MYSTIC RHYTHMS

日常雑記、音楽報告、鉄塔そして詩など

ミスティック・リズムス

多摩の古書店主が綴る日常雑記。古本屋な日々...

Fe塔 西向きのいぬ 四

西向きのいぬ 四

 近づけそうな雰囲気は、全く無い29号。

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長沼線29号

 遠く望む限りにおいて、30号の様な脚元を抜ける道は、その下にありそうには見えない。

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29号

 プレートも遠くから拝見するのみか。
 しかし、まあ諦めずに少し探ってみよう。熱帯(行ったことは無いけど)の如き蒸し暑さだが、そのくらいの余力は、ある。

 浅川の河川敷方面へ緩く下る細道を自転車で行き、南から回り込んでみると・・・、あった。脚元までは行けぬが、29号の建つクリ畑の縁ギリギリまで、駐車場脇を抜け、緩く上がって行く細い道が延びている。確認したが、この道については、「立入ご遠慮下さい」的表示は無い。接近可能の様だ。

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29号(標高97.1m)
30号と異なり碍子連は真っ直ぐだ

 プレートは見えなかったが、本体は問題なく拝見することが出来た。諦めなければ望みは叶う、とは限らないのが世の中だが、叶う場合も時にあるので、面白いのだ、世の中は。

 有難く29号を拝んでのち、四つの河岸段丘面からなる日野台地の上から三段目、私の立つ豊田面の縁の細道から振り向けば、一段低い四段目の栄町面を越し、更にその下の浅川の流れる石田面(浅川低地、氾濫低地)に28号(標高89.3m)鉄塔が建っているのが見える。マップや地形図と照らし合すと、手前の左右二軒のお家と間に見える畑が栄町面、向こうの田やアパートは浅川の流れる低地となるようだ。

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28号と27号
27号は丘陵に溶け込んでほとんど見えない

 28号はこれまで見て来た鉄塔達とは異なる、新しいタイプの様だが、その向こう、都立長沼公園となる多摩丘陵の緑に紛れ、且つ重なり合って良く解らぬが、26号から24号の古鉄塔も見える。手前、28号脚元に見える引下げ型の27号(標高88.7m)は、28号同様新しい。

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三姉妹
24号と25号は角が長い

 少し東に移動すると、長沼公園の古鉄塔は皆分離して良く解る。右が26号(標高132.3m)、左が25号(標高155.3m)そして中央が24号(標高182.3m)。この丘の向こうの南陽台には、以前紹介した23号が、ある。
 マップで確認すると、27号から25号までの三基が、八王子市長沼町に建っている。この「長沼」の地名が、当路線の名の由来であろう。
 地名と言う事で言うと、今回巡った鉄塔達の建つのは「西平山」だが、この南東には「平山」がある。かつて多西郡船木田荘平山郷(たさいぐんふなきだのしょうひらやまごう)と呼ばれた地で、源頼朝に従い平氏との戦いで功をたてた、平山季重(すえしげ)という武将が領した地であった。季重は、奥州藤原氏との戦いである奥州合戦(文治5年(1189))に従ったのちは、平山郷の開発に努めたのだそうだ。長沼公園の東方には、平山氏の物見台があったのではないかとされる(諸説あり)、平山城址公園がある(但し公園の殆どは八王子堀之内に含まれる)。

 32号から始まった今回の長沼線遡上。だが、もうここで限界。この酷暑の中、浅川の低地に下りてまた多摩丘陵を上がって―、は無理。リームー。
 丘陵上の三姉妹など、長沼公園と言う紅葉・黄葉も期待できそうな環境ゆえ、冬が来る前にでも訪ねることを楽しみに、ここで撤収。

2017年葉月20日
(取材は7月下旬)

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・撮影に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・標高は国土地理院地図(電子国土web)を参考にした凡そのものです

・「日野台地の地形と自由地下水」(駒澤地理 No.48(2012))、「日野台地の開発と水文環境の変化」(1989)(共に角田清美著)を参照させて頂きました

・これ等鉄塔の建つ場所は28・29号は日野市西平山、27・26・25号は八王子市長沼町そして24号は八王子市下柚木、最寄り駅は京王線長沼駅です

*浅川:八王子市から日野市に流れる多摩川支流。全長30.15kmの一級河川
*長沼公園:昭和55年(1980)開園の都立公園。多摩丘陵の一角にあり雑木林にほぼ覆われている
*豊田面、栄町面:この鉄塔の建つ日野台地は、多摩川・浅川によって形成された四つの段丘面からなり、上から、日野台面、多摩平面、豊田面そして栄町面と呼ばれている。29号は豊田面にある。28号、27号は栄町面の下の氾濫低地、26号から24号は、多摩丘陵にある。なお、「日野台地の開発と水文環境の変化」では氾濫低地は「石田面」と記されている
*多西郡:12世紀半ば以降多摩郡は多東郡と多西郡に二分されていた。船木田荘は同郡の現在八王子市東部および日野市の一部となっている一帯にあった荘園

九州北部豪雨に伴うどうぶつ救護本部

Fe塔 西向きのいぬ 三

西向きのいぬ 三

 ネムノキの下を潜り、道なりに行けば、丁度緑地の尽きた辺り、緑地向いのアパート横からほぼ真南へと曲がり、30号方向へと続く道が延びている。見れば、30号すぐ下を通っているようではないか。
 勇んで進めば、右手来し方に、お弁当ピックの様にとんがった31号の姿も、順光で畑越しに拝める。

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長沼線31号

 そして南を向けば、30号(標高98m)が間近だ。

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長沼線30号
碍子連が少し斜めになっている

 歩いているうちに思い出したが、以前のマップでのリサーチで、この道路は確認はしていたのだ。だが、航空写真で見た所農道の様にも見え、部外者が通れるものなのか不安に感じていた。しかし、実際に来てみれば、外回りの営業車も通る一般道の様である。もっと、ぐっと寄ってみよう。

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30号(昭和43年9月 30m)

 32号同様、塗装の劣化が進み、サビ止めの赤が目立つ。いい味わいだ。

 頭の中にあったイメージよりは大分、道端に近く建つ鉄塔である。これ程接近できるものとは思っていなかった。またこれ程周囲が、広い田園地帯であるのも、イメージしていた以上である。航空写真でリサーチしていたのに、記憶が薄れてしまったようだ(メタル・ミュージシャンの名前などもなかなか出てこないのだよ、最近)。

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30号
向こうは多摩平面

 この30号が建つのは、日野台地の豊田面。鉄塔向こうに見えているのは、一段上の多摩平面で、右手に目立つ建造物は、帝人ファーマの研究所。台地の多摩平面から上は、こうした企業施設が多い。日野自動車、富士電機、コニカミノルタそして三井不動産ロジスティクスパークなどなど。昭和恐慌の際、打開策の一つとして企業誘致を進めたその名残である。

 この30号や以前採り上げた23号などは、腕金が長短交互に並び、且つ一本角のスタイル。これは国分寺線の55号56号と同じだ。国分寺線は1961年(昭和36年)、対し此方の長沼線は1968年(昭和43年)の竣功。すると、1960年代の四回線鉄塔は、こうした形態が流行っていたと言う事なのであろうか。

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国分寺線
左55号、右56号

 30号下辺りから、31号他の老番方向と29号他の若番方向を見る。

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31号他老番方向
右手緑地が線路南に突き出した多摩平面

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29号他若番方向
向こうの丘は多摩丘陵

 29号(標高97m)も「一本角・長短交互」型だ。31号の腕金の長さは全て同じであるようだが、こちらは前回にも書いたが、おそらくは、後々嵩上げ改造されて現在の姿となったのであろう。大体上の方は下と色が異なる。順光ではそれがはっきり分かる。

 29号の方だが、これから訪ねたいと思うが、見た所30号以上に農地の只中にある様子。

 「四」につづく

2017年葉月19日
(取材は7月下旬)

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・撮影に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・標高は国土地理院地図(電子国土web)を参考にした凡そのものです

・「日野台地の地形と自由地下水」(角田清美 駒澤地理 No.48(2012))を参照させて頂きました

・これ等鉄塔の建つ場所は日野市西平山、最寄り駅は京王線長沼駅です

*昭和恐慌:前年に始まった世界恐慌の一部となる昭和5年(1930)から翌年にかけての日本の恐慌(種々の要因により景気が一挙に後退する現象)
*企業誘致:昭和11年(1936)から18年(1943)にかけ誘致された、東洋時計(セイコーエプソン)、六桜社(コニカミノルタ)、東京自動車工業(日野自動車)、富士電機製造(富士電機)そして神戸製鋼所東京研究所(シンフォニアテクノロジー)は「日野五社」と呼ばれた(括弧内は現在名)
*多摩平面、豊田面:この鉄塔の建つ日野台地は、四つの段丘面からなり、上から、日野台面、多摩平面、豊田面そして栄町面と呼ばれている。30号は豊田面にある

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Fe塔 西向きのいぬ 二

西向きのいぬ 二

 踏切を渡り、道を僅か行けば、31号は目前だ。
 農地の中に建ってはいるが、道路際に近いので、逆光だが、間近く拝むことができる。

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長沼線31号(標高100.4m)

 この長身は、当初からのものとは見えない。おそらくは、のちのちに嵩上げされたのであろうと思う。ただ、農地に建つ鉄塔になぜ嵩上げが必要となったのかは、それは分からぬ。31号と32号の間、線路北側に三階建てのマンションはあるが、架空線直下ではなくやや西に外れている。とは言っても、確かに31号と32号の径間はやや長いので、嵩上げ理由は若しかしたらマンションなのかもしれない。でも、分からぬ。

 首が痛くなるほど31号を見上げて後、少し視線を動かすと、右手遥か、ブルーベリーであろうか、青いネットに覆われた畑の、その向こうに小さく、古そうな火の見櫓が見える。

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日野市消防団第6分団第2部火の見櫓
(後日ストヴューで確認)

 六角形と思しき、上部が窄まり尖がった赤い屋根が可愛らしい、随分と華奢な印象の三本脚型櫓だ。アップで見ると、纏(まとい)をモチーフにした様な屋根飾りも独特だ。半鐘もちら見えしている(街灯の様な蛍光灯がご愛敬)。

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上部をアップ

 これは、脚元まで行ってみたいが、この広大な畑、相当遠回りを強いられそうだ。高温多湿な日盛りに、とても鉄塔以外まで訪ねる余力は、オジサンには無い。秋か冬に、再訪出来たらその時だ。
 残念ながら、カッツアイ。
(後日マップでおさらいしたら、「大踏切」を渡ってすぐの細道からそれ程の距離なく櫓まで行けた事が判明。31号からほんの少し戻るだけで良かったのだ。でも、まあ、仕方ない)

 切り替えて、気持ちを31号に戻す。
 この鉄塔の下東寄りの道路北側は、31号が建つ豊田面より一段上の多摩平面(たまだいらめん)の一部が、おおまかな三角形を成して中央線南側にほんの少し突き出し、道路面から少し高い緑地となっている(三角の頂点は道路で削られている)。その緑地から、ネムノキが一本、大きく道路上空に身を乗り出している。

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ネムノキ(上部左)と31号

 逆光なので分からないが、まだ花が残っている。

 さて、次の30号は、31号下辺りから見ると農地の只中の様だが、

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31号とその向こうの30号

果たして接近は可能なのであろうか。

 「三」につづく

2017年葉月18日
(取材は7月下旬)

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・撮影に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・標高は国土地理院地図(電子国土web)を参考にした凡そのものです

・「日野台地の地形と自由地下水」(角田清美 駒澤地理 No.48(2012))を参照させて頂きました

・これ等鉄塔の建つ場所は日野市西平山、最寄り駅は京王線長沼駅です

*多摩平面、豊田面:この鉄塔の建つ日野台地は、四つの段丘面からなり、上から、日野台面、多摩平面、豊田面そして栄町面と呼ばれている。31号は豊田面にある

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Fe塔 西向きのいぬ 一

西向きのいぬ 一

西を向いた「犬の横顔」日野市、


その丁度吻(ふん)先辺りとなろうか、日野台地の縁を西へと坂で下った住宅街に、塗装も大分傷みの目立つ、四回線鉄塔、長沼線32号(標高101.2m)が建っていた。日野台面、多摩平面(たまだいらめん)、豊田面(とよだめん)そして栄町面の四つの段丘面からなる日野台地の、多摩平面から豊田面に、私は下りてきたようだ。

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長沼線32号

 表の通りからは、駐車場越しで大分遠い。これ以上は接近不可かと、半ば諦めかけたのだが、何とは無く気になり、念の為横手から回り込むと、なんと真下を通る細道があった。然も、見れば鉄塔基部を仕切るものはガードレール一本のみで、結界はフリーだ。

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32号結界

 だが、結界は植木畑の中であった。言うまでも無く、そこは私有地である。勝手に入る事など、許されるものではない。
 まあ、致し方ない。ここは縁が無かったという事で、直下から見上げよう。

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32号(昭和43年9月 34m)

 築半世紀に至ろうかと言う、私好みの古鉄塔。風化具合も味わいが深い。

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32号

 この辺りの区間、長沼線は下段に高幡線が併架されている。これまで、その終点を含め幾度か巡った高幡線に、大分上流となるこの地で出会うのは、多少の感慨を伴うことである。
 「高幡線」のプレートは無いが、回線札にはしっかりと明記されている。

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12の架空線と高幡線回線札

 狭い場所ゆえ、余り長居するとご近所迷惑となるので、表通りに戻る。そして南望すれば、やや遠く、大分と長身でスリムな31号が、家並や駐車場の上に姿を見せている。
 さあ、ここから長沼線を幾つ遡れるであろうか。行ってみよう。

 住宅の間を縫って少し行くと、JR中央線、「平山大踏切」で右も左もやや大きくカーヴする鉄路を越える。

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左手が多摩平面
この線路を奥方向へ行けば日野線があるのだ

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平山大踏切
東京駅からの距離44km915m、幅員3.4m

 然しこの名前、一寸引っかかる。確かにここは「西平山」という地であるが、「大(だい)」の意味が分からない。それ程大きな踏切とも思えないが、近くに「小踏切」があるのであろうか。
 この踏切と、ここを含むカーヴ「豊田S字カーヴ」は、鉄道「鉄ちゃん」の皆さんの間では可也有名らしいのだが、鉄塔「鉄ちゃん」の私は、列車通過を待たず鉄塔に向かう。
 でも、どこか懐かし気な雰囲気の漂う、良い踏切だ。両方向カーヴで先が見えないのも、ちょっとスリリングで魅力的な気がする。

 踏切を渡れば、痩身長躯の31号は、もう、道の向こうに見えている。

 「二」につづく

2017年葉月17日
(取材は7月下旬)

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・撮影に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・標高は国土地理院地図(電子国土web)を参考にした凡そのものです

・「日野台地の地形と自由地下水」(角田清美 駒澤地理 No.48(2012))を参照させて頂きました

・これ等鉄塔の建つ場所は日野市西平山、最寄り駅は京王線長沼駅です

*犬の横顔:日野市を地図で見ると、西を向いたワンコの横顔に見える。「吻(ふん)」とは動物の口及びその周辺の突出部分のこと
*日野台地:日野台面、多摩平面、豊田面は関東ローム層に覆われている。一番上位で最も広い日野台面には日野自動車の工場、その下の多摩平(たまだいら)面にはコニカミノルタや富士電機また市役所、更にその下の豊田面には豊田駅(崖線下にあり北口は多摩平面、南口は豊田面に出る)、最下の栄町面には日野駅などがある。その下は浅川の流れる氾濫低地となる

九州北部豪雨に伴うどうぶつ救護本部

北の離れ 多磨霊園5区東京市養育院合葬塚

多磨霊園5区東京市養育院合葬塚

 もう、今から一年八ヶ月も前の取材なのだが、載せそびれてそのままになっていた。しかし「多磨霊園用語集」を作成しているうち、載せる必要を感じたので、この度書くこととさせて頂いた。季節も現在とは真逆な真冬時であるが、ご容赦願いたい。物件は、無縁合祀墓所(むえんごうしぼしょ)である。

 身寄りのない方々を無縁仏として埋葬した無縁合祀墓所。5区の西部、大廻り西通りと西2号通りが交差する付近の大廻り通りに面して、全七基が並んでいる。前回紹介した水場がある公園の、その西側にあたる。

 以下に七基の内訳及び建設年を記す。

 1 東京都行路病者(納骨堂より) 昭和18年
 2 青山墓地無縁 昭和10年3月
 3 東京市(都)養育院死亡者 昭和5年3月
 4 亀戸墓地無縁 昭和4年7月
 5 橋場墓地無縁 昭和2年3月
 6 多磨既設合葬地(17区より) 昭和14年9月
 7 多磨霊園無縁 昭和36年3月

 村越知世著「多磨霊園」によると、3は東京市(当時)養育院が建て、同院の死亡者を埋葬したもの。4、5は両墓地が廃止された際に当霊園に移されたもの。6は青山墓地の無縁仏を当霊園17区に埋葬してあったものを改めて移したもの。7は当霊園内で墓地整理により生じたものを埋葬したもの。等であるそうだ。1と2については詳細は記されていないが、1はおそらく園内にあった納骨堂から移されたものであろう。納骨堂は、基本的には一般利用者の遺骨を短期間保管するものだが、無縁の遺骨も保管していたのだそうだ。2は「歴史が眠る多磨霊園」さんによれば、おそらく当霊園17区に移されたのちに青山墓地から出た無縁仏であろうとされている。
 
 この中で、養育院死亡者を埋葬した「東京市養育院合葬塚」をご紹介したい。

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左に「昭和五年三月 成」とある
(造形的にはやはりアール・デコ調であろうか)

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「塚」には土へんが無い

 養育院は、明治5年(1872)に困窮者、病者、孤児、老人また障害者の保護・救済のため政府が設立したもので、のち明治9年(1876)に東京府営、明治23年(1890)に東京市営そして昭和18年(1943)に東京都営となった。初期(明治7年)から運営に関わった渋沢栄一(1840-1931)が、東京市営となって後、初代の院長を務めた。
 昭和61年(1985)、東京都老人医療センターとなり、現在は東京都健康長寿医療センターとして運営されている。設立当初は本郷の加賀藩邸跡(現東大)にあったが、関東大震災以後は板橋区にある。
 由来碑(養育院を語り継ぐ会、東京都福祉保健局)によると、多磨霊園には昭和8年(1933)以降、引き取り手のない遺骨を埋葬しているそうだ。

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左は養育院由来碑

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中央に「帰入無為楽」とある

 塚前面にある「帰入無為楽(きにゅうむいらく)」だが、意味が気になってネットで調べたが、造語であるのか、ヒットしない。よって、自分なりに意味について考えてみた。
 先ず「帰入」だが、これは元いた所に戻る事を意味する。次に「無為」。これは「無為無策」などに使われる意味のものではない仏教語で、悟りの境地や安らぎの境地、また釈迦の死であるところの入滅も意味する「涅槃(ねはん)」つまりニルヴァーナと同様な意味、消滅変化しない絶対的真理のこと。そして「楽」は、心身に苦痛なく快くやすらかなこと、である。
 以上からすると、「帰入無為楽」は、無為の楽に帰り来る、つまり、苦多き人々が、身も心も安らかなる境地に戻る、その事を願う思いを表したものであろう。

 こう彼是、この合葬塚について書いているうちに思い出した。なぜ二年前の冬ここを訪れたのか。それは何日か前に、養育院に関するテレビの報道番組(TBS「報道特集」)に接したからである。
 養育院は元来生活困窮者や身寄りのない高齢者などを救済するための施設であったが、WW2中から戦後にかけ、戦争孤児の保護を行うようになった。その中で、多くの乳幼児を含む子供たちが栄養失調で亡くなり、遺体はそのまま穴に埋められていた。それを戦後になって掘り起こし、多磨霊園の合葬墓に埋葬した―。
 このことを知り、あそこの事か、と思い当たり、この合葬塚を訪ねたのだ。

 戦争孤児は、戦争により両親を亡くした子供全般を指す(空襲や戦闘などで孤児となった場合は戦災孤児と呼ぶ)。昭和23年(1948)の厚生省調査では、沖縄を除く孤児の数は123,511人で、内身寄りのない者は7,117人となっている。
 東京では、学童疎開中などを含め親を空襲で失くし孤児となった子供が多くいた。そうした子供のひとり、昭和20年4月13日の東京北部への夜間空襲で目の不自由であった母親を失い、養育院に入った当時14歳であった男性の方の証言によると、養育院では大部屋で多くの孤児が暮らし、空腹の中、畑の掘り残しのイモや、焼いたセミを食べたそうだ。養育院と言えども食料は満足ではなかったのだ。
 この方は、養育院を抜けだしたそうだが、同様に食べ物と自由を求め、鉄条網の張られた塀を乗り越え養育院を逃げ出した子供たちは多かったという。国は、困窮の結果犯罪に手を染める孤児もいたため、治安対策の目的も持ち、孤児たちを無理矢理施設に収容する場合も多かったのである。

 日本においては、戦争被害に対する国による補償は、軍人・軍属及びその遺族に対するものが主で、孤児や空襲被災者を含め、民間の戦争被害者に対する補償は一部(引揚者・原爆被爆者など)を除いて行われていない。

*多磨霊園用語集

2017年葉月15日
(取材は2015年師走)

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・この墓所のある場所は府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅です

・村越知世著「多磨霊園」、サイト「歴史が眠る多磨霊園」さん、サイト「戦争孤児(日本)」さん、「焦土に残された12万人超の戦災孤児」(産経ニュース)、「TVでた蔵」を参照させて頂きました。また一部引用させて頂きました

・霊園ご訪問の際は、節度を持った行動をお願い致します

*東京都(市)養育院:板橋の他に千葉の安房分院、栃木の栃木分院があった
*渋沢栄一:名主の家に生まれ、のち幕臣となる。維新後政府に出仕。官僚また実業家として経済近代化に大きく貢献した。理化学研究所創設にも関わった。また社会活動にも熱心であった。
渋沢栄一記念財団HPの詳細年譜、明治23年(1890)1月1日の条には、
東京市制の施行に因り、是日より当院は東京市の管理に帰し、東京市養育院と改称す。当院事務掌理の為常設委員設置され、栄一、委員長を命ぜらる。
とある。この常設委員長が院長に当たるのであろう
*戦争孤児の数:内訳は空襲などの戦災による孤児が28,248人、引き上げ孤児が11,351人、病死などによる一般孤児が81,266人(朝日新聞「キーワード」より)。孤児の中で所謂「浮浪児」および養子となった子供は算入されていない
*補償:外国人戦争被災者に対しても行われていない。なおイギリス、フランス、ドイツ、イタリアなどは軍人、民間人、外国人の区別なく補償の対象となっている(全国空襲被害者連絡協議会HP参照)

九州北部豪雨に伴うどうぶつ救護本部

はけの下 挑発

挑発

 挑発合戦を繰り広げるDPRKとUSA。フランス、中国は緊張激化を防ぐよう両者に自制を求め、ドイツは非軍事的解決策への協力を述べ、ロシアは危機回避のため踏み出すべきと沈静化を促している。

 この問題の中で、日本政府に積極的な言動が見られないが、ただ単に対応能力がないだけなのだろうか。それとも何か思惑があるのであろうか。
 両者に対し或る意味最も近しい関係である日本、緊張緩和・非軍事的解決のために積極的に働きかけて頂きたい。何事か起きて得るものなど、失うものの大きさに比せるほどのものではないのだ。

Heavysphere IMAGES AND WORDS

IMAGES AND WORDS/DREAM THEATER
イメージズ・アンド・ワーズ/ドリーム・シアター (1992) order

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 この作品がリリースされた前後の頃、私は個人的に1970代あたりのヘヴィ系音楽、ハード・ロックやプログレッシブ・ロック(ディープ・パープルEL&Pなど)にドはまりしていたため、彼らドリーム・シアターどころか、メジャー中のメジャーであるメタリカやハロウィンすらも知らなかった。メタルで言えば、イングヴェイ・マルムスティーンディオ辺り、1980年代前半で止まっていたのである。1980年代後半以降に現れたアーティストに関しては、全く無知であった。
 よって、当作品の生まれた当時の様子は全く分からないのだが、おそらくは、可也のインパクトを伴ってメタラー諸氏に受け入れられたのではなかろうか。

 ドリーム・シアターは、プログレッシブ・ロック的様式・方法論をヘヴィ・メタルの中に取り込んだ、今日プログレッシブ・メタルと呼ばれるスタイルのオリジネーターとも呼ばれ、彼らの第二作となるこの作品は、そのプログレッシブ・メタルのスタイルを確立した作品として、「傑作」の前に「歴史的」が付くような存在とされているものである。
 コアなプログレ好きには、甘さが感じられるかもしれないが、難解に走りがちで聴き手を突き放すような取っ付きにくいプログレと、それに相反するような聴き手を抱擁するが如き甘いポップ・センスが、ヘヴィ&ハードな音像を伴ってこれほどまでに高次元で融合した作品は、そうそうお目にかかれるものではない。
 私が本作をお初に聴いたのは、多分リリースから7-8年経った頃と思うのだが、非常に驚いた記憶がある。知らぬ間にこんなバンドが出て来ていたのか、と、浦島の太郎さん状態である。メタル界ではマイルストーン的存在とされる、メタリカの「マスター・オブ・パペッツ」やハロウィンの「ウォールズ・オブ・ジェリコ」を初めて聴いたのも時期的に近い頃であったが、受けた衝撃も同じくらいであった。

 メタルと言う音楽は、聴き慣れない方にとっては、どれも同じような喧しいものと感じられるかもしれないが、そのスタイルは可也幅があり、ハロウィンやナイトウィッシュの様に親しみやすく、一般のヒット・チャートにも顔を出すような(或いはトップを得るような)、広く受け入れられている存在から、高度なテクニックを駆使して複雑怪奇な世界を造形する変態的なもの、またスラッシュ・メタル、デス・メタルそしてブラック・メタルの様に、メタル好きでも好悪が別れるエクストリームなものまで様々ある。
 当アルバムは、何れのスタイルからも適度な距離を以て様々な要素が調和している。しかも上記の様に高次元で。
 「プログレ」と銘打たれるだけあって、当然高度な演奏力による起伏の多い複雑な楽曲が展開されるのではあるのだが、旋律は歌い、時に囁く。そして音は、重く激しいのだ。なかなかに屈折した音楽を生産しながら、ポピュラーな人気も得ていた、イエスやジェネシスといったプログレッシブ・ロック・バンドや、「ロックの殿堂」入り(2013年)も果たしているプログレッシブ・ハード・ロック・バンドであるラッシュが、ヘヴィ・メタリックなベクトルでとことん深化したようなサウンド、と形容しても、遠くはないと思う。更に言えば、壮絶なインスト・パート(ヴォーカルが休む演奏人のみのパート)などマハビシュヌ・オーケストラやリターン・トゥ・フォーエヴァーを彷彿するようなジャズ・ロック或いはフュージョン的味わいも感じられる(個人の感想です。この辺りのスタイルはあまり詳しくないのでツッコまないで)。アルバム中の白眉、第5曲「Metropolis-Part 1: "The Miracle and the Sleeper"」。この一曲を聴いて頂ければ、私の言っていることも強ち的外れではないと、ご納得してもらえるではなかろうか。
 当サイトは、ハード・ロックやヘヴィ・メタルの様な、一般には親しまれていない音楽を、馴染みのない方にも知って頂きたい、と言う趣旨のもと書かれている。時に少々マニアックな作品を取り上げることもあるが、基本はあくまでこのスタンスである。これに沿って言えば、本アルバムはメタル・ビギナーの方には、是非にお聴き頂きたい、お薦めの一作である。もっと早くに取り上げるべき作品であったと、反省している次第だ。ビギナーには少々プログレ色が難解では、と言う気はしないでもないが、ごく初期の段階でも、レヴェルの高い作品に接することは非常に大事なことである。たとえ解らなかったとしても、必ず作品の中に或いは奥にあるものは、その形ははっきりと掴めなくとも、心に感じ残すことはできるものである。そしてそれは、のちのちの理解に繋がって行くはずのものである。

 三年前にリリースされたデビュー作でやや目立った、ヴォーカルと音質の線の細さは全くない。楽曲のレヴェルは数段の次元で異なるほどの向上が感じられる。音楽的深みは格段に増したが、全編に重苦しさを纏った二年後リリースの第三作の様なダークさは希薄である。本作の魅力の一つと思うが、ジャケット同様なファンタジックな匂いが、全編に漂っている。
 ドリーム・シアターと言う存在、或いはプログレッシブ・メタルと言う音楽に、若しご興味がお有りであるなら、まず当作品をお聴き頂きたいと思う。

 2017 8/13

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お気に入り度:♭♭♭♭ ビギナーお薦め度:♭♭♭♭
重度:♭♭♭♭ 硬度:♭♭♭♭ 暗度:♭♭♭ 技巧度:♭♭♭♭♭ 旋律度:♭♭♭♭♭ ポップ度:♭♭♭♭♭
〔1985年ボストンで結成される(当時は別の名)。この作品からヴォーカルがジェイムス・ラブリエに交替した。メンバー全員上手いが、ドラムのマイク・ポートノイのニール・パート(ラッシュ)を三倍ヘヴィにしたようなプレイは素晴らしい。アルバムの題名だが、ライナーノーツを見ると「music(作曲)」「 Lyric(作詞)」に当たる部分が「images」「Words」となっている。ここから来ているのであろうか official

*ヒット・チャート:メタル人気の高いフィンランドでは同国出身のナイトウィッシュやストラトヴァリウス、チルドレン・オブ・ボドムなどチャート一位になっている
*ラッシュ:カナダの三人組プログレッシブ・ハード・ロック・バンド。ドリーム・シアターが大きな影響を受けたとされている。理屈っぽい屈折感とポップ感が同居したバンド。なぜか日本では人気がない
*ロックの殿堂(The Rock and Roll Hall of Fame and Museum):ロック音楽に大きく貢献した(或いは影響を与えた)ミュージシャンやプロデューサーの栄誉を称える施設。アメリカオハイオ州にある。エルヴィス・プレスリー、ザ・ビートルズ、ザ・ローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、マイケル・ジャクソン、ABBA、ボブ・マーリーなどなど有名どころは大抵殿堂入り受賞している
*ジャズ・ロック、フュージョン:何方も大まかに言えばジャズとロックを融合させたものだが前者はロックが、後者はジャズが基調となるようだ。プログレッシブ・ロック自体ロックにジャズ的要素を取り込むのは普通なので、似ていても不思議ではない>
*白眉(はくび):最も優れているものの例え。蜀の国の秀才五兄弟中最もすぐれた者の眉に白毛があったという、三国志中のお話に由来

九州北部豪雨に伴うどうぶつ救護本部

北の離れ 多磨霊園5区公園水場

多磨霊園5区公園水場

 4区下げ花置き場の記事で触れた5区の公園にある、いにしえの建造物だ。

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5区公園内建造物
東寄り斜めから

 この建造物、公園脇にある案内図では、「記念碑」と書かれている。

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案内図

 確かに記念碑的雰囲気は醸し出しているが、しかし、「歴史が眠る多磨霊園」さんでも指摘されているように、水場であろう。ただ、水場と言っても、3区や4区などの、お参りのための水汲み用水場とは異なる、水飲み場であった様な気もする。墓域ではない公園と言う場所柄、現役水飲み場がすぐ横にある、そしてその形がどことなくローマの街角にある水飲み場(ローマ行ったこと無いけど)っぽくもある、という、それだけの根拠で言っているので、気にしないで頂きたいが。

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公園水場
正面から
足場は何故かやや左にずれる

 下の馬蹄形部分は、叩いてみると解るが、明らかに中は空洞である。おそらくは、2区や4区の「四角」水場同様、使われなくなって後、水がたまる部分に、蚊対策で蓋をしたのであろうと思う。なので、裏側に枡もある事だし、水飲み場かどうかは別とし、少なくとも「記念碑」ではなく水場であることは確実と思う。

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公園水場

 公園はランチに最適なため何度も訪れており、当然この建造物も目にはしていたのだが、なぜか今まで、気にならなかった。上部の仏像の光背の様な垂直部分のフォルムが何処となくモダンで、何とはなしに最近の建造物であろうと思っていたのだ。しかし、改めてよく見ると、いやいや、結構古そうではないか。

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公園水場
横から、裏から

 いつ頃のものであろうか。
 具体的な資料が何もないので、判断に困る。ただ、あくまでも私の印象だが、間近で眺め、手で触れた感触は、3区や4区の水場よりは、多少新しそうな気はする。デザインの系統も、他の大正・昭和初期の「アール・デコ調」建造物群とは、若干異なる様な気もしないではない。
 だけれども、それ相応な風雪は越えていそうな風化具合だ。

 この水場のある5区の使用開始は、昭和3年(1928)5月と昭和22年(1947)5月となっている。この建造物が水飲み場であると仮定すれば、その性質上、公園開設と同時に作られた可能性が高い。問題は、公園が何時の時点で作られたかだ。
 昭和3年に作られたのか、或いは昭和22年の新たな区画使用開始時に作られたのか。
 私個人の感覚としては、上にも書いたように、他の古い水場よりは多少後の時代のものであるように思うので、昭和22年説を取りたい、気がする。
 5区は十字にクロスした通路によって、公園を含め四区画に分割される。この四つの内、「側」の番号を見ると南側で左右に並んだ二区画の方が北側の区画より番号が若いので、おそらく此方が先に使用開始されたのではなかろうかと思う。北側のあとから使用開始されたと思しき区画の隣が公園なのだ。ここを見ても、私としては、昭和22年説を取りたい。

 勿論、以上は、水飲み場説も含めあくまで私の推測で、確言は全くできない。5区使用開始当初からあったものかもしれないし、水飲み用ではなく、他の水場同様水汲み用かもしれない。

 子細に見ると、上部「光背」正面の溝下部に、錆びた金属パイプのようなものが見えている。

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「光背」溝上部

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「光背」溝下部
三角の窪みの奥やや上にパイプ?

 これが水出口とすると、水飲み用としては位置が低すぎるので、矢張り水汲み用の水場であったのかもしれない。
 扇型の足場に立ち、参拝の方々が水を汲んだのであろうか。

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足場

 「風化危惧II類」に判定。この水場も、是非修理・修復をお願い致したい。

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公園水場
北寄り斜め

 ローマの水飲み場みたいと上で書いたが、こう眺めると、馬蹄形部分を台座に、仏像が乗っていてもおかしくはない様な、そんな日本的(仏教的か)デザインにも見えてくる。

 墓地と言うものは、場所柄宗教的影響の強く出る場所だ。なので、われわれが日本にある外国人墓地に、エキゾチックなものを強く感じる様に、多磨霊園など或る意味一般の街並みよりも日本的な雰囲気を外国人旅行者の方々などには感じられる場所かもしれない。霊園はあくまで慰霊・参拝の場であり観光スポットではないので、ご批判もあるかとも思うが、日本の文化や習俗を知り理解してもらうための一助として、その辺りへのアピールもあっても良いのかな、と思ったりもする。
 何れにせよ、今回紹介したような園内建造物含め、霊園自体が希少な歴史・文化遺産である。是非整備あるいは修復をして、国内外問わず、多くに人びとに親しんでもらえるようにして頂きたいと、思うのだ。

*付録
全高:約178cm(基壇含む)
上部全幅:上辺約86cm、下辺約140cm
上部厚さ:約15cm
上部裏面突起:幅約32cm、高さ約30cm
上部正面溝:幅約30cm、深さ約26cm
基壇幅:約182cm
基壇奥行:約160cm
基壇高:約32cm
基壇下幅:70cm前後
足場:手前幅約72cm奥幅約4cm、奥行約7cm
磁北に対する角度:正面は東に約55度ずれ(アナログ)

*多磨霊園用語集

2017年葉月11日
(取材は7月下旬)

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・この水場のある場所は府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅です

・「歴史が眠る多磨霊園」さんを参照させて頂きました

・霊園ご訪問の際は、節度を持った行動をお願い致します

*ローマの水飲み場:Nasone(ナゾーネ)と呼ばれ2,000以上あるとか。1874年、当時の市長が設置したらしい。様々な形態があるので似てないものは全く似てないが
*光背:仏身から放たれる光明を表したもの。後光

九州北部豪雨に伴うどうぶつ救護本部

はけの下 日本の核兵器開発

日本の核兵器開発

 嘗て日本も、核兵器の研究・開発を行っていた。海軍主導の「F研究」と、陸軍主導の「ニ号研究」だ。前者は京都帝大、後者は理化学研究所で行われた。
 どちらも基礎段階を出ぬところで、昭和20年(1945)8月の敗戦の前に打ち切りとなったが、もし仮にこれらの開発が成功していたらどのようなことになっていたであろう。連合国側に対し使用していた可能性も考えられる。勿論これらはあくまで仮定の話であるが、日本が「核使用国」となっていた可能性も無くはなかった、ということである(日本に原子爆弾を完成させそれを実際に使用するだけの技術力や生産力などがあったかどうかなどは考慮はしていない、あくまで仮のお話である)。

 核兵器の問題を考える際、われわれの側にも、こうした歴史があったことを知ることは重要であると思う。

 因みに、広島・長崎で被爆直後に現地調査し、投下された爆弾が原子爆弾であることを確認したのは、F研究、ニ号研究を行っていた科学者たちである(理研は8月8日に広島、8月14日に長崎に入っている。京都帝大は8月10日に広島に入っているが、長崎で調査したかは不明)。

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abolish nuclear weapons

August 9 2017

北の離れ 多磨霊園大石灯篭

多磨霊園大石灯籠

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大石灯籠
南より

 弥(いや)が上にも目を引く巨大なものなので、この石灯籠、以前から当然見知っていた。しかし、他の今までここで紹介してきた建造物達とは、明らかにフィールドの異なるもので、なかなか採り上げる気にならなかった。
 オリジナルによるデザインで、霊園関係者の方が霊園のために生んだ塔や水場等とは異なり、灯籠は既存のものであり、しかもそれを巨大化して・・・、何と言って良いのか・・・、そう、失礼を承知で敢えて率直に言わせて頂けば、あまり良い趣味のものとも思えなかったのだ。また、外部から持ち込まれたものであり、霊園との有機的な繋がりが希薄で、取って付けたような違和感も覚えていたのだ。
 なのだが、今回、この石灯籠前を通りかかると、スマフォが、この灯籠がポケストップであることを通知してくれた。そして、それ切っ掛けでつらつらと眺めているうちに、興味が湧いて来たのだ。今まで気づかなかったが、面白い存在、無視を決め込むのは勿体ない存在ではないか、と。

 冒頭にも書いたように、この灯籠、霊園オリジナルではなく、根津嘉一郎氏(1860-1940)の寄進によリ置かれたものである。
 根津嘉一郎(ねづかいちろう)さん、と言ってもご存知の方は少ないであろうが、東武鉄道社長などを務め、明治から大正・昭和にかけ活躍した実業家である。商の青銅器(一見の価値あり)や、国宝「燕子花図屏風」(尾形光琳)で有名な、あの、東京南青山にある根津美術館の収蔵品の多くをコレクションしていたお方である。

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南西寄りから

 その嘉一郎氏が生前寄進しその死の五か月後に設置された大石灯籠、「多磨霊園」(村越知世著)には、高さ四十尺(一尺は約30.3cm)とあるので、約12m程と言うことになる。後ろのケヤキと比べて頂けば、その大きさはイメージし易いのではなかろうか。近くより仰ぐと、その重量感と圧迫感は、なかなかのゴリ押しメタル級である。

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西寄りから

 石灯籠本体や台座には、種々刻まれた文字が見られる。
 表には、

 萬霊 供養
 増上寺徹水拝書

裏には、

 昭和十五年 六月建之

とそれぞれ刻まれている。
 昭和15年と言えば1940年、日中戦争只中、太平洋戦争開戦の一年前。可也の星霜をこの霊園で経ているが、その割にはコンディションは良好の様に見受けられる。

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表と裏

 横上部を見ると、

 寄進人 故 根津嘉一郎
 相続人 根津藤太郎

その下基部には、

 根津家工事監督
 松崎金太郎

とある。

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横上部と下部

 これ等に見られる名前は、「徹水」は増上寺81代法主の大島徹水氏、「根津藤太郎」は後の二代目嘉一郎氏、また、「松崎金太郎」は嘉一郎氏(初代)の実家庭も手掛けた青山の造園家の方だそうだ(武蔵学園記念室支援サイトさん他を参照させて頂きました)。

 種々のタイプがある石灯籠の中でこれは何型なのかは分からないが、全体に装飾がシンプルな印象だ。笠に蕨手(わらびて。先端が巻込んだ形)と呼ばれる意匠もないし、火袋(火を灯す部分)下の中台にも基礎部分の台座にも何の飾りも彫り込まれていない。確かに、この大きさで装飾が普通にあったら、少々くどいかもしれない。
 大きさと言えば、こちらが日本一の大石灯籠かと思いきや、京都の庭園(レストラン)「高瀬川二条苑」にある「吾妻屋風灯籠」が高さ13mで日本一なのだそうだ。惜しい。

 ところで、この石灯籠の、材は一体何であろうか。鉱物学的知識もないので良く解らない。しかし、ヒントとなりそうなものが裏下部にある。

 石工 出口福松
 香川縣小豆郡豊島村工場 作

 と、銘が刻まれているのだ。

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作者銘と「豊島村」アップ

 ここにある、小豆郡豊島村(しょうずぐんてしまそん)は現在の小豆郡土庄町(とのしょうちょう)に含まれる豊島(てしま)で、「豊島石」という古第三紀系の角礫凝灰岩の産地として有名な島。豊島石を使った「豊島石灯籠」は地域ブランドとなっているという。こうした石灯籠は、桂離宮(京都)や後楽園(岡山)などに多く置かれており、また白峯寺十三重塔西塔(元享4年(1324) 香川)、家浦八幡神社鳥居(文明6年(1474) 豊島)、往来神社鳥居(延徳2年(1490) 岡山)など、灯籠以外にもこの石を使ったものが各所に残されているそうだ。

 これらを見ると、その作られた場所からして大灯籠は豊島石製であろうと思いたくなる。しかし、疑問もある。この石は火には強いが水に弱く風化しやすいそうだ。そうした余り強固ではない石で、この様な超ヘヴィ級の石灯籠を作るものだろうか。それに、「角礫」と言う割には礫(小石)らしきものは見えない。色合いなどからして花崗岩のようにも見える。然し花崗岩なら、わざわざ豊島で作る必要性が解らない。それとも、上部は豊島石で力の掛かる台座部分など下部は花崗岩なのだろうか(アップ写真など花崗岩っぽい)。
 あれこれ考えても、鉱物に関しても灯籠に関しても全くのトーシローゆえ、何製であるのか、折角のヒントがあったのに、私には答えが見つけられない。
 しかし何れにしろ、この巨大な石灯籠を瀬戸内海の島から東京まで運んだのか、すごいな。と思ったのだが、考えてみれば、石灯籠が霊園に置かれた昭和15年当時は、あの「大和」「武蔵」建造真っ只中の頃である(大和は昭和11年(1936)起工、昭和16年(1941)就役。武蔵は昭和13年(1938)起工、昭和17年(1942)就役)。それを思えば、この石灯籠を運び組み上げるくらいは驚くに当たらない事である。余り昔をなめては失礼だ。

 最後に、大石灯籠の建つ場所であるが、シンボル塔の北、名誉霊域通りと東4号通り・西4号通りとが交差するロータリーの中である。正門(南門)から入れば真っ直ぐ正面方向であるから非常に解り易い。ロータリー内にはベンチが幾つか置かれ、中に立ち入れるようになっている(灯籠北側は植木と植木の間にほぼ全てと言ってよいくらい、まだ大分小柄だがジョロウグモの網が張られており、巣を破壊せずに接近するのは、なかなかに難儀なかことであった)。
 私は知らなかったが、石灯籠は元からこの場にあったのではなく、元は正門近くにあったようだ。平成15年(2003)、その場所に合葬式墓地が新設される際、現地点に移設されたらしい。
 然し、偶然か、その移った場所は、寄進者である根津嘉一郎氏墓所のすぐ傍らなのだ。墓所は石灯籠南、距離にして40mほどの所だ。

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初代根津嘉一郎墓所と五輪塔

 この隣、正面から見て右手(石灯籠側)の大分すっきりとした墓所は、初代の遺志を受継いだ二代目嘉一郎氏のものだ。

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二代目根津嘉一郎墓所と卒塔婆

 一見、右手と左手何方が初代のお墓か解り難いが、五輪塔の一番下の立方体「地輪」の横に、

 根津嘉一郎
 昭和十五年一月四日寂

と彼の命日が刻まれているので、左手側墓所が初代で間違えないであろう。

*多磨霊園用語集

2017年葉月7日
(取材は7月下旬)

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・この大石灯籠のある場所は府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅です

・「歴史が眠る多磨霊園」さん、「文化財としての讃州 豊島石」(香川大学工学部)、を参照させて頂きました

・霊園ご訪問の際は、節度を持った行動をお願い致します

*根津美術館:1940年二代目嘉一郎氏が初代没後に財団を設立し翌年開館。オフィシャル・サイトには、2016年3月末時点での収蔵品は7,420点、1940年の財団設立当時は4,643点とある
*商(しょう):紀元前16世紀頃から前11世紀頃まで続いた中国最古とされる王朝。「殷(いん)」と呼ばれることが多い
*豊島村:昭和30年(1955)周辺の村と共に合併され現在の小豆郡土庄町となる。豊島は、1980年代大量の産業廃棄物投棄問題が起こった。現在島には豊島美術館がある
*角礫凝灰岩(かくれきぎょうかいがん):どの様なものか詳細は分からぬが、角礫は砂よりは大きい岩石の破片、凝灰岩は火山灰などが固結した堆積岩であるので、角礫を含む凝灰岩、ということであろうか
*古第三紀(暁新世・始新世・漸新世):6,600万年前から2,303万年前。豊島石が生まれたのは約3,000万年前
*白峯寺(しらみねじ):真言宗。四国八十八箇所霊場第八十一番札所。保元の乱(1156)で配流された崇徳上皇は当地で荼毘に付され陵墓が設けられた。十三重塔は東塔・西塔ともに国指定重要文化財。西塔は高さ562cm
*家浦八幡神社、往来(ゆきき)神社:前者の鳥居は県最古の豊島石製鳥居で県指定文化財、後者の鳥居は高さ276僂埜指定文化財
*寂(じゃく):仏教の僧が亡くなることを指す語だが、初代は仏門に入っていたのであろうか

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