エギ選びで五里霧中日本のメディアはどうなのさ?

2015年06月13日

シャルリー事件を、個人的にまとめてみる

シャルリー・エブド襲撃後、はたして私たちは笑っていて良いのか? · Global Voices 日本語
 
おおっ、日本マスコミや市民団体がグッチャグッチャ過去の遺産を反芻して食い繋いでる中、ダイナミックに世界は動いてるんだと実感する記事だ
 
この国の団体(官民右左問わず)が世界に広がりを持てず、いつまでも過去に向いている理由は、結局のところ成功体験(高度成長+バブル経済)から脱却できない点がデカい
ある程度の時期までは、"日本だからしょうがない"と顧みられる事無くやってこれた為、その体験自体が特別で特殊な事例だという内外の合意を不問にして来てしまった。そのためそれ自体が世界に通用する体験であるという間違った認識が、国内全体において支配的だ
 
例えば、日本のジャーナリズムは世界に通用しない
それはある面では、海外において砲弾飛び交う中を越えて共有されて来たものだし、主義主張の違いで幾多の血が流された土地に根付いた思考であったし、革命前夜の死線を越えて届けられる声であるからだ
 
互いに争う事はあっても、決して一線を踏み越えない国民性であり、それで(結果はどうであれ)何とか出来た当時の状況
そういう時代が長期に渡って続いた事が奇跡であり、世界から見たらおかしな事なのだ

その良い面として、この国独自のものがあっても、そこの過程で育まれた"文化"は、外部から発見される事はあっても、内部独自のコードで作られたもののため系統だった解説が不能だから、それをこちらからプレゼンテーションする事は出来ない
その解決の一つとして"恥"でもプレゼンし続けるしかないが、保守的な層は否定的だ


フランスの共和国主義・民主主義、この辺りが理解するのにかなりの時間をくう
何故かというと、日本の学者や識者に多くの部分で誤解の解釈がなされていると感じるから
大雑把な見方だが、共和国主義や民主主義は個々人で共通の何かを譲り、"法"を第一にリスペクトするところから始まる

それはフランスでは"個々の宗教や信条"だった
だからこそ、宗教の如何にかかわらずまた"無宗教でも"(言うまでもないが、無宗教を平気で公言出来る国の方が数少ない)人々が平等に安全に同じ基本的人権を守る法に守られて暮らせる…という原理
 
"ライシテ"(世俗主義と訳されるが、"非宗教性"の方が近いと思う)の思想は云わば、宗教が個人の内面を通して社会・国家まで支配する力(敢えて自分は"暴力装置"とは云わない)から個人を自由にする思想なわけだ

池田信夫 blog : 「脱宗教革命」としてのフランス革命

宗教が法律を越え、国家や個人の行動や自由を規定する"暴力"を、少なくとも欧州はイスラム世界以前に気付いていた事になる
そこを外すと、社会的弱者のレジスタンスといった安易なヒロイズムを結果的に汲んでしまう事になる
例えば「フランスではアパルトヘイトがあって黒人やイスラム教徒は差別されていて、しかもその弱者を馬鹿にするからテロの標的にされるのだ」という"解釈"
学者や識者はこうやって暴力を"解釈"する事が、結果的にテロの肯定に加担している事に気付かないといけない
何故なら、ここには黒人・イスラム社会どちらにも平穏な社会があり"誰しもが暴力による抗議・抵抗に肯定的ではない"という普遍的な視点が欠けている
そして、その社会からも零れ落ちた弱者をよりテロリズムへかき立てる"道しるべ"を、学者識者はしている事になる

新しい『シャルリー・エブド』 : L'art de croire  竹下節子ブログ
 
日本人が"抵抗の為のテロリズム"にどこか肯定的なのは、江戸時代からこっち日本社会の中で"異質な文化"に対する術がなく、社会規範や規律そのものを揺るがす事が起こり得なかったからだと思う
 
そんな社会からは、今後世界中で広がるであろう
"信教の自由を認めた政教分離の民主国家にするか、宗教の法に従うかという対立"
に、何ら語り掛ける言葉を持たない様に思う
そしてそれは、自分達が知らないうちに行っている"利点"を、ますます見えにくいモノにしてしまうだろう
 

今回は以前から考えていた事を、いろんな方の言葉を借りてまとめてみた形になった
まぁまだ足りなく思うけど、今の自分にはここまでが限界だと思う
 
また何かあれば別エントリーで。頭ん中くしゃくしゃ。それじゃまた、生きてたら
 


トラックバックURL

コメントする

名前
 
  絵文字
 
 
エギ選びで五里霧中日本のメディアはどうなのさ?