MYSTIC RHYTHMS

日常雑記、音楽、鉄塔そして自転車など

ミスティック・リズムス―多摩の住人が綴る多摩な日々

北の離れ 瑞穂町陸軍射撃場跡 3

瑞穂町陸軍射撃場跡 3

 六つ目の境界杭からお伊勢山遊歩道をさらに進んで、七つ目の境界杭。

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遊歩道と杭(白↓)

 遊歩道の中に在る、とも言える。

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七つ目(標高183.8m)

 可也土が付着し見え辛いが、「陸」の文字ははっきりと分かる。
 航空写真で場所を示すと、

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瑞穂町射撃場航空写真
1944年(昭和19年)9月27日撮影

 白☆がそれ。黄★は一つ目の「七一」杭、水色★は四つ目の杭。

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瑞穂町射撃場跡航空写真
2019年(令和1年)10月30日撮影

 杭の場所から、「mn」の農芸高校のプールや体育館が樹の間にチラリ見えるので、おそらくそう違ってはいないと思う(「mc」は瑞穂中学校)。

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「六四」

 裏には「六四」と、はっきりと見える。初めに見つけたのが「七一」だから「六四」は八つ目だ。でも、私が見つけたのはこれが七つ目―、という事は、一つ見付けられなかったこととなる。「七一」の次にあったのが「六九」であったから、「七十」が抜けていたという事か。

 次は、

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八つ目

私的には八つ目の杭だ。これも埋もれ気味ではあるが、「陸軍」とはっきり確認できる。

 少し行くと、西方向の箱根ヶ崎方面への分岐点となり道標がある。

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「お伊勢山遊歩道」

 今更だが、「お伊勢山遊歩道」の表示を。「お伊勢山」の名の由来だが、お伊勢参り(伊勢神宮に参拝すること。江戸時代に大ブーム)と関係がありそうにも思うが、色々調べたが不明である。

 どうやらこの道標の辺りが、お地蔵様の名にあった愛宕山の様だ。ここから先は下りとなり、可也下り切った所で園芸高校裏手にある池の辺りに出る。

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農芸高校北西端付近(標高凡そ167m)

 この付近が射撃場敷地北西端の様でもあるが、境界杭は見当たらない。Googleマップでは、小さな池が示される瑞穂農芸高校の西北端付近で、写真奥方向、木の間に僅か水面の光や学校の金網フェンスが見える。
 遊歩道はここから先相当激な登りで、以前紹介した「三角点広場」へと向かい敷地跡からは離れていく。
 ので、先ほどの分岐へ戻る。逆向きなので今度は当然登りである、自転車を押しながら或いは担ぎながらなので、正直辛い。

 ここまで、私は8個の境界杭を確認できたが、サイト「魅了されたもの・・・」さんによれば八つあるとのことなので、この8個が一般に確認できる数なのかもしれない。狭山丘陵西端部の、北東−南西方向の尾根筋詰まり「お伊勢山遊歩道」に沿って並び、標高は凡そ180mの前後である。遊歩道の通る尾根が、射撃場の西側の縁なのだろう(瑞穂町の大字、石畑と高根の境でもある様だ)。
 まだ他にも杭は有るかもしれないが、ササを分け、落ち葉を除き、それを見付けるのはなかなか難しそうである。そもそも、遊歩道を外れれば学校敷地内で立ち入れない場所となろうし。

 ここで、自転車の乗り入れについてだが、このお伊勢山遊歩道のある野山北・六道山公園は自転車乗り入れは可である、ただしスピード走行はしないとの前提だ。

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条件付きで自転車乗り入れ可

 園内あちらこちらで見るこの標識、一見自転車不可にも見えるが、注意書きには「やさしい運転お願いします 子ども、お年寄り、静かに散策する人がいます。」とあり、条件付きの走行可であることが分かる。ただし階段も多く、マウンテンバイクやグラベルロード(オフロード可のロードバイク)でも担いでの上り下りは避けられない。私は普通のエンデュランスロード(多少荒れた道含め長距離を走るためのロードバイク)だが、ここまでのコース、完全押し歩きで且つ結構階段を担いで上下することが多く可也疲れた。

 分岐からは、急こう配の滑りやすい階段が長い。軽いロードバイクとはいえ、担いでの下りは、めちゃ肩がしんどい(自転車の方はご注意あれ)。
 が、階段を下りきれば、野山北・六道山公園西口広場に繋がる平坦な遊歩道だ。ホッとする。
 この歩道沿いには、防空壕跡が二つ(標高137.5m)ある。

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防空壕跡(北西側)

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防空壕跡(南西側)

 北東−南西方向に、少し(30m程)離れて並んでいる。
 場所としては、狭山丘陵最西端の北西側斜面下だ。丘陵の斜面を生かして丘に穿たれ、平坦部に向けて開口している形である。

 航空写真ではこの様な感じだ。

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瑞穂町射撃場跡・防空壕跡航空写真
2019年(令和1年)10月13日国土地理院撮影

 二つの水玉が、防空壕跡。黄★が「七一」の境界杭、水色★が四つ目の境界杭、白☆が七つ目の境界杭、白○は池が見える辺り、黄●は三角点広場。「mc」は瑞穂中学校、「mn」は瑞穂農芸高校。

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瑞穂町射撃場・防空壕航空写真
1944年(昭和19年)9月27日撮影

 上写真同様水玉で、大凡の防空壕の位置を示したが、この1944年9月時点で防空壕がすでに作られていたかどうかは不明だ。B-29爆撃機による東京初空襲(参考記事12)は、同年11月24日なので、若しかしたらこの防空壕設置はそれ以降のことかもしれないが、資料が見付からないので何とも言えない。

 残念ながら、遊歩道からはロープで区切られたその奥にあり、且つ周囲はフェンスで囲まれており接近は不可である。路傍の解説板には、

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解説板

写真があるので、それをアップにした。
 解説によれば、この壕は住民の避難用ではなく、ここから北北西に約3卍の地に存在していた、狭山陸軍飛行場(陸軍航空士官学校附属)の軍事物資を護るために設置されたものと言う。物資の詳細は不明だが、梱包された木箱に「弾薬」と書かれていたという住民情報があるようだ。これら壕は厚さ60cmのコンクリート製であるが、他に素掘りの壕も幾つも作られたとある。

 二つ共に、防空壕の前は草地がこんもりと盛り上がっている。

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二つの壕の間から

 二つの壕の間から、北東側の壕の方を向いて見ている。歩道右が丘陵側、左は平地側である。歩道脇に解説板が見えるが、その右手、草地の盛り上がりがお分かり頂けるであろう。あの奥に、北東側の壕がある。南西側の壕前も、全く同様に盛り上がっている。おそらく、壕を掘った際に出た残土を防護壁代わりに積んだのだと思う(私見)。

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お茶畑に実るカキ

 防空壕の口が向く西口広場の北側、狭山茶の畑の中に、カキの実が色付いている。マップを見て気付いたが、この畑や南西側防空壕のある場所は「駒形富士山(こまがたふじやま)」というめずらしい地名(大字)だ。市HPによると、嘗て一帯には駒形村と富士山村とがあったそうなので、「明治の大合併」の頃に、二村が合併したのかもしれない。

 さて、大分歩いたので休憩したいが、ここから西へ600m程の場所に有名な狭山池(別記事)があるので、そこを訪ねランチにしよう。
 ―撤収。

2023年師走8日
(取材は10月下旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・戦跡ご訪問の際は、周辺へのご配慮をお願い致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
・参照:瑞穂町HP、「ch0_0rish's log」さん、「近代史跡・戦跡紀行〜慰霊巡拝」さん、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は東京都瑞穂町石畑・高根、最寄り駅はJR八高線箱根ヶ崎駅です

*明治の大合併:1889年(明治22年)の市町村制施行の際、江戸時代からの村落を近代的な行政単位にするために行われた

(スマートフォン版は通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

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北の離れ 瑞穂町陸軍射撃場跡 2

瑞穂町陸軍射撃場跡 2

 陸軍境界杭「七一」から少し進むと、左手に遊歩道から僅か奥まってお地蔵さまが現れる。

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お地蔵さま

 「愛宕山口為供養地蔵建立 施主」と向かって右にあり、続いて向かって左に「元禄十一○寅十一月吉日石畑△村五十軒」とある。○は「ノ」っぽいがよだれ掛けの紐で見えず、△は「ヶ」っぽいが(ガンローで)良く見えず。

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「愛宕山口為供養地蔵」

 このお伊勢山遊歩道はずっと行けば以前紹介の「三角点広場」へと至るが、愛宕山はその途中にあるピークの一つの様だ。
 因みにこのお地蔵さまが建立された元禄11年は1698年、松尾芭蕉が亡くなって四年の後、サツマイモ普及に尽力した青木昆陽(儒学・蘭学者)が生まれた年、海賊キャプテン(ウィリアム)・キッドが捕らまる前の年だ。300年以上も前の事である。

 お地蔵さまから更に進んで行くと、遊歩道右路傍に次々と境界杭が現れる。

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二つ目

 射撃場開設が仮にWW2中の1943年(昭和18年)とすれば、本年(2023年)で80年目だ。この杭、長き歳月の間に、自然と傾いてしまったのであろうか。

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「六九」

 テイカカズラ(Trachelospermum asiaticum)が這っている裏面には、「六九」とある。「七十」は見当たらなかった。

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頂部矢印

 頂部に矢印が見えるが、こうした境界標の頂部に矢印が刻されている場合、矢印先端が境界標の角や縁に接しているパターンでは矢印先端が境界点になる。しかしこれのように矢印先端が角や縁に接していないパターンは、矢印の示す先にある角や縁が境界点になる。しかし、この様なカーヴした矢印を見たことがない。普通境界標にある矢印は、斜めだったりはするが矢印自体は真っすぐである。この曲がりは、何を意味しているのだろう。

 深い木立の下で余りに暗いため、試みにフラッシュを使用してみたが―、

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フラッシュ試用

余り宜しくない。

 次なる杭は、

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三つ目

可也埋もれている。「陸」しか見えない。

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頂部矢印

 頂部には、今度は真っすぐな「→」が見える。今現在見掛ける道端の境界標でも、よくあるパターンである。

 次は、四つ目。

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四つ目(標高凡そ182m)

 確信は無いが、多分航空写真で位置を示すとこうなるのではなかろうかと思う。

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瑞穂町射撃場航空写真
1944年(昭和19年)9月27日撮影

 水色★がそれ。黄★は一つ目の「七一」杭。

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瑞穂町射撃場跡航空写真
2019年(令和1年)10月30日撮影

ストヴューとマップで照らし合わせると、おそらくそうは違わないと思う(「mc」は瑞穂中、「mn」は瑞穂農芸)。
 なおこの杭、園芸用の支柱が添うように差されている。明らかに、意図的に差してある。

 次のササに埋もれた杭で、支柱の意味が分かる。

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五つ目

 杭脇に差された支柱に、「瑞穂農芸高校 境界石」と書かれたシールが貼られている。射撃場敷地の境界が、そのまま学校敷地の境界になっているという事を、表しているのだろう。

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五つ目

 次に、六つ目。

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六つ目

 此方も三つ目や五つ目同様可也埋もれており、何の文字も見えない。頂部には矢印はあるが、ほぼ摩滅してはっきりとは確認できない。

 つづく

2023年師走7日
(取材は10月下旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・戦跡ご訪問の際は、周辺へのご配慮をお願い致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
・参照:瑞穂町HP、「ch0_0rish's log」さん、「近代史跡・戦跡紀行〜慰霊巡拝」さん、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は東京都瑞穂町石畑、最寄り駅はJR八高線箱根ヶ崎駅です

*テイカカズラ:キョウチクトウ科テイカカズラ属のつる性常緑低木。極東アジアの温暖な山野に自生するが園芸品種も多い。名の「テイカ」は百人一首の選者で有名な歌人藤原定家のこと。定家が定子(しょくし)内親王の死後思いを断てずに葛(かずら)になって墓に絡みついたという伝説に由来す名称と言う

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北の離れ 瑞穂町陸軍射撃場跡 1

瑞穂町陸軍射撃場跡 1

 東京都の郊外、多摩地方は昔「三多摩」と通称されていた。北多摩、南多摩そして西多摩という三郡で構成されていたためである。三つのうち北と南は1970年代初頭に相次いで消滅したので、もう大分以前から「三多摩」は死語化しているが、私の様なおじさんは、たまに「三多摩」と言ってしまう。
 そんな三多摩で一つ残った西多摩郡には、「瑞々しい稲穂」を意味する言葉を冠された町が存在している。それが今回訪ねた、瑞穂町である。

 何ゆえに瑞穂町を訪ねたかと言えば、この町に嘗て陸軍の射撃場があり、その痕跡である「陸軍」と刻された境界杭が今も残ると、そう知ったからである。以前「多摩陸軍技術研究所」記事で紹介したものと、同様のものだ。
 射撃場があったのは、瑞穂町東部、東西約11km・南北約4kmの紡錘形をした狭山丘陵のその西端、現在瑞穂中学校と瑞穂農芸高校のあるエリアだ。

 航空写真でまず見て見よう。

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瑞穂町射撃場跡航空写真
2019年(令和1年)10月13日国土地理院撮影

 右から広がる緑地が狭山丘陵の最西端部で、白矢印先の斜め長方形のエリアが旧射撃場跡に当たる。黄●は三角点広場、「ok」は青梅街道、「kr」は空堀川、「si」が空堀川の源流狭山池。

 古航空写真で、上と同エリアを見てみよう。

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瑞穂町射撃場航空写真
1944年(昭和19年)9月27日陸軍撮影

 「ok」「kr」「si」は上写真と同様。
 何時射撃場が作られたかはっきりしたことは不明だが、1943年6月の航空写真にはこの1944年のものと変わらぬ射撃場が写っているので、それまでには完成していたこととなる。

 では実際に、その場所を訪問。

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都立農芸高等学校(標高158.9m)

 ここは、射撃場北東端に当たりそうな瑞穂農芸の校門。

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市立瑞穂中学校(標高152.2m)

 ここは、射撃場中央辺りであろう市立瑞穂中学校。

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中学校グラウンド(標高149.7m)

 ここは、射撃場南西端に当たりそうな瑞穂中学校グラウンド。防球ネットの隙間から、覗かせて頂いた。
 こう見ると、射撃場は周囲より一段低く、西側の縁は小高い山が防壁の様になっているのが分かる。

 射撃場跡の東縁に当たる、学校通りから全体を見る。

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射撃場跡を北から
右は高校

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射撃場跡を南から
左は中学グラウンド

 北から見ると通りの右手が、南から見ると通りの左手が射撃場跡のエリアとなる。学校通りを走ると分かるが、射撃場は谷戸(丘陵地の浸食谷)の底にあって、左右は丘が天然の土塁の様になっている。この地形が、射撃場に向いていたという事なのであろう(私見)。

 この射撃場は陸軍のものとしての期間は短く、WW2日本敗戦後に陸軍多摩飛行場ともどもアメリカ軍に摂取され、横田基地(元多摩飛行場)付属の射撃場となった。

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瑞穂町射撃場航空写真
1947年(昭和22年)10月24日アメリカ軍撮影

 上はそのアメリカ軍時代。
 射撃場は、横田基地の拡張の補償として、1956年(昭和31年)に閉鎖され返還された。

 下は返還5年後だが、すでに瑞穂中学校、瑞穂農芸高校の二つの学校が見えている。

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瑞穂町射撃場跡航空写真
1961年(昭和36年)5月9日撮影

 「mc」の瑞穂中学校は元は横田基地近い場所にあったが、基地拡張などあり射撃場の跡地に1958年(昭和33年)移転となった。
 「mn」の瑞穂農芸高校は、元来1949年(昭和24年)に瑞穂中学校に併設する形で、青梅市にあった都立農林高校の定時制課程瑞穂分校として開設されたもの。中学校移転と共に射撃場跡に移り、独立校舎となった。1965年(昭和40年)には、農林高校から分離独立している。

 では、学校通りを下り境界杭の残る場所へと向かおう。

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富士山だ

 すると、学校通りから南の正面に、富士山が。

 富士を眺めつつ学校通りを南へ下り、狭山丘陵通りを西進。しばらく行ってまた北へと住宅街を僅か進めば、「お伊勢山遊歩道」と記された道標が少々分かり難いが家々の狭間に立っているので、そこから登り行く。

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お伊勢山遊歩道

 少し登れば、右手に「瑞穂ビューパーク競技場」が見えてくる。手前が、お伊勢山遊歩道だ。サッカーゴールの奥に富士山があるが、雲に隠れてしまった。
 ここからまた少し行くと、道は左右に分かれるが、射撃場は右手方向なので、ここは「右」を選択。すると―、

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あった(標高凡そ183m)

一目瞭然、山道路傍、クヌギ(だと思う)の下に境界杭。これぞ、嘗てここに存在した陸軍射撃場西縁の境界を示す石杭である。
 なお、こうした土地の境界を示す標識は「境界標」と正式には言う様だが、素材や形態など種々あるので「境界石」「境界杭」「境界石杭」「境界標柱」など呼び方はいろいろある。当記事では、形態が杭なので、一応「境界杭」で統一したいと思う。

 この素材、多分花崗岩(御影石)だろう。

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「陸軍」

 「陸軍」の文字も、ハッキリ。

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「七一」

 裏には「七一」と、こちらもハッキリ。

 はっきりとは分からないが、マップなど参照しつつ考えるに、

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瑞穂町射撃場航空写真
1944年(昭和19年)9月27日撮影

 「七一」の境界杭は、おそらくこの★の辺りではなかろうか。長方形の射撃場の左上、樹林と裸地との境がおそらく陸軍用地の境界で、そこが今お伊勢山遊歩道となっているのではなかろうか(推定)。

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瑞穂町射撃場跡航空写真
2019年(令和1年)10月30日撮影

 「mc」が瑞穂中学校及びそのグラウンド、「mn」が瑞穂農芸高校及びその農地など。

 では、さらに進む。

 つづく

2023年師走6日
(取材は10月下旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・戦跡ご訪問の際は、周辺へのご配慮をお願い致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
・参照:瑞穂町HP、瑞穂図書館HP、「ch0_0rish's log」さん、土地家屋調査士会HP、「近代史跡・戦跡紀行〜慰霊巡拝」さん、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は東京都瑞穂町石畑、最寄り駅はJR八高線箱根ヶ崎駅です

*瑞穂町:1940年(昭和15年)に四村合併で誕生した際、東京府知事岡田周造氏が命名。由来は日本の美称「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」
*多摩飛行場:完成は1941年だが前年には陸軍飛行実験部(新型機の実用テスト・審査を行う)が移設された

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Fe塔 相模川鉄塔紀行 5―城山ダム

相模川鉄塔紀行 5―城山ダム

 津久井湖の畔から、ダム展望台へ。
 展望台昇り口には、それなりのスペースはあるのだが、置いて行くのは何とは無く心配なので、相方(自転車)を担いで階段を上がる。

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城山ダム展望台(標高134.0m)

 展望台は手入れされた芝地が広がる、明るい公園のような場所だ。

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解説

 解説板によれば、津久井湖の正式な名称は「城山貯水池」とある。多摩湖が村山貯水池、狭山湖が村山貯水池であるのと同じか。ダムは治水・貯水以外に発電の役割もあり、ここから東北東約1kmの津久井発電所に水が送られているという。

 ダムと津久井湖及び城山大橋の関係は、この様な感じ。

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ダムと湖

 ダム天端(てんば。ダムの最上部)(標高120.4m)を413号線が通り、そのまま城山大橋になっているのが分かる。

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津久井湖・城山ダム航空写真
2019年(令和1年)8月17日国土地理院撮影

 左が津久井湖で、ダムを挟んで右側が相模川、白矢印の先の四角いエリアが展望台、左下の緑地がダムの名の元である城山。黄矢印の先が、湖面を渡る八ツ沢線。

 ダム左手、南側に可也りの迫力を持って聳えているのが城山である。

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ダムと城山

 標高375mと言う割には、山容は堂々たるものである。城山はその名が示す通り、嘗ては鎌倉時代に三浦氏による津久井城があり、戦国時代には北条氏の城となって小田原征伐の際、落城と相成った。

 展望台は三段構成となっており、最下段からはダムが間近く見える。

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ダムと私

 お邪魔なセルフィーで、ダムとツーショ。
 ダムは重力式コンクリートの高さ75m、長さ260m。起工1962年(昭和37年)、完成1965年(昭和40年)という事を見れば、所謂高度経済成長期真っ只中で、急増する県内の水需要を賄うことを主目的に作られたのであろうことは、容易に想像できる。(因みにダム完成の1965年はイリオモテヤマネコ発見の年だ)
 対面の城山と展望台との間、相模川が流れる谷は可也深い。自撮りの際は、くれぐれもご注意を。

 では、ランチも済んだので展望台を撤収し、先ほど川尻石器時代遺跡の草原の向こうに見た鉄塔を訪ねたい。

 遺跡方向へ戻りつつ、目当てを付けて接近すれば、鉄塔は谷ケ原浄水場内に建っていた(標高142.2m)。

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浄水場内

 私が鉄塔を見ている浄水場南縁の道は、相模川北岸の崖線の縁上を通る緑中の細道。抜け道的に使われているのか、ダム横にある相模原城山高校の生徒たちが自転車で幾組も通り、賑やかである。

 鉄塔は、遠望した時腕金が前後にずれているように見えたが、矢張りその通りの引き下げ鉄塔である。

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前後ずれ腕金

取水や送水や浄化に大量の電力を必要とする浄水場への、電力供給用の鉄塔だ(と思う)。
 よく見ると、下段に腕金があった痕跡があるが、廃線となった桂川線用のものであった様だ。

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八ツ沢線93号(平成10年2月 54m)

 先程訪ねた94号が、遠くに小さく見える(画像左下)。そう言えば、あちらの表記は「八ッ沢線」で小さい「ッ」だったが。

 草原の遺跡内を通り抜け、413号線に戻れば、歩道には、朝方橋本西線17号下で見たマンホール蓋のカラー版があった。

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旧城山町マンホール蓋

 小倉橋の向こうに描かれた山は、ダム横に聳えていた城山、旧町名の由来となったあの山かもしれない。

 さて、橋を見、湖を見、ダムを見そして鉄塔を拝み、もうお腹いっぱいだ。―撤収といたそう。

2023年霜月28日

(取材は10月初旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様に心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・鉄塔ご訪問の際は、周辺へのご配慮をお願い致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
・参照:相模原市HP、「enjoy!送電線」さん、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は神奈川県相模原市、最寄り駅はJR横浜線相原駅です

*城山ダム:相模川総合開発協同事業の基幹施設として作られた、神奈川県・横浜市・川崎市・横須賀市の共同施設

鉄塔に昇るのは非常に危険です。絶対にやめましょう

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Peace

ウクライナ動物保護募金(国際動物福祉基金)

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相模川鉄塔紀行 4―津久井湖

 お初にお目か掛かった八ツ沢線鉄塔を過ぎ、少し道迷いしつつ、県道508号に入り津久井湖を目指す。

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遺跡だ

 すれば、路傍に国指定の史跡(標高143.8m)。

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川尻(かわしり)石器時代遺跡

だが―、茫々たる秋草に覆われ、解説板もよく見えない。
 この川尻石器時代遺跡、調べると指定は1931年(昭和6年)7月31日で、総面積は約2万3千平方m。
 解説板やネット情報によれば、相模川が作った扇状地の頂点、北岸河岸段丘上にある、大正時代に発見された遺跡。下層に竪穴住居跡、上層に敷石住居跡が多数、また多くの石器・土器が出土し、縄文時代中・後期(約5500-3500年前)に形成された集落(ムラ)跡と考えられているそうだ。また縄文時代に特徴的な配石墓も多く見つかっているという。なのに「石器時代」遺跡となっているのは、発見当時にそう見られていたためだそうだ。

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読めない

 興味はあるのだが―、残念ながら、この草を踏み分け入る勇気はない。

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秋草の海だ

 が、奥に見える鉄塔は気になるので、帰りに寄ってみよう。

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鉄塔だ

 遺跡付近から、県道413号線―津久井街道―を西進。
 この道で合っているのかと不安ながらも、やがて前方が開け、目指す津久井湖だ。

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津久井湖だ(標高126.2m)

 小倉橋との位置関係は、この様になる。

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小倉橋・津久井湖航空写真
2019年(令和1年)8月17日国土地理院撮影

 白矢印が小倉橋、左端が津久井湖。
 然し、まさか東京(多摩地方)からこんな遠くまで自転車で来られる日が来るなどと、思ってもいなかった。おじさんでも、やれば出来る。

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津久井湖銘板

 銘板によれば、津久井湖は満水時面積239平方km、満水時標高水位124m、貯水量62,300,000立方m、集水面積1,2013平方km。建設当時は、右岸は津久井郡津久井町、左岸は津久井郡城山町であったが、現在はどちらも相模原市緑区である。
 湖は「津久井湖」だが、堰き止めているのは「城山ダム」。これも銘板によれば、重力式コンクリート式、高さ75m、長さ260m、堆積366,827立方m、起工昭和37年(1962)2月15日、完工昭和40年(1965)3月31日。
 このダム上を、城山大橋が渡っている。

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大橋欄干

 欄干には、当地名物ヤマユリとカエデ(モミジ)の透かしが入っている。

 橋上から湖を見晴らせば、向かいの山を背景に湖面の上を渡る架空線。

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八ツ沢線だ

 右岸に建つ鉄塔と、

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右岸は景観配慮のアースカラー型

左岸に建つ鉄塔。

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左岸はアースカラーではない

 右岸はストヴューで確認すると八ツ沢線81号(標高131.5m)だが、左岸の方は他のサイトさんで拝見すると84号(標高125.1m)である。82号と83号は、湖底に沈んだのであろうか。
 ダム建設前の、古航空写真を見てみよう。

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八ツ沢線・相模川線航空写真
1956年(昭和31年)4月6日アメリカ軍撮影

 左下と右上に鉄塔があるが、二つ並ぶ鉄塔の内、下流側が八ツ沢線で、上流側は今は無き桂川線鉄塔だそうだ。しかし、湖底となった相模川河川敷にはそれらしき鉄塔の姿は確認できない。戦前期には、あったのかもしれないが、残念ながらそんなに古い航空写真は見当たらない。

 左岸には84号以外にも幾つか鉄塔が見えるが、

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何だろう

他のサイトさんを拝見すると、84号右奥は城山線7号(標高150.3m)、八ツ沢線を下段に併架する手前の大きいのは8号(標高140.8m)の様だ(八ツ沢線としては85号であろう)。

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城山線8号(八ツ沢線85号)

 城山大橋東詰路傍には、城山ダム展望台へと続く階段が見える。
 そろそろランチにもしたいし―、行ってみよう。

 つづく

2023年霜月27日

(取材は10月初旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様に心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・鉄塔ご訪問の際は、周辺へのご配慮をお願い致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
・参照:文化遺産オンライン、相模原市HP、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は神奈川県相模原市、最寄り駅はJR横浜線相原駅です

*川尻:遺跡発見当時は一帯が川尻村であった。村はのち他村と合併し山城町となった(山城町はのち相模原市に編入)
*縄文時代:広義には石器時代に含まれる「新石器時代」に当たる。世界史的には旧石器時代→新石器時代となるが、日本史的には旧石器時代→縄文時代となる
*配石墓:自然石を遺骸の周囲や墓壙の上に意図的に配したお墓
*津久井湖:6kmほど上流には、相模湖がある

鉄塔に昇るのは非常に危険です。絶対にやめましょう

(スマートフォン版は通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

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Peace

ウクライナ動物保護募金(国際動物福祉基金)

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相模川鉄塔紀行 3―ヒガンバナ

 小倉八幡神社を辞し、510号線(長竹川尻線)に戻れば19号(標高117.5m)は近い。

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橋本西線19号

 道路端、石垣に覆われた法面の上。

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19号

 下は野墓地となり、入ることは不可である。
 都留線時代の古航空写真を見ていて気付いたが、現橋本西線18号とこの19号の間に嘗てはもう一基あった様だ。

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現橋本西線18・19号周辺航空写真

 黄矢印の先が現橋本西線18号と19号、白矢印の先が今は無くなっている鉄塔。「hj」が小倉八幡神社、「510」が県道510号線。
 他の場所にも今は無い鉄塔が見えるので、都留線時代に建替えで欠番が幾つか生じている様である。

 510号線を僅か進むと、その脇、工事車両出入口のあるその向こう、圏央道(首都圏中央連絡自動車道)を前にして老番の20号(標高133.6m)他、幾つか鉄塔が見える。

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左が20号

 左端が20号だが、脚元は最近開設された小倉開閉所がある様だ。見たところ、開閉所で引き下げられてそこで終わっているように見えるが、良く分からない。右の引き下げ・引上げ鉄塔は、南南東方向へ架空線が伸びているが引き上げても引き下げてもいないので、まだ建設途中の様である。他のサイトさんを拝見すると、これは東海小倉線という新路線らしい。すれば、これは東海小倉線の1号か(サイト「てきとーな日記」さん参照)。
 又、これも他のサイトさんを拝見すると、画像右端にチラりと見えるのは現在都留線最終鉄塔となった242号で、この鉄塔の左奥に見える段違い鉄塔が241号、その向こうに重なる烏賊さん鉄塔が240号の様だ。
 種々のサイトさんの情報を私なりに総合するに、どうやら、新設されたこの小倉開閉所で都留線が分断され、嘗ての243号から先が橋本西線という向きも逆な別路線となった様だ。
 そしてまた、新たに建てられた東海小倉線は、開閉所から南西約7kmほどに建設中のリニア中央新幹線関東車両基地(相模原市緑区鳥屋)へ向かう様である。それで知ったが、小倉橋下流側の地下をリニア中央新幹線が通る計画があるのだ。そう、さっき小倉橋から見た相模川下流側に建設中の桟橋の様なもの、アレが正にリニア新幹線の鉄橋だったのだ。
 そうか、そうだったのか。何も知らなかった。我が無知を、今更ながら思い知らされる。

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19号

 510号線から再び18号や19号の建つ田園に入る。
 ―と、民家のお庭先に立派な石碑。

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田野倉先生頌徳碑

 しかし、お庭の中なので近付けず詳細が分からない。「田野倉咸介先生頌徳碑」(咸の字はちょっと自信なし)というのだけは分かるが、他は残念ながらガンロー(老眼)で良く見えない。「明治三十四年一月・・・」「二男として・・・」「田野倉仙蔵の・・・」「・・・師範学校(現横浜国立大学教育学部)・・・」「西青山小に三年 川尻小に七・・・」などが辛うじて読める。学校の先生でいらしたようだが、あの小倉八幡神社に頌徳碑があった田野倉仙蔵氏のご親族であろうか。
 石碑後ろには、橋本西線、東海小倉線、都留線の鉄塔が写り込んでいる。

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鉄塔アップ

 「hn」は橋本西線20号、「tu」の三基は右から左へ240号・241号・242号、「to」の中央は東海小倉線1号で左端の方はおそらく2号だろう(あくまで推定です)。

 石碑も気になるが、そのすぐ脇にある半鐘、

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半鐘

これも気になる。そして、これもまた良く分からない。嘗てここに、火の見櫓があったのであろうか。古航空写真を見ても、それらしき姿は確認できないが。

 私の背中側には、小さな野墓地があり、ヒガンバナ(Lycoris radiata)が満開だ。

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野墓地のヒガンバナとシロバナマジュシャゲ

 ぽつりぽつりと白い花が混じっているが、これはシロバナマジュシャゲ(Lycoris x albiflora)(或いはシロバナヒガンバナ)と言う別の花である。ヒガンバナと、ショウキズイセン(Lycoris traubii)という黄色いヒガンバナの様な花との交雑種ともされる花だ(ヒガンバナの突然変異説もある)。

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ヒガンバナ

 少し前に東京の大圓寺で見たとき同様、ナミアゲハとクロアゲハが多数忙しなく舞っている。当然ヒガンバナの花から吸蜜しているのだが、アゲハの仲間はヒガンバナの蜜が好きなのだろうか。一説には、アゲハの仲間は赤色の波長がよく見えるので赤い花に集まる傾向があるというが。

 では、今度は、先ほど下から見上げた新小倉橋を渡り、先を目指す。

 新小倉橋の橋脚上に設けられた展望ポイントから、小倉橋を見下ろす。

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新小倉橋から小倉橋

が、可なり高くて(約50m)、高所は苦手ではない私も、少々ビビる。
 小倉橋の向こう奥方向に見えているのが、リニア新幹線の鉄橋だ。左手が品川駅方向、右手が名古屋駅方向。東京−名古屋区間の86%を地下走行するリニア新幹線は、神奈川県内区間約40km中で、地上に姿を現すのはこの場所他橋梁部のみでトータル僅か1.3kmという。
 撮り鉄の方々には、ここは良き撮影ポイントとなるのだろうな。

 朝方訪ねた橋本西線17号の下へと戻り、今度は津久井湖 を目指すが、途中右手に見える鉄塔が、何となく気になる。

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何線?

 可也細身な鉄塔である。何線だ?

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八ッ沢線94号(平成14年4月 47m)

 八ッ沢線の94号(標高142.7m)だ。
 八ッ沢線と言えば、私が全基コンプリートを目指している中富線の、その大元の和田堀線の更に元に関わる路線だ。ここで間近にお目に掛かれるとは―。
 感慨が深い。

 では、先を目指そう。

 つづく

2023年霜月26日

(取材は10月初旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様に心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・鉄塔ご訪問の際は、周辺へのご配慮をお願い致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
・参照:サイト「鉄塔中毒」さん、サイト「俺の居場所」さん、サイト「てきとーな日記」さん、「リニア新幹線を考える相模原連絡会」HP、カナロコ、重井薬用植物園HP、九州電力HP、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は神奈川県相模原市、最寄り駅はJR横浜線相原駅です

*ヒガンバナ、ショウキズイセン、シロバナマジュシャゲ:何れもヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草。ヒガンバナは中国原産、ショウキズイセンは中国・台湾・日本南部原産、シロバナマジュシャゲは九州や済州島に自生するともされる
*八ツ沢線:此方の記事で触れたが、1912年(明治45年)に敷設された八ツ沢線の一部を利用して1939年(昭和14年)に敷設された和田堀線の一部が、後に分離独立したのが中富線であるらしい

鉄塔に昇るのは非常に危険です。絶対にやめましょう

(スマートフォン版は通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

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