2017年09月03日

北朝鮮のミサイルに過剰に反応してはならない

Jアラートの異様な画面
 報道によると、8月29日(火)の早朝6時ごろ北朝鮮がミサイルを発射し、北海道の上空を飛び越えて太平洋に落下しました。
 私はいつも朝6時ごろには既に支度をしているので、その日も忙しく部屋を行ったり来たりしていたのですが、6時過ぎだったでしょうか、テレビの音声が突然緊迫した調子に変わり、アナウンサーの叫ぶような言葉が聞こえてきました。そして画面は今まで見たこともない黒い画面になりました(私自身は初めて見る画面でしたので、最初はそれが何だかよく分からなかったのですが、後でそれが「Jアラート」の画面だったと知りました)。
 真っ黒の画面の上部に赤く太い帯が描かれ、その下に白い文字で「ミサイル発射。ミサイル発射。北朝鮮からミサイルが発射された模様です。頑丈な建物や地下に避難して下さい。」という文字が並んでいます。その下に「対象地域:」として、北海道から東北6県、北関東から新潟・長野まで全部で12道県名がずらりと並んでいて、見るからに「軍事ニュース」という感じです。
 他のテレビ局もほぼ同じ画面。局によっては北海道や新潟市などの中継映像とJアラート画面を並べているところもありましたが、NHKの教育テレビ(Eテレ)を含むすべての放送局が一斉に平常番組を中断し、ミサイル発射を知らせ避難を呼びかける報道に切り替わりました。その異様さは、まるで今すぐにでも頭上から爆弾が降ってくるのではないかと思わせるに十分だったと思います。おそらく、この騒々しさで目を覚ました人も多かったのではないでしょうか。

マスコミも政府も騒ぎすぎ
 でも私は、テレビの前で、とても冷静でした。朝食をとりながら「他の局はどうかな?」とチャンネルを切り替えたり、後日のための資料収集と思ってテレビの画面を写真に撮ったりしながら見ていました。これほどすべてのテレビ局が一斉に同じ画面を流すのは、3・11の大地震か、その前は9・11テロか、昭和天皇の崩御の時くらいしかなかったのではないでしょうか。それくらい「一大事!」という雰囲気でしたね。
 私はこの様子を見ていて、「マスコミ騒ぎすぎだな」と感じました。「あとで政府(か右翼団体)から何か言われるのを恐れているのではないか」と勘繰りたくなるほど、同じように声高に避難を呼びかけるテレビの前で、私は「もう通り過ぎてるよ。騒ぎすぎだよ!」とブツブツ言っていました。
 数分たつと、ようやく「ミサイルが日本上空を通り過ぎた模様」との報道に変わりましたが、それでも番組が正常に戻ることはなく、しばらくミサイル発射報道が続きました。民放がやっとCMを入れはじめたのは、7時を過ぎてからではなかったでしょうか。もし本当にミサイルが日本列島に向けて発射されたのなら、10分もすればどこかに着弾しているはずです。まして上空を通り過ぎたのであれば、それ以上に特別な報道体制を続ける必要はありません。マスコミは騒ぎすぎだったと思います。
 そして政府も大袈裟すぎます。当日の夜のニュースによると、安倍首相は午前10時ごろ「これまでにない重大で深刻な脅威である」と述べたそうですが、ミサイルが日本列島を飛び越えたことは今までにもありましたし、今回何か具体的な被害があったわけでもありません。それなのに「これまでにない重大で深刻な脅威」という表現は大袈裟です。政府みずからがこのように北朝鮮に対する敵意をむき出しにしていては、国民も冷静ではいられなくなります。こんな簡単にパニックに陥る日本政府こそ、かえって「脅威」ではないでしょうか。

いま北朝鮮が日本を撃つことはない
 先日の授業で、この日の朝の行動について生徒たちと話をしました。聞いてみると、中には「急いで窓を閉めた」という生徒はいましたが、大半の生徒が「その時はまだ寝ていて、騒々しくて目が覚めたくらいだから、避難なんてできなかった」という答えで、パニックになった者はいないようでした。でも、さすがにJアラートの黒い画面や、町中に鳴り響く空襲警報のようなサイレンを聞いて、多くの生徒が落ち着かない気分になったようです。
 ある生徒が私に「先生は避難したんですか?」と聞くので、「いや私は非常に冷静で、テレビ見ながらコーヒー飲んでました」と答えたら、「そういう人が死ぬことになるんですよ!」と言われて、教室中が大爆笑になったので、私は「こりゃ面白い」と思い、「じゃあ聞くけど、君たちは本当にミサイルが落ちてくると思ったの? どうして?」と聞き返しました。するとまた別の生徒が「テレビが騒いでいたからそう思った」と言うので、「テレビが言うことは正しいの?」と聞き返しました。そして私は、北朝鮮のミサイルに対してもっと冷静に対処することの必要性を話しました。

 結論から言うと、現状において北朝鮮がいきなり日本列島にミサイルを撃ち込んでくるというようなことは、ありません。私は神様ではないので「絶対」とまでは言いませんが、それでも「99%」ありません。
 なぜなら、北朝鮮が最近あのように物騒な行動をしているのは、アメリカを牽制しているからです。もしアメリカが北朝鮮を攻撃すれば、北朝鮮の体制はアッという間に崩壊するか、金正恩氏が失脚する事態になるでしょう。そのことを金正恩氏はちゃんと分かっています。それゆえ「万一の時」にすぐアメリカに反撃できるようにするために「準備」を急いでいるわけです。ですから北朝鮮は、さんざん虚勢を張っていますし、ギリギリのところまで物騒な行動をしていますが、それ以上の自殺行為に等しい行動をとることはないと思われます。それゆえ日本に、しかも米軍基地さえない地方の小都市に、いきなりミサイルを撃ち込んでくるような、北朝鮮にとって何のメリットもない“無駄なこと”は、あり得ません。
 もちろん、発射したミサイルが飛んでいる飛行機を直撃するとか、落ちた先の海上で操業している漁船に当たるとか、場合によるとミサイルの部品の一部が大気圏で燃え尽きることなく落下してくるなどの被害は想定されますので、そういう意味で、事前予告のないミサイル発射は困った話ではありますし、ミサイルの航路の直下に相当する地域で最小限度の警戒は必要だろうと思います。しかし、「Jアラート」が騒いでいたように、すぐにコンクリートの建物や地下街に避難しなければならないほどの、つまり今すぐ頭上から爆弾が落ちてくるほどの危険性は、今のところはないと断言できます。それゆえ、次にまた北朝鮮がミサイルを発射したとしても、パニックにならずに、できるだけ冷静に対処することが必要です。
 ただし、この先もしもアメリカと北朝鮮が本当に戦争状態になったときは、今より警戒の度をあげる必要はあるかも知れません。しかしその場合でも、北朝鮮の反撃対象はまず日本国内の米軍基地や原子力発電所などであり、次いで東京などの中枢都市になるでしょう。いずれにしても地方の小都市の頭上にいきなり爆弾を落とすようなことは、まず考えられません。
 くれぐれも冷静になるように。そして過剰な敵意をもたないようにしてください。

と。生徒たちは真面目な表情で聞いてくれました。

「第二の真珠湾攻撃」を生んではならない
 日本史の授業をしているクラスでは、今回のミサイル発射に対して、日本政府が北朝鮮に石油禁輸措置を含む「さらなる圧力をかける」ことを検討していることを紹介したうえで、このような対応が、かつて戦前の日本が同じように石油禁輸の圧力(ABCD包囲陣)を受けたことに反発して真珠湾攻撃をした事実と重なることを指摘し、今回の北朝鮮に対する過剰な対応が第二の真珠湾攻撃を生む危険をはらんでいることを説明しました。
 アメリカのトランプ大統領は8月30日に「アメリカは25年間北朝鮮と対話を続け、金をゆすり取られてきた。対話は答えではない」とツイッターに書き込み、いっそう強い姿勢で臨むという考えを示したそうです。私は、トランプ大統領は何もわかっていないなあと思いました。「25年間も話し合いを続けてきた」ということは、「25年間も戦争を阻止してきた」ということです。そういうふうに考えなければなりません。もし戦争になれば、これまで「ゆすり取られてきた」金額をはるかに上回る軍事費がかかることにもなるのですから。

アメリカは北朝鮮との対等交渉のテーブルにつくべき
 私は、いま北朝鮮に向き合うアメリカに必要なのは、北朝鮮を過剰に刺激しないことだと思います。日本も同様です。日本は「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という憲法9条をもっているのですから、米軍と一緒になって北朝鮮有事を想定した軍事演習に参加すべきではありません。18世紀ドイツの哲学者カントは、『永久平和のために』の中で、「いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない」と述べています。ナチスに抵抗したドイツの神学者カール・バルトも「戦争を欲しないならば、平和の備えをせよ」という言葉を残しています。憲法9条、カント、カール・バルトらの言葉は、いずれも過剰で暴力的な対応が戦争の遠因となることを警告しているのです。私たちは、このことを今こそ改めて確認すべきです。
 日本から見ていると「北朝鮮はとんでもない問題児」のように見えますが、現実の北朝鮮は多くの国々と国交を有している「普通の独立国」の一つです。かつてのソ連と同様にアメリカによって潰されないように必死になっているだけです。かつてソ連のゴルバチョフ書記長は、アメリカとの核軍拡競争にみずから終止符を打ちました。それは米ソ冷戦を解決に導く重要なきっかけとなりましたが、同時にそれはソ連の崩壊を早めることにもなりました。金正恩氏は、おそらくソ連の歩んだ歴史を教訓に、絶対に自分のほうからアメリカに譲歩することはしないと誓っているのだろうと私は推測します。そうであれば、事態の解決のために必要なのは(「さらなる圧力」ではなく)、アメリカと北朝鮮が対等な交渉のテーブルにつき、「相互に先制攻撃することはない」と確約しあうことしかありません。アメリカが北朝鮮を対等な存在であると認め友好関係を約束すれば、北朝鮮は物騒な行動をやめるだろうと私は思います。アメリカがそれをしないのは、曲がりなりにも独立国である北朝鮮を敵視し、蔑視し、機会があれば潰しにかかろうと思っているからでしょう。もちろん北朝鮮の全体主義的な体制や深刻な人権侵害を許すことはできません。しかしそれとこれとは別の問題としてまず切り離すことが必要だ、と私は思います。

2017年07月23日

「AI(人工知能)が常に正しい」とは限らない

 7月22日(土)に放送されたNHKスペシャル「AIに聞いてみた どうすんのよ!?ニッポン」を見て、その内容のひどさに驚きました。
 番組のホームページによると、NHKが独自に開発したAI(社会問題解決型人工知能)に、人口動態や介護、医療、格差、消費など様々な社会を映し出す5000を超える公共のデータを入力し、「風が吹けば桶屋が儲かる」といった具合に、複雑に、間接的に影響し合っているそれぞれのデータの関係性を解析させたところ、意外な関連性が見えてきたので、それを社会問題解決のためのAIからの提言として紹介するというのです。
 その「AIからの提言」というのが、次のような内容なのですが…
 1 健康になりたければ病院を減らせ
 2 少子化を食い止めるには結婚よりもクルマを買え
 3 ラブホテルが多いと女性が活躍する
 4 男の人生のカギは女子中学生の“ぽっちゃり度”
 5 40代ひとり暮らしが日本を滅ぼす
 いずれも常識はずれで興味本位の話のように聞こえますが、意外にこれまで注目されてこなかった「一手」になるかも知れない、というのが番組の趣旨です。

あまりにも根拠薄弱
 しかし最初の「健康になりたければ病院を減らせ」から既に根拠薄弱です。さまざまのデータを処理すると、「病院数(病床数)の減少」と「がん死亡者数の減少」や「男性の65歳以上の死亡者数の減少」や「脳血管疾患死亡者数の減少」が連動することをAIが突き止めたので、だから「健康になりたければ病院を減らせ」という提言になる、というわけです。
 番組では、北海道の夕張市の様子が紹介され、財政破綻で唯一の総合病院が閉鎖された夕張市では、健康への関心が高まり、その結果高齢者がよく運動するようになって健康になった、おまけに栄養豊富なバナナも(AIが解析した結果と偶然一致して)よく売れている、ということが報じられていました。でも実例として紹介されたのは夕張市だけです。
 いやはや実にひどい理屈ですね。だって常識的に考えて、町の病院が閉鎖されたら重症患者は他の病院に転院せざるを得ないのだから、その自治体の死亡者数が減り、町には比較的健康な高齢者だけが残ることになるのは当たり前です。バナナは安価な果物ですから、財政破綻で日常生活が厳しくなれば安いバナナが売れるのも予想できる話。それを「AIが発見した」などと大袈裟に、だから「健康になりたければ病院を減らせ」とは、ずいぶん乱暴な話です。ほとんど詭弁ではないでしょうか。そういう話の作り方が成り立つなら、例えば「子どもが減少すると学校でのいじめ発生件数も減少するから、学校を楽しくするには子供を産まないほうがよい」ということにもなるはず。小学生の夏休みの自由研究じゃあるまいし、夕張市の事例だけで「健康になりたければ病院を減らせ」なんて言ってよいのでしょうか。
 もちろん世の中には「一見して非常識な結論が、調べてみると意外に真実だった」ということはあります。ですから非常識なことにも真面目に取り組む姿勢は学問の基本であって、それ自体が間違いだとまでは言えません。しかし、AIが見つけた関連性から政策論を導くためには、反証となりうる事例を検証するなど科学的な吟味を加える必要があるのではないでしょうか。そういうリサーチをすることなく、興味本位のフレーズで単純化してしまうのはいかがなものでしょうか。お茶の間や井戸端会議は盛り上がるかも知れませんが、「健康になりたければ病院を減らせ」という結論だけが独り歩きしはじめると、福祉を後退させている現在の安倍政権を追認してしまう効果まで発揮する恐れがあるのではないかと思います。目新しい「AIの提言」が、現実社会における問題点の隠蔽と、責任追及の曖昧化と、事態のさらなる悪化を招くことになってはいけません。

相関関係と因果関係の混同
 私はテレビを見ながら、この番組は「相関関係」と「因果関係」を完全に混同しているなあ、と思いました。
 高校の「倫理」でイギリス経験論の思想家として登場するヒュームは、「因果関係は主観的なものにすぎず、客観的に存在するのは先後関係だけだ」という趣旨のことを言っています。これを私は授業で「雨乞いの踊りをしたから雨が降った、という認識は誤りである」という事例を使って説明します。つまり「雨乞いの踊り」と「降雨」との間には客観的な「因果関係」はありません。雨乞いの踊りをしたら、うまい具合にその直後に雨が降ったという「先後関係」があるだけです。しかし雨乞いの踊りをするほどの日照りが続けば、雨が降る直前に雨乞いの踊りをする確率が高くなるので、私たち人間の主観では「雨乞いの踊りをした(原因)から雨が降った(結果)」という因果関係で理解してしまうわけです。ヒュームはその誤りを指摘したのです。
 NHKも似たような誤りをおかしているように、私には見えました。百歩譲っても、誤解を招かないような丁寧な説明になっていません。「病院(病床)数の減少」と「死亡者数の減少」が「連動している」こと(相関関係)を、「病院(病床)数を減らせば死亡者数が減少する(=健康になる)」という因果関係に簡単に置き換えているのです。さらには(仮にそういう因果関係があるとしても)、それを「健康になりたければ(=死亡者数を減らしたければ)、病院を減らすべきだ」という単純な政策論にすり替えています(ここには事実と当為の混同も存在する)。
 そもそも「健康」とは何か、「死亡者数の減少=健康」と言えるのか、そういう定義の問題や、病院数の減少と死亡者数の減少とがどのようにつながっているのかという因果関係の調査などはほったらかし。政策論として妥当なのかどうかの論証もなし。こんな議論では高校生の「ディベート甲子園」でも評価は低くなってしまうでしょう。
 番組では、専門家たちが「このAIの提言は、つまり夕張市のように病院が閉鎖されるような事態になれば、人々が行政サービスに頼らず自力で(ボランティア活動として)いろいろなことに取り組まざるを得なくなり、かえって活動的になるから健康になるということではないか」と解釈していました。それは一理あるように思いますが、仮にその解釈が正しいとしても、それは要するに「公共サービスがなくなっても悲観することはない」と言っているに過ぎません。こんな調子で政策が決まるようになったら、それこそ日本はトンデモない社会になってしまうのではないでしょうか。

「医療費の無料化」が健康をもたらした事例もある
 ところで、病院と健康との関係性という話を聞いて私がすぐ思い出したのは、岩手県沢内村の深沢晟雄(ふかさわ・まさお)村長の福祉政策です。私はこのブログで何度も深沢村長に触れていますが(たとえばこちら)、私は病院と健康の関係を考える原点はここにあるように思います。
 彼は、1961年に65歳以上の高齢者と1歳未満の乳児の医療費の無料化を断行、翌1962年には全国の自治体で初めて「乳児死亡率ゼロ」という(当時としては目玉が飛び出るほどの)偉業を達成しました。さらに驚くべきことに、旧沢内村では、深澤村長が老人と乳児の医療費無料化を断行したあと、確かに病院の財政は赤字に転落しましたが、一方で国保被保険者一人当たり医療費の対県比率は次第に減少していったのです(無料化開始当時の医療費は岩手県の平均額を30%上回っていたのが、8年後には県平均を下回り、さらに15年度には−20%まで下落した)。
 つまり深沢村長が「医療費の無料化」という、いわば究極の「病院増」を実現し、全村民の日常的な健康管理と早期診療・早期治療が徹底するようになったら、村民の健康状態が目に見えて向上していったわけです(詳しくはこちらもご覧ください)。この深沢村長の政策は、AIの提案とは真逆になっています。NHKは、夕張市と同じような山村で過去にこのような具体的な事実があったことを、もちろん一言も紹介していません。

テレビにだまされるな
 「NHK」が「AIが分析した」と言い「東京大学の教授も関わっている」とくれば、ずいぶん権威ある正しい結論のように聞こえます。しかしAIとて結局は人間が与えたデータを対象に分析しているだけですし、それを操作しているのも人間です。報じられていることが真実なのか、ひょっとして隠れた別の意図(や効果)があるということはないか、等と「疑いの目」も同時に向けるようにしなければなりません。テレビのいうことをそのまま頭から信じこんでしまってはいけないのです。

 長くなりますので残りは省略しますが、この夜「AIが提言」した政策は、いずれも根拠薄弱で、相関関係から因果関係へのすり替えと、主観的な推測の域を出ていませんでした。「公共放送」を掲げているNHKが、わざわざ受信料を徴収してまで放送するような中身だったのでしょうか。このままでは人類は近い将来AIに振り回され、AIの出した結論には反論が許されない「AI独裁社会」がやってくるのではないかと心配です。

2017年06月26日

ガッテンがいく「パウロの贖罪論」の授業

 明治維新以来、日本はキリスト教の影響を強くうけた欧米文化を積極的に受容してきましたが、欧米文化の基底にあるキリスト教そのものの受容は進まず、日本人のキリスト教徒は、カトリックとプロテスタントを合わせても全人口のわずか1%程度と言われています。そのためでしょう、日本人のキリスト教に対する理解は非常に浅薄です。私が高校生だった当時から高校の「倫理」ではキリスト教を学習しているのに、どうもよく分からないまま終わっているのが実情ではないでしょうか。かく言う私自身も、長年キリスト教の授業をしていながら、限られた時間の中でどう説明すればよいか、悩みの種です。
 図書館や書店で初心者向けのキリスト教入門書を探してもなかなか良いものがありません。私が知る限り、ほとんどの入門書は、「入門書」と銘打ちながら、ある程度キリスト教に関心が芽生えている人(あるいは毎週日曜日に近所の教会に足を運び始めたような人)を想定しているように思われる本ばかりです。まことに僭越ながら、著名な先生が書かれたものでさえ、キリスト教とは全く無縁の生活を送ってきた平均的な高校生を対象にごく基礎的なことから説明している本は、ほとんど皆無に近いのではないでしょうか(それでも授業では一応、大貫隆『聖書の読み方』(岩波新書)と、橋爪大三郎・大澤真幸『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)の2冊を紹介していますが…)。授業でいかに分かりやすく説明するか、悩みの種は尽きません。
 そんな中、今年は思いがけず生徒たちから非常に反応のよい授業をすることができましたので紹介したいと思います。それは「パウロの贖罪論」の授業です。パウロの贖罪論は、キリスト教信仰の中核にある非常に重要な思想なのですが、教科書や資料集の説明は下記のようにいささか難解です。

教科書の説明(清水書院『高等学校新倫理』新訂版)
パウロは、原罪(→脚注:神の言いつけにそむいたアダム以来、その子孫である人間が生まれながらに担っている根源的な罪。原罪ゆえに人間は根本的に悪であり、有限な存在であるとされる)にけがされた人類を救うために、神が神の子としてキリストをこの世におくり、十字架のイエスをいけにえとして、人類の罪をあがなった(贖罪)と考えた。

資料集の説明(第一学習社『テオーリア最新倫理資料集』新版)
パウロは、イエスの十字架上での死は、全人類の原罪をあがなう贖罪のための「犠牲」の意味を持つと説いた(贖罪思想)。人間はアダム以来、生まれながらに原罪という「神に対する根源的な罪」を背負っている。それは「神を疑い、神に背き、神を否定する傲慢な心」であり、人類はこの原罪を自らの手で消すことはできない。そこで、神は愛する子イエスを地上に人間として遣わし、イエスは自分を十字架の上で犠牲とすることで、その血によってすべての人を罪から清め、神と和解させた。ここに、神の愛が「最愛の子」を犠牲にするほど大きいことが示されたとパウロは説いた。

 これらの説明は、神学的には間違ってはいないのですが、キリスト教に関してまったくの素人が読んでもほとんど分かりません。これでは勉強しても単に言葉を暗記して事足れりとなって、「キリスト教はやっぱりよく分からない宗教」で終わってしまいかねません。
 そこで私は、今年も黒板に図を描きながら、次のように説明してみました。もちろんパウロの贖罪論を説明する前にイエス自身の思想と行動に関する基本的な説明は終わっており、生徒たちはそれらを一応は理解しているという前提です。

 まず、イエスが言ったように、神は人を愛しています。これはパウロにとっても間違いのない事実です。しかしパウロは、神は人を愛しているだけではなく、怒りをも向けていると考えました。怒りの対象はアダム以来人間が受け継いでいる「原罪」です。聖書によると、神が作った最初の人であったアダムとイブは、神の命令に背いて知恵の実を食べてしまいます。神に背いた罪を背負ってアダムとイブは楽園から追放されます。聖書の理解ではそのアダムとイブの子孫が人類になったわけですから、すべての人間はアダムとイブに由来する罪を遺産のように受け継いでいると考えるわけです。つまり「原罪」とは、人が人であるゆえに背負っている罪であり、その本質は「自己中心性」です。神の怒りとは、人間が有する自己中心性に対する罰なのです。
 しかし、ここで1つ問題が生じます。人が「原罪」を背負ったままでは、神は人に対して愛と怒りを同時に向けざるを得ません。しかしそれでは神は人を完全に愛することはできません。そこで神は、人を完全に愛するために、大切な一人息子であるイエスをこの世に派遣し、そのイエスにすべての人の原罪を引き受けさせた、つまり付け替えさせたのです。すると、原罪に向かう怒りも一緒にイエスに向かうことになりますから、神から人に向かうのは愛だけになります。このときイエスに向かった神の怒り(原罪に対する罰)が、「十字架の死」として表現されているとパウロは考えました。まあイエスにとっては「いい迷惑=冤罪」かも知れません。イエスは神の子ですから、もちろん原罪をもっていないにも関わらず、すべての人の原罪を引き受け、その罰まで受けて十字架で死ぬことになってしまったわけですから。しかしイエスが自らこうして犠牲になることで、神は人を完全に愛することができるようにもなったのですね。
 さあ、ここまでの説明は大丈夫ですか? では、ここで皆さんに考えて欲しいのです。皆さん一人ひとりが、この神に完全に愛されることになったはずの「人」のところに「自分自身」を置いてみた場合、イエスに対してどんな気持ちを抱きますか?

 ここで私は時間をとって、生徒たちに話し合いをさせました。生徒たちは黒板の図を見ながらいろいろ話し合います。しばらくして落ち着いたところで発言を求めます。するとどのクラスでも生徒たちは「イエスに対して感謝する気持ちをもちます」と答えてきます。
 私「感謝。なるほど、いいですね。どうして感謝する気持ちになるのですか?」
 生徒たち「自分の原罪を代わって引き受けてくれた、そのことに対する感謝です。」
 私「なるほど。あり得ますね。他には?」
 生徒たち「申し訳ない気持ちです」
 私「ほう、申し訳ない気持ち。その心は?」
 生徒たち「代わってくれただけでなく、その罰まで受けてくれたからです。本当なら自分自身が神の罰を受けなければならないのに、イエスがその罰で死ぬことになってしまったのだから、申し訳ない気持ちを感じます。」
 私「なるほど。いい説明ですね。他には?」
 生徒たち「え? まだありますか?」
 大抵のクラスで、この「感謝」と「申し訳ない」で意見は止まってしまいます。そこで私は「もう無いですか? まだあると思うのですがね? もう少し話し合ってみてください」と促します。生徒たちは「えーっ、まだあるの? 何だろうねえ」と困った様子で話し合いを再開します。でも何も出てきません。そこで私はヒントを出します。
 私「イエスから何かを受け取った、という気持ちはありませんか? 感謝とか申し訳なさは十分あり得るし、正しい気持ちだと思いますが、自分からイエスにそういう気持ちを向けるだけでなく、イエスから自分たちに何かがもたらされたという感じはしませんか?」と。
 生徒たちは「えーっ、何だろう? イエスから何かを受け取る???」
 私はまた教室を巡回しながら待ちます。しばらくして発言を求めます。でも何も出てきません。黒板の図を繰り返し説明しながら、なおも考えてもらいます。
 すると、どこかから小さく「命?」という声が聞こえてきます。とたんに「あ、命か!そうだそうだ」と生徒たちが声を上げはじめます。
 私「そう、命。私たちはイエスから命を受けとった。どういうことですか? きちんと説明できる人?」
 生徒たち「つまり、本当なら私たちが原罪に対する罰を受けて死なななければならないはずの立場なのに、死んだのは身代わりとなったイエスだから、私たちは逆にそのイエスの命をもらったということです」
 私「ザッツライト。その通り! つまりイエスの十字架は、すべての人々が十字架のイエスから命を受け取ったという出来事なのですよ。あるいは、命を交換したと表現してもよいのかも知れませんね」
 生徒たちは「ははーん」という表情で聞き入っています。しかしそれで終わりではありません。私はさらに続けます。
 私「では質問しますが、自分がイエスから命を受け取ったと思うなら、皆さんは受け取ったイエスの命をどう使いますか?」
 生徒たち「イエスのために使います」
 私「イエスのために使う。なるほど。具体的には?」
 生徒たち「具体的に? えーと、つまりイエスが喜ぶように、です」
 私「イエスが喜ぶように、とは具体的に?」
 生徒たち「えー? イエスが考えていたように?」
 私「イエスが考えていたように、とは具体的に?」
 生徒たち「えー? 」
 私「だめだめ、まだ観念的に考えている。いいですか、イエスのために、イエスが喜ぶように、イエスが考えていたように生きるとは、具体的にどういう生き方ですか?」このあたりはどんどん畳みかけていきます。生徒たちも必死です。
 生徒たち「え〜っ? 愛、ですか?」
 私「愛。どういう愛ですか? 誰に対する愛ですか?」
 生徒たち「…隣人愛?」
 私「そう、隣人愛。もっと正確に?」
 生徒たち「イエスのために、隣人愛を実行するように生きる? …あ、そうか!」
 私「よし、オッケー! イエスから命を受け取った人は、イエスに感謝し申し訳なく思うがゆえに、イエスのために、イエスが教えたように、つまり聖書に出てきた良きサマリア人のように、あるいは安息日に手の萎えた人を癒したイエスのように、さらには姦淫の女を許したイエスのように、神への愛と隣人愛に生きようとするのです。“新しい人生へと生まれ変わる”と言ってもよいでしょう。あるいは“イエスの遺志を継ぐ”というふうに表現してもよいかもしれません。」
 生徒たち「はあ〜、そういうことか〜。なるほど〜」
 でも、これでも終わりにはなりません。さらに質問は続きます。
 私「さて、イエスから命をもらった人が隣人愛に生きるとき、確かにパウロが言ったように、私たちの心からは何かが消えていますよね。何ですか? この黒板の図を見ながら考えてください。」
 生徒たち「…あ、自己中心性? 自己中心性がなくなっている…」
 私「そう、グッド! 隣人愛に生きる人はもう自己中心的ではなくなっていますね。どうですか? 辻褄が合うでしょう? 確かにイエスは、十字架の死で私たちの原罪を贖ったのですよ!」
 生徒たちは大きな口を開けたり、うなずいたりして、大いに納得している様子です。
 私「どうでしょうか。以上がパウロの贖罪論の意味です。ガッテンしていただけましたでしょうか?」
 生徒たち「ガッテン、ガッテン!」どのクラスでも生徒たちは笑顔で答えました。
 私「このパウロの贖罪論によって、キリスト教は普遍性を獲得したのです。つまりユダヤ人でない者にとってもイエスの十字架の死は意味のある出来事になったということです。ですからパウロの贖罪論がなければ、キリスト教は現在のような世界宗教にはならなかっただろうともいわれるのです。この贖罪論を理解して、イエスの十字架が自分にとって意味があると思えるようになった人は、もう半分以上キリスト教徒なのですよ。…まあもちろんキリスト教を信仰するかどうかは皆さんが自分の自由意志で決めることですけれどもね。…でもキリスト教ってどういう宗教なのか、分かったでしょ?」
 こういうと生徒たちは皆、すこし恥ずかしそうに、笑顔でうなずいていました。

 以上の説明は、神学の専門家からは酷評されるかも知れません。でもこれまでの説明では見られなかったほど生徒たちは納得できた様子でした。公立高校の授業でキリスト教を信仰するとはどういうことなのかを、単なる言葉の暗記にとどまらず、内面から理解させるためには、神学の正論とは少し違った脈絡で説明をすることをお許しいただきたいと思います。
 他の高校教員の皆さんにとって、もし参考になれば幸いです。

2017年06月06日

グループ・ワークで「幕末からの約200年を3つに区切る」

 今年度、私は「ピンチヒッター」で選択「日本史A」の授業を担当しています。「日本史A」という科目は、おおむね幕末(西暦1800年代以降)から現在までの約200年間を扱う科目です。
 2年生の、しかも大学入試センター試験で日本史を選択する予定のない生徒たち23名のクラスなので、教科書を最初からガリガリやる授業ではなくて、グループワークを中心とした授業を試みています。ここではその一部をご紹介します。

 最初の授業で私は、幕末から現在までの約200年間を目盛りに刻んだ紙を配り、「この期間を3つに区切るとしたら、境目となる2ケ所の出来事は何か? また区切られた3つの時代をどう定義するか?」という問題を出しました。
 日本史がある程度わかっていれば、明治維新と第二次大戦の敗戦の2か所で分けられるだろうということは察しがつくと思います。でも私は、「2か所の区切りは厳密に何年何月何日か確定する」ように条件をつけました。そして「教科書・資料集など何を使ってもよいので、まず自分で考えてみる」ように促しました。しかしこの問題は生徒たちにとっては意外に難しかったらしく、授業の終わりに紙を集めてみると、多くの生徒がほとんど白紙の状態でした。

 そこで次の時間は、「好きな友人と一緒でよいので4人程度の班を」作らせました(実際には5〜6人ずつ4つの班になりましたが)。そして各班に自分たちの班の名前を決めさせました。すると女子生徒ばかりの班の1つは「クレオパトラ班」と名乗ってきました。これに刺激されて隣の班は「楊貴妃班」と名乗りました。「美女軍団」を競っているのでしょうか、なかなか面白いですね。
 そして私は、最初の問題について「メンバーの間で話し合いを重ねて、各班の統一見解をまとめる」よう指示しました。もちろん机上の教科書や資料集は自由に使って構いません。私は各班を巡回し、どんな話し合いをしているかを見て適当に割って入るようにします。そうすると授業は実に面白くなってきたのです。
 それぞれの班内でいろいろな意見が出ます。もっとも、その様子を見ていると、いろいろな出来事を年号付きで羅列することはできるのですが、それぞれの出来事が何を意味するのか、ぜんぜん分かっていない様子です。つまりは日本史のイメージがほとんど無いのです。中学校までの歴史学習がいかに年号や出来事の丸暗記に終始しているか想像できます。もちろん、大体は明治維新と敗戦あたりに区切りがあるだろう、ということでは一致しているのですが、少し細かい話となると「大政奉還」なのか「王政復古」なのか、はたまた「大日本帝国憲法の発布」なのか、意見が割れます。敗戦前後にしても、「ポツダム宣言の受諾」なのか「天皇のラジオ放送」なのか「天皇の人間宣言」なのか「日本国憲法の公布」なのか「施行」なのか、諸説ふんぷん。また3つに区切った各時代の定義もさまざまです。

 私は各班を巡回しながら、ところどころで意見を言います。例えばある班(男子6人)は、「大日本帝国憲法の発布」を区切りとして、その前を「サムライおらおら時代」、その後を「天皇バンザイ時代」と書いていました。そこで私は、「大日本帝国憲法が発布されるまでサムライおらおらなの? そして大日本帝国憲法が発布されて初めて天皇バンザイ時代に突入したわけ? 間違いない?」などと質問します。生徒たちは自信ありげに「間違いありません!」と答えます。自由民権運動なんて微塵も意識されていない様子です。ふつうなら「違うだろ、中学校で何を勉強してきたんだ!」と怒鳴りたいところですが、私は冷静に「へえ、そうかな〜? もう一度教科書を読んでみてはどうだろう〜?」と言い残して去ります。…でも教科書をじっくり読んでいる様子はありません。雑誌でも見るような感じでペラペラとページを繰っているだけです。
 また別のある班(女子6人)では、「大政奉還」を区切りとしてそれ以前を「鎖国の時代」としていたので、「大政奉還によって鎖国が終わったの?」と聞きます。その問いかけで自分たちの認識の甘さに気づいたらしく、「あ〜、そうかあ。じゃあ違うね〜」などと言いながら、また話し合いが始まります。女子の班は、男子の班よりはまだ教科書を見ながら話し合っている様子が見られます。

 2コマほどこのような作業を経たのち、中間発表をさせてみました。黒板に大きな表を枠取り、4つの班の見解を板書して一覧できるようにしました。4つの班の見解をならべてみると、同じ意見になっているところもあれば、全然一致しないところもあります。生徒たちは他の班の意見をみて「なるほど」という感じです。とりあえずその日は終了時間が来たので、「いろいろな見解がある」ことを確認して、終わりました。
 授業の終わりに私は黒板に書いた一覧表を携帯電話のカメラで撮影し、職員室に戻ってその写真を見ながら一覧表をプリントに起こしました。そして大急ぎで各班の見解に対する「再検討課題」を書き込んだプリントを4種類作り、それを次の時間に各班に配布して、「さらに検討を重ねるよう」に促しました。再検討課題には、たとえば「他の班が“大日本帝国憲法の発布”を区切りにしているが、自分たちはどう考えるか?」などと書き込んであります。すると、どの班でも他の班の見解に刺激されて、自分たちの見解を修正したり、逆にあくまでも自分たちの見解を維持したり、さまざま話し合いが続きました。

 そして、いよいよ「最終見解」を発表する時間を迎えました。私は再び黒板に大きな枠を書いて、班長に自分の班の見解を書き込ませました。すると驚いたことに、4つの班のすべてで、最初の区切りは「大政奉還」で一致したのです! 1つの班に理由を説明させると「大政奉還で徳川幕府が政権を朝廷に返上したので、これを区切りにして幕府の時代から天皇の時代に変わったのだ」と説明します。私は「なるほどね。じゃあ、これでいいですか? 他の意見はありませんか? 最初の区切りは大政奉還ということで間違いありませんね?」と念を押します。生徒全員が「はーい、間違いないでーす!」と声をそろえて宣言します。
 そこで私はおもむろに、「では教科書を開いてみましょう。すると教科書には、『これ(王政復古の大号令)をもって、約260年続いた江戸幕府は終わった』と書いていますね。あら?、この教科書は間違っているのでしょうかね?」。すると生徒たちは絶句! 真っ青な顔をして、「はあ?」という表情で驚き固まっています。私は静かに「まあ、教科書が間違っているという可能性もありますけどね…。でも、もし教科書は間違っていないとすれば、どうして王政復古が区切りになるのでしょうね。はい、では改めて話し合ってみてください」。この瞬間、生徒たちは待ちきれないように喧々諤々と話し合いを再開しました。実に面白い展開です。
 しばらくして、王政復古(1967年12月9日)が最初の区切りとなる理由を改めて説明してもらいます。そうすると、「大政奉還」は徳川慶喜が政権の返上を朝廷に申し入れた出来事であって、その時点では徳川慶喜はまだ征夷大将軍(&内大臣)のまま。しかしその約2ケ月後の「王政復古の大号令」を契機に(厳密にはその当日の小御所会議の決議で)、慶喜の内大臣(と将軍職)の解任が決まり、天皇を中心とする政府が確立したということが分かってきました。生徒たちは「なるほど、そうなのか!」と、大いに納得した様子でした。少し大袈裟かも知れませんが、たぶん生徒たちは生涯この時の授業を忘れないでしょう!
 こんな風にして、「将軍が最高権力者であった時代」→「王政復古(1867年12月9日)」→「天皇が最高権力者であった時代」→「日本国憲法の施行(1947年5月3日)」→「国民主権の時代」という認識が共有されました。

 ここまでが第一段階です。この後の授業は、最初の(1800年代に入ってから王政復古に至るまでの)「将軍が最高権力者であった時代」約70年を3つに区切るとしたらどうなるかをテーマにグループワークを続けています。
 それが終わったら、「天皇が最高権力者であった時代」約80年を同様に3つに区切るとしたらどうなるかをテーマに、さらには戦後から現在までの「国民主権の時代」約70年も同様に3つに区切るとしたらどうなるかをテーマに、続けていこうと思っています。はてさて、どういう歴史学習になるでしょうか。暗中模索ではありますが、私自身も楽しみです。

2017年05月27日

内山奈月・南野森『憲法主義』の選挙制度に関する説明は不正確

 ある大学に通う1年生から、「授業で教科書に指定」されている内山奈月・南野森『憲法主義』(PHP研究所)という本を薦められたので、買って読んでみました。著者の内山奈月さんはアイドルグループAKB48の元メンバーで慶応大学経済学部の学生、南野森さんは九州大学で憲法を教えている研究者です。
 対話という形式は、難解なことがらを分かりやすく説明するのに適しています。古代ギリシアの哲学者プラトンの「対話篇」しかり、明治期日本の中江兆民『三酔人経綸問答』しかりです。最近では水島朝穂先生(早稲田大学教授)の『はじめての憲法教室』も対話形式でした。今回の『憲法主義』も、必ずしも憲法を深く理解しているわけではない青年と第一線で教えている専門家との対話を通して、学生だけでなく成人にとっても、憲法の本質について楽しく学べる書物になっていると思います。
 ただ、少なくとも1ヶ所「それはどうかな?」と思う箇所を見つけました。選挙制度について対話しているところで、比例代表制に対してずいぶん後ろ向きの印象を与える説明になっているのではないか、と思われる箇所があったのです。長くなりますが、2人の対話を少しずつ引用しながら説明しますので、お付き合いください。


<1>小選挙区にすれば政治が安定する?
 南野先生「国民の意思を正確に反映するためには、じつは純粋な比例代表制がいちばんいいのです。・・・国会議員全員を比例代表で選ぶようにすると、票を集計すれば、国民の政党支持がほぼ忠実に国会に反映されるわけです。・・・われわれ国民の政党支持を正確に反映することだけを追求すると、全国を一つの選挙区にしての比例代表制がいちばんいいのです。では、なぜそうしないのか」。
 内山さん「大きい政党が権力を握っていたほうが政治が安定するから。小選挙区にすればたくさんの小さな政党がばらばらに議席を取ることがなくなって、日本の政治が安定するからです。」
 南野先生「・・・あなた、そんなこと誰に聞いたの?」
 内山さん「高校の授業で学びました。」
 南野先生「すごくいい先生ですね。そのとおりなのです。」
 まずここで、私は吹き出してしまいました。内山さんは真面目に高校の教科書に書かれている通りに答えただけです。それを受けて「すごくいい先生ですね」はないでしょう。
 確かに南野先生は比例代表制の優れた点を指摘してはいます。「国民の意思を正確に反映するためには、じつは純粋な比例代表制がいちばんいいのです。・・・国会議員全員を比例代表で選ぶようにすると、票を集計すれば、国民の政党支持がほぼ忠実に国会に反映されるわけです。・・・われわれ国民の政党支持を正確に反映することだけを追求すると、全国を一つの選挙区にしての比例代表制がいちばんいいのです。」とおっしゃっている部分は私自身も大いに賛成です
 でも、小選挙区にすれば「政治が安定する」というのは本当でしょうか? 「安定する」という言葉は一見「良い」印象を与えます。しかし、たとえば現在の日本のように政党支持率で自民党だけが突出して安倍首相が常に支持率50%を維持している状態は、自民党から見ればまさに「安定している」ことになるわけですが、自民党に批判的な野党の側からみれば「安定している」どころか「自民党が暴走している」結果になっています。ですから「小選挙区制にすれば政治が安定する」という表現は、政権与党の立場から見たときのメリットであって、野党の立場から見たときには逆になります。けれども南野先生は、内山さんの教科書通りの返事を絶賛してしまうことで、冒頭の説明とは裏腹に、結果的に比例代表制に否定的な印象を与える方向に舵を切っています。そして大いに調子がついた南野先生は延々と語りはじめるのです。


<2> 比例代表制だと誰も満足できない連立政権ができる?
 南野先生「比例代表制はいま言ったように、国民の政党支持を正確に反映するためにはいちばんいい制度です。その結果どうなるかというと、たいていは多党制になります。
多党制になると、どこか一つの政党が圧倒的に強いということがなくなります。すると、議会で安定した過半数を得るためには、A党とB党が連立を組む、あるいはA党とC党が連立を組むということが必要になります。一党だけでは過半数を得られないからです。
 われわれは投票するときには、A党がいい、B党がいいといった選択をしたはずでした。ところがフタを明けてみるとA党もB党も過半数を取れないので、気がつくと全然想像していなかった連立が組まれている。結果として、誰も満足できない連立政権ができてしまう可能性があるわけです。
 ここにも問題があります。まず、確かに「選挙の結果どの政党も過半数がとれず連立政権が誕生する可能性は、小選挙区制より比例代表制のほうが高い」という説明は正しいと思います。しかし「比例代表制になると誰も満足できない連立政権ができてしまう可能性がある」という説明は正しいでしょうか。比例代表制でなくても意外な連立政権が誕生する可能性はあります。
 私がすぐ思い出すのは、1994年6月に成立した村山内閣です。この政権を生んだ衆議院は1993年の選挙(当時は中選挙区制でした)で作られていました。1993年の選挙というのは、自民党の宮沢内閣を倒して「55年体制」を崩壊させ(自民党が初めて野党に転落した)、日本新党を核とする細川内閣が誕生した選挙です。このとき誕生した細川内閣が短命で倒れ、そのあと同じく非自民非共産の連立政権である羽田内閣が誕生したものの、これも短命で終わったときに、アクロバット(曲芸)的に自民党と社会党と新党さきがけの3党が連立してできた(自民党が政権に復帰した)のが、村山内閣でした。社会党の党首が首相になったのは46年ぶりのことで、当時これは驚くべき政変でした。1993年の選挙で社会党に投票した有権者は、まさかその1年後に社会党が自民党と連立政権を組むとは夢にも思っていなかったに違いありません。社会党の内部でも自民党と連立することに対して賛否両論が沸き起こりましたが、結局は「誰もが驚く連立政権」が誕生したのです。社会党は、このときの政権入りを契機に、それまでの「自衛隊は違憲」の主張を転換し「自衛隊は合憲」と言い始めました。そしてそれが主因となって大きく支持率を下げ、衰退につながったのでした。この「自・社・さ連立政権」は比例代表制で起きたのではありません。「比例代表制だと多党制になり意外な連立政権になる可能性がある」という趣旨の南野先生の説明は不正確です。


<3> 比例代表制だと政権交代が起こりやすくなり、政治が不安定化する?
 南野先生「もう一つ、連立政権になると特定のイシュー(争点)で連立を脱退することがありえます。たとえば鳩山由紀夫連立政権のときに、沖縄の普天間基地の問題で社民党は連立を離脱しました。このときは民主党が単独で過半数の議席を占めていたので政権は倒れませんでしたが、連立政権は抜ける党や残る党の議席数によっては、すぐに倒れてしまう。ということは?」
 内山さん「政権交代が起こりやすくなります。」
 南野先生「そうですね。選挙をしなくても政権がコロコロかわるわけです。民主党の首相だったと思っていたら自民党の首相になった、自民党だと思っていたら公明党になった・・・というようにです。このような不安定な政治は非常に危険です。」
 ここにも問題があります。まず公明党の首相が誕生したことはありません。また、連立政権を作っている政党間で意見が割れたときに連立離脱ということは十分あり得ますが、それは比例代表でなくても起こることです。たとえば現在の自民党と公明党の連立政権は、公明党が自民党に異常なほど忠実であるために崩壊しないだけであって、今後公明党が何か特定のイシュー(争点)で自説を貫徹しようとする場面が生じれば、連立政権が崩壊する可能性はあります。その意味で「比例代表だと連立政権が崩壊しやすい」という趣旨の説明は、不正確です。

 次に、「比例代表制だと政権交代が起こりやすくなる」というのは本当でしょうか? むしろ事実は逆を示しているのではないでしょうか。衆議院の選挙制度が昔の「中選挙区制」から現在の「小選挙区比例代表並立制」に変えられたころ、この制度改正に賛成する人たちは「(中選挙区よりも)小選挙区のほうが、政権交代が起こりやすい」という説明をしていました。その理屈は、小選挙区制を導入すれば最多得票の候補者1名だけが当選するので、すこしでも得票を増やそうと政党の統合が進み、やがて二大政党制になるから、わずかの票差で政権交代が起きやすくなるのだ、という話でした。自民党が40年ちかく政権を独占する「55年体制」の時代に、この説明は多くの人々に魅力的に映り、小選挙区制は政権交代を実現する制度として期待されていたのです(なお、現実にうまれたのは「小選挙区比例代表並立制」でしたが、当初の小選挙区制300名・比例代表200名という定数配分は、実質的には小選挙区制中心の制度です。早稲田大学の水島朝穂教授も「小選挙区比例代表偏立制」だ、と批判しています)。
 そして実際に2009年の選挙では、民主党は小選挙区制での得票率が47%しかなかったのに74%の議席を獲得して政権交代(鳩山内閣)が実現しました。しかし次の2012年の選挙では、まったく逆に、自民党は小選挙区制での得票率が43%しかなかったのに79%の議席を獲得して政権を奪回しました(第二次安倍内閣)。これは小選挙区を中心とする選挙制度のもとで起きた政権交代です。もし得票率と議席率がほぼ一致する比例代表制を中心とする制度であれば、どちらの選挙でもこのような劇的な政権交代は起きなかったと思われます 。ですから「比例代表制だと政権交代が起こりやすくなる」という南野先生の説明は不正確です。
 もっとも、2009年と2012年の事実を根拠に「小選挙区比例代表並立制の導入で政権交代の可能性が高くなった」とも言い切れません。なぜなら、かつて旗振りをしていた人たちが想定したような二大政党制にはならなかったからです。また制度改正後に衆議院議員総選挙は7回実施されたものの、そのうち政権交代が起きたのは2009年と2012年の2回だけです。「55年体制」下で13回行われた衆議院選挙で政権交代が起きたのは細川政権が誕生した1993年の1回だけだったことに比べれば(13分の1と7分の2の比較で4倍)、数字の上では政権交代の確率が高まったように見えます。しかしこれをもって「小選挙区にすれば政権交代が起きやすくなる」ことが証明されたのでしょうか。私はそうは思いません。むしろ、2009年と2012年の2回の選挙を経験した結果、「全投票の半分も票が取れていないのに3分の2以上の議席を獲得できる」ような特性をもつ小選挙区制が本当に良いのかどうか真剣に議論されるようになった点にこそ注意すべきです。

 そして「比例代表制だと政治が不安定化する」というのはさらに疑問です。2009年に民主党政権(鳩山内閣)が誕生したとき、これを多くの国民は「不安定な政治になった」とは思っていなかったと思います。当時は民主党に対する期待が盛り上がっていました。「政治が不安定化した」原因は、民主党が選挙期間中に公約していた「沖縄の普天間基地の県外移転」を早々にあきらめた(それに反発した社民党が連立政権を離脱した)点にあるのであって、選挙制度のせいではありません。これを比例代表制に結びつけて論じる南野先生の議論は間違っていると私は思います。
 このように考えてくると、私は、「選挙制度と政治の安定性(政権交代の可能性)との間には、明確な一義的関係は存在しない」という結論が正しいのではないかと思います。


<4> 比例代表制はナチスを生んだ制度だから危険?
 南野先生「じつは徹底した比例代表制をとっていたのが、ドイツのワイマール共和国でした。第一次世界大戦後にできたワイマール共和国の憲法(1919年)のもとでは、その結果少数政党が乱立して、政権がコロコロかわった。ようやく政権ができたと思ったら、その政権が3ケ月くらいで解消して、また別の党から首相が選ばれる。その繰り返しで政策が進まない。そのため国民の政治に対する不満が高まっていきました。
 政治不信が高まると、国民は「とにかく強いリーダーが出てきてほしい」と思ってしまいます。「何でもいいからとにかく早く決めてほしい」と。そこで出てきたのがヒトラーだったわけです。」
 ここも問題です。「ヒトラーが誕生したときの選挙が比例代表制だったから比例代表制は良くない」という趣旨の説明は、いささか飛躍を含んでいます。もし「ヒトラーを生んだから比例代表制は良くない」のであれば、現在のドイツ連邦議会(下院)が比例代表制を基本とした選挙制度を採用していることを説明できなくなります。
 現在のドイツ連邦議会(下院)の選挙は、すべての議員定数を比例代表制の結果で割り振り、具体的な当選者の顔ぶれを決めるときに小選挙区制の結果を優先するという「小選挙区比例代表併用制」を採用しています。また過剰な小党乱立にならないように、比例代表で得票率が5%未満の政党には議席が割り振られない等の規制を設けています(これらの規制に対する違憲訴訟も起きていますが…)。つまり大雑把には現在のドイツは基本的に比例代表制の選挙制度になっているのです(なおドイツ連邦議会の上院は連邦各州政府の代表者のため選挙なし)。
 ナチス政権が誕生した背景には、第一次大戦の敗戦にともなう経済混乱や、強いリーダーを無批判に受け入れたドイツ民衆の政治的未熟さなど様々の原因があります。もちろんナチス政権を防止できなかった選挙制度にも責任の一端はあると言えますが、だからといって比例代表制を否定的に説明するのは過剰反応ではないでしょうか。


<5> 制度論としては、「民意の反映」か「民意の集約」か、が重要。
 南野先生「たしかに比例代表制は、国民の意思を正確に反映する素晴らしい制度です。たとえば、三つくらいしか政党がない国でやるとうまくいくかもしれません。けれども、日本のように自民党から共産党までさまざまな政党がある国では、なかなかうまくいかないわけです。
 どういう選挙制度がいいのかという問題は、政治学者と憲法学者がいろいろ頑張って勉強していますが、まだベストな答えは出ていないのです。」
 選挙制度を議論するときの重要な視点は、広範な民意からどのような議会をつくる制度になっているか、ということです。政権交代が起きやすいかどうか、政治が安定するかどうかという問題は、制度の本質ではありません。
 選挙は、間接民主制を実現するための手続きです。国民(厳密には数千万人の有権者)の全員が話し合って物事を決めることは不可能ですから、議員を選挙して議会で話し合ってもらい、議会の結論を国民全員の結論と同一視しましょう、というのが間接民主制なのです。したがって議会は、国民の間に存在するさまざまな意見を幅広く検討対象とする(民意の反映)という必要性と、その結果何らかの結論を出す(民意の集約)という必要性の、2つの必要性を同時に満たさなければなりません。選挙制度を考えるときに重要なのは、この2つの必要性をどの程度実現できるかという視点です。

 南野先生も認めているように、「比例代表制は国民の意思を正確に反映する」という点で優れた制度です。「得票率と議席率が一致する」というのはそういう意味です。国民から支持されている割合と同じになるように各政党に議席が配分されるわけですから、国民全体の意見の違いを正確に「縮小コピー」できるのが比例代表制なのです。「国民の半分は女性なのだから、女性議員をもっと増やして女性の意見が反映されやすい政治を実現しよう」という考えも、これと同一線上にあると思います。
 一方の小選挙区制は、過半数の支持がなくても1票でも多く得票した候補が当選するわけですから、国民の間に多様な意見があることを無視してでも一定の方向性をつけるのには適していると言えます。それゆえ「民意を集約する」という必要性を満たしやすいのです。(なお現役の教員が「小選挙区制は民意を反映する」という説明をしているサイトがありますが、これは明らかな誤解です )。
 比例代表制と小選挙区制を比較する際には、この「民意の反映」か「民意の集約」かという、制度の本質に即して論じられるべきです。政権交代の可能性が高いかどうか、政治が安定するかどうかは、政治集団の力関係(政党の力学)の問題であって、制度の本質ではないと思います。その意味で憲法学と政治学は異なるのです。南野先生の説明は、この点を曖昧にしている(混同している)ために不正確になっているのだと私は思います。


<6> 政治論としては、議員が柔軟な多数派形成をするかどうか、が重要。

 上記<2>でも述べましたように、確かに、選挙の結果どの政党も過半数がとれず連立政権が誕生する可能性は、小選挙区制より比例代表制のほうが高いということは言えるでしょう。しかし「連立政権は不安定だ」という意見は、1つの連立政権がさまざまの問題に同時に対処しようとするために(また国民もそれを安易に期待するために)、ある課題では連立できても別の課題では連立できないということが起こるという点をネガティブに捉えた表現だと思います。
 大政党による単独政権が(小政党の意見を蔑ろにして)すべての課題を自分たちだけで決定するような「安定した」政治とは違って、連立政権の場合には、その連立政権が解決すべき論点を明確にし、そのための多数派形成を柔軟に行うことが必要です。そして1つの問題が解決すれば、別の優先課題を明確にして、そのために新たな連立政権を作る面倒を克服することが必要です。
 そして、そのように柔軟に多様な連立政権を形成できるためには、熟議をいとわない議員たちの存在が必要です。議員たちが所属政党の垣根を超えて、国民全体の代表者にふさわしく理性を発揮し、虚心坦懐に熟議を重ね、どの問題ではどういう政党の組み合せが多数派を形成できるかを詰めていけば、問題ごとに様々な連立政権を組織することができるのです。そのとき、目に見える現象としては連立政権がコロコロ変わるように見えても、本質的にはそれぞれの問題ごとに多数派が形成されているわけです。このような面倒な作業ができるかどうかは、選挙制度の問題ではなく、議員の力量(と、国民の政治的成熟度)の問題です。逆に言えば、議会がそういう力量のない議員たちばかりの集まりになってしまっては、たとえ「三つくらいしか政党がない国で」比例代表制をやっても「うまくいく」とは思えません。
 こういう意見に対して、「それは理想論であって、そんなレベルの高い議員たちを期待しても無理だ」という意見もあり得ます。そういう意見の人々に魅力的なのが小選挙区制なのでしょう。小選挙区制は、第一党に絶大な勢力を与える特性をもつ制度ですから、熟議を放棄して「つべこべ言わずに黙って俺についてこい」というタイプの強引な議員には都合のよい制度です。手っ取り早く何らかの「結論を出す」分かりやすさはありますが、それだけ「政権与党の暴走」の危険性も大きくなります。
 私は、可能なかぎり「民意の反映」を基礎に置いて、柔軟な多数派形成をめざして熟議を重ね、なるべく「民意の集約」という論理が表面化しないような政治こそ、成熟した民主政治だと考えます。そのためには、まず「民意の反映」を基礎とした選挙制度(比例代表制)にすることと、議員たち自身が熟議のできる力量をつけることが必要です。その意味で、早々と「民意の反映」をあきらめて「民意の集約」(小選挙区制)に傾く議論をしている南野先生の姿勢は、健全な民主主義を実現するにはどうすればよいかという真摯な学問的姿勢に欠けているように私には見えます。学生向けの教科書的な書物だとしても(いや、そうだからこそ)、誤解を招くような説明は慎んでいただきたいと思います。


<7> 理想的な選挙制度とは?

 それにしても、「民意の反映」と「民意の集約」という2つの相反する必要性を1つの制度で実現できる選挙制度はないのでしょうか? これは非常に難しい問題です。現実的な選択肢としては、(1)得票の多い2〜3人を当選者にする「中選挙区制」に戻すという方法と、(2)比例代表制と小選挙区制をうまくミックスさせるという方法が検討対象になると思います。
 現在の衆議院の「小選挙区比例代表並立制」(小選挙区制中心)や、ドイツ連邦議会(下院)の「併用制」(比例代表制中心)は、本質的には大きな違いがありますが、非常に大雑把に「比例代表制と小選挙区制のミックス」という点では共通して後者(2)の発想に立っています(私自身は、日本の制度よりもドイツの制度のほうがはるかに理想に近いと思いますが)。
 あるいは、少々乱暴な議論かも知れませんが、日本は憲法43条で衆議院・参議院どちらも議員は選挙で選ぶことになっているのですから(上院に選挙がないドイツとは違って)、片方を比例代表制中心の選挙制度にし、他方を小選挙区制中心の選挙制度にしてバランスをとる方法もあり得ると私は思います(「民意の反映」を重視する立場から言えば衆議院を比例代表制中心にするのが筋だろうと思いますが)。もちろんそうすると衆議院と参議院で「ねじれ国会」になる確率が高くなりますが、そのかわり多数を擁する政権与党の暴走を防ぎ、熟議が促される可能性も高まります。

 皆さんには、ぜひ「教科書に書いていること」を鵜呑みにせず、自分の頭を使ってしっかり学び、考えてほしいと思います。長文お付き合いいただき、ありがとうございました。

2017年05月20日

このタイミングの「婚約」発表は、国民の目をそらすためか

 5月16日(火)の夜に突然、宮内庁が秋篠宮家の長女である眞子内親王と小室圭氏の交際について発表しました。マスコミ各社は一斉に沸き立ち、号外が出るわ、テレビも新聞もトップニュースで報じるわ、の大騒ぎになっています。

 「おめでたい話」であることは否定しませんが、それにしても、どうしてこのタイミングでの発表なのでしょうか? 朝日新聞の報道によると、宮内庁長官は「しかるべき時期に発表するべく準備をすすめていた。正式な婚約時期は未定」と説明したそうです。婚約の日さえ未定ということは、要するに「結婚を前提に交際している」という発表でしかありません。婚約が決まったとか、結婚式の日が明らかになったというような話であれば、すぐ国民に知らせるためという大義名分もたちますが、単に交際しているという程度のことを、わざわざ夜になってから発表する必要はどこにあるのでしょうか? 皆さんはこのニュースに接してそんなことは考えませんでしたか?

 私はこのニュースに接したとき、すぐにジャーナリスト・堤未果さんの言葉を思い出しました。彼女は、著書『社会の真実の見つけかた』(岩波ジュニア新書)の中で、「ワイドショー的な要素が強いニュースがテレビや新聞に繰り返し現れた時は要注意。たいていはもっと重要なニュースから目をそらせる役割を果たしている」と書いています(163ページ)。

 改めて16日(火)というタイミングを考えてみると、翌17日(水)には当初、衆議院の法務委員会で「テロ等準備罪」(いわゆる「共謀罪」)の新設を含む組織的犯罪処罰法改正案の採決が予定されていました。結果的には、採決を阻止しようとする野党が金田法務大臣に対する不信任決議案を提出するなどして抵抗したため、採決は19日に持ち越されました。しかし16日の段階では、翌日はまだ採決の予定でした。その他にも16日には「森友学園問題」で「敷地の地下3mより深いところにはゴミはなかった」という事実が明らかになり、さらに加計学園の獣医学部設置に安倍首相が絡んでいた可能性が指摘される問題が急浮上。安倍首相にとっては国民に対していささか分の悪い状況にあったことは否めません。そこに内親王のニュースです。この絶妙のタイミングは単なる偶然でしょうか?

 もちろん、証拠があるわけではなく、「そういう可能性がある」という推測にすぎません。しかし、ひょっとすると安倍首相は、このニュースを発表させれば、多くの国民の関心が皇室のほうに向き、そのぶん政治に対する注意が低下すると計算したのかも知れません。もし安倍首相がそう考えたのだとすれば、天皇(家)の政治利用の恐れがあります。これは「考えすぎ」でしょうか?

 こういうことを言うと、「眞子さまの慶事をそんなふうに歪めて考えるとは、呆れた奴だ」という反応があるかも知れません。しかし政府の動きに対して冷静かつ批判的な姿勢をとることこそ、民主主義的態度です。皇室の話になったとたんに思考が停止し「婚約だ婚約だ」と浮かれてしまうようでは、一人前の「主権者」とは言えません。これはとても大切なことです。政府がこういうタイミングで皇室の話を持ち出してくるのは、もしかして国民を欺こうといるのではないかと、冷静かつ批判的に受け止める姿勢が必要です。それが「主権者」としての責任なのです。

2017年05月04日

高等教育無償化と抱き合わせの9条改憲論は、「毒まんじゅう」だ

 報道によれば、安倍首相は「憲法改正を実現し2020年の施行をめざす」考えを発表したそうです。「9条1項2項を維持したまま新たに自衛隊の存在を明記する」ことと、「高等教育無償化を盛り込む」ことを「憲法改正」の核心としているようです。(注:「高等教育」とは大学・大学院での教育を指します。「高等学校での教育」は中等教育です。紛らわしいのですが、ご注意を)
 ついに本性を現しましたね。この安倍首相の話は「毒まんじゅう」ですよ。「高等教育の無償化」で美味そうに見せかけながら、「自衛隊の合憲化」を飲ませようという魂胆です。その手に騙されてはいけません。
 以下、安倍首相の話が「毒まんじゅう」である理由を説明しましょう。

高等教育無償化は今すぐ可能
 まず第一に、いまの日本国憲法は「高等教育の無償化」を禁止してはいません。憲法26条は「義務教育は無償とする」と規定していますが、「義務教育だけを無償にする」とは書いていないのです。つまり、いまの憲法のままでも「幼稚園から大学院まですべて無償化する」ことは十分可能なのです。もし仮に、いまの憲法が義務教育以外の無償化を禁止しているためそれが障害となって高等教育の無償化ができない、という事情があるなら、「憲法を改正する」ことには意味がありますが、そういうことではないのですから、「高等教育の無償化のために憲法を改正する必要」はありません。安倍政権がそれほどまで高等教育の無償化を実現したいのであれば、すぐ来年度から大学授業料を無償化する予算を編成すればよいのです。それができない(=しようとしない)くせに、「高等教育の無償化のために憲法改正」を言うのは、ハッキリ言って「論点のすりかえ」であり、「無知な国民(特に青年たち)をたぶらかす理屈」です。絶対に騙されてはいけません。
 もう一つ言いましょう。高等教育までの教育無償化は、実は国連人権規約のB規約13条で既に規定されています。この条約は、加盟国に高等教育までの無償化を努力義務としているのです。ところが日本は、1966年に国際人権規約に加盟した当時から一貫して、この規定を留保(つまり都合により守る必要がないものと勝手に除外する宣言)をすることで、高等教育までの無償化に取り組んでこなかったのです。
 時が流れ、この高等教育の無償化を留保している国が先進国では日本だけ、世界でも数ケ国の1つという実に不名誉なことになってしまった2012年、民主党の野田内閣のときに、ようやく「留保」を撤回し、高等教育までの無償化にむけて努力することを国際社会に向けて宣言したわけです。そしてまず、高等学校の授業料の無償化を実現しました。しかしそれに猛反対したのは当の自民党でした。そして2012年に自民党が政権に復帰すると、高等学校の授業料無償化を後退させてしまったのです。
 自民党は、このように高等教育までの無償化には非常に後ろ向きであったにも関わらず、安倍首相が突然このようなことを言い出したのは不自然です。こういうとき主権者たる私たちは「裏があるな」と疑わなければならないのです。

第二次大戦も「自衛のため」だった
 結局、安倍首相の「憲法改正」の核心は「自衛隊の合憲化」です。この「毒まんじゅう」のアンコは実に美味そうに見えます。「北朝鮮情勢が緊迫し、安全保障環境が一層厳しくなっている中、『違憲(の存在)かもしれないが、何かあれば命を張ってくれ』というのはあまりにも無責任」と安倍首相は言うのです。実にもっともらしい理屈です。でも、これは詭弁です。
 よく考えてみてください。「北朝鮮情勢が緊迫し、安全保障環境が一層厳しくなっている中」で、「自衛隊を合憲」にしたらどういう事態が起きるでしょうか? 自衛隊は堂々と(米軍と協力して)北朝鮮に軍事的な圧力を行使すること(その最たるものは戦争)ができることになります。確かに憲法9条は「国際紛争解決手段としての戦争・武力の行使・武力による威嚇」を禁止し、「戦力不保持と交戦権の否認」を定めていますが、仮にここに「自衛隊は合憲」と明記するとなれば、「自衛のため」であれば「戦争も武力の行使も武力による威嚇も」許されるという理屈が通ることになるからです。「自衛のため」という大義名分の前に、9条の1項と2項は「ただの飾り」にしか過ぎなくなり、日本は現実に戦争ができる国になってしまいます。
 もう一つ言いましょう。日本国憲法が「戦争放棄」を規定したのは史上初めてではありません。日本国憲法施行の約20年前にできて、当時の日本も締結していた「パリ不戦条約(正式名称:戦争抛棄ニ関スル条約)は、締約国相互の戦争放棄を規定していました。しかしこの条約は、禁止した戦争についての定義を欠いていたため、「自衛のための戦争までは禁止していない」という解釈の余地を残していました。そのため、その後に起きた第二次世界大戦は、戦争を仕掛けた国も仕掛けられた国も、いずれも「自衛のため」という大義名分で戦ったわけです。そして東京裁判でもA級戦犯たちは「自分たちは(自衛のために戦ったのだから)パリ不戦条約違反で断罪することはできない」と抗弁したのです。
 この反省に立って、現在の国連憲章は、国連加盟国の自衛権の行使を非常に限定しています。「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」にのみ「個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」としているのです(51条)。このような経緯を考えれば、安倍首相がいう「自衛隊の存在」あるいは「自衛権の行使」を合憲化する憲法「改正」は、国際社会の流れに逆行し、ふたたび戦争の危険性を増大させる結果になると見るべきです。「自衛権」という言葉で思考停止してはいけません。
 もっとも、仮に、「自衛隊を根本から改変して、軍事的装備を全廃してあくまでも災害救助のためだけの組織にする」というのなら話は分かります。でもそれなら逆に9条を変える必要もありません。現状のままで自衛隊を合憲にするのでは、自衛隊が軍隊として行動することを阻止できません。「自衛隊員が頑張っていることへの評価」を「自衛隊の合憲化」にすり替える安倍首相の詭弁に足をすくわれないように注意しましょう。

憲法改正を言うこと自体が憲法違反
 安倍首相がいよいよ年限を切って9条に照準を合わせた改憲論を示してきたことで、今後、日本国憲法をめぐる議論はいよいよ先鋭化してくるでしょう。
 しかし安倍首相は現時点で一つ大きな過ちを犯していることを認識しなければなりません。安倍首相は、日本国憲法99条が「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と規定していることを忘れているということです。「尊重し擁護する義務を負う」のですから、国務大臣たる安倍首相は「憲法改正を主張してはならない」のです。それが立憲主義です。主権者は日本国民なのですから、「仮にもし憲法を改正するとすれば、それは人権・平和・民主主義をより一層徹底し、政府の勝手な行動をさらに強力に制限する方向での改正を、国民の側から提起することができるだけ」なのです。つまり、権力の座にある安倍首相自身が「日本国憲法を改正しよう」と主張すること自体が、明白な憲法違反なのです。主権者たる国民は、そういうふうに考えて、権力の暴走を阻止しなければなりません。それができなければ、国民自身がヒトラーを選んだ昔のドイツと同じになってしまいますよ!
 繰り返しますが、安倍首相に騙されてはいけません! 絶対に!

2017年04月30日

「避難訓練」が必要な事態を作っているのは、憲法違反の威嚇政策だ

 かつて平和教育教材として広く読まれたマンガ『はだしのゲン』は、冒頭ゲンの父親が竹槍訓練に真面目に取り組まないために「非国民」の烙印を押される話から始まります
 「昼間から米軍機の空襲を受けるようになった以上、もはや日本に勝ち目はない。いまさら竹槍訓練などしたって無駄だ」と考える父親は、訓練に集まった住民たちの前で、訓練の指導者である退役軍人たちに向かって、「酒でも飲まずにこんなバカげたことができるか」、「資源のない日本は平和を守って世界中と仲良くして貿易で生きるしか道はないんだ」などと言い放ちます。これに対して退役軍人たちは「この非常時の大事な訓練に酔っぱらって来るとは」と呆れ、訓練の最中にも放屁する父親に対して「非国民だ」「非国民だ」と怒りを募らせていくのです(そして父親はやがて警察からも虐待されることになる)。

 こんな風景が約70年後の今、ふたたび現実のものになるかも知れない事態が進行しています。
 去る4月21日、政府は内閣官房のウェブサイト(国民保護ポータルサイト)に、北朝鮮から弾道ミサイルの攻撃を受けた際の避難方法を周知するページを公開し、各都道府県にも同様の説明会を実施しました。その影響と思われますが、私が勤務する県では先週、学校現場にまで「弾道ミサイル落下時の行動について」と題する通知があり、児童生徒が校庭などから屋内に避難する訓練を実施する等の対応をするよう求め始めたのです(ちなみに4月29日(土)午前5時半ごろ北朝鮮が弾道ミサイル1発を発射したとき、「ミサイル発射」情報を受けた東京メトロ(地下鉄)が安全確認のため10分間全線で運転を見合わせたそうですが、こういった対応も上記の影響でしょう)。

 でもよく考えてみてください。本当に日本の都市に北朝鮮からの弾道ミサイルが撃ち込まれるような事態になれば、建物に避難するどころでは済みません。「屋内に退避する訓練」なんて、事態を具体的に想定していない、『はだしのゲン』の竹槍訓練レベルの話ではないでしょうか。
 これは笑い話ではありません。かつて信濃毎日新聞の主筆であった桐生悠々は、1933年8月11日に「関東防空大演習を嗤う(わらう)」と題する社説を書いて、「帝都の上空に於て敵機を迎え撃つが如き作戦計画は、最初からこれを予定するならば滑稽であり、やむを得ずしてこれを行うならば勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。壮観は壮観なりと雖も、要するにそれは一のパッペット・ショー〔操り人形劇〕に過ぎない。」と書いて、東京上空で敵機を迎え撃つための防空演習を無意味だと批判し、そのために辞職に追い込まれたのです(この桐生の文章は、1945年3月の東京大空襲をリアルに想像していて、見事です)。
 私は、弾道ミサイル攻撃に備えて避難訓練をするよう求める通知は、いたずらに危機感をあおり北朝鮮に対する反感を高める恐れがあると思います。いま地方自治体が為すべきことは、内閣官房の意向を機械的に現場におろして「万一の場合の責任逃れ」を図るだけのような対応ではなく、政府に対して「憲法9条に基づいて北朝鮮に対する威嚇行動をやめ、トランプ大統領を説得して国際会議を開け」と進言することではないでしょうか。そもそも、「北朝鮮からの弾道ミサイルが落下してくる事態を起こさない」ことが憲法9条の下にある日本政府の「国民に対する責任」なのです。

 思い出してみてください。戦前1941年ごろの日本は、現在の北朝鮮のような国でした。ABCD包囲網で石油輸入を制限され、対米交渉では中国大陸からの撤兵を要求されるなど、大変困難な局面にいたのです。そのような「制裁と圧力」に抗して、日本は「窮鼠猫を噛む」が如くに、無謀な真珠湾奇襲作戦を敢行して状況の打開を図ったのでした。
 安倍首相は「すべての選択肢がテーブルの上にある」と豪語するトランプ大統領を支持し、北朝鮮に「圧力」をかける米軍に協力しはじめました。一見勇ましい行動のように見えますが、これは憲法9条が禁じる「武力による威嚇」です。いま北朝鮮に対して「圧力」をかけても、それによって北朝鮮が自ら譲歩するとは思えません。「圧力」によって、かえって北朝鮮が「一か八か」の無謀で破滅的な挑戦に出る危険が高まります。いま日本政府がとるべき行動は、トランプ大統領の暴走をいさめ、国連を中心に周辺諸国とも協調して北朝鮮が不満に思っている国際環境の改善を図る方向でリーダーシップを発揮することでなければならないのです(その意味でも、核兵器禁止国際条約の制定に反対している日本政府の態度は批判されるべきです)。

 国際情勢の悪化とともに「9条は時代遅れ」といった印象が国民の間に広がることが心配です。マスコミの世論調査では、大半の国民はまだ9条改憲に反対しているようですが、安穏とはしていられません。いま国民に必要な訓練は、戦争の反省と教訓の上に成り立っている日本国憲法の精神を第一に考えて行動できるようにする訓練です。

【参考】「関東防空大演習を嗤ふ」と「国民の立憲的訓練」(水島朝穂「直言」2009年4月13日)

2017年04月09日

「共謀罪に反対!」という言葉が分かりにくい

 4月6日から衆議院で「組織犯罪処罰法改正」案の審議が始まりました。この提案の最大の争点は「テロ等準備罪」の新設を認めるかどうかです。「テロ等準備罪」は、過去に「共謀罪」として提案されながら、野党の反対で3回も廃案になったものと酷似している犯罪です。テレビや新聞では大きく報道されていますが、報道の大きさほどに国民の関心が高まっているようには感じられません。
 安倍政権は本質的には非常に危険な政権であるにもかかわらず、不思議に支持率が落ちません。衆議院と参議院で圧倒的多数の議席を有している安定感ゆえかも知れませんが、私は、安倍政権の「言葉のうまさ」に理由があるように感じています。さまざまの提案を、一般市民の素朴な正義感をくすぐる言葉や理屈で正当化してくる場面が多いので、野党側の政治家や専門家たちがひっくり返すのは非常に難しいのです。

素朴な考えをひっくり返せるか?
 今回の「テロ等準備罪」には、そういう安倍政権の「うまさ(=ずる賢さ)」が如実に表れています。たとえば政府は「テロ等準備罪は、国際的な組織犯罪の防止に関する条約(パレルモ条約)の批准のために必要」と説明しています。「テロ」とは、もともと「恐怖」を意味するフランス語で、爆発物・銃砲刀剣・薬物などを使った破壊・殺人行為を指します。一方「パレルモ条約」は、麻薬や人身売買などの国際犯罪組織(いわゆるマフィア)を取り締まるための条約で、「テロ防止のための条約」ではありません。それゆえ「パレルモ条約批准のためにテロ等準備罪が必要」という説明は、事情を知っている人々にとっては明らかな間違いなのですが、安倍首相はそんなことはお構いなしに平然と言ってのけるわけです。すると多くの一般市民はどっちの言い分が正しいのか分からなくなり、結局よく顔を知っている安倍首相のほうを信頼してしまいます。
  「テロ等準備罪は東京オリンピック開催のために必要」という説明も同じです。安倍首相は東京オリンピック招致の際に「東京は犯罪が少ない」とアピールしていました。それとこれを比較すれば、彼の説明が矛盾していることは明らかなのですが、素朴に考えれば「オリンピック会場でテロが起きないほうがいい」に決まっていますから、言葉の上の矛盾は吹っ飛んでしまいます。「テロを防止するためテロ等準備罪が必要なのは当たり前だろう、それに反対する人間は、それこそテロリストじゃないのか」という素朴な考えが出てきます。素朴に考えている人たちに、10年前からの「共謀罪」の話をしても、遠く難しい回り道になってしまうのです。

 今回の「テロ等準備罪」の提案に対して、野党側が「共謀罪に反対!」という言葉で対抗するのは果たして有効なのでしょうか。私はそこに、今回の問題に立ち向かう野党側の根本的な弱点を感じます。もちろん私は「テロ等準備罪」には反対です。基本的人権を保障する立場で、約10年前から「共謀罪」が繰り返し廃案になってきた経過を多少でも知っている人間であれば、「あの共謀罪を今度こそ成立させようというのだな、それは許せない、共謀罪には反対!」と言いたくなるのは当然だと思います。しかし、そういう経過を知らない(あるいは昔から無関心だった)人たちの側から見れば、「テロの共謀や準備が罪になるのは当然だろう、何が悪いのか?」という発想になるのではないでしょうか。そういう意味で、「共謀罪に反対!」は分かりにくい言葉です。
 この点、2015年の「安保法制」を「戦争法」と名付けたのはヒットだったと思います。政府がいくら「安全保障のための法制だ」と言っても、集団的自衛権の行使容認など日本を戦争に巻き込む「戦争法」じゃないか、という指摘は比較的分かりやすかったのではないでしょうか。多くの人々を国会前に集めることができたのは(もちろん若者たちの呼びかけも重要でしたが)、「戦争法」という言葉に「それは本質的に悪法である」というメッセージが分かりやすく表現できていたということも手伝ったのだろうと思います。
 安保法制を「戦争法」と捉えたセンスから言えば、「共謀罪」ではなく「不平不満罪」とか「市民的抵抗罪」という言葉で反対を訴え、理解を広げていく必要もあるのではないかと私は思います。少なくとも、もともと「共謀罪」という言葉自体、約10年前に政府みずからが使った言葉であり、悪法としての本質を隠蔽する言葉であったということを忘れてはいけません。

「テロ等準備罪」の恐ろしさ
 もちろん、もし「共謀罪に反対!」が分かりにくいなら、分かるように説明すればよいではないか、という反論もあるでしょう。確かにその通りです。しかしこの問題を理解するには、ちょっと専門的な知識と、国家権力に対する冷静で批判的な姿勢が必要になってきます。
 専門家の説明を私なりに整理すると、日本では既に、テロ防止のための法制度は十分整備されています。例えばテロ防止のための13本の国際条約はすべて批准していますし、破壊活動防止法・銃刀法・爆取法・暴力団対策法など国内法の整備も充実しています。それゆえパレルモ条約を批准するために、いまさら「テロ等準備罪」が必要というわけではありません。
 政府は「テロ防止」のためと言いますが、「テロ『等』準備罪」は、約270の既存の犯罪行為を対象にその準備段階で処罰を可能にする法案です。対象となる行為の中には、例えば「著作権法違反」など通常テロとは無関係の犯罪も入っています。また政府は「一般市民を処罰対象にはしない」と言いますが、一般市民が処罰対象にならないようにする明確な規定は設けていません。それゆえ、「テロ『等』準備罪」が成立すると、例えば原発反対運動で座り込みを計画している市民を「威力業務妨害の準備罪」で逮捕することが可能になります。ブラック企業に勤める社員たちが経営者と時間無制限で交渉しようとした場合にも「威力業務妨害の準備罪」で逮捕することが可能になります。ある著名な弁護士は、無実を証明するために弁護士が証人と打ち合わせをしたら、それだけで「偽証の準備罪」になる危険があるとも指摘しています。なぜなら検察官にとっては、検察官自身が考える事件の筋書きが「真実」であり、それを否定しようとする弁護士の活動は、仮に弁護士の主張のほうが真実であっても、警察・検察の側から見れば「偽証罪の準備行為」ということに解釈されうるからです。これは非常に恐ろしいことです。
 もちろん政府は「それは考えすぎだ、そんなことはあり得ない」というふうに反論していますが、法律案の言葉の上では、そういう間違った使われ方が起きないという保証は、どこにもありません。「団体の性質が一変すれば、一般市民の団体であっても犯罪集団となり、テロ等準備罪の対象になりうる」ことを政府は認めているのですから。

 ちなみに1925年に成立した治安維持法は、当初は「国体(天皇主権の体制)と私有財産制を護持するため」つまり共産主義運動を取り締まるための法律でした。まだ法案として帝国議会で審議されていたとき、当時の政府は「治安維持法が一般市民に影響を及ぼすことはない」等と明言していたのです
 しかし現実はどうだったでしょうか。治安維持法が成立してからのち特別高等警察(特高警察)が作られ、共産主義運動のみならず、大本教などの宗教団体が治安維持法違反で弾圧されました。やがては戦争を遂行する政府を批判しただけの一般市民までもが逮捕され拘禁される事態になりました。国民は「壁に耳あり障子に目あり」と言って特高警察の監視を恐れ、うかつに政府や軍の行動に批判的なことは言えなくなってしまいました。かくして治安維持法は戦時中「天下の悪法」として猛威を振るい、戦争遂行の大黒柱の一つとなったのです。いま国会で審議されている「テロ等準備罪」がそのような悪法にならない保証はどこにもありません。
 このように考えると、いま議論になっている「テロ等準備罪」は、一般市民の素朴な考えを超えて、「政府・大企業にとって不都合な行為をすべて取り締まる」という意味にまで広げて考えたほうが実体に近くなってきます。つまり「テロ等準備罪」を必要とする真の狙いは「テロの防止」よりも「市民的抵抗の弾圧」のほうにあるのではないか、との疑いが増してくるわけです。政府はこのような疑問に誠実に答えようとはしていません。

北朝鮮と同じ監視社会になる危険
 しかしそれでも、多くの人々には「やはり自分には関係のない話だ」と思われるかも知れません。でも本当にそうでしょうか。
 「テロ等準備罪」が成立するためには、 屮謄軼の計画」と◆崕猗行為」の2つが必要です。,靴し「テロ等の計画」は水面下の動きですから、警察は「テロ等の計画」をしている者がいないか、常に多くの市民や団体を監視しなければならなくなります。これは警察による日常的な盗聴やスパイを認める根拠となります。早稲田大学の水島朝穂教授によれば、かつて検察庁の元高官までもが「共謀罪が成立すると、かつての特高警察のような組織が必要になってくるだろう」という趣旨のことを言っていたそうです
 盗聴というものは、一度始めてしまうと「テロ等の計画」とは無関係の人までも広範囲に対象となるので、プライバシー侵害の危険が増大します。アメリカの元CIA職員のスノーデン氏が暴露したように、既にアメリカ政府は一般社会の膨大なメールのやりとりを傍受し監視しているそうですから、「テロ等準備罪」が成立すると、日本の警察もあらゆる通信を傍受し監視するようになるでしょう。メールだけでなくLINEも監視されることになるでしょうから、何かのメッセージを「既読」にしたまま放置すれば、それだけで「計画に同意した」とみなされる危険も生じます。
 次に◆崕猗行為」は、「銀行預金をおろす」など普通の生活行為も含まれますから、ふつうに生活していても「資金調達をした」と解釈されて、「準備行為あり」とされる危険が生じます。従来、日本の刑法は実行行為を処罰するのが大原則で、殺人など重大犯罪に限って例外的に未遂行為や準備行為を処罰の対象にしてきました。「テロ等準備罪」は約270の多数の行為に幅広く適用されるので、これが成立すると日本の刑罰法規の原則と例外が逆転することになります。これは相当に重要な問題です。
 さらに、2燭「テロ等の計画」で何がそのための「準備行為」であるかは警察が勝手に自由に判断できるわけですから、市民がちょっと冗談で言ったことが発端になって、警察が勝手な思い込みで事件化する危険も出てくるでしょう。広い意味で思想・表現の自由を侵害し、冤罪事件が多発する危険が生じるわけです。
 このように、「テロ等準備罪」が成立すると、政府(警察)による市民監視が強まり、少しでも政府・大企業に批判的なことを考えたり相談したりしただけで「犯罪集団」として逮捕される危険が増します。このように政府が国民を徹底的に監視するような社会は、もはや民主主義の社会とは言えません。民主主義は、国民の自由なコミュニケーションと、政府に対する批判的行動を容認する土台のうえにこそ成り立つものなのです。「言いたいことも言えない」息苦しい監視社会なんて、今の北朝鮮と同じです。北朝鮮をひどく敵視する政府が、自ら北朝鮮のような社会を作る方向に動いているのが今の日本の矛盾した姿なのです。

 途中で妨害が入ったり枝葉末節に迷い込むことなく、首尾一貫してこの程度の説明を続けることができ、聞き手の側も真面目に聞き考えることができて初めて、「テロ等準備罪」が、その言葉から受ける印象とは違って、また素朴な感情とは違って、とんでもない悪法=「21世紀の治安維持法」になりうる危険な存在だということが理解できるのではないでしょうか。いや、この程度の説明ではまだ理解してもらえないかも知れませんが…。

素朴で間違った理解はこんなところにも
 ここまで書いてきて、朝日新聞(ウェブ版)が面白い記事を掲載したのを発見しました。「自白強要は仕方ない? 高校生7割が肯定的 1千人調査」という見出しで、「憲法で権力を制限するという「立憲主義」への理解が8割の高校生に浸透する一方、差し迫った重大犯罪を防ぐためには自白を強要してもよいと考える高校生が7割近くに上ることが、高校生1千人を対象にした研究者の調査でわかった。」と報じています。
 ちょっと驚くような調査結果ですが、高校教員の私にとっては、十分にありうる結果です。基本的な概念や用語の意味がよくわかっていないケースは、この記事が問題にしている「法の支配」や「自白の強要の禁止」だけではありません。たとえば「日本が攻撃されそうなときには北朝鮮に先制攻撃を加えることも合憲だ」と自信たっぷりに語る高校生もいます。もちろんこの理解は間違いで、先制攻撃は(合憲であるかどうか以前に)現行の国際法上も認められるかどうか学説上争いがあるのです。このように、日本社会に古くから浸透している勧善懲悪の理念や、功利主義(最大多数の最大幸福)的な価値観、あるいは素朴な思い込みが、国際法や憲法のルールの真の意味の理解を妨げている例はたくさんあります。「テロ等準備罪」にしても「共謀罪」にしても、言葉の表面だけで「分かったつもり」にならないことが非常に大切だと思いますね。

 私たちが本当に防止したいテロは、いま審議されている「テロ等準備罪」に基づく監視社会をつくることによってではなく、テロが発生する背景にある「貧富の格差」や「大国のエゴ」などを解決することによってこそ防ぐことができるのではないでしょうか。野党議員の皆さんには、ぜひそういう根底的なレベルからの議論を展開していただきたいと痛切に感じます。このままでは日本がアメリカと一緒になって北朝鮮と戦争を始めるということもありえない話ではありません。万一そうなったときに、「戦争反対」を叫んで行動する多くの市民が「テロ等準備罪」で監視し弾圧されるという悪夢が現実にならないように、私たちは徹底的に政府を監視し弾劾しつづける必要があるのです。

2017年03月26日

本物と偽物を見分ける眼力をつけよ 〜卒業生に贈る言葉2017

 1年がたつのは本当に早いもので、今年度もあとわずかになりました。1月末に「倫理」の授業を終えた後も、国公立大学の前期入試の小論文対策として数名の生徒の答案の添削指導などで忙しい日々を過ごしていましたが、それもようやく終わり、先日は無事に卒業式も終えて、新入生の入試も一段落して、やっとホッとしたところです。
 さて報告が遅くなってしまいましたが、卒業式の前日に配布された『生徒会誌』の「卒業生に贈る言葉」に、今年は次のような言葉を書きました。
 勝利にうぬぼれるな。敗北を恐れるな。真の幸福は、挫折を経験し涙を飲みながら一生懸命考えぬいた者に、少しだけ与えられる。人生の途上には、悔しさを乗り越えて自分の足で立った者にしか見えない広大な景色があるのだ。本物と偽物を見分ける眼力をつけよ。勝つことにしか関心がない人間の調子のいい言動を過信するな!
 昨年までとは視点を変えて、今年は少し内面に踏み込んだメッセージにしてみました。共感してくださる人は少ないかも知れませんが、「挫折こそ人間を成長させる」というのは私の持論です。若いころに多少なりとも(いろいろな意味で)挫折を経験し自分の生き方を見直した人ほど精神的に成長できる、ということを私なりに表現したつもりなのですが、いかがでしょうか。
 もちろんこの言葉は、受験に失敗した生徒たちを励ましたい気持ちに発するものですが、必ずしもそればかりではありません。そもそも私たちの生き方それ自体に対する根源的な問題提起を含んでいます。それは、競争に勝つ(勝ち得る/勝った)者の側に身を置く生き方をするか、それとも競争に負ける(負けかねない/負けた)者の側に身を置く生き方をするか、自分の生き方を吟味してほしいということでもあります。そして若いころの「挫折」体験は、自分の生き方を吟味する貴重かつ重要なきっかけを与えてくれるものである、というメッセージを込めています。

 いま世の中を見渡せば、どの方向を向いても競争、競争です。電車に乗れば「企業経営に成功するノウハウを教えるセミナー」だの、「難関大学・有名高校・一流中学校の入試対策の塾」だのと、各種さまざまの宣伝があふれています。テレビのスイッチを入れれば、高校生や大学生の年ごろの若者がアイドル歌手やスポーツ選手として注目され、脚光を浴びています。才能のある者や「努力」をした者が競争に勝って幸福になれるのは当然だ、平凡で競争に勝てない者は成功者の幸福を指をくわえて見ていろ、ライバルに勝つことにしか生きる意味がない、というメッセージが氾濫しています。
 いま平凡な中学生・高校生は、授業でも部活でも個人的生活でも、どの方向を向いても競争と無縁でいることはできず、ひとつ間違えば競争に負けてしまうという危機感、あるいは今更少々努力しても勝てそうにない競争に付き合わなければならない不毛感・徒労感に押しつぶされそうになっているのではないでしょうか。彼らがスマホをいじってSNSでのコミュニケーションに多くの時間を費やすのは、それが彼らにとって競争からの格好の「逃げ場」になっていることを示しているのかも知れません。
 私は、そんな環境で暮らしている平凡な高校生たちの姿を見ていて、「競争に勝ち抜くことに生きがいを見出す」のではなく、かと言って「競争に背をむけて自分の殻に閉じこもってしまう」のでもない、そのどちらでもない第三の道、すなわち「競争に挫折することを契機に、自分の生き方について考え抜く」道を選んでほしいと思うのです。今年の「贈る言葉」はそんな気持ちの結晶です。

 私はここで、あえて「競争」の悪弊を強調しておきたいと思います。もちろん「競争すべてが悪いのではなく、健全な競争には存在意義がある」という考え方もありますが、その議論は別の機会に譲ります。なぜなら私は、「競争に勝つことが評価される社会は、必ず差別と抑圧を生む」ということを、まず第一にしっかり考えてほしいからです。
 競争社会にどっぷり浸かり、競争に勝つことにのみ生きがいを見いだし、うまく競争に勝ち続けた人間は、必然的に「自分は優れた人間だ」と思い込むようになります。あるいは、何度か敗北を味わったとしても競争それ自体を疑わなかった人間は、自分より劣っている存在を見出して、「自分は彼らよりはまともな人間だ」と思い込むようになります。他人を優劣の上下関係という物差しでしか処理できない人間は、絶対に他人を「同じ仲間」としては認識できません。自分と違って競争に勝てない者、競争に勝とうと努力しない者を蔑んだり(さげすんだり)、邪魔者扱いしたりすることになってしまうのです。そこに差別と抑圧が生まれます。私は、昨今の政治・社会の弊害状況の多くは、この競争原理が生み出した差別と抑圧のメカニズムの影響が大きいと感じています。

 たとえば最近の国内問題でいえば、仮設住宅問題もその一つではないでしょうか。つい先日、東日本大震災から満6年の節目を迎えましたが、いま被災地では仮設住宅での長期避難生活が大きな問題になっています。戦後まもない1947年に制定された災害救助法には、「仮設住宅は応急措置ゆえ原則2年」という趣旨の規定があるそうですが、実はこれが壁になって、被災自治体がある程度長期間の避難生活に耐えられるような仮設住宅を建設したくでもできないそうです。町の復興が進まない中で災害公営住宅の建設も自宅再建も進まず、多くの被災者が劣悪・狭小な仮設住宅での厳しい長期生活を強いられています。また災害救助法は、仮設住宅の代わりに賃貸住宅の借り上げを容認してはいるものの、厳格に仮設住宅と同レベルの物件しか代用を認めていないため、このままでは、次に大きな災害が起きた時に、仮設住宅・賃貸住宅が大幅に不足し大変な事態になるということが予想されます。既に阪神淡路大震災のときから、専門家たちは、災害救助法を改正して被災者や被災地の個々の状況に応じた柔軟な制度、長期的な視点に立った避難と復興のしくみを作っていくことの必要性をずっと訴えているのに、内閣府の高級官僚たちは未だに法律の改正にまったく関心がないようです。
 私はこのことを知り、競争に勝利した者のもつ冷酷さに、怒りを通り越して諦めさえ感じました。「内閣府の高級官僚になるような人は、大部分は難関大学を優秀な成績で卒業したような秀才ばかり。幼いころから優等生で通ってきて、敗北や挫折の経験がほとんどなく、それゆえ名もない被災者が具体的にどんな暮らしを強いられているかには関心がもてないのだろうなあ。彼ら自身が被災者になってみて、官僚として墨守してきた法律が彼ら自身の生活を苦しめることを身に染みて理解しないことには、たぶん何も変わらないのだろうなあ」と。彼らの「優秀さ」が、社会の中で助けを必要としている人々のために用いられていないことが、この国の最大の不幸だと私は思います。

 ですから私は、「競争に勝つことに生きがいを見出すな」と敢えて言いたいわけです。競争は社会における物事の決め方の1つに過ぎません。競争の限界を認め、皆が「勝利が良いことで、敗北・挫折はみじめなことだ」という競争原理の価値観そのものを克服しなければ、皆が幸せになることはできません。競争原理の価値観を克服するために必要なことは、私たち自身が競争原理に対抗できる価値観を獲得することです。それは「競争に背を向ける」ことではなく、むしろ逆に「競争に批判の目を向ける」ことなのです。それは決して「敗北」ではなく、(哲学の用語でいえば)「弁証法的発展」なのです。
 「挫折を経験し涙を飲みながら一生懸命考えぬ」いた結果、競争の非人間性を見抜き、「悔しさを乗り越えて自分の足で立」った者だからこそ、自分と同じように小さな存在である他者を同胞として受け入れることが可能になるのです。それは「逃げ」ではなく、私たちが本当に人間として生きるために必要な共通の精神的土台だ、と私は思います(ちなみに宗教では、それを「神との出会い」などと表現しますし、その結果可能となる新しい人間関係を「実存的交わり」と表現する哲学者もいます)。多少なりともそういう過程をくぐり抜けてこそ、「本物と偽物を見分ける眼力」が養われるのではないでしょうか。

 さて、この「贈る言葉」を脱稿したあと、アメリカではトランプ大統領が誕生しました。私に言わせれば、トランプ氏は競争原理から抜け出せず、勝利しか眼中にない「お調子者」の代表です(つまり「偽物」ということ)。そんな彼と、そのトランプ氏に尻尾を振る安倍首相の態度をニュースで見ていて、早くも来年の「贈る言葉」の候補が浮かびました。もちろん来年このまま使うかどうかは未定ですが、一応それを紹介して終わりたいと思います。
 「偉い人」にペコペコするな。「偉い人になろう」と思うな。「偉くなる」とはどういうことか分かっていない人間が「偉く」なると、暴君になる。「地位が低」くても卑屈になるな。「地位の低い者」をバカにするな。それはイジメである。「人間は皆ちっぽけな存在である」ことを肝に銘じて、「真実・正義・友愛を大切にする人」とともに歩め!
 毎度同じような言葉ではありますが、私が毎年こんな小言を書かなくてもよいくらい、まともな世の中になってほしいものです。


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【追記】 4月19日に、NHKは
仮設住宅の設置基準 広さや費用を大幅に改正

災害で家を失った人に提供される仮設住宅の設置基準について、内閣府は面積の規定を削除したほか、自治体が支出できる設置費用を2倍以上に引き上げるなど大幅に改正しました。東日本大震災では、被災した自治体から設置基準が長期の避難生活に合わないという声が相次いでおり、内閣府は「今後、災害が起きた場合には地域の実情に合わせて対応してほしい」と話しています。

仮設住宅は、災害救助法に基づいて応急的に整備され、被災した人たちに無償で提供されるものです。
これまでの設置基準では、原則として面積は1戸当たり29.7平方メートル、自治体が支出できる1戸当たりの設置費用は266万円以内とされていました。

しかし、発生から6年1か月がたった東日本大震災の被災地では、先月末の時点で3万人以上が仮設住宅での不自由な暮らしを余儀なくされていて、自治体からは「今の設置基準は長期の避難生活に合わない」という声が相次いでいました。

こうした中、内閣府は先月末に仮設住宅の設置基準を改正し、29.7平方メートルとしていた面積の規定を削除し、「地域の実情や入居する世帯の構成などに応じて設定する」としました。
また、自治体が支出できる1戸当たりの設置費用は、266万円以内から2倍以上の551万6000円以内に引き上げました。

内閣府はこの改正の内容を都道府県に文書で通知したほか、来月以降に説明会を開いて周知を図る方針で、「今後、災害が起きた場合には地域の実情に合わせた仮設住宅を整備してほしい」と話しています。

被災自治体の62% 面積狭いと回答

NHKがことし1月から2月にかけて岩手、宮城、福島の42の自治体を対象に行った聞き取り調査では、仮設住宅の設置基準の見直しを求める声が相次ぎ、62%に当たる26の自治体が「面積の基準が適切ではない」と回答しました。

このうち、宮城県女川町の須田善明町長は「被災者が住宅を再建するまでの期間を耐えられるような基盤をいかに準備するかが行政に求められている。仮設住宅の間取りを広げるなどの対応が必要だ」と述べていました。

一方、聞き取り調査では、原則2年とされている入居期間についても全体の74%に当たる31の自治体が「適切ではない」と回答していましたが、今回の改正では入居期間は変更されませんでした。
と報道しました。(2017/4/26追記)