MYSTIC RHYTHMS

日常雑記、音楽報告、鉄塔そして詩など

ミスティック・リズムス

多摩の古書店主が綴る日常雑記。古本屋な日々...

北の離れ 多磨霊園5区無縁合祀墓所 弐

多磨霊園5区無縁合祀墓所 弐

 多磨霊園5区無縁合祀墓所にある墓所のうち、紹介からもれていたもの達を、紹介したいと思う。墓所三つと、他が二つ。

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5区無縁合祀墓所
北側から

 一応、確認のために記すと、無縁合祀墓所には以下のものがある。

 1 東京市行路病者(納骨堂より) 昭和18年
 2 青山墓地無縁 昭和10年3月
 3 東京市(都)養育院死亡者 昭和5年3月
 4 亀戸墓地無縁 昭和4年7月
 5 橋場墓地無縁 昭和2年3月
 6 多磨既設合葬地(17区より) 昭和14年9月
 7 多磨霊園無縁 昭和36年3月
 (番号は便宜上のもの)

 この内、2、3、4そして5は既に紹介した。今回は1、6そして7を紹介。
 1は、無縁仏の保管も行っていた当多磨霊園内納骨堂から移されたもの。6は青山墓地の無縁仏を、当霊園17区に埋葬してあったものをここに改葬したもの。7は当霊園内に元々あったお墓を整理した際に生じた無縁仏を、ここに改葬したもの。

 まずは、「多磨霊園無縁」。大廻り西通り沿いに凡そ南北に並ぶ合祀墓所の、最北端。

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多磨霊園無縁

 「多磨霊園諸精霊」とある。昭和36年(1961)建立で、この墓域の中では最も新しい。村越知世著「多磨霊園」には、年表の昭和35年(1960)の段に、

 12月8日、無縁墓地使用許可取消391ヵ所(改葬整理は36、40、44年に実施)

とあるので、この36年の際建立されたのかもしれない。この許可取消は、新たな墓地造成場所確保が目的である。

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多磨霊園無縁右翼下地蔵菩薩

 右翼壁下のお地蔵さまには、常に何か供えられている様に思う。

 次に、「多磨既設合葬地(17区より)」。上の「多磨霊園無縁」の隣。

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多磨既設合葬地

 当霊園の17区に埋葬してあった青山墓地(昭和10年「青山霊園」に改称)の無縁仏を、ここに改葬したものである。前回紹介した昭和10年建立の「青山墓地無縁」に改葬されるよりも以前に移されていた青山墓地無縁仏であろうと考えられる(「歴史が眠る多磨霊園」さんより)が、詳細は不明。17区にあった頃は、一か所1.5平方mあたりの墓地に並列に埋葬されており、外国の軍人墓地の様であったそうだ(「多磨霊園」より)。

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多磨既設合葬地

 五重塔を模したような柱状の墓石は、横に走る四つの線により五つの石を重ねた様に見える。その五つに、一字ずつ文字が刻まれている。最上段は「キリーク」と呼ばれる子年(ねどし)を表す梵字で、その下に「倶」「会」「一」「処」(くえいっしょ)」と四分割で刻まれる。「処」の字体は雨冠っぽくも見える可也独特な文字であるが、「処」の旧字である「處」の異字体の様である。

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「処」の旧字「處」の異字体
(コントラスト強調)

 「倶会一処」とは、前回にも書いたが、極楽浄土に往生すれば仏や菩薩に或いは家族や友人に会い一つ処で倶(共)に暮らせる、の意だ。

 裏面四段目には、

 青山墓地にて無縁と
 認められし墳墓を
 昭和十一年十二月
 此の塋域に改葬す
 東京市

 とある。「塋域(えいいき)」は墓域の意だ。昭和11年は子年で、表の梵字と一致する。
 また、この墓碑下(五段目)には、

 祈無縁諸主霊冥福
 増島工 施行主 増島金次郎寄進
 昭和十四年九月廿日建之

 とも記されている(建てられたのは昭和14年9月個人によるものと知れる)。「増島工 施行主」は二行に並び、その下に「増島金次郎寄進」とある。おそらくは、寄進されたのは増島金次郎さんで、実際に施行(せぎょう)されたのは増島工さんという事ではなかろうか。施行主とは、所謂「施主(せしゅ)」で、お寺に施しをする人、法事を営む人、建築主などを指す言葉だ。「施」の字は可也読みにくく、間違えているかもしれないが、この様に理解するのが適当に思える。若しかしたら、こちらも異字体が使われているのかもしれない。

 次に、「東京市行路病者(納骨堂より)」。合祀墓所の、南の端。

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東京市行路病者

 当霊園納骨堂より移されたもの。納骨堂は、昭和9年(1934)6月に墓地を持たない東京市民に対し遺骨を短期間保管する目的で建てられたものだが、行旅死亡者や引き取り人のいない死亡者またその他無縁の遺骨も保管することとなっていたそうだ。
 墓石は五輪塔で、最下段の「地輪」が長く、そこに「倶会一処」とある。上の多磨既設合葬地と全く同じく、「処」は「處」の異字体である。
 墓石裏面には、

 薄幸ナル市内行旅死亡者ノ遺骨ハ当墓地
 納骨堂ニ安置シ来タリシモ時経タルヲ以テ
 此ノ霊域ヲ設ケ埋葬ス
 昭和十八年 月 東京市
 (旧漢字を新漢字に改めました)

と記されてある。「月」の部分は空白となっている。東京が東京府と東京市を統合して都制を施行したのは昭和18年(1943)7月1日(公布は6月1日)。「東京市」とはっきりあるので、昭和18年でも7月1日より前に建立されたのであろうと思われるが、この「市」から「都」への移行が絡んで、空白となったのであろうか。如何いう経緯でこうなったかは不明だが、その辺りの事情が理由かもしれない。

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空白の「月」
(コントラスト強調)

 なお、行旅死亡者とは、氏名や住所などが不明で、引き取りても居ない死亡者を指している。

 最後に、今まで紹介してきた墓所との関連は不明だが、墓所の狭間に建つ二つを紹介したい。二つは、「青山墓地無縁」を間に挟むように在る。

 一つ目は「慰霊碑」。

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慰霊碑
「青山墓地無縁」の左
右下は「青山墓地無縁」の前庭左端

 「青山墓地無縁」と「東京市行路病者」の間に、やや「青山」側を向くような形、つまり園路側に正対せず斜め向きになって建っている。故に、「青山」との関連を考えたくなるが、「慰霊」と刻まれるのみで一切詳細は不明だ。ただ、鑿(のみ)跡が残る裏面に「大正二年十一月建之」とあるので、大正12年に開園したこの霊園とは関連なく建てられたものが、のちにここへ移設されたものと考えられる。元来青山墓地にあったものが、無縁仏が多磨霊園に改葬となる際、共に移されたのかもしれない。あくまで私の推察だが。

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慰霊碑と墓石と卒塔婆

 また、慰霊碑後ろに隠れるようにひっそりと、墓石が佇んでいる。此方も「南無阿弥陀仏」と刻まれるのみで一切墓碑的なものは無く、詳細は不明だ。ただ、文字は旧漢字であるので、相応に古いものであるのは確かそうである。左側に、倒れかけてはいるが、卒塔婆も立てられているので、供養は行われている様だ。

 二つ目は、五重塔。最上層と頂部の宝珠は、落下したのであろうか、基部横に置かれている。

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五重塔
「青山墓地無縁」の右
左は「青山墓地無縁」の右端部分、右下は頂部

 場所は、「青山」と「養育院」の間であるが、大分「青山」寄りに位置するので、そちら関連とも思える。然し何の文字もなく、一切は不明である。

 今回紹介したものは、五重塔を除き皆花が手向けられたあった。花は、大分新しい。

 以上、都合三回(一回目二回目)に分け、無縁さまの埋葬された施設を紹介してきた。大都市の霊園では、今無縁仏となるお墓は10%程もあるという(wikipedia)。独身者の増加や少子化で、家系が途絶えるなどして無縁仏となる例は多磨霊園でも多い様だ。荒れた墓域をチェックし、写真を撮って所有者に連絡をしているという職員の方に今回偶々取材中お話を聞かせて頂いたが、親族或いは関係者の方々と連絡の取れない場合は多々あるという。
 ここ多磨霊園に限った話ではないが、社会的孤立の増加や貧困層の拡大、また家族・親族は存在・判明しても家族・親族間のトラブルで引き取りを拒否される等で無縁仏となる例が増えているそうだ。沖縄県での例だが、県内市町村が火葬・埋葬した65歳以上の高齢者161人(2012年度から5年間)中、家族・親族が見つからなかったのは一割にも満たず、九割以上は家族・親族に引き取りを拒否されたものだという。またNHKの全国1,783自治体に対する調査でも、自治体により火葬・埋葬された人32,000人中、明らかな身元不明人は1,000人のみであったそうだ(沖縄タイムス2017年4月21日記事より)。
 社会全体が、「無縁」化しているのだ。合祀墓所の合葬墓に眠る多くの方々が生きておられた時代は、本当に天涯孤独で無縁仏となった方も多かったのであろうけれど、今は少し様相が異なるようだ。
 斯く申す私なぞ、独身子供なし。おそらくは、これからもそれは変わらぬであろう(残念)。ゆえに、遠からず無縁仏となる運命(さだ)めと考えられる。他人事では、ないのだ。

 合掌。

*多磨霊園用語集 多磨霊園索引

2018年師走9日
(取材は11月下旬)

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・墓所の取材につきましては、十分配慮しておりますが、もしご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・霊園ご訪問・ご探訪の際は、マナーを守り節度ある行動をお心がけ頂けますよう、お願い致します

・村越知世著「多磨霊園」(一部引用させて頂きました)、サイト「歴史が眠る多磨霊園」さん他を参照させて頂きました

*無縁墓地使用許可取消:本文中では、12月18日となっている
*梵字:サンスクリットの表記に用いられる文字。キリークは子年を表す場合は千手観音菩薩、戌年・亥年を表す場合は阿弥陀如来がそれぞれ守り本尊
*青山霊園:昭和10年八柱霊園開設を機に東京市の墓地はすべて「霊園」に改称
*東京府、東京市:東京府の府庁所在地が東京市であった。おおよそ今の23区に当たる。昭和18年に東京府も東京市も廃止されて東京都となった
*無縁さま:霊園管理事務所の方々は合祀墓所をそう呼んでいたと「多磨霊園」にある

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Fe塔 小金井秋色

小金井秋色

 例年、多少他の場所よりは紅・黄葉の進み具合の速い小金井公園を訪ねてみた。
 すると、―やっぱり、であった。

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中富線54号

 54号右手のケヤキが、枯葉色。

 今年の多摩の秋は、ここ小金井公園に限らず、ケヤキの紅・黄葉が非常に残念な状態だ。いつもなら、ケヤキの特性として、黄、橙、茶そして赤と様々に色づく(例1例2)のだが、この秋は色づくことなく枯れ色となっている個体が非常に多い。あの「チャーミー(台風24号)」による塩害の影響であろうか。一寸、枯れ色ケヤキが目立ちすぎる。緑地の南側の縁に立つような個体、つまりチャーミーによる南風に吹き晒される状況にあった個体に特に枯れ色が目立つか、と言うと必ずしもそうとは言えない気もするが、それは単に個体差によるものかも知れないし、何とも言えないのだが、これほど枯れ色ケヤキが多いのは、他に理由が思いつかない。

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54号と枯れ色ケヤキ

 オカサカ鉄塔も訪ねてみたが、やはり同様。枯葉色だ。一昨年同時期とは、かなり異なる。

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岡部境線142号

 致し方なくケヤキは諦め、脚元のカンツバキが奇麗だったのでツーショットを狙ったが、光量不足で上手く行かなかった。

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142号とカンツバキ

 一般に、台風による塩害は、強風で巻き上げられた海水中の塩分が葉に付着することによって起こる。浸透圧の変化で、葉細胞内の水分が外に出てしまうのである。よって葉が薄く大きい落葉広葉樹が影響を受けやすいとされる。ただ、ケヤキと異なり、同じ落葉広葉樹であるサクラやイチョウなど他の樹種には顕著な変化は見られない。多少塩害の影響はある様にも見えるが、少なくもケヤキほど目立つものではない。園内のイチョウなど、例年通りに思えた。

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イチョウと岡部境線141号

 やや雲量多めで、薄雲が日を隠しがちな日和であったが、一瞬、141号手前のイチョウに強い光が差した。
 小金井、眩い黄金色。

 ケヤキは塩害に弱く、海に近い場所では成長に影響が出たりするそうである。すると、やはりそういうことであろうか。ネット上でも、この秋ケヤキの葉色の異変を報ずる記事を多く見かける。千葉や横浜など海に近い場所にお住まいの方のものが目立つが、東京も案外海は近い。それに、以前にも書いたが、「チャーミー」通過のあの夜(よ)の風はこの多摩でも半端なく凄まじいものであった。ここ小金井公園でも、以前紹介した矢川緑地同様、幾本もの大木が倒れた。
 猛烈に風が強く雨は少なかった。起こりやすい条件が揃っていたので、塩害があったとしても、不思議ではない。

 何れにしろ、このような枯れ色に染まったケヤキ達の姿、私は初めて見た。

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岡部境線140号

 左端のケヤキが、枯葉色。

2018年師走6日
(取材は11月下旬)

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・取材に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・この鉄塔の建つ場所は小金井市関野町・花小金井、最寄り駅は西武新宿線花小金井駅です

*塩害:葉に関する影響だけでなく土壌中の塩分濃度が上がる影響も考えられる(これも浸透圧の変化)。防ぐにはなるべく早く水で植物表面を洗浄すること

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Fe塔 交差の形 3

交差の形 3

 交差を過ぎた10号(標高17.1m)は、当然乍ら通常型に戻る。

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登戸線10号(昭和42年2月 34m)

 前回触れた様に、私が見上げる脚元の道路は用水跡らしき緩やかなカーヴを描いている。

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10号

 架空線も、そのカーヴに沿って緩やかに曲がる。

 最後に、交差には直接関わらない登戸線11号(標高17.1m)。これは、南武線線路脇の土手下に建ち、遠目には一見結界フリー。

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登戸線11号

 なのだが、近づくと、脚元付近の部材間に鎖が渡され、「入っちゃダメ」とアピールしている。私としては、非常にネンザンな鉄塔である。

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11号結界

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11号プレート(昭和42年2月 34m)
小プレート向こうを南武線が通る

 然し、脚元には「ふれあい広場」なる手作り感満載の、樹々草々繁るちいさな細長いスペースがあり(上画像結界の奥)、また土手法面にも草繁り、懐かし気な匂い漂う、味ある鉄塔なのである。

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土手の道と11号
右手下が、ふれあい広場

 今回、三回に渡り紹介してきたのは多摩川沿いに建つ鉄塔たちだが、その鉄塔たちの少し西、多摩川にかなり大きな堰がある。「二ヶ領宿河原堰」(標高16.0m)だ。慶長16年(1611)に完成したニヶ領用水の取水口の一つである。この取水口及びここから流れる宿河原用水の完成は、寛永6年(1629)。何れにしろ、可也歴史のある存在だ。

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二ヶ領宿河原堰
川崎市側。対岸が狛江市

 嘗て、昭和49年(1974)9月、多摩川で大きな水害が起こり、狛江市の民家19戸が流出した。その水害の原因の一つが、この堰とされている。増水し濁流となった多摩川の水のその流れを、堰が妨げてしまったため、堤防が破壊されたのだ。堰はその際、水流の向きを変える為、陸上自衛隊や建設省(現国土交通省)によって数回に渡り爆破された。
 現在の堰は、平成11年(1999)に新たに作られたものである。
 私はこの水害の様子、家々が次々に流される姿また堰爆破の模様を、テレビのニュースで見た記憶が薄っすらとある。自転車に乗りたびたび出掛けた、その馴染み深い多摩川の凄まじい力を見せられ、多くの水鳥が集い揺蕩(たゆた)う普段とは異なるその姿が、子供心にも印象付けられたのを、幽かにではあるが憶えている。

 今回の鉄塔巡りで、偶々出会った二ヶ領宿河原堰、遠い記憶が呼び起こされた。

2018年師走4日
(取材は11月下旬)

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・取材に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・この鉄塔の建つ場所は川崎市多摩区宿河原、最寄り駅はJR南武線宿河原駅です

*二ヶ領用水:多摩川最古の用水。家康の命により代官小泉次太夫により開削された。宿河原用水はその一部で、代官伊奈半左衛門の手代筧助兵衛により開削された

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Fe塔 交差の形 2

交差の形 2

 シンツル47号(標高18.1m)は、通常の、よく見かける平成改修型。

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新鶴見線47号(大正15年11月建設 平成10年7月建替)

 この47号すぐ手前で、登戸線がシンツル架空線下を潜っている。

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47号と登戸線8号・9号

 私有地越しなのでポジションが限られ、47号にサクラの枝が被りまた逆光で可也見難くて申し訳ないが、下左の小さなガントリーが登戸線9号、左端は登戸線8号だ。

 シンツルも登戸線も左程塔高に差が無いので、交差となれば、その部分だけ何方かを高くして「越す」か、逆に何方かを低くして「潜る」かする必要が生じる。この場合、登戸線(昭和42年建設)の方がシンツル(大正15年建設)より大分新しいので、登戸線が「越す」か「潜る」かという事になり、最終的には後者となったのであろうと思われる。
 何故、「越す」のではなく「潜る」が選択されたのか。
 登戸線は、現在は一般的な二回線だが、以前は三回線であった模様だ。よく見ると、今も下段部分に腕金の痕跡が、小さな突起として残っている。併架されていたのは、小田急向ヶ丘線という、東急高津変電所と小田急向ヶ丘変電所とを結ぶ一回線の路線であったそうだ(あこうホームページさん「送電線考古学」参照)。

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腕金痕跡(10号)

 この三回線であったがため、「越す」となると可也塔高を上げる必要が生じるので、「潜る」が選択された、という事なのかもしれない。
 それにしても、ちょっと低くし過ぎの様にも思えるが、それは素人考えなのであろうか。

 では、登戸線も順を追い、改めて8号(標高15.6m)から。

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登戸線8号(昭和42年2月 46m)

 脚元道路側はサクラ並木。紅葉が期待できたが、然し早くも、ここの樹々は既に葉を落としている。

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8号

 次にいよいよ、シンツル下を潜るのだが、8号とシンツル直下の9号との位置関係はこの様になっている。

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左8号、右9号

 8号は東名高速道路を越える為、結構高身長(46m)。このままシンツルを越せたのではなかろうかとも思えるが、前記の様に建設当初は下段に併架(小田急向ヶ丘線)があったので、難しかったのかもしれない。

 9号(標高15.7m)だが、拝島線「猫耳なし」ガントリーを彷彿させる、小さな可愛らしい鉄塔だ。

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登戸線9号

 残念ながら小プレートの塔高表示が隠れて見えないが、「TinySlpe」さんを参照させて頂くと13mとなっている。拝島線より2mも低い。

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9号

 交差を下から見上げる。

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登戸線と新鶴見線の交差

 8号と9号が建つのは、緩やかに曲がる細長い植木畑。そこに沿う、私の立っている道路より、一段低くなっている。その先、10号・11号の沿う道路も、緩やかにカーヴしている。この形状、用水路の跡の様に思える。古航空写真を見ても、すぐ南を流れる宿河原用水から分水したものが流れていた様に見える。

 辺りを彷徨いていると、小さな水田に続く細道があった。
 道は、行きどまりとなっていたが、水田越しに9号と48号が並ぶ絵を得ることができた。

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9号と47号

 この周辺では、奇跡的に残ったのであろう田圃には、もう大分稲孫(ひつじ。二番穂)が伸びている。
 私のすぐ背中側は、南武線線路で、その下を潜り、可愛らしい細い用水路がこちら側に向かい流れている。

 流れの音を聞きながら、少し歩き視点を変えると、屋並の上に46号が小さく見えた。

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46号

 では、次回は10号と11号をご紹介。

 3につづく

2018年師走2日
(取材は11月下旬)

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・取材に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・この鉄塔の建つ場所は川崎市多摩区宿河原、最寄り駅はJR南武線宿河原駅です

*潜る:新鶴見線19号−20号間を、当時の和田堀線であるところの現中富線90号−91号間で潜っている様に見えるのは、この登戸線9号のような形であったのだろうか
*宿河原用水:多摩川から引かれた二ヶ領用水の支流

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Fe塔 交差の形 1

交差の形 1

 送電路線と送電路線とが交差することはままあるが、私が今まで見てきたものは、高塔高の鉄塔に架けられた送電線が、低塔高の鉄塔に架けられた送電線の上をそのまま通過して行くのが一般である(只見幹線と境八王子線北多摩線と戸田線)。特別な事はせず、何事もないかのように、上を行く架空線が上を行き、下を行く架空線が下を行く。ただ、中には、交差部分を挟む二基だけ塔高を高くし「越える」パターンや(新鶴見線と深大寺東線)、逆に交差部分の一基のみ塔高を低くして「潜る」パターンもある(只見幹線と桜ヶ丘線)。
 今回紹介の交差は、この後者の「潜る」パターン。なのだが、その潜り方が少々極端。
 で、潜るのは登戸線。潜られる方は、シンツルことJR新鶴見線。新鶴見線が45号から46号へと多摩川を渡河し、47号へと住宅地を南へと進み行くその際、東から来たった登戸線が、シンツル下を潜りぬけて行く形。通常型鉄塔8号と10号の間、小型ガントリー9号がシンツル直下で架空線を引き下げている。

 ではまず、設置の古いシンツルから順に。鉄塔は46号。
 以前紹介の、古鉄塔45号(標高18.8m)が多摩川を越えて架空線を受け渡している。

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新鶴見線45号

 45号向こう、左右に白い塔は以前紹介した川世線の「鉄柱」だ(何号かは不明)。

 形態的にはそっくりクリソツな対岸の45号とは、立地は大分異なる46号(標高18.7m)。あちらは周囲に農地があり、直下は開放され広場的にもなっていたが、こちらは、周囲はほぼ家々に囲まれ、すぐ北側には非常に交通量の多い「多摩沿線道路」が走っている(狭く大型車が多いので取材の際は十分にご注意下さい)。

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新鶴見線46号

 振り向くと、堤防の上に45号が季節外れの土筆(つくし)の様だ。

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土筆(45号)

 この46号鉄塔に関し気になるのは建設年だ。大正15年11月建設(「TinySlpe」さん参照)の45号とは大幅に異なる「昭和26年11月」と表示されていることだ。通常年月日の前または後に書かれる「建設」の文字が無いのだが、おそらく建設年を表していると思うのだ。でも、45号と同時に建てられているはずなのに、この違いは、何だ?

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46号(昭和26年11月 昭和55年5月改造)

 試みに、例によって古航空写真で確認して見た。

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新鶴見線46号周辺航空写真
昭和23年(1948)7月26日米軍撮影
上は多摩川、その下の道路は現多摩沿線道路
食糧難の時代、河川敷も畑だ

 すると、まだ建ってはいないはずの昭和23年の航空写真にはっきりと46号がトンガリ三角錐の影と共に写っているではないか。更に古い、昭和16年のものを見ても、

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新鶴見線46号周辺航空写真
昭和16年(1941)7月8日陸軍撮影
上は多摩川、その下の道路は現多摩沿線道路

同じ場所に下駄を履いて建っている。という事は、建設はやはり45号同様の大正15年だが、昭和26年に建替えられた、という事を、小プレートの表示は示しているのではなかろうか。現時点では、その様にしか考えられない。

 南側、順光側へ回り込む。住宅地の中、非常に細い路地に面し、鋭い四角錐は建っている。

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46号
プレートに固定用ボルトがない

 急に照り始めた陽に、眩い。
 基部を見れば、川沿い渡河鉄塔によくみられる、コンクリート「下駄履き」は45号同様だ。万が一の洪水の際、流石(りゅうせき)や流木から脚部を守る為であろうと思われる。

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46号の下駄

 ご近所の方が育てのであろうか、紫の花が美しい。サルビア・レウカンサだ。

 さて、交差地点へ行ってみよう。ここからさらに南である。
 振り向くと、46号は家々の上に仁王立ち。

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46号

 いやにギラギラと光っているが、それは光線の角度の影響で、実のところ、可也赤い錆止めが露出している。

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46号頂部
第一腕金の補強部材が縦だ(45号は横)

 2につづく

2018年霜月30日
(取材は11月下旬)

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・取材に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト

・この鉄塔の建つ場所は川崎市多摩区宿河原、最寄り駅はJR南武線宿河原駅です

*サルビア・レウカンサ:シソ科サルビア属の多年草。中央アメリカ原産。レウカンサは白い花の意だそうだが紫のものもある。花はビロード状で赤紫や紫の萼片に包まれる

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Fe塔 東航通り

東航通り

 五日市街道から北に分岐する都道55号線を辿り玉川上水を越え、右手の分かれ道へ入ると、ほどなく西武拝島線「玉4」踏切に至る。

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 この踏切を挟んで立つのが、鉄塔の方の「拝島線」33号(標高105.4m)と34号(標高105.7m)。
 右手に33号、左手に34号。

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拝島線33号

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拝島線34号

 何方も、この区間独特の、可愛らしい小さな、猫耳なしのガントリー(門型)鉄塔だ(架空地線は設置されていない様に見える)。

 個別に見て行こう。―と言っても、はっきり申し上げてほとんど区別がつかないクリソツ鉄塔だ。線路上に並ぶガントリーの宿命として、景色もあまり変わらない。ただ、今回の二基は、間に踏切を持つので、多少変化は大きいと言える。

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33号(昭和41年1月 15m)

 33号は踏切との距離は可也近い。

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玉4踏切と33号

 34号は、踏切からはやや離れる。

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34号(昭和41年1月 15m)
奥は33号

 こちらは、接近が不可能な33号と異なり、南側からも接近が可能であった。

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34号と6000系

 冒頭触れた、33号と34号の間を分かつ玉4踏切だが、ここを渡る道路には「東航通り」という名が冠せられている。

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東航通り表示

 この表示付近から南の玉4踏切を振り返る。左に見えているのが33号だ。

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東航通りと33号

 この「東航」とは何ぞや?
 この道を北へ進むと、突き当たる交差点に、これがある。

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東航正門跡

 嘗てこの地には「東京陸軍航空学校」なるものが存在し、「東航」と呼ばれていたのだ。
 この施設では、WW2前の昭和13年(1938)から昭和20年(1945)の敗戦にかけ、多くの少年たちが学び、飛行兵となって戦地に向かったのだが、それについては、此方に別記事を設けたので、ご興味の御有りの方は、宜しければご覧下さい。

2018年霜月28日
(取材は11月中旬)

――――――――――――――――

・取材に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・この鉄塔の建つ場所は立川市砂川町、最寄り駅は西武拝島線武蔵砂川駅です

*6000系:ボディ下部青いラインの下に凸型の線が三本走っているので初期のステンレス車ではなかろうか

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

はけの下 ウイルス抗体価

ウイルス抗体価

 溶血性貧血で、ステロイド錠剤を服用している我が家の保護猫、式部(二代目。9歳)。このステロイドには免疫抑制作用がある為、年一回の三種混合ワクチンが打てない。白血球やマクロファージなどウィルスをやっつける役割のものたちが、抗原(ウイルス)から遠ざけられ期待される抗体を作れないのである。
 よって、昨年打ったワクチンがまだ効いているかどうか、作られた抗体が十分あるか否かを検査することとなった。月一の血液検査(赤血球の量や肝臓の状態を見る)の際にやって頂いた。
 結果は、十二分と言えるほどのものであった。

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式部(♀)
本当の名前は何だったのだろう

 具体的数値は以下である。

 ・猫パルボウイルス抗体:80倍
 ・猫カリシウイルス抗体:12,800倍
 ・猫ヘルペスウイルス抗体:3,200倍

 これが、どの程度のレベルであるかと言うと、
 ・猫パルボウイルス(FPV)
 40〜:1年以上の発症防御能が期待できる
 10〜20:発症防御能を保持
 10未満:ワクチン接種が望ましい

 ・猫カリシウイルス(FCV)
 3200〜:効果を維持するに保有すべきレベル
 800〜1600:最低限の効果レベル
 〜400:ワクチン接種が望ましい

 ・猫ヘルペスウイルス(FHV-1)
 1600〜:効果を維持するに保有すべきレベル
 400〜800:最低限の効果レベル
 〜200:ワクチン接種が望ましい

 掻い摘んで言うと、
 FPV:10未満、FCV:400以下、FHV-1:200以下 ⇒ワクチン効果不十分
 FPV:10〜20、FCV:800〜1600、FHV-1:400〜800 ⇒現時点では効果あるも1年以内のワクチン接種が望ましい
 FPV:40以上、FCV:3200以上、FHV-1:1600以上 ⇒長期間持続が期待できる十分な効果あり

という事の様だ。(以上、検査報告書より)

 式部の場合、数値だけ見れば、あと一年くらい打たなくても大丈夫そうである(あくまで数値だけの話)。

 日本では、猫の三種混合ワクチン接種は年一回が一般だが、動物医学先進地域であるところの欧米諸国では、三年に一回程度が一般だそうである。アレルギー発症などのリスクも伴うためだ。日本でも、この「三年説」をとるドクターも増えてきているらしい。確かに、抗体が十分であれば何も毎年リスクを冒してまでワクチン接種をする必要はない(ヒトの各種ワクチンも同様)。
 ただ、ただである。この抗体価が十分であるか否かは血液検査をしなければ分からない。この抗体価検査がワクチンを打つより大分高額(ワクチン¥4,000前後、抗体価検査¥8,000前後)なのだ。これは、問題である。検査の結果、もし抗体価が低ければワクチンを打たなくてはならないし。ワクチン接種や、治療に伴うものではない検査は保険の対象とならないから大変である。
 この抗体価検査が、もっと低額で可能であれば、不必要なワクチン接種も減りそれに伴うアナフィラキシー(重度のアレルギー反応)も減らせる。我が家でも、何十年も前の昔だが、ワクチン接種後のアナフィラキシーで子猫が亡くなったことがあった。そうした事故も減らせる訳だ。

 最後に画像についてだが、式部はなぜか腕、肩、胸にしがみついてくる癖(へき)がある。身体がデカく力も強いので、痛い。爪は切っているのだが、それでも痛い。しかも体重が5.6圓△襪里如⊇鼎ぁJ匱蠅濃戮┐覆ら、シャッターを切るのは至難であった(なのでアングルが中途半端)。

2018年霜月29日

*ワクチン:猫の場合、猫パルボウイルス感染症(猫汎白血球減少症)、猫カリシウイルス、猫ヘルペスウイルス(猫ウィルス性鼻気管炎)と言う三つの感染症に対する三種混合ワクチンが一般的なもの。この三つのうちパルボウイルスワクチンによる免疫は可也強固なものであるらしい。それに対し他の二種にワクチンがもたらす免疫は完全防御が期待できるものではなく、ヒトのインフルエンザのワクチン同様、罹りにくくするとか罹っても症状を軽減する事が目的のものであるとか

北の離れ 東京陸軍航空学校跡 その北

東京陸軍航空学校跡 その北

 東京陸軍航空学校(のち少年飛行兵学校)の他にも、この周辺には軍事施設があった事は前回に触れた。その際の航空写真はWW2前のものだが、これはWW2後のもの。でも、まだ施設はほぼそのまま残っている様に見える。

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東京陸軍航空学校周辺航空写真
昭和21年(1946)2月13日米軍撮影

 此方を見れば瞭然、WW2前のものには見えなかった一本の道路が、南(下)の航空学校と北(上)の施設を繋ないでいる。
 この大きな四角形の施設は、所沢陸軍航空整備学校立川教育隊。左に小さく飛び出している四角は、村山陸軍病院だ。右下にある小さな四角は、1941年写真でアップにすると、自動車教習所のような複雑に入り組んだコースが見える。

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所沢陸軍航空整備学校立川教育隊周辺航空写真
昭和16年(1941)6月25日陸軍撮影

 これは、教育隊が作られる前の施設、昭和15年につくられた陸軍東部第七八部隊(高射砲第七連隊)(85,200坪)の関連施設で、高射砲を運ぶためのトラックの運転練習をする為の自動車練習場である。なお、第七八部隊メインの施設(営庭)には、塔高30mの鉄塔が四基建てられ、そこに張り渡したワイヤーに模型飛行機をつるし、高射砲の照準を合わせる訓練が行われていたそうだ。この鉄塔はそのまま残っていたのか、その影は、1946年写真にも写っている。
 整備学校であるが、こちらは所沢の陸軍航空整備学校が昭和18年8月に所沢陸軍整備学校と改称された際の増設で昭和18年9月に作られ、10月に15期生600名の入校から始まった。満14歳から17歳の高等小学校卒業生が、それまでの甲種制度で行われていた少年飛行学校過程1年間を省いた、短期養成システムである乙種制度の下で教育を受けた。先ず半年間生徒課程を学び(終了後上等兵)、のち更に半年間実課(実戦機整備)を学び卒業(兵長)、そして各飛行師団入隊というものであったそうだ。
 これら施設は、航空学校含め、立川飛行場(現昭和記念公園等)を中心とした大規模な陸軍航空関連施設の一部を成している(多摩飛行場(現横田基地)や、以前紹介した日立航空機立川工場なども含まれる)。嘗てはこの周辺地域、立川を中心にした一大軍都の一角だったのだ。故に、整備学校・航空学校周辺は、昭和20年(1945)4月2日・4日と2度に渡り空爆を受け、4日には航空学校他が目標となり、生徒4名及び炊事係の18歳の女性含め、9名の死者と多数の負傷者が出ている。

 陸軍病院は、昭和16年10月に近衛師団直轄病院として開設され、すぐ近くの航空学校や上記の整備学校他の傷病者を収容していた。病院は、WW2後国立村山病院に、更にのちには国立療養所村山病院(結核療養所)となった。昭和25年から26年にかけては旧整備学校敷地(米軍が駐留していた)も併合したが、昭和40年(1965)病院は敷地北西部に移って、現在は国立病院機構村山医療センターとなり、元の陸軍病院跡は東京経済大学となっている。

 整備学校の跡地は、小中学校や一部公園などはあるもほぼ完全に住宅地となっている航空学校跡地とは異なり、住宅地もあるにはあるが、大半は大きな公的施設で埋められている。これは、長く整備学校跡地が村山病院に占められていた為であろうか。
 整備学校跡地に現在ある主な施設を挙げると、旧村山病院である国立病院機構村山医療センター(標高111.5m)、国立感染症研究所村山庁舎(標高109.7m)、都立村山特別支援学校(標高110.7m)、東京小児療育病院(標高111.8m)そして小学校、雷塚公園(標高110.9m)など。陸軍病院の跡地は、上で触れた様に東京経済大学武蔵村山キャンパスとなっている。

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国立病院機構村山医療センター


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国立感染症研究所村山庁舎

 この村山庁舎は、極めて危険性の高い病原体を扱えるバイオセーフティーレベル(BSL)4の施設。厚生労働省は、エボラ出血熱やラッサ熱、クリミア・コンゴ出血熱などの検査体制を強化するため病原体(ウイルス)を輸入し、この村山庁舎に保管する意向であるが、周辺住民の反対にあっている。画像でご覧の通り、施設の周囲は住宅地で、隔てるものはフェンス一枚だ。すぐ裏手には小学校もある。住民の方々が不安を覚えるのも、無理からぬことである。

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都立村山特別支援学校

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東京小児療育病院

 上の支援学校右手奥は感染症研究所、下の療養病院奥は支援学校と、この三施設は横並びである。位置的には医療センターの南。

 そして、支援学校裏手に接する雷塚(らいづか)公園。

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雷塚公園

 この、整備学校立川教育隊跡や陸軍病院跡に関しては、南の航空学校のような碑も解説板も見当たらない(私が見つけられなかっただけかもしれないが)。その辺り、小金井の多摩陸軍技術研究所同様、非常に残念だ。身近なと言うか足元の戦跡の存在を知れば、戦争について考える一つの縁(よすが)となると思うのだ。

 おまけ。
 余計と言われるかもしれないが、ランチする為訪れた雷塚公園で、気になる遊具を見つけたので、最後にご紹介。
 まずは、子供大好き新幹線だ。

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新幹線
泥だらけ

 三両編成の、カワイイ新幹線。0系か100系か何方であろうと思うが、公園は1960・1970年代的雰囲気が漂うので、おそらくは前者ではなかろうか。
 次はシマウマ。

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シマウマ
写実を拒否する縞模様

 蹲ったボディの量感と、何とも言えない表情がタマラン。
 他にも、いやに足の短いキリンや遊具としてはめずらしいクワガタムシ、ピンクのゾウの滑り台そしてあやしいキノコなど、気になる遊具やおじさんには懐かしいイキフンの遊具がいっぱいだったぞ。

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手前がピンクのゾウだ

2018年霜月25日
(取材は11月中旬)

――――――――――――――――

・当地は一般的な住宅地に存します。ご訪問の際は十分ご配慮頂けますよう、宜しくお願い致します

・この戦跡の所在地は武蔵村山市学園、最寄り駅は多摩モノレール上北台駅です

航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト

参考・出典:武蔵村山市立歴史民俗資料館報「資料館だより」第49・50号合併号(2008)、知られざる軍都 多摩・武蔵野(洋泉社) 他

*空爆:4月2日は午前2時よりB-29爆撃機105機により高性能爆弾1018.8トン投下。家屋倒壊等あるも人的被害はなし。4月4日は午前0時半よりB-29爆撃機109機により高性能爆弾490.1トン及び焼夷弾12.7トン投下。多くの工場が被災し、9名の死者が出ている
*国立病院機構村山医療センター:平成16年(2004)成立。骨・運動器疾患の高度専門医療施設、神経・筋疾患の基幹医療施設、長寿医療の専門医療施設
*国立感染症研究所:昭和22年(1947)設立の国立予防衛生研究所が前身。村山庁舎は昭和36年(1961)ワクチン検定庁舎村山分室として発足
*都立村山特別支援学校:昭和48年(1973)小平市に開校。昭和49年当地に移転
*東京小児療育病院:昭和39年(1964)身体不自由児施設として開設

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

北の離れ 東京陸軍航空学校跡 2

東京陸軍航空学校跡 2

 前回の東航正門跡碑から、200mほど北に進むと、また別な石碑が建っている。

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東京陸軍航空学校(東京陸軍少年飛行兵学校)跡
揺籃之地碑(標高106.1m)

 「揺籃之地」と刻まれている。場所は、住宅地の一画と言うより、一般のお宅の角(かど)っこだ。
 元は慰霊碑(昭和38年(1963)建立)があったが、のち狭山丘陵近くの禅昌寺に移されたため、跡地に平成2年この碑が建てられた(禅昌寺には「少飛の塔」としてある)。

 解説板の写真は異なるが、文面は正門跡碑と同じである(写真は、あちらは正門、此方は体操(鉄棒)の授業)。

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揺籃之地碑解説

 石碑下部の碑文には、

 建立の趣旨
  ここを中心に二十万坪の地は、東京陸軍
 少年飛行兵学校の跡である。
  陸軍少年飛行兵制度は昭和九年二月、
 第一期生の所沢陸軍飛行学校入学にはじまる。
 次いで陸軍航空の拡充要請により、昭和十三年、
 この地に東京陸軍航空学校が創立され
 第六期生が入校した。
  終戦までに第二十期生、巣立った若鷲は四
 万六千。支那事変に続く大東亜戦争において
 大陸また南海の大空に活躍したが、祖国の
 安泰と繁栄を念じて悠久の大義に殉じた
 戦没者は四千五百余柱を数う。
  昭和三十八年、ここに陸軍少年飛行兵戦没
 者の慰霊碑を建立し慰霊の誠を捧げてき
 たが、このたび、永代の供養を念願して禅昌寺
 に遷座することとなった。
  若鷲揺籃のこの地に記念碑を建立し、これ
 を永く後世に伝えるものである。

 平成二年十月十日
 陸軍少年飛行兵出身者一同
 少飛会

 (東京陸軍少年飛行兵学校は東京陸軍航空学校が昭和18年に改称したもの)

 第1期から第20期まで、少年飛行兵制度下での卒業生は46,000名。うち戦死者は4,500余名とされている。凡そ10名に一人が亡くなったことになる。
 この文面を写していて、目頭が熱くなってしまった。大分時代を感じさせる内容ではあるのだが、少年時代、共に学んだ友人を失った悲しみやその死を悼む想いに、今も昔も変わりはなく、オジサン胸が痛む。
 なお、陸軍少年飛行兵学校は、この地の他、大津と大分にも存した。大津には昭和17年(1942)に「陸軍航空学校大津教育隊」が設置され、のち「大津陸軍少年飛行兵学校」に改編された。また大分には昭和18年に「陸軍少年飛行兵学校大分教育隊」が設置され、のち「大分陸軍少年飛行兵学校」となった。よって最終的に陸軍少年飛行兵学校は三校あったこととなる。東京には第6期生から第20期生、大津には第15期生から第20期生、大分には第17期生から第20期生がそれぞれ在籍しているので、ここにある生徒数や戦没者数は、三校全て及び所沢時代の第1期生から第5期生を含めたものであろうと思われる。

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揺籃之地碑碑文

 前回載せた航空写真は、航空学校の北半分が切れていたが、残りの北部分は此方になる。

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東京陸軍航空学校周辺航空写真
昭和16年(1941)6月25日陸軍撮影

 地図を見ると、校内の道路と現在の道路が一部一致するので、そこから推測するに、碑の位置は、この水玉の辺りであると思われる。

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東京陸軍航空学校周辺航空写真
アップ

 なお、上の引きの航空写真で、航空学校北西に見える施設は、大きな四角が所沢陸軍整備学校立川教育隊、そしてその左側に接した小さな四角(写真左端)は村山陸軍病院である。これ等については、次回にご紹介したい。

 次回に続く

2018年霜月24日
(取材は11月中旬)

――――――――――――――――

・当地は一般的な住宅地に存します。ご訪問の際は十分ご配慮頂けますよう、宜しくお願い致します

・この戦跡の所在地は武蔵村山市大南、最寄り駅は多摩モノレール桜街道駅or西武拝島線武蔵砂川駅です

航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト

参考・出典:武蔵村山市立歴史民俗資料館報「資料館だより」第49・50号合併号(2008)、知られざる軍都 多摩・武蔵野(洋泉社)、西日本新聞ワードBOX「大分陸軍少年飛行兵学校」、FIND OUT「戦争遺構巡り(大津編)」 他

*揺籃之地:「揺籃(ようらん)」は揺りかご。「揺籃の地」とは出生の地、或いは物事の初期段階を過ごした地の事
*生徒数:正門跡碑の碑文には28,000名が学んだとあるがこれは東京校の第6期から第20期までの数であろうと思われる

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

北の離れ 東京陸軍航空学校跡 1

東京陸軍航空学校跡 1

 立川市砂川町の交差点で、五日市街道(都道7号線)が砂川三番交差点で都道55号線を北に分岐させる。その55号線を道なりに少し進むと、金比羅橋で玉川上水を渡り、やがて右手のリユースショップ前で、北北西方向に別の道が分かれて行く。

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分かれ道を見る
左が55号、右がリユースショップ

 この分かれた道の名は、

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始点の表示
右は立川市の「市の花」コブシ

「東航通り」―。東航って?
 「東航」とは、「東京陸軍航空学校」の通称である。お分かりのように、嘗て存在した旧日本陸軍の関連施設へ続いていた道なのである。
 では、この道を行けば何か「東航」の痕跡があるのであろうか。
 行ってみよう。

 東航通りを進めば、やがて西武拝島線を玉4踏切で越え、緩やかにカーヴしながらほぼ直進して行く。自然発生的な感じではなく、可也人工的な印象を受ける道路だ。

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東航通り

 通りは、角に動物病院のある小さな交差点に突き当たり、終点となる。丁度、立川と武蔵村山の市境(しざかい)である。

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砂川7丁目交差点

 その交差点に立ち、左手を見れば、駐車場手前に石碑が建っている。

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交差点の石碑

 碑前に立ち見れば、正面「東航正門跡」と、力強い文字が深く刻まれている。

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東航正門跡碑(標高104.8m)

 ここに、嘗て東京陸軍航空学校の正門があり、この先一帯の約640,000平方m(20万坪)と言う広大な学校敷地であったのだ。

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東航正門跡碑解説

 下は、昭和16年(1941)に陸軍によって撮影された航空写真だ。

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東京陸軍航空学校周辺航空写真
昭和16年(1941)6月25日陸軍撮影

 下左を斜めに通る五日市街道から分かれた道(現都道55号)が、その中央付近を左右に流れる玉川上水を越えてすぐに大きく三つに分かれている。この三つのうち右側の一本が「東航通り」だ(中央の道は現在西武線線路により途切れている)。
 東京陸軍航空学校は、熊谷の陸軍飛行学校に昭和12年(1937)10月に仮設されていたものが、昭和13年(1938)9月にこの武蔵村山市(当時は村山村)に移転したものだ。この南方にあった陸軍立川飛行場に展開していた第五連隊の射爆場(昭和7年完成)であった土地を学校敷地に転用したという。
 学校は、昭和18年(1943)3月に公布された陸軍少年飛行兵学校令により「東京陸軍少年飛行兵学校」と改められた。
 学校には高等小学校(義務教育の尋常小学校卒業者が行く学校で二年制)卒の満14歳から17歳が入学し、一年間学んだのち操縦・整備・通信の各分野に分かれ、熊谷や宇都宮の上級学校(二年間)に進んだ。そして卒業後、各飛行部隊配属となった。

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東京陸軍航空学校周辺航空写真
正門付近アップ

 上の航空写真で、東航通りの突き当たる正門の場所は、菱形の広場状となっているが、このひし形の上(北側)半分は、今も歩道的な形で残っている。交差点の武蔵村山市側だ。

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東航正門前広場の痕跡
上は西側、下は東側

 この菱形の一画に、正門跡碑が建っているのである(上画像の奥)。

 一応取材を済ませ、さて次は―と思った時、碑の裏面を見ていないことに気付いた。何か碑文があるやもしれない。
 ガサゴソと落ち葉を踏んで裏に回ると、あった。

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東航正門跡碑裏面

 昭和十三年九月 東京陸軍航空学校(のち東京陸軍少年飛行兵学校)
 が開校されこの地が正門跡地である
 陸軍航空の中核として活躍した陸軍少年飛行兵第六期生から第二十期生
 まで二万八千名が誠忠の志高く青春の全てを捧げ祖国の安泰と繁栄を
 念じて日夜心身を錬磨した地である
 平成十一年四月吉日
 武蔵村山市

 と記されている。

 正門跡から、住宅地―と言うか航空学校跡地―に入ってみる。

 2に続く

2018年霜月23日
(取材は11月中旬)

――――――――――――――――

・当地は一般的な住宅地に存します。ご訪問の際は十分ご配慮頂けますよう、宜しくお願い致します

・この戦跡の所在地は武蔵村山市大南、最寄り駅は多摩モノレール桜街道駅or西武拝島線武蔵砂川駅です

航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト

参考・出典:武蔵村山市立歴史民俗資料館報「資料館だより」第49・50号合併号(2008)、知られざる軍都 多摩・武蔵野(洋泉社)

*武蔵村山市:東京多摩北部。北は埼玉県に接する。人口約71,000人。大正6年(1917)三村合併で生まれた北多摩郡村山村が元だが、市制施行の際山形県に村山市があった為武蔵村山市となった。これにより北多摩郡は消滅。嘗て日産の大工場があったがカルロス・ゴーン氏の経営改革の一環で閉鎖された

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)
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