八国山―将軍塚

 前回の八国山麓より続いて来た山道から、ほんの少し送電線寄りに入りオカサカ103号を見上げる。

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岡部境線103号(標高80.5m)

 この103号鉄塔は、最近改造されたものだ。
 2013年の画像を「TinySlope」さんで拝見すると、この103号も隣りの102号も角無し型&懸垂型である。でも現在は、一本角型&耐張型である。
 建て替えかとも思ったが、「改造」と判断したのには訳がある。塔体の上部と下部で色が明らかに異なるのだ。薄ベージュの下部も、新たに建てられた部材とは思えない。おそらくは、色の変わっている第二腕金下部にあるベンド点(角度の変わる点)から上が足され、腕金(新しい様に見える)が全体に上部に移動したのではなかろうか。

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103号の境部分
麓から

 山の上からは逆光でよく分からないので、麓よりの103号画像を掲げてみる。第二腕金下で色が変わっているのがお分かり頂けるかと思う。
 下は、麓に建つ角なし105号だが、

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105号

上の103号と比較して、如何であろう。角無しの第1腕金上部(詰まり天辺)から上の部分に、角有りの第2腕金下部から上の直線的な部分が付け加えられたように見えないだろうか。丁度ここが、上下で部材の色が変わっている場所なのだ。
 まあ、いくら考えても、実際の建替えなり改造なりの現場を見ていないので、何とも言えない。状況証拠から推測するのみである。

 ところで、この103号鉄塔の北側路傍には、こちらがいらっしゃる。

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将軍塚石碑(標高88.7m)

 「新編武蔵国風土記稿」(文政11年(1828)成立)に、
「此ニ一ツノ塚アリ。是ヲ将軍塚ト呼ブ」
と書かれた「将軍塚」だ。
 前回触れた久米川の戦いの際、新田義貞が陣を布いて指揮を執った或いは旗を立てたとされる場所である。碑の裏には「元弘三年新田義貞公鎌倉討伐ノ際白旗ヲ建テラレタル遺蹟」とある。

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将軍塚碑文(一部)
コントラスト強調しました

 塚は富士塚説や古墳説などもあるようだが、この小さな高まりは人工的な感じは確かにする。

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引きの将軍塚
中央左寄りの奥が塚と石碑

 地元の方であろうか、上下ジャージ姿で山道を走ってきた方が、この広場の前で一頻り体操をした後、塚に向かって手を合わせ、一礼して去って行かれた。
 この広場画像、手前右に見える大きな石碑は、やはり新田軍と鎌倉軍との戦いに関わるもので、有名な「元弘の板碑」(国指定文化財)の所在跡を示すものである。

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「元弘青石塔婆所在址」碑

 板碑(縦147cm、幅44cm)は、新田軍と幕府軍との一連の戦いで討ち死にした新田の将士、飽間(あきま)斎藤氏三名の供養のための塔婆である。元はこの場辺りに存在した「永春庵」にあったが、文化年間(1804-1818)にここからほど遠からぬ徳蔵寺に移され、現在は同寺板碑保存館に展示されている。氏名と共に戦死場所・日時が刻され、史実裏付けの資料として非常に貴重なる存在であるらしい。機会があれば、拝見したい。
 将軍塚にあるこれ等石碑は、二つ共に昭和十二年四月十五日の日付(書も共に埼玉県知事川西實三)。将軍塚は吾妻村史跡保存会とあるが、板碑跡の方は判読できなかった。しかし、所沢市HPにはやはり同保存会によるものとある。吾妻村は、この周辺に明治24年(1891)から昭和18年(1943)に存在した村で、のち他村と合併し所沢町を経て現所沢市となった。

 「狭山丘陵いきものふれあいの里スポット5 蝶の森」でもある丁度この辺りは都県境で、尾根道は東京に入ったり埼玉に入ったりして微妙である。路傍の種々表示も、道の北側のもの等は「所沢市」と書いてあったりする。将軍塚について言えばこちらはギリギリ埼玉県所沢市である。北を見やれば、木立ちを透かして所沢市街の高層建築群が見晴るかせる。
 道の南側、詰まり東京側は103号から102号に架かる送電線下が、平成28度に萌芽更新のため雑木林が伐採されており、非常に見晴らしがよい。

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103号と萌芽更新(左手奥に将軍塚)
99号下はもっと刈りたてであった

 しかし、更新領域はロープで区切られ、鉄塔への接近は不可。ネンザンである。

 萌芽更新については、99号の記事でも少し触れたが一応説明すると、クヌギやコナラを伐採し、切り株からの新たな萌芽(ひこばえ。画像で道端右に並んでいるのが分かる)を生長させ或いは実生(みしょう)を促し樹林を更新することだ。1960年代初め頃までは、こうして雑木林を定期的に更新させて薪炭(しんたん)林として利用していたのである。更新間隔は地域による違いなのか、10-30年と幅はあるが、大体薪や炭に利用するのに適した太さに成長した辺りで行われる様だ。昭和30年代半ば頃までの航空写真を見ると、現在鬱蒼と樹々が繁っている緑地も、結構裸山が多かったりする。

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萌芽更新についての表示

 こちらは、昭和16年の将軍塚付近の雑木林の様子。今に比較すれば、すっかり丸坊主である。

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昭和16年(1941)6月25日陸軍撮影
岡部境線102・103号周辺航空写真
103号左上方向に将軍塚

 その20年後は、もう今に近い程びっしりと樹々が繁っている。季節は6月と9月で植物の状態に大差はないと思う。もう薪炭材利用はされなくなっているのではなかろうか。

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昭和36年(1961)9月5日国土地理院撮影
岡部境線102・103号周辺航空写真
今は102号脚元まで住宅地

 萌芽更新による伐採や下草刈りなど行う事で、林床まで光が届き、様々な山野草なども育つ。伐採の跡は、少々痛ましくも見えるが、人の手が入ることで、里山は維持されるのだ。そこは、原生的な森林とは異なるところなのである。

 さて、西方(にしかた)を見れば102号は近い。

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102号

 行きましょう。

 次回へ続く

2019年卯月21日
(取材は3月下旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・この鉄塔の建つ場所は東村山市諏訪町(将軍塚は所沢市松が丘)、最寄り駅は西武国分寺線東村山駅です

航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト

*将軍塚:歌人の大町桂月が1907年(明治40年)の6月にここを訪れ「狭山紀行」で触れている
*萌芽更新:これを行わずにいれば、東京辺りならやがて極相と呼ばれる常緑広葉樹林(照葉樹林)へと長い時間を掛けて遷移して行く。極相はその地域それぞれにより異なる

鉄塔に昇るのは非常に危険です。絶対にやめましょう

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