MYSTIC RHYTHMS

日常雑記、音楽報告、鉄塔そして詩など

ミスティック・リズムス

多摩の古書店主が綴る日常雑記。古本屋な日々...

Fe塔 鉄塔 中富線―神社ふたつ 3

鉄塔 中富線―神社ふたつ 3

 関野天神社を出、連雀通りを渡る。
 笠森稲荷神社(標高62.4m)前に立ち振り向けば、通りと68号が見える。

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連雀通りと68号
右端はお馴染みFC東京のフラッグ

 画像左端に、天神社の白い看板が見えている。看板下の電話ボックスは、「庚申塔」の後ろに写りこんでいたものだ。

 お稲荷さんの扁額がかかる白い鳥居から、その奥を見れば、お馴染みの赤い鳥居がトンネルだ。

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笠森稲荷神社扁額

 子供の頃、近所にあったお稲荷さんの、昼なお暗い常緑樹林の中に見える、赤い鳥居とお狐さまが非常にコワかったのを、思い出した。さすがに今は、コワくはないが。

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赤い鳥居

 サクラの古木が天蓋の様に境内を覆うその奥、赤いお社が、印象的である。

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社殿
画像左手が参道方向

 鈴が五つもある社殿はなぜか、参道に対し横向きだ。然も場所は参道正面ではなく、左手にずれている。

 境内片隅には、御祭礼の時に使う資材か何かの雨よけに、こんな古(いにしえ)のホーロー看板が立てかけてある。

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ホーロー看板

 「ゼネラル」とは見慣れぬ名だが、今の富士通ゼネラルの前身である「八欧電機(やおうでんき)」が昭和21年(1946)に使い始めた商標である。「ゼネラル」がいつ頃まで使用されていたのかは不明だが、なんか、雨ざらしになっているのは少々惜しいようにも思える。盗難されぬかと心配にもなる(無断持ち去りは犯罪です!)。

 お稲荷さんを後に住宅地を行けば、こうした光景が視界に入ってきた。

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畑と68号
緑の葉はダイコンの様だ

 これこれ、これだよ。多摩の鉄塔と言えば、こうした農地越しの絵がやはりあってほしい。こうした光景は、道路沿いの68号では望めないと思っていたが、あったんだな。
 もしも、中富線の改修時期が重ならず「鉄塔 中富線」が書かれていたら、この風景もきっと描写されていたであろうと、そう思えるような景色だ。

 しかし、こうしてみると確かに、一年中見られるとは言え、巻積雲が写りこむと如何にも「秋」っぽい風景だ。

2017年霜月20日
(取材は10月中旬)

――――――――――――――――

・撮影に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・この鉄塔の建つ場所は小金井市東町、最寄り駅は西武多摩川線新小金井駅です

*ホーロー看板:ホーロー(琺瑯)はガラス質の釉を金属表面に焼き付けたものだが、所謂ホーロー看板は塗装による「それ風」のものらしい
*笠森稲荷神社:創建は不明だがネット上では元文元年(1736)とある
*八欧電機:昭和11年(1936)、八尾啓次郎氏が浅草蔵前に「八欧商店」として創業

Fe塔 鉄塔 中富線―神社ふたつ 2

鉄塔 中富線―神社ふたつ 2

 68号脚元のふたつの神社、まずは連雀通りを挟んだ斜(はす)向かい、関野天神社(標高63.3m)を訪ねる。

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関野天神社

 マップでは「関野」とついているが、鳥居の扁額にはただ「天神社」とあるのみ。

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関野天神社扁額

 関野新田開発の際、守護神として享保7年(1722)正月に創建されたと伝わるそうだ。所謂「享保の改革」只中の頃だ。この年の7月、新田開発の資本を広く民間に求めるため、新田開発奨励の高札が日本橋に建てられたので、関野の新田開発は、やや早い時期のものであったのだろうか。
 「関野」でちょっと不思議に思ったのだが、関野新田に由来を持つ小金井市の関野町はこの天神社からは2劼曚匹睨未任△小金井公園の辺りだ。調べるとどうも、ここは南関野と呼ばれる飛地であったようだ。

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関野天神社社殿と記念碑
昭和46年造営。碑には由緒等も記されている

 参道から右手を望めば、真っ直ぐに伸びた杉木立の向こうに、86号の姿が小さく覗いている。

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スギと68号

 アップでもう一つ。

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参道から68号

 連雀通り歩道に戻るとき、右手(外から見ると左手)に庚申塔と石橋供養塔とがひっそりと建っているの気付いた。柵と植え込みに隠れ、入る時には全く分からなかった。気を付けないと見過ごしてしまう。

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左、庚申塔 右、石橋供養塔

 庚申塔には青面金剛(しょうめんこんごう)が彫られている。
 青面金剛は、インド伝来ではなく日本独自に信仰されているもの。庚申信仰では、庚申(こうしん。干支。かのえさる)の日、「三尸(さんし)」という虫が睡眠中に人の身体から抜け出し、天帝さまにその人の悪事をチクるとされるが、この虫を押さえてくれるのが、青面金剛とされたのだ。
 この庚申塔にある青面金剛は、大分磨滅しているが、六臂(ろっぴ。腕が6本)で中手は合掌し、右上手に剣、右下手にヘビを持っているのは分かる。左上手は微妙だが、丸っこいものがあるように見えるので法輪(仏の教えを車輪にたとえたもの)かもしれない。左下手はこれはもう、よく分からない。上部左右にあるのは日月であろう。足下は、磨滅していても一目瞭然。お馴染み、見ざる聞かざる言わざるの「三猿」だ。
 石橋供養塔については、「多摩陸軍技術研究所」で触れた「小金井分水」とオカサカ145号の記事で触れた「梶野分水」が、新小金井駅付近で合流し連雀通り沿いを東進していたそうなので、この用水に架かる橋に関するものであろうとは思うが、詳細は分からない。

 天神社を出、68号とは逆方向の連雀通り斜向かいを見れば、笠森稲荷神社だ。

 3につづく

2017年霜月18日
(取材は10月中旬)

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・撮影に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・この鉄塔の建つ場所は小金井市東町、最寄り駅は西武多摩川線新小金井駅です

*享保の改革:徳川八代将軍吉宗が享保元年(1716)から行った幕藩体制安定・強化のための一連の改革
*青面金剛:帝釈天の使者で名の如く全身青い。病魔退散の御利益があるとされる。日本で独自に庚申信仰に取り入れられた。「三猿」は「申(さる)」にかけたとも言われるそうだ。私は確認を失念したが他のサイトさんを拝見するとこの庚申塔には延享4年(1747)11月26日の銘があるようだ

Fe塔 鉄塔 中富線―神社ふたつ 1

鉄塔 中富線―神社ふたつ 1

 東京多摩地域に「連雀通り」と呼ばれる道がある。国分寺市から三鷹市までに至る長さ凡そ10劼療堝察134号)なのだが、狭い割には交通量が多く、チャリでは非常に走りにくい道路である。その連雀通りが、車返線でおなじみの西武多摩川線と交差する点のやや東、その通り際に一基の鉄塔が建っている。

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中富線68号(平成5年6月 41m)

 「鉄塔 中富線」になりそこねてしまったその中富線の、68号だ(標高63.0m)。西武多摩川線新小金井駅の、すぐ南東である。

 とある事業所内の敷地に建つが、北側、連雀通り歩道からは間近、と言うかほぼ直下から拝むことが可能だ。
 比較的大柄なものが多いこの路線では、可也小柄な鉄塔である。元来ちょいポチャな「耐張首あり型」の所為もあり、一寸可愛らしさが漂う。

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68号

 東側は生活道路に接しているので、可也接近し見上げることができる。

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右、ジャンパー線アップ

 中富線耐張型で目立つ、やけに長いジャンパー線が良く見えるが、複導体の二本のジャンパー線の間にあるワイヤーがお分かり頂けるであろうか。おそらくは、この長いジャンパー線を保定するためのものであろうと思っているのだが。

 南の住宅街に入り、引きで眺める。

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住宅街から68号

 周囲は低層の住宅街だが、家並と比較して比較的小柄な鉄塔であることがお分かり頂けるのではなかろうか。

 この鉄塔の脚元には、関野天神社と笠森稲荷神社がある。足もとに二つも神社のある鉄塔を、私は他に知らない。一寸寄ってみたくなった。

 神社へ向かう前に、68号横姿を連雀通り歩道から。

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68号

 水色の空に、白い巻積雲が広がっている。
 巻積雲は、学名を「シーロキュムラス(cirrocumulus)」と言い、5-13km辺りの高い空に浮かぶ氷晶(小さな氷の粒)からなる、「上層雲」に分類される雲。所謂「うろこ雲」或いは「いわし雲」と呼ばれるもので、これらの語は秋の季語となっている。気を付けていれば、前線の接近時など一年中ふつうに見られるのだが、確かに、なぜか「秋の雲」の印象は強い。
 こうした高い空にできる雲は、黒や濃いグレーの部分がないので、なんとなく明るく爽やかな印象がある。それは、高空は水蒸気が少なく、雲に厚みがないためだそうだ。

 2につづく

2017年霜月16日
(取材は10月中旬)

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・撮影に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・この鉄塔の建つ場所は小金井市東町、最寄り駅は西武多摩川線新小金井駅です

*連雀(れんじゃく)通り:明暦の大火(明暦3年(1657))後、神田連雀町の住民の一部が移住させられたことにより生まれた上連雀村・下連雀村、現在の三鷹市上連雀と下連雀を通っていることによる名前
*シーロキュムラス:巻雲の「シーラス」と積雲の「キュムラス」を合成したもの。略号Cc
*上層雲:対流圏上層5-13kmほどの高さに発生する雲。2-7劼曚匹旅發気留世話譱惘澄2km以下は低層雲と言う(高さはすべて温帯域のもの)
*秋の雲:日本では台風や移動性低気圧の多くやってる秋に見る機会が多いからとか、秋は空気が澄んで高空の上層雲が見えやすいからなどの説がある

Fe塔 はけの道

はけの道

 「はけの道」と呼ばれる、国分寺崖線下を東西に走る道がある。雑木林や住宅地の続く北側斜面と、南側の野川の流れや緑豊かな都立武蔵野公園に挟まれた、ごく緩やかなカーヴや高低差を持つ細い、幾らか鄙びた道だ。小金井街道すぐ東側の金蔵院(こんぞういん。真言宗豊山派)前から、野川公園手前の二枚橋までの、約2卍の長さである。

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はけの道(標高53.2-45.7m)
東町辺り。画像左手が武蔵野公園

 多摩川によって作られた河岸段丘である、武蔵野段丘とその一段下の立川段丘を分かつ高低差15m前後の国分寺崖線を、この小金井市周辺では一般に「はけ」と呼び、その下を通る道を「はけの道」と称している。勿論行政地名ではない。

 その、はけの道から見上げるのが、国分寺線62号とサカハチの9号だ。上記の様に国分寺崖線の上は武蔵野台地だが、ほぼその台地の縁に建っているかたちだ。

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左境八王子線9号、右国分寺線62号

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62号と9号

 はけの道が東で尽きるのは、西武多摩川線にぶつかる辺り。ここから線路横の坂、つまりは車返線31号すぐ脇を北向きに上がって行けば、「巨大ジャングルジム」国分寺線63号の、そのすぐ横から、62号を仰ぐことが出きる。

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62号

 なんか、多足類をお腹から見ているようだ。最下段の三対の腕金は使われていない。

 坂を上がり切れば、すぐ傍らに建つのは小金井変電所。

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小金井変電所(標高61.8m)

 62号は、この変電所のすぐ横に建つのだが、そこは変電施設とはフェンスで隔てられた草原(くさはら)で、同じ敷地と言えるのかどうかは微妙である。

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62号(標高61.1m)

 画像右手方向の61号(標高47.7m)が「はけ(崖線)」の下に建つので、碍子連に大分上下方向の角度が付いているのが分かる。

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小金井線甲−1号(平成17年4月 2.5m)

 62号は、小金井線を変電所へと引き下げている。秋色になったススキとエノコログサの向こう、62号の脚元に高さ僅か2.5mの鉄塔と呼んでよいのか迷う小さな小さな小金井線がある。小プレートが、辛うじて読み取れる。

 右手には、変電所の鉄構群と、その向こうにサカハチ9号。

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変電所と9号

 斯様に、変電所門横の草むらを踏み分け、鉄塔取材をしていたら、
「いいアングルがありましたか?」
と、後ろから声をかけられた。
 話しかけて下さったのは、変電所入り口すぐ横にお住いという、ご年配の男性であった。大分散り始めた落葉を竹ぼうきで掃いておられたが、妙な人間がいるので、気になされたのであろう。
「ここは変電所があるせいか、大分混み合ってますでしょう」
と、鉄塔の存在は意識されていらっしゃるようである。大体、私が鉄塔を取材していることが分かるということ自体、鉄塔を意識していらっしゃる証拠である。今まで何度か、取材中に話しかけられたことがあるが、すべて、私が鉄塔を取材していること自体に驚かれた。まさか、鉄塔なんぞに関心を抱く人間が存在するなど考えてもいらっしゃらなかったということであろう。当然話掛けてくださったそのご本人方も、鉄塔に関心などは無い、ということであろうと思う。
 見知らぬ方と話すのは超苦手な私ではあるが、折角話しかけてくださったし、鉄塔に多少なり関心はお持ちの様なので、あれはJRの境八王子線で昭和5年の開設で・・・、こちらが国分寺線で・・・、今年100年になる西武多摩川線の上の四角いのは車返線と言う名で・・・、などと私が話すと、ほうほう、成程、など言いながら、耳傾けてくださった。
 久しぶりである、人と鉄塔について話したのは。

 お掃除の邪魔をしては申し訳ないし、私も大分疲れてきたので、辞してサカハチへの接近を試みる。
 しかし、鉄塔は変電所と民家との狭間で接近叶わず。なので、逆光で絵を頂く。

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9号(標高62.0m)

 右に大きく9号、その左は62号。左端に見えているのは「巨大ジャングルジム」国分寺線63号(車返線32号)の、久我山線を受ける上部部分だ。

 鉄塔とは直接関連はない事なのだが、変電所および二つの鉄塔下やや西寄り、はけの道に面したとあるお宅のガレージ屋根に、とある掲示があったので紹介しておきたい。

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都市計画道路建設反対

 ここでいう「都市計画道路(3・4・11号線)」とは、昨年5月の記事で取り上げた、武蔵野公園と「はけ」を分断する長さ830m、幅18mの道路のことである。
 この都道計画の存在を知ってから、何度かこの辺りを訪れているが、こうした掲示を見たのは初めてだ。何かとても、心強い思いがする。
 上記記事にも書いたように、是非、現都知事には、都道計画見直しを考えて頂きたいものだ。

2017年霜月14日
(取材は10月中旬)

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・撮影に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・これら鉄塔の建つ場所は小金井市東町、最寄り駅は西武多摩川線新小金井駅です

*多足類:節足動物のうち脚が多数あるムカデ、ゲジ、ヤスデなどの総称
*エノコログサ:犬ころ草。イネ科エノコログサ科の一年草。ネコジャラシとも。ユーラシアに広く分布し粟の原種ともされる

はけの下 猫好きではない

猫好きではない

ame54 数十年前から、現在にかけ、ほぼ常に我が家には猫がいる。「北の離れ」記事にも書いたように、過去は最大で六頭いた時期もあるし、現在は、これも同じ記事にあるように四頭の猫がいる。よって、私は可也の猫好きの様に思われている。でも、それは誤解だ。私は猫好きではないのだ。勿論嫌いではない。しかし、特に猫が大好きというようなことは、全くない。

 簡単に言えば、広く「生き物好き」なのだ。そういう意味で言えば、猫は好きだ。ただ猫だけではなく、犬も好きだし鳥も好きだ。トカゲもカエルも魚も好きだし、昆虫だって好きだ。植物などは大好きだし、更に広く言えばバクテリアだって好きだ。猫が何時もいるのは、たまたま猫に縁があるだけである。捨てられているのを見つけてしまったり、知人に頼まれて引き取ったり、捨てられ猫が何時の間にか居着いてしまったり、或る日門の前や庭先に仔猫がうずくまっていたり、今いる猫たちの様に我が家で保護せざるを得なかったり(詳細はこちらこちら)等々、なぜか、縁が切れないのだ。

 今の四頭の猫が来るまでの三年間、生まれて初めて猫も犬もいない生活を送ってきたが、特段さみしいと思うことは無かった(おばあちゃんの介護も大変だし)。どころか、犬も猫もいない暮らしはこんなに楽か、と結構満足していたのだ。なのに・・・。
 まあ、これも運命と、もう諦めているけれど。

2017年霜月13日

北の離れ 交通事故―その後

交通事故―その後

catcut6 10月、我が家の前の道路で自動車に轢かれた野良猫のミケさんについて、前回書いたが、そのミケさんが、今週、入院させて頂いていた動物病院から生還した。
 今は、我が家のリヴィングで、ミケさんのために購入したケージの中、これまたミケさん用に購入したヒーターの上で気持ちよさそうに寝て過ごしている。お掃除の時などケージから出ると、ヨロヨロではあるが、思いのほかの勢いで動きまわるので、危なくて仕方ない。前回に書いたように、折れた骨(骨盤)が筋肉を傷つけるおそれがあるからだ。
 野良猫生活十数年のミケさんである故、外に出たい気持ちはよく分かるのだが、我慢してもらわねばならない。しばらくこのまま安静に過ごせば、手術せずに回復する可能性が大きいとのドクターの話だ。そうなればミケさんにとっても勿論良いし、我が家の家計にとっても有難いことだ。オペとなれば、術後の入院含めン十万円は確実にかかる。
 何れにしろ、現時点ではだが、血液検査の結果を見ても驚くほどの回復ぶりである。一時は本当に死を覚悟したのだが。

 ただ、一つ困っているのは経鼻カテーテルである。これが、結構頻繁に外れてしまうのだ。その度に入れ直しで数千円かかってしまう(今日も入れ直してもらった)。経鼻カテーテルは本人の負担も少なく、こちらの負担も少なく、高たんぱく・高エナジーの流動食(ロイヤル〇ナン「クリティカル リキッド」)を摂取することができるので、楽この上ないものではあるのだが―。
 あと一ヶ月程度は、経鼻カテーテルと付き合って行かざるを得ない。覚悟を決めよう。オペでン十万円かかるよりは遥かにましであるし、ミケさんにとっても、その方が絶対良いであろうし。

2017年霜月11日

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*ケージ:アイリス〇ーヤマのP-SRK-900。内寸が幅約85cm、奥行き約56.5cmで広すぎるかと思ったが、トイレ(幅30僉砲鯑れたらそうでもなかった。ゆったりくつろげる良いサイズ感だ
*ヒーター:貝〇産業のユカペットEX S。防水で薄型、38度面と33度面とのリバーシブル、省電力の優れもの。コードもガードされている

北の離れ 交通事故

交通事故

ミケさん(似顔絵) 十数年前から近所で暮らし、三年前からは、我が家にご飯を食べに来るようになった野良猫のミケさん。彼女については、以前に書いた。我が家のおばあちゃんのお友達で、この春に亡くなったご近所の一人暮らしのお年寄りの家に残され、今は我が家で暮らすこととなった三頭の猫の話(「なんでこんなに猫が・・・」)の時にも触れた。そのミケさんが、自動車に轢かれたのだ。

 10月下旬、台風接近の雨模様の朝、何時もの様に何処からともなく現れ、我が家の猫連中と食事を共にしたミケさん。変わらず元気な姿であった。
 私は、彼女等にドライフードを与えた後、柱に爪を立てたがる「お嬢さん」による被害を防ぐため、おばあちゃんの部屋で柱や襖にOPPテープ(梱包用透明テープ)を貼っていた。すると、表から、「お母さん」の激しく威嚇する声が聞こえてきた。また、「男の子」に喧嘩を吹っかけていのだろうと、慌てて玄関を開けた。時に激しい取っ組み合い(一方的にお母さんが攻撃するのだが)になるからである。
 案の定、庭先の門の外で毛を逆立てたお母さんの姿と、道路の向こう側で眼を見開いて怯えた表情の男の子がいた。
 「こらこら。喧嘩はやめてくださいと言っとるだろう」
 と、二頭の間に割って入ろうと門の外へ出ると、道路の中ほど、ぬれて黒ずんだアスファルトの上にミケさんが横たわっている。彼女は、よく道路の上でコロコロと転がっているので、何もこんな雨の日にやることはなかろうと、一歩近づいて、思わず「ミケさんっ!」と叫んでしまった。
 ミケさんの口から、大量の血が流れ出ているのである。
 一瞬にしてすべてを悟った私は、すぐに戻って玄関のドアを開け、激しい呼吸を繰り返すミケさんを家に運び入れた。

 それから、掛かり付けの動物病院に電話し、動物救急センターを紹介してもらい、広げた新聞紙の上で血を流しながら、痛みのため激しく鳴き叫ぶミケさんを見つつ状況・状態を救急医さんに電話で伝え、その後タクシーをお願いして、病院へと向かった―。

 検査の結果、骨盤の骨折が最も目立つ損傷で、内臓のダメージは、現時点ではなさそうだということであった。大量の出血は、歯が数本折れたためのものであったようだ。当日はデイサーヴィスの日ではなく、おばあちゃんが在宅しているため、そう長く留守にはできず、鎮静剤を投与されて、大分落ち着いた状態となったミケさんを頼み、帰宅した(見知らぬ場所で帰り路を探すのに一寸苦労した)。
 救急センターは、一般の動物病院よりは大分割高であるため、救急医さんとも電話で相談し、一泊のみさせて一旦引き取り、あとは入院させてもらえる病院を探すこととし、翌日台風の雨の中、迎えに行った―。

 以前から、歴代の我が家の猫たちがお世話になっていた動物病院に入院させて頂くことができた。そしてそれから、およそ二週間。今週退院となる。以降は、我が家で療養しつつ通院という予定だ。後ろ脚は殆ど動かせない状態だが、這うことはするので、ケージに入れる必要がある。あまり動くと、折れた骨が筋肉を傷つけるおそれがあるためだ。ミケさん用のケージと、寒さ対策に動物用ヒーターを買わねばならなくなった。大出費である・・・。
 まだ固形の食事はとれず、経鼻カテーテルから流動食を注入している状態であるが、大分反応は良くなった。回復を期待する日々だ。
 この先、どうなるのかは分からないのだが、凡そ15歳という年齢を考えると、おそらく以前の生活、自由気ままな野良生活への復帰は無理であろう。多分我が家で最後まで―、と言うことになろうと思う。
 もともと、ミケさんに関しては、歳をとって弱ってきたら我が家で面倒を見るつもりであったので、それはそれでよいのだが、思わぬアクシデントである。子どもの頃から、何十年と猫と一緒に暮らしてきたが、交通事故は初めての経験である。雨にぬれたアスファルトの上で、びしょぬれになって血を流し横たわるミケさんの姿が、今も脳裏に焼き付いて離れない。不憫でたまらず、冷血人間の私でも、思い出すと涙が出てくる。

 それにしても、だ。ミケさんは元から面倒見るつもりであったからまあ良いが。一年の内に、猫がゼロから一気に四頭である。それもすべて、思わぬ形で、である(ミケさん以外の三頭についての経緯はこちらを)。嘗ては、最大で六頭の猫がいた時期があったので、それを思えばまだ少ないのだが、今はおばあちゃんの介護があるのだ。介護+猫四頭である。しかも四頭の内ミケさんは介護だ。引き取った三頭はまだ我が家で暮らすようになって二か月ばかり(元の飼い主さんがなくなってから半年ほどは食事を与えるだけであった)。三年間猫なし生活を送り介護に集中していたので、まだ、猫との暮らしに慣れない(猫の方も急に暮らす家が変わって戸惑っているだろうが)。三頭の性格も、まだ完全には把握しきれていない。
 デイサーヴィスやショートステイに行きたがらないおばあちゃんを、外へ出たがるお母さんとお嬢さんをそれぞれに宥め賺し、相性の悪いお母さんと男の子の間を取り持ち、そして見慣れぬミケさんを怖がるお嬢さんをケアする―。正直、はなはだ疲れる毎日だ。
 猫たちはみな、可愛いのは可愛いのだが・・・。ああ、如何なることやら。

 最後に、事故の状況であるが、私が考えるに、おそらく、やんちゃ盛りの男の子が、食事を終えて帰ろうとしているミケさんにちょっかいを出し、嫌がったミケさんが、思わず道路へ飛び出してしまったのではなかろうか。また、そばで興奮状態にあったお母さんや、道路の向こうの男の子の怯えた状態からして、多分二頭は事故を間近に目撃したのでは、とも考えている。
 また、ミケさんは、道の真ん中で倒れていたが、思い出してみると、家の門の側に血だまりが二か所ほどあった。ミケさんの頭が道路の向こう側に向いていたことを考えると、門の近くにはね飛ばされた後、自力で道路を渡ろうとし、途中で力尽き倒れたのでは、とも考えている。
 野良生活十数年、ベテランのミケさんがなぜ?とも思ったが、ベテランであるが故、避けられなかったのかもしれない。
 何れにしろ、男の子がミケさんにちょっかいを出したがることは分かっていたのだから、ミケさんが帰るのを私が最後まで見届けていれば、また閉まっていればすぐには出られ無い門を、私が開けたままにしておかなければ、防ぐことのできた事故であった。
 ミケさんには、申し訳ないことをしたと思っている。

(事故を起こしたドライヴァーさん、私の不注意でご迷惑お掛けしました。一命は取り留めましたので、ご安心ください)

2017年霜月5日

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*OPPテープ:こうしたツルツルとしたテープを貼ると、不思議と爪とぎをしなくなるのだ。見た目は良くないのだが、効果は抜群である
*動物救急センター:ホームドクター(掛かり付け医)と連携した完全紹介制。年中無休・24時間制の心強い存在

北の離れ 多磨霊園周縁部 参

多磨霊園周縁部 参

 東縁および北縁に次いで、最後に、西縁をご紹介。

 前回の小金井門を後にし、国分寺線55号鉄塔を木立の向こうに垣間見つつ更に西進し、南西方向へ折れ西縁に沿い行くと、すぐに小さな門に行き当たる。
 北門である。

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北門(標高51.8m)
右は久我山線17号

 嘗て小金井門が「北門」と呼ばれたが、現在はこちらが「北門」である。門自体に表記はないが、管理事務所で頂ける園内案内図には、はっきり「北門」と表記されている。場所は、22区と23区との境。「北」とはなっているが、地図を見れば、西縁の北の端、といった位置である。おそらく、西方への拡張後にこの門が作られた際「北門」の名が小金井門からこちらへ移ったのであろう。
 石垣と同じ様に玉石を貼り付けたデザインである。上述の様に北門のある区画は拡張後のものなので、石垣を元からある南縁や東縁に合わせて作り、更に門もそれに合わせた言うことになろうか。

 すぐ脇に、久我山線17号鉄塔が建つ北門から、そのまま西縁を辿ると、門から100m少し過ぎたあたりで石垣が途切れ、次の西門近くまで、草茂る土そのままの土手である。

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上は南を、下は北を見る
西縁の土手

 1970年代後半のことであるが、霊園西に隣接する浅間山(せんげんやま)を分断した、府中市の幅員12mの都市計画道路(浅間山通り)建設の際、公園側の浅間山が削られ、墓域が433.93平方m移譲されたと「多磨霊園」(元霊園所長村越知世氏著)に記されている。これに関連して石垣がなくなったのであろうか。それとも、元から石垣ではなかったのであろうか。詳細は、不明だ。

 西縁に沿い更に南下すると、霊園が三角に西に突き出したその頂点を過ぎたところで西門が現れる。
 門は、かつて「横街道」と呼ばれた「学園通り」が、小金井街道を挟んでそのまま「浅間山通り」となって突き当る様な位置にある。

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西門(標高51.9m)

 これも、門自体に表記はない。
 造りは北門とクリソツ。石垣と同じ玉石貼り付け型である。ただ西門は、石垣から門そしてそのまま石垣へと連続的につながっている北門と違い、全くタイプの異なる石垣で左右から挟まれる不連続なものとなっている。場所は、24区と25区の境にあたる。

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異なる石垣
奥方向(南)が浅間山

 西門少し北にある三叉路から西門まで、そして西門から浅間山を越える辺りまでの浅間山通りに沿う部分は、玉石(川原石)ではなく長方形の石を斜めに積んだ「谷積み」で、玉石の石垣よりは新しいものの様に見える。浅間山通り建設の際道路は拡幅されているので、その時、玉石型石垣が壊されたのかもしれない。

 西門から、霊園西縁に沿う浅間山通りでそのまま南へと進めば、分断された浅間山を繋ぐきすげ橋を潜り300m程で、前々回紹介した霊園南縁の道へと至り、外周道路は一周となる。

 霊園周縁部はここまでとし、最後に、お墓を一つ紹介させて頂きたいと思う。

 それは、門・石垣の取材を終え、ランチも終え、園内を移動中にたまたま横を通りかかったお墓である。存在は以前から知っていたが、前にも書いたように、私は霊園・墓地は好きだが、お墓自体にはなぜかあまり関心が無いので今まで取り上げずにいた。だが、最近、「晩夏」「朴の咲く頃」という夫婦で過ごす野尻湖や軽井沢での日々を綴った作品を、丁度読み返しているタイミングだったので、気紛れにも、急に取り上げる気になった。
 それは、堀辰雄・堀多恵ご夫妻のお墓である。

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12区、堀辰雄・堀多恵夫妻の墓

 石は「万成石(まんなりいし)」。「桜御影」とも呼ばれる、薄赤味を帯びた花崗岩で、岡山県岡山市の万成で産出するもの。形は長方形で、ただその名と、生没年が刻まれただけのシンプルこの上ないものだ。墓域も、植木一本なく、これまたシンプル(草も一つもない。まめに手入れがなされているようだ)。
 中央に辰雄(1904-1953)、その右に、2010年に亡くなった多恵さん(1913-2010)の墓石。両者ほぼ同型だが辰雄のほうがやや大きい。先に建てられた辰雄が真ん中にでんと構えておる故、多恵さんは可也窮屈そうではある。


 ふたりは、辰雄が「風立ちぬ」執筆中の昭和12年(1937)8月に信濃追分で知り合い、翌13年4月、室生犀星夫妻の媒酌で結婚。十五年ののち、昭和28年(1953)5月、信濃追分での辰雄の死を、多恵さんが看取った。この墓所に納骨されたのは昭和30年(1955)、三周忌の5月である。

 墓前の花は、まだ大分新しい。

 堀夫妻のお墓は、以前「12区水盤」の記事で紹介したトチノキ並木に面している。

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トチノキ並木

 並木を挟んだ南側は、例の5区公園ゆえ、可也わかりやすい場所であると思う。
 しかし、今でいうところの東京「都内」である、東京市麹町区(現千代田区)で生まれ本所区(現墨田区)で育ち、軽井沢を愛し信濃追分(現軽井沢町大字追分)で亡くなった彼が、なぜこの東京多摩の地に葬られたかは、不明である。

 現場では、何かあるな、くらいにしか思わなかったのだが、画像整理中によくよく見ると、多恵さんの墓石の前に、トチの実が二つあった。確かに、実は周囲に点々としてはいたが、これは、木から直接こぼれたものとはちょっと思えない。きっと、誰かが置いたものであろう。

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堀多恵墓と墓前のトチの実

*多磨霊園用語集霊園マップ(簡略版)霊園航空写真

2017年神無月30日
(取材は10月初旬)

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・これらのある場所は府中市多磨町及び小金井市前原町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅です

・霊園ご訪問の際は、節度を持った行動をお願い致します

*浅間山通り:国土地理院の航空写真で見ると、1975年のものは浅間山を突っ切り西門北の三叉路に至る道路はまだ狭いが、1979年のものには現在と変わらぬ幅の道路が写っている
*西縁:浅間山通りは、浅間山と霊園の間を抜け霊園西縁に沿い北上し西門付近の三叉路で西に折れるが、そこからさらに北上する道はそのまま西縁に沿って北門付近まで続く
*谷積み:下石が作る谷に上の石を落として積む。「落とし積み」とも。玉石を使った石垣も谷積みっぽい所がある
*堀辰雄:昭和19年(1944)、軽井沢に疎開し油屋旅館となりに家を借りる。昭和21年(1946)から病臥生活となる。昭和26年(1951)、建てた新居に移り、二年後そこで没した
*堀多恵:旧姓加藤。堀多恵子の筆名で随筆家として活動した
*万成石:カリ長石、石英、斜長石、黒雲母、少量の角閃石などなる花崗岩だが、カリ長石が淡紅色であるのが特徴
*標高:「壱」「弐」とご覧頂いた中でお気づきの方もいらっしゃるかもしれないが、各ポイントの標高を見ると南東方向、正門付近が最も低くなっている。ために、墓地造成が進み雨水の地下浸透が減ったWW2後は、大雨後など園内の水が正門付近に集中し、正門や南北道(バス通り)南端口から園外に出、近隣に浸水被害を度々齎したたそうだ。洪水騒動が収まったのは昭和52年に都公園緑地部が本格的対策を推し進めて以降のことだそうである(「多磨霊園」より)

北の離れ 多磨霊園周縁部 弐

多磨霊園周縁部 弐

 前回の南縁に続いては、東縁から北縁をご紹介。

 東縁側も南縁同様の、玉石貼付け型石垣だが、石垣上の遊歩道は、南縁のそれに比べると余り整備はされておらず、失礼ながら、石垣の上通れます、程度の感じである。なお、この東縁沿いの外周道路は「多磨霊園東通り」の名がある。

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左、遊歩道への上り口 右、ススキ靡く東縁石垣

 取材時は手入れ後であったが、夏場など霊園側の植え込みの枝が伸び出だし、殆ど通行不可状態の場合もある。

 南から東縁沿いに進み、最初にあるのが、1区と8区の境、名もなき小さな出入口。しかし、南縁の同様な出入り口と異なり「霊園東通り南」というコミュニティ・バスの停留所がある。

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東縁1区・8区出入口(標高48.2m)

 更に北上すると、現れるのは「東門」。「門」と付くだけに大分広い。こちらも「多磨葬祭場前」というコミュニティ・バスの停留場がある。球押さえの「モニュメト型水場」の東である。

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東門(標高48.3m)

 外周道路を挟んだお向かいは、バス停名そのままに、葬祭場である。以前、「大沢火の見櫓」の記事で触れた叔母の、その葬儀はこの葬祭場で行われた。よって個人的には少し思い入れのある場所である。

 東縁石垣は、北端で東八道路歩道にぶつかる。そこで左に曲がり北縁となる。北縁石垣は南や東に比べ少し高く、遊歩道は設けられていない。

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北縁石垣

 この場所は、お馴染みの方も多いであろう運転免許試験場の、その向かい辺り。左に見えるのが東八道路(都道14号)だ。現在、北縁沿いの外周道路はイコールで東八道路(の歩道)となっている。

 試験場西端の正面やや西寄りにあるのが、20区と21区の境にあたるバス通り北端口(国分寺線58号鉄塔が見下ろしているような位置だ)。南端口同様特に名前はないが、「門」と呼んでもよかろう。南端口には無かった門柱も、一応左右にあるし。

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バス通り北端口(標高49.8m)

 門柱のデザインは、次に紹介する小金井門の「柱」部分を小振りにした様な感じだ。他の門が石垣同様の丸石を使ったものであるのとは異なり、この二つの門に丸石は使われていない。小金井門が昭和の始め頃に作られたその同時期に作られたのか、あるいは、昭和33年(1958)4月にこの「南北道」にバスが通るようになったその頃に、小金井門に合わせて作られたのであろうか。

 西に進み、国分寺線56号鉄塔横を過ぎ行くと現れる広い門は、小金井門。「北門」「裏門」と呼ばれた時期もあるが、現在、公式サイトの園内マップには「小金井門」と表記されている。

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小金井門(標高51.0m)

 規模もデザインも、正門には引けを取らない存在である。と言うか、デザイン的にはこちらの方が強く印象に残る。
 ここから、JR武蔵小金井駅方面へ向かい、小金井街道(都道15号)に接続する、「北参道」が伸びている。

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小金井門から14号線越しに北参道を見る

 嘗ては、南参道同様にサクラ並木とされたのだが、今は残念ながら、当時をイメージするだけの縁(よすが)も無い。こちらも南同様、両サイドには石屋さんが並ぶ。

 門の向こうには芝の広場があり、「小金井門塔」(正式名称ではない。私が勝手にこう呼んでいるだけだ)が建っている。

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門から塔を覗き見る

 小金井門の門柱も、門が作られた頃である昭和10年(1935)頃とされる写真には、今と変わらぬ門の姿があるが、正門同様上部の外灯が写っていない(門前の植え込みも無い)。こちらも外灯は、後々付け加えられたという事だ。昭和48年(1973)発行の「多磨霊園 その五〇年のあゆみ」には、「現在の裏門」(小金井門のこと)と題された写真も昭和10年頃の写真の隣にあるが、ここにも外灯は写っていない。となると、外灯は可也新しいものということになる。それにしては随分と、色と言い形と言い、門とマッチしている。

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昨年秋の絵

 見た所、少し丈は低いが正門外灯と基本デザインは同じに見える。
 今回の取材時は、やけに自動車の出入りが多く寄りの絵をゲットするタイミングが得にくかったので、昨年晩秋の絵を代わりに使わせて頂く。多少カエデも色付いているし。

 さあ、次はいよいよ最後、西縁だ。

 西縁につづく

*多磨霊園用語集霊園マップ(簡略版)霊園航空写真

2017年神無月29日
(取材は10月初旬)

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・これらのある場所は府中市多磨町及び小金井市前原町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅です

・霊園ご訪問の際は、節度を持った行動をお願い致します

*小金井門:「多磨霊園」地図には「裏門」と表記され、本文中では「北門」または「裏門」と記されている。「多磨霊園 その五〇年のあゆみ」では「裏門」とある

北の離れ 多磨霊園周縁部 壱

多磨霊園周縁部 壱

 多磨霊園の内部建造物ばかりご紹介してきたので、時にはと思い、門や石垣と言った外縁或いは周縁部を取り上げてみたいと思う。
 私自身、今まで門や石垣はあまり注目してこなかったので、一寸楽しみだ。
 とは言え、多磨霊園は、「町」といった行政区画並の広さがある故、周縁部を一通りチェックしとり上げるのは簡単ではすまない。霊園外周には、開園当初からある幅員約6mの外周道路がめぐらされているので、自転車で巡ること自体は簡単だが、距離は半端ないのだ。

 その外周道路と園内を隔てるものであるが、これは土手で、大部分は丸みを帯びた玉石(川原石)を使った石垣でおおわれている。
 今回は、そうした石垣およびそこに幾つか設けられている門を、正門のある南縁から順にご紹介したいと思う。
 まずは、南縁の端から端へと。

 霊園西縁に沿う浅間山通りから東に折れると、南縁の端である。ここから東へと辿ってゆくと、地形的には、残丘であるところの標高79mの浅間山(せんげんやま)から続く高みにある部分は、石垣ではなくごく低い「土手」である(この辺り南側は住宅地だが、結構起伏・高低差がある)。

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南縁最西部土手

 標高55mほどのこの辺りから緩い坂を下り、平地となった辺り、南縁で一番西寄りにある名もなき小さな出入口横から石垣が始まる。ここで大体標高50mほどだ。

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南縁西寄り4区・26区出入口(標高50.5m)

 4区と26区の境、「八角水場」の南にあるこの出入口から先、綺麗に玉石が張り付けられたコンクリート製石垣が、外周道路に沿い直線で長々と延びて行くこととなる。
 国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」で昭和16年(1941)6-7月に陸軍により撮影された、拡張域がまだ未造成であった頃の航空写真を見ると、如何もこの出入口辺りが、拡張前の霊園の南西の角にあたるようだ(写真では、この出入口から蓮宝寺そして第十小学校へと南に続く細道は当時からほとんど変わらぬように見える)。

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南縁石垣

 更に東に進むと、またも名もなき小さな出入口がある。場所は3区にあたる。

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南縁3区出入口(標高48.9m)

 ここはもう両サイド石垣である。そしてここから先、石垣上には遊歩道が設けられている。

 また更に東へ向かうと、ここではじめて常時自動車が出入りできる、大きな出入口、バス通り(南北道)南端口が現れる。門柱こそないが、「門」と呼んでよかろう規模の存在だ。位置は、3区と芝生墓地の境、「現役水場」のすぐ南である。

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バス通り南端口(標高48.2m)

 バス通りは、大正12年(1923)の開園から、昭和14年(1939)に行われた西方域拡張までは、ほぼ霊園中央を貫通する「中央通り」的存在であった。こちらのサイトさん(2012年10月記事)でも指摘しておられるが、なぜここから南北参道を伸ばし、甲州街道や京王線あるいは中央線の駅へと繋げなかったのであろうか。バス通り南端口が正門、北端口が小金井門でも何ら問題なかったようにも思えるのだが―。
 ま、それは取り敢えず置いといて、ここでふと気づき、石垣の高さをメジャーで測ってみた。この南端口辺りで、舗道面から石垣上縁まで90cmほど。他の部分も、多少高低の差はあるが凡そこの前後の高さであると思う。

 その石垣の上、設けられている遊歩道がこちら。これは南端口右手、芝生墓地の南側付近であるが、両側に植え込みがあり、可也整備された道となっている。取材時はワンコ連れで散策する方が多かった。

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南縁石垣上遊歩道

 さて、南端口から更に東進すると(浅間山通りからここまででも1劼らいある)、いよいよ正門の御登場だ。

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多磨霊園正門(標高47.7m)

 大正12年(1923)の開園当時の写真と比較すると、中央部分も門柱も変わっていないないように見える。基本部分は当時のままの様だ。

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門中央部

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左、左門柱 右、右門柱

 ただ、印象的な門柱上の外灯が、開園当時の写真には写っていない(中央の植え込みも無い)。のちのち付け加えられたという事である。ただそれが何時の頃であるかは、不明。

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外灯(左門柱)

 正門から、サクラ並木の参道方向を見て左側にある「多磨駐在所」前を通り東縁に向かう。駐在所は霊園直属の頼もしき門番のようにも見えるが、昭和32年に移転してきたもので、霊園が敷地の一部を貸しているものである。

 派出所から石垣沿いに僅か行けば、直角に近い角度で石垣は北に曲がり、そこから東縁となる。

 東縁、北縁につづく

*多磨霊園用語集霊園マップ(簡略版)霊園航空写真

2017年神無月27日
(取材は10月初旬)

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・このれらのある場所は府中市多磨町及び小金井市前原町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅です

・霊園ご訪問の際は、節度を持った行動をお願い致します

*外周道路:まったく一般市道と変わらぬ利用があるため昭和35年(1960)5月に、南北参道と共に地元府中市及び小金井市に管理が移され、のち昭和49年(1974)12月に土地所有権も移譲された
*残丘:浸食で取り残された丘。この場合古多摩川他の河川の削り残し
*駐在所:「昭和32年旧多磨村、多磨参道の新甲州街道から移転」と、警視庁HPにある。「多磨霊園」(元霊園所長村越知世氏著)年表には前年に設置認可され土地使用は30坪とある
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