と3年生の「倫理」の“リアル授業”を実施しながら、同時並行で(5月の臨時休校期に実施していた)3年生の「倫理」の“録音によるバーチャル授業”も継続するため、ほとんど休日返上で録音作業を続けてきました(そのためブログ等の更新は休止しました)。
 6月に学校が始まって“リアル授業”ができるようになって以後も“録音によるバーチャル授業”を継続する理由は、教育課程の都合で(つまり大学入試に必要な2つの選択科目が時間割で同じ時間帯に入っているため片方の科目の受講をあきらめざるを得ないという事情で)昼間の「倫理」の授業を受講できず自学自習になっている生徒たちが数名いるからです。
 本来このような生徒たちに対しては放課後の「課外」で補充するのですが、6月当初はコロナ禍のために放課後あまり遅くまで生徒を残留させることが憚られ「課外」が思い通りに実施できない事情があったため、「それならば」と思い切って“録音によるバーチャル授業”を継続することにしたのです。そのため今のところ「倫理」の授業すべて(1年間で50分×約90回分)を録音してネットにアップする方針で作業を継続しています。
 その労力は結構たいへんです。2年生で教科書前半の学習を終えている生徒向けの授業(教育課程表の記号を使ってDコースと呼んでいる)と、3年生で初めて「倫理」の学習を始める生徒向けの授業(同じくFコースと呼んでいる)の2種類を用意しなければなりません。いずれ年度の後半になって、Fコースが教科書の前半を終えれば、Dコース向けの録音を流用できるようになり、私の仕事はDコース向けの録音をするだけに減るので少し楽になりますが、FコースがDコースに追いつくのは9月末になる見込みなので、まだ2コース分の授業録音の日々は続きます。
 今のところ週末(土日曜)は休みですが(9月からは隔週土曜日も授業日になる予定)、土曜日は教職員組合の会議があったり、家事もしなければなりませんから、実際に録音に取り組めるのは日曜日しかありません。前回の記事にも書きましたように納得のいく録音ができないときは1コマ50分の録音に何時間もかかるので、毎週3コマ分の録音が精一杯です。Fコース向けの授業をなるべく優先して録音し、日曜の夜遅くに録音データと授業レジュメPDF版をネットにアップし、翌日の月曜日に出勤後に授業レジュメの印刷版を作って対象生徒に配付するところまでやって1サイクルとなります。まるで新聞の連載コラムを1つも2つも担当しているような忙しさで、気が抜けません。
 ただ、大変は大変ですが、このようにすることで、第2波の感染拡大でいつ再び臨時休校になっても慌てなくて済むという安心感がありますし、自分の授業録音が1年分すべて揃うというのも実践の記録として有意義だという気持ちもあります。というわけで、何とかあと少し頑張っていきたいと思っています。

6月からのイレギュラーな学校生活
 私が勤務する高校では、「緊急事態宣言」解除後、5月18日からの週には各学年1回ずつ、5月25日からの週には各学年2回ずつの登校日が設定され、各学年計3回ずつ登校準備が行われたのち、6月1日から全面的に新学期の開始となりました。
 6月1日には入学式も行われました。「三密(密集・密閉・密接)」を避けるため体育館には集まらず、しかも新入生だけで、それぞれのクラスで各教室に配信される映像を通しての式になりました。
 年度初めの諸々のオリエンテーションも可能な限り簡素化され、2・3年生は6月1日から早々に授業開始となりました。私は事前に予告していた通り、“録音によるバーチャル授業”で説明した範囲を飛ばし、続きから授業を「再開」しましたが、当然ながら学校生活は(文科省の指針に従って運営されたため)イレギュラーの連続でした。

 (1)通学時の混雑を避けるため、登校時間を約20分遅くして9時登校とし、登校時刻の1時間前(午前8時)から教員(各学年担任団から1人ずつ)が当番制で、登校してくる生徒の検温チェックやマスク装着の点検などを行う体制が組まれました。
 職員会議での議論を経て、7月中旬からは登校時刻の20分前からに緩和されましたが、それでも毎朝の立ち番は現在も続いています。

 (2)授業は通常1コマ50分のところが45分に短縮されたうえ、当初は前半20分が経過したところで5分間「換気のための休憩」を入れなければなりませんでした。しっかりチャイムが鳴るので、授業を続けるわけにいきません。窓を開けて換気させながら、私はその間しばし廊下に出て待機しました。5分経過して再びチャイムが鳴ると授業再開。結局は正味40分しか授業できないわけですから、思うように進みません。でも「感染拡大防止」の大義名分のために正面切って反対するわけにもいかず、私を含めて同僚教員たちは「授業が進まないなあ」とぼやきながら、渋々従わざるを得ませんでした。
 6月29日からは「換気のための休憩」はなくなり、連続45分で授業できるようになりましたが、それでも通常50分に比べると5分の差は大きいです。

 (3)「(三密を避ける趣旨で)授業中に生徒たちに発言させることを極力避ける」よう管理職から指示があったため、授業中に隣の生徒と相談させたりグループで討論させることはできなくなりました。これまで文科省が肝入りで進めてきた「アクティブ・ラーニング」に逆行する動きです。
 ここ数年、特に1年生の「現代社会」の授業では、生徒たちに発問して隣席の生徒と相談させる場面を多く設定しているので、一方的に説明する授業は非常にやりにくく、疲れます。それに加えて、6月の初対面のときからずっと、私も生徒もマスクをしていてお互いに顔の下半分が見えないためか、コミュニケーションがぎこちない印象がぬぐえません。どんなダジャレを言っても無反応…冷や汗が出ます。柔和に話をしているつもりなのに生徒たちの緊張した様子がなかなか解けないのを感じて、苦しい気分にもなります。「目は口ほどにものを言う」という諺はありますが、目だけではコミュニケーションはうまくいかないものだということを痛感しています。マスクで顔が隠れてしまうことの悪影響は想像以上です。
 他方で、授業中それほど神経を使いながら、昼休みになると生徒たちは弁当を食べながら歓談し、授業の合間の休憩時間には廊下に出て楽しげに会話していて、それに対しては何ら制約がないのですから、「授業中は生徒に発言させないように」という指示は後で責任を追及されないための「アリバイ作り」ではないかとさえ思えてきます。
 2週間ほど経過した6月15日からは、授業中に発言しないことを条件に生徒たちは教室内でマスクをしなくてもよいことになりましたが、ほとんどの生徒はマスクをしたまま授業を受けていました。
 7月上旬になると、「県教委から予算がとれた」そうで、教員と生徒の全員にフェイスシールド(透明のプラスチック板で顔全体をカバーする道具)が1つずつ配付されました。「フェイスシールドを装着すれば生徒は授業中に発言してもよい」ということになったので(まったく不可解だが)、英語科では積極的にフェイスシールドを装着させて授業するようになった様子でしたが、フェイスシールドをしていると声がこもって発音がよく聞こえないため、英語科の教員の表情は複雑でした。私は、「フェイスシールドをしてもマスクは外せない」という説明を聞いて、「それでは装着する意味がない」と思い、一度も開封しないまま机上に置いています。夏休み前には、生徒たちがフェイスシールドをしている風景さえほとんど見なくなりました。
 かくして、夏休みが明けても、たぶん教員も生徒もマスクをしたまま、ほとんど一方通行的な授業が再開・継続されることになるでしょう。

 ※なお、学校には、アベノマスクが(全世帯2枚ずつとは別に)4月と5月に全教員と生徒に1枚ずつ(計2枚)配布されることになっていて、「4月分」の布マスクが5月7日に配付され、「5月分」の布マスクは7月16日にやっと配付されました。しかしどちらも(特に7月に配付された5月分のほうは)苦笑しながらの交付となり、安倍首相に振り回されたマスク業者には申し訳ありませんが、頂戴した布マスクは(4月分も5月分も、あの全世帯2枚配付のものと併せてすべて未開封のまま)「わが歴史グッズ」に仲間入りとなりました。

 (4)1日7コマの授業が終わって生徒たちが下校したあと、担任・副担任の教員を中心に校内の消毒作業をしなければなりませんでした。学校から配給されたゴム手袋をして、漂白剤を薄めた消毒液に浸した雑巾で机や椅子や階段の手すりなどをふく作業です。毎日毎日大変な作業でした。
教職員組合は、「せめてこの消毒作業だけでも民間委託してほしい」と県教委に要求しましたが、(当然ながら?)実現することはなく、7月に入ると消毒作業は「授業後の清掃中に生徒たちにさせる」ことになり(これも不可解)、現在では消毒作業それ自体がかつてほど念入りには行われなくなっているように感じます。

スマホでの聴講には限界も
 6月に“リアル授業”が始まったとき、3年生の「倫理」の授業では、冒頭“録音によるバーチャル授業”を聴講できていたかどうかの簡単なアンケート調査を実施しました。すると意外にも多くの生徒から「共有フォルダにつながらなくて困っている」とか、「スマホをどう操作したらダウンロードできるかわからない」という類の回答がたくさんかえってきました。そのため授業が始まっても最初の数回はこれらの生徒への個別対応を強いられることになりました。
 私は、5月の連休明けに学校から郵送してもらったプリントで、共有フォルダへのアクセス方法や録音などのデータのダウンロード方法についてかなり詳しく懇切丁寧に説明したつもりだったのですが(そしてもちろん大半の生徒はそれに従って受講できていたのですが)、何名かの生徒は、うまく聴講できないまま休校期間中を過ごしていたことになります。
 原因を分析すると、確かにスマホ(特にiPhoneスマホの場合が多かった)の基本OSの問題なのか、他の生徒が操作すると出てくるはずのボタンがその生徒のスマホでは表示されないなど、機器の問題によるものも若干ありましたが、大半は私がプリントで説明していた操作要領をよく読まずにやっていて途中でわからなくなって放り出していたものでした。私が見ている前で、プリントに沿って操作させると難なくアクセスし、ダウンロードできたからです。
 私は、後者のタイプの生徒を見ていて、「文字で書かれた説明を読んで、その意味を理解し、書いてある通りに再現できるということは、学力の一部なんだなあ」と思いました。これは本来高校に進学する以前に身につけておくべきことですが、スマホの普及のためでしょうか、画像や動画による「分かりやすい説明」があふれている昨今、丹念に文章を読んでそこから必要な情報を得ることの苦手な高校生が量産されているようです。小論文問題の添削指導をしていても、そもそも課題文が読めていなくて、ピント外れの妄想を膨らませたような答案を書いてくる生徒もしばしば見受けられます。こんな状態で哲学・思想を扱う「倫理」の内容が本当に理解できるのだろうかと心配しながら授業を「再開」したのでしたが、その嫌な予感は見事に的中することになります(次項で述べます)。
 その前に。ともかく5月に私が想定していた「録音データとレジュメ&追加資料データの両方をスマホにダウンロードして視聴する」ということがどうしてもできない生徒が数名残ってしまったので、私は急いで“録音によるバーチャル授業”で扱った範囲のレジュメ&追加資料を、(公平を期すため)全員に全回分すべて印刷して配付することにしました。“録音によるバーチャル授業”を始めたときは、それらを後で印刷して配付することを想定していなかったので、どの回の授業もいろいろな資料をくっつけていたものですから、これらをすべて印刷する段になって、その作業量の多さに一時は途方にくれました。それでも数日間かけて少しずつ辛抱強く印刷を進め、全部を全員に配付し終わったのは6月の中旬になっていました。

1学期の成績評価は3年生のみ
 6月以降の授業開始後の大きな問題は、生徒の成績評価をどうするか、でした。近年では多くの高校で1年間を前期と後期の2つに割り、さらにそれぞれ中間考査と期末考査を実施して計4回にわたって成績評価を出します。通常は1回目の定期考査が6月中旬〜下旬ごろ実施されるので、6月から学校が始まってすぐの定期考査は無理です。しかし大学入試でも推薦入試を受ける場合には6月の成績評価に基づいて調査書(内申書)を作らないと出願に間に合いません。校長は、「3年生のみ6月末の時点での成績評価を(臨時休校中の課題などを基になんとかして)出す。1・2年生については9月に(本来2回目となる時期に)まとめて成績評価を出す」との方針を打ち出しました。
 そこで私は、3年生については、5月中の“録音によるバーチャル授業”と6月になってから“リアル授業”で扱った範囲を対象に、6月末に「小テスト」と称して事実上定期考査とほぼ同一の問題でペーパーテストを行い、ワークブックなどの課題の提出状況を加味して成績評価を出すことにして、2週間前に予告したうえで、実施しました。
 ところが残念なことに、この「小テスト」の成績は惨憺たるものでした。特に2年生から学習している(上記Dコースの)生徒たちの多くは“録音によるバーチャル授業”の範囲がほとんど習得できていないようでした。上記の諸々の事情から、出来栄えが芳しくないことをある程度予想していたとはいえ、予想を超えて低い平均点をみて、私は非常に落胆しました。「Dコースの生徒は2年生のときに教科書の前半を既に終えているので、臨時休校中から無理をして“録音によるバーチャル授業”をしなくてもよかったなあ」と後悔したのですが、時すでに遅し。5段階評定はなんとか相対評価でやり過ごしましたが、実質的に抜け落ちてしまった範囲を再度“リアル授業”でフォローする必要がありそうです。しかし文科省は6月17日に「大学入学共通テストは予定通りの日程で実施」と決定しましたので、まず教科書を最後まで一通り説明することを最優先にしなければなりません。そのあと“録音によるバーチャル授業”に対して必要な補充をするという順番になります。
 このことからも明らかなように、インターネット環境を介しての授業は、教員の側だけでなく生徒の側も含めて相応の物理的環境と精神的モチベーションがないとうまく機能しないと私は思います。生徒が同じパソコンやタブレットを所持し、容量制限を気にしなくても使えるネット環境があり、それらの機器操作にも十分慣れているところで、さらにコロナ禍の中でもしっかり学習を続けていこうという意欲があって、そのうえで学校あげて時間割表に従ってきちんと授業が配信される環境を作らなければ、教員が単独で一生懸命にオンラインや録音で授業を提供しているだけでは、到底“リアル授業”には及ばないという印象をもちました。
 それでも私は、自学自習で勉強しなければならない数名の生徒たちのために“録音によるバーチャル授業”を続けたいと思っています。ですが、本来は我々がこういう労苦を重ねなくても済むように、文科省や教育委員会がしっかりしなければならないのではないかとも思います。早い話、現在の学習指導要領を前提としている限り、大学入試に必要な選択科目が同一時間帯に重複しないように各学校で教育課程(時間割表)を編成するのは至難の業になっています。文科省にはそういう部分をもっと改良していただきたい。そして公立高校のインターネット環境を私立高校並みに整備し、ICT機器による教育活動を学校教育の中に一部組み込んで、ふだんから教員も生徒も使い慣れている状態にしておく必要があります。そういう基盤があってこそ、今回のような未知のウイルスの感染拡大にも迅速に対応できるのではないでしょうか。

教員の働き方の問題
 コロナ禍に伴って教員の働き方にも大きな課題が見えてきました。

(1)在宅勤務について
以前にこのブログにも書いたように、私が勤務する県では、4月17日に県教委が「在宅勤務を可能にする通達」を出し、「臨時休校期間中、『自宅への出張』という扱いで在宅勤務を認める」制度を作りました。私はこれについて当時「おおむね職員室でやっている仕事の多くを自宅でできるようにした点で、大きな前進であり、画期的なこと」と書きました。
 しかし結果的には、この制度は中途半端に終わりました。在宅勤務を認めるかどうかの判断が各高校でバラバラだったので、在宅勤務が原則となる学校と、逆に在宅勤務が例外となる学校が出てきたのです。私が勤務する高校は後者の典型でした。管理職が県教委の通達を狭く解釈して「この制度に基づく在宅勤務は、教員本人の希望によってではなく、各学校長が認定するものゆえ、申請書を個別に判断する」という態度をとったのです。事前に在宅勤務の申請書を書き、校長が認定して初めて在宅勤務が認められ、在宅勤務の開始時と終了時には管理職に電話で連絡を入れ、事後に詳細な報告書を提出しなければならない、という趣旨の説明をしたため、ほとんどの教員は「ダメだ、こりゃ使えないな、出勤したほうがマシだ」というムードになってしまいました。
 私は、教職員組合と連携して、県教委の通達本体を根拠に、「教職員の感染防止・三密環境の防止のための制度なのだから、臨時休校期間中は在宅勤務を原則とすべきであって、申請書も報告書も簡便な様式で十分だ」と主張して管理職と何度も交渉しましたが、「政府の休業要請で多種多様な業界がたいへんな状況になっているときに、安易に在宅勤務を認めると公務員に対するバッシングが起きる」とつぶやく管理職を説得するのは非常に骨が折れました。それでも私は4月から5月にかけて在宅勤務を10日分ほど取得しましたが、私の勤務していた高校で在宅勤務を1日でも利用した職員は全体の4分の1にも満たなかったのではないかと思います。
 逆に、在宅勤務を原則とした別の高校では、教職員全体を大きく3つのグループに分け、1グループだけが日替わり交代で出勤し残りの2グループは在宅勤務として(つまり3日に1回の出勤サイクルとなる)、感染防止と三密回避を徹底させたところもありました。管理職の労働環境に対する意識の高低と創意工夫の有無の違いが見事に浮き彫りになった形です。

(2)夏季休暇の半日取得について
 問題はまだあります。県人事委員会の規則では、職員は夏季休暇(年次有給休暇とは別の特別休暇)を7月〜9月の時期に5日間なるべく連続するように1日単位で取得できることになっています。ところが私が勤務する高校では、6月下旬に管理職が「夏季休暇は(生徒が夏休みとなる)8月11日〜14日の4日間に全員が取得し、残り1日は7月〜9月の適当な日に取得してほしい」と呼びかけたのです。
 私は即座に反応しました。「まず8月11日〜14日の4日間に全員が取得してほしいというが、休暇をいつ取得するかは職員が自由に決めてよいはずだから、これはあくまでも要請であって命令ではないと確認させてほしい。次に、あと1日は適当な日にと言われるが、コロナ禍の影響で夏休みが1週間に短縮されているため、前後もびっしり授業が入っており、クラス担任は三者面談でも忙しくしているのだから、残り1日を1日単位で取得するのは難しい。校長裁量で半日単位でも取得できるように調整してほしい」と発言したのです。これについては教職員組合が直ちに呼応して、県教委や人事委員会に善処を申し入れてくれましたが、公式には県教委も人事委員会も「規則は規則、一切例外は認めない」との立場を崩さず、結局校長も半日単位での取得を拒否。その結果、多くの教員が5日間あるはずの夏季休暇のうちせいぜい4日しか取得できない状況になっています。

 「コロナ禍のために多くの業界がたいへんな状況になっている」のは間違いありませんが、だからといって「公務員も同じようにたいへんな状況に甘んじなければならない」という議論は間違っていると私は思います。公務員は、どんなに景気が良いときでも給料はほとんど上がりませんし休暇も増えません。その代わり逆に景気が悪くなっても公務員の給料は大きくは下がりませんし休暇も減りません。簡単に解雇されないという意味で身分保障もしっかりしています。それが公務員と会社員の違いです。
 「すべての労働者の権利保障」という理念に基づいて、すべての会社員の労働環境を公務員並みにする(=給与や身分が保障される社会を実現する)、そのためにみんなで力を合わせて闘おう!というのならばともかく、現状はそうではなくて、逆に会社員の水準に合わせるべく公務員に我慢を強いるという話ですから、これは進む方向が間違っています。悲しいことに、現在の学校現場の管理職や県教委や文科省や政府の官僚や政治家たちの多くがその方向感覚を見失っているために、社会全体が苦難への道に突き進んでいるのではないでしょうか。
 コロナ禍の今こそ、従来の制度や考え方にとらわれず、すべての人々が貧しくとも幸せに暮らしていけるような社会にするために、新しい発想で柔軟に社会を変えていくべきなのです。その発想の転換ができるかどうかが、コロナ禍を乗り越えられるか否かの分岐点になるだろう、と私は思います。

2020年05月18日

マイナンバー「通知カード」発行廃止に抗議する

 現時点ではまだ一部のマスコミしか報じていませんが、政府はこのコロナ禍のどさくさの最中に、マイナンバーの紙製「通知カード」の発行を今年5月25日で廃止します。これはハッキリ言って、プラスチック製「マイナンバーカード」の普及をすすめる政府の強引な方策です。私たちはこれに対しても抗議の声をあげなくてはなりません。

 マイナンバー制度は2015年10月から始まりました。住民票のあるすべての人々(外国人を含む)に生涯不変の個人番号(マイナンバー)を付与することによって、もともとは納税や年金受給の状況などを番号一つで把握できるようにする制度でした。この番号制度を導入することで、「脱税がなくなる」とか、「いちいち役所に行かなくてもコンビニで住民票が取得できる」とか、いろいろ長所が強調された反面、国民の社会生活を番号一つで統一的に把握できる国民管理=監視の制度であり、万一番号が漏洩したときの個人情報流出のリスクも馬鹿にならないというわけで、マイナンバー制度をめぐっては、導入当時大きな論争が起きました

 制度が発足した当初、市町村長から郵送される紙製の「マイナンバー通知カード」で当該番号を本人に通知するとともに、同封している「個人番号カード交付申請書」に顔写真を貼って返送すれば、のちほど顔写真が刷り込まれたプラスチック製の「マイナンバーカード」が返送されてくる仕組みでした。この場合、紙製の「通知カード」にもプラスチック製の「カード」にも個人番号の証明機能が認められていたため、銀行口座の新規開設や確定申告などの際、どちらのカードを使ってもよいことになっていました(但し「通知カード」を使う場合は運転免許証などと併用することが必要)。
 しかし、そのためプラスチック製「カード」の取得=普及が進まず(2020年1月ごろの普及率は約15%程度)、政府は「カード」の取得推進のために、あの手この手の対策をとってきました。既にマイナンバーと戸籍情報をリンクさせて婚姻届も「カード」1枚でできるようにしましたし、現在マイナンバーと医療保険情報をリンクさせて「カード」があれば保険証がなくても病院に行けるようにする準備も進んでいます。今年9月からマイナンバーカードを持っていると買い物でポイント還元を受けられることになっていますし、昨年度には国家公務員と地方公務員を対象に「カードを保有しているかどうか」の調査を再三おこなってきました(事実上のカード取得指示です)。今回のコロナ禍で一人10万円を支給する手続きでも、プラスチック製「カード」で手続きすれば早く受け取れると宣伝して、「カード」保有者を優遇する差別的政策を持ち込んだために、多数の市民が「カード」を作ろうと役所の申請窓口に殺到し、大混雑(いわゆる「三密」環境)になったうえ、結果的には「カード」を使わず郵送で手続きをしたほうが(申請書の記入ミスが少ないので)早く支給されるという逆転の珍現象さえ起きているのです(結果的に政府はウソをついたことになる)。本来10万円の給付にマイナンバーは不要であるにもかかわらず。
 将来、パスポート・運転免許証・クレジットカード、学校の成績表や図書館の利用記録簿などもマイナンバーとリンクする時代が来るかもしれません。技術的には十分可能です。そうなったら、海外旅行も免許更新も買い物の支払いも、就職や進学のときの成績証明も、全部みーんな「カード」1枚で済むのですから、それは確かに「便利」は「便利」ですが、そのかわり「カード」を紛失するなどして個人番号が漏洩すれば、その人の幼い頃からの社会生活のすべてが丸裸になってしまいます(ハイリスク・ハイリターン!)。私は非常に恐ろしい話だと思います。私はそういう社会には住みたいとは思いませんが、皆さんはいかがですか? 便利でさえあればいいですか?

 今回の紙製「通知カード」の廃止も、政府のプラスチック製「カード」普及戦略の一環です。根拠となる法律の改正は昨年5月ですから、今回のコロナ禍とは直接関係はありませんが、「法改正から1年以内の政令で定める日」に「通知カード」の新規発行や記載事項変更を廃止することとしており、その日付を約1年前に「2020年5月25日」に設定していたのです。
 紙製「通知カード」が間もなく廃止されると、今後は新生児が誕生するなど新たに番号を付ける必要が生じた場合、証明機能をもたない「番号通知書」が送付されるだけになります(プラスチック製「カード」取得が事実上義務となる)。銀行口座を開設したり、確定申告などをする際には、この新しい「番号通知書」は使えず、プラスチック製「カード」しか受け付けてもらえなくなります。従来の紙製「通知カード」は、カード面に記載の氏名や住所に変更がない限りは継続して証明能力を認められますが、引っ越しや結婚改姓など記載事項に変更が生じると、その時点で証明能力がなくなります(ということは、2015年10月の制度開始から今年5月までの間に氏名や住所が変わった人は要注意ですね)。その「通知カード」の証明能力も、(政令の改正で)いつ否定されるか予断を許しません。こうして政府は着々と、半ば強引に、半ば利益で誘導しつつ、プラスチック製「カード」を普及させようと躍起になっているのです。

 しかし、それは政府の「戦略」であって、国民の側から見ればプラスチック製「カード」を保有する必要はありません。マイナンバーは住所や氏名が変わっても生涯不変なのですから、最初の紙製「通知カード」で自分の番号が把握できていれば、住所や氏名が変わっても関係ないのです。その証拠に、従来の紙製「通知カード」は、カード面に記載の住所が変わっていても、番号の証明書としては有効でした。そもそも氏名や住所が変わっても関係なく本人確認できるように番号をつけるのが「マイナンバー」制度の目的なのですから、その証明媒体が紙製「通知カード」かプラスチック製「カード」かは、制度の本質からは関係ないわけです。
 にもかかわらず、政府がプラスチック製「カード」普及に躍起となる背景には、少なくともプラスチック製カードメーカーの利権を守る論理が働いています。国民全員が1枚ずつカードを保有するとなったら、カードメーカーは利益ホクホクですからね。かくして国民は合法的にカードメーカーの利潤確保のために奉仕させられているわけです。私たちは、そういう社会の構造をよくわきまえて行動する「賢い国民」にならなくてはいけません。プラスチック製「カード」に伴うわずかのメリットと引き換えに、喜々として政府の国民管理=監視の網の目に組み込まれるようではいけません。主権者たる国民は、政府に対する「監視」と「抵抗」の姿勢を緩めてはいけないのですよ。
 行政のコロナ禍による「緊急事態宣言」が継続しているなど混乱が続いているわけですから、最低でも紙製「通知カード」の廃止を繰り延べ、同時に5月26日以降発行される新しい「番号通知書」にも番号証明能力を認めるなど、国民本位の政策をとるべきだ、と私は思います。

tyngt at 21:21|PermalinkComments(0)clip!時事評論 

2020年05月16日

映画『弁護人』を観ました

 2013年に制作(2016年に日本でも公開)された韓国映画『弁護人』(公式サイトはこちら)をGW中にネットで観ました。
 1980年代(全斗煥大統領による独裁政治の時代)の韓国で敢然と国家権力の横暴に立ち向かった正義感あふれる弁護士の物語で、2003年に大統領に就任する盧武鉉氏がまだ弁護士だった頃の体験をほぼ事実通りに描いた作品だそうです。前半は、くだらない金もうけ主義の弁護士だった主人公が、行きつけの大衆食堂の息子(大学生)が「国家保安法」(戦前日本の治安維持法をモデルにしたともいわれる共産主義弾圧法)違反の容疑で逮捕されたことを知り、その弁護を引き受けたことを契機に、素晴らしい人権派弁護士に生まれ変わります。そして後半では、憎々しい検察官・警察官を相手に勇敢に「無罪」を主張、息をのむ法廷劇が展開されます。文字通り「血沸き肉躍る」作品でした。まだご覧になっていない方はぜひご覧ください(GYAOで5月26日まで無料試聴できます)。ちなみに現在の韓国大統領の文在寅氏(弁護士)は、廬武鉉氏とは同じ法律事務所で仕事をしていた間柄だそうです。

 この映画の中心となっている1980年代の前半というと、私は高校生で受験勉強一辺倒だったこともあり、(在日韓国人のクラスメートの存在、「世界史」での勉強はあっても)基本的に韓国の政治には関心がありませんでした。1980年代の後半は大学生でしたが、それでも韓国の民主化運動には大して関心がなく、せいぜい人から薦められて徐勝さん(1971年の「学園浸透スパイ団事件」=同じく「国家保安法違反」冤罪事件)の書いた本を読んだ程度でした。むしろ私にとって韓国は、日本の過酷な植民地支配の被害者としての面が強く、朝鮮戦争が停戦状態であることゆえの緊張感(毎月15日の防災訓練など)は知っていても、韓国の現代政治をそれ以上深く批判的に見つめる目は乏しかったと思います。しかしこのたび映画『弁護人』を観て、今更ながら、当時の韓国が、かつてのナチス政権下のドイツ(参照:映画『白バラの祈り』)や、現在の習近平政権下の中国と非常によく似ていたことを、実感を伴って学ぶことができました。やはり「映画のもつ教育力」ってすごいですね。

 私は映画を観ながら、主人公の弁護士と、正木昊(まさき・ひろし)弁護士が重なって見えました。正木弁護士は、戦前から戦後にかけて多数の冤罪事件を解決した弁護士です。彼も、映画の主人公と同じく、弁護士になってからしばらくは金もうけ主義でした。名刺を配り歩いては宴会続きの毎日だったそうです。ところが1944年に「首なし」事件の依頼を受け、警察に忖度する周囲の反対を押し切って調査し、最終的に被害者の死因が警察官の暴行であることを証明した体験を契機に、国家権力の横暴と向き合う人権派弁護士に生まれ変わります。正木は政治家への道を歩むことはありませんでしたが、個人誌『近きより』上で展開される政権批判の舌鋒は鋭く、しばしば発禁処分を食らったほどでした。私は、権力の横暴から市民の人権を守る役割をよく自覚し実践していた弁護士として、映画の主人公と正木弁護士はそっくりだなあ、と思いながら観ました。
 もちろん戦前の日本には、正木の他にも、国家権力と敢然と闘った弁護士が少数ながら存在します。たとえば、多数の朝鮮独立運動に関する事件の弁護で知られる布施辰治や、日本国憲法の制定に貢献したキリスト者・鈴木義男も弁護士として多数の治安維持法事件を担当していました。このことも忘れてはならないですね。

 それにしても、この映画を観て私が一番考えさせられたのは、月並みかも知れませんが、「民主化運動の経験がしっかりある国」と「その経験の乏しい日本」との差です。もちろん、かつて市民革命を経験したイギリスやフランスやアメリカが現在でも非のつけどころのない人権大国かと言われれば、大いに疑問は残ります。逆に日本にも、戦前は例えば治安維持法との闘いがあり、戦後も自衛隊や日米安保条約あるいはベトナム戦争などをめぐる闘いはありましたし、最近でも特定秘密保護法、共謀罪法、集団的自衛権行使や沖縄の新基地建設問題をめぐって、そして今まさに幹部検察官の定年延長を可能にする検察庁法「改正」案問題でも、多くの人々が闘っています。しかし残念ながら日本では、それらの闘いが一部の人々の範囲にとどまり、大多数の国民にとっては別世界のことだったのではないでしょうか。私が見る限り、国民の大多数は、政府や公務員の行動を監視し「権力の横暴」にはハッキリ自分たちの「権利」を主張することこそ正しいことなのだ、という理解をまだしっかり獲得できていません(ちなみに韓国では『弁護人』の観客動員数は1000万人だとか。日本でかような社会問題をテーマにした映画で1000万人の観客を動員した作品があったでしょうか)。
 今般のコロナ禍でも、十分な補償なしに休業「自粛」を、と言われても、生活していくためには営業せざるを得ない商店に対して圧力をかける、いわゆる「自粛警察」が暗躍したそうです。政府の言葉や行動に無批判に迎合し、生きていかねばならない民衆に冷たい目を向ける精神は、映画『弁護人』に出てくる憎々しい警察官や検察官と本質的には同じだということに、私たちは気づかなければなりません。同様に、「回りまわって自分たちの権利が脅かされることになるかも知れないから、内閣の一存で幹部検察官の定年が延長できるような制度を安易に認めるわけにはいかない」と想像力・思考力を働かせることができるようになる必要もあります。そういうことを学ぶためにも、映画『弁護人』は見るに値する作品だと思いました。

tyngt at 18:10|PermalinkComments(0)clip!時事評論 

2020年05月15日

オンラインのバーチャル授業はじめました

 前回の記事から約1ヶ月が経過しました。
 私が住む県では、5月上旬のGW(今年は「ゴールデンウイーク」というより「我慢ウイーク」もしくは「頑張ろうウイーク」でしたが…)中に、県教委が「臨時休校を5月31日まで延期」と決めました。入学式が早くても6月1日以降になるという異例の事態です。でも、これは予想の範囲内でもありました。(ここ1週間ほどでようやく2桁まで減ってきたとはいえ)GWに入る前は全国の新規感染報告数が連日200人程度あり、4月29日には全国知事会が「緊急事態の延長」を提言していたくらいですからね。GWが明けた瞬間に臨時休校が解けるとは、とても考えられませんでした。
 私は、そうなることを見越して、前回の記事を書いたあと、3年生の「倫理」についてはGW明けからインターネットを利用した授業(オンライン授業)を始めようと決心し、しかるべく行動を開始しました。世の中では「9月入学制」をめぐって一時あちこちで議論が沸騰しましたが(その是非を論じるのは別の機会に譲りますが)、その議論の発端になった高校3年生からの「高校生活の残り時間がどんどん減っている」という叫びに対しては、いまだに有効な対策が聞こえてきません(参考:5月13日『朝日新聞』社説)。この様子では、最悪の場合「大学入試のスケジュールはまったく変更なし」となることを想定せねばなりません。しかしその「最悪の場合」を想定して逆算すると、仮に夏休みを大幅に短縮するとしても、5月連休明けからは着々と授業をしていかないと間に合わないのです。「ワクチンは早くても来年になる」、「特効薬もすぐには出回りそうにない」という中で「秋には流行の第2波がある」という観測もあります。再び臨時休校になるかも知れません。他方で、私の学生時代の友人が勤務する東京都内のある私立高校では「オンライン授業の体制が整っていて4月からほぼ当初予定通りの日程で授業ができている」(趣旨)そうで、公立高校との格差は日々拡大しています。それらのことを勘案すると、私は「GWが終わって以後も呑気に自習課題をやらせている場合ではない。成績評価を度外視してでも、とにかく授業を始めなければ大学入試に間に合わなくなる。大変なことになるぞ!」と真剣に考えたのです(当の学校には、そして県教委や文科省にも、そういう危機意識がまったく感じられません。信じられないほど弛緩している印象です)。
 それから約1ヶ月、GW返上で(かつ在宅勤務制度も最大限活用しながら)、私なりにいろいろ頑張っています。でもオンライン授業の試みは、まだ軌道に乗っていません。なかなか難しく大変です。今日は、そのあたりの実践を報告します。

システムづくりの大変さ
 最初に考えたのは、学校が唐突に4月からの導入を決めたロイロノートを利用して授業の録画を配信することでした。しかし、録画を配信しようとすると、データ量が巨大になってしまうためロイロノートにアップできないことが分かりました。
 実は、同じことを考えた同僚教員が実際にやってみたら、たった10分か15分ほどの録画データでさえ「ギガ」単位のデータ量になってしまって、ロイロノートにアップできなかった、という話を聞いたのです。その教員は「仕方がないので10分くらい授業の録画を補充的に見せて、残り時間は課題をやらせるつもりだ」と説明してくれました。しかし私は「そんなことをやっていては、(将来はともかく少なくとも現行の)大学入試に対応できる力はつかない」と思い、ロイロ経由で動画配信する案はすぐあきらめました。
 しかし、仮にロイロノートを利用しないとしても、巨大な動画データを配信するとなったら、おそらく受信側の生徒のスマホがパンクする危険性があります。ほとんどの公立高校は生徒に専用端末や通信環境を保障するレベルまで達していません。結局プライベートに持っているスマホを利用させてもらうしかないのです。しかし生徒たちの家庭環境を考えると、パソコンもプリンターもWi-Fi環境もないという場合が大半でしょう。携帯回線で通信量制限がかかっているスマホに50分間の動画を見なさい(しかも1週間に3回、1ヶ月で12回というペースで)と指示することは絶対にできないと思いました。

 そこで私は録音を配信することにしました。私はもともと大量のプリントを配布しながら授業するタイプで黒板をあまり使わないので、録音でも大して支障はないのです。実験してみると50分間の授業を録音した音声データだとwma形式で数メガ、mp3形式に変換しても60〜70メガのデータ量に収まることが分かりました。これなら10回視聴しても1ギガにもなりません。
 ところが、ここで次の問題が発生しました。授業のレジュメや追加資料(新聞記事など)を見せながら同時進行で録音が聞けるようにするにはどうすればよいか、です。これが同時にできないと「授業」になりません。実験してみると、ロイロノートではどうもうまくいかないのです。録音データを1枚のカードに埋め込んでこれを再生すると、同時に別の(レジュメの)カードが見れません。無理に見ようとすると、録音の再生が止まってしまいます。レジュメのカードに録音を埋め込んでみると、レジュメを表示しながら録音は再生できても、追加資料のカードに移動するとやはり録音再生が止まってしまいます。複数のカードにまたがって録音を埋め込むことができないようです。裏技があるのかも知れませんが、困ったことです。

 しばらく悩んだ末、私はロイロ経由で配信するのではなく、クラウドサービスの共有フォルダにレジュメ&追加資料のデータ(pdf形式)と録音データ(mp3形式)をアップし、生徒たちにはその共有フォルダから両方をダウンロードさせて、スマホで同時に表示・再生させれば、この壁をクリアできるのではないか、と考えました。自分のスマホで少し実験してみると、何とかなりそうです。私はこの方法でオンラインの“バーチャル授業”をすることに決めました。そして生徒のスマホがAndroidでもiPhoneでもアクセスしやすいだろうと(そのときは勝手に)考えて、Google Driveの共有フォルダを利用することにし、ここに授業のレジュメと録音をワンセットにしてアップすることにしました。
 少し脇道にそれますが、この方法の隠れたメリットは、録音データが手元に残ることです。ロイロノートのカードに音声を埋め込んでしまうと、あとで録音データだけ取り出せそうにありません。しかし別々に扱うことで、汎用性が高まるのです。
 次の問題は、その共有フォルダのURL(インターネット上のアドレス)を生徒たちにどうやって知らせるかです。共有フォルダのURLを不用意に公開してしまうと、部外者が入ってくる恐れがあります。私は、ここでロイロノートが使えることに気づきました。ロイロノートでは、教員が設定した「クラス」内に「授業」と「受講生」を登録すると、登録されている生徒だけが「授業」に入れる仕組みになっているので、その「授業」の中で共有フォルダのURLを通知すればよいのです。これでシステムは整いました。私はGWに入る直前から、少しずつ授業の録音を始めました。

 5月の連休が明けると、学校から在籍するすべての生徒たちに宛てて、全教科科目の「5月末日までの課題」(プリントなどの印刷物による自習課題)を一括して郵送することになりました。発送作業当日は、朝から担任が教室の各生徒の机上に「出席番号と生徒名」が印字された宛名シールを貼った大きな封筒を並べます。それが終わると、いろいろな教科の教員が自分の授業を受講している生徒の机上に番号と氏名を確認しながら「課題」を置いて回ります。全部の教科科目の配付が終わったら、クラス担任と副担任が封入作業をして、まとめて事務室へ、そして郵便局へ…、という流れで課題が郵送されていくのです。
 私はそこに1枚のプリントを置きました。それは、「連休明けからオンラインでのバーチャル授業を始めます」と宣言しロイロノートにログインして共有フォルダに達するまでの細かい手順を書いたプリントです。そして「数日以内に必ず共有フォルダにアクセスして、授業開始前の打ち合わせ(オリエンテーション)の資料と録音をダウンロードして視聴し、うまくいけば「受講を開始します」とのメッセージをロイロノート経由で返事する」ようにも指示しました。
 裏話になりますが、実はこのプリントを完成するのにはたいへん時間がかかりました。私が担当する3年生の「倫理」クラスは全部で3系統あります。。嫁生から既に「倫理」の授業を受けていて3年生では教科書の後半を扱うクラス、■廓生になってからはじめて「倫理」の勉強を始めるクラス、2年生で「倫理」の前半を勉強したが3年生では選択していないものの勉強は続けたいという生徒や、2年生でも3年生でも「倫理」を選択していないが一度勉強してみたいという生徒を対象に、放課後を使って勉強するクラス。この3つの系統のそれぞれにロイロノートの「授業」を設定し「受講生」を登録しなければなりません。それぞれのクラスに指示する内容が少しずつ異なりますので、大きな表をまずざっくり縦に3つに割って各系統を割り振ったのち、全系統に共通する部分は横1つの枠にし、系統ごと異なる部分は別々に、それぞれがスムーズにGoogle共有フォルダに辿り着けるように、何度もあれこれのテストを繰り返しては記述の微修正を重ねて完成させなければならなかったのです。たいへん気をつかう仕事でした。
 なお、この時さらに1つだけ心配なことがありました。それは3年生の中で、(家庭の教育方針などさまざまの事情で)スマホもパソコンも手元にない生徒が複数いたのです。もし私の「倫理」の授業を選択している生徒であれば、レジュメと追加資料を印刷し、音声はCDに焼いて送らなければならないだろうと思って、そちらの準備も進めていました。しかし幸い郵送作業の直前になって、該当の生徒たちが皆「スマホを買ってもらったらしい」ことが伝えられ、少し安堵した次第です。でも、本来オンライン授業をするならば、生徒たちには専用の端末機器を持たせる必要があると思います。私立の学校では入学の際に全生徒にお揃いのノートパソコンを買わせているところもあるとか。保護者の経済的負担は大変ですが、でも今後は、それは必要なことかも知れません。

 さて、郵送が終わった翌日から、今度は生徒たちからロイロノート経由で次々と「質問」が飛び込んでくるようになりました。「共有フォルダには着いたが、ダウンロードができない」とか、「MP3音声が再生できない」とか、「レジュメを表示しながら同時に音声を聞く方法がわからない」等々。しばらくその質問に対応するのにてんてこ舞いでした。
 もちろん中には、郵送したプリントを丁寧に読めば解決するはずの質問もありました。しかし予想外の現象が報告されていて、どう対処すればよいのか私にもわからないような相談もありました。そういうときは一瞬「オンライン授業はやっぱり無理かな」という言葉が胸中をかすめました。しかしここであきらめては、それまでの準備が台無しになります。「いや、必ずできるはずだ」と信じて、懸命に対処法を調べる時間が流れました。そしてその過程で(つまり対処法を調べているうちに)、いろいろなことが新たに分かってきたのです。
 まず、Google Driveの共有フォルダは、一日あたりもしくは一ヶ月あたりのダウンロード可能な件数やデータ量に制限があるということでした。「まさか」と思いましたが事実のようです。理由は分かりませんが、無料サービスですから仕方がないのかも。ともかく多数の生徒が一斉にレジュメと録音をダウンロードし始めたため、あっという間に制限に引っかかってしまったのですね。最初はアクセスが集中しているためにダウンロードできないのではないかと思っていたのですが、どうも様子が変なので調べてみると、そういう事情でした。そこで急いでOne Drive(マイクロソフト社)にも共有フォルダを開設し、ロイロノートで追加案内することで対処しました。One DriveにもGoogle Driveと同様の制限があるのかどうか現時点ではよく分かりませんが、もしもの場合はさらに別の共有フォルダを開設して対処することにしています。
 次に分かってきたのは、iPhoneスマホの場合、mp3形式の音声ファイルがダウンロードできないということでした。mp3は音楽ファイルとして一般的ですが、調べてみるとiPhoneと純正アプリの組み合わせだけではmp3の音声ファイルをダウンロードすることも再生することもできず、mp3用のアプリを別に導入する必要があるのですね。私はAndroidスマホを使っているので、まったく知りませんでした。メーカーごとの囲い込みなのか、操作性を向上させるためのサービスの一環なのか、正体はよくわかりませんが、オンライン授業をするうえでは困った話です。仕方がないので、「GoogleなどでiPhone/mp3/ダウンロードといったキーワードでネット検索すると、iPhoneでmp3の音楽ファイルを再生できるアプリの紹介や設定方法を案内しているサイトが複数あるので、それで対応してください」と返事するしかありませんでした。その後しばらくして、「うまく再生できた」と報告が届きました。「One Driveからだとmp3アプリがなくても再生できた」という報告もありました。
 さらに「レジュメを表示しながら同時に音声を聞く方法がわからない」という問い合わせも複数ありました。私は、「次のようにしています」として、「.譽献絅瓠pdf)と、音声(mp3)の両方をダウンロードします。▲瀬Ε鵐蹇璽匹靴織侫.ぅ襪魄賤できるアプリ(*)から、まずレジュメを表示します。再びアプリ(*)に戻り、音声の再生を始めます。ぅ好泪朮萍未鬟好錺ぅ廚靴董起動中アプリの一覧画面から、レジュメの画面を表示させます。このようにすると、レジュメを見ながら同時に音声を再生できます。(*)ダウンロードしたファイルを一覧できるアプリがスマホに入っていない時は、アプリストアから無料で導入できます。」と返事しました。しばらくして生徒から「うまくいきました」と返事がありました。私の説明不足が原因ですが、「やれやれ、ひと安心」です。
 しかし、生徒たちの側にしても大変ですよね。生徒たちは確かにスマホは持っていても、ふだんは限られた使い方しかしていないためオンライン授業をこなすためのこのような複雑な操作には不慣れだとしても当然です。私たち教員向けには4月当初にささやかながらロイロノート説明会がありましたが、生徒対象の説明会は全然やっていません。それなのに、急に「ロイロノートを使うぞ」と言われ、利用方法や操作方法をきちんと説明される機会もなく、「若いんだから分かるでしょ?」と云わんばかりに振り回されて、これでは生徒たちもストレスがたまるだろうと想像します。
 このように、オンライン授業というものを「緊急事態」になってから緊急に導入してもスムーズにはいきません。ふだんから使い慣れていてこそ、です。民間の教育産業によるITサービスが学校現場に過度に浸透してくることに対して私は以前から快く思っていませんが、こういう事態を想定して準備しておくことは必要だったのではないかとは思います(火災や地震に備えて避難訓練をするように)。今般のコロナ禍による政府の対応がすべてにおいて後手後手なのは、パンデミックを想定した体制づくりをまったくしていなかったからに他なりませんが(PCR検査体制の不備、自粛要請にともなう補償制度の不備、地方の拠点病院の統廃合政策など挙げればきりがない。原発事故とまったく同じ構図!)、本質においてそれと同じことが教育現場にも当てはまるのではないでしょうか。

コンテンツ作りの大変さ
 さて以上はオンライン授業のためのシステムづくりの話ですが、問題はまだあります。コンテンツつまり肝心の授業のレジュメや追加資料と、なにより授業の録音を作るという作業です。
 私が勤めている高校の授業は1コマ50分です。この50分間に1回分の授業をきちんと収めるというのは結構難しいことです。実際に教室でする“リアル授業”では、時間の切れ目と授業の切れ目が一致しないことは茶飯事です。生徒の出席確認などのロスタイムもありますし、ぶっつけ本番ですから、つい調子に乗ってしゃべりすぎて予定のところまで進めないことがしばしばあります。逆に、妙に時間が余ってしまうこともあり、そういうときは次の授業の範囲に入って時間を稼ぐこともあります。それがリアル授業の日常風景です。ところが録音となると、そうはいきません。(少なくとも自分自身の気持ちとして)1回分の録音には1回分の授業を入れておきたくなります。そのほうが自分でもわかりやすいし、生徒が聞き直す場合を想定しても親切でしょう。しかし、これがなかなか難しいのです。「時間が残っていますが今回は早く終わります」というのは許容できるとしても、「50分を超過しているのに終わらない」というのは避けたいところです。ところが実際に録音してみると、つい説明が冗長になって時間が足りなくなることがしばしば。そのたびに録音をやり直していると、大変な時間が経過します。何とか50分に収まったと思っても、聞き直してみるとうっかり説明すべき箇所を飛ばしていたことに気づいたり、必須のダジャレを言い忘れていたり(それは大問題だ)、説明の浅さが気になったりします。そういうときは録音を最初からやり直したくなります。結局、1回の授業の録音を確定させるのに2〜3回、下手をすると4〜5回も録音を繰り返すという羽目になってしまうのです。おかげでこのGW中と以後の時間の大半は、この録音作業に費やされています。そこまでしても(何度も録音のやり直しを繰り返しているせいで)、5月中に配信する予定の授業の録音がまだ全部終わっていません。本当に苦労します。オンライン授業の準備がこんなに大変だとは、まーっったく予想していませんでした。
 でも、こうして自分の授業を時間内にきっちり収まるように録音しようと努力することによって、私自身も改めて勉強が深まっているのも事実です。何を話し、何を削るか選択を迫られるというのはもちろんですが、録音という「形」に残るだけに、あいまいな説明や間違った説明を極力回避しようという心理も働きます。昨年度までの授業のレジュメをもとに話をしているので大きく内容が変わることはありませんが、細かい部分の修正を重ねることで、授業の内容と質が多少なりとも洗練されているのを実感します。これも当初は予想していないことでした。

今後の見通し
 さて、「課題」の郵送からそろそろ1週間になります。でもどういうわけか、生徒たちからの「受講を開始します」の返事はまだ半分くらいしか届いていません。しかし全員の返事を待っている余裕はありません。見切り発車で、数日前から授業のレジュメと録音データをGoogle DriveとOne Dvibeの両方に、せっせとアップし始めました。
 私の授業を受けている生徒の中には、正規の授業はまったく履修していないが自主的に勉強したいという人もいます(上記3系統のに含まれる)。そういう生徒のためには、最終的には教科書の全範囲を対象に録音で授業をお届けしたいという気持ちもあって、そのぶん余計に力が入っています。
 5月初旬に郵送したプリントには「5月中に少しでも遅れを取り戻し、6月から平常授業が始まったら“バーチャル授業”の続きから始めます」と書いたので、その通りに進めていきたいところですが、生徒たちが録音を介した“バーチャル授業”で理解できているか、本当に6月から平常授業ができるのか(もし6月以降もしばらく分散登校や短縮授業となる公算大ですが、それでは授業のペースはがた落ちです)、本当に「続き」から授業して大丈夫か、不安材料はたくさんあります。
 文科省・県教委には、せめて現在の高校3年生だけでも、今後のスケジュールの見通しを早くつけてほしいと思います。

2020年04月19日

コロナ禍の教育現場への影響と課題

主な経過
 重篤な肺炎を引き起こす新型コロナウイルスの感染拡大は、ますます深刻になっています。4月2日の新聞には「世界感染者90万人突破/世界死者4万人超え」という記事がありましたが、1週間後の9日は「世界の感染150万人に/1週間で50万人増続く」となり、さらに1週間後の16日は「世界の感染者200万人超に」と、爆発的勢いです(以上『東京新聞』)。
 国内でも、4月2日紙面に「感染者3216人/死者80人」とあったのが、1週間後の9日は「感染者5693人/死者116人」、16日には「感染者9441人/死者192人」と急増しています(以上『朝日新聞』)。
 4月7日に安倍首相は東京都など7府県に対して「緊急事態」を宣言しました(なお、安倍首相が「緊急事態宣言を発出します」と言ったり、一部マスコミが「緊急事態宣言を発令した」と報じましたが、正しい表現ではないと私は思います)。16日には「宣言」の対象を全国に拡大。首相は「(感染拡大阻止のため)対人接触機会の7〜8割削減」を強く求めています。
 「緊急事態宣言」を受けて東京都の小池知事は11日から娯楽施設や劇場などの休業を要請し、都独自予算で50万〜100万円の「感染拡大防止協力金」支給を打ち出しました。いっぽう政府も「宣言」と同時に経済対策(総額108兆円規模)を打ち出したものの、その大部分は融資や納税延期などのため不評。特に「減収世帯に対する30万円給付」には受給対象世帯の線引きが不明瞭なうえ申請手続きも煩雑とあって、野党はもちろん与党内からも批判が高まり、16日には公明党の強い要請で急転直下「住民一人一律10万円給付」へ大転換するというドタバタが続いています。

教育現場の動き
 このような世の中の動きのもと、教育現場でも混乱が続いています。私が住む県では、(4月8日の新学期開始を目前に控えた)4月6日、教育委員会が「すべての県立高校の新学期開始を1週間延期」と決定しましたが、わずか1週間後の4月13日に再度「5月6日まで(ゴールデンウイーク明けまで)再延期」となりました。私が勤務する高校では、幸い3月末までに在校生・新入生の全員を連絡メールシステムに登録させることができましたので、事務的な連絡はおおむねスムーズにいくようで、「入学式も含めて15日まで延期」の連絡も、決定当日に済ませました。
 しかし学校現場は、この2度にわたる新学期の開始延期により、当然ながら大きな負担を強いられています(全国どこでも同じことが起きていると思いますが)。ここでは、その状況について具体的に報告します。

 (1)延期に伴って発生した最初の問題は、4月15日に新学期が始まった場合、感染が拡大する中で生徒たちを安全に登下校させるにはどうしたら良いか、でした。生徒たちが朝の満員電車を避けられるよう配慮して、登校時刻を繰り下げての短縮授業とすることが検討されました。さらには「夏休みごろまで多人数での行事も延期」という方向を打ち出し、コロナ禍の長期化を視野に年間行事計画そのものの練り直しに迫られることになりました。しかしこの動きは、新学期開始が5月以降になり、今後の収束の見通しもたたない中で、一時的に頓挫した状態になっています。
 いずれにしても学校を再開するにあたっては、3月10日にユニセフ・国際赤十字赤新月社・WHOが共同で出した「新型コロナウイルスの感染から子どもと学校を守るための新しい行動指針」に沿った対応が必要になると思います。

 (2)延期に伴って発生した2つめの問題は、「高等学校等就学支援金」の書類提出でした。就学支援金とは、授業料相当額の全部を国が肩代わりすることによって保護者の授業料負担が大幅に軽減される(公立高校では事実上ゼロになる)制度のことです。保護者の年収が約910万円以上の場合は受給できませんが、受給の可否に関わらず、新入生全員が書類を提出する必要があります。ところがその提出期限が早いために(金融機関とのやり取りがあるため延期できない)、入学式を実施する15日に書類を受け取ったのでは間に合わないことが判明したのです。そこで急ぎ9日と10日の2日間(いずれも朝から夕刻まで)都合のよい時刻に保護者に学校まで来てもらい、一人一人名簿でチェックしながら書類を受け取るという作業を、全教職員が総出で(当番を組んで)実施するということになりました。
 私は、就学支援金の手続きは全国の国公私立すべての高校で必要な作業なので、文科省がしかるべく手を打てば簡単に済む話ではないかと思い、実際に校長にもそう伝え、校長も県教委に善処を求めたらしいのですが、間に合わず。結局、多くの教職員が当番表に従って校門に立ち、書類の受け取りをせざるを得なくなりました。

 (3)3つめの問題は、新学期の開始が1週間延期となったことで、生徒たちの学習をサポートするための課題が必要になったことです。当初は「延期は1週間」の見込みでしたので、印刷を伴うような大がかりな課題ではなく、学校の公式サイトへの掲示で連絡できる程度のものを各教科から出すことになりました。私は、「1週間なら英・数・国の3教科中心で間に合うだろう」と考え、担当する授業の課題は何も出しませんでした。ところが1週間後に「5月6日まで延期」と決まったときは、さすがにしっかりした課題が必要だということになり、同僚の先生方と話し合ってしかるべき課題を作り、大急ぎで印刷し製本する作業に夕方まで汗を流しました。
 【追記:そのさい管理職はNHK「高校講座」も活用してほしいと要望しましたが、私が担当している「倫理」や「現代社会」はラジオ放送しかなかったので、(いちおう生徒に案内はしたものの)課題にはしませんでした。】
 課題を出す際に注意しなければならないのは、「課題が過大」にならないようにするということです。教員の側からすれば、生徒たちに勉強してもらおうとあれこれと欲張りに課題を出しがちです。しかしそれぞれの教科・科目の教員が出した課題を全部足し合わせれば相当の分量になります。生徒たちの負担が増し、期間中には片付かないということも起こり得ます。課題の分量を調整することが必要だと思います。

 (4)4つめの問題は、副教材の購入でした。幸い私が勤務する高校では、新入生も在校生も教科書は3月中に購入が終わっていましたが、資料集や問題集などの副教材は新学期開始後に予定されていました。副教材を購入することが前提の「課題」もありますので、購入を5月まで延期するわけにはいきません。そこで私が勤務する高校では、15日〜17日の3日間、都合のよい時間に生徒本人か保護者に来校してもらい、濃厚接触を避けるため校舎1階の教室の窓越しに受け渡し(お金を受け取り副教材と上記「課題」などを一緒に渡す作業)をすることになりました。この作業のために受け渡しに当たる教職員の当番表が組まれました。事前に書店の店員さんの協力も得ながら教職員が総出で、倉庫に準備されていた大量の副教材を台車に載せて各教室に運び、学年別に積み上げ、何をどう受け渡すか打ち合わせをして臨みました。1年生は全員ほとんど必修科目ですが、2年生や3年生になると生徒ごと選択科目が違ってきますから、副教材もあらかじめ個別の袋にして生徒番号をつけて特定しなければなりません。ここまで準備するだけでも大した作業になりますが、これをバラバラに来校する生徒に間違いなく手渡し、代金を受け取らなければならないわけです(実際にはミスもあったようです)。お釣りや領収書が必要な場合は別室で控えている書店の店員さんを呼んで発行してもらうことになります。私も3日間交代で教室(受け渡し場所)に入って受け渡しをしたり、駐車場で来校車の誘導作業をしたりしました。ときおり寒風が吹きつける中でしたが、幸い3日間でほぼ全員の購入を終えることができました。

 (5)5つめの問題は、今後のことです。ゴールデンウイーク明け以降の授業と定期試験そして成績評価をどうするか、という非常に重要な問題です。感染拡大の現状を見ていると、ゴールデンウイークが明けても臨時休校は継続する可能性があります。しかしいつまでも「課題」だけで済ませるわけにもいきません。臨時休校が続く場合を想定して、授業や試験や評価をどうするか、いろいろな模索が始まっています。しかし簡単なようで非常に難しい問題です。
 まず「授業のオンライン化」を検討しなければなりません。「オンライン化」には2種類あり、,△蕕じめ授業(教員の説明風景)を録画した動画をYouTubeのようなサイトに掲載し、それらを生徒たちが都合のよい時に各自のスマホやパソコンで視聴する(オンデマンド配信)というタイプと、⊆業をインターネットで生放送(ライブ配信)するタイプがあります。いずれにしてもそれなりの準備が必要です。学校側ではカメラやインターネットサービスの整備が必要となり、生徒側ではスマホやタブレットなどの端末のほか、大容量通信に対応できる「Wi-Fi環境」も整備する必要があります(しかしスマホを持っていない生徒も少数ながら存在します)。ID・パスワードの連絡や設定方法の説明なども必要になってくると思います。私立高校では既にインターネットを使って授業のオンデマンド配信やライブ配信を始めるところが出てきていますが、公立高校では(ごく一部の先進的・実験的な学校を除いて)これから準備を始めるところが多いと思います。
 私が勤務している高校では、4月初旬に「ロイロ・ノート・スクール」導入に向けた教員対象の研修会が開かれました。全生徒が一人1台のタブレットかスマホをもつことを前提に、インターネット経由で事務的連絡や課題のやり取りなどができるツールです。今回のコロナ禍が長期化した場合には授業のオンライン化にも応用できるとあって、一部の(特に若い)教員たちは熱心に研究しています。類似のインターネット利用の教育サービスとしては、ベネッセの「クラッシー」やGoogle「クラスルーム」などがありますが、それぞれ一長一短があるようで、「これひとつあれば何でもできる」という決定的なものはまだ見当たらないようです。
 私が勤務している高校では、今週になって全教員に一人1台タブレットが支給され、「ロイロ・ノート・スクール」を活用して課題を出したり提出させたりといった手順を実際に各自の手元で確かめることができるようになりました。でも実際にこれを使ってオンライン授業をしようとすると、あらかじめタブレット上に(従来の印刷プリントに相当する)「カード」を1枚1枚新しく作っていかなければならないようですし、口頭説明が必要なら録音しなくてはならない…など準備が大変になりそうです。こういう「作り直し」の手間を強いられることには、(年齢のせいかも知れませんが)いささか苦痛が伴います。根本的なことを言えば、私たちがこういった教育サービス側が提供する枠組みに合わせて授業や資料をつくらなければならないということ自体が、教育の自主性・自律性の崩壊なのではないか、とも思います。
 授業のオンライン化を進める場合、生徒の出席状況をどうチェックするかも同時に考えなければなりません。高校では出席状況が単位取得や進級卒業の認定に影響しますので、出席確認は重要です。「ロイロ・ノート・スクール」の場合はあらかじめ受講生徒を登録しておきタブレットの画面上でログイン(=出席)しているかどうか確認できますので比較的簡単ですが、その他のインターネットを介したオンライン授業で(特にオンデマンド配信の場合)どうチェックすればよいのか、今の私にはよく分かりません(授業(動画)の中で抜き打ちに課題や合言葉を出しておき、後でその課題(や合言葉)が提出(返信)された場合に出席したものとすればよいのでしょうかね?)。クラス単位で40人相手に授業する必修科目の場合と、複数のクラスにまたがる少人数の生徒相手の選択科目の場合とで、同じように出席確認ができるのかどうかも不明です。本当に手探り状態です。
 さらに、今回のコロナ禍で全国の小中高校がどんどん授業のオンライン化を進めたときにインターネット回線がパンクしないのかどうかも心配です。そう考えると、「オンライン授業」と言っても、結局「1コマ50分間を丸々オンライン化」するのではなく、「一部分だけオンラインで残りは課題による自学自習が中心」といった形にならざるを得ないのではないかとも思います。すると今までの授業とはまったく勝手が違ってきますので、生徒以上に教員に大きな負担がかかってくると思います。
 授業のオンライン化と並行して考えなければならないのが試験と成績評価です。私は、カンニングなど不正行為を防止しながらオンラインで試験を実施するのは現状では不可能だろうと思います。試験はやはり実際に生徒を登校させて実施するしかないでしょう。しかし5月からオンライン授業がスムーズに始められたとしても、(試験範囲に設定できる学習範囲が狭すぎて)6月の定期試験を従来通りに実施することは難しいだろうと思います。定期試験の時期を遅らせて、コロナ禍が少し落ち着いてから実施するという段取りとなるのでしょうか。
 もし試験が従来通りに実施できそうにない場合、既に出している「課題」や今後の「オンライン授業」だけで成績評価ができるでしょうか? ちなみに私が勤務している高校の管理職は、「(2022年度から本格実施予定の)新学習指導要領の「観点別評価」を先取りして、課題だけで成績評価ができないか検討してほしい」などと言っています。ここでいう新しい「観点別評価」とは、従来のように主としてペーパー試験の点数で成績をつけるのではなく、「知識・技能」、「思考・判断・表現」、「主体的に学習に取り組む態度」の3つの観点で各生徒の成績を総合的に評価する方法です。あらかじめ毎回毎回の授業がこの3観点のどれに重点を置いているか、どういう基準で評価するかを明示し、成績を出す際にも生徒一人一人につき3観点のそれぞれの評価を明示する(いわゆる「内申書」にもその記録が残る)という評価システムですので、2022年度から生徒の成績評価の業務は従前に比べ格段に大規模化・複雑化・煩雑化(そして形式化)することが確実なのですが(まともにこれをやれば、ものすごい過重労働になると予想します)、それを前倒ししてこのコロナ禍の混乱のさなかに実施できないか検討せよ、というのですから、大変な話です。
 そして、もし来年の大学入試のスケジュールが例年同様だとすれば、仮に5月ごろから授業を再開でき夏休み冬休み返上で授業をしたとしても、教科書を終えられるかどうか微妙になってきます。もし6月7月ごろまで不安定な状況が続くようであれば、大学入試のスケジュールは絶対に延期してもらわなければならなくなるでしょう。ちなみに4月11日の朝日新聞の投書にもありましたが、私は今回のコロナ禍を契機に今年度の授業を全国一斉に9月開始に繰り下げ(今後は日本の教育年度を大変革して欧米と同じく9月開始にする)、コロナ禍が落ち着いてからゆっくり勉強を始めるという選択肢も早めに検討すべきではないかと考えます。感染が拡大していて授業が満足にできない地域と、感染がほとんど拡大していない地域との間に生じる「授業進度の格差」を放置したまま大学入試を実施することはあってはならないことだと思います。
 【追記:なお報道によると4月10日に文科省は「休校中の児童生徒が家庭学習を通じて学力を身につけたと確認できる場合、学校再開後に同じ内容を授業などで扱わなくてもよいとする特例の通知」を出し、14日に萩生田文科大臣は記者会見でこの通知について「…臨時休業が長期化した場合においては、再開後の授業の中で、学校で指導していない内容全てを指導することがどうしても難しく、教育課程の実施に支障が生じるような事態も考えられます。こうした事態に備え、学校が課した家庭学習の学習状況及び成果を確認した結果、十分な学習内容の定着が見られ、再度指導する必要がないものと学校が判断した場合には、特例的に、学校の再開後等に、当該内容を再度学校における対面指導で取り扱わないこととすることができるとしております」と述べたそうです。ははーん、これはつまり、「臨時休校でも課題などでしっかり勉強させて、学校が再開したら残りの部分を授業すればいいのだから、大学入試のスケジュールは変更しないよ」ということでしょう。それは机上の空論だと私は言いたいですね。すべての高校生がそれで大学入試に対応できるのだったら、そもそも高校の授業は要らないということになりますよ。】

 (6)コロナ禍による新学期開始の延期に伴う問題点の6つ目は、教職員の感染拡大をどう防止するかです。大学教員の研究室(個室)と違い、学校の職員室は狭い部屋に多数の教職員が机を並べて会話しながら仕事をしている環境ですので、文字通り「3密(密閉・密集・密接)」です。もしコロナウイルスに感染した教職員がいたら、あっという間にクラスター(感染者集団)が発生するでしょう。それはまさに「学校崩壊」であり「教育崩壊」に直結します。このような職場環境を早急に改善することが必要になっていますが、政府(文科省)の取り組みは非常に遅れています。
 ちなみに私が勤務する県では、安倍首相の突然の要請で全国一斉の臨時休校が始まって間もない頃の3月6日に、県教委が各学校に通達を出し、教職員が感染した場合には「病気休暇」、PCR検査を受ける段階で「職務専念義務免除(職専免)」、養育する子供の小学校が休校になったために出勤できないときは「特別休暇」などの取り扱い方針を定めましたが、そもそも感染拡大防止のための対策はまったく無く、「感染が心配だから出勤したくない」場合は「有給休暇」をとるしか方法がない、という状態でした。そのため教職員組合は県教委や管理職と交渉し、教育公務員特例法の第21・22条(=以下抄録)
第21条 教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない。
第22条 教育公務員には、研修を受ける機会が与えられなければならない。
2 教員は、授業に支障のない限り、本属長の承認を受けて、勤務場所を離れて研修を行うことができる。
が定める研修制度を拡大解釈して事実上の在宅勤務を容認するよう要求して「柔軟に対処する」との回答までは得たものの、実際には教員が管理職に「自宅での研修」の申請を出しても、「他の教員が出勤しているから」とか「授業準備のためだけでは中身が足りない」など様々の理由をつけられて、なかなか認めてもらえない状態です。
 しかし、さすがに4月16日に安倍首相が「緊急事態宣言」の対象地域を全国に拡大すると述べ、「人的接触の8割削減」が喫緊の課題になってきたのを受けて、ようやく県教委は17日に「在宅勤務を可能にする通達」を出しました。「臨時休校期間中、『自宅への出張』という扱いで在宅勤務を認めてよい」という趣旨です(「自宅への出張」とは面白い発想ですね)。生徒の個人情報(住所・電話番号や成績などの情報)を取り扱う仕事を除く等の条件はありますが、おおむね職員室でやっている仕事の多くを自宅でできるようにした点で、大きな前進であり、画期的なことです。

 以上とりあえず私自身が直面したことばかりになってしまいましたが、新型コロナウイルスの感染拡大による臨時休校は、教育現場へも当然ながら大きな影響をもたらし、次々と新しい課題を生み出しています。

まとめ
 公立高校の教員は地方公務員ですから、臨時休校になってもいきなり給料が減るということはありません。また感染者や重篤患者を相手に毎日命がけで仕事されている医療関係者の苦労に比べれば私たち教員の苦労なんて微々たるものです。私たちはその意味では恵まれています。それゆえ「この程度のことは黙って我慢すべきだ」という意見もあるかも知れません。しかし未曾有のパンデミックの中にあっても生徒たちの教育を受ける権利(学習する権利)を保障していくためには、教員が安全な職場で仕事ができ、質を下げない授業を持続できる体制を早急に整えなければなりません。しかしその点で現在の公立高校の環境は非常に貧弱です。それはつまり、これまで日本政府が公教育にほとんどお金をかけてこなかった(教育予算は国の一般会計のわずか5%程度に過ぎない)ツケがこういう形で回ってきているということでもあります。

 私は、このコロナ禍が日本のみならず世界中の学校教育に多少なりとも根本的な変革をもたらすことになるのは確実と思っています。しかしその変革が、教育現場に新たな格差をもたらすことにならないようにしなければなりません。コロナ禍で教育現場にもたらされる変革が、例えばインターネットに疎い家庭や教員の肩身を狭くしたり、負担を増やしたり、学習環境や職場環境を悪くする方向に進まないよう努力する必要があると思います。言い換えれば、貧しい家庭に育ち満足な教育を受けられなかった子供たちがしっかり教育を受けられるようになるとか、教員の負担が大幅に軽減されるようになる等の「改善」への契機にすることが大切だと思いますね。(「来年夏に東京オリンピックを開催できたら」ではなく)コロナ禍をそういう方向に「活かして」こそ、本当の意味で「コロナを克服できた」と言えるのだろうと思います。

【追記 関連記事
<新型コロナ>休校、世界に広がるオンライン授業 教育格差鮮明 ネット未整備の層を救え(2020/4/19 東京新聞)】

2020年03月30日

2019年度「現代社会」の授業から

 今年度(昨年4月から)の1年生対象の「現代社会」の授業について、このブログではゴールデンウイーク前に「日本国憲法の制定過程についてレポートを課した」という報告で止まっていましたが、授業はその後も順調に進み、2月までに無事すべて終えることができました。
 私が勤務する高校では、1年生の授業はもともと2月中に授業も定期考査も済む予定になっていました。3月2日と3日に定期考査の答案返却のための出校日が予定されていましたが、それが終われば、高校入試のため長い自習期間に突入する予定でした。新型コロナウイルスによる肺炎の感染拡大の影響で2月27日(木)夜に安倍首相が突然「全国一斉臨時休校の要請」をしたときには、定期考査の答案返却を準備している状態でしたが、それも3月2日と3日を臨時出校日として済ませることができたので、私の「現代社会」の授業に限って言えば、幸い「全国一斉臨時休校」による影響はほとんどありませんでした。
 もっとも先日も書きましたように、本来ならば高校入試のための長い自習期間が終わった後には、生徒たちの研究発表会が予定されていました。毎年レベルが高いので、これが中止になったのは残念なことでした。またその他にも、私の場合は各クラス1コマずつの授業が確保される予定でした。私はその1コマを使って今年度1年間の授業を振り返って総まとめの話や授業評価のアンケートなどをするつもりでしたので、それが「臨時休校」で吹っ飛んでしまったのも残念でした。安倍首相の独断には本当に怒りを禁じ得ません。

 さてそれはさておき、今年度の「現代社会」の授業を振り返って印象に残った授業の一つに、年度後半で扱った「領土問題と戦後処理問題」の授業があります。ふつうの(文科省検定済みの)教科書では、領土問題や戦後処理問題は小さくしか扱われていませんし、憲法の「平和主義」については、もっぱら自衛隊と日米安保体制に関する内容です。それゆえ教科書通りに授業したのでは、日本国憲法の視点から「平和主義」を学ぶことになりません。そこで今年度は、昨年度以上に、領土問題や戦後処理問題についても時間をかけて取り組むようにしました。以下その報告です。かなり長文になりますが、ご容赦ください。
 なお「平和主義」の単元においては、授業のテーマ進行(話の順番)をなるべく生徒たち自身が決めるように心がけました。ひとまとまりの説明が終わったら、次は何の話をするか、生徒たちに決めさせるようにしたのです。政治的にデリケートなテーマだけに、生徒たちの学習意欲と知的関心を尊重して、一方的な授業展開にならないようにするためです。

 (1)「平和主義」単元に入って最初の授業では、まず私から前文と憲法9条の説明をしました。その中で、非武装平和をうたう9条の源泉が18世紀ドイツの哲学者カントの永久平和論にあること、9条の条文案は当時の幣原喜重郎首相自身の発案によるものであること、帝国議会における審議の過程では、鈴木義男が当初の政府案にはなかった冒頭の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の部分を追加させたこと、などを史料に基づいて話しました。
そのあと生徒たちに「ここまで聞いて何が疑問?」と生徒たちに尋ねたら、「じゃあ、なぜ自衛隊があるの?」と聞いてきたので、
 (2)次の時間は、自衛隊が創設された経緯について、朝鮮戦争をきっかけにアメリカの占領政策が変わったことから説き起こし、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約の締結、自衛隊や在日米軍をめぐる各違憲訴訟、政府が1972年に出した「自衛のための必要最小限度の実力は憲法に違反しない」との見解などについて説明しました。
そのあと生徒たちに「ここまで聞いて何が疑問?」と生徒たちに尋ねたら、「じゃあ、その必要最小限度の実力ってどこまでなの?」と聞いてきたので、
 (3)次の時間は、この見解について説明しました。1972年の政府見解からは、自衛隊の実力は「専守防衛」すなわち「個別的自衛権の範囲内」にとどまること、それゆえ「集団的自衛権の行使」は(国連憲章で認められてはいるが)できないこと、にも関わらず安倍内閣は憲法解釈を変更する閣議決定を経て安保法制を強行採決したこと、などを話しました。また「最小限度」を担保するための非核三原則や武器輸出禁止といった政治指針も現実には破綻していることを説明しました。
そのあと生徒たちに「ここまで聞いて次は何を知りたい?」と生徒たちに尋ねたら、生徒たちは困った様子だったので、私から3つ選択肢を示しました。1つは「国連の安全保障体制について」、2つは「日米安保条約の体制について」、3つは「領土問題と戦後処理問題」。生徒たちが多数決で選んだのは「日米安保」でした。というわけで、
 (4)次の時間は、日米安保条約の体制を扱いました。1951年の安保条約と1960年の安保条約の違い、米軍基地が沖縄に集中していった経緯、日米地位協定が定めている在日米軍の特権、その影響を大きく受けている沖縄の現状などをいくつか具体的に話しました。そして1990年ごろからの日米関係の変化から安倍内閣による安保法制までの動きを紹介しました。
そのあと生徒たちに「ここまで聞いて次は何が知りたい?」と生徒たちに尋ねて、選択肢を2つ示しました。1つは「国連の安全保障体制について」、2つは「領土問題と戦後処理問題」。すると生徒たちが多数決で選んだのは後者でした。というわけで、

 (5)次の時間から、領土問題について扱いました。私はまず授業の冒頭で、「これまでの授業を真面目に聞いてきた人たちの中には、自衛隊や在日米軍は9条に違反する存在である可能性が高いと、ネガティブな印象をもっている人が多いのではないでしょうか。しかし世の中には逆に非武装では平和を守れないという意見をもつ人も少なくありません。たとえば中国や北朝鮮から領土を守るためには軍備が必要だという意見です。皆さんはどう思いますか?」と問いかけてみました。すると生徒たちの大半が「うんうん」とうなずいています。
 そこで私から質問。「では、中国や北朝鮮から守るべき土地とはどこですか?」。すると生徒たちはすぐ挙手して「北方領土・尖閣諸島・竹島です」とすぐに答えました。中学校までの教育がいかに徹底しているかを感じて、私は「すごいなあ」と思いました。私は黒板に日本地図(略図)を描き、その位置も答えてもらいました。そして「そう、よく知っているね。ちなみに日本政府は、これらの土地は日本の固有の領土であり、それゆえ日本にはそもそも領土問題は存在しないと主張しているくらいです。固有の領土ってどういう意味ですか? …そうね。ずっと昔から日本の土地だという意味ですよね。つまり日本政府は、北方四島と尖閣諸島と竹島はずっと昔から日本の土地だと主張しているわけですね。このことは知っていなければなりませんよ」と念を押しました。生徒たちは「うんうん」とうなずいています。私は続けます。「しかし主権者たる国民としては、日本政府の主張が本当に正しいかどうか確認する必要がありますよね?」と続けました。生徒たちは「ああ、そうか、そうだったな」という具合にうなずいています。
 そこでまた私は生徒たちに質問します。「ところで沖縄が日本の領土になったのはいつですか?」。生徒たちは「えっ?」と一瞬にして凍り付いたような表情になりました。しばらくして一人の生徒が手を挙げて「明治時代?」と答えます。「そうですね。明治になってからですね。江戸時代には沖縄は琉球王国という独立国で、薩摩藩や清国などと交易していたのでしたね。明治政府がその沖縄を日本の版図に入れたわけです。沖縄は日本の固有の領土ですか? …そうね。昔から日本の領土だったわけじゃないから固有とはちょっと言えないかも知れませんよね。じゃあ、その沖縄のさらに遠い場所にある尖閣諸島は日本の固有の領土?」。生徒たちは「ああ、そうか、分かった」とでも言いたそうに苦笑しながら、首を横に振ります。同じように、明治時代になってから本格的な開拓事業が始まった北海道よりさらに遠くにある北方四島も本当は「日本の固有の領土」とは言い難いだろう、ということを話します。
 このタイミングで私は、「(教科書と一緒に使っている)資料集を開いて領土問題の経緯をまとめた年表を見る」よう促しました。年表には「日本が尖閣諸島の領有を宣言したのは1895年」とあります。私は生徒たちに質問します「1895年って何があった年ですか?」と。生徒たちは「下関条約」と答えます。「そうですね。実は日本が尖閣諸島の領有を宣言したのは日清戦争の真っ最中なのです。下関条約を締結する前に領有を宣言したのです。日本は、尖閣諸島が他のいずれの国の領土でもないことを確認したうえで国際法にもとづいて領有を宣言したとしています。それが間違いないとしても、でもこれを清国の側からみたらどう見えるでしょうか。想像してみてください」。私は数分の時間を与えて、周囲と相談するように促しました。生徒たちは一斉に議論を始め、教室は急に騒々しくなりました。私は机間を回りながらその議論に耳を傾けます。「戦争のどさくさで領有を宣言したなら、清国としては納得できないんじゃないかなあ…」等々。
 2〜3分ほどして教室が静かになったところで、同じような事情が実は竹島(1905年に領有を発表)の場合にもあることを説明します。1905年といえば日露戦争が終わった年で、日本が韓国に対する支配を強めていた時期です。その時期に日本が竹島の領有を発表しても韓国側に反論の余地はありません。この経緯は現在も尾を引いています。資料集にも書いているように、いま韓国は日本の竹島領有そのものを「帝国主義的侵略の一環だ」として認めていません。ここで私はまた生徒たちに質問します。「日本政府は、国際司法裁判所で竹島が日韓どちらのものか審理してもらおうと韓国側に提案したことがありますが、韓国政府は承服しませんでした。どうしてでしょうか?」。教室は再び生徒たちの議論の声で満たされます。しばらくして意見を求めます。「ひょっとして、反論の機会がなかった韓国側から見れば、日本が竹島を領有していると言っていること自体、認められないからじゃないですか?」。ちなみに他の意見を求めても、生徒たち皆が納得している様子です。ここで大切なのは、日本側から見れば韓国側の行動は何とも理解しがたいわけですが、それが韓国から見れば当然の行動に見えてくることです。どちらが正しいかではなく、相手側の視点に立つとどう見えるかを考えることが、国際関係を学ぶうえでは非常に重要なことなのです。
 では北方四島はどうでしょうか。資料集の年表と地図を参考に、まず私から経緯を説明します。幕末の日露和親条約から説き起こし、千島樺太交換条約やポーツマス条約による変遷、ポツダム宣言「日本の主権は本州、北海道、九州、四国及びわれわれ(=連合国)の決定する周辺小諸島に限定される」の受諾を経て、サンフランシスコ講和条約で日本が「千島列島を放棄」したと記されている点に及びます(史料でも確認します)。問題は、ここで日本が放棄した「千島列島」が、「北方四島を含む」(と解釈する)か否かなのです。「皆さんどう思いますか?」。また1分くらい時間をとって話し合ってもらいますが、結論が出ません。そこで私「ちなみに地理的には、北方四島(注:厳密には択捉・国後の2島)は南千島とも呼ぶそうです。南千島は千島の一部ですか、違いますか? 例えば東日本は日本の一部ですか、違いますか?」。すると生徒たちは「ははーん、なるほど、そういうことか」という表情になります。
 ここまでで、隣国との間で問題化している3箇所の地点は必ずしも「日本の(固有の)領土」とは言い切れないということがハッキリしてきます。ここで私はもう一度尖閣諸島の問題に戻って、生徒たちに次のような話をしました。「尖閣諸島をめぐっては、資料集にも書いてあるように、1968年に周辺の海域に大量の地下資源があることが分かりました。するとその直後から中国と台湾が尖閣諸島の領有を主張するようになりました。皆さんどう思いますか? 日本では、中国は地下資源が欲しくて尖閣諸島の領有を言い出した卑しい国だと批判する意見もあるのですが、みなさんはどう思います?」。生徒たちの中には「よくぞ言ってくれた、その通りだ」と言わんばかりにうなずく者もいます。「…ああそう、やっぱりそう思う? では聞きますが、日本は地下資源は欲しくないのですかね?」。すると生徒たちは、再び「えっ?」と凍り付いた表情になります。あちこちで生徒たちが「うーん、そうりゃあ日本も資源が欲しいんじゃないの?」と言い始めます。「そうですね。日本も資源が欲しいんですよ。その証拠にせっせと尖閣諸島周辺でガス田の開発をしています。中国の人口は日本より10倍ありますから、資源も単純計算で10倍必要です。資源があると分かったら急に欲しくなったというのが中国の本音だとして、それを日本は批判できますか?」。1分間くらい時間を与えると、また生徒たちはワイワイと議論を始め、「地下資源を中国との共有にしたらどうだろうなあ」とか、「いやいや、資源を一部でも中国に渡すのは反対だ」等という声があちこちから聞こえてきます。私はここで敢えて何らかの結論を出すことはしませんでした。生徒たちがそれぞれに自分で考えるきっかけにすれば良いと思うからです。
 教室が少し静まってきたタイミングをみて私は、「ところで参考までに」と前置きして、資料集を開いて「沖の鳥島」の位置と現状について詳しく解説している箇所を見るよう促しました。沖の鳥島は日本最南端に位置する土地ですが、浸食をうけて、満潮時にやっと小さく頭を出しているに過ぎない状態です(とても人が住めるような面積はありません)。しかしこの島を中心に半径200海里(約370km)の円形の広大な「排他的経済水域」が広がっています。排他的経済水域は領海ではありませんが、漁業は沿岸国に独占権があります(但し地下資源の開発には別の手続きが必要です)。日本政府は、この排他的経済水域が消滅するのを防ぐため、沖の鳥島の周囲をコンクリートブロックで囲って、島が水没しないよう保護しています(資料集にはその写真も掲載されています)。ところで資料集には、この沖の鳥島に対して中国政府が「島ではなく岩にすぎないから、沖の鳥島を中心とする排他的経済水域は存在しない」と批判している趣旨の説明があります。私は生徒たちに「日本と中国どちらの言い分が正しいと思う?」と尋ねてみました。するとまた教室は生徒たちの議論の声で満たされます。私は「いつも同じ人と話をしなくてもいいよ。たまには座席を移動して話しやすい人のところに移動していいですからね」などと言って、できるだけ皆に自由にディスカッションしてもらうように促しながら、あちこちの話の輪に首をつっこんで、どんな話をしているか聞いて回ります。「岩と言われればそうかもしれない」とか、「いや中国はここでも資源が欲しくてそう言っているだけじゃないか」等、いろいろな意見が聞こえてきます。
 しばらくして私は「実はこの問題を解くヒントが国際条約にありますので、関連する部分を配付しますね」と、国連海洋法条約の第121条の条文をプリントしたものを配付しました。同条には「島とは、自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、高潮時においても水面上にあるものをいう」(第1項)と定義されていますが、同時に「人間の居住又は独自の経済的生活を維持することのできない岩は、排他的経済水域又は大陸棚を有しない」(第3項)とも規定されています。生徒たちはこれを見た瞬間、「やっぱりー」とか「えー、そうなんだー!」など悲喜こもごもの反応をし、教室は前にも増して大騒ぎになりました。信じられないような話ですが、少なくとも国連海洋法条約121条を根拠に考える限り、沖の鳥島に関してはどうやら中国政府の主張に理がありそうです。中学校までの勉強で「当たり前」あるいは「常識」と教えられていたかも知れない認識が見事に覆るのを体験した生徒たち。その目の輝きが増していく様子は実に素晴らしかったです。
 こうして、「固有の領土」と、「資源争い」と、沖の鳥島の「島か岩か」の3つの問題を同時に考えることを通して、「日本が常に正しい主張をしている」わけではないこと、「日本政府の主張は日本にとって有利になる主張ではあるとしても、それが周囲の国々との関係を常に良い状態に保つとは限らないということ」を知ることが、国際関係を学ぶ際にはとても大切なのではないかと私は思います。私は最後に「最初の質問に戻りますが、果たして日本は、これらの土地を守るためにあえて軍備を必要とするのか、もう一度よく考えてみてください」と言って、授業をしめくくりました。

 (6)さて次は戦後処理問題です。私は授業の最初に、「中国や北朝鮮は、何かにつけて日本に対して攻撃的な言葉を投げかけてくることがありますが、中国や北朝鮮は何が不満なのか、皆さん考えたことはありますか?」と問うて、まず生徒たちに意見交換をさせ、発言を求めました。生徒たちは案の定「領土問題でもめているから?」等と答えます。
 そこで私は、「(認定NPO法人)言論NPO」が定期的に日中韓の3ヶ国で実施している「日中共同世論調査」と「日韓共同世論調査」の結果をプリントしたものを配付しました。この世論調査によれば、中国国民と韓国国民が日本に対してもつ意識はほぼ同じ傾向にあり、「良い印象をもつ」人より「悪い印象をもつ」人が多く、「良い印象をもつ理由」としては「日本の風景が素晴らしい」、「日本人のマナーが良い」といった理由が上位を占める一方、「悪い印象をもつ理由」としては「日本は(中国や韓国を)侵略した歴史について謝罪しないから」と「日本が(尖閣諸島や竹島といった)土地の領有権を主張しているから」という理由が上位を占めているのです。私は、世論調査の結果をNPOが公表している資料を使って丁寧に確認した後、生徒たちに「日本が侵略した歴史について謝罪しないから、という理由をどう思う?」と尋ねてみました。生徒たちは「よく分からない」という反応でした。無理もありません。中学校では、明治維新以降の日本の外交史を「侵略の歴史」としては教わっていないでしょうし、まして「謝罪したかどうか」なんて考えたこともない、というのが現実でしょう。
 私としては、ここで余裕があれば日本のアジア侵略の歴史についてじっくり話をしたいところですが、なにしろ授業時間が十分にありませんので、ここは日韓の「慰安婦」問題だけに絞って扱うことにしました。慰安婦問題については、8月に愛知県で開催された芸術展「あいちトリエンナーレ」で、「慰安婦の少女像」が展示されたことを巡って問題が生じていましたので、生徒たちにとって少し接点があったからです。私は慰安婦問題の概要を簡単に説明したあと、古い新聞記事などを印刷したプリントを配付して、1995年に村山内閣のとき「アジア女性基金」が作られて希望する被害者に償い金を交付したこと、このお金を首相のおわびの手紙と共に受け取った被害者がいる一方で、政府が拠出した金ではなく民間募金で集めた金は受け取らないと言って拒否した被害者もいること等を紹介しました。それから20年後の2015年の年末に発表された日韓政府の「慰安婦合意」について説明し、日本が10億円を拠出する一方でソウルの日本大使館前の慰安婦像の撤去を求めたこと、この合意について現在の韓国の文在寅大統領が「日本が真実を認め、心を尽くして謝罪し、それを教訓としなければ、完全な問題解決にならない」と批判的なコメントをしたことなどを紹介しました。
 そして私は、「1952年のサンフランシスコ講和条約ではアメリカをはじめとする連合諸国は日本に対する賠償請求権を放棄しました。1965年の日韓請求権協定では問題はすべて解決したと書かれています。1972年の日中共同声明でも中華人民共和国は日本に対する賠償請求権を放棄しています。つまり日本は慰安婦問題について何らかの対応をすべき法的義務は残っていないとも解釈できるわけです。そのうえで、日本は希望する慰安婦被害者にアジア女性基金のお金を渡し、2015年の日韓合意でも10億円を出した。国内には、こんなに日本は努力を重ねているのに中国や韓国の国民はなぜ理解しないのだ、ひどい話だ、という意見もあります。皆さんはどう考えますか?」と生徒たちに聞いてみました(生徒たちの中には、私が「日韓請求権協定では問題はすべて解決したと書かれています」と話したところで大きくうなずいている人もいました)。すると、数分の議論の後に、生徒たちの方から「でも、この経緯を中国や韓国の側から見ると、結局日本はお金は出しているけれども、心からのお詫びはしていない、ということになるのではないですか?」との意見が出てきました。そして他の生徒たちも「なるほど、そうだね」と言いたげに、うなずいています。全体状況を客観的に見れば、結局はそういうことなのでしょうね。たとえ法的には問題が片付いているとしても、倫理的にはまったく解決していないのです。国際関係を学ぶときには、このように問題を広い視野で考える姿勢が必要ですね。
 私はここで「参考までに」と、戦後(西)ドイツの話をしました。(西)ドイツは戦後、ナチスによる戦争被害者に対する個人補償と戦争犯罪の容疑者の捜査を続けたうえ、1970年にブラント首相がポーランドのユダヤ人慰霊碑前で跪いて黙祷したこと、1985年にヴァイツゼッカー大統領が連邦議会で延々1時間にわたって歴史を振り返ることの大切さについて演説したこと、さらに2005年には(東西統一後の)首都ベルリンの広大な一等地にユダヤ人犠牲者たちの慰霊碑公園を作ったこと、などを紹介しました。初めて聞く話ばかりらしく、生徒たちはみな驚きの表情で資料に見入っていました。これらの話をした後で、「ところで日本では、首相がたとえば慰安婦の被害者のために跪いたり、そのための慰霊公園を作ったりしたことがありましたかね? あるいは国会で1時間にわたって歴史を振り返る演説をしたことがあったでしょうか?」と生徒たちに聞いてみました。生徒たちは皆、首を横に振りました。私が「そうですね。ドイツと日本は敗戦国という点では同じですが、謝罪という面では、日本は決してドイツとどーいつ(同一)ではないのですよ」と寒いダジャレを飛ばすと、生徒たちは大喜びで「ハッハッ」と笑っていました。
 少し時間に余裕のあるクラスでは、このあと「このような問題に対して、今後の日本はどうすべきか、今後の主権者として皆さんはどう行動すべきか」について議論してもらいました。この議論も非常に盛り上がり、「歴史教科書の中身を変えなくては」とか「慰安婦の被害者に心からのお詫びが必要」などの「対策」がたくさん出され、私が発言をメモしていった黒板は生徒たちの意見で埋め尽くされてしまいました。私は、これらの意見を踏まえて2つのことを話しました。1つは、何をするにしても「信頼関係の構築が大切だ」ということです。相手のことをよく知らないから(相手の立場を理解しようとしないから)不安や不信が生まれ、そこから平和が破れてくるということ。2つは、「主権者として政府から適度に距離を保ち、政府と同じ視点で見ない」ということです。国民と政府は一心同体ではありません。国民のために政府があるのです。政府が国民のために仕事をしているかどうかを監視する責務が国民にはあります。政府の言っていることをそのまま鵜呑みにしていては、国民は主権者ではなくなります。あらかたそんな話をして終わりました。

 (7)この後は、私が示した3つの選択肢で最後に残った「国連の安全保障体制」について扱いました。教科書や資料集にある「国連憲章」を使って、紛争当事国による話し合い等による平和的解決ができないときには安全保障理事会が提起する経済制裁や軍事措置が予定されていること、そのために国連軍が構想されているが実現していないこと、すべての国連加盟国に個別的自衛権と集団的自衛権が与えられているが、その行使に際しては制約があること等を説明しました。
 また、国連は戦後一貫して「戦争の違法化」に取り組んでおり、々餾欖圭法の条約化(国連海洋法条約もその一つ)を進め、国際司法裁判所だけでなく国際刑事裁判所を創設するなど司法的解決の道を広げ、3銅錣諒軸鏘愡濔鯡鵑虜鄒を進めていること(核兵器禁止条約もその一つ)についても説明しました。
 そのうえで、国際社会は明らかに「武装抑止」から「非武装平和」への転換期にあり、いかにして武力に頼らずに平和を実現するか、英知を発揮することが求められている、という話をして締めくくりました。

 (8)「平和」単元の最後の時間では、「今後私たちはどう行動すべきなのか」について話をしました(このあたりになると授業時間が残り少なくなって、どうしても一方的な説明にならざるを得なかったのが残念です)。私が第1に挙げたのは、紛争の背景(潜在的な原因)にある貧困や抑圧を克服する努力ということです。その中で、12月に銃撃された中村哲さんのアフガニスタンでの活動をビデオで見せた(広大な砂漠が見事に緑化されていく様子にはどのクラスでも感嘆の声があがりました)ほか、同じく昨秋に亡くなった緒方貞子さんの活躍や、ムハマド・ユヌスのバングラデシュでのグラミン銀行(マイクロクレジットによる貧困撲滅)の取り組み、ガンジーやキングの非暴力不服従運動の意義、マザー・テレサの献身的奉仕についても紹介しました。
 そのほか、〃蛎發鯀看僂靴燭Δ╂儷謀に善隣友好外交を進めているコスタリカの取り組み、∩甍霤賃膤悗凌綸臘穂教授が提唱している「自衛隊をサンダーバード(国際救助隊)に改編しよう」との提案、戦後憲法を改正して再軍備した(西)ドイツでは軍の暴走を防ぐために議会の関与を強めたり軍人に抗命権と抗命義務(不当な命令に抵抗する権利と義務)を認めていること等を紹介して、「単に戦争がないというだけでなく、基本的人権が完全に保障されているという意味での平和(積極的平和)」を、隣国との相互信頼を基礎に実現していくことが大切だ、という話をしました。
 そして最後に、アンヌ・モレリ著『戦争プロパガンダ10の法則』(古今東西の政治指導者が戦争を正当化するために使う常套句をまとめた)を紹介して、指導者のもっともらしい言葉に警戒する必要性と、指導者の言葉の背後にある差別や偏見の存在についても注意を促しました。

 なにぶんにも時間がなく、いずれも駆け足での説明になってしまいましたが、日本国憲法の平和主義の深さについて、少しは生徒たちに伝わったのではないだろうか、と思っています。

2020年03月29日

コロナ禍の今こそベーシックインカムを

 改めて説明するまでもなく、重篤な肺炎を引き起こす新型コロナウイルスの感染拡大で全世界が混乱と危機に陥っています。日本でも、小中高校の一斉臨時休校、帰国者入国者の2週間の待機、外出やイベントの自粛…と、次々と中央政府・地方政府が要請を出すたびに人の動きは鈍くなり、特に観光・運輸・飲食・芸能など人間相手の事業者を中心に経営不振が広がり、総じて経済活動が急速に低下しています。
 報道によると、アメリカでは新たに失業保険を申請した件数(要するに失業者数)が3月21日までの1週間で328万件(前週より約12倍増)と記録的な状況となっています(3月27日朝日新聞)。欧州でもホームレスが窮地に追い込まれています(3月29日東京新聞)。同志社大学教授の浜矩子さんは、「対応を誤れば世界は新型コロナ恐慌に」なると警告を発し、政府と中央銀行が需要と供給の両面から支援が必要と訴えています(3月26日毎日新聞)。
 私自身も「対応を誤ると日本でも失業者があふれ、1929年の世界恐慌の後のような状態が再来するのではないかと案じています。あのとき日本では、恐慌の影響で(それに浜口内閣による金解禁による不況も加わって)増大した失業者たちの不満が高まり、それを背景に軍隊が満州事変を起こしたのでした。ドイツでも、社会不安を背景にナチスが台頭したことを想起しなければなりません。アメリカが公共事業を起こして(ニューディール政策)多くの失業者を救済したように、私は今回のコロナ禍においても、生活不安の払しょくが重要な課題ではないかと思います。
 そういうふうに考えてくると、私は今こそ「ベーシックインカム」の導入を真剣に検討すべきだと思うのですが、いかがでしょうか。ベーシックインカムとは(このブログでも既に何度か触れていますが)、老若男女や貧富の違い等を問わずすべての国民に対して政府が最低限度の生活に必要な現金を一律に支給する政策構想のことです。既にヨーロッパでは実験をしたり(フィンランドなど)、導入の是非を問う国民投票が行われたり(スイス)していますが、まだ本格的に導入している国はありません。その最大の理由は、必要となる莫大な財源の確保が難しいからです。
 しかし今回のコロナ禍を受けて、イギリスではジョンソン首相が「一時的な措置」とはしながらも、ベーシックインカムの導入を「検討すべき」としていますし(3月19日日経新聞)、アメリカでも、大統領選挙の民主党候補指名を争ったアンドリュー・ヤン氏がベーシックインカムの導入を提唱していました(3月13日NewsSphere)。日本でも、竹中平蔵氏が(私自身は竹中平蔵氏には概して良い印象をもっていませんが)「ベーシックインカムのような、個人への保障を」と述べています(3月24日AbemaTIMES)。

 日本国憲法25条は、「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定しています(生存権)。これは、社会が危機的な状況に陥っても人間として最低限度の生活はできるように政府が保障するということです。たとえコロナウイルスの影響で失業や廃業に追い込まれたとしても路頭に迷って死んでしまうようなことにはしない、ということです。
 もちろん現在の日本には、そのために「生活保護」という制度があります。今回のコロナ禍で失業・廃業せざるを得なかった人たちがいま最後に頼れる道は生活保護でしょう。しかし生活保護を受けるためには、申請や審査の手続きが必要です。貯蓄の無い人にとってはその時間がないということがあり得ます。これまで政府は生活保護の申請をなるべく受け付けない方針をとっており(水際作戦)、過去には生活保護を受けられず自殺するケースさえ起きているくらいですから、このコロナ禍を契機に生活保護の認定基準を大幅に緩和するのであればともかく、現状のままでは生活保護が本来の役目を果たすことができません。いま安倍内閣が打ち出している「事業者向けの無利子無担保の融資」にしても、「借りたら返さなくてはならない」不安もさることながら、仮に融資を受けたくてもずいぶん手間と時間がかかるという障壁もあるのです。
 これに対してベーシックインカムは、日常的に全国民に現金給付をするのですから、緊急時でも手続き不要で時間的なズレ(タイムラグ)が生じません。もちろん順調に仕事があってふだんから収入がある人にとってはベーシックインカムの給付金は喫緊に必要なお金ではなく貯金に回るだけかもしれません。しかし突然の事故で解雇されたり閉店しなければならなくなるリスクは万人にあります。そういう時に、必要な人だけを審査し選抜して…という面倒な手順を踏むよりも、リスクの発生を見越してあらかじめ全員に最低限度の生活費を確実に支給する仕組みを作っておくことが、普遍的な生活保護策として必要ではないでしょうか。
 ベーシックインカムを実現するには財源が足りないという問題があります。確かに1億人に一人年間100万円を支給すると仮定すると100兆円かかります。現在の国の一般会計の規模が約100兆円ですから、単純計算では絶対無理です。しかし、たとえば全ての勤労者の給与を年間100万円削減し、それで浮いた人件費の全額をすべて国が徴収しベーシックインカムに回すと仮定すれば、必要財源の半分程度は確保できるのではないでしょうか(お金の流れが一部変わるだけですから、勤労者の収入金額は変わりません)。ベーシックインカムが実現すれば、既存の生活保護はもちろん年金も(ベーシックインカムに統合して)全廃できますから、その予算も財源に充当できます。可能性は決して「ゼロ」ではありません。

 私は、今回のコロナ禍は、人類史というスケールで観た場合、これまで当たり前のようにやってきた社会システムの大変革につながる契機になるかも知れないと感じています。少なくとも、これまで人類が経験した悪夢(戦争や虐殺など)を繰り返すことだけは避けねばなりません。そのためには、既存の枠組みにこだわらず、自由かつ大胆に新しい社会を構想し、すべての人々が大きな不安と生命の危険にさらされることなく生活できる仕組みを構築することが必要と考えます。その課題は、全人類の共通課題であり、あらゆる党派性や利害損得を乗り越えて解決すべきものと思います。私は、ベーシックインカム構想がその解の一つになり得ると考えますが、皆さんはどうお考えになりますか。

tyngt at 19:09|PermalinkComments(6)clip!

2020年03月17日

相模原事件の「死刑」判決について考える

 2016年7月に神奈川県相模原市の知的障がい者施設「津久井やまゆり園」で入所者や職員ら45人を殺傷したとして殺人罪などに問われた元施設職員植松聖被告の裁判員裁判で、横浜地裁は16日、被告の完全責任能力を認めた上で、「19人もの人命が奪われた結果は他の事例と比較できないほど甚だしく重大」として、求刑通り死刑判決を言い渡しました(植松被告は法廷で「どんな判決が出ても控訴しない」と言っていたそうですので、このまま死刑判決が確定する可能性が高いと思われます)。

 現在の日本の刑事裁判の制度を前提に考えれば、これは「当然の判決」だろうと思います。責任能力に問題がない以上、計画的に19人もの人を殺害した被告には死刑が「妥当」な結論であって、逆に死刑を回避しようとすると納得のいく説明が必要です。それは非常にハードルの高い作業となりますので、私も「死刑以外の判決はたぶんないだろう」と思っていました。
 マスコミは一様に「被告が障がい者に対する差別的な思想をもつに至った背景が不明のままだ」等と報じています。私は、一理はあると思いますが、他方でそれは難しいとも思います。なぜなら現在の日本の刑事裁判の目的は「再発防止のための原因追究」ではなく「結果に対する責任追及」ですから、被告が犯行に至った背景まで詳細に解明する必要はない(正確には責任追及ができるかどうか判断できる程度でよい)わけです。ゆえに被告の行動について納得いくまで事情を解明することは、裁判所に対しては無理な注文ということになるでしょう。
 以上は、現代日本の刑事司法の考え方から言えば、の話です。

 しかし哲学的な観点から見たときには、この判決には大いに疑問が残ります。それは、この事件で被告人を死刑に処することで、両者ともに「忌まわしい存在は抹殺すべし」という考え方をしている点で、本質的には裁判所と被告自身は奇妙にも一致してしまったからです。
 意思疎通ができないからといって障がい者を殺害することは「どんな人にも生きる尊厳がある」という理念に反するゆえに許されない。判決の趣旨は要約すればそういうことですが、しかしもし本当にその理念を貫徹しようというのであれば、障がい者を殺害した被告人にも「生きる尊厳がある」と考えなければ、スジが通りません。
 言い換えれば、障がい者を殺害した被告人なら死刑にしてもよいというのであれば、その思考は、障がい者には生きる尊厳があるが、被告人には無いということになります。すると、「どんな人にも生きる尊厳がある」という言葉は、決して普遍的な理念ではなく、障がい者を殺害した被告人を排除するための方便でしかなかった、ということになってしまいます。

 「殺人事件を起こして人を死なすのと、刑罰で犯人を死なすのとは違う」という反論があるかも知れません。でも本当にそうでしょうか? 同じ「人間」ですよね。事件で死なすか刑罰で死なすかの違いは人間の側の理屈であって、強制的に生きることを中断させるという現象においては、何ら違いはありません。
 あるいは「被害者感情を和らげるためには死刑が必要」なのでしょうか? 確かに今回の事件で殺害された遺族は、被告人が死刑に処せられれば、多少の気持ちの整理はつくかも知れません。でもそれで遺族の悲しみが雲散霧消するとは思えません。憎しみはたぶん一生消えないでしょう。だとすれば被告人の死には「償い」としての意味があるのでしょうか。
 ひょっとして「凶悪犯罪者を無期懲役にして生かしておくとして、そのために多額の税金を費やすのはもったいないこと」でしょうか? でもその理屈は「意思疎通のできない障がい者のために金をかけるのはもったいない」という被告人の考え方と本質において同じではありませんか。
 死刑は「同様の凶悪犯罪を抑止するために必要」なのでしょうか? でもこれほどの凶悪事件を起こすような潜在的可能性をもつ人が、今回の死刑判決を知って素直に犯行を思いとどまるのでしょうか。ちなみに死刑を廃止した国で、廃止の前後で凶悪犯罪が増加したとはいえないという統計もあります。日本でも過去には「死刑(あるいは無期懲役)になりたくて殺した」という事件がありました。重い刑罰は犯罪を抑止するどころか、逆に犯罪を誘発するという側面もあるのです。

 「障がい者に生きる価値はない」という差別的思想(偏見)は、単に事件の被告人だけでなく私たちの社会一般に何となく広がっているとも指摘されています。私も同感です。そういう差別的思想(偏見)を私たちはどう克服していけばよいのか。これはとても大事な問題だと思いますが、私はさらに一歩を進めて、「凶悪犯罪者は死刑になっても仕方がない」という差別的思想(偏見)も同時に克服する努力をしなければならないのではないかと考えます。そこまで突き詰めて「どんな人にも生きる尊厳がある」と言えるようにならなくては、私たちの社会は思想的にはまったく成長できていないのだ、と思います。

tyngt at 21:28|PermalinkComments(0)clip!時事評論