MYSTIC RHYTHMS

日常雑記、音楽、鉄塔そして自転車など

ミスティック・リズムス―多摩の住人が綴る多摩な日々

Fe塔 鉄塔展望台―多摩湖

鉄塔展望台―多摩湖

 「北の離れ」記事で長々と書いた様に、多摩湖こと村山貯水池を訪ねた。

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多摩湖(村山下貯水池)(標高103.1.m)
湖と二つの取水塔

 斯様に、東京多摩地方北部の市街地に、美しい湖があるのだが、その堰堤(ダム)上から湖とは逆の方向へと首(こうべ)を巡らせば、可也遠いのではあるが、思い外鉄塔を望むことが出来た。

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多摩湖から東を見る
手前は狭山公園

 幾度か訪ねた旧知の鉄塔も多く、懐かしい。左端は西武園ゆうえんち観覧車だが、遊園地は埼玉県所沢市、多摩湖は東大和市、堰堤の写真に見えている辺りとその右手側(東側)が東村山市である。最近、「多摩湖は東大和のものです」とのアピールが注目されているように、東村山市にあると誤解されがちな多摩湖は、実は99%が東大和市に属しているのである。

 上画像、地平中央に横たわる緑の島状の部分は、拙blogで度々御登場頂いている、八国山(はちこくやま)(此方此方等)。トトロでお馴染み、七国山のモチーフとなった山だ。

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八国山と鉄塔

 位置関係を、航空写真で見てみよう。

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村山下貯水池・只見幹線他航空写真
2019年(令和1年)10月13日国土地理院撮影

 黄●が只見幹線で、上から499号から502号まで。水玉が東大和線で、下から23号から30号まで。「s」は西武園ゆうえんち、「tl」が多摩湖(村山下貯水池)、「hy」が八国山である。湖右端の縦線が堰堤で、この上に私は立って八国山とその周辺鉄塔たちを見ているのである。
 便宜的に、アルファベットを振ってみる。
 aは只見幹線498号、bは鳩峯公園の只見幹線499号、cはトトロの森2号地の岡部境線99号(標高96.5m)、dは東大和線27号、eは只見幹線500号。

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堰堤から鉄塔たち

 fは東大和線26号(標高83.3m)、gは同じく25号(標高72.2m)、hは最近建替えられた只見幹線501号(標高71.0m)、iは此方も最近建替えの東大和線24号(標高73.5m)、そしてjは只見幹線502号。

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堰堤から鉄塔たち


 中には余りに遠すぎ或いは見え方が余りに僅かのものもあるので、幾つかをピックアップして個別に見て見る。

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東大和線27号と岡部境線100号

 左に東大和線27号(標高95.3m)と、右に、八国公園内に建つ岡部境線100号(標高88.7m)。

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只見幹線499号

 鳩峯公園内の、只見幹線499号(標高98.8m)。

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只見幹線500号

 八国山緑地内の、只見幹線500号(標高95.1m)。木立ちの中、茶色っぽくなっているのは、ナラ枯れである。

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只見幹線502号

 只見幹線502号(標高78.1m)と東京スカイツリー(標高2.0m)のツー・ショット。両者間の距離は、約32.66kmである。
 しかし、東京でも標高の比較的高い所に住む者にとって、スカイツリーの海抜僅か2.0mと言う標高は、ちょっと驚く。墨田区ハザードマップでは、ツリー付近の高潮浸水深は1.0m以上-3.0m未満となっている。だが、そのすぐ外側のエリアでは3.0m以上-5.0m未満だ。これは、一般的な二階建て家屋の一階屋根から二階屋根下までがほぼ水に浸かる高さである。
 たしかに、私が子供の頃預かってもらっていた下町のおじ・おばの家は、すぐ傍らを流れる川のコンクリート堤防が窓より大分高かった。マップで調べると、その付近の海抜はマイナスだ。所謂、海抜0m地帯で、川の水面が窓ほどの高さだ。
 今の郊外地域(多摩地方)で父母と暮らすようになってから、おじ・おばの家に遊びに行った際は、その堤防の高さや、道路の狭さ、そしてその上にある空の狭さに、一種の圧迫感の様なものを感じていたのを、思い出す。

 私の立つ堰堤上は約100mの標高だ。東京も、広い。

2022年神無月5日
(取材は8月中旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・この場所は東京都東大和市多摩湖(堰堤の一部は東村山市多摩湖町)、最寄り駅は西武多摩湖線多摩湖駅です

*東大和市:1919年の六か村合併の際「大いに和する」大和村となり、1970年の市制施行の際、1959年誕生の神奈川県大和市が存在していたので、東京の大和市という事でこの名称となった
*海抜ゼロメートル地帯:満潮の際の平均海面より低い土地

鉄塔に昇るのは非常に危険です。絶対にやめましょう

(スマートフォン版は通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

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・単独でのサイクリングと言う野外活動は、フィジカル・ディスタンシングを守る前提のもと、COVID-19(新型コロナウイルス感染症)感染リスク(感染しない・感染させない)の極めて低い行動と考え行いました。食事は人気のない場所で一人で行い、家を出てから戻るまで店舗等への立ち寄りは原則行いません
・ご訪問の際は引き続き新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)感染拡大防止にご配慮をお願い致します

Peace

ウクライナ緊急募金(日本ユニセフ協会)
ウクライナ動物保護募金(国際動物福祉基金)

北の離れ 多摩湖―村山上貯水池 三

多摩湖―村山上貯水池 三

 玉湖神社(たまのうみじんじゃ)から、800mほど走って多摩湖橋(標高119.2m)へと到着。もう、前回来た堰堤のすぐ北側である。

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多摩湖橋と上貯水池

 橋は、前回の鹿島橋同様サイクリングロードのための専用橋である。支柱一本の吊り橋で、上貯水池展望台を兼ねてベンチなどもあり、休憩に適所だ。

 貯水池の反対方向、橋の北側、車道(所沢武蔵村山線)の向こうに、可なり傷んだ藁葺の建造物が見える。

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橋から建造物

 前回も目にしているが、気力消耗で訪ねる気にはなれなかったのでカッツアイしてしまった。ので、此度は訪ねるのである。

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藁葺建造物(標高122.0m)

 きれいに刈り込まれた草地を前に、木立に囲まれ、いいイキフンの場所である。
 ―接近。

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古民家風

 一見すれば古民家の様だが…、実のところは、寺院の山門である。
 名を、「慶性門」という。

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慶性門(けいしょうもん)

 元気よく生い茂ったクズの葉に隠れ解説板がほぼ読めないが、調べると当門の由来は以下の様である。

 ここ村山貯水池造成の際、七集落161戸の家々が移転となったと前々回書いたが、同時に三つのお寺と四つの神社も移転となった。

蓮華寺:上貯水池側石川集落。芋窪へ<
三光院:下貯水池上宅部(かみやかべ)集落、現第一取水塔付近。清水へ
慶性院:上貯水池側石川集落。芋窪へ
住吉神社:上貯水池側石川集落。豊鹿島神社と合祀の話があるも、芋窪へ
御霊神社:下貯水池側内堀集落。狭山神社(東大和市狭山)に合祀
杉本神社:下貯水池側杉本集落、三光院西側。詳細不明
氷川神社:下貯水池側上宅部集落、三光院隣り。1919年頃、清水へ

 当山門は、この内の一つ、上貯水池の西奥(石川の谷)に嘗てあった白部山慶性院(真言宗)の山門である。「慶性」は「慶長」と同じで、慶長年間(1596-1615)の開山と言う。
 不動明王(室町末−江戸初期)を本尊とするお寺は、1922年(大正11年)に南南西約1.8kmに移転したが、資金の問題などで山門だけ湖畔に残され荒廃してしまった。しかし、当時の貯水池管理事務所長(1953-1960)儘田吉之助氏が文化財専門家稲村担元氏に鑑定を依頼し、その重要性から移転保存が決定した。ここへの移転が成ったのは、1954年(昭和29年)1月(竣工式は4月)である。
 なお移転の際の調査で、大柱の柄に以下の様な墨書が見つかった。

“奉再表門一宇 文久元辛酉十一月廿六日 住持 恵鑑 名主 景左衛門”

また別の柱に、

“古表門四本柱 再建長屋門 大工田中弥五右衛門 木挽菅沼孫右衛門”

とあり、1861年(文久元年)に建てられた事が分かった。なお、名主さんは芋窪村の尾又氏、大工の田中さんと木挽(こびき。木材を鋸で挽いて用材にする人)の菅沼さんは石川にある姓で、近隣の職人さんだった様だ(東大和市史資料編2「多摩湖の原風景」103pより)。

 古航空写真で見て見よう。1956年米軍撮影の航空写真に、門は写っている。

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村山上貯水池慶性門航空写真
1956年(昭和31年)3月10日アメリカ軍撮影

 水色→が慶性門、「tj」は玉湖神社方向、下部に見えるのが上貯水池堰堤。
 別の写真を見ていて気付いたのだが、1947年の写真には、門は無いが別のもっと大きな建物が写っている。何であろうか。1941年には何もないが大戦中の1943年になると建物が現れ、1949年には消失している。軍事的施設であろうか。不明だ。

 しかし、この慶性門、山門としては見慣れないお姿である。

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左右から

 古民家と見紛うようなこれは、長屋門と言う、山門としてはやはり珍しい造りであるそうな。
 武家屋敷の家臣長屋の一部に門を設け、門脇の部屋に門番等が住んだのが長屋門の元々の始まりで、のち、富裕農家や寺院でも使われるようになったと言う。この場合、門脇の部屋は使用人の住い或いは作業所や納屋として使われたそうだ。
 興味深いが、残念ながら、老朽化により内部には入れない。1991年に市が修復しているそうだが、確かに屋根のコンディションがドイヒーだ。
 裏手のスロープを上がると、それが良く分かる。

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ネンザンな状態
向こうに多摩湖橋が見える

 橋から見た南面は左程ではないようであったが、この北面は可也残念な状態だ。
 是非、メンテナンスしてあげて頂きたい。

 スロープを上がった先、門の裏手の高台には、「湖底の村広場」と呼ばれる草原が広がっている。

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湖底の村広場

 湖底となった地は、縄文時代より二万年に及ぶ歴史があり、発掘遺物は市立郷土博物館にあるそうだ。ここには、水没する以前に、一帯の村々で家内工業的に行われていた「泥染め」に用いられた植物(ハンノキ・チャノキ・ヤシャブシ・クチナシ他)が植えられているという。

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湖底の村広場

 解説によると、画像右手の小高い丘に上がれば、大多羅法師(だいだらぼっち)像があるそうなのだが、そこへの径は、幾つもの大きなジョロウグモの網でふさがれており通れない。網を破壊する気にはとてもなれないので、カッツアイ。狭山湖訪問の冬場にでも、訪ねよう。

 慶性門を離れ、僅か南へ向かえば、道路の東側には「中島先生称徳碑」(標高120.5m)という、かなり大きな石碑が建っている。

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中島先生頌徳(しょうとく)碑
画像左手奥に慶性門がある

 上航空写真の、「ns」である。
 当碑は、本シリーズ第一回で書いたように、貯水池計画当初より中心的立場で関わられた、村山貯水池生みの親とも言える、中島鋭治(1858-1925)工学博士の記念碑だ。

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アップ

 石碑は高さ約3.63m・幅1.53m、根布川(ねぶかわ)石製。
 中島氏は、東京帝大名誉教授、土木学会会長を務め、日本各都市の上下水道の計画施工や、朝鮮・満州での水道施設の指導監督などに尽力し、近代上水道・衛生工学の父と呼ばれるお方だそうである。現代に生きる我々も、お世話になっているお方と、そう言えるであろう。
 碑は、「昭和十一年丙子夏六月」(1936年6月である)の日付で、篆額(碑上部の題字)は東京市長牛塚虎太郎氏、撰(文章)は水道研究会理事長井上秀二氏、書は水道研究会員大堀佐内氏、とそれぞれある。作成は、東京青山「石勝」さんで、多磨霊園にあったあのピラミッド墓と同じだ。

 碑前は可也広く、端の方、ヒマラヤシーダーの根方に古そうなベンチが一つ見える。

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ベンチ

 碑建立当時のものであれば、90年近く前のものだ。
 座面には、白・赤・青と色様々な小さい玉石が多数埋め込まれた、なかなか凝った作りである。こうした実用品はなかなか残らない。これも立派な、歴史的文化遺産である(私見)。

 さて、前回もご紹介した堰堤上に戻って来た。

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上貯水池欄干の支柱

 自転車歩行者用側道から、欄干を見ると、等間隔に多数並ぶ支柱は古そうだ。が、欄干本体は新しい。古写真と比べてみる。

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1939年(昭和14年)頃の上貯水池堰堤欄干
村山貯水池懸賞写真入選作 撮影:八尾富
(パブリックドメイン)

 前回の親柱写真の欄干部分を無理やりに拡大したが、支柱は同じだけれど欄干は装飾のある、今と全く異なるものであったのが分かる。
 ―ここに写る、20代前半ほどにお見受けするカワイイ女優さんたちは、撮影の年代を考えれば、おそらくもうご存命ではないであろう。時の移ろいは、セツナイ。

 湖水側に目を移せば、護岸に見えるあの石垣は、建設当初のものであろうか。

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護岸の石垣

 今回、古き由緒あるものばかり巡って来たので、みなその様に見えてしまう。

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ツーショ(おめよごし)

 では、最後にツーショして上貯水池を辞す。

 ここから下貯水池へも寄ろうと思い、多摩湖五丁目・四丁目を走り向かった。のだが、サイクリングロードからチラ見えた南の街並みがいやに煙っていると思ったら、あっと言う間に結構な驟雨(しゅうう)である。瞬く間に、路面が黒く色を変えて行く。
 あわててカメラをジップロ○ックに入れて保護し、念のため常に携帯している雨具(100均のポンチョ)を初めて使用。基本晴れの日しか出掛けないのでお守り的なものだが、非常に助かりぬれずには済んだ。ただ、ヘルメットをかぶった状態ではフードは意味をなさないのが玉に瑕。でも、ボディだけぬれなければ、まあまあOKである。

 雨は20分ほどで止んだ。ぬれたポンチョはそのままではバッグに仕舞えないので、常に携帯のバンダナでトップチューブに縛り付けた。バンダナは便利である。

 では、撤収。

2022年神無月2日
(取材は8月末)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
参照:三井住友トラスト不動産(smtrc)、東大和市商工会、東大和どっとネット「東大和の歴史」、サイト「KURADASHI」さん、サイト「多摩湖のページ」さん、東京トリップ、note「多摩湖」「狭山湖」は西武鉄道がつけた名前、ふしぎの森の会、旅案内(たびあん)、第10回市民大学「多摩湖の歴史」(サイト「しんかい船47号の旅」さん)、多摩めぐりの会、東大和市史資料編2「多摩湖の原風景」、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は東京都東大和市多摩湖、最寄り駅は西武山口線・狭山線西武球場前駅です

*氷川神社:貯水池区域内の熊野神社(非水没エリア)と共に遷座したが、両社合祀は1931年(昭和6年)でその際清水神社と改称したと言う(東大和どっとネット「東大和市内の神社 清水神社の歴史」より)
*泥染め:タンニンを含む植物の煎汁に糸などを浸け硫酸第一鉄や鉄漿(かね)を用いる染色法。奄美大島の大島紬、沖縄の久米島紬、八丈島の黄八丈、あきる野市五日市(いつかいち)の黒八丈がある
*根布川石:小田原市根布川付近産出の輝石安山岩(火山岩)。板状に割れるため石碑や敷石などによく用いられる

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

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・単独でのサイクリングと言う野外活動は、フィジカル・ディスタンシングを守る前提のもと、COVID-19(新型コロナウイルス感染症)感染リスク(感染しない・感染させない)の極めて低い行動と考え行いました。マスクを着用し、出先で長居はせず、食事は人気のない場所で一人で行い、家を出てから戻るまで店舗等への立ち寄りは原則行いません
・ご訪問の際は引き続き新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)感染拡大防止にご配慮をお願い致します

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北の離れ 多摩湖―村山上貯水池 二

多摩湖―村山上貯水池 二

 丁度十日の後、前回体力・気力消耗のため走らずに帰ってしまった村山上貯水池周回のサイクリングコースを訪ねた。
 前回は、下貯水池周回コースを南側から下貯水池堰堤に入り、北側を経て上貯水池堰堤へ至ったが、今回は上貯水池南側から西端を大きく回って北側に沿って走り上貯水池堰堤へと至った。

 下貯水池に比べ地味で静かで、観光地的匂いの一切ない上貯水池だが、実は調べると案外見どころがありそうなのだ。

 まずは、多摩湖自転車歩行者道(保谷狭山自然公園自転車道、都道253号線)が渡る「鹿島橋」(全長160m)に入る。ここは、東大和市多摩湖六丁目に当たる。

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鹿島橋西詰(標高135.7m)

 西詰すぐ横に休憩所があり、平日だが、サイクリストの方々が幾人か休んでいらっしゃる。

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鹿島休憩所(標高136.9m)

 ここには、「豊鹿島神宮 奥宮跡」の標柱が建っている(相方の横)。豊鹿島神宮は、ここから南西300mほどにある豊鹿嶋神社のこと。この神社の本殿は、1466年(文正元年)建立の都内最古の神社建築だそうである。

 自転車道を、貯水池の深い森を右手にしつつ西へと進む。すれば、左手に「トトロの森」40号地と47号地が現れる。

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トトロの森(標高136.2m)

 案内板によれば、手前が40号地(3,157.59平方m)で、この奥に47号地(7,395.99平方m)があるようだ。40号地は、都市計画緑地だが都では当面買収が難しいという事でトトロのふるさと基金が2016年9月に取得。47号地は、宅地開発計画や墓地計画等など経、抵当権(私には分からない)実現のため2017年に裁判所による競売が行われた際保全のため落札し2018年2月に取得。こちらは、「森」の中で過去最大面積だそうだ。
 私も何度かその取得のために寄付したことがある「トトロの森」は、ここ狭山丘陵一帯に60か所(2022年9月現在)あるが、貯水池付近で言うと殆どは北側にあり、此方南側にあるのはこの二か所のみである。

 森の横から、南の市街を望む。

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トトロの森横から南望

 貯水池が、狭山丘陵の高い位置にあるのがお分かり頂けるであろう。JR中央線立川駅付近の赤白NTTドコモ電波塔(左)(標高83.7m)と赤白NTT東日本電波塔(右)(標高82.9m)や、佼成霊園横の村山線12号鉄塔(中央)(標高100.7m)が見えている。それらの向こうは、ここと同程度の高さの多摩丘陵だ。

 木立ちの中、更に自転車道を進み、上貯水池の西端を大きく回りこんで北縁を行く。多摩湖三丁目へ入っている。
 この区間は左右どちらも深い森で、展望は一切きかず只管淡々とペダルを回すのみである。

 すると、多摩湖通りが都道・県道55号線と合流し空が広がる。やがて右手の木立が開け、大きな岩と石段が視界に入る。

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狭山富士入口
草刈りされたばかりっぽい

 「狭山富士」の入口(標高132.2m)だ。先ほどのトトロの森からは4km弱、位置的には森のほぼ対岸辺りだ。
 この上―画像右手上―に「どろっぷじ」(泥富士?)とも呼ばれた人工の富士山があるのだ。

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どろっぷじ右手方向

周辺は、斯様に下草が刈られきれいに整備された公園の様な様子だが、富士山がある敷石の先は、

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リームー(無理)

もすごい夏草の茂りの中に消え、とても登って行けない。
 この辺り、北側はすぐに山口貯水池(狭山湖)で、この狭山富士は山口貯水池で掘り出した土を盛り上げ、1933年(昭和8年)9月に竣工したという。7合目辺りから上をコンクリートで覆い雪に見立てたそうだが翌年には大雨で崩れたという。「山頂」の高さは149.6mで、「麓」の自転車道とは約17mの高低差だ。
 当時の東京市職員だった儘田吉之助氏(のち貯水池管理事務所長(1953-1960))の設計で、三貯水池の良き展望台となっているそうだ(その昔は、国会議事堂が見えたと言う人もいたそうだ)。が、この季節では登頂は無理だ。冬の紅葉の時節にでも、狭山湖とセットで訪ねよう。

 下貯水池のところでも書いたが、この北側、狭山湖の半島部には、WW2中に高射砲陣地及び電波探知機(レーダー)部隊があった。高射砲部隊は防空第六連隊独立高射砲第二大隊。電波探知機部隊は、本部は今のゴルフ場付近で現場には200名ほど配置されていたという(高射砲部隊も200名程度)。

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狭山富士・高射砲陣地他航空写真
1944年(昭和19年)10月24日陸軍撮影

 黄→が狭山富士、水玉が現トトロの森付近。所沢市議の島田さんのサイトによると、「1」が高射砲陣地、「2」がレーダー部隊で、高射砲は17m間隔で6基並んでいたそうだ。1941年6月25日撮影の同所写真の半島にはらしきものは写っていないので、多分これだと思う。

 「どろっぷじ」に念を残しながら僅か東へ行くと、「玉湖(たまのうみ)神社」が現れる。

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玉湖神社鳥居(標高132.4m)

 鳥居は一の鳥居で、暗い樹陰の向こう、可也奥にもう一つ鳥居が見える。

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標柱

 標柱裏には、昭和10年1月28日の日付がある。昭和10年は1935年、今から凡そ90年の前だ。

 暗い曇天の下、ちょっと物凄いような空気が漂い入り難い雰囲気だが、鳥居を潜り、常緑樹の枯葉が深く積もった長い参道を行けば、二の鳥居。

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二の鳥居

 ここから本殿までも、まだ長い。人気無さと木下闇とが相まって、正直少々怖い。
 鳥居を抜けると、左手に深く苔生した手水鉢があり、

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手水鉢

その奥には大小二つの「殉難者之碑」が建つ。

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殉難者之碑

 貯水池の工事で亡くなった方々の慰霊碑である。裏には、六名の方の名が刻まれている。東大和市史資料編2「多摩湖の原風景」(94p)を参照させて頂くと、以下の内容である(お名前は一部伏せさせて頂きました)。

埼玉県 竹内○蔵 四一才 昭和二十年三月二日
朝鮮 藤村○吉 二十七才 昭和二十年一月十四日
朝鮮 安原○慶 二十五才 仝
新潟県 友野○一郎 四十才 昭和二十年八月二日
昭和二十年十月二十八日
東京都水道局建之
(「仝」は同じの意)

東京都 村木○雄二十才昭十八、一、二十八
東京都 内堀○郎二十五才昭十九、一、十七
昭和貮拾年拾壱月貮拾日
東京都水道局建之

 上記の元貯水池管理事務所長儘田氏によると、碑は共に、WW2末期、山口貯水池・村山貯水池堰堤補強工事(嵩上げ工事)の事故で亡くなった方々のものであると言う(建立当時の水道局長は佐藤志郎氏)。四名は二十歳代とお若い方で、内お二人は、朝鮮半島出身の方だ。
 村山貯水池全体の工事でも多くの犠牲者は出ているが、当時の新聞記事のほかは正確な資料はなく、また慰霊碑的なものもないという。

 正面に向き直れば、本殿が間近い。

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本殿が近い

 小振りな社殿は、余り見掛けないコンクリート製である。その所為か、モダンな印象だ。

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本殿(標高137.5m)

 明治神宮宝物殿(重要文化財)・高野山霊宝館(登録有形文化財)など設計した、建築家大江新太郎氏の設計と言う。
 正面は金網フェンスで封鎖されており、注意書きに、中で寝泊まりする人や大便(!)やごみを放置する人がいるため立入禁止としたとある。

 本殿手前には、コンクリートの舞台のような場所があるが、柱跡がある。

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本殿と拝殿跡

2011年の東北地方太平洋沖地震で危険な状態となり取り壊された、拝殿の跡であるそうだ。

 神社は、東京市水道局関係吏員であった福島甲子三氏が、貯水池が観光地として注目された頃に、建立計画を進めたものと言う。竣功は1934年(昭和9年)12月20日、翌1935年10月28日(標柱裏に記された日だ)に府中大國魂神社神官により遷宮式が行われた。祭神は大山津見命(おおやまつみのみこと)と弥都波能売命(みずはのめのみこと)。
 例年、ツツジの候の5月11日に祭礼が行われ芸能人が招かれるなどして賑わったそうだ。しかし、宗教施設が都所有であることが問題となり、1967年(昭和42年)に御霊遷し(みたまがえし)が行われて神様は府中に帰り、現在は何も祀られていない、謂わば空き家の状態であると言う。

 古航空写真で見て見よう。

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狭山富士・玉湖神社航空写真
1941年(昭和16年)6月25日陸軍撮影

 太平洋戦争開戦約半年前の写真で、富士も神社もまだ新しい頃だ。左が狭山富士で、周辺含め草地になっているのが分かる。神社はその右手で、此方も周囲は開かれ、道路から参道が伸び、その先に大きな拝殿と小さな本殿があるのが確認できる。

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狭山富士・玉湖神社航空写真
2019年(令和1年)11月1日国土地理院撮影

 下は上と同範囲の最近の写真だが、ほぼ樹林に覆われ、富士も神社ほぼ何も分からない。

 狭山富士と玉湖神社、100年になろうかと言う歳月の経過を感じる、地味だが深重いエリアである。是非、慰霊碑ともども歴史的文化遺産として整備・保全をお願い致したいエリアだ。

 では、神社を辞し、先へと走る。

 tuduku

2022年神無月2日
(取材は8月末)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
参照:三井住友トラスト不動産(smtrc)、東大和市商工会、サイト「KURADASHI」さん、サイト「多摩湖のページ」さん、東京トリップ、note「多摩湖」「狭山湖」は西武鉄道がつけた名前、ふしぎの森の会、旅案内(たびあん)、第10回市民大学「多摩湖の歴史」(サイト「しんかい船47号の旅」さん)、島田かずたか所沢市議HP、多摩めぐりの会、東大和市史資料編2「多摩湖の原風景」、東大和どっとネット「東大和の歴史」、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は東京都東大和市多摩湖、最寄り駅は西武山口線・狭山線西武球場前駅です

*トトロの森:財団法人トトロのふるさと基金によるナショナルトラストで取得・保全されている場所。ここ狭山丘陵が「となりのトトロ」のモデル地であることに由来。宮崎駿監督が呼びかけ人の一人。1991年から2022年9月までに60号地まで取得されている
*大山津見命、弥都波能売命:前者は山の神様、後者は水の神様

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

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・単独でのサイクリングと言う野外活動は、フィジカル・ディスタンシングを守る前提のもと、COVID-19(新型コロナウイルス感染症)感染リスク(感染しない・感染させない)の極めて低い行動と考え行いました。マスクを着用し、出先で長居はせず、食事は人気のない場所で一人で行い、家を出てから戻るまで店舗等への立ち寄りは原則行いません
・ご訪問の際は引き続き新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)感染拡大防止にご配慮をお願い致します

PEACE

ウクライナ緊急募金(日本ユニセフ協会)
ウクライナ動物保護募金(国際動物福祉基金)

北の離れ 多摩湖―村山上貯水池 一

多摩湖―村山上貯水池 一

 村山下貯水池、西武園ゆうえんち南側に並ぶ「見晴らしの丘」と「中野昇君之碑」を過ぎ、北岸沿いの多摩湖自転車道(サイクリングロード)に入り行く。サイクリングロードは車道にずうっと沿っているが、この車道がほぼ都県境だ。

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自転車道
左手が湖

 自転車道と言っても専用ではなく、ジョガーさん、散策者さんも多い。日本初の女子マラソンのコースは、これであったのだろうと思う。
 コースは適度な起伏とカーヴの連続で、変化があり楽しい。横の樹林が影を提供してくれ、涼しい。ただ、それだけに湖はほとんど見えない。(なお、カーヴが多いのは楽しいがその分見通しは良く無いので、対向自転車・対向ジョガーにはくれぐれもご注意を)
 しかし、コースは良いが、「自転車道」と言う割には甚だ路面が荒い。タイヤが心配になるくらい、凹凸が激しい。ロードバイクのカチカチのタイヤでは振動が可なりしんどく、残念ながら走り心地は快適とは言えない。すぐ隣を並走する車道(ここもオートバイク走行禁止)を走りたいくらいだが、一旦こちらに入ると、出入り口がない。

 と不満たらたらで2kmほど走っていたら、突如バカでかい西武ドーム(現名称はベルーナドーム。ベルーナは地元埼玉の通販会社)(標高122.5m)が右手に現れて、クリビツ。多摩湖二丁目である。

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西武ドーム

 遠望したことは何度かあるが、こんな間近でドームを見るのはお初だ。ずっと木立ちばかりを見てきたので、この光景異様感が激しい。

 やがて、600mほども道なりに行けば、村山上貯水池堰堤に到達。
 上貯水池は、現在堤体強化工事中(2019年7月-2023年7月)で貯水はされておらず、湖底の大半が現れ、ほぼ、おっきな水たまり状態だ。

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村山上貯水池(標高117.9m)

 上下に分かれる村山貯水池の内、先にできたのはこちら上貯水地である。下貯水池の竣功が1927年(昭和2年)3月、対し此方は竣功は1924年(大正13年)3月で、三歳お姉さんだ。
 有効貯水量は2,983,000立方mと言うから、下貯水池(11,843,000立方m)の25%ほど。ダム(アースダム)の高さは24.24m、長さは318.2mと、下貯水池(高さ34.5m、長さ610.0m)よりは大分小さい。

 下貯水池と異なり、堰堤上には車道が通っており、自転車と歩行者はその西側に沿う側道(2019年頃出来た)を通る形だ。但し、自転車は降りてくださいとある。

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側道
右手が車道、右奥が西武ドーム

 自転車は車道走行は可だが、可也交通量が多く且つ狭くってコワい。ので、側道を行くが、下貯水池側がとても見難い。カメラを頭上にかざし、ノールックで辛うじて写せた。

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「上」から「下」を見る

 下貯水池には沢山あった解説板も、幾つかあったオブジェも遺構も、こちらには一切ない。人もおらず、別世界の様にしんとしている。
 あちらは完全に観光地だが、堤体強化工事の真っ最中という事もあってか、上貯水池にはそうしたイキフンは全く感じられない。

 露出した湖底は、草繁る草原の様にも湿原の様にも見える。

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草原・湿原状

 可能であれば遊歩したくもなるが、おそらく草丈は私の身長ほどもありとても歩けないであろう。
 まるで何処かの山奥の様だが、嘗て、この湖底となった地には人々の営みがあった。

 第一回記事に書いたように、明治の頃、首都東京の水不足解消のため計画されたのがこの貯水池だ。ここ狭山丘陵が建設地と決まったのは、1912年(明治45年)5月。同年9月(大正元年)に認可され、翌1913年7か年継続事業が決定、翌1914年(大正3年)には用地買収が始まった。可なりスピーディな展開である。
 貯水池に沈む地域は、蔵敷村・奈良橋村・芋窪村・狭山村・高木村・清水村の6村、上宅部、林・内堀・荒ヶ谷戸・石川・杉本・中田の7集落に渡るが、地元への事前説明は一切なかったという。
 集落ごとの移転数は、以下の様。

上宅部:42戸
林:12戸
内堀:38戸
荒ヶ谷戸:10戸
石川:46戸
杉本:8戸
中田:5戸
計:161戸

 買収対象となった面積は、324町6反5畝(約3.21平方km)で、村々の総面積の23%であった。

水田:40町6反5畝(約0.40平方km) 全体の約12.5%
畑:53町4反2畝(約0.53平方km) 全体の約16.4%
山林:216町3反57畝(約2.14平方km) 全体の約66.7%
宅地:14町3反57畝(約0.14平方km) 全体の約4.3%
墓地:2反7畝(約0.002平方km) 全体の約0.06%
面積単位

で、7割近くが山林、農耕地は3割弱、宅地はかなり少なかったようだ。
 とは言え、移転戸数161戸(資料により160戸或いは162戸。集落ごとの移転数も資料により若干異なる)は、総戸数771戸の21%近くにもなる。家々は、貯水池計画地を流れる石川(上流部)・宅部川(下流部)の北岸側斜面に密集していたという。
 1914年(大正3年)1月10日に用地測量の詰所が設置されると、22日(20日の記述もある)に当該地域の住民は「移転地住民大会」を開き、個別対応せず協同一致で行動すること、価格・保証の基準を設けて協議のための委員に嘱託するなど定めた決議文を採択した。
 その後も、同年9月に村民600名が大会を開き76名の代表が東京市に買収価格に応じられない、買収地を他に変えてほしいと陳情している。
 しかし反対運動は種々あっても、個別に交渉は進められ、1917年(大正6年)には買収に応じず残った人は8名のみとなった。そして1919年(大正8年)12月には、最終的に7名が土地収用法適用で強制買収され全戸立ち退きとなったと言う(東大和市史資料編2「多摩湖の原風景」他)。

 東京市が示した買収価格は以下の様であったそうだ。何れも一坪(約3.3平方m)当たりの単価。

宅地:1円60.00銭
畑:73.66銭
田:87.83銭
山林・原野:43.35銭
墓地:1円36.00銭
(100銭=1円)

 この頃のゴールデンバット(煙草)20箱(1907年)・特級日本酒一升(1912年)が1円、東京帝大授業料(1910年)が50円だったそうなので、買収価格はかなり安い。大分買収問題は拗れたであろうことは、覗われる。
(上記の各内訳は「東大和どっとネット 東大和の歴史」を参照させて頂きました)

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村山貯水池(多摩湖)全景航空写真
1944年(昭和19年)10月24日陸軍撮影
(二つの写真を合成)
右が上貯水池、左が下貯水池。

 上はWW2末期、1927年の完成から17年後の姿だ。この湖水の下となった風景を、まだ皆が鮮明に記憶していたであろう頃の写真だ。
 湖底に村や自然が沈むのは、今も昔も切ない事である。

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南寄りから上貯水池

 貯水池の名称だが、「村山」と冠されたのは、平安−鎌倉期に武蔵七党(武蔵野国を中心にした同族的武士集団)の村山党が根拠地にした「村山郷」という一帯の古い地名に由来するらしい。

 愛称の「多摩湖」は、如何生まれたのだろう。
 下貯水池が完成した1927年の翌1928年に、今の西武グループの前身の一つである「箱根土地」(国立駅周辺などを開発したところだ)の子会社が国分寺駅から萩山駅(現東村山市)まで鉄道を敷設しているのだが、その会社が「多摩湖鉄道」で路線は「多摩湖線」である。この時点で貯水池は多摩湖と呼ばれていないのに、鉄道会社も鉄道路線も「多摩湖」とすでに名乗っているのが面白い。この鉄道が貯水池近くの「村山貯水池(仮)駅」(現武蔵大和駅)まで繋がったのは1930年。これがさらに延伸され村山貯水池駅が1936年に開業した。
 村山貯水池駅は、戦争の時代となると国防上「貯水池」の名称が不都合であるとの理由で、狭山公園駅と改称される。それがWW2後になると、更なる観光開発をねらって1951年に西武鉄道が観光地にふさわしい名称をアンケートで「多摩湖」の名を提案したのだという。
 狭山貯水池愛護会が発行していた季刊誌「狭山」1951年第17号に名に関連記事がある(東大和市史資料編2「多摩湖の原風景」より)。それによると、ある時西武池袋駅構内に「村山、山口貯水池に観光地にふさわしい名称をつけてください」と言う看板が立てられ、二人の乙女がご協力お願いしますと乗降客に呼びかけていたそうだ。そして、村山貯水池を多摩湖に、山口貯水池を狭山湖にすると言う項目のどちらかに○を付ける、若しくはそれぞれの貯水池に自由に名称を書き込むようになったカードを渡していたと言う(カードには毎日新聞社の名がある)。
 がしかし、ジモティの方々は昔からの地名である村山・山口が付けられた名を好んだそうだ。
 また、同誌1953年第25号には、村山・山口の両貯水池を狭山湖と総称する地元・水道局に対して、山口を狭山湖、村山を多摩湖と称して観光宣伝しようとする西武鉄道と意見対立があったともある。
 この辺りの記述を見れば、多摩湖も狭山湖も、西武鉄道の観光宣伝目的による命名であったようである。そしてそれが功を奏し、「多摩湖」(と「狭山湖」)の愛称は定着していったという流れなのであろう(私見です)。

 さあ、側道をさらに南に向かえば、取水塔だ。

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上貯水池取水塔

 こちら、上貯水池の取水塔は一基のみ。高さ27.5m、外径7.8m、内径4.8m。1923年(大正12年)8月完成。
 上部は1991年(平成3年)に改築されているが、基部は完成当時のままという。途中から下が白っぽいが、あの部分が通常は水面下にあるという事であろう。(参考:2015年3月のストヴュー画像)

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アップ

 橋より上のレンガの色は、可なり鮮やかだ。ぱっと見、下貯水池の丸っこいデザインとは対照的な角ばったデザインだが、古い絵葉書をネットで探して見て見れば、当時は今とはだいぶ異なる姿である。角ばっているのは今と変わらぬが、屋根が全然違う。昔は、蒲鉾型の屋根(R屋根)である。側面が平らで、橋と繋がる方向には半円の丸みを帯びたドーム状だ。小学校の体育館を小さくした姿を、イメージして頂きたい。
 耐久性やメンテナンス上に何か問題があったのかもしれぬが、当時と同じ姿が再現されていないのは、少々ネンザンである。

 堰堤南端に達する。この辺りは多摩湖六丁目だ。

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堰堤南端

 右にあるのが全部で三つある親柱(欄干の端などにある大きな柱)の内、一番南のもの。
 メガホンやら何やらいろいろ取り付けられ、逆に照明などは外されており、下の1939年頃とされる写真と比較すると、少々姿が異なる。

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1939年(昭和14年)頃の上貯水池堰堤親柱
村山貯水池懸賞写真入選作 撮影:八尾富
(パブリックドメイン)

 こう見ると、頂部も今は無くなっている。
 このセピアな写真、見たところ写っているのはモデルさんの様で、下貯水池取水塔写真同様撮影会なのかもしれない。東大和市史資料編2「多摩湖の原風景」には、昭和初期と記された多摩湖を訪れた女優さんたちの写真が幾つか載っているので、そうしたイベント的なものが結構あったのかもしれない(根拠なし)。
 ここに写る親柱が三つの内何れであるかは、はっきりとは分からぬが、手前に欄干の続きがなく、且つ右手に道路があるという事はおそらく南端のものと思われる。とすれば、まだ新しい頃とはいえ、蔓草がびしりと絡んでいる今とはまるで異なる様子だ。

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アップ

 もう一寸、メンテしてあげて頂きたいな。

 更に僅か行けば取水塔に繋がる管理橋の袂に、古そうな石柱が三つほど草に埋もれている。柵に隔てられ遮られ、残念ながらよく見えない。

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何かの支柱

 上は北側で、欄干の支柱と同じ様だ。下は南側で、左は欄干支柱と同じ様だが右はもっと細いものだ。

 左程暑くはないといえど、日差しは強く、やはり消耗する。まだ上貯水池周辺には見どころがあるようだが、取敢えず今回のところは、撤収。

 tuduku

2022年神無月1日
(取材は8月中旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
他参照:サイト「KURADASHI」さん、サイト「多摩湖のページ」さん、東京トリップ、note「多摩湖」「狭山湖」は西武鉄道がつけた名前、ふしぎの森の会、第10回市民大学「多摩湖の歴史」(サイト「しんかい船47号の旅」さん)、東大和市史資料編2「多摩湖の原風景」、東大和どっとネット「東大和の歴史」、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は東京都東大和市多摩湖、最寄り駅は西武山口線・狭山線西武球場前駅です

*面積の単位:
町(ちょう);約9917.36平方mで、凡そ1ha、3000坪、10反、100畝
反(たん);約991.736平方mで、凡そ10a、300坪、10畝、0.1町
畝(せ);約99.1736平方mで、凡そ1a、30坪、0.1反、0.01町
なお、反は段とも書く
*名称について:ここの北西にある、1934年完成の山口貯水池は狭山湖の愛称で呼ばれるが、元は逆、つまり今の多摩湖が狭山湖で狭山湖が多摩湖と呼ばれていたとの説もあるようだ。
また、「貯水池」と言えば両貯水池を指す総称の様にもなっていたらしい
*移転:移転先は多くは狭山丘陵南側の周辺地域(161戸中142戸が現東大和市内)だが千葉や栃木へ移った家もあったという(東大和どっとネット「東大和の歴史」より)
*多摩湖鉄道:箱根土地系列となった武蔵野鉄道と1940年(昭和15年)に合併。武蔵野鉄道が現在の西武鉄道の前身である

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

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北の離れ 多摩湖―村山下貯水池 III

多摩湖―村山下貯水池 III

 村山下貯水池旧親柱から堰堤を進み、湖水を望んで感動するあまり、忘れてしまいそうなので「たま発!倶楽部」たまらんにゃ〜会長と記念撮影。

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会長と堰堤

 遠く見えるは西武園ゆうえんちで、左が「富士見展望塔」(高さ地上80m、360度回転)、右は大観覧車(高さ地上62m、一周20分)。
 ついでに、私めも。

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湖と
おめよごしです

 東京の市街地でこの風景が見られるとは、有難いことだが、鉄塔好きの私としては、反対側の此方の景色も有難い。

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下貯水池堰堤から

 堰堤から東を望む。手前が堰堤斜面、その下は都立狭山公園、その向こうが東村山市の市街である。その更に向こうには都心部、スカイツリーも見えるが、それはまた後の記事で。
 画像中央やや左、緑の平べったい塊が見えるが、あれは本ブログでは多々登場頂いている「八国山(はちこくやま)」(此方此方等)だ。ご存じ、トトロに出てくる「七国山」のモデルである。が、こちらも例にもれず、最近この多摩地方で多発しているナラ枯れが目立つ。

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東大和線26号鉄塔とナラ枯れ

 ナラ枯れは、カシノナガキクイムシと言う甲虫が媒介するナラ菌と言う菌類による病気でコナラやミズナラの木が枯れる現象だ。昔から起こっているものだが、ここ一二年多摩地方では非常に多く見られる。枯れ枝の落下が危険と、入園禁止となった緑地公園もある。温暖化が、要因の一つともされている。

 前の記事にも書いたが、下貯水池堰堤の北半分くらい、大体私が東を眺めているこの辺りから北は、僅かに東村山市(多摩湖町)だ。貯水池全体で言うと、1%くらいだそうだ。だが、なぜか「多摩湖は東村山市」のイメージが定着してしまっている。市が「多摩湖=東大和市」のイメージを押すため、本年6月、東大和市がオフィシャルで以下のポスターを制作したのも、分からないではない。

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「すみません 多摩湖は東大和のものです」
(市HPよりダウンロード)

 「村山貯水池」だし「東村山音頭」で歌われてるし、東村山市のマンホール蓋にも取水塔がデザインされてるし、多摩湖=東村山市のイメージが強いものな。生粋の多摩人である私でも、多摩湖は東大和だと言う認識はあるにはあったが、正直薄かった。今回色々調べて、ああそうだったな、と再認識した次第である。

 堰堤を更に行く。
 北端に達すれば、西武園ゆうえんち「富士見展望塔」が目の前となるが、この少し左手の湖畔に、小高い「見晴らしの丘」がある。この付近からまた、東大和市だ。多摩湖一丁目である。
 丘を上がれば、排水路トンネルの遺構(標高105.5m)が展示されている。

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見晴らしの丘・排水路トンネル遺構
向こうに見えるは展望塔基部

 トンネルの輪切りである。

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排水路トンネル解説
植え込みとマツヨイグサが茂って見難いが

 1923年(大正12年)に下貯水池の堰堤を盛り立てる際、湖底となる谷を流れ、堰堤で堰き止められる宅部川(やかべがわ)の水を外側に抜くための排水路トンネルの遺構だそうである。堤体強化工事で掘り出され、ここに一部輪切りにして残したのだ。写真は、左がトンネルを造っている最中のもの、右が掘り出された当時のもの。

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排水管

 輪切りトンネルの中には、当時使われていた排水管がある。

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アップ

「大正十二年」とはっきり刻されている。

 「見晴らし」と冠されているが、残念ながら、丘からは東方向を除き木立に遮られ展望は効かない。

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丘から湖水

 ただ、堰堤は良く見える。

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丘から堰堤

 玉石がびっしりと貼られた堰堤がほぼ全体に渡り見渡せ、第一取水塔も南端に望める。
 堰堤は前書いたように、土を台形に盛った「アースダム」。これは構造がシンプルなので古くから溜池などで使われて来たが、地震の多い日本では安全性に疑問があり、余り高くできない。日本では高さ15m超のアースダムが1300ほどあるが、90%以上は高さ30m以下だそうである。最大の清願寺ダム(球磨川)でも60.5mだ(参考:下貯水池堰堤は高さ34.5m、コンクリート製の小河内ダム(奥多摩町)は高さ149m)。
 写真は湖水側の斜面が見えているが、ダムの頂部下、つまり中心には粘土とコンクリートでできた「心壁(堤芯)」があり、水の浸透を防いでいる。こうしたものを、心壁形アースダムと呼ぶそうだ。

 丘から更に西へ80mほど行けば、「中野昇君之碑」(標高105.5m)が建つ。

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中野昇君之碑

 深い樹叢を背に建つ、重量感のある碑だ。一見銅像の台座の様だが、そうではなく単体の碑である。
 裏面には、碑文が刻まれるが漢文調で難しい。

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碑文

為か、解説には口語訳が付いている。

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解説
右、原文 左、口語訳

 1913年(大正2年)、前の記事で書いた中島鋭治工学博士を顧問に貯水池設計が始まった際、工学士中野昇氏が技師に任命され、博士の指導を受け実務に当たったが、困難な工事に懸命に努める結果、1925年(大正14年)7月4日、氏は病により没したそうである。
 今でも立派な碑だが、古絵葉書(東京都立図書館蔵)を見ると当初は周囲の四つの角にそれぞれベンチが設けられた更に立派なものであった様だ。デザインは少し異なり、正面の「中野昇君之碑」が白っぽい凝灰岩の本体に直接浮き彫りになっているような黒文字である。現在の黒い御影石に彫りこまれたものとは、全く違うので、あとから貼られたのかもしれない。

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現在の姿

また碑銘下の半円の中には、やはり黒い模様がある。
 斯様に大切にされている碑でありながら、氏についての詳細が記されていない。色々調べたが、ここにある以上の事柄は知ることが出来なかった。

 下貯水池堰堤北部の航空写真。

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村山下貯水池堰堤航空写真
2019年(令和1年)10月13日国土地理院撮影

 オレンジ線の中が東村山市、「sp」は狭山公園、「t」は展望塔、「k」は観覧車で、ここは埼玉県所沢市。「1」は見晴らしの丘と排水トンネル遺構、「2」が中野昇氏の碑で、ここは東大和市である。

 まだ陽も高い。が、暑さもさほどではない。予定にはなかったが、湖沿いのサイクリングロードで、上貯水池にも行くこととする。

 tuduku

2022年長月30日
(取材は8月中旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
参照:東大和市HP、東大和どっとネット「東大和の歴史」、サイト「KURADASHI」さん、サイト「多摩湖のページ」さん、東京トリップ、東大和市史資料編2「多摩湖の原風景」、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は東京都東大和市多摩湖、最寄り駅は西武多摩湖線多摩湖駅(旧西武遊園地駅)です

*ポスター:市と関係の深い関東学院大学協力の元作成

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

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北の離れ 多摩湖―村山下貯水池 II

多摩湖―村山下貯水池 II

 村山下貯水池取水塔を間近に見る広場脚元には、「東京都水道MAP」がある。

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水道マップ

 大きなタイル画だ。多摩川羽村取水堰からここ村山貯水池へ、そしてここから村山浄水場及び境浄水場へと、濃く青い矢印で水の流れが示されている。

 広場から堰堤へと戻るその境には、旧親柱(標高104.6m)が残る。

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旧親柱と堰堤
左手が広場

 親柱(おやばしら)とは欄干の端などにある太い柱だが、これは1927年(昭和2年)の完成当時のもので、一基ここに保存されている。元は、今より少し北側にあったらしい。

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ツートーン

 旧親柱の上部が黒いのは、WW2中、防空偽装(カモフラージュ)の為黒く塗られたからだ。太平洋戦争中の1943年9月から1944年10月にかけ、堰堤を守るため玉石を約2.5m嵩上げしコンクリートで固めた「耐弾層」が設置された際、下半分ほどが埋まったため、上部が耐弾層ごとコールタールで塗られ斯様なツートーンになったのだ。

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ツートーン

 貯水池は、1945年の4月4日、4月12日、5月25日、6月10日、6月11日の計5回、アメリカ軍による空襲を受けている。東大和市史資料編2「多摩湖の原風景」(79-81p)、を参照させて頂くと、

・4月4日:午前3時頃、現在の「貯水池 鳥山」から狭山スキー場にかけて、焼夷弾と250塲弾50発くらい投下
・4月12日:昼前、上貯水池にトンネルで送られている水路(羽村村山線)上に1t爆弾投下
・5月25日:正午頃、下貯水池と山口貯水池の取水塔めがけ硫黄島のP-51マスタング戦闘機三機編隊が爆撃
・6月10日:午前8-9時頃、B-29爆撃機が山口貯水池の高射砲陣地と電波探知機帯を狙い300発位投下。多くの魚が浮き、午後大勢の人が獲りに来た
・6月11日:5月25日同様下貯水池と山口貯水池の取水塔めがけて投下

となっている。
 なお、上記の250塲弾は500ポンド(227kg)爆弾と思われる。電波探知機(レーダー)は高射砲部隊は共に村山上貯水池と山口貯水池の間の山にあった。高射砲部隊は、防空第六連隊独立高射砲第二大隊である。
 第一取水塔には爆撃の痕跡が外壁に残り(東京都水道局)、1976年(昭和51年)に水を抜いた際(1975年に導水管工事のため抜かれた)には湖底に爆撃痕のクレーターが見つかったという。色々調べたが、貯水池空襲での人的被害は見た限り記載は見当たらなかった。

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旧親柱

 2003年(平成15年)から2009年まで行われた耐震工事の際、防空用の分厚い耐弾層は撤去され、数十年ぶりに親柱は全身をまた表した。

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解説

 解説板には写真があり、参考になると思うので、アップ。

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建設当時

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耐弾層撤去中

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親柱出現
以上解説板より

 この白黒親柱は、戦跡とも呼べる存在であろう。

 貯水池の戦争関連の記述は、旧親柱以外にも幾つか「多摩湖の原風景」に見られた。
 1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件に端を発した日中戦争が始まったその二か月後の9月には、上貯水池堰堤に4t樽を並べてススキを差し、取水塔や事務所の屋根にマツの木を被せて擬装した。また、翌年5月には、敵に様子を知られぬため貯水池の絵葉書が発売禁止となったそうだ。太平洋戦争開戦少し前の1941年8月には、堰堤上に幅1m・長さ2mの鉢を作ってヒノキ・サワラ・サカキなどを植え、更に湖面には葦簀を浮かべ門松ほどのマツの木が生えているよう偽装したという。山口貯水池、村山下貯水池共に、取水塔の北側に偽装塔を造ったともある。
 現在は、ジュネーヴ諸条約(1949年締結)で破壊されると「危険な力」が放出されるダム・堤防の攻撃は原子力発電所同様に禁止されている(1977年追加議定書)が昔はそうではなかった。WW2ではイギリス軍がドイツのダムを攻撃して(1943年5月のチャスタイズ作戦)、結果起きた水害で1200-1600名以上の方が亡くなり、6500頭以上の家畜が死亡している。
 当然ながら貯水池は大切な水源でもあり、そうした意味も含め防空対策は必須であったのだ。

 では、堰堤上を北へと進み、湖を正面から拝見しよう。
 大分前振りが長くなってしまい、もう飽きてしまわれたかもしれないが、こちらが村山下貯水池の正面からのお姿だ。

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村山下貯水池

 左手は第一取水塔、中央は第二取水塔、右奥の白いのは西武ドーム。第二とドームの間は上貯水池堰堤とその向こうの奥多摩の山々。
 下貯水池の有効貯水量は11,843,000立方mだそうだが、ちょっと見当がつかない。私の足下のダム(堰堤)は、土を台形に盛って固めたアースダムで、高さは34.5m、長さは610.0mと、水道局HPにはある。
 この水は、以前訪ねまた紹介した羽村取水堰から多摩川の水を取り込み、第三水門を経て導水管「羽村村山線」で横田基地の下を通りここへとやって来たものだ(羽村村山線の上は野山北公園自転車道)。そう思えば、個人的に感慨も深い。
 ここからは、導水路で、東村山浄水場(東村山市)、境浄水場(武蔵野市)、和田堀給水所(世田谷区)を経、都内(千代田区・渋谷区・港区・目黒区など)へと送られている。この導水管の上が、多摩湖自転車歩行者道や井の頭通りである。

 実は、16-17才の頃、当時買ったばかりのロードバイク(ロードバイクとしては先代。シルバーのカリフォルニアロードだ)でここ多摩湖を目指した記憶がある。のだが、多摩湖自体の記憶が全くない。実際に湖の景色を見れば思い出すかと期待していたのだが―、見ても思い出せない。
 ここを目指しただけで途中で挫折し、来てはいないのだろうか。それとも余りに遠い昔で、記憶が消えたか…。分からない。もう、遥か忘却の彼方である。

 しかし、それにしても、確かに美しい取水塔である。
 古の姿も見て見よう。

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1939年(昭和14年)頃の取水塔
村山貯水池懸賞写真入選作 撮影:中井猛男
(パブリックドメイン)

 似たアングルで現在の姿を。

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セピア調で

 どうも、水面も近いし、古写真は湖水上から撮っている様だ。「村山貯水池懸賞写真」となっているので、撮影会が開かれ、ボートが出たのであろうか(現在ボートは×)。

 更に、堰堤以上を進む。

tuduku

2022年長月29日
(取材は8月中旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・写真出典:パブリックドメインR
・参照:東大和どっとネット「東大和の歴史」、ふしぎの森の会、サイト「KURADASHI」さん、サイト「多摩湖のページ」さん、東京とりっぷ、多摩めぐりの会、東大和市史資料編2「多摩湖の原風景」、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は東京都東大和市多摩湖、最寄り駅は西武多摩湖線多摩湖駅(旧西武遊園地駅)です

*和田堀給水所:当初は、和田堀浄水池でここから淀橋浄水場へと繋がっていた。淀橋浄水場はのち東村山浄水場に統合された。淀橋浄水場の跡地が東京都庁などある新宿副都心の高層ビル街である
*4t樽:味噌や醤油を造るでっかい樽
*耐弾層:工事は、下貯水池堰堤防護工事と呼ばれた。石材運搬のため、狭山公園駅に引込線が敷かれた。玉石は小作(現青梅市)で採取された
*ジュネーヴ諸条約:武力紛争に際し傷病者・捕虜・文民またそれらの救済要員などを保護し被害の軽減を図るための4条約。追加議定書は1977年に武力紛争の多様化・複雑化に合わせ発展・拡充したもの。日本はともに加入している
*チャスタイズ作戦:水力発電施設破壊、都市部や工業地帯を流れる運河へ影響を与えるなどの目的で、メーネ・ダム、エーデル・ダム、ゾルぺ・ダム、エンペネ・ダムが標的とされた。前2ダムは破壊され、後2ダムは失敗した。攻撃参加したアブロ・ランカスター爆撃機19機中6機が撃墜され、2機が送電線に接触し墜落した。参加133名中53名が戦死。
ダム破壊による死者数は日本版ウィキペデイアでは1249名。英語版では1650名となっており、内1000名以上はソヴィエト他からの強制労働者とされている

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

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・単独でのサイクリングと言う野外活動は、フィジカル・ディスタンシングを守る前提のもと、COVID-19(新型コロナウイルス感染症)感染リスク(感染しない・感染させない)の極めて低い行動と考え行いました。マスクを着用し、出先で長居はせず、食事は人気のない場所で一人で行い、家を出てから戻るまで店舗等への立ち寄りは原則行いません
・ご訪問の際は引き続き新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)感染拡大防止にご配慮をお願い致します

Peace

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