MYSTIC RHYTHMS

日常雑記、音楽、鉄塔そして自転車など

ミスティック・リズムス―多摩の住人が綴る多摩な日々

歴史遊歩 道場―法台寺

道場―法台寺

 廃線となった送電路線、ファンタジー小説「鉄塔 武蔵野線」で有名な旧武蔵野線跡を訪ねたのち、再編後の武蔵野線鉄塔12号(片山線9号)と13号が建っていた新座市道場(どうじょう)のその地名の大元となったと言うお寺、法台寺を訪ねる。

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法台寺周辺航空写真
2019年(令和1年)10月30日国土地理院撮影

 「h」が法台寺、「E17」が関越自動車(と新座料金所)、「kr」は黒目川。黄●は旧武蔵野線10-12号(現堀ノ内線1-3号)鉄塔、水玉は片山線8-9号鉄塔。片山線9号は旧武蔵野線12号と現堀ノ内線1号を兼ねるので、黄色と水色半々。
 道場に建つ、赤白の巨大な片山線9号鉄塔からは、

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道場に建つ片山線9号
お寺は画像右手方向

畑中や住宅の間の道を行き、約500m。

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浄土宗大平山法台寺

 大平山広沢院法台寺の山門だ。
 山門を潜ってお邪魔すると、すぐ左手にコンクリート覆屋があり、

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覆屋

中には関東でお馴染みの、(秩父産)緑色片岩製の板碑が左右と正面の三面に並んでいる。

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板石塔婆

 解説には「板石塔婆(いたいしとうば)」とある。
 全部で11基あるそうだが、ここには10基が収められている。
 見たところここにあるのは、名号(仏の称号)9基、種子(しゅじ。仏を表す梵字)1基。民俗資料館「れきしてらす」に、種子のものが1基移された様だ(中央右から二番目にその塔婆の代わりに小さな解説板が置かれている)。

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2枚アップ

 これは、上画像の左から4番目「南無阿弥陀仏」の6字名号塔婆と5番目の種子(梵字)塔婆のアップ。左の6字名号のもの(高さ約2m)には「貞和三年一月十七日」の日付が見える。「貞和」は北朝の元号で、その3年は西暦1347年に当たる。ここにある6字名号板碑は、1313年(正和2年)から1384年(至徳元年)までのもので、フォントは時宗系の楷書体、墓塔的意味を含むものもあると、解説にはある。
 右の種子塔婆は、ここにはないもう1基とセットでご夫婦の逆修(ぎゃくしゅう。生前に死後の冥福のため仏事を行う事)のためのものだそう。ここにあるのは夫、れきしてらすにあるのは妻のものと言う。しかしだとしたら、何故離れ離れにした?お気の毒ではないか?

 板石塔婆覆屋の前には、お坊様の立像(りゅうぞう)と座像がそれぞれ一基づつ。

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他阿上人立像

 向かって右の立像は、他阿真教上人(たあしんきょうしょうにん)(1237-1319)。
 鎌倉時代の1306年(徳治元年)、遊行(ゆぎょう、諸国行脚)でこの地に立ち寄った時宗(じしゅう)の他阿上人が、当時は「宝台寺」であったこのお寺を、時宗の道場とした。これが、ここ「道場」の地名の由来という事だ。まさにこのお方こそ、「道場」生みの親である。
 他阿上人は、正式には「他阿弥陀仏」で、1278年(弘安1年)に時宗の宗祖一遍(遊行上人)(1239-1289)に師事。一遍没後に後継者に推され(遊行上人二世)、時宗の教団化や定住化を図り、寺や道場の建立を積極的に進めた人物。この他阿上人こそ、時宗の実質の開祖であるとの見解もあるそうで、一遍と共に「二祖上人」としてその功績を称えられていると言う。

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観智国師座像

 向かって左の座像は普光観智国師(1544-1620)。
 こちら正式なお名は、貞蓮社源誉上人普光観智国師存応慈昌大和尚。少し前に鉄塔記事で触れた、多摩郡由木村の出身で、父由木利重は北条氏照家臣で上人5歳の時に八王子城で討死。その菩提を弔うため10歳で「宝台寺」に入り修業し、慈昌の名を授かったと言う。のち1561年(永禄4年)、鎌倉の感誉存貞上人に師事して浄土宗に改宗。その頃、当時は宝台寺から法台寺に改称されたらしい。
 観智国師は、1584年(天正12年)に増上寺12世住職となり、1590年(天正18年)に江戸に入った徳川家康の帰依を受け、増上寺は徳川家菩提寺になったのだそうだ。家康の葬儀も、観智国師が導師(葬儀の中心となる僧)を務めたと言う。斯様な国師と徳川家との関係からか、よく見ると覆屋の柵に付けられた紋は三つ葉葵だ。
 なお、何方の上人も、本堂に木造座像(他阿上人は南北朝時代の作で県指定有形文化財、観智国師は江戸時代初期の作で市指定有形文化財)が安置されている。

 更に奥へ、おじゃま。

 正面には、大きく御本堂(標高32.8m)。

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本堂
ご本尊は阿弥陀三尊

 現本堂は1998年(平成10年)落慶と新しいが、昔のものは観智国師との縁で芝に移る前の増上寺旧本堂を譲り受けたものだったそうだ。
 法台寺の縁起だが、1180年(治承4年)、源頼朝の命により「廣澤の清浄殿」(館)が建てられたのがそもそもの原型と言う。平安の頃、この辺りは広沢氏が治め片山郷の「広沢荘」と呼ばれていた。相模国の有力な武士であった広沢実方(1141-?)が、久寿2年(1155年)の大蔵合戦(秩父氏の家督争いに源氏内部の同族争いが結びついたもの)で源義朝の子・義平に従って戦功があり、翌年その恩賞として武蔵国新座郡広沢の地を賜ったのだと言う。
 清浄殿は、御嵯峨天皇第一皇子で皇族初の征夷大将軍となった鎌倉幕府6代将軍宗尊(むねたか)親王(1242-1274)が、3代将軍源実朝(さねとも)(1192-1219)の室久米御前の菩提を弔うため、1266年(文永3年)に「廣澤院宝台寺」と改められたとされる。これが後に、上記の如く観智国師により「法台寺」となった訳だ。

 当寺開山に大きく関わる久米御前は、実朝死後出家し、清浄殿に隠棲していたという。

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久米御前像

 法台寺ご住職(岩崎信丈氏)によれば、久米御前(法台禅定尼)は1219年(建保7年)1月の実朝横死(おうし)の際遺骨を持ち、本多、浅海、並木、貫井の家来四名(これら人々の姓は檀家はじめ今も周辺に多いとか)と共に当地に逃れ、その年の秋(承久元年)に亡くなったと言う。像手前の供養塔には、

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供養塔基部

「源實朝室 久米御前塔」と、側面に刻されている。
 御前の像は、数珠を握って南方、即ち鎌倉の方を見据えている。久米御前は、鎌倉幕府御家人、千葉常胤(1118-1201)の娘である。しかし、実朝は側室を持たなかったことが有名だが、とすれば久米御前の存在は何なのであろう。私には、詳細は不明だ。

 よくあるパターンだが、ここは嘗て地域初の学校があった場所であると言う。

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学校発祥の地

 南南東約230mに、市立片山小学校があるが、元はこの境内に「黒目学校」として1874年(明治7年)に開校したとある(1925年に現在地へ移転)。

 お寺との直接の関連はないのだが、当寺院、実は本堂裏手に、

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片山富士

「片山富士」と呼ばれる富士塚(高さ約7.2m、直径約35.3m)がある。富士塚は、富士登山が叶わぬ人たちのために築かれた、富士山信仰に基づくミニチュア富士山である(例:こことかこことか)。
 残念ながら、赤い屋根付き橋の向こうにある富士には、許可なしには登れない。

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登拝証が必要

 この表示に○に吉の字のロゴがあるが、これは以前清瀬市の「中里富士」にも関わっていた様だと書いた「丸吉講」のものである。「まるよし」ではなく「まるきち」と読む。
 丸吉講は、江戸後期に浅海吉右衛門が中心となった富士講(富士山信仰の講社)である。吉右衛門さんは、ここ道場の南に接する片山の出身である。彼は富士登山33度の記念に、1831年(天保2年)、当境内に富士を築いた。

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山に丸吉、のロゴ

 丸吉講は、主に新座市を中心に活動したもので、新座市及び周辺エリアにある丸吉講が築いた富士は10を超えるようだ。で、そのなかでここは最初に築かれたものと言う。やはり地元、と言事であろうか。

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法台寺・片山富士航空写真
2019年(令和1年)10月30日国土地理院撮影

 黄★が富士塚、「1」は山門、「2」は覆屋、「3」は本堂、「4」は久米御前像。富士が本堂すぐ裏手なのが、お分かり頂けるであろう。
 しかし、なぜ法台寺境内に築かれたのかは不明。

 お邪魔致しました。
 ―撤収。

2025年弥生9日
(取材は1月下旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・ご訪問・ご探訪の際は、マナーを守り節度ある行動をお心がけ頂けますよう、お願い致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
・参照:新座市HP、清浄光寺(遊行寺)HP、「猫の足あと」さん、埼浄青HP、プチ・ぶんか村HP「特集 久米御前」、「そうだ京都、探そう」、「石仏と石塔!」さん、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は埼玉県新座市、最寄り駅は西武池袋線保谷駅です

*広沢実方:河内源氏類代の家人でもあった波多野氏の一族。頼朝に従い各地で戦功
*片山:武士団片山氏が治め、承久の乱後に丹波国船井郡に移る。新座市片山は道場の南側にある
*板石塔婆:新編武蔵風土記稿には全13基とある様だ
*緑色片岩:玄武岩等の火成岩が深部で高温高圧による広域変成作用を受けてできた岩石
*実朝の側室:一般に実朝は側室は持たなかったとされるので、久米御前の存在には謎がある
*禅定尼:仏門に入った在家の女性のこと
*講社:同じ対象を信仰する人々の寄り合い。富士講は選ばれた講員が代表として富士参拝登山を行った。外れた人などのために富士塚が作られたとされる

(スマートフォン版は通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

Heavysphere SPELLBOUND

◆★スペルバウンド/タイガース・オブ・パンタン order

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SPELLBOUND/TYGERS OF PAN TANG (1981)

 ハード・ロック/ヘヴィ・メタル好きにはお馴染みのギター・ヒーロー、ジョン・サイクスが昨年(2024年)12月に亡くなった。享年65。人生の長さは人それぞれ、人さまざまであり、その内容もまた人それぞれ、人さまざまであるから、一概に、早すぎる―と言う様な事は言えないが、それでも、一般的に一つの人生の終わりとして見れば、個人的にはやはり、早すぎる―との感は否めない。

 彼は、1980年代には数多く存在したギター・ヒーローの一人であり、特にHR/HMの世界では傑出した存在の一人であった。1970年代からのリッチー・ブラックモア、次世代のゲイリー・ムーアマイケル・シェンカーエディ・ヴァン・ヘイレン、そして更にそれに次ぐランディ・ローズイングヴェイ・マルムスティーンらと共に1980年代を彩ったギター・ヒーローの一人であった。
 本作は、のちに、シン・リジィやホワイトスネイクでブレイクするそのジョンが、表舞台に現れた最初の作品と、そう言えると思う。
 バンドは、1978年に結成され、1980年にデビューしたNWOBHMを代表する存在の一つ。ジョンは、翌1981年リリースの2ndアルバムである本作から参加した。

 プレイとしては、彼の特質であるゲイリー・ムーア直系とも言える様なエモーショナルであり同時に硬質な高速ギターは、まだ発展途上との印象は拭えないが、それでも、同時期のギタリストたちの中で、明らかに光度が一回り大きな輝きを放っているのは一聴瞭然である。少し後の1983年に、まだ無名であったイングヴェイ(スティーラー時代)を、すごい奴がいる、といち早く見つけ出していた、当時の私のHR/HM師匠である友人のO君は、当然ジョンの事もいち早く見つけ出し、ジョン・サイクスすげーぜ、と話していたのを思い出す(インターネットも無い時代に、当時のO君ほんとすごかったなあ)。

 本作だが、ジョンはすごいとは言えまだ発展途上であるなか、可也に目立っているのはもう一人のジョン、本作から参加のジョン・デヴァリルのヴォーカルである(紛らわしいので以下は本名のジョナサンで)。
 一寸ポップス系の歌いまわしで、若干の軽さ線の細さは否めないが、ジョナサンは非常に表現力豊かで、安定感もあり、同時期の若手HR/HMヴォーカルの中で、なかなかに突出している存在。何方かと言えば本作など、歌ものとして十分にアピールする作品であると思う。
 アルバム全体としては、ハード・ロックとヘヴィ・メタルの中間に浮いたような形で、ハード・ロックとしてはデフ・レパードの様なモダンさは薄く、ヘヴィ・メタルとしてはアイアン・メイデンの様な革新性はない。けれども、幾つかの曲は、ジョンのギター・プレイ含め新たな時代の開幕に相応しいクォリティーに達していると思う。
 アルバム全編に漂う弾けるような躍動感と言い、その粗削りなザラツキ感と言い、NWOBHMの、あの熱い空気と、あの激しい衝動を、もっともよく伝える作品の一つと、そう言えると思う。


TYGERS OF PAN TANG "Don't Stop By"
オフィシャルMV

 ジョンは、全体として俯瞰すれば、その才能の割には活躍の場に恵まれなかったギタリストと、そう印象される。タイガース・オブ・パンタンは彼を世に送り出してはくれたが、ジョナサンを除く他メンバーとの力量の差は(失礼ながら)大きく、彼が落ち着ける場所ではなかった。脱退後の1983年のシン・リジィへの参加は大きな出来ごとであったが、残念ながらバンド自体の寿命が尽きスタジオ・アルバムは「THUNDER AND LIGHTNING」(1983)一作のみしか参加できなかった。翌1984年と1987年にはホワイトスネイクの二枚のアルバム(「SLIDE IT IN」のUSミックスと「1987」)への参加が叶い大きく力を発揮したが、これも残念ながらデヴィッド・カヴァーデイルとの関係悪化で後が続かなかった。
 以降は、自身のバンド、ブルー・マーダーやソロでの活動となるが、大きな活躍はできない状態が続いた。歴史に「若しも」は無意味かもしれないが、若しもシン・リジィがもう少し続いていたら―、


THIN LIZZY "Cold Sweat"
オフィシャルMV

若しもホワイトスネイクでもう少し活動出来ていたら―、


WHITESNAKE "Looking for Love"
オフィシャルMV

と考えてみたくなってしまう。
 ジョンの活躍した1980年代ともなると、ロック・ギタリストはブルースの影響の薄い或いは全くないタイプが主流となるが、ジョンは明らかにブルース系統のスタイルであり、そういう意味でもシン・リジィやホワイトスネイクの様なブルース・ロック系ハード・ロック・バンドには、非常にマッチしているように思える。それだけに猶更、残念である。

 R.I.P

 2025 3/5

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お気に入り度:♭ ビギナーお薦め度:♭♭♭
重度:♭♭ 硬度:♭♭♭ 暗度:♭♭ 技巧度:♭♭♭ 旋律度:♭♭♭ ポップ度:♭♭♭
〔プロデューサーはクリス・タンガリーデス。ジョナサンのインタビュー(2020年8月)によれば、モーガン・スタジオでの本作レコーディング中、隣にはジョン憧れのゲイリー・ムーアがレコーディング中で、ゲイリーはジョンに1950年代レス・ポール(ギター)を貸してくれ、数曲は其れでレコーディングしたと言う。
タイトルの「spellbound」は魅了された、魔法にかかった等の意〕

・参照:ウィキペディア英語版、サイト「DIFFENDERS OF THE FAITH」(ジョン・デヴァリルのインタビュー)、他

*タイガース・オブ・パンタン:ファンタジー・SF作家マイケル・ムアコックの「エルニボネのエルリック」に由来する名と言う
*ホワイトスネイク:ジョンが作曲を担当した「1987」アルバム(US盤はセルタイトル、日本盤は「サーペンス・アルバス」のタイトルで共に収録曲が二曲少ない)は大ヒットしたが、リリース前にジョン含めメンバーは全員入れ替えられてしまった。なおジョンの参加だが、「SLIDE IT IN」はオリジナルUK盤からギターとベースを差し替えたUS盤のプレイのみとなっている。「1987」は作曲など全面的に参加している
*NWOBHM:「New Wave Of Blitish Heavy Metal」の略。1980年前後に起きたヘヴィ・ロックのムーヴメント。背景には当時のイギリスの高い失業率などの社会不安があったとされる。「ヘヴィ・メタル」とはあるが当時は未だ分化が明瞭ではなくハード・ロックも含まれる

§凡例

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Heavyじゃないsphere FANTASIA ON GREENSLEEVES

グリーンスリーヴスによる幻想曲/レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ、ラルフ・グリーヴズ order

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Fantasia on Greensleeves/Ralph Vaughan Williams, Ralph Greaves (1934)

 私が初めて嵌ったクラシック音楽の作品は、以前紹介したヴィヴァルディの「四季」であった。あれは10代はじめの頃である。で、その次は何であったか―、と考えるに、それは今回取り上げた「グリーンスリーヴスによる幻想曲」だ。
 ―記憶の脆くなった糸を手繰り手繰り寄せると・・・、不登校ひきこもり真っ最中の10代半ば、NHKの名曲アルバムで聴いたのが切っ掛けであった。イギリスの田園風景をバックに流れる、ハープとフルートが印象的な、弦による静かで優し気な文字通り幻想的な曲。これに可也の感動を覚え、中学のクラスメイトであった友人に話すと、彼もまた同番組で聴いて大感動したと語り、二人で盛り上がった。
 なのだが、何と言ってもインターネットどころか家庭用ヴィデオもまだない時代、誰の何と言う曲か、大凡は覚えているが確かめる手段が乏しい。何とかウィリアムズの、グリーンスリーブスなんとか・・・、とこれを手掛かりに図書館で調べ捲ったか何かして、やっとのことで作曲者とタイトルを知った、と記憶している(余りに昔のことで自信はない)。

 交響曲作家としても捉えられているレイフ・ヴォーン・ウィリアムズ(1872-1958)(レイフが名、ヴォーン・ウィリアムズが姓。長いので以下RVW)は、民謡収集・研究に熱心であった。そんな彼が、オペラ「恋するサー・ジョン(Sir John in Love)」(1928)第3幕にグリーンスリーヴスを引用したのが、この曲が生まれる大元であった。
 曲はグリーンスリーヴスのみではなく、「恋するサー・ジョン」第2幕に使用された同じイギリス民謡「ラヴリー・ジョーン(Lovely Joan)」が、サンドイッチの様にグリーンスリーヴスの間に挟まれている。
 ヴァイオリンとヴィオラでお馴染みのメロディが凡そ開始から1分30秒辺りで断ち切られるように途切れ、今度はチェロとヴィオラで「ラヴリー・ジョーン」となる。やがて2分30-50秒辺りからフロートのソロとなり、再び「グリーンスリーヴス」に戻って行く。
 この編曲を行ったのは、実はRVWではなく、別の作曲家ラルフ・グリーヴズ(Ralph Greaves)(1889-1966)。本作の魅力はこの編曲による部分が大きいと思うので、もっとグリーヴズの名も強調されていいと思う(RVWとグリーヴズは親しかったようでやりとりした手紙が残っている)。
 この間奏的とも言える「ラヴリー・ジョーン」の部分、フルートによる独奏が印象的だが、これが妙に日本的で、フルートが和楽器の横笛(篠笛だろうか)、絡むハープが琴のように聞こえてしまう。ヨーロッパの民謡は、私の愛するハード・ロック/ヘヴィ・メタルの世界でも時折引用されたりするが、可也日本的な旋律に共通するものがあって、その辺りの事は全く無知だが、面白い。


Fantasia on Greensleeves
エイドリアン・ボールト指揮、ウィーン国立歌劇場管弦楽団
ウィーン国立歌劇場管弦楽団オフィシャルMV

 元ネタの「グリーンスリーヴス」は、原曲・作者及びその起源などは、厳密には不明だそうだが、RVWの故郷であるイングランドとお隣スコットランドの境辺りのエリアで16-17世紀頃に生まれたとされる民謡。「恋するサー・ジョン」の元ネタ、1602年に出版されたシェイクスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」に登場しているので、もうその頃は有名だったようである。

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My Lady Greensleeves(1863)
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
(パブリックドメイン)

 「グリーンスリーヴス」はもう誰にもお馴染みの曲で、私が網膜裂孔でお世話になった病院の呼び出し機でも使われていたし、電話の保留音でもよく聞く。
 ロック音楽の世界でも使われており、ジェフ・ベックのソロ・デビュー作である、ロッド・スチュワートを発掘した第1期ジェフ・ベック・グループ「TRUTH」(1968)でも、ちょっと唐突感はあるが12弦ギターの美しい音でプレイされている。


Greensleeves
ジェフ・ベック
オフィシャルMV

またレインボーも、その初アルバムに「16世紀のグリーンスリーヴス」と言う名曲があり、リッチー・ブラックモアはliveでは前奏的に「グリーンスリーヴス」を爪弾いている。
 本作の途中に導入されている、「ラヴリー・ジョーン」もロック音楽で使われている。1984年にエマーソン、レイク&パーマー再結成が画策された際、エイジアでの活動中であったカール・パーマーに代わりコージー・パウエルが参加し「エマーソン、レイク&パウエル」となったが、その三人がたった一枚残したアルバムに収録された「Touch and Go」で思いっきり引用されている。

 日本では、嘗て性急なまでに近代化・西洋化を焦った時代の影響か、またWW2後の急激なアメリカ文化流入の影響か、民謡含め在来の日本的なものは「古い」「ダサい」「かっこわるい」とされがちな傾向・風潮が今でも強いが、イギリス含めヨーロッパの人たちは、そうした傾向・風潮は希薄で、民謡に愛着を持ちまた民謡が染みついているのであろうか。
 或いは、アメリカでロックン・ロールとして生まれ、ヨーロッパで育ち「ロック」となったロック音楽であるから、土着の民謡とは何処かしらの連続性があり、現代的なポピュラー音楽とは全く隔絶した日本の民謡とは性質が異なる、と言う事なのであろうか。

 なお、おなじ「幻想曲」と付くもので「トマス・タリスの主題による幻想曲(Fantasia on a Theme by Thomas Tallis)」(1910)と言う作品がある。これはRVWに最初に評価を齎した曲と言うが、作品としての充実度は、確かにこちらの方が高いかもしれない。ご興味があれば、是非「グリーンスリーヴス」と共にお聴き頂きたい(大抵両曲はカップリングされてるけど)。

 2025 3/2

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お気に入り度:♭♭ ビギナーお薦め度:♭♭♭♭
重度:♭ 硬度:♭ 暗度:♭ 技巧度:♭♭♭ 旋律度:♭♭♭♭ ポップ度:♭♭♭
〔本曲はRVW指揮により1934年9月ロンドンで初演された。彼は近現代の音楽家としてはめずらしく9曲も交響曲を残している。日本での知名度は低いが、本国では「惑星」のホルストより有名で評価も高いと言う。数少ないラヴェルの弟子のひとり。幼少時に父と死別し母の実家である陶器メーカーのウェッジウッド家で育った。チャールズ・ダーウィンは大叔父にあたる。
私が聴いている本作は以下のもの。
左は、エイドリアン・ボールト指揮、ウィーン国立歌劇場管弦楽団による1959年3月録音盤(上のMVの演奏)。やや力強く線の太い音で私的には好み(パブリックドメイン)。ボールトはRVWの作品の多くを初演している。
中は、ユージン・オーマンディ指揮、フィラデルフィア管弦楽団による1957年4月録音盤。やや繊細な響きでキレがある(パブリックドメイン)。
右は、オルフェウス室内管弦楽団による1985年録音盤。線がやや細く、ややテンポ速め。新しいレコ―ディングを求める方にはいいかも〕

・参照:ヴォーン・ウィリアムズ財団HP、ドイツ語版ウィキペディア、「弦楽館」さん、新日本フィル「note」(あなたに知ってもらいたい人がいる!・・・イギリスの大作曲家、ヴォーン・ウィリアムズ)、他

*レイフ:ヴォーン・ウィリアムズのファーストネームは「ラルフ」と読むのが普通だが、ご本人は古風とされる「レイフ」の読みにこだわったそう。姓の「ヴォーン・ウィリアムズ」は二重姓である
*ウェッジウッド(Wedgwood):ジョサイア・ウェッジウッド(1730-1795)が創業した世界最大級の陶器メーカー。ジョサイアはダーウィンの祖父、RVWの高祖父にあたる。つまりRVWはジョサイアの玄孫(やしゃご)となる
*トマス・タリスの主題による幻想曲:イギリスのパイセン音楽家トマス・タリス(1505?-1585)によるイングランド国教会カンタベリー主教のための詩編曲の第3曲が元ネタ。弦楽による第1アンサンブルと小規模な第2アンサンブルそして弦楽四重奏の3群による編成で教会音楽的イキフンを醸している

§凡例

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名所漂泊 緑ヶ丘霊園

緑ヶ丘霊園

 川崎市営緑ヶ丘霊園内に建つ、JR新鶴見線鉄塔を訪ねたが、霊園好きな私としては、鉄塔抜きでも心休まるエリアである。

 当緑ヶ丘霊園、名だけ見ると新しそうな霊園だが、実はWW2真っ只中の1943年(昭和18年)開園という、なかなかに歴史あるものである。ただ、地元川崎の方々は「津田山墓地(霊園)」と呼んでおられるそうなので、若しかしたら元々は津田山墓地と言う名だったのかもしれない。多磨霊園も、もとは「多磨墓地」であったし(開園12年後に改称)。
 なお、「津田山」とは霊園麓のJR南武線駅名ともなっている、霊園の反対側に当たる駅東にある丘の名で、元は七面山と呼ばれていたものが、1927年(昭和2年)に二子玉川―溝ノ口間に溝ノ口線(現東急田園都市線)を開設した玉川電気鉄道の津田社長が、遊園地構想など開発を手掛けたことに由来して、現名称となったと言う。

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緑ヶ丘霊園航空写真
1944年(昭和19年)11月7日陸軍撮影

 上は、霊園開園1年後の航空写真。「nl」が南武線、「ts」が津田山駅、右の白→の辺りが津田山(七面山)、「hr」は平瀬川。同年4月に国有化される前は、南武線は南武鉄道、津田山駅は日本ヒューム管前停留場であった。南武線と霊園の間にある白っぽいエリアが、日本ヒューム管川崎工場である。
 下は上と同エリアの現在の航空写真。

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緑ヶ丘霊園航空写真
2019年(令和1年)10月30日国土地理院撮影

 上にはまだ沢山写っていた丘上の畑は、すべて墓域に変わり、周辺の農地はほぼ宅地に変わっている。津田山(七面山)など、地形そのものが大分変わっている。

 霊園だが、そこは丘上に展開する多磨霊園、と言う印象である。

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噴水広場(標高48.1m)
「やすらぎの泉」

 公園墓地と言う同じコンセプトで造られた為か、全体に多磨霊園とイキフンが似ている。多磨霊園とは開園が20年違いで時代が近い所為もあろうかとも思うが、似ている。
 噴水広場は、上二つの航空写真の白↓だが、1944年写真にはまだ噴水はない。噴水は1981年(昭和56年)に作られたもので、多磨霊園の噴水塔(現シンボル塔)とは、大分時代が異なる。
 広場は、管理事務所のある津田山口門とは約13m、その下の南武沿線通りからは約31mの高低差がある。北の多摩川、南の鶴見川に挟まれた結構な丘の上である。

 園内は舗装路が整備されているが、

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園路

平地を幾何学的に直線で区分した多磨霊園とは異なり、丘上の谷や尾根など自然地形を生かした区分なので、上画像の様に直線もあるが、全体的に園路は、可也の高低差を含みつつ可也に紆余曲折してしている。

 園の東南端、即ち丘の東南の端には、城址がある。

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東南端付近

 園路脇の植え込みに大きな自然石が置かれ、そこに、

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作延城址

「作延城址」(標高45.1m)とある。上二つの航空写真の水玉の辺りだ。
 霊園の丘は、多摩丘陵の一角に当たるが、丘陵は中世の頃鎌倉防衛線として点々と城が築かれたと言う。

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解説図アップ

 解説図で緑に描かれた丘陵の東端にここ作延城があり、その西に源頼朝の異母弟、全成(ぜんしょう。北条政子の妹阿波局と結婚)を院主とする威光寺(長尾寺とも。現妙楽寺)があり、更にその西には鎌倉御家人、稲毛三郎重成(?-1205)(妻は北条政子の妹)が築いた桝形城(現生田緑地)、そして少し北西に離れて小沢城(読売ランド付近)などが並んでいる。詳細は不明だそうだが、作延城も小沢城も稲毛重成が築いたとも考えられていると言う。
 霊園は大半が、川崎市高津区の上作延と下作延に属しているが、「作延(さくのべ)」はこのお城の名に由来すると言う。「新編武蔵風土記稿」(1830)では、城山堀・矢倉塚・天守台などの地名を挙げ、この辺りを城址と推定しているそうだが、残念ながら城の遺構は確認されていないそうである。

 霊園の南東端から、鉄塔のある北西エリアへ1.2kmほど移動。

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緑ヶ丘霊園内、新鶴見線49号
大正15年開設の古い路線

 上二つの航空写真の黄●で示した、JRの独自送電路線、新鶴見線の49号と50号を取材して後、200m程東へ移動。

 厳密には霊園敷地の僅か外の様だが、そこには弁天様がいらっしゃる。

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松壽弁財天(標高51.7m)

 松壽(しょうじゅ)弁財天様だ。上二つの航空写真の赤●である。

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石碑

 お堂前の石碑には、「下げ綱の松と松壽弁財天」とある。
 嘗てここには、「下げ綱の松」(綱下げ松)と呼ばれる松があったと言う。上記稲毛重成が頼朝の軍勢が川を渡る際松に綱をかけたとか、小田原の陣の際上杉軍がこの松に綱をかけて丘を下ったとかの伝説があると言う。また、それとは別に、多摩川氾濫の際、村人がこの松から下がった白い綱に縋って難を逃れたが、翌朝見ると松の下に白蛇がおりこれは弁天様のご加護であると松の下に祠を建て、松を「綱下げの松」と呼んだとの伝説もあるとか(日本では白蛇は弁財天の化身と考えられた)。現在この場所から多摩川までは1km以上距離があるが、お堂背後が川の浸食による崖地となっているのを見ても、嘗てはお堂下に河道があった時期もあったのであろう。

 幾つもの伝説を持つ下げ綱の松だが、天保年間(1830-1844)、この松に霊能があると評判になり、それが枯れたのちも、彦根藩世田谷領代官大場氏の日記(天保3年5月)に、江戸の老若諸侯やその奥方の参詣が夥しく前代未聞、と書かれるほどの大人気であったそうだ。
 そうしたこの松の人気や賑わいを示す絵図が、三枚並んでお堂に掛けられている。

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地図

 右は、「橘樹郡宿川原村 松壽弁財天」と題された絵図、と言うか地図。
 橘樹(たちばな)郡は古代から武蔵国にあったもので、行政区画としては1878年(明治11年)から1938年(昭和13年)まで、現神奈川県横浜市・川崎市相当のエリアに存在した郡。宿川(河)原村は、江戸時代に初期は天領として後には半分が増上寺領となった村で、現川崎市多摩区宿河原に相当するエリア。
 右端の「江戸」から、左端の松壽弁財天までの道のりが書かれている。右から左へ、宮益町から発し道玄坂、上目黒、世田谷宿、宇奈根を経るルート、永峰町を発し目黒、碑文谷、等々力、上野毛を経るルート、そしてその間に両ルートを繋ぐような広尾町から発し下渋谷、下馬引沢(現下馬)、上馬引沢(現上馬)、用賀を経るルートと、三つのルートが記されている。九丁、三丁など各ポイント間の距離も書き込まれている(一丁約109m)。

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絵図

 中は、「玉川綱下ヶ松八景之図」とある絵図。
 左端に「宿川原 綱下げノ松」(枯れ木)が大きく描かれ、その左に小さな「二代松」、そして弁天の鳥居とお堂、家族連(子供連れ)れっぽい参詣の人々。その周りには、提灯で飾られた仮のお座敷らしきものが並び、飲食する人々の姿もある。
 松の立つ崖の下には多摩川が左上から右下へと蛇行し、「登戸之筏」の文字がある。傍らには川岸から川中へ突き出すように「筏運上御用」と書かれた幟を立てた筏会所が見え、その横に蓑傘姿の筏師の乗った「登戸之筏」が川を下る様子が描かれている。多摩川は上流の青梅で伐り出された木材を筏にして(木場へ)運ぶのに使われていたが、運上金(税金)徴収所である筏会所がある登戸には、筏乗り達は必ず寄ったと言う。また、その下流には「○○仮橋」と書かれた橋があるが、これは渡船場に渇水期(10月〜3月)のみ架けられたと言う仮の橋であろう(○○の部分は判読不可)。

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地図・絵図

 左は、全般に退色し読みにくいが地図と絵図を兼ねた様なもので、左端近くに「ツナサゲマツ」(綱下松)の文字とマツや鳥居・お堂の絵があり、周囲には「上作ノベ」(上作延)、「下作ノベ」(下作延)、「マスガタ山」(枡形山)、「ノボリト」(登戸)、「シュクガワラ」(宿河原)、「二子シュク」(二子宿)、「光明ジ」(光明寺)などが確認できる。また「久地」とあるその隣に「ウナ子」の文字が見えるが、これは「宇奈根(うなね)」のことかもしれない。上部(北側)には「甲州通リ」(甲州街道)、「井ノカシラ池」(井の頭池)、「ジンダイジ」(深大寺)、「コクブンジ」(国分寺)が見える。絵図右端には、「ヨツヤ通リ」(四谷通り)、「青山通リシブヤ」(青山通り渋谷)などが見える。

 こうした賑わいを生んだ松自体はもう無いが、お堂向かって左奥に、何代目かの松の若木が育っている。なお、当弁天堂はここの北西約1.4kmの常照寺の管理で、そこには「紙本墨画着色松壽弁財天図」(1858)が所蔵され、また盗難防止のためご本尊の白蛇像もそこにあるそうだ。

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お堂と二石碑
石碑後ろが松の若木

 お堂横には「平和記念 松壽弁財天講中一同」(1949年)の石碑がある。またその横に、七宝紋の下に「横浜 立身屋万之助」と刻された小石碑があるが、こちらは何の為のものであろう、寄進の記念であろうか。

 弁天様から、方角で言うと南西、直線にして約280m。

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展望休憩所

丘の縁に建つ休憩所(標高50.1m)、通称、展望休憩所。2019年航空写真の白→だ。
 よく見るとカーヴミラーに私が映っているので、序でにセルフィー。

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お目よごしです

 ―と余計な事をしてしまったが、休憩所からは素晴らしい展望。

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展望

グレーの墓石群が、ヘッジホッグの背中の様だ。向こうに見える街は、JR南武線武蔵溝ノ口駅方面であろうか。中央に見える大きなビルは、ザ・タワー&パークス田園都市溝の口である。幾つか見える鉄塔は、川世線の14号から22号か。

 展望を楽しんだのち、400m程紆余曲折の園路を下ると、

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ドラえもんだ

墓石群の中に、ドラえもんがいた。

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合掌
(お参りされている方がいた)

 藤子・F・不二雄こと、漫画家の藤本弘氏のお墓(標高29.5m)である。
 国民的人気キャラクターと言えると思うドラえもんは、私の様なおじさんから、小さな子供達にもお馴染みの存在だが、実は、私はドラえもんを全んど知らない。知識としては勿論あるが、漫画もアニメも見たことがない。微妙に時期がずれているようで、見た記憶がないのだ。だが、オバケのQ太郎とパーマンは知っているし、オバケのQ太郎には可也ハマっていた。ので、私にとって藤子不二雄作品と言えば「オバQ」なのだ。
 ドラえもんは藤本さん単独作品だが、パーマンとオバQは安孫子さんとの合作と言う。なので、やはり藤本さんのお墓には、ドラえもんなのであろう。

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香炉横に兄妹
(カワイイ)

 お邪魔致しました(合掌)。

2025年如月27日
(取材は1月中旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・ご訪問・ご探訪の際は、マナーを守り節度ある行動をお心がけ頂けますよう、お願い致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
・参照:川崎市HP、「川崎市歴史ガイド 津久井道と枡形城跡」、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は神奈川県川崎市、最寄り駅はJR南武線津田山駅・久地駅です

*津田山:幻の1940年東京オリンピック選手村候補地ともなったと言う
*ヒューム管:排水管や下水道管などなどに使われる鉄筋コンクリート製の管。よく空地に積んであるやつ
*稲毛重成:元は平家方だったが、のち頼朝に帰伏。彼が奥方の供養に作った橋の落成式に出た頼朝はその帰りに落馬し亡くなったとされている。重成は1205年(文久2年)、北条時政に畠山重忠(重成とは従兄弟同士)が謀叛の疑いをかけられた際に攻撃に参加したが、翌日重忠を讒言した首謀者として討たれた。これら一連の事は時政の謀略ともされる
*作延:元は一つであったが1597年(慶長2年)に上下に分かれたそうだ
*弁財天(弁才天):元はヒンドゥー教の芸術・学問また河川の女神サラスヴァティー。日本では市杵島姫命と同一視される。日本では中世以降宇賀神(蛇神)と習合しヘビと関連付けられるようになったらしい
*ドラえもん:1969年から雑誌連載開始、1973年に第1作アニメ化、1979年に第2昨アニメ化(第1期-2005年3月、第2期2005年4月-)

(スマートフォン版は通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

Fe塔 霊園鉄塔―緑ヶ丘霊園

霊園鉄塔―緑ヶ丘霊園

 シンツル(JR新鶴見線)鉄塔には、種々の異なるタイプが存在する。1号の様なイカさん、13号19号の様な旧型、5号の鉄柱タイプ、15号の様な至ってノーマルな四角錐タイプ、45号46号の様なノーベンドの直線的四角錐タイプ、そして2号の様な可也下方にベンド点のある四角錐タイプ。ここの二鉄塔は最後のもので、2号鉄塔に似ている。

 ここ、といきなり書いたが、ここは神奈川県川崎市の丘上に展開する、歴史ある市営緑ヶ丘霊園である。

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川崎市営緑ヶ丘霊園
噴水広場(標高48.1m)

 名称は新しそうだが、実は太平洋戦争真っ只中の1943年開園という、なかなかに古い霊園である。時代が近い所為だろうか、何処となく1923年開園の多磨霊園に似ている。同じ公園墓地と言うコンセプト上、詳細は不明だが、彼方を参考にした可能性はないとは言えない(かもしれない)。色々調べると、地元の方は「津田山墓地(霊園)」と呼ぶ場合も多い様で、若しかしたら元はその名称で、のちに現名称となったのかもしれない(私見)。
 多磨霊園は平地にあるが、こちらは可也高い丘の上で、麓の南武沿線道路から噴水広場までは凡そ30mの高低差がある。霊園事務所のある津田山口門から噴水迄の長い坂は、自転車は押し上りだ。

 この緑ヶ丘霊園に、二基の新鶴見線鉄塔が建っている。鉄塔好きで霊園好きと言う私には、何とも有り難い存在だ。

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新鶴見線49-50号

 多磨霊園における、国分寺線55号56号のような存在だ。

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50号

 まずは、懸垂型50号(標高55.2m)
 これでは分かり難いが、アングルを変えると塔体やや下部に可也大きなベンド点(角度の変わる点)があるのが分かる。

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50号(建設:大正15年11月 建替:平成10年11月)

 北側に建つ49号も、同様なスタイル。

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49号

 こう見ると、49号は墓石の森の中に建つようにも見えるが、

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49号

実はもう墓石群の果てる際に建っており、すぐ西側(画像左手)はもう住宅地だ。

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49号(建設:大正15年11月 建替:平成10年11月)

 49号(標高54.6m)後ろはほぼ霊園の北縁で、北方の多摩川低地が脚元左手向こうに見えている。高低差は、30数mある様だ。

 振り返り50号を見れば、

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懸垂型50号

耐張型の49号と異なり彼方は懸垂型で、且つやや細身。ベンド点も、やや下方に位置している。

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耐張型49号

 同じ路線でも、耐張型と懸垂型でデザイン・フォルムが異なる鉄塔は多いが()、大凡、懸垂型はスレンダーで耐張型はがっちりタイプである。これは架空線に架かる力の違いによる、鉄塔に求められる強度の違いからくるのであろうか(一般に、懸垂型は直線区間、耐張型はカーヴ区間や高低差のある区間に対応している)。その辺りの事は、全く無知である。

 霊園は、冒頭触れたように所謂公園墓地で、墓参者の方々とは別に、散歩者の方も多い。

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合葬墓所と50号

 こちらは、2019年完成と言う未だ新たしい合葬型墓所と、50号。合葬型墓所は、多磨霊園の樹林墓地と同様、遺骨は袋に入れて埋蔵するため後に取り出すことはできない。またこれも樹林墓地と同様、永年管理となるので後々の料金は不要と、私の様に承継者のいない者も安心なタイプである。墓所周囲は明るく、ベンチや東屋もあり、休憩していらっしゃる方もいる。

 航空写真を見てみよう。

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新鶴見線・緑ヶ丘霊園航空写真
2019年(令和1年)10月30日国土地理院撮影

 黄●が鉄塔で上から下へ49号から53号。ご覧の如く、49号も50号も、園内の北西の隅っこである。51号は霊園内か隣の県立東高根森林公園内か微妙なところだが、接近は困難そうなので、今回はカッツアイ。
 49号と50号部分、をアップで見てみる。

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新鶴見線49-50号航空写真
2019年(令和1年)10月30日国土地理院撮影

 右下の円形建物が、合葬型墓所。

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新鶴見線49-50号航空写真
1941年(昭和16年)8月7日陸軍撮影

 霊園開園2年前の航空写真でも、同じ場所に東に影を伸ばす鉄塔が確認できる。一応49と50とはしたけれど、当時の番号が今と同じかどうかは不明である。この画像を見ても分かるが、霊園となっている丘の上は、元は畑が広く展開していた様だ。開園前の木立も、多くはそのまま残されている。
 なお霊園は、1940年に認可され、太平洋戦争開戦後の1942年には一部が竣工、用地の取得は開園後の1944年まで続いたそうだ。大戦後には一部が農地解放されたが、のちに再取得された(Wikipedia参照)。

 霊園内、少し彷徨かせて頂きたい(霊園記事につづく)。

2025年如月25日
(取材は1月中旬)

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・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
・参照:川崎市HP、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は神奈川県川崎市、最寄り駅はJR南武線津田山駅・久地駅です

*JR新鶴見線:小金井市の武蔵境交流変電所と横浜市の新鶴見給電所を結ぶ路線

鉄塔に昇るのは非常に危険です。絶対にやめましょう

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パワーシフト

Fe塔 見晴らしの丘から

見晴らしの丘から

 面倒くさがりの私は、サイクリングの際殆どスマフォでマップを確認しない。しかも、5歳児的好奇心のカタマリで道路を走っていて面白そうな横道など視界に入るとすぐ其方へ入ってしまう。ので、良く道に迷う。体力的余裕のないおじさんとしては道迷いやそれによる余分な遠回りに良いことはないのだが、でも偶にラッキーもある。今回等その好例だ。

 神奈川県川崎市の古い公園墓地「緑ヶ丘霊園」を目指す際、何時もの如く適当に道を選んで走っているうち、完全に迷ってしまった。それでもドウブツ的方向感覚には自信があるので、凡その方角を目指しなかなかの激坂を上っていると、そろそろ丘の頂点に達しそうな辺りで、一気に南から西の眺望が開けだした。見れば、そこに小さな公園がある。

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公園だ

 王禅寺見晴らし公園(標高110.8-113.5m)だ。
 公園は、北の多摩川と南の鶴見川にはさまれた丘の上を走る道路から、尻手黒川道路の走る谷あいに向かって下る斜面上部にあり、南端の「展望台」の方が道路より2-3m低い。
 とは言え、「展望台」からの眺めは絶景である。

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「展望台」

 展望台に立ち望めば、正面遠くには大きな丹沢山地が横たわり、その上には、

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富士だ

富士山が丁度最高峰蛭ヶ岳と重なって頂部を見せている。左手前に港北線16号、そして右手前に大きく柿生線20号(標高74.6m) だ。

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柿生線20号
奥は港北線15号

 こう見ると、下はアパッチ砦であるのが分かる。砦は、きれいに刈り込まれた一面の枯芝だ。公園として解放して頂きたいが、無理であろうか。桜ヶ丘線15号やオカサカ112号の様に、脚基部だけフェンスで囲えば安全上問題もなさそうだが―。

 しかし、いろいろ鉄塔や山が見えて興奮気味だ。
 視線を少し右に動かせば、

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柿生線19号と桜ヶ丘線79号甲乙

柿生線19号と桜ヶ丘線79号甲乙(標高95.3m)だ。右端に近い大きな山は、秋川源流の三頭山。19号右側奥に見える山並みは、有名な大菩薩峠や大菩薩嶺の辺り。19号すぐ右の凹みが峠だ。左端には、西東京変電所が見える。
 ―が、それより何より気なるのが、19号の左手、薄青い手前の山々の間にちらり覗く白雪の山並みだ。

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南アルプス?
(コントラスト強調)

若しかしてこれは、南アルプス(赤石山脈)じゃないか?鉄塔で言うと、港北線12号と13号(左の赤白)の間だ。
 詳細な展望図によれば、白峰三山だ。

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展望図(一部アップ)

 東京方面から白峰三山が見えると言うのは、木暮理太郎先生の「望岳都東京」で知ってはいたが、実際見たのは初めてだ。感動する。

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間ノ岳と農鳥岳
(コントラスト強調)
手前赤白はおそらく佐久間東幹線449号

 右が間ノ岳(あいのだけ)、左が農鳥岳(のうとりだけ)。
 白峰三山は、「平家物語」や古の和歌に「甲斐の白根(白嶺)」として登場するにお馴染みの、3000m峰が三つ連なる絶景である。三山は、北から日本第2位の高峰「北岳」(3193m)、日本第3位の高峰「間ノ岳」(3190m)そして農鳥岳(3026m)。農鳥岳山頂は農鳥岳と西農鳥岳に分かれ、三角点がない西農鳥岳の方が実際は少し高い(3051m)。ネンザンだが、北岳は見えない。
 私は、残念ながら白峰三山に登った事はない。が、この北東側に連なる鳳凰山(2840m)(地蔵ヶ岳・観音ヶ岳・薬師ヶ岳の三つで鳳凰三山とも)に登った際、夜叉神峠から間近く望んだその姿が忘れられない。十代の頃の話だが―。

 展望図にもある様にこの銀嶺の左端にはもう一つ、3000m峰の「塩見岳」(3052m)がほんのチラリだけれど見えている。

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塩見岳
(コントラスト強調)
手前下赤白は京浜線1・2号線1069号(多分)

 3000m峰が一度に三つも見られるとは、道に迷ってラッキーであった。下調べ通りのルートを走っていたら、絶対に通らなかった場所である(坂はメチャきつかったけど)。

 しかしこの公園、何か妙にスクウェアな感じで違和感がある。ので、古航空写真を見てみる。白→の先が公園である。

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王禅寺見晴らし公園航空写真
2019年(令和1年)10月30日国土地理院撮影

 「麻生区公園探訪」さんによれば、ここは1987年(昭和62年)開園だそうであるが、公園ができる前の1970年代の写真には何やら長方形の建造物的なものが写っている。

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王禅寺見晴らし公園航空写真
1975年(昭和50年年)1月4日国土地理院撮影

 しかし、開園3年前の1984年写真にはもう写っていない。

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王禅寺見晴らし公園航空写真
1984年(昭和59年)11月22日国土地理院撮影

 何だろう?ものは分からないが、やはり何かしらのスクウェアな建物がすっぽり嵌っていた様である。

 なお、この公園の辺りは、義経・弁慶伝説の地であった。

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義経・弁慶伝説

 公園から東に約80m、「団地坂上」バス停があるが、この付近は「鍋ころがし」と呼ばれていたそうである。挙兵した頼朝に従うため藤原秀衡のもとから鎌倉へ向かう途上、この急坂に差し掛かり弁慶の乗った馬が足を滑らせあやうく落馬しそうになった時、鞍に吊るした鍋が断崖から谷へ落下し消えた―と言う伝承に由来すると言う。
 ここの西約2.5kmには、以前柿生線を訪ねた古沢に義経一行が一夜を過ごしたと言う「九郎明神社」や、北約1.7kmには弁慶が馬が通れるように改造したと言う「二枚橋」など、一行が奥州から鎌倉へ向かう途上の伝説ポイントがある。

 しかし、良い公園であった。北西約600mの、あの弘法松公園に勝るとも劣らない。

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ナイスヴュー

 正面に、嘗ての海底火山大山(おおやま)(左端)と、嘗ての火山島丹沢山地が横たわる。でも―、周りにお住いの方々は、上から覗かれる様で一寸イヤかもしれない。

 見晴らし公園を離れ、更に坂を数m上がり郵便局前の交差点を南に下って行くと、左手にまた公園が出現。何となく眺めが気になり、寄るかスルーかどうしようか迷うが、好奇心が勝って寄る。

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緑地だ

東百合丘4丁目緑地(標高104.3m)である。

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緑地

 冬枯れ落葉樹が影を落とす、遊具等もない、正に緑地だ。
 少しぶらつきながら、西寄りに移動すれば、

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柿生線21号

柿生線21号(標高86.1m)だ。独特の、小さな頭に広い脚部の耐張型。正面から見てみたい。

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21号

 坂を下り切って望む21号。接近もしたいが、この先の行程も長いので、流石にカッツアイだ。(緑ヶ丘霊園記事につづく)

2025年如月21日
(取材は1月中旬)

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・ご訪問・ご探訪の際は、マナーを守り節度ある行動をお心がけ頂けますよう、お願い致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
・参照:川崎市HP、麻生観光協会HP、まいぷれ(川崎アワード第24回)、サイト「1960年代の百合小と百合丘」さん、サイト「麻生区公園探訪」さん、山梨県立大学「南アルプスの自然と文化」、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は神奈川県川崎市、最寄り駅は小田急小田原線百合ヶ丘駅です

*甲斐の白根:平家物語では一ノ谷の合戦で捕虜となった平重衡が鎌倉へ護送される場面に登場。和歌では古今和歌集の西行の歌として登場など
*白峰三山:この名称は登山家の小島烏水(1873-1948)(日本山岳会初代会長)によるとされる
*木暮理太郎(1873-1944):群馬県太田市出身の登山家。日本の近代登山黎明期の登山・山岳研究のパイオニアの一人(日本山岳会第3代会長)
*農鳥岳:春に甲府盆地からニワトリの雪形が見え農作業の合図とした事による名称。このニワトリは雪解けの進む6月頃にはハクチョウの姿に変わりそれが田植えの合図となったことによる名称ともされる

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