MYSTIC RHYTHMS

日常雑記、音楽、鉄塔そして自転車など

ミスティック・リズムス―多摩の住人が綴る多摩な日々

北の離れ 自転車”コワい”―自転車と自動車の共生に向けて

自転車”コワい”―自転車と自動車の共生に向けて

自転車ユーザー、パニック
 4月1日からの改正道路交通法施行で、自転車に対するルール適用や取り締まりの強化で、多くの自転車利用者の方が若干パニックに陥っているようにも見える。
 確かに、警察の方々は現実を把握していないのではなかろうかと思える様なところもあり、また或いは警察による十分な告知や周知が行われない内の施行で一方的とも感じられるようなところもあり、そうなるのも理解できる。

 私は、端くれとは言い一応サイクリストの一人なので、自転車に関わる道交法は気になって時々チェックしたりしているので、今回の改正道路法施行に関し、自転車に関するルール自体には特に驚きは無い(100%ルールを理解しているとは言い切れないが―)。個人的には、歩行者の安全を思えば、車道走行原則など自転車へのルール適用厳格化は必要ではなかろうかとも感じていたので、「青切符」(交通反則制度)導入も左程に違和感はない。
 お金(反則金)が関わって来る場合が生じることとなるが、基本は指導・警告が主で悪質な場合(ながらスマホ、遮断踏切立入り、警告無視の違反継続など)を除き即摘発とはならないそうなので、そこも特に動揺はない。

自転車は車道走行
 自転車は車両である、だから車道走行が原則。歩行者の安全確保が、絶対的に優先。この二点を頭に叩き込んでおけば、自転車に関するルールは理解するのも遵守するのも特に難しくは無いと思う。
 車道を走るのだから、自動車と同じように走り同じ様に標識や信号に従へばいい。例外的に歩道を走る場合は、車道側を歩行者安全絶対優先で徐行すればいい。

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武蔵野公園にて
相方と国分寺線60号

 ただ、自転車の車道走行ルールには幾つか自動車とは異なることがある。
 一つは、常に車道左側を走ると言う事。道路左端が左折レーンであっても、左折車を待って直進する。また一つは、右折は十字路も丁字路も常に二段階右折(直角右折)であること。自動車の様に、交差点中央を小回り右折はできない。また、右折レーンがあっても入れない。さらに一つは、基本自動車の信号に従うが、稀に「自転車専用」や「歩行者・自転車専用」信号があるのでその場合は其方に従うと言う事。そしてまたもう一つは、これも稀にだけれど「軽車両進入禁止」の標識がある場合は、車道でも文字通り進入できない。

 車道を走っていると、時に複雑な交差点があり、初めて通る場合は訳が分らないと言う場面もある。その時は、自転車を降りて押し歩きすると言う選択肢がある。自転車の便利な点は、降りたら歩行者、になると言う点である。ここちょっとコワいな―と思ったら、降りて歩行者になり歩道と横断歩道を利用する事も可能である(勿論他の歩行者の方に気を付けて)。

 何れであれ、高速で走る金属塊と同居となる自転車車道走行は、抵抗感を持つ方も多いけれどヘルメット着用とイコールで結ばざるを得ないであろう。

自転車にばかりキビシイ?
 今回の改正道路法、何かチャリにばっか厳しくない?と思われるだろうけれど、一つ自転車乗りには有り難い部分もあるのである。それは、自動車による自転車の追い抜きに関わる部分。
 自転車で車道を走っていてコワいことは山ほどあるが、一番コワい思いをする事が多いのが自動車に追い抜かれる場面である。チャリは遅い(特に私は)ので、どうしても自動車に追い抜かれる。それ自体は当然のことで別に構わないのだが、極稀にだけれど、もしかしてわざと?お思いたくなるほどギリギリで且つ猛スピードで追い抜いて行かれる自動車さんがいらっしゃるのである(わざとではないと思うが…)。体感で言えば、5cmくらいの間隔での追い抜きである(偶々かもしれないが、トラックやタクシーなどプロの自動車さんに多い気がするのだが―)。
 だが此度の改正道路法では、自動車が自転車を追い抜く際は安全な間隔(少なくとも1m程度)を確保するか安全な速度(20-30km程度)にしなければならない、とはっきり義務として示されているのだ(括弧内は警察の示す目安)。
 これは、ウレシイ。効果がいかほどか分からないとは言え、自転車乗りとしては超有難い。自転車側にも、自動車に追い抜かれる際は出来るだけ左側端に寄って徐行しなければならない、と規定されるが、それでもウレシイ。自動車さん側には負担増となってしまうかもしれないが、正直、アリガタイ。

車道はキケンがいっぱい
 全体としては、歩行者安全最優先や事故防止の点から今回の改正道路法施行は、致し方ない部分は多いと思う。自転車が自動車をコワいと思うと同様、自動車も自転車がコワいし、歩行者はもっと自転車がコワいのである。
 だが、冒頭でも若干触れたけれど警察にはもっと自転車利用者の直面する現実を、知って頂きたい或いは考えて頂きたいとも思うのである。

 多くの自転車利用者は、自転車が車両であり車道走行が基本であると理解していると思う。が、実際問題車道走行はコワいのである。自動車による追い抜き場面でも、自転車は左端に寄る様にとは言われても、その左端にはペダルが引っかかる縁石があり、すべるマンホール蓋・排水蓋があり、轍による凸凹があり、突如現れるひび割れ・穴があり、ガラス片などの異物が集まっていたりする。荷物の積み下ろしやバスの乗降など致し方ない所もあるが、路上駐停車車両が前方を塞いでいる場面も多々ある。
 また、ハンドサイン(手信号)による停止・右左折などの合図についてもより厳格に求められることともなるであろうが、上記の様な荒れがちで障害物も多い道路左端付近を走りつつ短時間とは言え片手運転になるのは、これも現実問題コワいのである。

 NPO自転車活用推進研究会会長さんも仰っているが、自転車が走りたくても走れない様なキケンな道路環境が放置されていたゆえに、自転車の歩道走行などが見逃されて来た結果、自転車はルールを守らなくても大丈夫的な空気が醸成され、結果此度のキビシイ改正道路法施行に繋がった、と言う側面もあるのかもしれない。

自転車専用レーンを
 ルール厳格化も適用厳格化も、安全のためと思えば結構な事である、が、警察や国交省含め行政にお願いしたいのは、もっと自転車が安心・安全に走ることができる車道環境の整備である。
 具体的には、自転車専用レーン(普通自転車専用通行帯)の設置だ。これが殆ど進められない状況で、ルール及びその適用の厳格化をされても多くの自転車利用者は、もう自転車に乗れない、自転車に乗るのがコワい、とパニックになってしまうのである。
 国交省2021年データでは、車道走行基本で見ると自転車が通行する空間は全国で4,686kmだが、自転車専用通行帯は594kmと12.6%しかない。日本の道路総延長約128.5万km(2023年時点)に対して言うと、自転車専用道路や自転車専用通行帯は9,841kmと僅か0.76%程しかない。
 こうした現状を見ずムリクリにルール適用して、環境負荷も少なく健康にも良い自転車利用が減ることになってしまっては、元も子もない。

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普通自転車専用通行帯
(通称:自転車専用レーン)

 NCD株式会社によるアンケート(4月の改正道路法施行前)では、自転車では歩道を走ると言う回答が5.8%、どちらかと言えば歩道を走ると言う回答が39.1%で合わせると44.9%が歩道走行を選択する傾向があり、その理由としては車道の交通量が多いからと言う回答が78.9%、車道が狭いからと言う回答が41.3%となっている。また少し古いが国土交通省アンケート(2015年11月)でも自転車で走るのは歩道と言う回答が50.1%あり、別アンケート(2015年5月)では歩道通行が禁止されても歩道を走ると言う回答が63.6%(男性)・79.9%(女性)もある。後者のアンケートでは歩道走行する理由として車道は危険・怖いが72%にのぼっている。
 多くの自転車利用者が、自転車の車道走行環境が整っていない、車道はコワいと感じているのではなかろうか。
 一方で、これも少し古いが国土交通省アンケート(2011年3月)で、自転車に対し危険を感じた歩行者が60%前後もいる(すぐそばを通り過ぎた65.9%、危険な速度で通り過ぎた59.7%)。朝日新聞記事によれば、自転車による対歩行者事故は2025年は3269件あり、その内事故発生場所が歩道・横断歩道であったのは56.6%だったと言う。この件に関しては、2013年1月国総研のアンケートで自転車利用者の97.8%が歩行者と交錯せずに通行できる事が重要、と回答している(とても重要76.0%、やや重要21.8%)。

 ここで一つ、興味深い事がある。研究や統計では、自転車事故は車道上より歩道上で多いと言う(東海大学鈴木美緒准教授(交通工学・交通計画))。それは当然歩行者との衝突があるからだが、別な理由もあると言う。au損保とCycle Sports(八重洲出版)の検証(au損保トピックス2020年8月18日)によれば、歩道走行の自転車は自動車からは植込みやガードレールなどにより見えにくく、交差点に入る際突然自転車が左手から現れるように見え、衝突・巻き込みとなり易いのだそうだ。逆に自転車がルール通りに車道の左側を走っている場合は自動車から認識されやすく接触・巻き込みなどは起こり難い、つまり歩道走行より車道走行の方が安全なのだそうだ。

 こう見れば、やはり、歩道と分離された自転車走行の専用レーン整備が求められると思う。歩行者は歩道、自転車は自転車通行帯、自動車は車道と棲み分け出来るのが理想である。

警察にも努力を
 また、これも冒頭若干触れたが、今回の改正道路法施行に関して、メディアでは大きく繰り返し取り上げられているのに、肝心の警察の側からはこれと言った周知が行われていない様に見えるのが気になる。
 三井住友海上火災保険の調査(3月31日)では、改正法施行は75.4%が知っているが、内容を理解する人は27.4%で、内容はよく知らない人は48%に達している。自動車による自転車追い抜きに関するルールについては、知っているは49.8%で、内容も理解は17.1%しかない。
 警察庁・都道府県警察・警察署等には、こうなったので守ってね、ではなく、インターネット(SNSほか)での発信や、自転車の交通ルールに関するパンフレットのポスティングや、地域・学校単位等での安全講習会開催などなど、もっと積極的に周知のため努力して頂きたいと思うのだ。そしてもっと、自転車を取り巻く現在の道路環境と言う現実に即したルール適用をお願いしたい。

道路をシェア
 此度の改正道路法施行、問題は多々あるが、自転車専用レーンの整備が進む一つの切っ掛けになるかもしれないと、一寸期待している。
 のだが、2014年4月の国交省調べによると、「自転車ネットワーク計画」(国交省と警察庁が推進する安全で快適な自転車走行空間を面的に整備する計画)の検討が無い市街地のある654市区町村がその理由として最も多く挙げているのが、自転車走行空間(自転車専用レーン)整備の余地が無い(幅員・用地)、である。詰まり道路が狭いからムリ、と言う事である。
 それでも自転車レーン設置を行なう場合は、既存の道路では自動車走行空間が削られる。ので、自動車さん側にとっては、何でチャリの為に―、と言う思いもあるかもしれない。難しい問題である。

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 自転車は自動車・歩行者の、自動車は自転車・歩行者のそれぞれ立場・状況に思い巡らし、互いに敵視することなく、道路をシェアし合い、共生を目指すしかないであろう。

 ・・・・・・・・・・・・

 彼是書いたが、結局のところ、これである。

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交通安全

 歩行者・自転車・自動車そして動物もみな安全であります様に。

2026年卯月11日

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・自転車専用レーン画像出典:FreeBackPhotoによるものを写真ACからお借りしました
・参照:くるまのニュース(4月3日記事)、まいどなニュース(4月3日記事)、警察庁HP、国土交通省HP、サイクルタイム(3月23日コラム)、朝日新聞3月28日記事、毎日新聞4月1日記事、TBS NEWS DIG(3月29日記事)、他

*追い抜き:警察庁HPでは「自動車等が自転車等の右側を通過する場合(追い越す場合を除く)において」云々とある
*追い抜き、追い越し:前者は進路を変えずに行う、後者は進路を変え車線変更して行う
*自転車の歩道走行:何でもかんでもNGではなく、自転車運転者が13歳未満または70歳以上、自転車運転者が一定の障害をもつ場合、車道左側を通行するのが工事や駐停車車両が多い時や道幅が狭いなど困難な場合、及び「自転車歩道通行可」の標識がある場合は、OKである
*ハンドサイン:マナーや推奨ではなく道交法で定められた義務。ハンドサインは出す際片手運転になるし、サインを出したまま停止・右左折をしなければならないなど、規定通りに行うのは非現実的ともされる
*自転車専用レーン:正式には「普通自転車専用通行帯」(普通自転車はママチャリやロードバイクなどの一般的な自転車)。道交法に基づく自転車が通行しなければいけない通行帯。法定外表示で自転車の走る場所と向きを示すだけの、自転車ナビマーク・ナビラインとは異なる
*NCDの調査:運営する月極駐車場会員対象
*三井住友海上火災保険調査:自転車事故率上位10の都道府県の20-60代対象

(スマートフォン版は通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

名所漂泊 甲州街道―TOKYO1964 ロードレース

甲州街道―TOKYO1964 ロードレース

 裏高尾へ向かう朝方、甲州街道北側路傍に目についた気になるオブジェがあった。寄ってみたい気はしたが気持ちが急いているので割愛し、帰りに寄ろうと決めていた。それが、これである。

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気になるオブジェ

 高尾駅からは東に約1km、甲州街道上り車線路傍だ。一体何であるかと言えば、昔の東京オリンピック、1964年の第18回夏季オリンピックの記念像である。目の前を通る甲州街道が、自転車ロードレースのコースだったのだ。

 2021年の東京オリンピックの自転車ロードレース(参考記事:1234)は、東京都府中市の是政橋から静岡県小山町の富士スピードウェイまでのコースであったが。1964年の東京オリンピックのロードレースのコースは、10月14日の団体戦は八王子市長房町の自転車競技場をスタートし日野市・立川市・昭島市を通り競技場に戻る一周約36.6kmを3周する周回コース(109.9km)、22日の個人戦はスタート・ゴールは同じで八王子市内のみの約24.3kmを8周する周回コース(194.8km)であった。2021年のロードレースでも、一部ではあるがコースは八王子市を通っており、八王子はオリンピックのロードレースには縁が深い(参考記事:1234)。

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浅川地区町会連合会による解説

 このオブジェ、このロードレースのコースとなった際、街の美化運動の一環として、浅川中学校(ここの南西約1.3kmにある)の美術部生徒たちにより制作されたものと、解説にある。
 タイトルは、

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浅川中学校美術部制作

「仲間」。確かに、二人の人物とも見える。

 甲州街道を西行して行くと、八王子市の追分町交差点辺りから路面はめずらしいコンクリート舗装となる。耐久力抜群でアスファルト舗装程熱を持たないためヒートアイランド現象対策面でも見直されていると言うこのコンクリート舗装、1957-58年にかけ建設されたが、一説にはロードレースのコースに指定された為、最新機材が投入されたともされている。その所為か、長年大規模補修も無いほどタフと言う。

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右が甲州街道(多摩御陵西交差点)

 だが実際走ってみると、自動車で走るぶんにはいざ知らず、ロードバイクで走るには結構に割れ、ひび、穴などなどあり、初めて走る際は注意が必要である。接続する横道はアスファルトなので、その境目が結構に荒れていたり隙間が大きく開いていたりして、アブナイ。

 コースの甲州街道部分は、個人と団体で距離は異なり、個人は高尾駅前から八幡町交差点の間約5km、団体は高尾駅前から日野市を通って日野橋を渡る約14kmである。
 コース概略を書いてみた。

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1964年東京オリンピック、ロードレースコース(個人・団体)

 緑ライン+濃緑ラインが個人戦コース(約23.4km)。緑ライン+黄緑ラインが団体戦コース(約36.6km)。オレンジ●のS/Gがスタート・ゴールの自転車競技場、矢印先の黄●がオブジェで競技場からは南東に約300mの距離。kkが甲州街道、sokが新奥多摩街道、そこの矢印は第二関門(チェックポイント)。水色ラインは川で、trは多摩川、arは浅川、karは北浅川、marは南浅川、akrは秋川、hibは日野橋、hjbは拝島橋。茶●のhは八王子市役所、hiは日野市役所、aは昭島市役所。グレー●はtは立川駅、hiは日野駅、haは八王子駅、tは高尾駅。水玉はtは滝山城址、mは武蔵陵墓地、kは小仏関跡
 個人戦は、自転車競技場をスタートして甲州街道を北東に進み八幡町交差点から北上、多摩川手前で滝山街道へ入って西へ進み、滝山城跡付近で加住北丘陵を越えてまた街道に戻り、南下して武蔵陵墓地を迂回して甲州街道に戻る(これを8回繰り返す)。
 団体戦は、競技場から八幡町交差点までは個人戦と同じだが、そこでは曲がらず街道を直進して大和田橋で浅川を渡り、日野台地を上がって小西六(現コニカミノルタ)前そして日野自動車前を通り、次いで日野駅前を抜け、日野橋で多摩川を渡り、6月に開通したばかりの新奥多摩街道へと左折。第二関門を通過し、そのまま西進して今度は拝島橋へ南下して多摩川を逆向きに渡り、滝山街道へと右折した後は個人戦と同じコースで戻って行く(これを3回繰り返す)。

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昭島市の第二関門記念碑
右が新奥多摩街道
(撮影は後日)

 このロードレースの際、日野市では日野橋には歩道が付けられ、また甲州街道沿道にはカンナやケイトウのフラワーポットが置かれたと言う。昭島市では、公報において「自転車は時速60kmぐらい」「絶対に路上に立ち入らないで」「犬やネコはつないで」などが呼びかけられたと言う。
 画像検索すると、レースの模様を写した写真が多く見られるが、当時の選手はヘルメットなど被らず、ぽつりぽつりカスク(ヘッドギアの様なもの)を被った選手がいる程度で、ほとんどがサイクルキャップか無帽である。また、2021年の東京オリンピックのロードレースでは歩道橋上での観戦は禁止されていたが、当時はOKだったようで、歩道橋上に観客が満載状態で下の道路を走る選手たちを見下ろしている写真もあった(シクロチャンネル参照)。

 なお、スタート・ゴールの自転車競技場は今は無く、現在は陵南公園となっている。
 航空写真で周辺を見てみてみよう。

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1964東京オリンピックロードレース航空写真
2019年(令和1年)8月17日国土地理院撮影

 黄●がオブジェ、水色↑が甲州街道、黄↓が旧甲州街道。rpが陵南公園、mが大正と昭和の天皇・皇后の墓所である武蔵陵墓地、marが南浅川、clが中央線。
 下で、オリンピック当時の写真を見てみる。

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1964東京オリンピックロードレース航空写真
1964年(昭和39年)5月16日国土地理院撮影

 オリンピック開催半年ほど前の写真で、水色↑、黄↓、m、mar、clは上と同じ。現rpである自転車競技場vd(velodrome)にトラック競技用のトラックがほぼ出来上がっているのが確認できる(約1年後の航空写真ではもうトラックは解体されている)。オブジェは、プレートに「10月」とあるので、この5月の時には設置されていたのかどうかは分からない。

 2019年航空写真でお分かり頂けるように、オブジェのある場所は現甲州街道と旧甲州街道のその分岐点の一つである。

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二つの甲州街道分岐点

 分岐点を、新宿方向から高尾駅方向に見ている。右側が旧甲州街道、左側が現甲州街道。右端に写るお宅の丸石を積んだ石垣など、こちらが現役甲州街道だった昔から変わらないものかもしれない。
 オブジェの建つ細三角形の敷地の頂点には、こうした標識も建って居る。

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現街道側

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旧街道側

 現街道側には「一級国道20号線 昭和3年開通」、旧街道側には「慶長9年開通(西暦1604年)江戸幕府開府の翌年」とある。昭和3年は1928年であるから現街道は開通から98年しか経っていないが、旧街道は422年も経ている。街道の大パイセンだ。
 さあ、撤収。

2026年卯月9日
(取材は2月下旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・ご訪問・ご探訪の際は、マナーを守り節度ある行動をお心がけ頂けますよう、お願い致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
・参照:八王子市HP、昭島市HP、日野市HP、セメント協会「コンクリート名所案内」、シクロチャンネル2015年1月15日記事、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は東京都八王子市、最寄り駅はJR中央線高尾駅です

*甲州街道(道中):五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の五番目、日本橋から下諏訪の中山道との合流点迄約210km。徳川家康が江戸に若しもの事態が起こった際、天領・親藩領である甲府へ逃れるための道として想定されていたともされる

(スマートフォン版は通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

戦跡低徊 裏高尾・旧甲州街道 III―湯の花トンネル

裏高尾・旧甲州街道 III―湯の花トンネル

 上行講碑・ふぢや新兵衛の街道向かいに建つ、「いのはなトンネル列車銃撃慰霊碑」を指し示す案内碑。

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案内碑

 傍らに解説があるが、この先約200mにある中央線湯(い)の花トンネルにおいて、WW2最末期にアメリが軍戦闘機による列車銃撃事件があったのだ。「慰霊碑」は、それによって亡くなった方々の為のものである。

 慰霊碑にお邪魔したいが、案内碑矢印の先は私有地でガレージなどあり入り難い。が、よく見るとそのガレージ左脇に奥へと続く細道がある。

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右?左?

道は先で二つに分かれ、間に「いのはな慰霊碑入口」と手書きされた小さなの看板がある。

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看板

 ただ慰霊碑が、右か左かどちらなのかが分からない。
 迷いつつ、水分補給していると、畑仕事の方が通りかかり、そっちの踏切渡って右手に行くとウメが綺麗だよ、と左方向を見つつ教えて下さった。という事は、慰霊碑は右であろう。
 ご親切を無にする様で申し訳なかったが、私は右の道へ入る。確かにこの辺り梅郷と名の付く場所が多く、今は正に梅花の盛り。ここまでウメ目当ての方々と多くすれ違った。梅見に来たと、然う思われても無理はないのである。

 しかし私の選んだ右の道は、本当にこっちであろうか、と思う様な畑中の細道だ。

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畑中の道

 勝手に入ってもだいじょうぶであろうか、と思う様な農地の中の道だ。
 しかし、道なりに行けば線路方向へ向かって少し上りつつ、

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右手に線路

慰霊碑前へ導かれた。

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 きれいに芝草が刈られた一角に、立派な慰霊碑がある。

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いのはなトンネル列車銃撃慰霊碑

 手前に、1950年(昭和25年)に地元青年団により建立された「戦災死者供養塔」と刻した小さな石碑。元はこのすぐ後ろを通る線路の北側にあったものを、危険である為ここに移したものである。

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供養塔と慰霊碑

 小さな石碑後ろにある黒御影石の大きな石碑は、1992年(平成4年)に、いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会により建立された「慰霊の碑」。

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慰霊の碑

 この碑には、現時点で判明している50名の銃撃犠牲者の方のお名前と年齢(一部無記載)が刻されている。
 銃撃された列車の乗客は、演習へ向かう兵士19名を除き自宅や疎開先に向かう偶々乗り合わせた民間人で、年齢は様々である。20代から70代までの成人の方が多いが、16・17歳など10代も10名、中には5歳と記されたものもある。

 湯の花トンネル列車銃撃は、1945年8月5日に起こった。小仏関所番川村家も焼いた八王子空襲の3日後、広島への原爆投下前日、日本が降伏して戦争が終わるその10日前である。少し前に取材した相即寺「ランドセル地蔵」の銃撃からは、およそ一か月後だ。
 ―市街地の80%を焼いた八王子空襲で不通となっていた中央線が、全面復旧した5日、電気機関車ED16型7号機に牽引された10時10分新宿発長野行き419列車(客車は8両)は、立川駅・八王子駅で満員となり浅川駅(現高尾駅)に到着した。

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奥多摩駅のED16型7号機
撮影:1980年8月
(パブリックドメイン)

 浅川駅でさらに超満員となった列車は、12時15分に浅川駅を出発したが、その時点ですでにノースアメリカンP-51マスタング戦闘機の編隊が関東上空へ飛来との空襲警報が発令されていた。出発は、仮に戦闘機が飛来しても、その時には小仏か湯の花のトンネルに入れるとの判断だったともされる。

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硫黄島を離陸するP-51
撮影:1945年
(パブリックドメイン)

 列車は、12時20分頃小仏関跡北側付近を過ぎ湯の花トンネルに差し掛かった。その時、硫黄島第7戦闘機集団506軍団462戦隊所属のP-51戦闘機3機(慰霊の碑による。パンフレットには4機とある)が列車を捕捉し、谷合を列車と並行して飛行したのち高尾山から蛇滝の付近で右旋回し列車南側から機銃掃射とロケット弾で攻撃した。列車は、架線切断と急ブレーキで機関車と先頭付近の客車がトンネル内で停車。機関車は銃弾を受けたが、発火する事はなかった。しかし、トンネル外の客車は繰り返し攻撃された。銃撃を免れた人々はトンネル内や線路下の沢、北側山林に逃れたが、乗客40名ほどが即死したと言う。
 銃撃後、警防団・動員学徒・地元住民などの手により遺体は旧街道の先ほど見た旅籠の向かいの民家庭先などへ搬出され、負傷者は旧街道沿い1kmほど東の小林病院(現駒木野病院)へと搬送された。多くの町民も救援に駆けつけたが、手当が行き渡らず更に八王子市内や立川市また多摩村(現多摩市)の病院まで運ばれた。
 翌日、現場近くに安置された52遺体中49遺体は小仏川上流方向の日影沢で荼毘に付され、遺骨は遺族に引き渡された。引き取り手の無い遺骨は、近くの常林寺に置かれた。
 死傷者数は、乗客が見知らぬ者同士でもあり、また搬送中或いは病院到着後に亡くなった方などもいるので詳細は分からず資料により異なるが、慰霊碑には死者52名以上、負傷者133名となっている。

 慰霊碑前には、のどやかな初春の里山風景が展開している。

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慰霊碑

 では、銃撃現場のトンネルへ行ってみよう。

 一旦先ほどの分かれ道へ戻り、左側の細道に入る。途中右手に慰霊碑がやや遠くちらりと見える。

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慰霊碑

 無舗装の細道は半ば草に隠れ、意外に急な坂だ。銃撃の被害者の方々が搬出されたのは、おそらくこの道であろう。

 上り切った坂上には、小さな新井踏切(この辺りの地名は「荒井」だが―)。

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新井踏切

 左右を確認しつつ踏切に立てば、ここから左にトンネルが見える。

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左にトンネル

 しかしこれは、戦後複線化の際に新たに作られたトンネルで、

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新しい下り線トンネル

よく見るとコンクリート壁である。
 この下り線側線路を渡った先が上り線側線路で、

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上り線トンネル

こちらの左手に見えるトンネルが、銃撃があった当時のトンネルだ。
 よく見ると先程のトンネルと異なり、レンガ壁だ。

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レンガ壁のトンネル

 トンネルの長さは、約170m。419列車が銃撃を受けた際、上でも触れた様に機関車と客車1両目及び2両目半分ほどまではこのトンネル内となったが、入りきらなかった3両目以降の車両はトンネル外となり繰り返し銃撃の標的とされた。それは正にこの踏切から見えている、手前の線路の上であろう。なお、1・2両目は兵士専用だったとの証言もある様だ(「追憶の電機〜青梅路のED16〜」さんの「八王子の空襲と戦災」よりの抜粋を参照)。

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当時からある湯の花トンネル

 銃撃を免れた人々が逃げたという山林は、この画像右手側である。

 街道筋では多くの方々とすれ違ったが、慰霊碑もここも、私以外人影はない。

 私がまだ少年の頃とずいぶん昔だが、テレビでこの銃撃を特集した番組があって当該パイロットへのインタビューを観た記憶がある。或いはそのパイロットのお子さんだったかもしれないが、ご当人は民間人が乗っているとは知らなかったと証言していたと、そのように憶えている。が、余りに昔のことで、判然とはしない。
 湯の花トンネルのものが中でも最大規模の被害とされている陸上機・艦載機による列車銃撃は、日本本土の制空権・制海権が実質失われたWW2最末期には同様なものが各地で行われた。それらが、インフラ攻撃を意図したものか敢えて民間人を狙ったものか不明だが、列車銃撃に限らずこうした陸上機・艦載機による銃撃(機銃掃射)で、明らかに後者ではないかとされるものも多く知られる(立川空襲や上記相即寺銃撃など)。
 今の時代含め、こうした攻撃が行われるのは、戦意喪失を意図するものもあろうが、根本は、異人種・異民族・異教徒或いは異なるイデオロギー等に対しヒトがその心底に持つ不寛容の為であろう。こうしたものを無くすことは困難であるが、自身の中にこうしたものがあることを自覚し向かい合う強さを、人は持たねばならない。

 トンネル周辺を、航空写真で見てみよう。

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旧甲州街道・湯の花トンネル航空写真
2019年(令和1年)8月17日国土地理院撮影

 白○が小仏関跡、紫●が念珠坂石塔群、水玉が地蔵堂、緑●が旅籠・上行講碑、黄●が慰霊碑。「cl」が中央線、「k」が旧甲州街道、「kr」が小仏川(南浅川)、「E20」が中央道、「468」が圏央道、両者の交点が八王子ジャンクション。画像下が高尾山側、上が八王子城側である。
 下でトンネル部分をアップする。

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湯の花トンネル航空写真
2019年(令和1年)8月17日国土地理院撮影

 黄●、「cl」「k」「kr」は上と同じ。オレンジ↓は新井踏切。緑↑は旅籠。水色↓が銃撃現場のトンネル上り線新宿側口。なお、「i」は湯の花トンネルが通る猪ノ鼻山。拠って、本来トンネル名は「猪ノ鼻トンネル」となるべきだが、トンネルを開通させた当時の逓信省鉄道作業局により、「湯の花」の字が当てられたのだそうだ。
 下は、上と同エリアの銃撃7か月後の写真。

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湯の花トンネル航空写真
1946年(昭和21)3月9日アメリカ軍撮影

 水色↓の銃撃現場のトンネルが、現上り線側であるのがお分かり頂けると思う。オレンジ↓の新井踏切は、今と同じと見える。
 中央道も圏央道も無いこちらだと分かり易いが、「i」の猪ノ鼻山は北側(八王子城跡側)の山から「k」の街道及び「kr」の小仏川側に突き出した小山で、その形をイノシシの鼻に見立てたものである。
 1946年写真の、銃撃現場付近をアップにして見る。

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湯の花トンネル航空写真
1946年(昭和21)3月9日アメリカ軍撮影

 「k」は旧甲州街道、「cl」が中央線。水色↓がトンネル新宿駅側口、オレンジ↓が新井踏切、その二つの↓の間の白↓が銃撃を逃れた人々の一部が入り込んだ沢。この沢の上あたりが客車の7両目、最後尾8両目は踏切より長野駅側にあった。緑↑は旅籠。

 中央線上り線側の踏切を渡り、此方も無舗装の草道を上がる。

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線路山側

 客車から脱出することができた人々が逃げ込んだと言う山側斜面から、南を望む。
 現在ここは中央道下の法面となっているが、そこに小さな観音堂が建って居る。上2019年航空写真、白○の場所だ。

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知徳観音
1992年4月建立

 傍らの石碑には「知徳観音」とあり、その由来が記されている。
 1991年(平成3年)4月、この場所で遠足中の11歳の少女が事故により亡くなったため、その供養及び湯の花トンネル遭難者の鎮魂・供養のため建立されたものである。「知徳」は、少女の戒名によるものである様だ。
 お堂の中の観音像は、リアルな少女の面影で水晶球を手にし、トンネル方向に視線を向けている。

 訪問予定ポイントを一通り訪ねたので、少しゆっくり裏高尾の風景を楽しむ。

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高尾山方向を望む

 画像右手側にある中央道の下から、高尾山方向を見ている。その高尾山の山腹を刺し貫いているのが、計画段階などで大問題となった圏央道。左手手前に中央線が走り、満開のウメの木の向こうが湯の花トンネルだ。
 丁度お昼時で、見渡す農地には人影もない。ただ、野焼きの煙が薄く青く漂っている。

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ウメのアップ

 ウメを観つつ、ランチ―。

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NO WAR

そしてセルフィ(おじゃまです)。

 まだ時間も早いので、少しだけ、旧街道をぶらつく。
 鄙びた沿道風景と異様なコントラストを生む、頭上を覆う圏央道を潜り、

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摺指橋から小仏川

200数十mほど行くと、気になる名前の摺指(するさし)橋。そこから小仏川を見る。
 摺指とはめずらしい名だが、この地域名だ。「新編武蔵風土記稿」(1828年成立)には「摺差」とあるそうだ。バス停名は、今も「摺差」である。焼き畑に関わる由来を持つともされるようだが、詳細は不明。

 橋から望むと、

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遠く尾根を見る

南西方向、遠くなだらかな尾根が見える。おそらく、高尾山(左手方向)と城山(右手方向)を結ぶものだろう(と思う)。この尾根には「一丁平」と呼ばれるサクラの名所があり、ハイカーには有名だ。ベンチや東屋もあり、私も山歩きに夢中だった少年時代、高尾山頂の喧騒を逃れてそこで休憩することが多かった。
 ―と、高尾山ハイクを思い返していたら、別のことを思い出した。私は此度自転車で訪ね来たこの小仏関跡前を通る旧甲州街道を、嘗て二度歩いている。一度は中学生時代の高尾山遠足で、もう一度は十代後半のプライベート高尾山登山で。前者では蛇滝コースからの下り道として高尾駅まで、後者は逆に蛇滝コースの登り道として高尾駅から、それぞれ歩いているのだ。そうだ、思い出した。
 実のところ、朝方小仏関跡に寄った際、「ここ知ってるかも・・・」と何かデジャヴ的感覚を覚えた。その時は気の所為と思い気に留めなかったのだが―、気の所為じゃなかった、ホントに知っていたのだ。そうか、そうだったのか。

 では、裏高尾訪問はここで終わるが、朝ここへ来る途上、甲州街道路傍に見付け気になっていたものを、訪ねたい。

 つづく

2026年卯月7日
(取材は2月下旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・ご訪問・ご探訪の際は、マナーを守り節度ある行動をお心がけ頂けますよう、お願い致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
・パブリックドメイン画像出典:Wikipedia
・参照:八王子市HP、JR東労組Yokohama 2025年8月5日第24号、NEWS23(2023年8月16日放送分)、サイト「追憶の電機〜青梅路のED16〜」さん、「ゆる歴史山歩会」さんX投稿記事掲載「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」パンフレット、レファレンス共同データベース(八王子市中央図書館)、サイト「上大岡的音楽生活」さん、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は東京都八王子市、最寄り駅はJR中央線高尾駅です

*裏高尾町:浅川町大字上長房の一部が1960年に裏高尾町となった
*中央線:現高尾駅である浅川駅から先が開通したのは1901年(明治34年)
*P-51戦闘機:アメリカ陸軍航空隊の戦闘機。ノースアメリカン社がイギリスの要望で開発した。ロールスロイス製エンジンを搭載したB型から性能が向上しWW2最優秀戦闘機とされる。マスタング(野生馬)はニックネーム
*急ブレーキ:419列車が急ブレーキをかけたのは重要機材である電気機関車を銃撃から守るためともされる
*死傷者数:慰霊の碑は死者52名以上・負傷者133名、いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会パンフレットと入口解説板では死者60名以上としている。各組織の報告は以下のようになっている。警視庁は死者52名・負傷者133名、国鉄は死者49名・重傷者120名・軽傷者800名、当時の浅川町事務報告は死者49名・負傷者約300名
*列車銃撃:湯の花トンネル以外で知られている主なものは以下。
1945年7月28日山陰本線大山口駅列車銃撃(F6Fヘルキャット戦闘機3機による。死者44名・負傷者31名以上)
1945年7月28日東北本線小金井駅列車・駅舎銃撃(P-51による。死者31名・負傷者70名以上)
1945年7月30日牟岐線那賀川鉄橋列車銃撃(ボートF4Uコルセア戦闘機2機による。死者30名以上・負傷者50名以上)
1945年8月8日西日本鉄道筑紫駅列車銃撃(P-51による。死者60名以上・負傷者100名以上)
*逓信省鉄道作業局:1897年(明治30年)から1907年(明治40年)存在した官設鉄道を所管した組織。後の鉄道省や国鉄またJRのご先祖
*ED16:1931年(昭和6年)に18両が製造。戦後は青梅線・五日市線・南武線などで活躍。1984年全車廃車。7号機のプレートは八王子郷土資料館に収蔵
*圏央道(首都圏中央連絡自動車道):東京都心部から半径50km前後を結ぶ環状道路。八王子城址及び高尾山の地下を通るため周辺の環境破壊や生態系への影響等が問題視され訴訟に発展した

(スマートフォン版は通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

名所漂泊 裏高尾・旧甲州街道 II―石塔・地蔵・旅籠

裏高尾・旧甲州街道 II―石塔・地蔵・旅籠

 神明神社から街道に戻り、小仏関跡から西へと170m程進むと、緩い下り坂となり、その路傍に石塔群(標高195.3m)がある。

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石塔群
左が街道

一番下の航空写真の青●だ。
 向かって右端には「甲州街道念珠坂」と刻された新しい時代の石碑があり、この坂の名が知れる。一応「念珠坂石塔群」と呼ばせて頂こう。

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向かって右端に「念珠坂」碑

 坂の名は、ここで鬼に襲われたおばあさんの数珠の珠が飛び散り、それに足を取られた鬼が坂下の大穴に落ちてしまった―と言うお話に由来するともされる様だ。

 向かって左から二番目の大きな自然石には、「青面金剛」と刻されている。

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「青面金剛」庚申塔

 「庚申塔」と書かれた庚申塔はよく見かけるが、こう書かれ庚申塔はお初にお目に掛る。サイト「ぶつぞうな日々 part III」さん掲載の資料を参照させて頂けば、1800年(寛政12年)8月の建立だ。

 庚申塔右隣の自然石には、可也特殊な字体の文字が刻されている。

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徳本上人名号塔
最下部に「徳本」とある

 はっきり言って読めないが、様々なサイトさんを参照させて頂くとどうやら「南無阿弥陀仏」と刻されている様だ。丸っこくて終筆(とめ・はね・はらい)が大きく跳ね、可也デザイン化された文字である。知らなければ、まず読めない。
 こちらも庚申塔と同じ資料を参照させて頂けば、1821年(文政4年)6月の建立。浄土宗僧侶、徳本(1758-1818)上人による書を石に刻したもの(名号塔)で、書体は上人独特のものだそうである。上人は全国を行脚し、「流行神」と呼ばれるほどのムーヴメントを起こし庶民から大名迄広く支持を得たお方と言う。

 向かって左端は、摩滅が進み全く判読は不能だが、街道端で庚申塔とセットの様に並ぶことが多いのは、道中安全を願って建てられる馬頭観世音塔だ。

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馬頭観世音塔?

可能性としては、そうも考えられるが自信はない。側面には、「文政十一子歳 三月吉日」とある様に読める。

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側面

文政11年は1828年である。この三基、年は近い。
 なお、この場所はGoogleマップでは「高札場跡」となっている。高札(こうさつ)場は、江戸時代の掲示板が置かれた場所で、街道沿いなど人目に立つところに設置されていた。ので、そうなのかもしれないが、残念ながら詳細は不明である。

 では更に、街道を行く。

 念珠坂から280m程街道を進むと、小仏川とも呼ばれる南浅川が左手に近くなる。すると、

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地蔵堂

その川と街道の間に挟まれるように地蔵堂が建って居る。手前には、用水路のような小さな流れがある。

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地蔵堂

 流れに掛る小さな橋の先の屋根の下には、地蔵菩薩を挟んで向かって右に五輪塔があり左に青面金剛型庚申塔がある。何故か屋根から少し外れて、左端に小さな地蔵菩薩が建つ。

 青面金剛さまは、上腕で合掌している様に見える。その他は摩滅が進み、判然としない。

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青面金剛型庚申塔

向かって右側面に「宝永三天」、左側面に「戌四月吉日」とある(「天」は年と同じ)。宝永3年は1706年だから、富士山大噴火の前年だ。
 この庚申塔、ユニークなのは、通常正面下部にセットで刻される三猿が、正面と左右面に一体づつ分けられているところ。

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正面と向かって右側面

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向かって左側面

 此方も風化が進みよくは分からないが、正面が聞かザル、向かって右が言わザル、向かって左が見ザルと見えるが―、自信はない。
 多摩地方で18世紀初頭の庚申塔は結構古めのものだが、この様なスタイルはそうした時期の特徴と言うのでもなさそうだ。めずらしい。

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地蔵堂

 比較的新しい五輪塔は、「戦没者供養塔」である。地元の戦没者の方のためのものとも思えるが、詳細は不明。

 お堂右手には、裏手の天神梅林に繋がる「梅郷橋」が小仏川を渡っている。

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梅郷橋
左手がお堂側

 橋上からの川の姿は、渓谷的。

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上流方向

 下流側は、街道沿いの用水からの水が、左の斜面に小さな滝を生んでいる。

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下流側

 更に300m程、街道を西へ。
 左手、南浅川の畔、古い家屋が残るが、これは「ふぢや新兵衛」と言う旅籠だと言う。

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旅籠ふぢや新兵衛
右が街道

 軒下には、講(こう)の名を記した木札がずらりと並んでいるが、これは「板まねき」と呼ばれる参拝札と言う。今は高尾山の表玄関は高尾山口駅側だが、昔はこちら当時の甲州街道側が表玄関だったそうだ。板まねきには、「神田」「浅草」「下谷」等の地名が見える。

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板まねき

 残念ながら街道側からは見えないが、反対側は小仏川に突き出した舞台造りになっているそうだ。

 旅籠の右手すぐ傍らには、「上行講」の石碑が建つ。

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旅籠と石碑

 上行(じょうぎょう)講とはお初にお目に掛る名だが、これは釈迦が法華経を説いた際に地から現れた四菩薩のひとり上行菩薩の教えに基づく講の様である。

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上行講碑


 碑面には「蛇瀧まで八丁」とある(八丁は約870m)。蛇滝は高尾山の有名な名所の一つだが、そこは滝修行の場である。ここから230m程先に蛇滝への入口があるが、隣の旅籠は滝行を行う方々の休憩所などにも使われたと言う。確かに碑面には、板まねき同様「神田」「下谷」「浅草」(他に「本所」)の地名が講員名と共に記されている。

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コントラスト強調

 旅籠軒下の板まねきの幾つかには、「上行」の文字もあった。講と旅籠の関連が、感じられる。

 念珠坂石塔群、地蔵堂そして旅籠の、その位置関係を航空写真で見る

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念珠坂石塔群他航空写真
2019年(令和1年)8月17日国土地理院撮影

 「k」が旧甲州街道、「cl」は中央線、「E20」が中央道、「468」が圏央道。白○が小仏関跡、青●が念珠坂石塔群、水玉が地蔵堂、緑●が旅籠と上行講碑。写真下が高尾山側、上が八王子城跡側。

 旅籠と上行講碑の、街道を挟んだ向かいには、新しい石碑が建つ。「いのはなトンネル列車銃撃慰霊碑」案内碑だ。
 実のところ、此度の裏高尾ライドは、ここに示された慰霊碑及びトンネルに来るのが主目的であった。

 IIIにつづく

2026年卯月5日
(取材は2月下旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・ご訪問・ご探訪の際は、マナーを守り節度ある行動をお心がけ頂けますよう、お願い致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
・参照:八王子市HP、レファレンス共同データベース(八王子市中央図書館)、「ぶつぞうな日々 part III」さん、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は東京都八王子市、最寄り駅はJR中央線高尾駅です

*裏高尾町:浅川町大字上長房の一部が1960年に裏高尾町となった
*徳本上人:その名号塔は全国に1500基以上あり長野県が最も多い。小林一茶は上人に深く帰依し句にも詠んでいる
*講(こう):一般には神社仏閣への参詣・寄進などするためにつくられた信者による結社・団体。富士山信仰の富士講とか大山(おおやま)信仰の大山講とかが多摩エリアには多い
*上行菩薩:末世に現れ教えを広める菩薩で、日蓮は自身を上行菩薩になぞらえたと言う

(スマートフォン版は通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

名所漂泊 裏高尾・旧甲州街道 I ―小仏関

裏高尾・旧甲州街道 I―小仏関

 江戸幕府によって整備され五街道の一つ、東京多摩地方を横断する甲州街道。徳川家康が江戸に若しもの事態が起こった際、天領・親藩領である甲府へ逃れるための道として想定されていたともされるこの道は、現在は大凡国道20号線となっている。

 で、この甲州街道を西行すると、JR中央線高尾駅前を過ぎて500mほど行ったところで、中央線の下を潜ると共に南浅川を渡る。そしてそこから150mほどにある西浅川交差点に至れば、右手に道が分かれる。この道は、旧甲州街道。私が行くのは、この道だ。

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旧甲州街道航空写真
2019年(令和1年)8月17日国土地理院撮影

 「ma」は南浅川、「ts」はJR中央線高尾駅、緑↓が中央線、白←が京王高尾線。水色矢印が甲州街道(国道20号)、白○が西浅川交差点、黄↑が旧甲州街道。左上の曲線はE20(中央道)。

 旧甲州街道は彼方此方に点在するもので、現甲州街道とは少しずれた旧道。ので、その多くは古(いにしえ)の面影を残すしそこはかとなく、風情漂う道である。ここも、その例外ではない。

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旧甲州街道

 西浅川交差点からこの道を200m少し行くと、裏高尾町に入る。この町は旧街道と異なり比較的新しいもので、成立したのは1960年(昭和35年)。町村制施行(1889年)で生まれた浅川村がのち浅川町となり、町が1959年に八王子市に編入された翌年、浅川町大字上長房の一部が裏高尾町となったものである。
 この裏高尾町に入って200m程行けば、

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お地蔵様
左が街道

左路傍にお地蔵様(標高190.8m)。

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お地蔵様他

 中三体は比較的新しい地蔵菩薩像だが、左右の石塔は可也時代を感じさせる。何方も可也風化が進み且つ赤い腹巻があるので詳細は不明だが、向かって右は頭上に何か載っているようにも見えるので馬頭観世音かもしれない。この菩薩は牛馬の守護であり、道中安全祈願に建てられることも多いので、場所を思えばそうなのかもしれない。向かって左は、こうした場所に多い青面金剛型庚申塔とも思えるが、腹巻の下に見える衣の裾は、ちょっとお地蔵様っぽい(以上私見です)。
 出来得れば解説など設置して頂けると、旅人としては有難い。

 お地蔵さまから50mほど行くと、特別養護老人ホーム「清明園」があるが、

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川村家住居跡

ここは、「小仏関」の関所番人を代々勤めた川村家の住居跡(標高193.7m)であると言う。

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解説

 これから訪ねるのだが、ここから120m程先に甲州街道の関所「小仏関」の跡がある。関所番は近所に屋敷を与えられて住い、江戸文化を地域に齎す存在でもあったと言う。関所番は概ね四人体制であったが、当初、天正年間(1573-1591)から元和9年(1623年)までは川村家初代当主が一人で勤めたと言う。その後は、川村家11代当主まで関所番を関所廃止まで引き継いできたそうだ。
 解説によればこのお屋敷には、WW2最末期の1945年8月2日の八王子空襲の際、此方も被災し、関所手形・甲冑・刀・鉄砲や当主の陣笠・陣羽織また豊臣秀吉から加藤清正宛の朱印状などなどの多数の歴史的資料が失われたとある(昭和戦前期に東京大学史料編纂所などによる調査は行われていた)。
 以前、焼夷弾跡の残る大和田橋のについての記事でも書いたが、八王子空襲では市街地の80%が焦土と化した。しかしその空襲被害が、ここの様な山間地域にまで及んでいたのは知らなかった。

 お屋敷跡から、緩い上り坂を90mほど行くと、街道は細い流れを渡る。

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駒木野橋

 駒木野橋だ。三叉路の角には、

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1984年3月の日付

石碑が立ち、古い橋標が貼られている。区画整理で古い橋が撤去されたため、橋標保存のため建立されたとある。因みにこの辺りは、駒木野(こまぎの)と言う甲州街道の宿駅である。

 駒木野橋のすぐ先にあるのが、

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小仏関跡

国指定史跡「小仏関跡」(標高196.0m)だ。上の航空写真の黄●である。
 小仏関(こぼとけせき)は、徳川幕府がこの甲州街道で最重要視し、最も堅固と言われた関所である。

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石柱

 「史蹟小佛關趾」の石柱の側面には、「史蹟名勝天然記念物保存ニ依リ昭和四年五月文部大臣指定」とある。

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手形石・手付石

 石柱手前には「手形石 手付石」が置かれているが、通行者は奥の石に手形を置き、手前の石に手を付いて吟味を待ったのだそうだ。

 石柱左手にはまた別の解説板があり、

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解説板

絵図が二枚ある。

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左の絵図

 これは先ほどの関所番川村家に伝わっていて、空襲で失われた絵図。右手に川が流れそこに掛かるのが駒木野橋であろう。木柵で囲われた関所の北側に番所があり、東西に門がある。

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右の絵図

 こちらは、八王子千人同心組頭による日記(桑都日記)に記された関所の絵。「駒木野御関所」とある。橋の所で触れたように、ここは駒木野と呼ばれる場所。ので、関所は「小仏関」と呼ばれると共に「駒木野関」とも呼ばれたと言う。関所跡の30m程左手道路際には、駒木野宿の石碑もある。

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駒木野宿碑

 これら絵図の様に関所は木柵等で囲まれ、立地で言うと北は山となり、南には川(南浅川)が流れている。通過できるのは明け六つ(6時)から暮れ六つ(18時)までで、上述のように、通行者は手形石に手形を並べ、手付石に手を付いて許可を待った。よく知られるように「入鉄砲に出女」で、江戸への武器の搬入と人質である大名江戸屋敷の妻子の脱出は厳重に取り締まられた。関所破りは、磔と言う重罰である。
 太政官布告により、1869年(明治2年)全国の関所は廃止され、ここ小仏関の当時の遺構は、手形石・手付石のみと言う。

 関跡周辺を航空写真で見てみよう。

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小仏関跡航空写真
2019年(令和1年)8月17日国土地理院撮影

 中央を横切る細道が旧甲州街道、水玉が旧川村家跡、黄●が小仏関趾。街道北側を横切るのが中央線(列車が通りかかっている)。

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小仏関跡航空写真
1948年(昭和23年)9月17日アメリカ軍撮影

 参考に上と同エリアのWW2敗戦3年後の航空写真。この辺りも今や都内への通勤圏なので、如何に昔に比して住宅地が増えたかよく分かる。

 そもそも、小仏関所は戦国時代の天正年間(1573-1592)ここから西方約4.5kmにある小仏峠に北条氏照によって設けられ、眺めの良さから富士見関とも呼ばれた。武田や今川など周辺大名が滅亡したのち麓に移され、更に北条氏滅亡後、徳川幕府によってこの駒木野に移された。

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小仏関・小仏峠航空写真
1992年(平成4年)10月26日国土地理院撮影

 航空写真で示すと、黄●が小仏関趾、左の水玉が小仏峠(548m)。小仏関跡のある西へまっすぐ伸びる谷合を旧甲州街道が通っており小仏峠へ至っているのだ。
 因みに「t」は超有名な高尾山(599m)の山頂、「s」はその隣でここも眺望がよい城山(670m)。高尾山と城山そして更に先にある景信山(727m)や陣馬山(854m)を結ぶ人気の縦走ルートは小仏峠を通るので、私も少年時代4-5回くらいは峠を通過している。

 1888年(明治21年)、甲州街道車道化の際、急勾配の小仏峠の車道化は困難と言う事で、上航空写真の白↑で示した大垂水(おおたるみ)峠を通るルートに変更となり、関所跡や小仏峠のあるルートは「旧道」となった。その後、旧道保存の機運の高まりから、1928年(昭和3年)に関所跡は国の史跡に指定され今日に至っている。

 小仏関跡に戻ると、石柱や遺構手形石・手付石の左手には、公園が広がる。

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公園と石柱

 ウメを撮る方、わんこと散歩する方、史跡を巡る方、サイクリスト(私)など、さまざまな人がいる。地元の方もいらっしゃれば、外国の方もいらっしゃる。

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公園

 公園には、こうした石碑がある。

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先賢彰徳碑

1930年(昭和5年)建立になる、地元出身の国学者落合直亮(なおあき)・直澄兄弟と官僚川村正平(上記川村家の方)を称えたもの。裏面に与謝野鉄幹の歌があるらしいが、ガンロー(老眼)で読めません。

 関所跡からその裏手、中央線線路側へ行ってみる。
 細い坂を上がって行くと、小さな陸橋(標高199.6m)がある。上の2019年小仏関跡航空写真で、黄●右上に見えている白矢印の先だ。

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陸橋

 丁度下を通るのは、水色と薄緑のラインが入った211系。

 線路北側は、南側と変わり住宅は無く農地が広がるのみ。

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線路北側

向こうに見えるのは、高尾山方面の山並みだ。

 更に北側は急な斜面が伸びあがっており、その斜面に、鳥居が見える。

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鳥居だ

 鳥居から予想通りの急な石段を上がるが、ここまで甲州街道も旧甲州街道もずっと緩い上りであったので、すでに脚が大分お疲れ。結構しんどい。

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神明神社
祭神:オオヒルメムチノミコト(天照大御神)

 神社は、小さなお社の「神明神社」(標高203.9m)。急傾斜地にある境内はかなり狭く、階段からすぐお社で距離が取れない。

 ではまた、街道へ戻ろう。

 IIにつづく

2026年卯月3日
(取材は2月下旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・ご訪問・ご探訪の際は、マナーを守り節度ある行動をお心がけ頂けますよう、お願い致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
・参照:八王子市HP、ASA南平「小さな散歩道」、レファレンス共同データベース(八王子市中央図書館)、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は東京都八王子市、最寄り駅はJR中央線高尾駅です

*五街道:東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道
*甲州街道(道中):五街道の五番目、日本橋から下諏訪の中山道との合流点迄約210km
*千人同心:八王子の治安維持、甲斐との国境警備、甲州街道の整備、日光の防火・警備等を勤めた組織。旗本である10人の組頭に下級役人である同心がそれぞれ100人がついた
*手形:鉄砲手形は老中、町人手形は名主が発行
*川村正平(恵十郎):徳川慶喜に仕えていた際は渋沢栄一の上司だった

(スマートフォン版は通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

北の離れ 大往生

大往生

 2月、我が家の長老、猫のミケさんが亡くなった。

 昨年、激暑も漸く収まり、秋が感じられる涼しさとなった頃から体調を崩し、食欲が大きく減退した。今まで幾度か猫を看取った経験から、この冬は越せるかどうか―、と思っていた。

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秋の頃、巴と日向ぼっこするミケさん

 その後、以前からの食欲増進剤に加え新たに別の増進剤を服用するようになって、一旦は食事量も体重も増えたが、やはり長くは続かなかった。

 冬も深まる頃から、増進剤の効果も薄れ、徐々に食欲は落ちて行った。
 私として、最期はどうするか―、と考える時が来た。週一の点滴治療(慢性腎不全)は連れ出すのが辛そうであれば行わない、全く食べられなくなった場合強制給餌も行わない、なるべくストレスの無いよう穏やかな時間を過ごさせてやる、とそう決めた。

 冬の底ともなる頃、覚悟の時が来た。
 ミケさんは、食べ物は一切受け付けず、水は飲もうと言う意欲はあっても、水飲みの前で倒れ込んでいるのみなので、シリンジ(1mlの細いもの)で、少しづつ飲ませるようにした。多種服用の常用薬(心臓・肝臓・膵臓・胆嚢・胃薬・制吐剤・抗生剤・甲状腺薬・食欲増進剤・ステロイド)も、嫌がらないものだけ、粉末にし水に溶かし飲ませた。
 食事に関しては、強制給餌も考えたが、今まで幾度も経験してきたなかで、看取りの場合は行いたくはない思いが強かったので、嫌がらない範囲で大好きだったピューレを指先で口に入れるのみとした。

 全く自ら食べる事は無くなり、水も十分には飲めなくなり、トイレもほぼ行けず部屋中にトイレシートを敷く状態で約1週間。今日か明日か―という日が来た。
 前夜から明け方にかけ、お気に入りの小屋から出たり入ったりを繰り返し、彼方此方と寝場所を変えていたので、大分意識の混濁があるのが感じられた。後肢は力が入らない様子であり、名を呼んで体に触れても、ほぼ反応も無く、いよいよであろうと、感じていた。

 その日は朝方から、なるべくいい場所にと、ミケさんをお気に入りのベッドに移し、エアコンの温風が当たる様リヴィングに置いた。
 すると、状況を知ってか知らずか、ミケさんの横たわるベッドに式部と巴は入りたがった。ふたりとも、温厚なミケさんと一緒に寝るのを好んでいたし、またミケさん同様母子もベッドはお気に入りで、然も暖かい場所に置いてあるのだから入りたがるは当然だが、ミケさんが窮屈になってしまうので困った。

 ミケさんがもう大分意識が薄れて来た様子の正午頃、ミケさんのベッドをリヴィングの日向に置き、外に行きたがる式部と巴を温かいうちにと散歩に連れ出し、日向ぼっこをする二頭を庭において少し植木の手入れをした。
 15分ほど後、二頭を家に入れ、玄関口で反応は期待せずにミケさんの名を呼んだ。すると、以外にもミケさんは頭をもたげ、一瞬だが目が合った。われわれが戻るの待っていたかのように、すぐにまた意識は薄れ、もう二度と反応を示すことは無かった。

 13時頃には微かに下顎(かがく)呼吸をするのみとなり、死期が迫っていることが確認された。ただ不思議なのは、気付くとそれまで上下動していた腹部の動きが完全に止まっていたのだが、10数分後にまた動きすと言う事があったのだ。勿論回復は期待しなかったが、交通事故で重傷を負っても回復し、大病からも生還したミケさんの、生命力の強さが感じられる様な事柄であった。

 14時過ぎ、下顎呼吸は完全に止まり、暫く後に心臓の動きも止まった。
 野良生活15年、わが家に来て8年。23年の生涯だった。

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R.I.P

 さようなら、ミケさん。

(お世話になった動物病院の皆さま、有難う御座いました)

2026年弥生26日

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*下顎呼吸:終末期に見られる下あごを上下させ吸気する呼吸。実際にほとんど呼吸できていない。この際脳からはエンドルフィン(脳内麻薬様物質)が生産され当人は苦しくないとされる

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