中島飛行機武蔵製作所跡 2―グリーンパーク遊歩道

 玉川上水に架かる、ぎんなん橋を渡り武蔵野市に入り、グリーンパーク遊歩道と名を変えた道を更に行けば、グリーンパーク緑地(関前)(標高60.6m)と呼ばれる公園が左手に開ける。

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グリーンパーク緑地(関前)

 種々の遊具が並ぶ広い公園のその傍らに、こうした解説板がある。

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関前高射砲陣地跡解説板

 WW2末期、この辺りに高射砲陣地があったのだ。
 高射砲陣地は、この北方にあった中島飛行機武蔵製作所への、1944年(昭和19年)11月24日のアメリカ軍による初爆撃が始まった頃、急遽作られたという。

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1944年(昭和19年)11月7日陸軍撮影
関前航空写真

 白☆が現在地の緑地辺り。「nhh」は中島飛行機引込線、「ik」は五日市街道(現都道7号線)、「s」は境浄水場、「m」は武蔵野女子学院(現武蔵野大学)。
 この初空襲17日前、11月7日の写真には何もらしきものはないが、下の1947年7月9日のものにはらしき痕跡が、畑中に写っている。

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1947年(昭和22年)7月9日アメリカ軍撮影
関前航空写真

 解説板にある1945年の写真にはもっとはっきりと写っている。

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解説板航空写真

しかし当該航空写真は、残念ながら国土地理院のサイトには無い。
 この高射砲陣地に展開していたのは、陸軍の高射第一師団第一一六連隊第一大隊第四中隊。装備は八八式七センチ野戦高射砲6門で、それが半円形に配置されていた。

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八八式七センチ野戦高射砲
アッツ島での訓練(1943年撮影)

 この高射砲は、口径75mmで砲身長約3.2m、重量約2.4t。生産数は約2,000門で、陸軍の主力高射砲の一つとして多くの飛行場他の要地に配備されていたという(一門当たりの要員4-12名)。だが、本来陣地用ではないので連続射撃には向かず、且つ10,000m超の高高度より飛来するB-29爆撃機には砲弾が届かず、可也苦戦した模様である。

 ここは、武蔵野市の関前(せきまえ)と呼ばれる地域だが、WW2末期もっとも空爆による被害が多かった場所という。

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2019年(令和1年)10月30日国土地理院撮影
関前航空写真

 白☆は緑地、「gph」は中島飛行機引込線跡であるグリーンパーク遊歩道、「s3」は五日市街道(ik)と新武蔵境通りの関前3丁目交差点。
 1944年12月3日の中島飛行機武蔵製作所への二回目の空襲の際、現関前3丁目交差点(s3)と武蔵野大学(当時の武蔵野女子学院)(m)との間で、二家族計10名が防空壕内で亡くなり、町民(当時は武蔵野町)の空襲による初めての犠牲者となった。地域最後の1945年8月8日の空襲では、現遊歩道の付近に1t爆弾が落下し一家5名が防空壕内で亡くなった。
 高射砲陣地においても、1945年4月12日の空襲で関前3丁目交差点から南の一帯に1t爆弾が十数個落下し、30名近い部隊兵士が亡くなっている。

 ママ・パパと子供らが遊ぶ姿が常景のこの長閑な緑地から、なかなかイメージはし難いが、ここも戦跡の一つである。

 緑地から道路を渡れば、目の前には古くからある関前公園。

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関前公園

 夏には水遊びもできる公園だが、当然、今は無理。
 緑道はここを抜けて、更に五日市街道を越える。そして住宅や畑など混在する中を通り、

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グリーンパーク遊歩道

少し行けば、緑道は左右二股の分かれ道(標高58.8m)となる。

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グリーンパーク遊歩道(分かれ道)

 ここにある解説板には、二種の地図がある。

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■現在地、が二股分かれ道
上は1942年頃、下は1951年頃

 上は解説板の地図のアップだが、これによれば、右の道は戦後に作られた引込線の跡で、左の道が目指すところの中島飛行機武蔵製作所引込線の跡である。

 航空写真で見てみる。

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1944年(昭和19年)11月7日陸軍撮影
引込線分岐航空写真

 白☆が二股辺り、「ik」は五日市街道、そして「nhms」は中島飛行機武蔵製作所。画像左、下(南)から上がってきた引込線は☆横を通り斜めに進んでそのまま製作所へ入っている。

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1956年(昭和31年)4月13日アメリカ軍撮影
引込線分岐航空写真

 「gp」は製作所跡に作られたアメリカ軍将校宿舎、通称グリーンパーク。この右手に、幻のグリーンパーク野球場がある。白☆二股の辺りから大きく右へカーヴしている新たに敷設された引込線のこの当時の名は、武蔵野競技場線。始発も武蔵境駅から三鷹駅へと変更になり、六大学野球・プロ野球の観戦客輸送に充てられていた。
 ここまで辿ってきた遊歩道の名は、大元を辿れば米軍宿舎の名に由来するのである。

 ではまず、古い方の製作所引込線跡を行ってみる。

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グリーンパーク遊歩道
製作所引込線跡

 とは言ってもすぐに遊歩道は終わり住宅地の生活道路となり、それもすぐに直交するバス通りにぶつかり終わってしまう。

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工場引込線跡

 このバス通りの向こうが、製作所跡地であるところの武蔵野中央公園である。

 分かれ道の二股に戻り、今度は右へと入る。こちらが、戦後の引込線跡だ。

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グリーンパーク遊歩道
戦後引込線跡

 ここを僅か行きバス通りを渡れば、都立武蔵野中央公園の南口(標高58.5m)である。

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武蔵野中央公園南口

 本村第2公園からここまで約2km、結局殆ど自転車は乗らずに転がしてきた。そこそこの幅はある遊歩道だが、散歩者やベビーカーを押すママの存在など考慮すると、ロードバイクで走れるシチュエーションはほぼ無かった(当たり前だな)。

 つづく

2022年1月17日
(取材は11月下旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
・高射砲画像出典:Wikipedia(パブリックドメイン)
・参照:武蔵野市観光機構「武蔵野戦争遺跡を訪ねる平和散策マップ」(高射砲陣地・空襲被災)、武蔵野ヒストリー「グリーンパーク 米軍施設」、武蔵野市HP、武蔵野から伝える戦争体験記録集、他
・当記事にある情報等は上記取材時点におけるものです
・これらの場所は武蔵野市関前・八幡町、最寄り駅はJR中央線武蔵境駅・三鷹駅です

*武蔵野女子学院:1924年(大正13年)築地本願寺に創設。1929年現在地に移転。2012年(平成24年)武蔵野大学となる。以降中・高校で共学化が進む(大学は2004年より共学)
*高射砲:砲弾はあらかじめ設定された時間の後に破裂するが、爆弾より高射砲弾の破片の方が怖かったという証言もある(武蔵野から伝える戦争体験記録集「吉祥寺での空襲体験」より)
*工場引込線敷設時期:「武蔵野から伝える戦争体験記録集」の年表には1943年10月敷設とあるが、遊歩道解説板の1942年頃とする地図にはすでに引込線が書かれている

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