道場―法台寺
廃線となった送電路線、ファンタジー小説「鉄塔 武蔵野線」で有名な旧武蔵野線跡を訪ねたのち、再編後の武蔵野線鉄塔12号(片山線9号)と13号が建っていた新座市道場(どうじょう)のその地名の大元となったと言うお寺、法台寺を訪ねる。

法台寺周辺航空写真
2019年(令和1年)10月30日国土地理院撮影
「h」が法台寺、「E17」が関越自動車(と新座料金所)、「kr」は黒目川。黄●は旧武蔵野線10-12号(現堀ノ内線1-3号)鉄塔、水玉は片山線8-9号鉄塔。片山線9号は旧武蔵野線12号と現堀ノ内線1号を兼ねるので、黄色と水色半々。
道場に建つ、赤白の巨大な片山線9号鉄塔からは、

道場に建つ片山線9号
お寺は画像右手方向
畑中や住宅の間の道を行き、約500m。

浄土宗大平山法台寺
大平山広沢院法台寺の山門だ。
山門を潜ってお邪魔すると、すぐ左手にコンクリート覆屋があり、

覆屋
中には関東でお馴染みの、(秩父産)緑色片岩製の板碑が左右と正面の三面に並んでいる。

板石塔婆
解説には「板石塔婆(いたいしとうば)」とある。
全部で11基あるそうだが、ここには10基が収められている。
見たところここにあるのは、名号(仏の称号)9基、種子(しゅじ。仏を表す梵字)1基。民俗資料館「れきしてらす」に、種子のものが1基移された様だ(中央右から二番目にその塔婆の代わりに小さな解説板が置かれている)。

2枚アップ
これは、上画像の左から4番目「南無阿弥陀仏」の6字名号塔婆と5番目の種子(梵字)塔婆のアップ。左の6字名号のもの(高さ約2m)には「貞和三年一月十七日」の日付が見える。「貞和」は北朝の元号で、その3年は西暦1347年に当たる。ここにある6字名号板碑は、1313年(正和2年)から1384年(至徳元年)までのもので、フォントは時宗系の楷書体、墓塔的意味を含むものもあると、解説にはある。
右の種子塔婆は、ここにはないもう1基とセットでご夫婦の逆修(ぎゃくしゅう。生前に死後の冥福のため仏事を行う事)のためのものだそう。ここにあるのは夫、れきしてらすにあるのは妻のものと言う。しかしだとしたら、何故離れ離れにした?お気の毒ではないか?
板石塔婆覆屋の前には、お坊様の立像(りゅうぞう)と座像がそれぞれ一基づつ。

他阿上人立像
向かって右の立像は、他阿真教上人(たあしんきょうしょうにん)(1237-1319)。
鎌倉時代の1306年(徳治元年)、遊行(ゆぎょう、諸国行脚)でこの地に立ち寄った時宗(じしゅう)の他阿上人が、当時は「宝台寺」であったこのお寺を、時宗の道場とした。これが、ここ「道場」の地名の由来という事だ。まさにこのお方こそ、「道場」生みの親である。
他阿上人は、正式には「他阿弥陀仏」で、1278年(弘安1年)に時宗の宗祖一遍(遊行上人)(1239-1289)に師事。一遍没後に後継者に推され(遊行上人二世)、時宗の教団化や定住化を図り、寺や道場の建立を積極的に進めた人物。この他阿上人こそ、時宗の実質の開祖であるとの見解もあるそうで、一遍と共に「二祖上人」としてその功績を称えられていると言う。

観智国師座像
向かって左の座像は普光観智国師(1544-1620)。
こちら正式なお名は、貞蓮社源誉上人普光観智国師存応慈昌大和尚。少し前に鉄塔記事で触れた、多摩郡由木村の出身で、父由木利重は北条氏照家臣で上人5歳の時に八王子城で討死。その菩提を弔うため10歳で「宝台寺」に入り修業し、慈昌の名を授かったと言う。のち1561年(永禄4年)、鎌倉の感誉存貞上人に師事して浄土宗に改宗。その頃、当時は宝台寺から法台寺に改称されたらしい。
観智国師は、1584年(天正12年)に増上寺12世住職となり、1590年(天正18年)に江戸に入った徳川家康の帰依を受け、増上寺は徳川家菩提寺になったのだそうだ。家康の葬儀も、観智国師が導師(葬儀の中心となる僧)を務めたと言う。斯様な国師と徳川家との関係からか、よく見ると覆屋の柵に付けられた紋は三つ葉葵だ。
なお、何方の上人も、本堂に木造座像(他阿上人は南北朝時代の作で県指定有形文化財、観智国師は江戸時代初期の作で市指定有形文化財)が安置されている。
更に奥へ、おじゃま。
正面には、大きく御本堂(標高32.8m)。

本堂
ご本尊は阿弥陀三尊
現本堂は1998年(平成10年)落慶と新しいが、昔のものは観智国師との縁で芝に移る前の増上寺旧本堂を譲り受けたものだったそうだ。
法台寺の縁起だが、1180年(治承4年)、源頼朝の命により「廣澤の清浄殿」(館)が建てられたのがそもそもの原型と言う。平安の頃、この辺りは広沢氏が治め片山郷の「広沢荘」と呼ばれていた。相模国の有力な武士であった広沢実方(1141-?)が、久寿2年(1155年)の大蔵合戦(秩父氏の家督争いに源氏内部の同族争いが結びついたもの)で源義朝の子・義平に従って戦功があり、翌年その恩賞として武蔵国新座郡広沢の地を賜ったのだと言う。
清浄殿は、御嵯峨天皇第一皇子で皇族初の征夷大将軍となった鎌倉幕府6代将軍宗尊(むねたか)親王(1242-1274)が、3代将軍源実朝(さねとも)(1192-1219)の室久米御前の菩提を弔うため、1266年(文永3年)に「廣澤院宝台寺」と改められたとされる。これが後に、上記の如く観智国師により「法台寺」となった訳だ。
当寺開山に大きく関わる久米御前は、実朝死後出家し、清浄殿に隠棲していたという。

久米御前像
法台寺ご住職(岩崎信丈氏)によれば、久米御前(法台禅定尼)は1219年(建保7年)1月の実朝横死(おうし)の際遺骨を持ち、本多、浅海、並木、貫井の家来四名(これら人々の姓は檀家はじめ今も周辺に多いとか)と共に当地に逃れ、その年の秋(承久元年)に亡くなったと言う。像手前の供養塔には、

供養塔基部
「源實朝室 久米御前塔」と、側面に刻されている。
御前の像は、数珠を握って南方、即ち鎌倉の方を見据えている。久米御前は、鎌倉幕府御家人、千葉常胤(1118-1201)の娘である。しかし、実朝は側室を持たなかったことが有名だが、とすれば久米御前の存在は何なのであろう。私には、詳細は不明だ。
よくあるパターンだが、ここは嘗て地域初の学校があった場所であると言う。

学校発祥の地
南南東約230mに、市立片山小学校があるが、元はこの境内に「黒目学校」として1874年(明治7年)に開校したとある(1925年に現在地へ移転)。
お寺との直接の関連はないのだが、当寺院、実は本堂裏手に、

片山富士
「片山富士」と呼ばれる富士塚(高さ約7.2m、直径約35.3m)がある。富士塚は、富士登山が叶わぬ人たちのために築かれた、富士山信仰に基づくミニチュア富士山である(例:こことかこことか)。
残念ながら、赤い屋根付き橋の向こうにある富士には、許可なしには登れない。

登拝証が必要
この表示に○に吉の字のロゴがあるが、これは以前清瀬市の「中里富士」にも関わっていた様だと書いた「丸吉講」のものである。「まるよし」ではなく「まるきち」と読む。
丸吉講は、江戸後期に浅海吉右衛門が中心となった富士講(富士山信仰の講社)である。吉右衛門さんは、ここ道場の南に接する片山の出身である。彼は富士登山33度の記念に、1831年(天保2年)、当境内に富士を築いた。

山に丸吉、のロゴ
丸吉講は、主に新座市を中心に活動したもので、新座市及び周辺エリアにある丸吉講が築いた富士は10を超えるようだ。で、そのなかでここは最初に築かれたものと言う。やはり地元、と言事であろうか。

法台寺・片山富士航空写真
2019年(令和1年)10月30日国土地理院撮影
黄★が富士塚、「1」は山門、「2」は覆屋、「3」は本堂、「4」は久米御前像。富士が本堂すぐ裏手なのが、お分かり頂けるであろう。
しかし、なぜ法台寺境内に築かれたのかは不明。
お邪魔致しました。
―撤収。
2025年弥生9日
(取材は1月下旬)
――――――――――――――――
・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・ご訪問・ご探訪の際は、マナーを守り節度ある行動をお心がけ頂けますよう、お願い致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
・参照:新座市HP、清浄光寺(遊行寺)HP、「猫の足あと」さん、埼浄青HP、プチ・ぶんか村HP「特集 久米御前」、「そうだ京都、探そう」、「石仏と石塔!」さん、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は埼玉県新座市、最寄り駅は西武池袋線保谷駅です
*広沢実方:河内源氏類代の家人でもあった波多野氏の一族。頼朝に従い各地で戦功
*片山:武士団片山氏が治め、承久の乱後に丹波国船井郡に移る。新座市片山は道場の南側にある
*板石塔婆:新編武蔵風土記稿には全13基とある様だ
*緑色片岩:玄武岩等の火成岩が深部で高温高圧による広域変成作用を受けてできた岩石
*実朝の側室:一般に実朝は側室は持たなかったとされるので、久米御前の存在には謎がある
*禅定尼:仏門に入った在家の女性のこと
*講社:同じ対象を信仰する人々の寄り合い。富士講は選ばれた講員が代表として富士参拝登山を行った。外れた人などのために富士塚が作られたとされる
(スマートフォン版は通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)
廃線となった送電路線、ファンタジー小説「鉄塔 武蔵野線」で有名な旧武蔵野線跡を訪ねたのち、再編後の武蔵野線鉄塔12号(片山線9号)と13号が建っていた新座市道場(どうじょう)のその地名の大元となったと言うお寺、法台寺を訪ねる。

法台寺周辺航空写真
2019年(令和1年)10月30日国土地理院撮影
「h」が法台寺、「E17」が関越自動車(と新座料金所)、「kr」は黒目川。黄●は旧武蔵野線10-12号(現堀ノ内線1-3号)鉄塔、水玉は片山線8-9号鉄塔。片山線9号は旧武蔵野線12号と現堀ノ内線1号を兼ねるので、黄色と水色半々。
道場に建つ、赤白の巨大な片山線9号鉄塔からは、

道場に建つ片山線9号
お寺は画像右手方向
畑中や住宅の間の道を行き、約500m。

浄土宗大平山法台寺
大平山広沢院法台寺の山門だ。
山門を潜ってお邪魔すると、すぐ左手にコンクリート覆屋があり、

覆屋
中には関東でお馴染みの、(秩父産)緑色片岩製の板碑が左右と正面の三面に並んでいる。

板石塔婆
解説には「板石塔婆(いたいしとうば)」とある。
全部で11基あるそうだが、ここには10基が収められている。
見たところここにあるのは、名号(仏の称号)9基、種子(しゅじ。仏を表す梵字)1基。民俗資料館「れきしてらす」に、種子のものが1基移された様だ(中央右から二番目にその塔婆の代わりに小さな解説板が置かれている)。

2枚アップ
これは、上画像の左から4番目「南無阿弥陀仏」の6字名号塔婆と5番目の種子(梵字)塔婆のアップ。左の6字名号のもの(高さ約2m)には「貞和三年一月十七日」の日付が見える。「貞和」は北朝の元号で、その3年は西暦1347年に当たる。ここにある6字名号板碑は、1313年(正和2年)から1384年(至徳元年)までのもので、フォントは時宗系の楷書体、墓塔的意味を含むものもあると、解説にはある。
右の種子塔婆は、ここにはないもう1基とセットでご夫婦の逆修(ぎゃくしゅう。生前に死後の冥福のため仏事を行う事)のためのものだそう。ここにあるのは夫、れきしてらすにあるのは妻のものと言う。しかしだとしたら、何故離れ離れにした?お気の毒ではないか?
板石塔婆覆屋の前には、お坊様の立像(りゅうぞう)と座像がそれぞれ一基づつ。

他阿上人立像
向かって右の立像は、他阿真教上人(たあしんきょうしょうにん)(1237-1319)。
鎌倉時代の1306年(徳治元年)、遊行(ゆぎょう、諸国行脚)でこの地に立ち寄った時宗(じしゅう)の他阿上人が、当時は「宝台寺」であったこのお寺を、時宗の道場とした。これが、ここ「道場」の地名の由来という事だ。まさにこのお方こそ、「道場」生みの親である。
他阿上人は、正式には「他阿弥陀仏」で、1278年(弘安1年)に時宗の宗祖一遍(遊行上人)(1239-1289)に師事。一遍没後に後継者に推され(遊行上人二世)、時宗の教団化や定住化を図り、寺や道場の建立を積極的に進めた人物。この他阿上人こそ、時宗の実質の開祖であるとの見解もあるそうで、一遍と共に「二祖上人」としてその功績を称えられていると言う。

観智国師座像
向かって左の座像は普光観智国師(1544-1620)。
こちら正式なお名は、貞蓮社源誉上人普光観智国師存応慈昌大和尚。少し前に鉄塔記事で触れた、多摩郡由木村の出身で、父由木利重は北条氏照家臣で上人5歳の時に八王子城で討死。その菩提を弔うため10歳で「宝台寺」に入り修業し、慈昌の名を授かったと言う。のち1561年(永禄4年)、鎌倉の感誉存貞上人に師事して浄土宗に改宗。その頃、当時は宝台寺から法台寺に改称されたらしい。
観智国師は、1584年(天正12年)に増上寺12世住職となり、1590年(天正18年)に江戸に入った徳川家康の帰依を受け、増上寺は徳川家菩提寺になったのだそうだ。家康の葬儀も、観智国師が導師(葬儀の中心となる僧)を務めたと言う。斯様な国師と徳川家との関係からか、よく見ると覆屋の柵に付けられた紋は三つ葉葵だ。
なお、何方の上人も、本堂に木造座像(他阿上人は南北朝時代の作で県指定有形文化財、観智国師は江戸時代初期の作で市指定有形文化財)が安置されている。
更に奥へ、おじゃま。
正面には、大きく御本堂(標高32.8m)。

本堂
ご本尊は阿弥陀三尊
現本堂は1998年(平成10年)落慶と新しいが、昔のものは観智国師との縁で芝に移る前の増上寺旧本堂を譲り受けたものだったそうだ。
法台寺の縁起だが、1180年(治承4年)、源頼朝の命により「廣澤の清浄殿」(館)が建てられたのがそもそもの原型と言う。平安の頃、この辺りは広沢氏が治め片山郷の「広沢荘」と呼ばれていた。相模国の有力な武士であった広沢実方(1141-?)が、久寿2年(1155年)の大蔵合戦(秩父氏の家督争いに源氏内部の同族争いが結びついたもの)で源義朝の子・義平に従って戦功があり、翌年その恩賞として武蔵国新座郡広沢の地を賜ったのだと言う。
清浄殿は、御嵯峨天皇第一皇子で皇族初の征夷大将軍となった鎌倉幕府6代将軍宗尊(むねたか)親王(1242-1274)が、3代将軍源実朝(さねとも)(1192-1219)の室久米御前の菩提を弔うため、1266年(文永3年)に「廣澤院宝台寺」と改められたとされる。これが後に、上記の如く観智国師により「法台寺」となった訳だ。
当寺開山に大きく関わる久米御前は、実朝死後出家し、清浄殿に隠棲していたという。

久米御前像
法台寺ご住職(岩崎信丈氏)によれば、久米御前(法台禅定尼)は1219年(建保7年)1月の実朝横死(おうし)の際遺骨を持ち、本多、浅海、並木、貫井の家来四名(これら人々の姓は檀家はじめ今も周辺に多いとか)と共に当地に逃れ、その年の秋(承久元年)に亡くなったと言う。像手前の供養塔には、

供養塔基部
「源實朝室 久米御前塔」と、側面に刻されている。
御前の像は、数珠を握って南方、即ち鎌倉の方を見据えている。久米御前は、鎌倉幕府御家人、千葉常胤(1118-1201)の娘である。しかし、実朝は側室を持たなかったことが有名だが、とすれば久米御前の存在は何なのであろう。私には、詳細は不明だ。
よくあるパターンだが、ここは嘗て地域初の学校があった場所であると言う。

学校発祥の地
南南東約230mに、市立片山小学校があるが、元はこの境内に「黒目学校」として1874年(明治7年)に開校したとある(1925年に現在地へ移転)。
お寺との直接の関連はないのだが、当寺院、実は本堂裏手に、

片山富士
「片山富士」と呼ばれる富士塚(高さ約7.2m、直径約35.3m)がある。富士塚は、富士登山が叶わぬ人たちのために築かれた、富士山信仰に基づくミニチュア富士山である(例:こことかこことか)。
残念ながら、赤い屋根付き橋の向こうにある富士には、許可なしには登れない。

登拝証が必要
この表示に○に吉の字のロゴがあるが、これは以前清瀬市の「中里富士」にも関わっていた様だと書いた「丸吉講」のものである。「まるよし」ではなく「まるきち」と読む。
丸吉講は、江戸後期に浅海吉右衛門が中心となった富士講(富士山信仰の講社)である。吉右衛門さんは、ここ道場の南に接する片山の出身である。彼は富士登山33度の記念に、1831年(天保2年)、当境内に富士を築いた。

山に丸吉、のロゴ
丸吉講は、主に新座市を中心に活動したもので、新座市及び周辺エリアにある丸吉講が築いた富士は10を超えるようだ。で、そのなかでここは最初に築かれたものと言う。やはり地元、と言事であろうか。

法台寺・片山富士航空写真
2019年(令和1年)10月30日国土地理院撮影
黄★が富士塚、「1」は山門、「2」は覆屋、「3」は本堂、「4」は久米御前像。富士が本堂すぐ裏手なのが、お分かり頂けるであろう。
しかし、なぜ法台寺境内に築かれたのかは不明。
お邪魔致しました。
―撤収。
2025年弥生9日
(取材は1月下旬)
――――――――――――――――
・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・ご訪問・ご探訪の際は、マナーを守り節度ある行動をお心がけ頂けますよう、お願い致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
・参照:新座市HP、清浄光寺(遊行寺)HP、「猫の足あと」さん、埼浄青HP、プチ・ぶんか村HP「特集 久米御前」、「そうだ京都、探そう」、「石仏と石塔!」さん、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は埼玉県新座市、最寄り駅は西武池袋線保谷駅です
*広沢実方:河内源氏類代の家人でもあった波多野氏の一族。頼朝に従い各地で戦功
*片山:武士団片山氏が治め、承久の乱後に丹波国船井郡に移る。新座市片山は道場の南側にある
*板石塔婆:新編武蔵風土記稿には全13基とある様だ
*緑色片岩:玄武岩等の火成岩が深部で高温高圧による広域変成作用を受けてできた岩石
*実朝の側室:一般に実朝は側室は持たなかったとされるので、久米御前の存在には謎がある
*禅定尼:仏門に入った在家の女性のこと
*講社:同じ対象を信仰する人々の寄り合い。富士講は選ばれた講員が代表として富士参拝登山を行った。外れた人などのために富士塚が作られたとされる
(スマートフォン版は通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)
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