MYSTIC RHYTHMS

日常雑記、音楽、鉄塔そして自転車など

ミスティック・リズムス―多摩の住人が綴る多摩な日々

Fe塔 鉄塔 中富線―始点 番外 1

鉄塔 中富線―始点 番外 1

 中富線始点、武蔵赤坂開閉所周辺には、他にも気になる鉄塔が幾つか見える。
 開閉所の北西、400m少しの場所に聳えるのが、こちらだ。

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新座線9号(標高47.7m)

 「埼玉の巨人」こと新座線の、その9号である。
 開閉所北東に当たる老番側を見ると、

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10号(標高45.0m)

10号と、その先15号まで並んでいるが、

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10号から15号

それ等とは異なる、異形の鉄塔だ。以前訪ねた、中富線71号や北多摩線74号を彷彿させる、グルグル状態だ。

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雁字搦め状態

 上段の4導体が新座線「N」、中段の右から左へ渡るのが旭ヶ丘線「A」で、53号相当。下段の3・4段目が狭山線「S」で20号相当だ。旭ヶ丘線は開閉所内54号で終わり、狭山線はこのまま新座線鉄塔に併架されて行く。

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上部アップ

 一寸アングルを変えて、塔体に太陽を取り込む。

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光ってるね

 色々やってみたくなる、存在感グンバツの鉄塔である。

 広大な農地のその向こうには、9号と繋がる他の路線の鉄塔も見える。

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広い農地の向こう

 9号奥は8号、右手は9号に併架される狭山線と旭ヶ丘線だ。

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狭山線・旭ヶ丘線アップ

 中央が狭山線19号(標高47.5m)、右奥が旭ヶ丘線52号(標高48.0m)。

 航空写真で周辺を見て見よう。

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武蔵赤坂開閉所周辺航空写真
2019年(令和1年)8月8日国土地理院撮影

 「1」は中富線、「52」「54」が旭ヶ丘線、「9」「10」は新座線、「19」が狭山線、「44」「44-1」は武蔵赤坂線。

 さて、実はこの先にもまだ見どころがある。
 「空の交差点」だ。

 交差点目指し、その下を抜ける際に見上げれば、

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ほぼ直下から

9号がド迫力だ。塔高の確認はできないが、「TinySlope」さんによれば103mだ。
 そう言えば、先ほどまで9号では高所作業員の方々の姿があったが、何時の間にか見えなくなっている。そうか、もうランチ時だ。

 つづく

2024年弥生2日
(取材は1月初頭)

――――――――――――――――

・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・鉄塔ご訪問の際は、周辺へのご配慮をお願い致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は埼玉県川越市下赤坂・中福、最寄り駅は西武新宿線新所沢駅・東武東上線ふじみ野駅です

*旭ヶ丘線:元は中富線であったが、1993年頃武蔵赤坂開閉所を境に分離独立し

鉄塔に昇るのは非常に危険です。絶対にやめましょう

(スマートフォン版は通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

Fe塔 鉄塔 中富線―始点 3

鉄塔 中富線―始点 3

 中富線2号鉄塔下から道路に出、わずか100数十m行けば、武蔵赤坂開閉所だ。が、中富線1号鉄塔は、開閉所北東側の可也奥に立地している。

 表の道路から、産廃業者「クマクラ」さんの高い塀に沿って100m程奥へと進む。「この先行き止まり」と看板が出ているが、行き止まるまでは入って行ける。

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中富線1号(標高47.6m)

 遂に、これが中富線の1号(標高47.6m)だ。ああ、これで中富線全107基コンプリートだ。根気の無い気まぐれチャランポランおやじの私としては、快挙と言える。

 これが、1号である証拠だ。

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「1」

 ウレシイ。
 巡り合わせにより、鉄塔小説の主役となれなかった中富線を不憫に感じ、私なりに「鉄塔 中富線」をコンプリートしようと、ここまで数年目指してきた(それについては此方を)。そしてついに、1号まで辿り着いた。シンプルに、ウレシイ。

 相方とも、

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相方と

私自身とも、

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お邪魔です

ツーショしちゃう。

 さて、中富線1号鉄塔にテンションが上がるのは致し方ないが、もう一つ重要な鉄塔がすぐお隣に建っている。

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中富線1号と旭ヶ丘線54号

 左が中富線1号で、右奥がその鉄塔。旭ヶ丘線の最終54号(標高47.5m)だ。現在は両基の間に鉄構が挟まり、別個の路線となっているが、昔は一続きの路線であったのだ。いつこの分割が行われたのか詳細は不明だが、武蔵赤坂開閉所が開設された当時であろうことは想像できる。

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武蔵赤坂開閉所航空写真
1989年(平成1年)10月9日国土地理院撮影

 1989年航空写真では開閉所のあるエリアはまだ雑木林で施設はなく、黄→の先に分割前の旧中富線鉄塔が見えるのみだ。「tc」は所沢霊園。

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武蔵赤坂開閉所航空写真
1995年(平成7年)5月24日国土地理院撮影

 次の1995年航空写真ではすでに変電所は完成し今と同じように、二基が並んでいる。広範囲の写真なので写りが小さいが、矢印の先に鉄塔が二基あるのは影も含め確認できる。「tc」は上と同じく所沢霊園。
 サイト「2鉄」さんの記事を参照すれば、分割は1993年夏とあるが、航空写真はその記述に合致しそうである。

 何れにしろ、中富線と旭ヶ丘線は縁深き間柄なのである。他のアングルでも拝見しよう。

 おっとその前に―、

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「怪獣鉄塔」武蔵赤坂線44-1号

平行四辺形をした開閉所の、その南の角に建つ此方を忘れてはいけない。「鉄塔 武蔵野線」でアキラ君に「怪獣鉄塔」と呼ばれ、ミハル君に「44-1」なんて番号は甘い「44の次は45だ」と言われた、異形の武蔵赤坂線44-1号(標高48.2m)だ。
 当然ながら武蔵野連絡線への「連絡」はなく、下の鉄構(「TinySlope」さんによればこれが45号のようだ)へ引き下ろされて終わっている。

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44-1号

 この怪獣の下左手、ここが開閉所の正門。

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武蔵赤坂開閉所(標高48.1m)

 感慨深い。
 ちょっと、航空写真でも見て見よう。

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武蔵赤坂開閉所航空写真
2019年(令和1年)8月8日国土地理院撮影

 「1」と「2」が中富線、「54」が旭ヶ丘線、「44-1」が武蔵赤坂線。開閉所が、平行四辺形なのが良く分かると思う。

 茶に塗られた鉄門の奥には、中富線始発と旭ヶ丘線最終が見える。

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門の向こう

 手前の鉄構下には、何やら白い物体が並んでいる。ズームアップすると各装置には覗き窓があり、そこには幾つもスイッチかメーターらしきものが見える。電気的な事には全く無知の蒙昧である私には、さっぱりであるが、これはガス絶縁開閉装置(GIS : Gas Insulated Switchgear)と言う六フッ化硫黄(SF6)(無害で不活性だが温室効果ガスで排出抑制対象になっている)を利用したものらしい。

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GIS

 あの中に、遮断器や断路器などと言うものが入っているそうだ。この遮断機と言うのが、変電所運転・保護のための回路の電流を「開閉」したり遮断したりするものなので、開閉所にはとても重要な存在、なのだそうである。

 開閉所前をあまり彷徨いたり、中を覗いたりしていると、非常に不審である。ので、少し離れて鉄塔のアングルを探る。
 すれば、お隣「HOTハウス」さんの駐車場越しに、1号と54号そしてその下の鉄構が、ほぼ全貌を現している。

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1号と54号

 よく見ると、鉄構は四つの部分に分かれており、向かって左二つが旭ヶ丘線、向かって右二つが中富線にそれぞれ繋がっている。

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1号

 1号のアップ。

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54号

 54号のアップ。

 少し北に離れ、畑中から開閉所を望む。

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開閉所遠望

 開閉所の左手奥には、今まで辿って来た中富線鉄塔が並んでいる。

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2号から6号

 右手前から左奥へ、2号から6号が見えている。
 こうして望むのも、感慨深い。

 さて、これで中富線コンプリートは成ったが、まだこの周辺、見どころは多い。今中富線を振り返る私の背中側には、超巨大且つ異形な鉄塔が聳えている。
 そちらも拝見しよう。

 つづく

2024年如月29日
(取材は1月初頭)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・鉄塔ご訪問の際は、周辺へのご配慮をお願い致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
・参照:サイト「2鉄」さん、日立製作所HP、パワーアカデミー、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は埼玉県川越市下赤坂、最寄り駅は西武新宿線新所沢駅・東武東上線ふじみ野駅です

*GIS:絶縁性能の高いSF6を用いて金属密閉容器の中に遮断器・断路器・接地開閉器・避雷器などなど収納する

鉄塔に昇るのは非常に危険です。絶対にやめましょう

(スマートフォン版は通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

Fe塔 鉄塔 中富線―始点 2

鉄塔 中富線―始点 2

 今回最終目的地、武蔵赤坂開閉所へと向かう道路を進む。
 中富線4号(標高46.0m)への接近は難しいが、横からと逆光側から、大小プレートはゲット可能だ。

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中富線4号(平成3年6月)

 中富線あるあるで少プレの退色激しく、塔高は読み取れない。「TinySlope」さんの画像を参照させて頂けば、48mと見える。

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向こうに5号

 4号脚元から、5号を望む。農地と冬枯れの雑木林と鉄塔と―、これぞ私の馴染んできた武蔵野の原風景だ。

 4号北側の永久保通りを少し進むと、武蔵野連絡線残置鉄塔3号。

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武蔵野連絡線3号

 植木の狭間、東に見える。何時まで残るのかは知る由もないが、そう遠くない未来には撤去となるのであろう。

 では次に、

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中富線3号

竹藪と杉木立の上に上体がのぞく3号だ。接近可能だろうか。

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3号

 手前は、この地域らしいお茶工場。道路から見る限り、3号(標高47.1m)への接近は難しそうにも思えるが―。
 しかし近づけば、細くはあるがやはりここにも鉄塔北側に道路があった。

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3号と農地

 奥は農地だが、立入り或いは進入禁止の表示が無いのを確認し、おじゃまする。

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中富線3号(平成3年6月)

 矢張り小プレは退色激しい。「TinySlope」さんでも確認不可だ。
 鉄塔下は、車体整備の事業所さんの様である。

 北を向くと、2号は近い。

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2号と奥に1号

奥には、はや1号鉄塔も見える。もっと近づくまで見たくはないのだが、見えてしまうので仕方がない。

 道路から2号(標高48.0m)を望む。

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2号

 こちらは、長冨山妙林寺の駐車場入口脇敷地内に建っている。

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2号

 脚元には、「ひがしでん」もある。

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2号「ひがしでん」

 2号は道路の際なので、今度は逆に近すぎて見えにくい。ので、道路向かい、(妙林寺)所沢霊園横の細道から拝む。

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南から

 2015年くらいまでは、この2号右手奥に武蔵野連絡線1号が建っていたのだ。
 1号の跡は、現在の航空写真で見ると鉄塔敷を活かした四角い広場の様になっている。

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中富線2号・武蔵野連絡線1号跡航空写真

 黄↑が2号、白→の白四角形が1号跡。「tc」は妙林寺所沢霊園。

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中富線2号・武蔵野連絡線1号航空写真

 2007年同範囲写真で見ると、黄↑2号の上に白→1号がまだ建っている。現白四角形の四つの角にある小さな植込みが、1号の脚基部跡に当たるであろうか。
 もう数年早く訪ねていれば、1号鉄塔にもお目に掛かれたのだが―。しかし考えて見れば、1号があった頃は、未だロードバイクにも乗っていなかったし(マウンテンバイクであった)、ここまで自転車で来られる体力・脚力・技術も持ち合わせてはいなかった。致し方なし。

 序に、広範囲の航空写真を。

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中富線2号周辺航空写真

 さあて、いよいよ1号鉄塔へ接近だ。

 つづく

2024年如月28日
(取材は1月初頭)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・鉄塔ご訪問の際は、周辺へのご配慮をお願い致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は埼玉県三芳町上富、最寄り駅は西武新宿線新所沢駅・東武東上線ふじみ野駅です

*武蔵野連絡線:武蔵野線が三分割されたうちの一つで武蔵赤坂開閉所と新座変電所を結んでいたが2010年代後半頃に廃線となった

鉄塔に昇るのは非常に危険です。絶対にやめましょう

(スマートフォン版は通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

Fe塔 鉄塔 中富線―始点 1

鉄塔 中富線―始点 1

 2024年一回目の鉄塔巡りは、遂に中富線鉄塔全基追跡の最終段階、中富線始点の武蔵赤坂開閉所を目指す。これまで、6号鉄塔から終点千歳変電所の最終107号まで全て訪ね取材してきた。残るは1号から5号だ。
 此度目指すは、この残る五基と、始点の武蔵赤坂開閉所。気持ちは逸るが、まずは5号鉄塔から訪ねよう。

 5号に関しては、昨夏、6号と多聞院・毘沙門堂を訪問した際、遠目に望んだ。

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多聞院越しに5号
(2022年夏撮影)

 マップで調べる限り、接近可能か不可能かイマイチ不明で、多聞院東側道路から望むのみかと、そう思っていた。だがしかし、現場に立って見れば、この付近には多い事業所の、

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事業所越しに5号

その南に沿って、多聞院東脇の道路から一本の細道が5号南側方向へと伸びている。ので試みに、砂利道を自転車を転がし進む。
 すれば、雑木林の可也奥に、5号が見えた。

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中富線5号(標高49.5m)

 鉄塔方向へは、轍が薄っすらと伸びている。立入禁止的表示が無いのを確かめ、厚く積もった落ち葉をガサガサと踏み分け、枯れ落枝をポキポキと踏み折り、進入。

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結界フリー

 鉄塔敷は無囲い、即ちフリーだ。
 だがまずは、全身とプレートを。

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中富線5号(平成3年6月 57m)

 周囲から毛細管の様に伸びる冬枝が、いい図柄を描いている。
 では、直下にお邪魔して見上げる。

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見上げ

 50m超の大鉄塔の見上は、流石に迫力がある。鉄塔を囲繞する枝々に葉繁る頃には、どのような絵になるのだろう。
 では、申し訳ないが、ツーショを一枚。

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おジャマです

 雑木林を出、細道に戻りふと見ると、デニムのサイクルパンツやスニーカーに、無数のひっつき虫(鉤や棘や粘液などでヒトや動物にくっつく植物の種子)が。三角のヌスビトハギや細長いセンダングサが多いが、全然気づかなかった、全部取るのに10分ぐらいかかった、参った。

 ひっ付き虫と格闘の後、4号目指し北へ向かう。

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逆光で5号

 振り向けば、冬木立越しに5号。この北側には、ネギ畑を挟んで砂川堀(流域下水道砂川堀雨水幹線)が流れ、その向こうに4号と3号が見える。

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4号と3号

 堀を越えれば、もっと近付けそうだ。
 すぐ傍らの永久保境橋で堀を渡ると、西に遠く富士山が見えた。

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富士だ

 ご当地名物、狭山茶畑と防霜ファンと一緒に。
 高台でもないこの場所からこれほど大きく富士が望めるとは、如何に一帯が広大な農地であるか分かろうと言うものである。

 堀北側に渡り見れば、堀に沿って遊歩道が続いている。当然ながら農地には入れないが、鉄塔を望むに関しては無問題だ。

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4号(標高46.0m)

 4号をゲット。
 ふと脚元を見ると、農地の砂川堀側に、「埼玉県」と刻された一寸古そうな境界杭が建っている。

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「埼玉県」境界杭

 ここは、都県境ではないので、県境を示すものではないはず。

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何の杭?

 埼玉県三芳町大字上富にすっぽり収まっているエリアだから、単に、埼玉県が設置した境界杭、と言う意味なのであろうか。それとも、見たところすぐ南側を流れる砂川堀に沿って並んでいるので、堀が埼玉県の管理であること示しているのであろうか。

 堀沿いに並ぶ境界杭のその先、東の奥を見れば、堀の下流に以前訪ねた武蔵野連絡線残置鉄塔3号だ。

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武蔵野連絡線残置鉄塔3号(標高41.6m)

 未だ撤去されず、墓標のように建っている。
 中富線と同じ武蔵赤坂変電所を発しているのだから当然と言えば当然だが、思いの外に近い距離だったのだな。

 航空写真で、各鉄塔その他の位置関係を見る。

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中富線3-6号周辺航空写真

 黄●が中富線、水玉が武蔵野連絡線、「tb」が多聞院・毘沙門堂、「t」は以前紹介の多福寺、「sb」は砂川堀、白→は永久保境橋。

 さてここからは、航空写真で見ての通り永久保境橋を渡り北西に伸びる通りに沿って鉄塔が並んでいる。このまま鉄塔を伝って真っすぐ行けば、開閉所だ。

 道路を僅か行けば、右手奥に4号はあるが、順光側からこれ以上の接近は難しい。

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4号と相方

 でも取敢えず進もう。

 つづく

2024年如月27日
(取材は1月初頭)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・鉄塔ご訪問の際は、周辺へのご配慮をお願い致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は埼玉県三芳町上富、最寄り駅は西武新宿線新所沢駅・東武東上線ふじみ野駅です

*砂川堀雨水幹線:狭山丘陵から新河岸川へ流れる約13kmの川。集水区域は5市1町にまたがる流域下水道だが元は自然河川
*多聞院・毘沙門堂、多福寺:前者は毘沙門社(毘沙門堂)とその別当寺で正式名は宝塔山吉祥寺。後者は三富山多福寺。共に三富(さんとめ。上富・中富・下富の総称)開拓者である川越藩主柳沢吉保により、入植農民の祈願所及び菩提寺として1696年(元禄9年)に創建された


鉄塔に昇るのは非常に危険です。絶対にやめましょう

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Heavyじゃないsphere Symphony No. 44 in E minor

交響曲第44番 ホ短調 Hob.I:44「悲しみ」/フランツ・ヨーゼフ・ハイドン order

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Symphony No. 44 in E minor, Hob. I : 44 "Trauer" /Franz Joseph Haydn (1772)

 ヘンデル(1685-1759)と並び、名は知られている割に聴かれることの少ないハイドン(1732-1809)。同時代を生きた後輩モーツァルト(1756-1791)と弟子ベートーヴェン(1770-1827)と言う人気クラシック音楽家のツートップに挟まれ、人柄は良いけど平凡、とか、聴き心地は良いけど耳に残らない、とか、兎角ザンネンな言い様をされることの多いハイドン(そんなことは無いか)。
 確かに、ギラギラとデモーニッシュな光輝を放つモーツァルトとベートーヴェンに挟まれては、イイ人だけどツマラナイ、的に見えてしまうのも致し方ないかもしれないが、その革新性で「交響曲の父」「弦楽四重奏曲の父」「ピアノ・ソナタの父」とも称され、多岐にわたる膨大な作品を残したハイドン、採り上げずにはおけない重要な存在である。

 で此度紹介の曲は、交響曲第44番。100曲以上もあるハイドンの交響曲だが、人気が高いのは比較的後期の作品。本曲は、77歳まで生きたハイドンが未だ40歳頃の作品。明るく穏やかな印象の強い彼の作品群中、例外的とも言えるほどにデモーニッシュなイキフンを醸す「シュトゥルム・ウント・ドランク」と呼ばれる時期の作品だ。
 このドイツ語の「シュトゥルム・ウント・ドランク(Sturm und Drang)」、日本語では「疾風怒濤」と訳される、まさに荒れ狂う嵐の様な(大袈裟だが)作品群中の一つが、本曲である。
 ハイドンの「疾風怒濤」は1768-1773年頃で、その前後とは少々異なる、短調の曲を含むやや暗い情熱を秘めた様な作風が顕著とされる時期だ。

 ハイドンは、1761年にハンガリーの貴族エステルハージ家の楽団副楽長となったのをはじめに、1766年には楽長へと昇格した。その後1790年に実質職を終える迄、29歳から58歳まで29年間をエステルハージ家で過ごした訳だが、「疾風怒濤」期はこの内の、36歳から41歳頃に当たる。
 元来「シュトゥルム・ウント・ドランク」は、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」(1774)に代表されるような、合理性・理性偏重の啓蒙主義を否定し、個人の主観や個性を尊重し感情の開放を標榜する、1770-1780年頃の文学運動を指すもので、ハイドンの疾風怒濤期は一寸ずれるし彼自身もこのムーヴメントへの言及などはないそうなので、あくまでも「ハイドンの疾風怒濤」期と言う事であろうと思う。
 とは言え、時代のイキフンや匂いの様なものは、ハイドン程の人は敏感に嗅ぎ取っていたであろうから、その作風にも影響はしているかもしれない(私見)。
 明るいイキフンの音楽を求める時代という事もあって、1番から104番まであるハイドンの交響曲中、短調(マイナー)の曲は僅か11曲しかない。その11曲の内、26番(1768)・39番(1765)・44番(1772)・45番(1772)・49番(1773)・52番(1771,1772)の6曲が「ハイドンの疾風怒濤」期に集中している。

 そんな疾風怒濤期の中でも、第45番「告別」と並ぶ人気曲の本曲、のちのモーツァルトやベートーヴェンの短調交響曲を彷彿させる、緊張の糸が一本貫いているような悲壮感の漂う本曲だが、第3楽章のみはホッと一息つくような、穏やかで柔らかな緩徐楽章となっている。感情の横溢する様な本曲中、謂わば「理性的」な存在とも言えようか。この一楽章の存在が全体の疾走感や悲劇性を際立たせ、同時に「感情的」な他楽章が第3楽章に存在感を与えていると、そう言える様に思う。
 人間にとって理性は非常に重要なファクターだが、その理性に深みを与えるもの或いはそれを際立たせるものは感情である、理性と感情のバランス、これが大事と、そう感じさせるような本曲である。

 因みに、本曲第3楽章は、ハイドン自身が自身の葬儀での演奏を望んだと言う話が、真偽不明だが伝わっている。実際ウィーンで行われた葬儀で演奏されたのは後輩モーツァルトの「レクイエム」だが、ベルリンで行われた追悼祭ではこの楽章が演奏されたと言う。おそらくこの事が、後につけられた本作のニックネーム「Trauer(悲しみ)」の由来であろうとされている。

 最後、ハイドンとモーツァルトとベートヴェンが絡むエピソードを。

 ベートーヴェンは17歳の時の1787年にウィーンに出、弟子になるべく憧れのモーツアルトを訪ねた。この時は、あまり真剣に相手にされなかったようだが、そうこうする内母危篤の知らせを受け、ベートーヴェンは故郷ボンに戻った。しかし帰郷しているその間の1791年、思いがけなくもモーツアルトは貧困のうちに35歳の若さで亡くなってしまった。
 落ち込むベートーヴェンだが、帰郷中の1790年、ウィーンからイギリスへ向かう途上ボンに立ち寄ったハイドンに紹介されていた彼は、1792年、イギリスからの帰途再びボンに立ち寄ったハイドンと再会し、彼の自作曲楽譜を見たハイドンにその才を認められ、ウィーンへ来ないか、と誘われた。
 そしてその数か月後、ベートーヴェンはウィーンへと立った(この後彼は同年末に亡くなった父の葬儀含め二度と故郷に帰ることは無かった)。
 だがしかし、イギリスで大人気で、多忙を極めたこの当時のハイドンだった事もあり、ウィーンでのベートーヴェンとの師弟関係はあまりうまく行かず、結局信頼する友人のヨハン・ゲオルグ・アルベヒツベルガー(1736-1809)に弟子を託した―。
 こう見ると、ベートーヴェンに弟子になることを勧めながらろくに教えないとは、ハイドンはちょっと無責任にも思えるが、1790年に29年間の勤め先エステルハージ家が音楽に関心の薄い新当主に代替わりし、有難くも年金暮らしとなった彼は、日本的に言えば還暦を迎え新たな人生に踏み出して張り切っていたのであろう。弟子を友人に丸投げしたと言うよりは、くれぐれも宜しく頼むね、という事だったのではなかろうか。

 2024 2/22

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お気に入り度:♭ ビギナーお薦め度:♭♭♭♭
重度:♭ 硬度:♭ 暗度:♭♭♭♭ 技巧度:♭♭♭ 旋律度:♭♭♭♭ ポップ度:♭♭♭
〔私が聴いているのは、以下の2枚。
左はトレヴァー・ピノック指揮、イングリッシュ・コンサートによる1989年録音盤。これは所謂古楽器演奏で、現代とは多少異なるハイドンの時代に使われていた楽器・様式によるもの。古楽器演奏は好みの分かれるところだと思うが、柔らかめのトーンできびきびとしてあっさりとした演奏が私は好き。
右はダニエル・バレンボイム指揮、イギリス室内管弦楽団による1975年録音盤。こちらは現代楽器によるもの。やや早めのテンポでシャープな音像。一般的評価は高く、古楽器演奏が苦手な方は此方がいいかも〕

・参照:人間、ベートーヴェンVol.2「弟子としてのベートーヴェン」(YAMAHA)、「ハイドンと弟子」(大井駿氏)、ONTOMO「ベートーヴェンのボンでの青春時代、他

*〜の父:ハイドンはソナタ形式と呼ばれる楽曲形式を確立した。この形式で書かれた曲の内、オーケストラの曲が交響曲、カルテットの曲が弦楽四重奏曲、ピアノの独奏曲がピアノ・ソナタ
*Hob:ホーボーケン番号。ハイドンの楽曲に付けられた番号でオランダの音楽学者アントニー・ヴァン・ホーボーケン(A.v.Hoboken)によるもの。Hobの後ろに付く「I」や「II」などがジャンルを表す。「I」が交響曲。ハイドンの交響曲は1番から104番までの他、協奏交響曲・交響曲ニ短調・交響曲A・交響曲Bの4曲にHob番号に従って105から108番が付けられる場合がある
*Trauer:ドイツ語。英語では「Mourning」で共に「悲痛、悲嘆」などの意
*シュトゥルム・ウント・ドランク(Sturm und Drang):「Sturm」は嵐、暴風、「und」はand、「Drang」は衝動、切迫等の意。フリードリヒ・マクシミリアン・クリンガー(1752-1835)による1776年作の戯曲名に由来する
*啓蒙主義:17世紀末から18世紀にかけての合理的・批判的精神に基づき旧来の権威・思想を打破し理性の啓発で人間生活を進歩・改善させようと言うムーヴメント
*アルベヒツベルガー:オーストリアの作曲家・音楽理論家・オルガニスト。神学校でハイドンの弟ミヒャエルと同級生。モーツアルトとも親しく彼の葬儀を手配したりしている
*エステルハージ家楽長:エステルハージ家が1794年代替わりした際に再建された楽団の非常勤の楽長となった

§凡例

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北の離れ 反体制指導者死去

反体制派指導者死去

 現時点では、実際何が起きたのかは断定できない。できないが、2月16日に、北の大国で刑務所に収監されていた反体制派指導者が死去したと言うニュースを知った人の多くは、「ある事」を連想したであろうと思う。

 憶測や推測で、物事を断定してはいけない。だが、昨年夏武装反乱を起こしその後墜落死した民間軍事会社代表の件など思えば、ある事を想像してしまうのは否定できない。

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 何時かこうした日が来るのではなかろうかと、そう感じてはいたが―。今、北の大国で何が起きても驚かないけれど、今回のニュースは非常にショックである。

 北の大国に現体制が続く限り、真に真相が明らかになることは無いと思うが、仮に今回の出来事が体制による反体制に対する封殺であったとしたら、それは何時か自身の身に返って来ることであろうと思う。

 亡くなった反体制派指導者は、彼を取材したドキュメンタリー映画の中で、もしあなたが投獄されるか殺されるかしたら、と言う問いに対し、「The only thing necessary for the triumph of evil, is for good people do nothing. So don't be inactive(悪が勝利する為に必要なのは善人が何もしない事だ。行動をやめないでほしい)、と「遺言」していると言う。

 R.I.P.

2024年如月18日

26日追記:25日、ウクライナ情報総局長は、反体制指導者の死因は血栓症による自然死との見方を示した

――――――――――――――――

・参照:NEXTA(2月16日X投稿)、JBoress2023年4月5日記事、他
・イラスト出典:イラストACよりCNたいらさんによるものを拝借しました

*悪が勝利・・・:アイルランドの思想家・政治家エドマンド・バーク(1729-1797)の言葉によるものと思われる

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