2005年05月31日

引越しします

ご愛読どうもありがとうございました。
また会う日まで!!!(マーキュリー)  
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2005年05月16日

大学時代は貴重な時間?

皆さんは、こんな希望がかなうならどうしますか?
「一度だけ過去に戻って人生をやり直せるなら、あなたはどの年代に戻りたいですか」、こんな問いを夜な夜な寝る前に楽しげな妄想として思いをめぐらしならが眠りに付いた記憶が私にはあります。
私はもし希望がかなうなら、間違えなく大学時代に戻りたいと答えます。それほど私の大学時代はやり放題な楽しい時代でした。と同時に、もし戻れるならやりたいことが、遣り残したことがある年代です。
私の大学時代の思い出はと問われて、簡潔に答えるなら;
・アメリカへの短期留学、タイへの放浪の旅
・一人暮らしの自立とアルバイト生活
・恋多き月日
の3つのキーワードに絞られるのではないでしょうか。
どのほど、気ままな自由な4年間だったことでしょうか?その分、両親には仕送り含めて多大な経済的負担を強いた4年間でした。
私は、ごたぶんにもれず、表向きのテストの成績だけはよく、でも日々勉強していたかというとそうではなく、テスト前の要領がいいだけでした。そんな生活でのアメリカ短期留学とタイへの放浪の旅は私の功績とも言えるべき経験でした。(言い訳をさせていただくとその費用の半分以上は自分で稼いだお金でした)その思い出を書くとまた話が長くなるので今回はここまでにします。そのほかに印象的なことは、一人ぐらいの自由を楽しみながら、恋愛にいそしんでいた日々を送っていました。でも、アルバイトは人生経験には必需ですね。自分が働いてお金を稼ぐことを学ぶ初めての実践でしょうか。
今戻れるなら、大学時代に戻りたい!戻って何がしたいのか。戻れたら;
・もっとにバイトして、もっといろんな国に行きたい
・もっと英語の勉強をしたい。可能なら、正規の留学すればよかった。英語を
マスターするなら、この時代、留学が最も早かったかもしれません。
・実践的会計学を勉強したい。実践的会計学とは、簡単にいうといかにお金を増やすか。今の時代ほどではないにしろ本で学べたと思います。人生なんやかんやいいながらお金があったことに越したことはないですね。
そして、私は、やりたい放題の大学時代にピリオドを打ち、就職活動に向かうのです。  
Posted by tyousenshatachi at 20:46Comments(0)TrackBack(0)我が人生の記

2005年05月13日

フジドラマ「恋におちたら」と現実

昨晩初めてフジテレビの「恋におちたら〜僕の成功の秘密〜」を見ました。草なぎクン扮する鈴木島男がベンチャー企業で活躍していく話で、ライブドア騒動のあったフジがこの話題を取り上げるという面から見てもちょっと面白い。
話はやはりドラマだからちょっと大げさですが、確かに、特にベンチャー相手の数千万〜億単位のIT投資となると「機能要件を満たしているから、はいOK!」と買ってくれる相手はいません。私はまだまだ経験は浅いけれども、「いまは小さい会社だけど、この会社は何か可能性がありそう」という予感と相手の琴線にひっかかる「感動」を与えることができなければ、商談はうまく運ばないような気がします。
ちなみに、私もお客様が書かれている「社長日記」やブログがある場合は必ず読みます。貴重な情報源ですし、何に関心があって何に困っているのか、提案のポイントも見えてきます。あと、企業の採用募集案内も隠れたチェックポイントです。(マーキュリー)  
Posted by tyousenshatachi at 10:30Comments(0)TrackBack(0)ビジネスのヒント

2005年05月12日

セールスプロセス

顧客から新しい契約を獲得することほど困難なことはないですね。とくに提案型のソリューションを売る場合は膨大な時間が掛かります。平均的に六ヶ月かかるとすれば営業マンと関連管理者の費やす時間は約150時間に及び経費を含む総コストは150万程度となります。これですと一人の営業マンの年間処理件数が10件程度ですから年間の経費は1500万ということになるでしょうか。これで成果が得られればいいのですがそうでないと悲惨なことになりますね。販売するものにもよりますがまずこれら営業マンの活動を支える、つまり成約をより容易にする活動いわゆるブランディングは欠かせません。このよしあしによって会社業績が左右されるでしょう。また時間が掛かってもいつもセールス活動が維持できる十分なプロスペクトがあるということが何より大事なんですが、、
ともあれ日本のセールスプロセスは長すぎますね.六ヶ月が三ヶ月になるだけで時間と費用は三分の二以下になり大きな改善となることは間違いありません。新しい手法が要求されておりまたそれが可能な状況にあると思います。長いセールスプロセスはお客様のためにもならないしいいことはどこにもありません。この点を極めていきたいと思っております。(アポロ一号)  
Posted by tyousenshatachi at 16:38Comments(0)TrackBack(0)ビジネスのヒント

2005年05月11日

語学上達法その3

今日は久々のテレカン(teleconference電話会議)でした。
アメリカ東海岸とだと時差が今は13時間、したがって会議も夜か朝早くになってしまうのが辛いですね。

英語でのメールのやり取りや、直接面と向かって話すのが慣れても、電話会議に参加となるとまたもう一段ハードルが高く感じられるもの。私も数年前までそうだったのですが、時差の少ないシンガポールやマレーシアからちょくちょく電話を受ける状況になってから、さすがに慣れました。
まさにジェミニさんが書かれている通り、人間、逃げられない環境になるとなんとかするものです。
これから少しずつ英語の電話会議対処法について書いていきたいと思いますが、まず第一に、日本語でもいいので必ず「自分がどうしたいか」と「譲れる点」「絶対譲れない点」をなるべくシンプルに箇条書きで事前にまとめておくことをお薦めします。電話を切ってから「ああ、言いくるめられてしまった。面倒なことになってしまった。。。」と後悔しないためにも、考えを整理してから会議に挑みましょう。(マーキュリー)  
Posted by tyousenshatachi at 22:53Comments(0)TrackBack(0)ビジネスのヒント

2005年05月10日

ふと半生を振り返り

先日誕生日を迎えて、43歳になりました。人生を考えると後30−40年でしょうか。そんなことを思いながら、ふと自分の半生を振り返ると、大きな挫折や
災難などのないそれなりに順風蔓延な半生だったと思います。少し長くなるかもしれませんが、私の半生の物語を読んでもらえればと思います。

私の父親は、四国の田舎で父親(私の祖父)が戦死し、長男なために中学を卒業すると家族のために働かねばならず、地元で漁師を始めましたが、中々生計は厳しく、大阪に職を求めて上京しました。鉄工所で独立を夢見て働きづめの毎日だったと聞いています。やがて、母と出会い、私が生まれ、しばらくして
念願の独立を果たしました。私の記憶の中には、働いている父の姿しか残っておらず、いまふうにいう家族で旅行するとか、出かけるとかといった団欒の記憶がありません。私には妹がいます。2つ違いです。
私は、自慢ではないですが、それなりに勉強もできて、スポーツもでき、学級委員長になるような子供でした。私の年代は、スポーツといえば野球で、私も高校進学にあたり、かなり可能性は低いと思いながらも甲子園という舞台を夢見ました。でも、野球もやりながら、大学もそれなりのところに行きたいと思い、関西大学の付属高校を受験しました。いわゆる私立のお金のかかる高校です。そのころ、大阪では、公立という文字に甲子園の可能性は皆無でした。
おのずと私の中にも公立という文字はありませんでした。
高校生活はまさに野球漬けの毎日でした。でも、甲子園はかなり遠かった。その現実を知るのにそんなに時間はかかりませんでした。皆さんもご存知のPL学園に試合に行ったことがあります。相手は甲子園常連高で、我々はボンボン学校、相手は2軍でした。でも力の差は歴然でした。
そんな、高校野球生活も3年の夏に終わり、大学受験モードに突入します。付属高校だったので、よほどのことがない限り、関西大学に進学が可能で、学年300名の内、上位50名前後は、関大でもトップの学部の法学部に進学が可能です。(内部の成績の順位でだいたい大学のいける学部が既に決まるのです)私は野球漬けの日々を送りながらも一応勉強はしていたので、その法学部の範囲に入っていました。両親も当然関大の法学部に進学してくれるだろうと思っていました。(付属高校からは学費も多少安くなるし)
ところが私は何を考えたか、一人暮らしがしたかったのと、国際関係の勉強がしたいと思い立ち、一般受験をすると言い出したのです。さすがに両親もあわてました。特に母親は、かなりショックで、かなり私の行動に納得がいかず、激論が繰り広げられました。それでも私は自分で調べて、埼玉の名もなき大学を選びました。当時、国際関係の学部は極端に少なく、津田塾(これは女子大)、国際基督大、上智大、東海大と私が進学した東京国際大だけでした。
いくら、付属高校でそれなりの成績とは言え、一般受験の準備とはかなりの差があり、国際基督・上智に行くためには浪人覚悟、東海は学部の場所が地方だったのもあり、レベルの低い東京国際大(埼玉)を選びました。私にはそのころ浪人という文字はなく、早く親元を離れたいという思いの方が強かったのです。受験の最終段階に当たっては、母親は苦やし涙を流しましたが、GOを出したのは父親でした。今思えば、私立の高校でお金がかかり、大学も私立しかも一人暮らし、どのほどお金がかかったでしょうか。実は2歳下の妹も私立の女子高に入りました。父親は私に話をしました。「中学しか自分は出れなかったので、子供には思うようにさせてあげたい。」当時の私は、そのことに関して表面的には感謝しながらも、心のそこからその意味がわかっていたというと疑問です。
印象的だったのは、高校のクラスの先生が私が他大学に先に合格したことをクラスで発表した時、みんな拍手でしたが、その裏にはライバルが減ったという思いも込められていたことです。冷静に考えると一人関大への進学人数が減る分、枠が増えるわけですから当然といえば、当然です。そのことは後から友人に聞きました。でも、私はそんなことを気にするよりも、これからの自分の生活に夢を膨らませていました。どのほどお金がかかるかは全く私の意識の中にはなかったことです。
そして、私は故郷大阪を離れて、埼玉での一人暮らしを始めました。

ここで余談ですが、私の妹は、成績もそれなりによく、運動もそれなり、それなりというのは上位ということです。でも、兄の存在が大きく、どうも学校でいつも比べられていたようです。口には出さなかったのですが、妹からすれば
多少なりとも悔しい思いをしていたようです。その反動なのでしょうか、私が大学で家を離れた後の妹の猛勉強振りはすごかったようです。(妹を援護すると、妹も大阪ではレベルの高い四天王寺という女子高に進学していました)
母親から晩年聞いたのですが、両親があまりの勉強にぶりを心配して、「もう勉強やめなさい」というと、「他の親は勉強しなさいというのに、内だけだ、勉強はほどほどにしなさいという、お母さんはおかしい」とすごまれたようです。何が妹をそこまで勉強に駆り立てたのか、私の影響がかなりあったことを知ったのは、かなり後でした。

ここで、くぐりがいいので、今夜は筆を置きます。大学生活以降の私の物語を楽しみにしてください。これまた結構やんちゃな人生です。
(KI)  
Posted by tyousenshatachi at 19:52Comments(0)TrackBack(0)我が人生の記

アプリケーションソフトウエアー

縁あってWinWorksというSWを見せていただく機会があった。これは例えば小売業などで店員のSkillや休暇の計画などを前提にし顧客の対応や売上の増進のための最適配置を店舗ごと時間ごとに検討し実行する本格的なSWと思われる。またこのシュミレーションの結果をBIに送りいろいろな前提条件の抜本的な見直しにも活用できそうである。特に小売業などでは社員やPartの人件費が大きなCOSTになっていることからいろんなTOOLを使ってそれぞれに工夫されているとは思うがいよいよこういったResource ManagementがBusinessとして出現してきたことに意味があるように思う。真のCS(Customer Satisfaction)のためにはES(Employee Satisfaction)がベースになるということでしょう。

思えば1990年の初頭にGlobal Standardの採用のもとBPRを意図したERPの大きな流れによるビジネスプロセスの業務面からの再構築が始まりその後顧客とサプライヤーをマクロ的に捉えるSCMの概念が実現され物と金の流れの効率化が推進された。2000年に至りSCMの一層の展開と同時に時間軸とビジネスプロセスの効率を追求するBPM(Buisness Process Management)が現れWork Flowの改善に向けて有効なSWが使用され始めている。そしていよいよ企業内の人という物ではない重要なResourceの効率化にメスが入れられようとしている。(アポロ一号)  
Posted by tyousenshatachi at 12:27Comments(0)TrackBack(0)ビジネスのヒント

2005年05月09日

挑戦者達序論

いつの世にも若者もあるいは年寄りもなにか新しいことをしたいと思っています。ビジネスの世界でも特に大半の時間をこれにたずさわっているとしたらなおさらいつもチャレンジングでありたいと思うのは人の常でしょう。ビジネス世界で起こっているあるいはその中で試みているいくつかの小さなことが相互の刺激となりあるいは貴重な経験たりえることを願ってこのBLOGを寄稿します。  
Posted by tyousenshatachi at 11:17Comments(1)TrackBack(0)ビジネスのヒント