MYSTIC RHYTHMS

日常雑記、音楽報告、鉄塔そして詩など

ミスティック・リズムス

多摩の古書店主が綴る日常雑記。古本屋な日々...

Fe塔 実るほど・・・

実るほど・・・

 頭(こうべ)を垂れたる稲穂と、鉄塔とのコラボを見たくなる季節となった。真夏に思いがけず出会った、西北線26号南の田圃、もう稲刈りは終わってしまったろうか?
 時期的にはギリギリの、微妙なる10月初め、久しぶりに晴れたので、あの時の田圃へ期待半分で出掛けてみた。

 途上、稲城大橋で多摩川を渡ると、東の方遥かに微かに遠く、スカイツリーや都心の摩天楼が幾つか見えた。

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稲城大橋から都心を見る

 ぼんやり霞んで、蜃気楼か幻影のようだが、左から、都庁、スカイツリー、新宿パークタワー、東京オペラシティ、NTTドコモ代々木ビル。同じ東京でも、遠い多摩からはあまりお目にかかる機会は無い面々である。都内に等滅多に出ない私は、都庁は二度ばかり間近に見たことがある程度、スカイツリーは瑞江葬儀場(江戸川区)の帰りに下をバスで通過したことがあるのみ、そして東京オペラシティは一度「タケミツ メモリアル」に「ブルハチ」(ブルックナーの交響曲第8番)を聴きに行ったことがあるのみ。ドコモビルは近くに行ったこともなく、パークタワーに至ってはその存在すら知らなかった。ここに写るものすべて、私には縁の薄い方々ばかりだ。

 反対方向西の方に目を向ければ、此方は私にはお馴染み、目指す西北線26号(標高40.3m)とその先最終27号(標高39.5m)及び北多摩変電所とが、広い石河原の向こうに見える。

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稲城大橋から西北線最終地点

 これで26号と終点の位置関係が、お分かり頂けるであろうか。左端に25号、その右光る川面の上に26号。川と河川敷の緑地を挟み、右端に白い建屋が北多摩変電所。建屋横に大きいのが27号。

 さて、26号へ接近する。沖積低地の住宅地を紆余曲折しながら進めば、巨大な体躯が徐々に迫って来る。肝心の田圃は、どうか・・・。

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西北線26号と田圃

 おお。見事な黄金色。間に合った。
 鉄塔アップで、もう一つ。

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26号と田圃

 しかし、今夏の激暑、稲の成長にはどの様に影響したのであろう。例年より成長が遅いのか速いのか。収穫は早いのか遅いのか。
 一般に、気温が日中約35℃、夜間約30℃を超えるとイネに高温障害が出やすくなり枯れてしまう場合もあるとか。特に高夜温はイネの呼吸を増加させ日中生産した澱粉を消費してしまうので、お米の品質低下につながってしまうそうだ。こう見ると、成長も遅くなり、刈り入れもそれに連れ遅くなりそうに思えるが。今年は他の田圃を見ておらず、全体的な稲刈りの状況が分からないので、私としては何とも言えない。

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頭垂れたる稲穂

 ランチの場所を求め、多摩川へ出る。多少、湿っぽく生暖かい南風が強いが、よく晴れている。探しがてら、少し、土手のロードを行ったり来たり、彷徨いてみた。

 そして見つけた、境八王子線33号/是政線1号と32号/2号のツー・ショットを、以前のものとは別アングルで。

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手前、境八王子線33号/是政線1号(標高41.9m)
奥、境八王子線32号/是政線2号(標高39.3m)

 手前の河川敷では、稲城リトルシニアの子供たちが、グラウンドで練習中。金属バットの鋭い打撃音が、時折響く。

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野球場と境八王子線/是政線

 よく見たら、外野フライのボールが中空にあった(赤白鉄塔の左)。

2018年神無月17日
(取材は10月初旬)

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・取材に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・これら鉄塔の建つ場所は稲城市東長沼・府中市是政他、最寄り駅はJR南武線稲城長沼駅・西武多摩川線競艇場前駅です

*稲城大橋:神奈川県道・東京都道9号線が渡る。当初有料道路であったが現在は無料開放されている。北岸が中央自動車道稲城ICと直結していたりするので可也ザツフクな作りで歩行者・自転車用歩道橋があるが慣れないと何が如何繋がっているのやら分かり辛く少し戸惑う
*タケミツ メモリアル:コンサート専用ホール。芸術監督として関りホールのオープニング前に他界した武満徹の名を冠している
*ブルハチ:人によっては交響曲の最高傑作とも称される、アントン・ブルックナーの交響曲第8番ハ短調。略して「ブルハチ」。初演は1892年。CDでも通常二枚になる大作。彼の交響曲では完成された最後の作品

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北の離れ 霊園掃苔―元祖

霊園掃苔―元祖

 この墓所は目立つ。園路(東4号通り)に面している為、自転車で通りかかればすぐに目に付く。直径60-70僂呂△蹐Δ、巨大なサッカーボールが目に飛び込んできて、一瞬ギョッとする。

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巨大サッカーボール墓(19区1種)

 レンガで囲われた四角い緑のピッチに、五角形(12個)と六角形(20個)を組み合わせた32面体のお馴染みのボール。これがおそらく墓石なのであろう。

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墓石

 それにしても、見事な作りだ。おそらくは機械で球体にするのであろうけれど、色の違いはどの様に出すのであろう。嵌め込んだりするのではなく、六角形の白っぽい部分は磨き込まずに表面を粗くざらざらにし、五角形の黒い部分は鏡面の様に磨き上げて行く等、表面の加工の仕方を変えて違いを出しているのであろうな、多分。
 石は、黒御影(くろみかげ)と思われる。これは、閃緑岩(せんりょくがん)・斑糲岩(はんれいがん)などの石材名で、長石と石英が少なく、目の細かい砥石で磨き上げて行くと黒い光沢を発し、周囲が写り込むほどつややかになるのだそうだ。インド・アフリカ・中南米から輸入されるものが多いとのこと。

 墓石隣、半そでユニホームを模(かたど)り(十字架ではないであろう)、胸にサッカーボールをあしらった、こちらが墓誌。

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墓誌

 同姓の男性と女性の名が一人ずつ刻まれている。ご夫婦であろう。ボールの五角形部分はくり抜かれている。可也凝った作りだ。

 考えるまでもなく、可也のサッカー・ファンの方の奥つ城(おくつき。墓所)であることは瞭然である。でも、これほど見事な墓所を構えるお方、市井の一ファンとも思えない。サッカー協会の方か或いは往年の有名選手なのであろうか。
 一体どのような人物なのであろうと探ったが、すぐに判明した。
 墓域園路際隅に建つ石柱に、はっきりと記されてあった。

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石柱

 頂部に、旧国立競技場聖火台が載るこの石柱の、秋の陽の当たる南面に、

 日本サッカー元祖サポーター

と刻まれ、更にその隣の面に、

 「ニッポン チャチャチャ!」発案 1968年

と刻まれている。

 これは聞いたことがある。「ニッポン チャチャチャ!」は、現在バレー・ボールの応援の定番の様になっているが、実は元来サッカーの応援に使われていたコールであると。
 例によって、こういったものの起源・由来には諸説あるのだが、一説では、ここにも刻まれている様に、1968年、この五月に行われた日本代表とイングランドのクラブ・チーム、アーセナルの試合が行われた際に、日本のサポーターの一人が、「ニッポン チャチャチャ!」とコールをし始めたのが、後々広まった、とされている。
 この説に拠れば、ここに眠っておられる方が、その「日本のサポーターの一人」であったという事になる。
 一般の方なので、取材は如何かとも思ったのだが、調べてみれば、Wikipediaにも記載されている著名な方なので、問題はないであろうと考え、掲載させて頂いた。

 この墓所に眠る方は、池原謙一郎(いけばらけんいちろう)氏(1928-2002)。造園家・環境デザイナーで、公園等デザインするとともに、教壇に立ちデザインの指導もされていた。と同時に、日本最古のサッカー日本代表応援組織であるところの「日本サッカー狂会」を中心となって設立(昭和37年(1962))した、正に「元祖」日本サッカー・サポーターなのである。
 ちなみに、前記の「ニッポン チャチャチャ!」コールであるが、これは、1966年サッカー・ワールドカップ・イングランド大会の記録映画「GOAL」で見た、イングランド・サポーターの応援、「イングランド チャチャチャ!」を参考にして作り、アーセナルとの親善試合の際に初導入したのだそうだ。

 こうした、故人の趣味嗜好或いは人生観・死生観が反映されている様な墓所は、個性的でよろしい。墓所を設ける意思のない私ではあるが、興味をそそられるものはある。

 合掌。

*多磨霊園用語集霊園マップ(簡略版)霊園航空写真

2018年神無月15日
(取材は10月初め)

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・墓所の取材につきましては、十分配慮しておりますが、もしご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

参考:Wikipedia、吉澤石材店「お墓ブログ」、他

*日本サッカー狂会:日本サッカーを取り巻く状況の変化から1995年に解散。会員は国立競技場バックスタンド中央19番ゲート付近を観戦場所としていたそうだ。石柱の聖火台はここに由来するのであろう
*ニッポン チャチャチャ!:バレーボールでは、1981年11月のバレーボール・ワールドカップ女子、日本対アメリカ(宮城県スポーツセンター)の試合ではじめて行われたそう
*黒御影(くろみかげ):有名な御影石は花崗岩及び花崗岩質系岩石の石材名で(神戸市御影地域が代表的産地であったための名称)黒御影はこれとは異なる。黒御影は採石したばかりの状態では色はグレー。閃緑岩、斑糲岩はどちらもマグマが地下深部でゆっくり冷え固まって出来た深成岩で、前者は安山岩と後者は玄武岩とほぼ同じ成分(玄武岩と安山岩は地表付近で急速に冷え固まったもの)

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Fe塔 野分あと 二

野分あと 二

 多摩橋線50号は、東女体大のすぐお向かいの駐車場奥。こちらも51号同様、可也スリムな形態。塔高は不明だが、細い所為かやはり長身に見える。でも、何だろう、主脚部材の中途だけ、いやに赤錆びている。

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多摩橋線50号(標高78.0m)

 51号もよく見ると、主脚の中途の錆が目立っているが、50号の方が顕著だ。

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50号

 最後に、歴史を感じる趣のお宅のお庭越しに50号。

 さて、鉄塔はここまでとし、前回冒頭で触れた緑地である。この緑地は、50号・51号のすぐ南側、立川崖線の下にある「矢川緑地」(標高78.5m)だ。崖線の湧水を集めた矢川(やがわ)の流れを中心に、雑木林と湿地の組み合わせと言う、他に見ることは少ないタイプの緑地で、私は昔から、サイクリングの際に寄ることも多い。

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矢川緑地:湿地と木道

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矢川緑地:矢川

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矢川緑地:湧水池

 上画像は緑地西部の湿地と木道で、この奥もまだ数十m続いている。中画像は緑地東部の矢川。石垣で護岸されこの部分は直線である。そして下画像は、中画像の矢川すぐ脇の湧水池で泳ぐカルガモたち。可也にぎやかに羽ばたいては、盛んに水飛沫(しぶき)を上げていた。

 下は、その緑地の野分(のわき)通過後の惨状だ。2011年の台風15号通過の際も、ここで幾本も大木が倒れたのは紹介したが、今回の台風24号(チャーミー)による被害は、その時に準ずるほどの状況である。

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矢川緑地:倒れたクヌギ(上、南側から 下、西側から)

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矢川緑地:倒れたヤナギ(東側から)

 上二つの画像は、2-3本共に文字通り根こそぎ倒れているクヌギ。根元には大穴が残り、大量の雨水がたまっている。下画像は、根元から折れているヤナギ。幸い、全て緑地南縁部付近に立つ木で、風下に当たる北側に家屋などは無い。

 緑地内、木道の脇に一つ、矢張り大風(おおかぜ)のためであろう、カラスウリの実が落ちていた。

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カラスウリの実

 見事な色づきである。もう、そんな季節になったのだ。

(台風24号により被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます)

2018年神無月13日
(取材は10月初旬)

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・取材に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・この鉄塔の建つ場所は国立市富士見町、最寄り駅はJR南武線西国立駅です

*矢川:全長約1.5辧幅約2mの小河川。立川市東南部から国立市西南部を流下し、先日紹介した青柳崖線下の「矢川おんだし」で谷保用水、青柳崖線の湧水を集めた清水川と合流する
*矢川緑地:面積約2.1ha。湿生植物保全地域、林床保護地域、サンクチュアリなどで成り立ち、東京都保全地域の指定されている

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Fe塔 野分あと 一

野分あと 一

 台風通過の際、北半球では台風進行方向に向かって右側地域は一般に風が強まる。台風を南から北へと吹き送る風と、反時計回りに台風中心へ吹き込む風の向きが一致するためだ。台風左側は、台風を移動させる風と台風へ吹き込む風の向きが逆向きになる為幾分か風が弱まる。
 先日、列島に上陸した台風24号(アジア名:チャーミー)が本州を通過の際(9月30日から10月1日にかけて)、台風右側に当たった東京多摩は大分風が強く、我が家も時に家が揺れる程であった。最も風が強かったのは丁度日付の変わる辺り、深夜の零時から1時頃であったが、流石に目が覚めた。表の道路を、時に、風が何か形あるものの様に南から北へと音を立てて通り過ぎて行く際など、正直恐怖を感じた。幸いご近所含め何事もなかったが、ちょっと、ビビった。

 何故いきなり台風の話になったかと言うと、24号通過後、今回ご紹介の多摩橋線鉄塔と共に、そのすぐ近くにある緑地を訪ねたらば、可也大変なことになっていたからである(鉄塔は見た所無事)。
 だが、それについては最後(次回)にしよう。まずは、鉄塔だ。

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多摩橋線51号(標高78.5m)

 多摩橋線の51号周辺、東京女子体育大学と南武線西国立駅も近いので、住宅やアパートなど密集している。

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52号(標高78.1m)

 西を見れば、「引き下げない」52号が駐車場とアパートの向こう。

 家々が建て込み全身は見難いが、51号を直下から仰ぐと、可也の長身の様にも見える。でも、おそらくは細身である所為であろう。

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51号

 51号すぐ脚元東側には、JR南武線の小さな鄙びた踏切がある。

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踏切と51号

 踏切は「中学校前踏切」と表記されている。

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51号横の踏切
起点(川崎駅)からの距離は約34km

 踏切脇には、枯れ色となったエノコログサ(Setaria virideis)の群落が占有する空き地があり、鉄塔と踏切とスリーショットを狙ったのだが、逆光だし被写体の高低差は大きいしで、上手くは行かなんだ。

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51号と南武線と空き地

 51号全身を入れると原っぱが僅かに見えるのみ。でももっと引きのアングルにすると、住宅の塀が写り込んでしまう。
 これ以上粘っても、これ以上の絵は私の腕では得られそうもないので、撤収。

 50号へと行く途中、踏切名の元となったのであろう立川第三中学校の、その脇の道に入り込むと、屋並の向こうに二基が共に望めるポイントがあった。

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51号と52号

 秋10月、空が青い、深い。

 50号へ向かう。

 二に続く

2018年神無月12日
(取材は10月初旬)

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・取材に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・この鉄塔の建つ場所は立川市羽衣町、最寄り駅はJR南武線西国立駅です

*野分:のわき、のわけ。台風の古称。野の秋草を吹き分ける、の意
*台風右側(北半球):航海者は「危険半円」と呼び、台風へ吹き込む風と台風を運ぶ風の向きが逆となり比較的風の弱い左側を「可航半円」と呼ぶ
*エノコログサ:イネ科エノコログサ属の一年草。「エノコロ」は「犬ころ」で花穂が子犬の尾に似ている為。ネコジャラシとも。温帯に広く分布しアワ(粟)の原種とされる

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Heavysphere SILENT NIGHT FEVER

サイレント・ナイト・フィーヴァー/ディメンション・ゼロ order

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SILENT NIGHT FEVER/DIMENSION ZERO (2002)

 余りメジャーなグループではない。メタラーの方でも知らぬ人は知らぬ存在であると思う。ただ、その名前だけは聞き覚えがあるという方は、結構いらっしゃるのではなかろうか。なにせ、中心メンバーが、あのイン・フレイムスの、その草創期〜初期を支えたメイン・コンポーザー、ギタリストであった二人であるから。

 イン・フレイムスと言えば、メタル耳の持主であれば知らぬ人はいない存在。日本でも高い人気を誇る、メロディック・デス・メタルのオリジネイターの一つであり、絶大な人気と影響力を持つバンド。現在は大分音楽性を変え、メタルコアなどの新世代メタル・アーティスト達に影響を与えているという(済みません、最近の事はよく分からない)。
 そのイン・フレイムスを中心になって長年支えて来たイェスパー・ストロムブラード(g)(1990-2010年在籍)と、初期にそのイェスパーとバンドを支えていた、グレン・ユングストローム(g)(1990-1997年在籍)とが、1990年代半ばにサイド・プロジェクトとして結成したバンドが、このディメンション・ゼロなのである。結成は、イン・フレイムスの楽曲作成に関わっていたグレンの、その作る曲が攻撃的に過ぎてバンドに合わなくなって来た為、その作品を生かすことを目的としたものであったという。
 本作品を聴く限り、このディメンション・ゼロ結成の理由は、よく分かる。デス・メタル的楽曲に叙情的な旋律を持ち込んだ、或いは「普通」のヘヴィ・メタルの楽曲をデス・メタル的解釈で再構築した様なイン・フレイムスの作品とは明らかに異なる、激烈突貫スラッシュ・メタルが、「サイレント・ナイト・フィーヴァー」である。

 1997年、ミニ・アルバムでデビューした5年後、イン・フレイムスのヴォーカリスト、アンダース・フリーデンのプロデュースで製作された1stフルレンス・アルバムが本作である。ヴォーカルは同郷スウェーデンのブラック・メタル・バンド、マーダックで初期にヴォーカルを務めていたヨアキム・ゴスベリ、ドラムはやはり同郷で他バンドで活動していたハンス・二ルソン。ギターは勿論、イェスパーとグレンだ。メンバーに申し分は無いのだが、ベースがイェスパーの兼任であるところがちょっと残念。イェスパーは才人でドラムもキィボードも熟すマルチ・ミュージシャンであるから、ベースも上手いのだが、本職ベーシストの芯のあるプレイを好む私としては、少々不満である。
 作品の内容は、上記にもある様に、メロディック・デス・メタルとは大分趣を異にする無慈悲な爆走スラッシュ。「スラッシュ」の頭に「ブルータル」(冷酷な、残忍な、粗暴な等の意)と冠しても違和感のない、荒々しいサウンドである。プロダクションも全体に粗削りで、それがまた本作の内容に合致しプラスに働いている様に私は感じられる。この様な音楽は、キレイな音ではつまらないのだ。
 ただ、荒々しいとは言っても、そこはイン・フレイムにルーツを持つ二人のバンド、激烈に刻まれるギター・リフは時にメロディアス。ギター・ソロは一切ないが、時折顔を覗かせる哀切なフレーズは叙情を滲ませる。一聴、どれもこれも同じで一本調子に思えるかもしれないが、聴き込むほどに楽曲の味わいは深まる。ギター・ソロ無しも、全く気にならなくなって来るから不思議だ。流石イェスパー。それに、ブラック・メタルにその出自のある為か、ヨアキムのディストーション・ヴォイス(グラウル・ヴォイス、デス・ヴォイス)はあまりディープではなく、キレがあってスピード感がある。チルボド(チルドレン・オブ・ボドム)のアレキシ・ライホを少し彷彿させ、単純にカッコいい。全体に非常に良いアルバムと思う。だが、一寸だけ難を言わせて頂くと、ドラムが少し重いかな。時にブラスト・ビートを絡ませ突進する、その音の重さはよいのだが、プレイが重い。もう少し疾走感が欲しいと、個人的には思う。但し、これはあくまでも私の好みの問題で、決して下手などではないことは強調しておきたい。

 日本盤にはラスト、「ヘルター・スケルター」のカヴァーがボーナス・トラックとして収録されている(後にデビューEPのリイシュー盤(2003)に日本でのLive演奏と共に収録された)。元ネタは、ご存知、ザ・ビートルズが「ザ・ビートルズ」(1968)アルバムに収録した楽曲。「元祖メタル」の一つともされる、ザ・ビートルズの数ある楽曲の中でも珍しく激しく喧しいものだ。でも、知らないで聴くと、「ヘルター・スケルター♪」のフレーズが出てくるまで、何の曲か分からない。比較的分かりやすいモトリー・クルーのカヴァーとは、だいぶ異なる。然し、ヘヴィではあるがストレートな曲風のモトリー・クルーのものより、此方、ディメンション・ゼロの方が、この混沌(ケイオス)感、案外原曲に近いと言えるかもしれない。

 2018 10/10

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お気に入り度:♭♭ ビギナーお薦め度:♭♭
重度:♭♭♭ 硬度:♭♭♭♭ 暗度:♭♭♭♭ 技巧度:♭♭♭ 旋律度:♭♭ ポップ度:♭♭

〔可也メンバーの出入りが激しく、イェスパーもグレンも出たり入ったりしている。現時点でイェスパーとハンスは在籍しているがグレンとヨアキムは在籍していない。なお、本アルバムのカヴァー(ジャケット)のデザインは、デザイナーとしても活動している、ダーク・トランキュリティのギタリスト、ニクラス・スンディンが手掛けている〕

*メロディック・デス・メタル:メロデスとも。1990年代半ばころ生まれたスタイルで、デス・メタルと一般的なヘヴィ・メタルとが融合したような音楽。特に北欧や日本で人気が高い。上記イン・フレイム、チルボドの他、アーチ・エネミーアモルフィス、ダーク・トランキュリティ、ソイルワーク、アット・ザ・ゲイツ、エッジ・オブ・サニティなどが有名

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Fe塔 ないっ 2

ないっ 2

 確かめるまでもないのだが、一応、最終5号も確認。

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5号方向を見る

 やっぱり、無い。変電所はそのままあるが(奥の白い建屋)、その手前、銀色のコンテナとの間に、鉄塔はあったのだ。

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在りし日の5号(2017年5月)

 嘗て鉄塔敷であった場所には、1号同様、ただ砕石が敷き詰められているのみ。何の痕跡も、もう見る事は出来ない。

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5号鉄塔敷跡

 ああ、何たる無常。結構好きな鉄塔だったのだが、たった一度しか取材できなかった。

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日野線1号航空写真
中央に1号、その右下に高幡線37号

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日野2号航空写真
中央に2号、下は矢頭橋

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日野線3・4号航空写真
中央やや右下に3号、同じくやや左上に4号
上に神明橋

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日野線5号航空写真
中央に5号、その上に変電所
何れも平成29年(2017)8月24日国土地理院撮影

 昨年の取材が2017年5月、これらの航空写真がその三か月後の8月撮影。今回の取材が9月半ばであるから、一年少し前までは、確実に存在していた訳だ。
 何れの鉄塔も、建設は1966年。50年と少しの間、この日野台地の谷間に建っていたことになる。

 再訪してみたら、鉄塔が無くなっていたと言うのは、初めての経験だと思う。サカハチの3号や只見幹線の525号など、建替えられてしまっていたことはあるが。
 世は無常、変化こそ宇宙の根本、と幼くして悟った私であるが、いや、結構にショックである。お気に入りの鉄塔が、跡も残さず消えているというのは。

2018年神無月8日
(取材は9月中旬)

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・取材に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・この鉄塔の建つ場所は日野市大坂上、最寄り駅はJR中央線日野駅です

航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト

*日野台地:多摩川および浅川により形成された四つの段丘面(日野台面、多摩平面、豊田面そして栄町面)から成る台地。日野線のあった切通しの東側は多摩平面は高幡線37号や日野市役所がある。西側は日野台面で日野自動車工場などある(日野台地参考画像あり)

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Fe塔 ないっ 1

ないっ 1

 おばあちゃんがショートステイでお留守。しかも、久しぶりに晴れた。暑からず寒からずの秋の日。サイクリング日和である。
 という事で、特に目的もなくぶらぶらと日野台地の坂を上がって行った。何となく、高台に上がってみたくなったのだ。空気も乾いているし、無意識のうちに眺望を求めたのかもしれない。

 冒頭、暑からず、と書いた。しかし、そうは言ってもロードバイクでそれなりの距離を走り坂を上れば、やはり暑い。結構な汗をかきながら辿り着いた日野台地、適当に出会った鉄塔を取材しようと思っていたらば、以前紹介した日野線の建つJR中央線の切通しにぶつかった。ならば、久方ぶりに日野線の古鉄塔でも拝もうかと、線路際に寄ったらば・・・、無いっ。日野線が、無いっ。

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日野線1号跡
向こうは実践女子大学

 切通しの下に建っていた色白小柄なかわいい鉄塔が、跡形もない。

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在りし日の1号(2017年5月)

 昨年5月、嘗ての1号の姿だ。鉄塔敷は以前芝地であったが、今は砕石が敷かれ大分殺風景な様子。

 1号左手に建つ分岐鉄塔、高幡線の37号も、当然ながら、日野線への分岐は無くなっている。

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高幡線37号
右は線路を挟み反対側から

 見た所、1号のみならず、他の鉄塔の姿も無いが、一応確認のため、1号と2号とに挟まれる位置にある矢頭橋に立ち、若番側、老番側をそれぞれに望む。

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矢頭橋から1号跡方向を望む

 幻影ではなかった。1号だけではなく、橋からは眼前にあった2号も、その向こうの3号もそして4号も、やはり跡形もない。

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矢頭橋から2号跡と3号、4号跡方向を望む

 嘗ては、この様な景色であったのだが―。

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在りし日の2号(と3号・4号)(2017年5月)

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在りし日の3号(左)と4号(右)(2017年5月)

 3号は線路西側から、4号は5号との間にある神明橋からの姿。

 2につづく

2018年神無月7日
(取材は9月中旬)

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・取材に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・これら鉄塔の建つ場所は日野市大坂上(高幡線のみ神明)、最寄り駅はJR中央線日野駅です

*日野台地:多摩川および浅川により形成された四つの段丘面(日野台面、多摩平面、豊田面そして栄町面)から成る台地。日野線のあった切通しの東側は多摩平面は高幡線37号や日野市役所がある。西側は日野台面で日野自動車工場などある(参考画像あり)

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Fe塔 鉄塔 中富線―くぬぎ公園

鉄塔 中富線―くぬぎ公園

 61号(標高63.6m)は、60号同様住宅地内、奥まった場所に建つ。此方は外から覗き見た所、畑である。

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中富線61号

 いろいろポジションを探るが、なかなか良きアングルが見つからない。

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61号

 横姿はいいのだが、正面は鉄塔南側を東西に抜ける通りを渡って探す他無い。

 以前に、オカサカの147号を紹介した際、後方に61号が写り込んでいたのを見てもお分かり頂けるように、すぐ隣に147号が建っている。

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61号と147号

 ここで中富線と岡部境線は交差し、オカサカが下を潜る形で左右(東西)が入れ替わっている。オカサカの方は、この先最終148号を経て武蔵境変電所で終点となる。

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61号

 61号手前から伸びている道路を南に200mばかり行けば、こちらがある。

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皆さんご存知の

 スタジオジブリ。
 スタッフの方か、玄関前に人がいらっしゃるので、建物を写すのは遠慮した。他のサイトさんに多く画像があるので、是非そちらをご覧頂きたい。

 ジブリ斜向かいには、以前、その名の元となっているのであろうクヌギの、その黄葉を紹介した「梶野町くぬぎ公園」がある。ここで、ランチ。
 陽射しは少なく弱いが、蒸し暑い日である。木陰のベンチは多少、涼やかだ。
 にしても、この公園、住宅2-3軒分くらいの比較的小さな公園だが、その面積に比して随分とデカい遊具が公園中央に聳えている。

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くぬぎ公園の巨大遊具

 手前の相方と、大きさを比較して頂きたい。
 小金井市公式サイトによると、近隣の子供たちや来園者の投票の結果選ばれ、2015年に設置されたものらしい。複合的な構造で、滑り台だけで三つもある。縦横、特に横は結構なボリュームで、画像には全体の半分ほどしか収まっていない。

 公園は、1980年代初めころの航空写真に現れる。それまでは、お家が二件建っている。

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現くぬぎ公園の嘗ての様子
下を横切るは中央線
昭和36年(1961)9月5日国土地理院撮影

 上を横切るのは現61号前の通り。現61号(黄丸)もオカサカ鉄塔も見える(橙丸)。中央、縦に並ぶお家二軒が現在の公園(水色四角)。左下は武蔵境変電所。南北の斜向かいには、三年前に出来たばかりの和田堀線、詰まり現在の中富線鉄塔62号63号が建っている(黄丸)。現62号の左斜め上、現63号の左下には、前回触れた謎の小鉄塔も見えている(緑丸)。何者なんだ、あなたは一体。

2018年神無月5日
(取材は9月中旬)

――――――――――――――――

・取材に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・これら鉄塔の建つ場所は小金井市梶野町、最寄り駅はJR中央線東小金井駅です

航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト

*和田堀線と中富線:明治45年(1912)開設の八ッ沢線から昭和14年(1939)に和田堀線が分割され、昭和53年(1973)に和田堀線の中東京変電所―千歳変電所間が分割されて中富線となった(参考

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

Fe塔 鉄塔 中富線―謎の鉄塔

鉄塔 中富線―謎の鉄塔

 此度も、前々回および前回の中富線巡り同様、例によりすっ飛ばしてすっぽり抜け落ちていた鉄塔を訪ねた。60号および61号である。

 今回はまず、60号から。

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中富線60号

 60号(標高64.1m)は、住宅地の奥まった駐車場内に建つので、直下へは行きようがない。周辺を探ったが、なかなか近づくことも出来ない。

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南から

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秋の空と

 唯一、西側からある程度接近できる場所を見つけたが、拝めるのは西側と南側で、残念ながらプレートは北側にあり見ることが叶わない。

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60号

 ので、ヘリ巡視用プレートを。

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60号

 こちらも、例により、古い航空写真で鉄塔周辺を眺めていたら、異なものを見つけた。下は、中富線の前身である和田堀線が、武蔵境変電所から北の中東京変電所まで延長されて三年後の写真だが、現中富線60号の傍らに建つオカサカ(岡部境線)146号のそのすぐ横に、小さな鉄塔が建っているのだ。

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現中富線60号と岡部境線146号と謎の小鉄塔
昭和36年(1961)9月5日国土地理院撮影

 写真中央に現60号、その左上やや離れて白く光る屋根の横にオカサカ146号、そしてその右上に小鉄塔。右斜め上向きに細い影を引いているのがお分かり頂けるであろうか。他の和田堀線(現中富線)鉄塔の近くには、画像の解像度が低い所為かどうか分からないが、小鉄塔の存在は確認できない。と言うか、現中富線の鉄塔すら一部確認できない。
 謎の小鉄塔は、1989年10月の航空写真まで写っている。此方の写真では現60号の近くだけでなく、現59号、現58号そして玉川上水および五日市街道を越えた現57号、小金井公園に入った現56号夫々の横或いは近くにも、可也はっきりと確認できる。

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中富線57号と横の小鉄塔
平成1年(1989)10月20日国土地理院撮影
左上はオカサカ143号
下は五日市街道と玉川上水

 写真中央が中富線57号、左上はオカサカ143号。57号左横にピッタリ寄り添うように建つのが、謎の小鉄塔。これは可也はっきり見える。影で判断する限り、中富線よりもオカサカよりも大分小柄だ。形態は、これも影から判断すると、中富線共々一本角でI字の懸垂型の様だ。
 三年後、1992年10月の航空写真には、この写真のものを含めもう小鉄塔は写っていない。一体、何?
 中富線鉄塔建替えの為の仮鉄塔かとも思ったが、それにしては随分と長い期間建っている。
 一体、何?

2018年神無月4日
(取材は9月中旬)

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・取材に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・これら鉄塔の建つ場所は小金井市梶野町、最寄り駅はJR中央線東小金井駅です

航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト

*和田堀線と中富線:明治45年(1912)開設の八ッ沢線から昭和14年(1939)に和田堀線が分割され、昭和53年(1973)に和田堀線の中東京変電所―千歳変電所間が分割されて中富線となった(参考

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

北の離れ 霊園掃苔―生みの親

霊園掃苔―生みの親

 前回紹介した田河水泡氏がのらくろの生みの親なら、今回ご紹介の方はこの霊園の生みの親だ。

 我が愛する多磨霊園の、計画・設計者である井下清氏(1884-1973)の墓所を、はじめて訪ねた。場所は8区。霊園の東縁部、すぐ後ろは霊園外周道路

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井下家之墓(8区1種18側)
墓所の後ろの木立ちは霊園の東縁

 考えてみれば、もっと早くに、訪ねておくべきであった場所かもしれない。

 氏は、京都の聖護院村に生まれ、東京高等農業学校(現東京農業大学)卒業後、東京市の土木課に入り、のち公園課長や部長を勤め、東京の多くの公園造成を行い、また霊園事業を創設した。このお仕事の大きな遺産が、ここ多磨霊園(当初の名称は多磨墓地)である。
 日本初の公園墓地であるこの霊園を造るに際し、氏は、主にドイツの風景墓地・森林墓地を参考したという。
 井下氏が、日本的な習俗・感情を基本に、欧米的な形態・制度を加味したこの新墓地建設の成案を得たのは大正7年(1918)、計画の作成が翌8年、そして内閣認可を得ての計画決定が翌9年12月とされている。

 井下氏は、以前紹介した、考古学・人類学・民俗学の学者である鳥居龍蔵と共に、「武蔵野の自然並びに人文の発達を研究し且つその趣味を普及する」ことを活動の根本に置く「武蔵野会」(現武蔵野文化協会)を大正5年(1916)7月に発足させた。
 その同年5月、当時東京市公園課技師であった井下氏は、芝公園でモミジの植え替え作業中に人物埴輪二躰(島田髪と垂髪の頭部のみ)を発見し、東京帝国大学人類学教室の鳥居龍蔵に鑑定依頼をした。其れが二人の出会いの切っ掛けである。
 ちなみに、人物埴輪は、共に関東大震災で焼失したとされている。写真は残されているが、垂髪(すいはつ)はほぼ昔のハードコアパンクかX JAPAN。縦に立ち上げた逆さ富士的ヘアスタイル。島田髪は周囲が欠けたのであろう、短めの横モヒカン風になっている。お顔は何方も、穏やかそうな、所謂「埴輪顔」。失われたのは、つくづく惜しい。

 墓石には「井下家」とあり、左隣に埋葬者の名を記した墓誌がある。

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墓石と墓誌

 墓誌には七名の方の名が刻されているが、清氏は右から三番目。

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墓誌拡大

 享年は九十と、前回の水泡さんと同じである。

 合掌。

*多磨霊園用語集霊園マップ(簡略版)霊園航空写真

2018年神無月2日
(取材は9月中旬)

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・墓所の取材につきましては、十分配慮しておりますが、もしご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

参考:多摩のあゆみ 第170号 「”武蔵野研究”100年」、村越知世「多磨霊園」

*井下清:長く東京の公園・緑化事業に携わる。農学博士。多磨霊園の他、霊園開園(大正12年4月)五か月後に起きた関東大震災のその後に造られた52の小学校に隣接させた「震災復興小公園」設計も有名。この公園は、JR水道橋駅および御茶ノ水駅近くの「元町公園」(文京区本郷。昭和5年開園)に当時の面影を色濃く残しているそうだ。なお、氏の公園墓地研究の動機は、欧米視察をした林学博士白澤保美氏から、1903年のドイツ、ハンピエツナーによる風景墓地の研究発表を墓地事業の参考にと贈られたことだそうだ。ただ、この「ハンピエツナー」なる人物がどの様なお方か分からない 参考
*垂髪、島田髪:前者は結わずに垂らす髪型。埴輪は正面からの写真しかないが後頭部がそうなっているのかもしれない。後者は女性の髪形で円形平板を載せて表す

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)
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